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歴史書から益を受ける目ざめよ! 1974 | 7月8日
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歴史書についてあきらめの見方をし,それを無用なものとしてわきに押しやってしまうのではなく,大切な資質として識別力を養うことが必要です。
有益な歴史記述を識別する
現代の一般読者の多くが,古代の歴史資料を読んで他の人が学び取った事がらに頼らねばならないのはやむをえないことです。普通の人々は,すべての史料を掘り出してそれを比較考量し,個々の物事の真偽を判定するだけの時間がありません。しかしそれでも,歴史から益をくみ取ることは人の願いです。それで,識別力のある人は,歴史的な著作を読むさいに,次の点を常に銘記します。
著者は個々の事実(それが真に事実である場合)をどのように用いているか。何かの意図が秘められていないか。自分の正邪の感覚から当然非とすべき事がらを信ずるように求められていないか。また,自分の経験から見て人間性に全く反する事がらを真実として受け入れるように要求されていないか。著者は,過去の物事を,人類が直面している問題と十分に取り組みえないことをすでに示した宗教や政治上の体制もしくは人の生き方を栄化するために用いていないか。一定の国民や民族を他に照らして不当に高めたり卑しめたりする意図はないか。もしそうであれば,識別力のある人は,そうした歴史書を読むさいにしっかり注意力を働かせるべきことを銘記します。
しかしながら,全き信頼感をもって頼ることのできる古代史の資料があります。
歴史の記述としての聖書
その正直な歴史の記述は聖書の中に見いだされます。神を恐れる人が歴史を熱心に調べれば調べるほど,聖書の歴史的な記述の価値を認識するようになります。それは一続きの歴史として人が接しうる最古のものです。歴史家H・E・バーンズは次のことを認めています。「かなりの規模の真実な歴史的記述を最初にまとめ上げた栄誉は……古代パレスチナのヘブライ人[聖書の編集に用いられた人々]に帰せられねばならない」。
しかし,聖書の歴史記述がなぜそれほどきわだったものと言えるのか,と問うかたもあるでしょう。それは一つの国民,イスラエルに栄光を付しているのではありませんか。それは,普通には信じ難い事がら,奇跡的な事がらをさえ信じることを求めているのではありませんか。
聖書の記述の多くの部分がイスラエルの歴史を中心としていることは確かです。しかし,聖書におけるイスラエルの描写が正直なものであることをだれが否定できるでしょうか。それは,イスラエル国民の良い特性だけでなく,悪い特性をも率直に認めています。この国とその国民とは,神の高い規準に従って生活しようとしない者に臨む処罰を例示するために用いられています。聖書の歴史記述は,神がいかに厳しくイスラエルを懲らしたか,またこの民が神の特別の契約の民という関係から全く捨てられたしだいを示しています。
そうです,聖書の歴史記述は地上の特定の国民や民族に栄光を付しているのではありません。むしろそれは,「どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられる」ということをはっきり言明しています。―使徒 10:35。
また,その歴史記述の中で奇跡が扱われていることも確かです。しかし,そのゆえにこれを捨て去ってしまう前に,そうした奇跡の記述法が史実性のあるもので,信じうるものであるという点を銘記すべきです。どうしてですか。時と場所が明示されているからです。
その例は,イスラエル国民をエジプトから去らせるために紅海の水を分けたことに関する聖書の記述中に見ることができます。目撃証人であるモーセによって記されたこの記述を受け入れ難いと見る人がいます。それを退ける人の中には,その記述を自分ではつぶさに読んだことのない人が多くいます。
しかし,その内容(出エジプト記 12章から15章に記されている)を自分自身で思慮深く検討する人は,人物や場所の名が記録されていることに注目するでしょう。―民数 33:1-8と比較。
イスラエル人のエジプト滞在が終了した時も次のように示されています。「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は,四百三十年であった。四百三十年の終りとなって,ちょうどその日に,主[エホバ,文]の全軍はエジプトの国を出た」― 出エジプト 12:40,41,口。列王上 6:1と比較。
こうして,聖書の歴史記述の中では,紅海でのできごとに関して,その起きた時と場所という,事件の明確なわく組みが示されています。どの時代,またどこに住むいかなる歴史家にしても,自分が現実に目撃した事がらを書き記した証拠として,これ以外のどんなことを提出しえたでしょうか。何もありません。では,どんな根拠で,聖書のこの記述を史実ではないとして退けうるでしょうか。だれもできません。
聖書の歴史記述は信頼できるものです。それは,他の歴史書と異なって,神の預言のことばの確かさ,神の定める道徳律の優越性,そして,創造物に対する神の不断の関心を正確に強調しています。歴史を正確に記録させる神が過去に行なわれた事がらは聖書の中に記されていますが,それを親しく読む人は最大の益を受けます。―ローマ 15:4。
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神のことばは人の生活を豊かにする目ざめよ! 1974 | 7月8日
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神のことばは人の生活を豊かにする
人間は霊的に満たされることが必要です。そしてこのことは,当人がその必要を認めているかどうかには関係がありません。イエス・キリストは悪魔の誘惑を退けたさいにこう言われました。「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」。(マタイ 4:4)ですから,相当裕福な生活をしている人でも,霊的な必要が満たされていない場合には,ある種のむなしさを強く感じることがあります。確かに何かが欠けていることには気づいていても,多くの場合,それが何であるかがわかりません。また世間の騒がしさは,その人の欲求不満をいっそうつのらせます。
アメリカ,カリフォルニア州に住むある男の人もそうした経験をしました。その人は,自分の境遇と自分が感じていたことについてこう語っています。
「わたしたちの結婚生活はうまくいっていました。また,二人のよい息子がおり,家,自動車,帆船など,生活を楽しくするものもそろっており,そうした生活を支えるに足る高級の職業も二つ持っていました。しかしわたしたち夫婦は,物質を手に入れてそれを手離すまいとあくせくする無情なこの社会の行き方に不満を感じ,また世界の将来に不吉なものを感じていました。
「わたしたちはそこから逃げ出す必要があると感じていました。二人とも海が好きでしたので,船を造り,子どもたちが事実上社会から孤立して安全に生活できるような孤島に行こうと考えました。もちろんわたしたちは,自分自身のことも考えていました。海に出ていった人々のことを書いた本を読んでは,スモッグで汚れた,無味乾燥なこの世界から全く離れた遠い場所のことをいつも夢みていました。回りのいやなことを忘れようとして,わたしたちは1969年に大型の帆船の建造に取りかかりました。
「エホバの証人は何度もわたしたちの家に来ましたが,わたしはいろいろな支払いに追われて二つの仕事をしていたため,いつも妻が応対していました。しかし,ある土曜日にエホバの証人がやって来て,わたしが応対に出ました。わたしたちは聖書について話しはじめました。そのさい,証人は幾つかの質問をしましたが,わたしにはその答えがわかりませんでした」。
この会話は,その男の人の関心を呼び起こしました。その後ほどなくして,この夫婦はエホバの証人と聖書の勉強をはじめました。神のことば聖書の勉強は,二人の家庭生活を富ますものとなったでしょうか。それによって,生活に欠けていたものはおぎなわれたでしょうか。その人はこう話を続けています。「自分たちが学ぶ事がらと,目の前に大きく広がるすばらしい希望とにただ喜ぶ
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