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    目ざめよ! 1972 | 8月22日
    • 異教ローマからキリスト教国へ

      古代世界帝国の中で,ローマほど栄光と権力を有した国はなかった。その最盛期においては,西はスペインから東はペルシア湾まで,南はエジプトから北はブリテンに至るまでその版図を広げた。にもかかわらず,やがて衰微し,崩壊した。そしてその廃虚の中からキリスト教世界が台頭した。

      古代ローマの歴史は,西暦前753年から509年までの王政期,西暦前509年から27年までのいわゆる共和制期,西暦前27年から西暦476年までの帝政期と,3期に大別することができるだろう。

      ロムルスからユリウス・カエサルまで

      ローマの伝説によると,ローマの初代の王は,西暦前753年に支配を始めたロムルスである。ロムルスのあとさらに6人の王が統治したと言われている。その後西暦前509年,ローマ人は,他国者であったエトルリア人の王を排していわゆる共和制を確立した。

      ローマが敵の攻撃を防ぐだけの力を備えると,支配者たちはただちに版図拡大のための戦争に従事した。そして西暦前133年までには,ギリシア,マケドニア,(北アフリカの)カルタゴおよびアジア地方を征服していた。

      のちほどユリウス・カエサルが財力を投じて,国外においては軍事面で大きな成功を収め,国内においては競争相手を打ち負かして,権力の座にのぼった。彼は共和制下の最後の強力な人物で,西暦前49年から44年まで勢力を振った。

      アウグスッスからクラウディウスまで

      ユリウス・カエサルは,疑い深くてしっと心の強い貴族たちに暗殺された。彼の死は競争者たちの戦いを招いた。最後の勝利者は,ユリウスのおいの子で,彼の養子であったオクタビアヌスであった。西暦前30年,オクタビアヌスはエジプトを征服した。これは聖書の歴史の第6世界強国の始まりをしるしづけるものであった。しかし世の歴史家たちは一般に,帝国としてのローマの始まりを,西暦前27年とする。その年にオクタビアヌスは,「カエサル・アウグスッス」の称号を受けたのである。アウグスッスとは「高められた者,神聖な者」を意味する。アウグスッスは西暦前27年から西暦14年まで,約40年支配した。ヘロデ王がローマに代わってパレスチナを治め,イエスがユダの町ベツレヘムで生まれたときに政権を握っていたのは彼であった。―マタイ 2:1。ルカ 2:1。

      アウグスッスの後継者は養子のチベリウス・カエサルで,彼は西暦14年から37年まで支配した。この支配期間には,イエスが地上で宣教を行なわれた3年半が含まれる。(ルカ 3:1,23)その当時,ポンテオ・ピラトはユダヤ(およびサマリア)のローマ総督,ヘロデ・アンテパスはローマを代表してガリラヤとペレアを治める四分領太守であった。チベリウスの支配の末期に,真のキリスト教は,ユダヤ人の信者,および西暦33年にエルサレムで過ぎ越しの祭りを祝って自国にもどったユダヤ教よりの改宗者たちの伝道によって,ローマ帝国全土に広がりはじめた。―使行 2:5-11,41,42。

      チベリウスは,カリグラというあだ名のガイウスを養子に迎えた。この養子は正気ではなかった。4年間統治したのち,彼の宮廷の侍衛に殺された。チベリウスのあとを継いで帝位についたのはクラウディウスであった。(西暦前41-54年)聖書の使徒行伝 18章1,2節には,クラウディウスが,ユダヤ人をローマから追放する布告を出したことが述べられている。彼の4人目の妻で,彼のめいでもあったアグリッピナは,クラウディウスを説き伏せて,彼の実子ブリタニクスの代わりに,自分の先夫の子を後継者として指名させた。後日アグリッピナはクラウディウスを毒殺し,自分の年若いむすこネロを即位させた。

      ネロからトラヤヌスまで

      ネロは西暦54年から68年まで支配した。ネロがローマに放火したということについては,今日ではいく分疑問の点があるが,彼がその大火を,キリスト教徒を迫害するための口実にしたことは確かである。迫害の手段の一つとしてネロは,ピッチを塗った衣服をキリスト教徒たちに巻きつけて柱にしばり,夜の歓楽のあいだ庭を照らす明かりとしてそれに火をつけた,と言われている。使徒パウロも,西暦66年ごろ,ネロの治世中に殉教したものと思われる。その年にはまた狂信的なシカリが,マサダのローマ駐とん軍を一掃した。そのためにユダヤ人とローマ人の間に戦争が始まった。この戦争は7年後,やはり同地点で終結を見ることになった。

      ついで立った3帝(ガルバ,オト,ウィテリウス)は,それぞれ6か月,3か月,約1年と支配し,各帝とも次々に非業な最期を遂げた。この3帝のあとウェスパシアヌスが立って,西暦69年から79年まで10年間支配した。彼は,ガルスに代わって,ユダヤ人と戦うローマ軍団の指揮者となっていた。皇帝に選ばれたとき,彼は実子のチツスにその責任をゆだねた。チツスは彼のあとを継いで帝位についた。チツスの2年(西暦79-81年)にわたる統治の間に,あの有名なコロセウムが建設された。ベスビオス山が噴火したのもその時でポンペイその他の町々がそれによって滅んだ。

      チツスの兄弟ドミティアヌスはチツスに対してしばしば陰謀を企てた。チツスの死の原因をつくったのは彼であったと言えるかもしれない。ドミティアヌスは西暦81年から96年まで支配し,キリスト教徒に対する公認の迫害を復活させた。彼は,自分の生存中に自らをドミヌス・エト・デウス(主および神)として崇拝することを命令した最初の皇帝であった,と言われている。言い伝えによると,使徒ヨハネは,ドミティアヌスの治政の末期にパトモス島に流された。ヨハネはそこで黙示を受けた。

      ドミティアヌスに次いでネルウァが帝位についたが,彼は1年半しか支配しなかった。彼は賢帝のひとりで,善政を行なったために多くの者に敵視された。ネルウァは,ドミティアヌスがクリスチャンを攻めるために制定していた法律を廃止した。しかし,異教の宗教指導者たちは,キリスト教の宣教に敵意をもっていたので,法律が廃止されたからといって,クリスチャンに対する迫害が完全にやんだわけではなかった。それに,クリスチャンは他と非常に異なっていたので悪評を買っていた。彼らは皇帝崇拝,政治への関与,戦争に行くこと,などを拒否した。異なる生き方をし,また熱意をもって伝道するので,クリスチャンはユダヤ教に敵対する者,また異教から利益を得る者すべてにとって脅威とみなされた。―使行 8:1; 9:1,2; 12:1-5; 18:12-17; 19:23-41。

      ネルウァの後継者トラヤヌス(西暦98-117年)は,ネルウァの賢明で公正な政策を踏襲し,その後継者ハドリアヌス(西暦117-138年)もそれに習った。ハドリアヌスはローマ皇帝のうち最も有能な皇帝のひとりであったと伝えられている。彼は公正な税制をしき,奴隷の身分を大いに改善した。また,キリスト教徒に浴びせられる一般民衆の非難にローマの官吏が注意を向けることを禁ずる勅令を出した。その勅令は,合法的に起訴され,何らかの罪で有罪とされた場合は別として,キリスト教徒は処刑しないことが好ましいというものであった。

      ローマ皇帝のうち,善政を行なった皇帝たちが,だいたいにおいてキリスト教徒に最も寛容であったことは注目に価する。

      迫害者マルクス・アウレリウスとディオクレティアヌス

      次の治世,すなわちハドリアヌスの養嗣子アントニヌス・ピウス(西暦138-161年)の統治したときは,最も泰平なときであったと言えるかもしれない。その次に支配したのはアウレリウス(西暦161-180年)であった。a この期間,つまり西暦2世紀に,ローマはその版図を最大限に拡大し,約900万平方㌔の面積を有し,5,500万余の人口を擁するに至った。しかしながら,アウレリウスの支配は,洪水,大火,地震,害虫による被害,反乱,征服戦争,キリスト教徒の迫害などの汚点を残した。戦争に行った兵士たちは恐ろしい疫病を携えて帰還し,その疫病のために,帝国全土の人々が多数死んだ。

      マルクス・アウレリウスは非常な信心家であった。ギリシアを通ったとき,エレウシニアの神秘的な儀式に自ら加わった。8歳にして彼は軍神の祭司であった。彼の勝利を表わす最後の浮彫の中においてさえ,彼は犠牲の祭壇のところにいる祭司として示されている。そのように宗教に熱心であったことを考えれば,彼がその治世中,終始クリスチャンの迫害者であったわけが理解できる。

      アウレリウスはまた軍事においても卓越していた。彼は自ら軍を率いて戦場に臨み,一度出陣すると何年も戦場にとどまった。

      彼の「黙想」は,その子コンモドゥスに導きを与えたと考えられていた。しかし,西暦180年から192年まで治めたコンモドゥスは,ローマ皇帝の中でも最も愚帝のひとりであることを示した。ごう慢で,圧制的で,残虐で,ぜいたくで,そのうえ,自分のりっぱなからだを誇るあまり,ローマのヘラクレスとして自分を崇拝するよう命令した。しかし彼は,彼が殺害を計画していた数人の者によって先に殺された。

      コンモドゥスの治世からローマ帝国は衰微期にはいった。彼が暗殺されたのちも悪政はやまず,無秩序と混乱が約1世紀続いた。67年にわたる一期間に,29人の皇帝と自称皇帝が帝位についたが,そのうち4人を除いてはみな非業の死を遂げた。またこの期間にキリスト教徒はデキウス(西暦249-251年)やウァレリアヌス(西暦253-260年)などによって激しく迫害された。そうした迫害は,それを始めた皇帝の死とともに終わった。

      ディオクレティアヌス(西暦284-305年)は,独裁的な手段を用いて,ローマを昔日の栄光と勢力に返すべく必死に試みた。彼は王冠を戴き,東洋の凝った宮廷儀式を取り入れて,自分が神秘な神聖さをたたえた者のような印象を人々に与えようとした。治世の終わりごろになって彼はキリスト教徒に10年にわたる(西暦303-313年)激しい迫害を加えはじめ,彼の後継者たちも迫害を続けた。

      ローマ帝国を「キリスト教国」にしたコンスタンチヌス

      その後約20年間,ディオクレティアヌスの競争者たちは,王位をめぐる勢力争いで多くの血を流し,ついに西暦324年,コンスタンチヌス「大帝」が無敵の支配者となり,帝国の統一に着手した。その目的を達成するために,コンスタンチヌスは,「何千という『蛮族』の王たちとその配下の者を野獣の」えじきにし,理由をもうけて,妻のひとりと,むすこのひとりを殺害した。

      ある神話もしくは伝説によると,コンスタンチヌスは,王位争奪戦の一つに従事していたとき,ある戦いで,幻だか夢だかを見,その中で「汝このしるしによりて征服せよ」とという声を聞くとともに十字のしるしを見た。そしてこれが彼を鼓舞して勝利を収めさせたと言われている。コンスタンチヌスは帝国の首都をローマからビザンティウムに移し,コンスタンチノープル(コンスタンチヌスの町)と命名した。彼は自分ではキリスト教に改宗したとは言ったが,臨終の床でバプテスマを受けたにすぎなかった。

      いわゆる「ミラノ勅令」は,コンスタンチヌスとその共同支配者リキニウスがキリスト教徒に宗教の自由を与えた勅令とされてはいるが,実はこれは,リキニウスが,「東方のある官僚に」あてたもので,「ガレリウスの勅令を徹底的に遂行することを命じた」書簡にすぎなかった。ガレリウスというのは,ディオクレティアヌスを動かしてキリスト教徒を迫害させた人物である。しかしガレリウスは死の直前に,キリスト教徒に対する迫害が公正を欠くものと考えたのか,あるいはその試みが全く無駄であることを見てとったのか,いずれにせよ宗教の自由を認める勅令を出した。

      自称キリスト教徒たちが教理の上で分裂していることに失望したコンスタンチヌスは,彼らを一致させることを希望してニケア宗教会議を召集し,自ら会議を司会した。大半が,アタナシウスの説明した三位一体説に賛成であることを見てとったコンスタンチヌスは,それを帝国の法律として定めた。そしてアリウスおよび彼と同じことを信じていた者たちを追放した。(アリウスは,イエス・キリストは同等の三位一体の一部ではなくて神に創造された者,そして神に従属する者,と信じていた。)

      コンスタンチヌスはローマ・カトリック教をローマ帝国の宗教とし,これを認めない者を迫害した。イエズス会の神学者マツケンジーは,自著「ローマ・カトリック教会」(1969年)の中で,「ローマ・カトリック教は,コンスタンチヌスの改宗とともに始まったと私は理解している」と述べている。教会は,迫害される者から,迫害する者へと転身したのである。このことについて,現代の一歴史家は次のように書いている。

      「4世紀は,キリスト教会が驚くべき発展を遂げた時代であった。同世紀は,まだ少数者であったキリスト教徒に対する異教徒の一皇帝による迫害をもって始まった。しかしその末期には,キリスト教は帝国の唯一の公認宗教となり……国教会の承認された教理から少しでも離れた者は迫害されるという法律を制定した,キリスト教徒の皇帝によって保護された。

      「しかしこの急速な発展は,教会にとって益だけをもたらすものとはならなかった。多数の無関心な人間や自己本位の人間がはいってきたことは必然的に,教会内の道徳の一般標準と宗教的熱意を低下させ,同時に,キリスト教の教理と実践に,非キリスト教的な要素を入り込ませた」― ファーグソン・アンド・ブルン「ヨーロッパ文明概観」

      コンスタンチヌス以後から帝国の滅亡まで

      西暦337年のコンスタンチヌスの死後,ローマ帝国は内紛の時期にはいり,衰微の一途をたどった。ローマ皇帝ユリアヌス(西暦361-363年)は,押しつけられた宗教に敵対し,異教を再び国教として確立することを試みた。しかし彼は死ぬ前に,それに失敗したことを認めなければならなかった。とはいえ,主義節操にかんするかぎり,彼はキリスト教徒と称した多くの皇帝よりもりっぱであった。テオドシウス帝(西暦379-395年)の治世中にローマ・カトリック教は国教に定められ,他の宗教はすべて禁止された。

      道徳の腐敗のために政治支配は弱まり,「蛮族」が侵入するにおよんで,ローマの司教たちの権力は次第に増大した。西暦410年に,ローマがゴート人の王アラリックによって略奪されたあと,ローマの司教イノセント1世は率先してローマの再建に当たった。それと同時に彼は,西方の司教すべてが彼を崇拝の問題における長と認めるよう強く要求した。

      レオ1世はこの方向にさらに歩を進めた。彼は最初の真の教皇であったと言えるかもしれない。というのは,教皇ウァレンティニアヌス3世が,西方領域の全司教に対する支配権を彼に授与したからである。

      西暦476年には,ゲルマン人出身の将軍オドアケル王が,ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃したので,皇帝の座は空席となった。こうして古代ローマ帝国は,500年後に西方領域にかんするかぎり終末を迎えた。

      ローマは最強の古代世界帝国であった。その版図も最大であった。聖書の中ではローマは,「畏しく猛く大に強くして大なる鉄の歯あ(る)」獣として描かれている。(ダニエル 7:4-14; 2:36-44)ではそのローマがなぜ弱くなり,崩壊したのだろうか。ある歴史家は,ローマの衰微を,「歴史の最大の問題」としている。

      しかし,聖書の原則をよく知っている人々には,ローマの衰亡は別に不思議ではない。イエスは,「分れ争ふ……家はたたず」と言われた。(マタイ 12:25)確かに,分裂と内紛は同帝国の衰微と滅亡を早めた。聖書はまた,「人の播くところは,その刈るところとならん」と述べている。―ガラテヤ 6:7。

      N・F・カンターの「中世史」を引用してみよう。「ローマ世界の生活には,古典学者たちが普通無視しようとする,きわめて醜悪な面がいくつかあった。膨大な奴隷人口,途方もなく広い貧民街,極度の貧困,同性愛の流行などがそれである」。放縦,貪欲,官能的なきょう宴,大がかりな残虐行為,忌まわしい宗教儀式,だれの目にも明らかな政治の腐敗などもこれにつけ加えられねばならない。とするとローマが滅亡したのはそれほど不思議なことだろうか。

      [脚注]

      a 161年から169年まで,マルクス・アウレリウスは,ルキウス・アウレリウス・ウェルスと全く「同等の立場で帝国を共同支配」した。

  • ラクダはどのようにして暑さを克服するか
    目ざめよ! 1972 | 8月22日
    • ラクダはどのようにして暑さを克服するか

      ◆ 生理学教授,ナット・シュミット・ニールセンはサハラ砂漠でラクダに関する研究を行なったが,その調査結果は,創造者の驚くべき設計によって造られたラクダが,自然環境の極度の暑さにどのように耐えられるかを次のように明らかにしている。

      「砂漠の炎熱のもとでは,岩などの無生の物体の温度は摂氏65度以上になる場合もあるが,そのような環境のもとでラクダは人間同様,発汗によって体温を耐えうる程度に調節して維持している。しかし,人間の体温は日中気温がしだいに上昇してもほとんど一定しているが,ラクダの体温は約40度に達するまで徐々に上昇する。体温が上昇しても,ラクダはほとんど発汗しないが,体温が40度に達すると,はじめて盛んに発汗する。また,体温が上昇すると,ラクダは熱の吸収を少なくする。もちろんその吸収される熱の量は外界の温度と体温との差によって左右される。

      「さらにラクダは砂漠の涼しい夜の間,体温を通常以下に下げて,からだの熱の荷重を低下させる。夜明けごろには体温は28度にまで下がる場合がある。こうして,体温が40度まで上昇し,発汗を余儀なくされる時までには1日のかなりの時間が過ぎてしまうのである。体温を適当に変化させる能力を備えているゆえに,ラクダは日中の最も暑い時間以外はほとんど発汗しない。一方,同じ環境のもとで人間はおよそ日が出てから没するまで汗をかく。…

      「そのうえ,ラクダは自分の毛を断熱材代わりに用いて熱の荷重を低下させる。ラクダが相当の毛を脱ぎかえる夏の間でさえ,陽光に照りつけられる背中には厚さ10㌢ほどの毛をたくわえている。われわれはラクダの中の一頭の毛を刈ったところ,毛を刈り取られたラクダは,毛を刈り取らなかったラクダより60%も多く発汗した。…

      「ラクダのこぶも熱の荷重を減少させるのに間接的に役だっている。たいていの哺乳動物は脂肪の形で余分の食糧をたくわえており,多くの場合,その皮下脂肪はかなり均等にからだ全体にゆき渡っているが,皮下脂肪を一か所にたくわえているラクダは,皮膚と体組織との間に断熱材がないので,そこでは発汗作用で体温を下げる方法が取られている。断熱材がないため,体外への熱の放出は容易に行われる。断熱材の役目をする毛が熱の体内への流入をおそくするのと同様である」。

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