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    1976 エホバの証人の年鑑
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      話は十九世紀の半ばから始まります。当時はまだ幌馬車が広い平原をがたがたと横切り,開拓者たちをアメリカ西部のはるかかなたへ運んでいました。野牛や水牛の大群 ― 1850年には約二千万頭もいた ― がアパラチア山脈とロッキー山脈の間を横行していました。

      1861年から1865年にかけて破壊的な南北戦争が国土を荒らして人命を奪い,それに続いて工業化の時代が来ます。1869年に最初の大陸横断鉄道が完成しました。1870年代になると電灯と電話が初めて登場します。1880年代には路面電車が都市部の交通を促進し,19世紀の末までには数台の自動車が,けたたましい音をたてながら走っていました。

      その時代の宗教的風土がどのようになるかは,控え目に言っても予告できるものではありませんでした。チャールズ・ダーウインは1859年の自著「種の起源」の中で人間進化の理論を支持しました。進化論,聖書の高等批評,無神論,心霊術および不信心が組織化した宗教に攻撃を加えたため,ローマ・カトリック教会は第一回バチカン公会議(1869-1870)を開き,力を失いつつある自らの立場の強化に努めました。他の様々なグループはキリストが今にも肉体をつけて帰還することを熱心に待ちましたが,それは徒労に終わりました。

      しかし,「事物の体制の終結」は近づきつつあったのです。真のクリスチャンである「小麦」は耕されていた全地に広がる神の畑のどこかに必ず存在するに違いありません。しかしそれはどこでしょうか。

      『小さき事の日』

      時は1870年頃,所はペンシルバニア州のアレゲーニー市です。後にピッツバーグの一部となったアレゲーニーは教会の多い都市です。ある晩18歳の若者がアレゲーニーの街路を歩いています。その若者が後に自ら述べたところによれば,彼の「信仰は,長い間うけいれられてきた多くの教理について動揺し」ており,「不信心の論理の格好の餌食」となっていました。しかし今夜は彼は歌っている少数の人々に引きつけられ,ごみごみした汚い会堂に入ります。その目的ですか。「そこに集まっていた少数の人びとが果たして,大教会の信条よりも多少でも意味のある何事かを提供できるかどうかを確かめるためであった」と若者は述べています。

      若者は席に着いて耳を傾けました。キリスト再臨主義者のジョナス・ウェンデルが説教をしました。「聖書に関する彼の説明はすべてが明快だったわけではない」とその聞き手は後日語りました。しかしそれは無駄にはなりませんでした。彼はそれを認めてこう述べざるを得なかったからです。「感謝すべきことにそれは,聖書が神の霊感による著作であるということに対する,動揺しかけていたわたしの信仰を再確立し,使徒および預言者たちの記録が密接不可分の関係にあることを示すには十分であった。聞いた事柄によってわたしは聖書に戻り,いままで以上の熱意と注意を払って研究をするようになった」。

      この好奇心の強い若者はチャールズ・テイズ・ラッセルでした。彼はジョセフ・L・ラッセルおよびアン・エリザ(・バーニー)・ラッセルの次男として1852年2月16日にアレゲーニーで生まれました。両親は共にスコットランド-アイルランド系の人でした。チャールズの母親は彼を誕生の時に主のわざに献じました。彼女はチャールズが9歳の少年の時に死亡しましたが,チャールズは幼少時に長老派の両親を通して宗教に対する第一印象を得ていました。やがて彼は近所の組合教会にはいりました。そこは比較的自由な見解をとっていたからです。

      わずか11歳の時,少年チャールズは自らの手で事業の運営に関する同意事項を書き,父親と共同の仕事を始めました。15歳の時には父親と共同で男性用品のチェーンストアの拡張を図り,やがて親子はピッツバーグ,フィラデルフィア,その他いたる所に店を持つようになりました。

      チャールズは終始聖書を誠実に研究する子どもでした。彼は全力を尽くして神に仕えたいと願っていたのです。事実チャールズが12歳の時,父親は,夜中の2時に物置で時間のたつのも忘れて聖書索引を調べている彼を見つけたことがありました。

      成長するにつれてラッセルは霊的に苦しむようになりました。彼が特に悩んだのは永遠の刑罰と運命予定説でした。ラッセルは次のように考えました。「自分が予知力を働かせて永遠に苦しむべく運命づけた人類を創造することにその力を注ぐような神は,賢明でも公正で愛情深くもあり得ない。その標準は多くの人間のそれよりも低いことになる」。(ヨハネ第一 4:8)それにもかかわらず若いラッセルは引き続き神の存在を信じていました。教理に関する疑問に思い悩んだラッセルはキリスト教世界の様々な信条を調べたり,東洋の主要な宗教を研究しましたが,結局大きな失望を経験しました。真理はどこに見いだせるのでしょうか。

      後の仲間の話によれば,ラッセルは17歳までに次のような考え方をしていました。「諸々の信条のどれかから,あるいは聖書からでさえ将来に対する合理的な何かを見いだそうと努力するのは無駄なことだから,すべてを忘れて事業に専念することにしよう。苦しんでいる人々のために霊的には何もできないが,いくらかお金ができればそうした人たちを助けるためにそれを使える」。

      アレゲーニーのあのごみごみした汚い会堂に足を踏み入れ,『聖書が神の霊感によって書かれたことに対する彼の弱まった信仰を再確立する』説教を聞いたのは,若いラッセルがそうした考えを抱いていた時のことでした。彼は,知り合いの若者数人に近づいて,聖書を研究する意図のあることを話しました。まもなく,6名ほどのこの小さなグループは系統立った聖書研究のために毎週集まり始めました。1870年から1875年にかけての定期的な集会でその人々の宗教的な考えは根底から変化しました。時の経過とともに,エホバは増し加わる霊的な光と真理によって彼らを祝福されました。―詩 43:3。箴 4:18。

      ラッセルは次のように書いています。「わたしたちは『ご自身を与えた人間』としての主と,再び来られる主,つまり霊者としての主との相違に気づくようになった。わたしたちは,霊者は臨在し,しかも人間の目に見えないでいられることを知った。……わたしたちはキリスト再臨主義者のまちがいをはなはだ残念に思った。彼らはキリストが肉体をもって来ることを期待し,キリスト再臨主義者を除いて世界とその中にあるいっさいのものは1873年か1874年に燃え尽きてしまうと教えていたのである。しかも主の到来の目的や仕方全般について彼らの行なった時の設定とか再三の期待はずれや幼稚な考えは,わたしたち,および近づきつつあるキリストの王国を切望し,それを宣明するすべての人々に多かれ少なかれ非難をもたらすことになった」。

      C・T・ラッセルはそうしたまちがった考えに対抗するため誠実に努力し,1873年,彼が21歳の時に「主の帰還の目的とそのありさま」と題する冊子を書いて自費出版しました。その冊子は約5万冊出版され,広く配布されました。

      1876年の1月ごろ,ラッセルは「朝の先ぶれ」という宗教雑誌を一部入手しました。表紙から彼はそれが再臨主義者の出版物であると考えましたが,内容を見て驚きました。編集者であるニューヨーク,ロチェスターのN・H・バーバーは,イエス・キリストの帰還の目的は地球の全家族を滅ぼすためではなく祝福することであること,またキリストは肉体をもってではなく霊者として盗人のように来ることを理解していたのです。実際,時に関する聖書の預言から,バーバーはキリストが当時臨在しており,「小麦」と「毒麦」(「雑草」)を集める収穫のわざはすでにその時を迎えていると考えていました。ラッセルはバーバーと会見し,その結果およそ30人からなるピッツバーグの聖書研究会はバーバー主催のいくぶん大きいニューヨーク,ロチェスターのグループと合同しました。その時ほとんど中止しかかっていた「先ぶれ」誌を印刷するために,ラッセルは個人の資金からお金を寄付し,同誌の共同編集者になりました。

      1877年,25歳のラッセルは事業の株を売りに出し,全時間の伝道活動に携わるようになりました。当時彼は都市から都市へ旅行し,一般の集会や街頭,あるいはプロテスタントの教会で聖書の講演を行ないました。それで彼はラッセル「師」として知られるようになりました。彼はそのわざを広げるために自分の資産を投じ,その運動のために生涯をささげ,すべての集会で寄付を集めることを禁じ,資金が尽きた後はわざを続けるため自発的な寄付に依存することを決意しました。

      1877年,バーバーとラッセルは「三つの世界およびこの世界の収穫」と題する本を共同出版しました。この196ページの本は,時に関する聖書の預言と,すべての事がらの回復に関する情報を結びつけており,イエス・キリストの目に見えない臨在と三年半の収穫をもって始まる四十年の期間は1874年の秋から数えられるという見解を示していました。

      非常に注目すべきことは,同書が「諸国民の定められた時」,つまり異邦人の時の終わりをきわめて正確に指摘している点です。(ルカ 21:24)それ(83ページと189ページ)によれば,異邦人すなわち非ユダヤ諸国が神のいかなる王国の干渉も受けずに地上を支配する2,520年間は,西暦前七世紀の後半にバビロニア人がユダの王国を覆した時に始まり,西暦1914年に終わります。しかしそれよりも前に,C・T・ラッセルは,「異邦人の時; それはいつ終わるか」と題する記事を書きました。それは1876年10月号の「バイブル・イグザミナー」誌に掲載されました。その中でラッセルは「七つの時は西暦1914年に終わるであろう」と述べています。正しくも彼は異邦人の時をダニエル書で述べられている「七つの時」と関連づけました。(ダニエル 4:16,23,25,32)そうした計算にたがわず,1914年はそれらの時の終わりと,キリスト・イエスを王としていただく神の王国が天で誕生したことを確かにしるしづけました。そのことを考えてみてください。エホバは七つの時が終了するほぼ40年前にその知識をご自分の民にお授けになったのです。

      しばらくの間は万事が順調に進み,やがて1878年の春が来ました。バーバーは地上の生ける聖徒がその時体のまま取り去られ,天で主と永久に共になることを期待していました。しかしそれは起きませんでした。ラッセルによれば,バーバーは,「生ける聖徒たちが一群として取り去られなかったということから注意をそらすために何か目新しいものを作る必要があると感じたよう」でした。間もなく彼はそうしました。ラッセルの記述は次のとおりです。「悲痛な驚きであったが,バーバー氏はまもなく贖いの教理を否定する記事を『先ぶれ』誌に書いた。キリストの死がアダムとその子孫に対する贖いの価であることを否定し,キリストの死は人間の罪に対する罰を終わらせるものではない,ちょうどハエの体にピンを突き刺してハエを苦しませて死なせても親はそれを子どもの非行に対する正当な解決と考えないのと同じである,と語ったのである」。

      「先ぶれ」誌の9月号には,贖いを支持し,バーバーの誤った考えを反ばくする,「贖い」というラッセルの記事が載りました。この論争は同誌上で1878年の12月まで続きました。「今やわたしには明白に分かった。主はわたしが,わたしたちの聖なる宗教の基本的な原則に反する影響を及ぼすいかなるものにも経済的援助をしたり,また,何らかの形で関係することをもはや許されないということである」とラッセルは書いています。それでC・T・ラッセルはどうしましたか。彼はこう続けています。「それゆえ,まちがった者たちを立ち直らせるという,むなしいながら非常に入念な努力を払ったのち,わたしは『朝の先ぶれ』誌から全く手を引き,バーバー氏との以後の交際をいっさい中止した」。しかし,それは「わたしたちの主なる贖い主に対してとぎれることのない忠節」を示すのに十分ではありませんでした。したがってさらに進んだ行動が取られました。ラッセルは次のように書いています。「それゆえ,わたしが別の雑誌を始めるのは主のご意志である,とわたしは理解した。その雑誌においては十字架の旗は高くかかげられ,贖いの教理は擁護され,大いなる喜びの良いたよりはできるだけ広範囲に宣明されねばならない」。

      C・T・ラッセルは,旅行を断念して雑誌の発行に着手することが主の導きであると考え,こうして1879年7月に「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」の創刊号が刊行されました。現在「ものみの塔」として世界的に知られているこの雑誌は聖書の贖いの教理を常に支持してきました。ラッセルがかつて次のように書いたとおりにです。「それは最初から贖いを特に擁護した。そして神の恵みにより,最後までそうであるようにと,わたしたちは希望する」。

      雑誌の創刊号は6,000部ほどにすぎませんでしたから,その始まりは『小さき事の日』でした。(ゼカリヤ 4:10)ピッツバーグの聖書研究会の司会者C・T・ラッセルが編集兼発行者となり,当初は他の5人の円熟した聖書研究者が定期寄稿者を務めました。同誌はエホバと神の王国の関心事にささげられ,神により頼んでいました。そのことは,たとえば第二号のなかの次のことばによって示されています。「『シオンのものみの塔』はエホバがその支持者であるとわたしたちは信じる。そうであるかぎり,この雑誌は人間に支持を乞い求めたり,懇願しようとはしない。『山々の金と銀はみな我がものである』と言われる方が必要な資金を供給しないなら,それは出版を中止する時である,とわたしたちは考える」。出版が途絶えたことは一度もありませんでした。それどころか,その平均発行部数は急速に増加し,1974年の下旬までに850万部にも達しました。

      聖書の真理を支持し宣明するという堅い決意は1870年代のそれら聖書研究者に神の祝福をもたらす結果となりました。世界的な畑に多くの宗教的な「雑草」が生えていたにもかかわらず,神は「小麦」すなわち真のクリスチャンを明らかにするために行動されたのです。(マタイ 13:25,37-39)まぎれもなくエホバは人々を「やみからご自分の驚くべき光の中に」呼び入れておられました。(ペテロ第一 2:9)1879年と1880年にC・T・ラッセルと彼の仲間はペンシルバニア州,ニュージャージー州,ニューヨーク州,マサチューセッツ州,デラウェア州,オハイオ州,およびミシガン州に約30の会衆を設立しました。ラッセル自身は各会衆を個人的に訪問する取決めを設け,各グループは彼のプログラムに従って1回,あるいは数回の聖書集会を開きました。

      それら初期の会衆は「エクレシア」(「会衆」という意味のギリシャ語)と呼ばれ,時には「クラス」と言われました。特定の問題に関しては会衆の全成員が票決に参加し,さらに会衆の物事を指導する責任を持つ長老の一団を選出しました。エクレシアは,C・T・ラッセルほか「ものみの塔」の執筆者たちを長老に持つ,ピッツバーグの会衆の活動の型を取り入れることによって互いに連結していました。

      イエス・キリストは『捕われ人に釈放を宣べ伝え』られました。(ルカ 4:16-21。イザヤ 61:1,2)十九世紀の,心の正直な人々が神から与えられる自由を得られるようになるためには,宗教上のまちがいが暴露されねばなりませんでした。「シオンのものみの塔」はその目的にかなう雑誌でした。しかし,他にもその必要を満たす助けとなるものがありました。それは「聖書研究者の冊子」(「古神学季刊」とも呼ばれた)で,1880年以降ラッセルと彼の仲間によって書かれ,「ものみの塔」の読者が配布するよう無料で備えられました。

      C・T・ラッセルとその仲間は自分たちが収穫の時にいることを信じていました。しかも彼らはわずかな数で,1881年には100人ほどに過ぎませんでした。しかし人々は解放を得させる真理を必要としており,神の過分のご親切によりそれを受けようとしていました。「一千人の伝道者を求む」という印象的な題の記事が1881年4月の「シオンのものみの塔」に載せられました。自分の時間の半分かそれ以上を主のわざにもっぱら当てることのできる人々に次のような提案がなされました。「あなたの能力に応じ,聖書文書頒布者あるいは福音伝道者として,大小の都市に出かけて行き,あらゆる場所で誠実なクリスチャンを見つけ出すことです。彼らの多くは神に対して熱心ですが,知識によるのではありません。そのような人々にぜひ,わたしたちの父の恵みの富とそのみことばの美を知らせ,冊子を与えてください」。それら聖書文書頒布者(今日の開拓伝道者の前身)は,とりわけ,「ものみの塔」誌の予約を得ることを求められました。もとより,「ものみの塔」の読者すべてが全時間の伝道者になれたわけではありません。しかし,全時間をささげられない人々も除外されはしませんでした。彼らに対してはこう告げられたからです。「あなたに三十分か一時間あるいは二時間または三時間の時間があるなら,あなたはそれを用いることができ,それは収穫の主に受け入れられるでしょう。神の指示のもとで行なわれた一時間の奉仕からどんな祝福を受けられるかはだれにもわかりません」。

      望まれていた一千人の伝道者がその時行動への召しに答え応じたわけではありません。(1885年中に約300人の聖書文書頒布者がいました。)しかしエホバのしもべは良いたよりを伝道しなければならないことを知っていました。適切にも,1881年の7月と8月の「シオンのものみの塔」誌は次のように述べました。「あなたは伝道しておられますか。小さな群れに属していて伝道者でない人はいない,とわたしたちは信じています。……そうです,わたしたちは彼と共に苦しむように,そして今良いたよりを宣明するように召されました。それはしかるべき時にわたしたちが栄光を受け,現在宣べ伝えている事柄を成しとげるためです。わたしたちが召され,油そそがれたのは,栄誉を受けたり富を積むためではなく,費やし費やされ,良いたよりを宣べ伝えるためです」。

      同年,すなわち1881年にC・T・ラッセルは二冊の大版のパンフレットを書き上げました。一冊は「幕屋の教え」と題するもので,他方の「考えるクリスチャンのための糧」というパンフレットは特定の教理上のまちがいを暴露し,神の目的を説明していました。

      当初,冊子や「シオンのものみの塔」の印刷はほとんどすべてが民間会社によって行なわれていました。しかし,文書の配布が広範になり,聖書研究者(エホバの証人は当時そういわれていた)がわざを続けるための寄付を受け取る可能性を考えると,協会組織のようなものが必要でした。そこで早くも1881年にC・T・ラッセルを責任者とするシオンのものみの塔冊子協会が非法人団体として発足しました。ラッセルと他の人々はおよそ3万5,000㌦(約1,050万円)もの多額の寄付をして,印刷をこととするこの組織の活動を開始させました。1884年にはそれまで非法人だった協会がシオンのものみの塔冊子協会として法人化され,ラッセルが会長を務めました。今日この宗教法人は,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会として知られています。

      協会の定款にはこう書かれています。「当法人の創設された目的は,冊子・パンフレット・文書類その他の宗教的な公式文書を用いて,また正式に設置された理事会が前述の目的達成を促進するのに適当と考える他のあらゆる合法的手段を講じて,各種の言語で聖書の真理を普及させることである」。

      「聖書の真理を普及させる」ことは,「千年期黎明」(後の「聖書研究」)と題する続きものの本をもって注目すべき前進の歩を進めました。C・T・ラッセルが平易なことばで著した第一巻は1886年に出版されました。それは最初「世々に渉る計画」と呼ばれ,後に「世々に渉る神の経綸」と呼ばれました。この本は,「至高の知的創造者の存在は確証された」,「われらの主の帰還 ― その目的,万物の更新」,「裁きの日」,「神の王国」,「エホバの日」といった主題を扱っていました。この出版物は40年間に六百万冊が配布され,誠実に真理を求める幾百人もの人々が偽りの宗教の束縛から出てクリスチャンの自由に入るのを助けました。

      やがてC・T・ラッセルは「千年期黎明」双書の他の5冊の本も著しました。それらは次のとおりです。第二巻,「時は近づけり」(1889年),第三巻「汝の王国が来るように」(1891年),第四巻,「ハルマゲドンの戦い」(1897年,最初は「報復の日」と呼ばれた),第五巻,「神と人間との和解」(1899年),第六巻,「新しい創造」(1904年)。ラッセルは意図していたこの双書の第七巻を著さずして没しました。

      こうしたクリスチャンの出版物に対して実にすばらしい反応がありました。神の霊は個々の人を行動へと促したのです。偽りの宗教から退くことが速やかに行なわれた例は幾つかあります。1889年のこと,ある婦人は「千年期黎明」の一冊を読んで,「その真理はすぐにわたしの心を捕えました。わたしは長年の間暗やみで真理を模索し見いだせなかった長老派教会からすぐに退きました」という手紙を寄せました。また,1891年には牧師から次のような手紙が来ました。「わたしはメソジスト監督教会で三年にわたり伝道し,その間ずっと真理を熱心に追求してまいりましたが,今や神の助けにより,『彼女から出る』ことができました」。―啓示 18:4。

      良いたよりを宣べ伝えたいという強い願いは,協会に寄せられた他の人々からの手紙の文面にも表われています。一例として,1891年にある夫婦は次のような手紙を寄せました。「わたしたちは,自分たちのすべてを主の栄光のために用いられるよう主とその奉仕にささげてきました。それで主のご意志であるなら,わたしは事の調整が済みしだい聖書文書頒布者の仕事をしてみたいと思っています。そしてもし主がわたしの奉仕を受け入れて,主のわざを行なう面でわたしを祝福してくださるなら,わたしたちは家をたたんで夫婦共々収穫のわざに携わるつもりです」。

      1894年に協会は,ふたりの婦人の聖書文書頒布者から「千年期黎明」を入手したある男の人のきわめて興味深い手紙を受け取りました。その人はその数冊を読んでさらに何冊かを注文し,「シオンのものみの塔」誌を予約して,次のような心からの手紙を書いたのです。「妻とわたしは非常な興味をいだいてそれらの本を読んでまいりました。そして,わたしたちがこれらの本に接する機会を得たことは神から授けられた大きな祝福であると考えております。これらの本は確かに聖書研究のための『手引き』です。この一連の本を研究して明らかにされた偉大な真理は,わたしたちの地的野望を全く覆してしまいました。わたしたちはキリストのために何かを行なうべき重要な機会があることを少なくともある程度悟りましたので,この機会をとらえて,まず最初にこれらの本をわたしたちの最も身近な親族や友人たちに,次にそれを読みたいと願いながらも貧しくて買えない人たちに分けて差し上げたいと存じます」。この手紙に署名をしたのはJ・F・ラザフォードで,彼は12年後にエホバに献身し,やがて,ものみの塔協会の会長としてC・T・ラッセルのあとを継ぎました。

      聖書の家

      聖書研究者は最初ピッツバーグの五番街101番に,後にはペンシルバニア州アレゲーニーのフィデラル通り44番に本部事務所を持ちました。しかし,1880年代の末までに良いたよりを宣べ伝え,羊のような人々を集めるわざは速度を増し,拡張することが必要になりました。それでエホバの民は自分たち自身の建物を建てました。アレゲーニー,アーチ通り56-60番(後に610-614番と改められた)に位置し,3万4,000㌦(約1,020万円)の費用をかけて1889年に完成したこの四階建てレンガ造りの建物は,「聖書の家」として知られていました。その権限は最初タワー出版会社によって保有されました。それはC・T・ラッセルが経営する個人会社で,数年にわたり協定価格でものみの塔協会のために文書を出版しました。1898年4月,同工場と不動産の所有権はものみの塔協会へ譲渡され,理事会は建物と諸施設を16万4,033.65㌦(約4,921万95円)と見積りました。

      聖書の家はおよそ20年間にわたり協会の本部となっていました。

      「1907年当時,聖書の家の様子はどんなものだったでしょうか」。オラ・サリバン・ウェイクフィールドは自らの質問に答えて一部次のように語りました。「『家族』はわたしたち30人にすぎず,小じんまりしていてほんとうの家族のようでした。……わたしたち全員はその一つの建物で食事や寝起きを共にし,仕事や崇拝をしました。付属の礼拝堂には演壇の下にバプテスマのための場所もありました」。

      考えてもご覧ください。1890年当時,ものみの塔協会と活発に交わる人々は400人ほどにすぎなかったのです。しかしエホバの聖霊は働き,優れた結果を生み出していました。(ゼカリヤ 4:6,10)したがって,1890年代は増加の時代でした。事実,1899年3月26日には大ぜいの人々がイエス・キリストの死を記念するために集まりました。339の群れにおいて2,501名の人が表象物にあずかったことが不完全ながら報告されています。まさしく,羊のような人々は『おりの中へ』群がっていました。―ミカ 2:12。

      宣べ伝えるわざの成長は,C・T・ラッセルが1891年に海外旅行をすることにより拍車がかけられました。この約2万7,000㌔の旅でラッセルの一行はヨーロッパ,アジアおよびアフリカを回りました。そのあと文書の倉庫がロンドンに設けられ,協会の文書がドイツ語,フランス語,スウェーデン語,ノルウェー標準語,ポーランド語,ギリシャ語,そして後にはイタリア語で出版される取決めもできました。

      『いざエホバのいえにゆかん』

      ダビデは,『いざエホバのいえにゆかん』と言われた時に喜びました。(詩 122:1)同様に,初期の聖書研究者も集会や大会に集まることを大いに喜びました。(ヘブライ 10:23-25)霊的な報いはたくさんありましたが,ひとつだけいつも無いものがありました。それは寄付盆です。エホバのクリスチャン証人のあらゆる集会および大会には,「入場無料,寄付は集めません」という標語が掲げられています。「あなたがたはただで受けたのです,ただで与えなさい」というイエス・キリストのことばからしても,それはふさわしいことです。エホバの民の集会場所に関連した何らかの費用はすべて自発的な寄付によってまかなわれてきました。―マタイ 10:8。コリント第二 9:7。

      比較的初期の信仰の仲間に加わって,彼らの週ごとの集会にいっしょに行くことにしましょう。ラルフ・H・レッフラーは次のように語っています。「19世紀の末から20世紀の初め頃,わたしたちが集会を欠かすことなどめったにありませんでした。当時は自動車がなかったので,町から8㌔離れたいなかに住んでいたわたしたちが集会に行く手段といえば,歩くか一頭立ての軽装馬車を使うほかはありませんでした。日曜日に集会に出席するため,軽装馬車や四輪馬車を使って16㌔の道のりを何度も何度も往復したものです。来る年も来る年も,夏も冬も,天候にかかわらず,聖書の真理をさらに多く学び自分たちの信仰を強めることはわたしたちの特権であると考えていました。そして,同じ信仰を持つ他の人々と交わる機会を一度といえ逃したくなかったのです」。ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルはこう述べています。「雪が地面を覆うとわたしたちは馬とそりで行き,集会中は馬に毛布を掛けておきました。馬はじっと待っていることもありましたし,がまんできずに前足で地面をかくこともありました」。

      それら初期の集会はどのようなものだったのでしょうか。ひとつの集会は1881年に協会から創刊された「より勝った犠牲の影としての幕屋」にそって行なわれました。その本はイスラエルの幕屋とそこで捧げられた犠牲の預言的な意味を考察しており,子どもたちでさえそうした研究から大きな益を受けました。サラ・C・カイリンは一軒の家で開かれていたそうした集会の思い出をこう語ります。「群れは大きくなって,子どもたちは二階に行く階段に座らなければならないこともありましたが,全員が学んで質問に答えることが求められました。雄牛は何を表わしていましたか。中庭は? 聖所は? 至聖所は? 贖いの日は? 大祭司は? 従属の祭司たちは? それは大祭司が務めを行なっている様子を思い浮べることができるほど強くわたしたちの脳裏に印象付けられ,しかもわたしたちはそれが何を意味するかを知っていました」。

      「つつましい集会」は水曜日の晩に開かれました。祈りと賛美と証言の集会として知られるようになったこの集まりについて,エディス・R・ブレニスンは次のように書いています。「賛美の歌と祈りののち,リーダーはふさわしい聖句を読んで2,3の注解をします。それから集会は友人たちに引き継がれ,彼らが自分の思うままに注解をしました。それは時には奉仕のわざで得た喜ばしい経験であったり,エホバの特別な導きや保護のしるしであったりしました。祈りをささげたり,賛美の歌をうたうよう促したりしてもかまいませんでした。歌詞は人が話すよりも十分にその人の心の中にあるものを表現していることが少なくなかったからです。またそれはエホバの愛あるご配慮について思いめぐらし,兄弟や姉妹と親しく交わる夜でもありました。兄弟たちの経験を聞くにつれ,わたしたちは彼らをいっそうよく知るようになりました。兄弟たちの忠実さを観察し,彼らが自分の問題を克服しているのを見て,わたしたち自身の難しい事態を解決するのをしばしば助けられました」。今日エホバの証人が毎週開き,宣べ伝えるわざのために多くの益を受けている奉仕会は,この集会が前身となって発展してきたものです。

      初期の時代には「黎明会」が金曜日の夜に開かれました。そう名付けられたのはその聖書研究会が「千年期黎明」の各巻を用いて行なわれていたからです。R・H・レッフラーは,日曜日の夜は通常聖書研究か聖書に関する講話に当てられていたことを覚えています。『図表講演』として知られたものも行なわれたことがあります。彼の説明によればそれは次のようなものでした。「『聖書研究』第一巻の前表紙の裏に長い図表がついていました。……その図表はのぼりの大きさに拡大されました。……それはペンシルバニア州アレゲーニーの聖書の家で買い求めることができました。話し手が多くの弓形やピラミッド形の図を説明しようとする時全員が見えるように,その図表を聴衆の前の壁に掛けました。それは,人間の創造から一千年期の末および『来たるべき世』の始まりに至るまでの聖書の主要なでき事を図式的に表わしたものでした。……わたしたちは『図表』講演から聖書の歴史についてたくさん学びました。それにその話は頻繁に行なわれたのです」。

      『図表講演』はエホバの証人の通常の集会場所や他のところで行なうことができたようです。その講話は効果があったでしょうか。C・E・シラウェイは,「大人6名の小さなグループが2年もたたないうちに約15人のグループに成長したのですから,その話は実を生んだに違いありません」と語っています。ある時ウィリアム・P・モックリジはニューヨーク州ロングアイランド市のあるバプテスト教会で図表講演をしました。「その結果[バプテスト派伝道者の]教会の会員数名が真理に入り,牧師……C・A・エリクソンも真理に入って協会の旅行する……講演者となりました」。

      初期の聖書研究者は,毎年開かれるイエス・キリストの死の記念式の時に大会を催していました。(コリント第一 11:23-26)1892年4月7日から14日にかけてペンシルバニア州アレゲーニーでそのような集まりが開かれ,20ほどの州とカナダのマニトバ州からエホバのしもべと関心を抱く人々約400名が出席しました。いうまでもなく,それ以来,神の民の霊的な報いのある大会はアメリカおよび世界中の多くの都市で開かれてきました。しかもエホバはなんという成長をもたらされたのでしょう。1958年のエホバの証人の神の御心国際大会の時には,123を超す国々からニューヨーク市のヤンキー野球場とポロ・グランドに合計25万3,922人の聴衆が集まったのです!

      神の奉仕において勇気を持ち心を強くする

      「自発奉仕者を求む!」,これは1899年4月15日号の「シオンのものみの塔」に載せられた記事の,人目を引く題名です。聖書の真理を普及する新しい方法を提示していたその記事がキリスト教世界の僧職者をあ然とさせることはまちがいありませんでした。このわざに参加する人は勇気を持ち,心を強くしなければならなかったことでしょう。(詩 31:24)その時のエホバの民には,「聖書対進化論」と題する新しい小冊子30万部を,日曜日に教会から出て来る人々に無料で手渡すという大規模な配布のわざに携わる機会が与えられました。何千人ものクリスチャン奉仕者が心から答え応じ,アメリカ,カナダおよびヨーロッパでめざましいわざが成し遂げられました。

      この自発奉仕は数年にわたり,ことに日曜日に行なわれましたが,やがて発展し,戸別に行なう冊子配布を含むわさにまで発展しました。新しい冊子は1年に少なくとも2回配布され,教会へ通う人々に何百万部も手渡されました。1909年以降,ものみの塔協会は,「一般人伝道者」(その後「万人の新聞」,さらに「聖書研究者月刊」と変えられた)と呼ばれる一連の新しい冊子を発行しました。月ごとに出されるそれらの冊子を通して宗教的なまちがいは暴露され,聖書的な真理に説明が施され,諸国民に対して1914年という非常に重大な年に関する警告が与えられました。冊子には漫画やさし絵が使われていたのでいっそう効果的でした。そうした冊子の配布によって神のしもべはますます一般の人々の注目を集め,聖書研究者および国際聖書研究者として広く知られるようになりました。

      エディス・R・ブレニスンは次のように語っています。「各クラスにはわざを計画する自発奉仕係長がいて,働く人たちは自発奉仕者と呼ばれました。……日曜日の午前中はこのわざに当てられ,わたしたちは教会の戸口に行って教会から出て来る人々に冊子を渡しました。……12時に人々が出て来ると文書を手渡し,そのあと日曜学校にとどまっている人たちに奉仕するために1時まで待ちました。たいていの人は冊子を受け取りましたが,中には地面に捨てる人もありました。もちろんわたしたちは捨てられた冊子を拾い集めました。その冊子に載っていた音信は,『わたしの民よ,彼女から出なさい』というものでした」。

      冊子を配布できるよう準備するために幾晩も費やされましたが,それは楽しい時でした。仲間のクリスチャンがその準備のために自分の家に集った夜のことを思い出して,マーガレット・ドゥースはこう記しています。「食堂のテーブルをいっぱいにあけ,何人かが冊子をばらばらにすると別の人たちがそれを折りました。ほかのグループの人たちは日曜日の午後の講演会の時と場所を記すスタンプを押したものです」。

      それからいよいよ配布です。サムエル・バン・シプマによれば,それは「事実上だれもがあずかった,聖書研究者の活動でした」。彼はさらに次のように語っています。「わたしたちの多くは日曜日の朝早く(5時頃)に起き,たいていふたりか4人が組みになって,区域の割り当てられた区画で家の玄関や戸の下に冊子を置いてきたものです。もちろん冊子は別の時にも配布されました。……ある人がこの冊子配布の活動を,宝石を朝露のようにばらまくようだと言いましたが,それは当を得たことばでした。多くの人は,神の真理を載せた,人を鼓舞する印刷物を読んでほんとうにさわやかな気持ちを味わったにちがいないからです」。

      クリスチャンの子どもたちでさえ,冊子配布のわざにあずかりました。グレース・A・エステプは,彼女と彼女のふたりの兄弟が,「日曜日の朝早く玄関に忍び足で歩いていって戸の下に冊子をそっと入れた」ことを思い出します。反対に遭ったのは言うまでもありません。エステプ姉妹はこう続けます。「突然に戸があいて見るからに大きなおとなが現われることがありました。たいていどなられました。ほうきやステッキや松葉杖でわたしたちを追い払い,今度来たらしょうちしないぞと言われることもありました。……でも,時には冊子を受け取ってほほえみかけてくださる方もありました。そういう時にはわたしたちは家に走って帰って両親に知らせたものです」。

      冊子の使用は良い結果を生みました。たとえばビクター・V・ブラックウェルは次のように述べています。「王国の真理をわたしの家に運んでくれたのは1枚の冊子でした。1枚の冊子が聖書の真理の堅い基礎をすえる足がかりとなり,他の多くの人々に加えて,父と母,わたし自身と子どもたちが,全人類に対する王国政府に関する希望と信仰を鼓舞する情報を受け入れ,それに帰依したのです」。

      一般の新聞を利用する

      「軽く見過こすことのできない,(わざの)もうひとつの特色は,ラッセル師の説教を新聞に掲載したことです」と,ジョージ・E・ハナンは語ります。C・T・ラッセルの説教を扱う,新聞の国際的なシンジケートが組織されました。それは4名の協会本部職員で構成され,ラッセルは旅行中でも毎週そこへ新聞二欄ほどの長さの説教を送りました。するとそれはシンジケートによってアメリカ,カナダおよびヨーロッパの新聞社に再電送されました。協会は電報料金を負担しましたが,新聞欄の使用は無料でした。

      「大陸」という名前の一刊行物は,C・T・ラッセルについてかつて次のように述べました。「新聞に載る彼の記事は,毎週,他のどの現役の人たちのそれよりも多くの読者に読まれている。北米のすべての僧職者や説教者の書いたものを合わせても彼の記事にかなわないことは確かである。また,アーサー・ブリスベイン,ノーマン・ハプグッド,ジョージ・ホーラス・ロリマー,フランク・クレイン博士,フレデリック・ハスキンズその他十数名の著名な論説委員や配給記事を書く人々が書いたものを合わせた場合をも凌いでいる」。しかし,大切なのはラッセルという人物ではなく,良いたよりが広く行き渡ることに重要な意味があったのです。1916年12月1日号の「ものみの塔」誌によれば,「合わせて1,500万人の読者を持つ,2,000以上の新聞社が同時に彼の講話を掲載し,全部で4,000を超す新聞社がそうした説教を載せました」。したがって,ここにも聖書の真理を広める手段がありました。

      「クラスの拡大のわざ」

      エホバのしもべの勇敢な活動は,もうひとつの特筆すべきわざが1911年から開始されるに及んで強化されてゆきました。それは,「クラスの拡大のわざ」として知られ,集中的な公開講演運動でした。この新しいわざをするために48人の旅行する奉仕者が,割り当てられた旅程にしたがい公開講演者として派遣されました。しかし,「クラスの拡大のわざ」はそれだけにとどまっていませんでした。講演に出席した関心をいだく人々の住所氏名が控えられ,聖書研究者はその人たちを家庭訪問したのです。こうして彼らを集めて新しい会衆を組織する努力が払われました。聖書文書頒布者はそうした会衆の組織化を援助し,たくさんの新しい会衆が作られました。事実,1914年までに世界中で1,200の会衆がものみの塔協会との連絡を保って機能を果たしていました。

      ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは次のように語っています。「公開講演の会場が借りられると,週刊新聞に広告を出したり,個人的に招待する訪問をしたりしました。また,集会の案内をチョークで書いた立看板を会場の入口に置きました。会場にはたいていランプの照明しかありませんでした。最初の集会で関心が示されると,さらに幾つかの講演を準備しました。わたしたちは集まった少数の人々のひとりひとりにあいさつをし,個人的に話し,(集まったのはたいてい少数の人たちだった)さらに関心を高めるために関心をいだいた人の家庭を訪問することにしていました」。

      巡礼者といっしょに旅行する

      早くも1894年に,ものみの塔協会の旅行する代表者21人は,公開集会を開いて聖書研究者の会衆を霊的に築き上げるために派遣されました。彼らの旅程は決まっていて,会衆の数が増えると,新たに巡礼者 ― 彼らはそう呼ばれていた ― が任命され派遣されました。巡礼者は1890年代から1920年代後半に至るまで神の民の福祉のために貢献しました。彼らの態度は,ローマのクリスチャンに次のように語ったパウロの態度のようでした。「わたしはあなたがたに会うことを切望しているのであり,それは,あなたがたが確固とした者となるよう,霊的な賜物を少しでも分け与えるためです。いえ,むしろそれは,あなたがたの間で,おのおの互いの,つまりあなたがたとわたしの信仰によって,相互に励まし合うためなのです」― ローマ 1:11,12。

      イエス・キリストの使徒たちの場合と同様,旅行する巡礼者はそれぞれさまざまな特性を持っていました。(ルカ 9:54。ヨハネ 20:24,25; 21:7,8)「ソーン兄弟はたいへん物柔らかで身だしなみも並はずれてよくやぎひげの小柄な人でした」とグラント・スーターは語り,さらにこう続けます。「巡礼者のきちょうめんなことには感銘しました。……さらに大切なこととして,彼らは聴衆が神のみことばに対する信仰を培うのを助けました」。ハロルド・B・ダンカンはソーン兄弟に初めて会った時のことを,「わたしは愛に満ちた消えることのない印象を受けました。群れに対して話す時の兄弟は,父親が息子や娘,また孫にやさしく愛情あふれた助言をする時のようであり,昔の族長のようでもありました」と言っています。

      グレース・A・エステプも思い出を語ってくれました。「ハーシー兄弟は音楽が好きでしたから,わたしたち子どもが床に就けられると,母がピアノ,父がバイオリンを弾き,ハーシー兄弟は『賛美歌』をうたったものです。……わたしたちの知り合いで大好きだった方々,たとえば[クレイトン・J・]ウッドワース兄弟,マクミラン兄弟,その他生涯にわたって忍耐の立派な模範を残された兄弟たちの中でも,バン・アンバーグ兄弟に対しては特別の親しみを感じます。兄弟は『心から愛する人々』に対して穏やかさとやさしさに満ちていらっしゃいましたから,愛された使徒ヨハネはアンバーグ兄弟のような人だったにちがいない,とわたしは思いました」。

      エテル・G・ローナーは,少女の頃,巡礼者の兄弟たちが彼女の家に泊まった当時を振り返って次のように語っています。「兄弟たちは姉や兄を含むわたしたち子どもにいつも関心を示してくださり,わたしたちは兄弟たちの訪問を楽しみました。少女の頃わたしは,すべての事柄をエホバのご意志として受け入れる,兄弟たちの静かな確信と信仰にいくぶん畏怖の念を感じました。確かに兄弟たちは若いわたしたちにクリスチャンの不屈の精神と信仰の立派な模範を残してくださいました」。

      巡礼者の多くが仲間の信者から慕われたのは,彼らが訪問先でくつろいだからに違いありません。メアリー・M・ハインズは,「訪問はどうしてそんなに楽しかったのでしょう」と問いかけながらこんな話をしてくれました。「巡礼者はあいさつを抜きにして,公開集会のことや,『ものみの塔』の記事について質問はないか,小さな町の様子はどうか,先回の訪問以来だれか関心を示している人がいるか,などひととおりの質問を父にします。それから自分の部屋に行く前にしばらくわたしたち子ども(その時は3人)に注意をむけてくださいます。『なんてすてきなのでしょう。巡礼者がわたしたちに話しかけてくださるなんて』。わたしたちは胸を躍らせ,ふつうは1日か2日の巡礼者の滞在を1分ものがさずに楽しむ良い出発をします。1910年のチャタウクア湖大会で求めた絵葉書をわたしにくださったのはたしかベンジャミン・バートンです。その絵葉書の裏には兄弟の写真がはってあります。また,J・A・ボーネット兄弟だと思いますが,わたしの兄にたこを作ってくださいました。いまそれを上げるのを手伝ってくださっています。……A・H・マクミラン兄弟が来たら時間を作ってわたしたちといっしょにトウモロコシ畑に行き,ご自分用に6本のおいしそうなトウモロコシを選ぶかもしれません」。

      ハロルド・P・ウッドワースが認めるとおり,「巡礼者の中には一風変わったところのある人もいて,それらはもちろん目につきました。しかし,聖霊の賜物である際立った特質があって,それが深く永続的な影響を残しました」と彼は語ります。アール・E・ネウェルは次のように述べています。「わたしはソーン兄弟のおっしゃったことで,今日までわたしの助けとなったことばをどんなことがあっても決して忘れません。その兄弟のことばを引用しますと,『自分をあまりに偉く見るようになった時にはいつも,いわば自分を隅につれていって,こう言います。「おまえはほんのちりに過ぎないのだ。おまえにはどんな誇るものがあるというのだ」』」。これは確かに注目に価する特質です。なぜなら,『謙遜とエホバを畏るる事との報は富と尊貴と生命』だからです。―箴言 22:4。

      それら巡礼者たちがあちこちと旅行するのは楽なことではありませんでした。エディス・R・ブレニスンは,かつて巡礼者として奉仕した夫の旅行について手紙の中で書いています。「へんぴな所に行くには,汽車,駅馬車,あらゆる種類の荷馬車,馬を使わなければならないことがよくありました。……それは時にはたいへんおもしろい旅行でした。……ひとつの任命地はオレゴン州のクレマス・フォールズとその付近でした。そこに着くには,途中まで汽車で行ってから一晩駅馬車にゆられなければなりませんでした。翌日夫は小さな町でバック・ボードという一種の四輪馬車でそこへ来ていた兄弟に会いました。(バック・ボードを見たり乗ったりしたことのない方のためにご説明しますと,軸に四つの輪のついた,ばねのない木製の荷車です。それに乗る前には背中の丈夫な人でも,乗ったあとは必ず背中を痛めています。)それに乗って山あいを相当進むと,美しい谷間の渓流のそばにある,その兄弟の農場に着きました」。

      特別な巡礼者の訪問そのものについてはどうでしょうか。ブレニスン姉妹はこうつけ加えます。「やがて庭は,巡礼者の話を聞くために遠方から友人を連れて来た種々様々な人々のグループでいっぱいになりました。集会は3時に始まり,2時間の講演が行なわれました。そのあと質疑応答に入りましたが,たくさんの質問が出されました。それからゆっくり休けいして,姉妹の用意してくださったおいしい夕食をとりました。そのあともうひとつ2時間の講演があって,質疑応答となりました」。その夜姉妹たちは家の中で,兄弟たちは干し草の中で眠りました。家の中のひと部屋は巡礼者のためにとってあったのですが,ブレニスン兄弟は兄弟たちと納屋に行くほうを好んだのです。「朝が来ました」と,ブレニスン姉妹は語ります。「心のこもった朝食のあと,あるじである兄弟は3頭の馬に鞍をつけました。1頭は荷物用で,他の2頭はそれぞれ兄弟たちのためです。次の任命地に行く汽車に乗るために,最寄りの駅まで荒野を100㌔近くも行かねばなりませんでした。しばらくしてエドワードは姉妹から一通の手紙を受け取りました。それによれば,兄弟たちが出かけたあと姉妹が枕を取りに納屋に行ったところ,枕には兄弟の頭の跡がついていました。姉妹がそれを取り上げると,そのま下に,大きながらがらへびが兄弟の頭のぬくもりを楽しんでとぐろを巻いていました。へびは睡眠を妨害されて大へんおこった様子をしました。事実を知らないほうがよいということはよくあるものですね」。

      巡礼者の講話についていえば,それはどんな話だったでしょうか。レイ・C・ボップは巡礼者のひとりトッチャン兄弟のことを話してくれます。「その兄弟は教訓者のような人で,実例を使って教えました。……[彼は]荒野の幕屋の模型を持っていて,それをテーブルの上に置きました。……聖所,至聖所,燔祭の祭壇と水盤のある中庭が,約10㌢の高さにある小さな金属棒からさげられた垂れ幕で囲まれていました。本物そっくりの衣装をつけた祭司の人形が適切な位置に置かれ,[トッチャン兄弟が],『影としての幕屋』という参考書に基づいてそれぞれの行事やその預言的な意味を詳しく説明するのにしたがって……その役目を持つ人形が動かされました」。

      メアリー・M・ハインズは次のように語っています。「公開講演はふつう指定されていました。巡礼者はしばしば図表に基づいた話をし,それに記されている『天啓法時代』とか『時代』を説明してくれました。少なくともM・L・ヘールというひとりの兄弟は実例を用いた講演をしました。彼はスライドを使い,講演に出てくる幼いルーシーを復活させたのです。それらの兄弟たちは,当時,成長を続ける組織の本部と,『ものみの塔』誌の孤立した読者や組織されつつあった『エクレシア』とのかけ橋であり,確かに彼らからいつまでも消えることのない印象が与えられました」。オルリー・ステイプルトンは,「そうした訪問を通してわたしたちは霊的に築き上げられ,教えを受け,エホバの組織とさらに一致して働くよう助けられました」と,感想を述べています。

      異邦人の時が終わりに近づくにつれて拡大する

      1910年代にいた聖書研究者たちは,諸国民にとって時が尽きようとしていることを悟っていました。神の民は長年の間2,520年にわたる異邦人の時が1914年に終わると考えてきました。(ルカ 21:24,欽定訳)したがって今や数年が残されているにすぎません。C・T・ラッセルは諸国民への証しとなる,総力をあげた全世界的な運動に着手する準備をしました。しかし,それほどの規模の国際的なわざをするには,アレゲーニーの聖書の家はあまりにも手狭でした。

      そこで1908年,J・F・ラザフォード(当時法律顧問だった)を含む,ものみの塔協会の代表者数名がニューヨーク市に遣わされました。それは,ラッセル自身が,旅行するようになって比較的間もない頃に見つけておいた手ごろな建物と地所を確保するためでした。代表者たちはそのことを行ない,ニューヨーク,ブルックリン,ヒックス通り13-17番の「プリマス・ベテル」と呼ばれる古い建物を購入しました。それは,近くのプリマス組合派教会のために1868年に完成された宣教用の建物で,かつてはそこでヘンリー・ウォード・ビーチャーが牧師をしていました。また彼らはわずか数区画離れたコロンビアハイツ124番にある,4階建てでかっ色砂岩の古いビーチャーの牧師館も買い入れました。

      ビーチャーが住んでいた家は,30人を超える協会の本部職員の新しい住まいとなり,「神の家」という意味の「ベテル」と呼ばれました。ヒックス通りの建物は改造されて「ブルックリン・タバナクル(幕屋の意)」という名で知られるようになりました。その建物には協会のいくつかの事務所と立派な講堂がありました。1909年1月31日,350人の出席者を迎え,協会の新しい本部の献堂式が行なわれました。

      ベテルにはC・T・ラッセルの書斎があり,階下は食堂になっていて,44人が座れる長いテーブルがありました。家族はそこに集まって賛美をうたい,「誓いのことば」を読み,いっしょに祈ったあと朝食をとりました。朝食が始まると,「信仰の家の者のための日々の天のマナ」から聖句が読まれ,食事をしながらそれが討議されました。

      読者のみなさんは,彼らの頭に日々刻まれたその誓いのことばを聞きたいと思われますか。「神に対する私の誓約」と題するそのことばは次のようなものでした。

      「天にいますわたしたちの父よ,み名があがめられますように。あなたの支配がわたしの心にいっそう行き渡り,あなたのご意志がわたしの死すべきからだに行なわれますように。苦境の際にはいつでも助けてくださるとあなたが約束してくださったご親切により頼み,わたしたちの主イエス・キリストを通して以下の誓いをいたします。

      「天のあわれみのみ座にあって,わたしは収穫のわざの全体的な益のことを日々思い起こします。とりわけ,そのわざにおいて自分自身が特権としてあずからせていただいている事柄や,ブルックリン・ベテルおよびあらゆる場所の愛する共なる働き人のことを忘れません。

      「あなたと,あなたの愛する羊によりよく仕えるために,自分の考えとことばと行状を,できればいっそう注意深く吟味することを誓います。

      「心霊術や霊媒に類似したあらゆるものを退けるよう十分注意し,ふたりの主人しかいないことを心に留めて,悪魔に属するそれらのわなを考えうるあらゆる方法で退けることをあなたに誓います。

      「さらに次のことを誓います。すなわち以下の例外を除いては,異性の方と個人的に接する場合には,時や場所にかかわらず,公の場すなわち主の民の会衆の面前におけると同様に振舞います。そして道理上可能なかぎり,部屋の戸が広く開いていないなら,異性とふたりだけでひとつの部屋にいることを避けます。ただし,兄弟であれば妻,娘,母,肉の姉妹は例外とし,姉妹であれば,夫,息子,父また肉の兄弟を例外とします」。

      この誓いのことばを唱えることはその後ベテルや他の場所において神の民の間で行なわれなくなりました。しかしそのことばの中に表わされている高い原則は今日でも適用できるものです。

      ベテルから3区画ほどのところにブルックリン・タバナクルがありました。一風変わった古い赤レンガのこの建物は2階建てで地下室がついており,協会の事務所一般と,「ものみの塔」誌の活字を組む植字室,倉庫および発送の部屋がありました。2階は800の座席を持つ講堂になっていて,ラッセル兄弟はそこで定期的に話をしました。

      しばらくの間,協会の本部職員は主としてコロンビア・ハイツ124番に住んでいましたが,後にコロンビア・ハイツ122番の隣接した建物が購入され,ベテル・ホームは拡張されました。1911年には後部の増築が完成しました。それはハーマン通りに面するほどの大きな9階の建物で,新しい食堂を含め宿舎や他の諸施設を備えるものとなりました。そうした資産の権利証書を得るため,1909年にエホバのしもべは「一般人伝道者協会」を作りました。今日それは,ニューヨーク法人,ものみの塔聖書冊子協会と呼ばれています。この法人を含め,各地で神の民が組織している法人はすべて,互いに協力し合い,またエホバの証人の統治体と協力しています。

      『集合した群衆の中でエホバをたたえる』

      聖書研究者が決まって開く大会や他の公の集まりは,神のしもべが昔行なったと全く同じように,『集合した群衆の中でエホバをたたえる』優れた機会でした。(詩 26:12)それはどんな種類の集まりであったのか,見ることにしましょう。

      『シカゴ・グランド・オペラの本家,世界的に有名なオーディトリアム劇場の一番上のさじきでさえ,空いた席はひとつもありません。7階から半ブロック先のステージを見下ろしながら,わたしはふと,耳をそばだてないと聞こえないだろうかと考えます。司会者の紹介に続いて,チャールズ・テイズ・ラッセルは立ち上がり,左の人差し指を右の手のひらに置きながら普通の声で話し始めます。彼は筋書きを持っていません。演台もありません。ラッセルは演壇の上を自由に動き回ります。彼は預言されていた異邦人の時の終わりと千年期を迎えることとを詳しく説明しますが,ひとことひとことがはっきりと聞き分けられます』。

      これはレイ・C・ボップの思い出ですが,ほんの一例にすぎません。会場は,1910年5月にC・T・ラッセルが大ぜいの聴衆に向かって話した,ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールであっても全く同様でしたし,またニューヨーク市の有名なヒッポドローム劇場でも同じことが言えました。ラッセルは1910年10月9日の日曜日にそこでユダヤ人の大聴衆に話をしました。その時の話に関して,1910年10月10日付のニューヨーク・アメリカン紙は一部次のように述べています。「昨日の午後,ヒッポドローム劇場において,ブルックリン・タバナクルの第一人者として有名なラッセル師がきわめて異例の礼拝を行なった。自分たちの宗教に関する彼の説教を聞いた4,000人のヘブライ人の聴衆が異邦人の説教者に熱烈な拍手を送るという珍しい光景が見られた」。幾十人もの律法学者や教師が出席していました。「前置は何もなかった。背が高く背筋のまっすぐな,白いひげをたくわえたラッセル師は紹介を受けるまでもなくステージを横切り手を上げた。するとブルックリン・タバナクルの2組の四重唱者たちが『シオンの喜ばしき日』という賛美歌をうたった」と同新聞は伝え,やがて話し手に『親しみを覚え』るようになった聴衆からは拍手がわき上がり,ついには熱狂的な反応が示されたと報じています。話が終わるとラッセルは再び合図をし,合唱隊は「一風変わったイースト・サイドの詩人インバーの傑作のひとつである『われらの希望』というシオンの賛美歌の風変わりで異国的なしらべをうた」いました。その影響について新聞の記事は次のように伝えています。「クリスチャンがユダヤ教の賛歌をうたうという先例のないでき事は非常な驚きだった。しばらくのあいだ,ヘブライ人の聴衆は自分たちの耳がほとんど信じられなかった。それが確かに自分たちの賛美歌であることを知った聴衆からは熱烈な歓声と拍手がわき起こったため合唱はかき消されてしまった。ついで歌の2番から何百人もの人々が合唱に加わった。ラッセル師は,自分が劇的に驚かせて巻き起こした興奮の最高潮のところでステージを去り,集会はその賛美歌の終わりをもって終了した」。

      時代は変わり,かつては今日の生来のユダヤ人に適用すると考えられていた聖書の預言に対するクリスチャンの見方も変わりました。神からの増し加わった光により,神の民は,そうしたことばがイエス・キリストの油そそがれた追随者である霊的な「神のイスラエル」に対する良い事柄を予告していることを悟ったのです。(ローマ 9:6-8,30-33; 11:17-32。ガラテア 6:16)しかし,わたしたちはこれまで20世紀初頭を回顧してきたのであり,これが当時の様子でした。

      ラッセル兄弟はたいへん広く知られた人で,何度も大聴衆を前に話をしましたから,彼はどんな話し方をしたのだろうと考える読者もおられることでしょう。C・B・ベットは,「普通の説教者とは全く違っていましたよ」と強調してから次のように続けました。「雄弁術を使わず,感情に訴えるところもありませんでした。人の気を引く出し物を使って感情をゆさぶり,改宗させることもしませんでした。それらを全部合わせたよりもはるかに効果的で強力な何かがありました。それは神のみことばの,簡潔で物静かな確信に満ちた解説でした。ひとつの聖句を使って別の聖句を解き,その聖句がいわば強力な磁石のようになりました。このようにしてラッセル兄弟は聴衆をうっとりと聞き入らせたのです」。ラルフ・H・レッフラーの話では,ラッセル兄弟は話をする前に聴衆に向かって数回品のよいおじぎをしました。話している時には,たいてい何もない演壇に立ち,手振りを豊かに使いながら歩き回るのがつねでした。レッフラー兄弟によれば,「彼は筋書きを使ったことがありませんでした。……しかしいつも心から自由に話しました。そして,大きくはありませんが,独特の良く通る声をしていました。拡声装置など使ったことはありませんが(当時そうしたものはなかった),彼の話は大ぜいの聴衆に聞きとれ,理解できるもので,1時間,2時間,時には1度に3時間も聴衆をとらえ,魅了しました」。

      しかし,人間が重要だったのではありません。音信が重要だったのであり,聖書の真理は大ぜいの人々に宣明されつつありました。その頃,良いたよりを宣明する多くの有能なクリスチャンがいました。そしてある人々は彼らの話す事柄を感謝をもって聞きました。もとより,反対者はたくさんいました。彼らは時おりエホバのしもべと公に討論をして自分たちの非聖書的な考えを広めようとしました。

      1903年の3月10日に,ノース・アベニュー・メソジスト監督教会の牧師,E・L・イートン博士は6日間の討論会をラッセルに申し込みました。それは,C・T・ラッセルの学識と聖書的な見解に対する信用を落とさせるため,ピッツバーグの牧師連盟が仕組んだものであることが後日明らかになりました。その年の秋にアレゲーニーのカーネギー・ホールで開かれた討論会のそれぞれの部分で,ラッセルは大方勝利をおさめました。とりわけ彼が聖書的に譲らなかったのは,死者の魂はそのからだが墓にある限り無意識であることや,キリストの二度目の到来と千年期の目的は地上の全家族を祝福することであるという点でした。ラッセルはまた,地獄の火の教理を聖書から非常に強力に否定しました。討論会の最後の部分が終わったあと,ひとりの僧職者がラッセルに近づき,「地獄にホースを向けて火を消してくださってほんとうにありがとうございます」と語ったと伝えられています。興味深いことに,この討論会の後,イートン会衆の会員が多数聖書研究者になりました。

      1908年2月23日から28日には,オハイオ州,シンシナチでもうひとつの注目すべき討論会が開かれました。それはC・T・ラッセルと「デサイプル」派のL・S・ワイトの間で行なわれ,何千人もの聴衆が出席しました。ラッセルは,死んでから復活するまでの間死者は無意識であるといった聖書の教えを勇敢に支持し,キリストの二度目の到来は千年期に先行するものであり,そのどちらの目的も地の全家族を祝福することであるという点を聖書から主張しました。その討論会に出席していた,ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルはこう語っています。「真理の美と調和,それに討論会の各論題に関する聖書からの優れた論議は人間の混乱した教えときわだった対照をなしていました。反対者側の代表者であり弁士でもある『ワイト長老』は,ある所で,『当店ではどんな物でも巻いたり曲げたりいたします』という鍛冶屋の店の看板を思い出したと絶望した様子で語りました。しかし,正直な心で真理を求める人たちにとって,それは(ラッセルによって行なわれた)『真理のことばを正しく扱』い,結果として調和をもたらす実演ともいうべきものでした」。(テモテ第二 2:15)クルル姉妹たちは,エホバがラッセル兄弟を祝福してご自分の霊をお与えになり,真理を巧みに示せるようにされたことを回想します。またふたりはそのでき事を「誤りに対する真理の勝利」と呼んでいます。

      バプテスト派から討論会の申し込みを受けたJ・F・ラザフォードは,ものみの塔協会を代表してJ・H・トロイと対決しました。その討論会は,1915年4月にカリフォルニア州ロサンゼルスのトリニティー講堂で1万2,000人(推定1万人は席がないため帰された)の聴衆を前に四晩にわたって行なわれました。ラザフォードは聖書の真理を勇敢に弁護して勝ちました。

      イートン対ラッセルの討論会以後12年の間に,神のしもべたちはほかにも幾つかの討論会の申し込みに応じました。しかし相手側は,恐れのためと思われますが,たいていは約束を取りやめました。C・T・ラッセル自身は,それがクリスチャンにとって益にならないことを知っていたので討論会を好みませんでした。1915年5月1日号の「ものみの塔」の中で,ラッセルは特に,「真理に属している人々は黄金律によって縛られており,全き公正さをもって話すが,反対者たちは何の制約も制限も持たないようである」と指摘しました。ラッセルは,「文脈を無視し,黄金律を無視し,あらゆる物を無視したいかなる議論も許されると考えられている」と書き,さらにこう述べました。「編集者に関する限り,今後討論会を望む気持ちはない。また,編集者は議論することを好まない。議論が良いことを成し遂げることはごくまれで,話し手と聞き手双方にしばしば怒りや悪意,にがにがしい気持ちなどを引き起こすからである。むしろ,編集者は,主のみことばの音信を口頭でまた印刷物によって,それを聞こうとする人々の前に呈示し,反対者たちがそれを適当と考え,つけ込む機会とみなすような仕方で誤りを提出するにまかせるのである。―ヘブライ 4:12」。

      聖書の講話そのものは聖書の真理を伝えるより良い機会となりましたから,C・T・ラッセルはしばしば大ぜいの聴衆に話をしました。たとえば1905年から1907年にかけて,彼は特別列車や自動車でアメリカとカナダを旅行し,一連の一日大会を司会しました。その時彼が行なった公開講演は「地獄へ行って戻って来る」と題するものでした。ふたつの国のほとんどすべての大都市においてぎっしり詰まった会場で行なわれたこの話は,地獄へ行って戻って来るという愉快な想像上の旅行を呼び物としていました。ルイス・コズビはラッセルがその講演をバージニア州ラインヒバーグで行なうことを承諾した時のことを回顧して次のように語っています。「父はその講演を宣伝する大きなポスターを作って,それを電車の前面に掲げる許可を得たのですが,それはたいへん愉快なことでした。人々は,この電車が地獄行きなら,わたしたちを連れて戻ってきますかと尋ねたのですからね」。

      聖書講演はまたC・T・ラッセルの海外旅行の特色をなしていました。1903年に彼は二度目のヨーロッパ旅行をして様々な都市で講演しました。ついで1911年12月から1912年3月にかけて,ラッセルは七人委員会の司会者として世界一周旅行をし,ハワイ,日本,中国を訪れ,南アジアを通ってアフリカに渡った後ヨーロッパに行き,ニューヨークに戻りました。彼らはキリスト教世界の海外における宣教活動を調査し,多くの講演を行ないました。こうして真理の種は広められ,その結果地の遠い所でも油そそがれたクリスチャンが実りの多い活動をするようになりました。しかし,ラッセルはこの世界一周旅行のほかにヨーロッパを定期的に訪問したり,多くの仲間の働き人を伴って「大会旅行」特別列車に乗り,北アメリカ全土を広範囲に旅行しました。

      「大会列車」に乗る

      時の経過と共に,C・T・ラッセルに直接会いたいという要望が高まりました。契約した幾つかの講演をするため,ラッセルは時おり少数の人々を伴って特別仕立ての「大会列車」で旅行しました。しかし比較的大きなグループが「大会列車」に乗るように組織され,ある時には240人がラッセルといっしょに旅行したこともあります。数台の客車が連結され,一行は前もって組まれた旅程に従って各都市を訪れたのです。ひとつの都市に着くとラッセルを補佐する人々がビラを配布して公開集会を宣伝しました。集会では個々の人を歓迎して関心を持つ人の住所氏名を控え,できればその人たちを訪問して会衆を設立する努力がなされました。アメリカとカナダの大都市を訪問する時に,こうした「大会列車」を利用することは珍しくはありませんでした。

      「大会列車」に乗って,クリスチャンの幸福そうな仲間と汽車の旅をしてはいかがですか。1913年6月に特別列車が仕立てられ,200名を上回る聖書研究者がイリノイ州のシカゴからラッセルに同行して,テキサス州,カリフォルニア州,カナダ,イリノイ州のロックフォードをう回してウィスコンシン州のマジソンでの大会に行きました。詳しいことをマリンダ・Z・キーファーに話してもらいましょう。「わたしたちの乗った汽車は6月2日正午にワバッシュ鉄道のデアボーン駅から出発することになっていました。友人たちは10時ごろから集まり始めました。それは長い間会っていない旧友に会い,新しい人と知り合いになる幸福で興奮に満ちた時でした。わたしたちがひとつの大きな家族であることを知るのに長い時間はかかりませんでした。……そして列車は1か月のあいだわたしたちの家となりました」。

      いよいよ出発の時間です。キーファー姉妹の話は続きます。「汽車がプラットホームを離れて1万2,800㌔の旅に出る時に,見送りに来た友人たちは,わたしたちが見えなくなり,思い出深い旅行に出てしまうまでずっと帽子やハンカチーフを振りながら,『結ばれるきずなに幸いあれ』と『また会う日まで神共にあらんことを』を歌ってくれました。ミズーリ州のセントルイス他2,3の所から数名の人が乗って,一行の人数は最後に240名となりました。ラッセル兄弟は,8日間の大会が開かれていたアーカンソー州ホット・スプリングでわたしたちに加わりました」。

      それは確かに霊的に築き上げる旅でした。キーファー姉妹は次のように語っています。「旅行中立ち寄る所ではどこでも大会が開かれていました。それはたいてい3日間にわたるもので,わたしたちはそれぞれの大会に1日滞在しました。滞在中にラッセル兄弟はふたつの話をしました。ひとつは午後に信者のために話され,もうひとつは夜に『墓のかなたに』と題し一般の人たちに対して話されました」。旅行の感想についてキーファー姉妹は,「道中得られた仲間の方々との親しい交わりや霊的に築き上げる話,また受けた教訓に対するわたしの感謝の気持ちはことばでは言い表わせません。これほどの特権を得たことをエホバに深く感謝しています」と語っています。

      神の民のそれら初期の大会の様子は今日の大会と幾分異なっていました。一例として「愛餐」があります。初期の大会の特徴になっていた「愛餐」とはどのようなものであったか,J・W・アシェルマンはその思い出をこう述べています。「必要でなかったり,後に行なわれなくなった慣行が当時は祝福であると考えられていました。たとえば,講演者たちはさいの目に切ったパンのはいった皿を持って演壇の正面にずらりと並び,聴衆はパンにあずかる列を作って各の講演者と握手をし,『我らの心をクリスチャン愛のうちに結ぶきずなに祝福あれ』という歌に和するのです」。これがすなわち「愛餐」でした。それが感動的な経験であったことをエディス・R・ブレニスンはためらうことなくこう認めています。「相互の愛が心から満ちあふれ,喜びの涙となってほほを伝わりました。わたしたちは涙が流れるのを恥ずかしいとは思わず,それを隠そうともしませんでした」。

      初期のクリスチャンは時に「愛餐」をしましたが,聖書はそれについて詳しく述べてはいません。(ユダ 12)それは物質的に富んだクリスチャンが比較的貧しい仲間の崇拝者を招いて宴を開いたことであると一部の人は考えています。しかし,それが初めどのような性質のものであったにせよ,聖書は「愛餐」を義務づけてはいないので,今日の真のクリスチャンの間では行なわれていません。

      良いたよりを宣明する新しい方法

      聖書研究者は,『御国のこの福音は,もろもろの国人に証をなさんため全世界に宣伝へられん,しかして後,終は至るべし』というイエス・キリストの預言を十分に知っていました。(マタイ 24:14)ですから,1914年という重大な年が近づくにつれて,神の民は世界的規模の,総力をあげての運動,つまりそれまでとは比較にならない教育と警告のわざに着手しました。彼らは良いたよりを宣明する大胆で新しい方法を使いました。

      さて,1914年にさかのぼってみることにしましょう。自分が暗い講堂の中で幾百人もの人々に混じって席についていると想像してみてください。あなたの前には活動写真の大きなスクリーンがあります。驚いたことに,フロック・コートを着た白いひげの男の人の姿が現われ,筋書きを持たずに話し始めます。もちろんあなたは以前に映画に行ったことがおありかもしれません。しかし,この映画は普通の映画とは違います。その男の人は話し,あなたは彼のことばを聞きます。これはよくある無声映画ではありません。技術的にも,それが伝える音信の点でもこの映画は特別なもので,あなたに感銘を与えます。その男の人はチャールズ・テイズ・ラッセルであり,映画の題名は「創造の写真 ― 劇」です。

      活動写真が優れた広報手段であることに気づいていたラッセルは,1912年に「創造の写真 ― 劇」の準備を始めました。完成したものは,スライドと活動写真を組み合わせた上映時間8時間に及ぶカラー映画で,録音も完備していました。「写真 ― 劇」は4部に分かれており,観客は,創造から地と人類に対する神の目的の最高潮であるイエス・キリストの千年統治の終わりに至る人間の歴史を見ることができました。スライドや映画は話と音楽の録音されたレコードと一致させてありました。それまでに有声のカラー映画がいろいろ試みられていましたが,商業的に成功したのはそれから数年後のことでした。1922年になって長編のカラー映画が登場し,せりふと音楽がいっしょになった商業映画が一般化したのは1927年のことです。ところが「創造の写真 ― 劇」はカラーで,せりふと音楽がついていました。それは一般の映画より数年も先がけており,しかも幾百万人もの人々に無料で上映されたのです!

      協会は「写真 ― 劇」の作製に30万㌦というその時代にしては相当の資金を投じました。作製に要した労力について,ラッセルは次のように書いています。「神はご親切にも,『写真 ― 劇』に要する仕事の量に対してわたしたちの目を覆ってくださった。もし最初からどれほどの時間と経費と忍耐が必要とされるかを知っていたら,わたしたちはこの仕事を始めはしなかったであろう。しかし,わたしたちは『写真 ― 劇』がどれほど大成功するかをも前もって知らなかったのである」。えりすぐった音楽が録音され,蓄音機のレコードに吹き込まれた96のせりふが準備されました。世界史を描いたりっぱな絵の実体幻灯用スライドが作られましたが,それには幾百枚もの絵やスケッチを描かなければなりませんでした。カラースライドとフィルムはすべて手で描くことが必要で,その仕事の一部は協会の絵画室で行なわれました。しかも,予定の日に80の異なった都市で「写真 ― 劇」の一部を上映するため,4部一組の映画を少なくとも20組作ったのですから,その作業を何度もくり返し行なわねばならなかったことがわかります。

      「創造の写真 ― 劇」がスクリーンに写し出したものは何でしたか。アリス・ホッフマンの話では,「『写真 ― 劇』はラッセル兄弟の映画で始まり,彼の姿がスクリーンに現われ,くちびるが動き始めると,それにぴったり合わせて蓄音器が回され,ラッセル兄弟の声が聞こえました」。

      花が開くところやひよこがかえるところは,「写真 ― 劇」の忘れられない場面です。そうした低速度撮影の画面は確かに観客の心を打ちました。「画面が写し出されている時に,ナルシサスやユーモレスクといった珠玉の名曲が流れていました」とカール・F・クレインは語ります。

      記憶に残る場面は他にもたくさんありました。マーサ・メレディスはこう語っています。「ノアとその家族が動物といっしょに箱船に入るところとか,アブラハムとイサクがモリア山へ歩いて行き,アブラハムがそこで息子をいまにも犠牲としてささげようとする場面を思い浮べることができます。アブラハムが息子,彼がいとおしんでいた息子を祭壇に乗せるのを見た時には涙が出ました。エホバがアブラハムをご自分の友と呼ばれたのも不思議ではありません。……エホバはアブラハムがどんな時でもご自分の声に従うことを知っておられたのですね」― ヤコブ 2:23。

      正式の「創造の写真 ― 劇」のほかに,「ユリーカ劇」というのがありました。「写真 ― 劇」は音楽も録音され,96の話が吹き込まれたものでしたが,ユリーカ劇のほうはレコードとスライドから成っていて,活動写真はついていませんでした。しかし,比較的人口の少ない地域で非常な成功を収めました。

      「創造の写真 ― 劇」は,1914年中アメリカ全土において無料で上映されました。しかし,それは協会に対しても,上映に適した会場を借りる資金を寄付した土地の兄弟たちに対しても経済的に非常な負担を掛けたため,やがて,大ぜいの人々を集めて上映することは行なわれなくなりました。しかし,それは,人々に神のみことばと目的を知らせるうえで大きな働きをしました。

      たとえば,C・T・ラッセルにあてた手紙の中でひとりの人は,「あなたがお使いになった手段を通して,妻とわたしは,はかり知れないほど大きな祝福を受けたことを天のみ父に心から感謝しております。真理を知り,それを自分たちのものにできたきっかけは,美しい『写真 ― 劇』でした」と述べました。リリー・R・パーネルはこう語っています。「人類に対するエホバの目的の,絵を使った説明は多くの考え深い人の関心を高めたので,(マサチューセッツ州,グリーンフィールドの)会衆は大きくなりました。それによって,聖書が生きた本となり,また,神の備えを活用する人々に神がどんな貴重な救いのための情報を与えておられるかが,考え深い人々に明らかにされているからです」。

      ですから,長年協会の本部職員だったデメトリウス・パパジョージが,「聖書研究者の数が少なかったことや,比較的少額の資金でまかなったことを考えると,『写真 ― 劇』は一大事業でした。背後にエホバの霊があったことはまちがいありません」と語ったのももっともなことです。

      『霊に燃えた』聖書文書頒布書たち

      1914年に先立つ何年もの間,『霊に燃えた』クリスチャンの男女からなる熱心な聖書文書頒布者は,良いたよりを至るところに広めていました。(ローマ 12:11)聖書文書頒布者の奉仕が始まったのは,「シオンのものみの塔」誌に「一千人の伝道者を求む」と題する記事が載せられた,1881年のことでした。扶養家族を持っておらず,自分の時間の半分以上を主のわざに費やせる人々に対して,聖書文書頒布者もしくは福音宣明者として,大小の都市に出かけていくことが勧められました。その目的は何でしたか。同「ものみの塔」誌には,「あらゆる場所で誠実なクリスチャンを見いだすように努めてください……それらの人々に,み父の恩恵とみことばの美を知らせるようにしてください」,と書かれていました。そうした人々に聖書文書を手渡すことが目的だったのです。そして聖書文書頒布者たちは,文書を配布したり,「ものみの塔」の予約を得て受け取ったお金で自分の費用をまかなってよいことになっていました。

      1887年5月の「シオンのものみの塔」誌は,聖書文書頒布者のために戸口で何を話したらよいかについての次のような優れた提案を述べました。「神および,あなたが光に導こうとする人々に対する愛にあふれ,神とそのお約束に対する信仰に満ち,現在のみならず将来もご自分の栄光のためにあなたを用いることを神が喜ばれるという希望にふくらんだ,大きな心を持ちなさい」。

      エホバの奉仕に心から励んだ聖書文書頒布者たちは深い感銘を与え,都市や町や村など行く先々で注目されました。1890年代後期の「ゴスペル・メッセンジャー」誌上で,一記者は心を動かされて次のように述べました。「[アラバマ州の]バーミンガムの町で,『宗派的でないクリスチャン』と称する数名の人々が働いている。……それらの人はこの町で戸別の訪問を行ない,「千年期黎明」を販売したり,他の薄い出版物を流布している。また,あらゆる機会に自分たちの宗教を語り,日曜日には伝道する。『聖書文書頒布者』ととなえる彼らは,この町で二千冊以上の本を配布した。……さて,わたしたちがこのような方法で,文書や,自分たちが理解しているままの聖書の教理を広めることができないのはなぜだろうか。実際,わたしたちは方法に工夫をこらすことをしてこなかったのではないかと思う。また,前進し始めなければ,わたしたちを後退させるということを,神が徐々に示しておられるのではないだろうか」。

      「そうです,昔,町や村は,聖書文書頒布者によって網らされました。彼らは農作物やにわとり,せっけん,その他と物々交換し,それを自分たちで使ったり,他の人に売ったりすることがありました。時々,人口のまばらな所ででは,農家や牧場主のところに一晩泊めてもらったり,干し草の山の中で眠ることさえありました……それら忠実な人々は,年を取るまで何年もの間行ない続けたのです」と,聖書文書頒布者のことをよく覚えているヘンリー・ファーリックは書いています。

      長年にわたって,エホバは,忠実な聖書文書頒布者に十分の備えをお与えになったので,彼らが実際なくてはならないものに不自由な思いをしたことはありませんでした。(詩 23:1)クラレンス・S・ハゼイはこう語っています。「わたしたちは文書を配布して得た寄付でつましく暮らしました。それには,エホバの愛ある備えに対する信仰が必要でしたが,正直に言って,全時間奉仕に携わった何年もの間,ひもじい思いをしたことはなく,雨露をしのぐ場所も着る物も必要なだけ得られました。(詩 37:25)実にすばらしいことですが,エホバが必要なものを備えてくださったのです」。

      昔は生活費があまり高くなかったとはいえ,聖書文書頒布者がぜいたくに暮らせたわけではありません。たとえは1910年当時を考えてみましょう。マリンダ・Z・キーファーは,聖書文書頒布者としてアイオア州カウンシル・ブラッフスで働いていた時のことを振り返って次のように書いています。「カウンシル・ブラッフスは比較的難しい区域でしたが,積極的な態度で当たればやってゆくことができました。当時の生活費は断然安いものでした。交通手段(徒歩)にお金はそれほどかかりませんでしたし,食費もそうでした。たとえば,パンがひと山5㌣(約15円),砂糖が1ポンド5㌣,ステーキが1ポンド25㌣で,ステーキが買えたら,それはたいへんなごちそうでした。部屋の家賃は手ごろで,トロリー・カーの料金は5㌣でした。1970年代と比べると,まるで別世界のようです」。

      ジョージ・E・ハナンは1921年の末に聖書文書頒布の奉仕を始めました。生活費について彼はかつて次のように書きました。「わたしの食費は1週間4㌦(約1,200円)かかりました。1日1回は,温かい食事をとれましたが,ほかの2食は,文書と引き替えに得た乾燥したくだものか,少しの野菜ですませました。お金がなくなったらどうするのかと尋ねる人には,『エホバがめんどうを見てくださいますから,心配する必要はありません』と答えたものです。残りのお金が50㌦しかなくなったとき,全時間奉仕をやめた人がいると聞いたことがありますが,わたしは,50㌦でも,いや10㌦でも,あるいは1㌦(300円)でもあるかぎり,エホバが援助の手を差し伸べる必要がどこにあるだろうかと考えました。高級な生活をするための費用ではなく,必要な生活費であれば,たとえ高くついてもやっていけるようにエホバが援助してくださるということをわたしは確信していました」。

      交通はどうしたのでしょうか。チャールズ・H・ケイペンは,ペンシルバニア州の幾つかの郡を「徒歩で」奉仕したということです。自転車が非常に便利だと考えた人もありました。ラルエ・ウィチィによれば,「1911年から1914年にかけて,聖書文書頒布者は,オハイオ州の自分の区画内の郡で奉仕していました。『聖書研究』を積んだ自転車を幾キロもこいで,一生懸命に奉仕しました」。もっとも,初めて自転車に乗って,たいへんな思いをした人もありました。

      馬のほうがもっと楽だったかもしれません。マリンダ・Z・キーファーはドビンという年取った馬のことを懐かしそうに話してくれました。「ドビンはおとなしい馬でしたから,つなぐ必要は全くありませんでした。わたしが戸別に訪問している間待っていて,それから次の場所までわたしといっしょに歩いてくれたものです」。

      しかし,どの馬も年取ったドビンのようであったわけではありません。それを経験したのは,聖書文書頒布者のアンナ・E・ジンママンとエステル・スナイダーです。ふたりの女性が,西部から着いたばかりの馬の引く貸荷馬車に乗っているところを想像してください。ジンママン姉妹はこんな風に話してくれました。その馬は,「何かが自分のそばを通りすぎるのを絶対に許しませんでした。汽車でさえそうでした。ところが,貸馬車屋の手前数キロのところを汽車が道に並行して走っていたのです。わたしは機関士に向かって,『馬車屋に馬を入れるまで汽車を駅に止めておいていただけませんか』と叫びました。機関士は,『いいですよ,ごゆっくり』と答えました。馬は相変わらず全速力で疾走し続けました。わたしたちが無事に馬車屋に着くと,そこの主人は,あんたがたが馬を借りに来た時には,わしはちょうど昼めしのさい中で,馬をならすように言いつけておいた小僧は馬をこわがって,お前さんにそれをやってもらっちまった,どうもすまんです,とわびました」。

      そして,数年後には自動車も使われました。いうまでもなく,今日アメリカでは,ほとんどの場所で舗装された道路が完備していますが,数十年前はそうではありませんでした。ですから自動車の旅行にも問題はありました。例えばヘイゼル・クルルとヘレン・クルルはある経験を次のように書いています。「穴がふさいであったのですが,それがたいへん大きくて,埋められた土がとても柔らかだったものですから,自動車はドスンと軸までその穴にめり込んでしまいました。わたしたちがよく使っていたスコップはその場合まに合いませんでした。近所の親切な人がらばを貸してくれましたが,さらに,深くめり込んだ後部をこじ上げるための丸太とか,梁とか,木の枝が別にないかと道端をさがし回りました。こうして,前方をらばで引っぱり,中央でエンジンをかけ,後ろから力いっぱい押し,何度もくり返した末にやっとのことで自動車が穴から出た時には,ほんとうにほっとしました。でも,毎日それなりの喜びがあるものです。その事故が起こる前に,道路からはずれてしばらく歩いた所で,数件の興味深い訪問ができたのです。ですから,苦しい経験は喜びとつり合っていました。ダビデと同じように,わたしたちは心からこう嘆願することがよくありました。『ああ神よ ねがはくはわが泣く声をききたまへ わが祈にみこころをとめたまへ』― 詩 61:1」。

      彼らが直面した問題よりもはるかに重要だったのは,聖書文書頒布者の伝道活動でした。彼らが人々の家庭を訪問するところに,わたしたちもついて行くことにしましょう。ウィリアム・P・モックリジはビンセント・C・ライスに加わって,1906年中,ニューヨーク州のシェネクタディで聖書文書頒布のわざを行ないました。彼の話は,わたしたちをその当時に連れていってくれます。「最初の日,一日中働いて一冊も配布できませんでした。しかし,わたしは優秀な頒布者でなければならなかったのです。その夜,わたしは,『石綿』のように燃えないものや物質的なものを思いから取り去り,どんな人が戸口に出て来ても気持ちよく話す,ライス兄弟の謙そんで親切な近づき方に見倣えますよう助けてください,とエホバに祈りました。すると,まもなく,協会から支給された『内容見本』を使って,たくさんの書籍を配布するようになりました。……[「聖書研究」の]最初の3巻は98㌣,また6巻全部は1㌦98㌣で『注文を取り』ました。ふつう,毎月1日か15日が『支払い日』になっていて,その日に注文のあったところに届けました」。

      モックリッジ兄弟が「内容見本」を使ったという点に気づかれましたか。それは,「千年期黎明」(「聖書研究」)の全6巻の表紙をアコーデオン式に並べたもので,聖書文書頒布者や他の聖書研究者は,何年ものあいだそれを戸別の伝道の際に用いました。聖書文書頒布者は戸口でそれを腕いっぱいに伸ばして,各巻の主題について話し,注文を得ると後日に本を届けました。

      パール・ライトは,「書籍の詰まったスーツ・ケースは重くて,配達日はたいへんでした」と正直に語っていますが,たしかにそのとおりでした。「聖書研究」の50巻分の注文を取ったとすると,その重さは18㌔ほどになりますから,女性はおろか,健康な多くの男性にとっても軽い荷ではありませんでした。しかし,しばらくして,ジェイムズ・H・コウルは,スーツケースに取り付けられる,車のふたつついたニッケルメッキ仕上げの付属品を考案しました。

      アンナ・E・ジンママンによれば,それは「人目を引くものでした」。彼女は次のように語っています。「ペンシルバニア州ホリデイズバーグの町で聖書文書の頒布をしていた時のひとつの経験を思い出します。わたしは,車をつけたスーツケースを引いて,お昼どきの商店街を通って行かねばなりませんでした。そうすることは心配でしたが,ともあれ自分のわきにスーツケースを引きながら進んで行きました。すると,突然,身なりの良い紳士が後から礼儀正しく近づいて来て,わたしのスーツケースの取っ手を持ちながら,『しばらくの間わたしにこれを引かせていただけませんか。どんな具合になっているか見たいのです。あなたがずいぶん楽そうに引いておられますからね』と言いました。ところで,その人は商店街を通り抜けるまでスーツケースを引いてくださり,わたしは何もしなくてすみました。そして,その人が町の新聞の編集長であることを知りました」。翌日の地方新聞には詳しい報告が載っていました。

      忠実な聖書文書頒布者たちは,無私の動機からエホバにより頼みつつ勤勉に働きました。そして彼らの努力は報われ,その活動の結果として,時々会衆が発展しました。深い満足と霊的に豊かな報いがありました,エディス・ケスラーと彼女の実の姉妹であるクララは,1907年に,聖書文書頒布の仕事を喜びのうちに始めました。ふたりは長い距離を歩き,「配達日」には多くの書籍を運ばねばなりませんでした。疲れたことは確かです。しかし,エディスの次のことばは,昔の忠実な聖書文書頒布者の考えを代表しているように思います。「わたしたちは若く,奉仕をしている時は幸福でした。自分の力を費やしてヤハに仕えることに大きな喜びを感じました」。

      「なんぢを攻んとてつくられしうつはものは利あることなし」

      忠実な聖書文書頒布者と他の聖書研究者が良いたよりを熱心に宣明していた間も,サタン悪魔は彼らを砕き滅ぼす手をゆるめたり,そうする努力をやめたりはしませんでした。もしも,彼らに神の保護が差し伸べられていなかったなら,サタンはその望みを遂げていたことでしょう。(ペテロ第一 5:8,9。ヘブライ 2:14)彼らは,神が昔ご自分の民に語られた次の約束のことばの真実さを悟りました。「すべてなんぢを攻んとてつくられしうつはものは利あることなし 興起ちてなんぢとあらそひ訴ふる舌はなんぢに罪せらるべし」― イザヤ 54:17。

      イエス・キリストは迫害されましたから,その追随者は,偽りの宗教を奉じる人々や一般の世から同様に扱われることを予期できます。(ヨハネ 15:20)しかし,サタンの攻撃は,時として,内部から来るものでした。つまり,それは,クリスチャン組織内の恥知らずの者たちによって引き起こされ,事実「わたしたちの仲間ではない」者たちの関係するでき事に端を発しています。―ヨハネ第一 2:19。

      1870年代に,C・T・ラッセルが,「朝の先ぶれ」誌の発行者N・H・バーバーと交わりを絶ったことが思い出されます。それは,ラッセルがあくまでも支持した,聖書に基づく贖いの教理をバーバーが否定したからでした。その後1890年代の初めに,組織内のある顕著な人々は,破廉恥なことに,ものみの塔協会を牛耳ろうとしました。反逆者たちは,ラッセルの人気を失わせ,協会の会長をやめさせるために考え出した実「弾」を爆発させる計画を立て,2年間ほどもくろんだ後,1894年に陰謀を起こしました。主として,C・T・ラッセルの仕事上の不正を申し立てるということを中心に苦情が出され,偽りの告発がなされました。実際,ごくささいな事がとりざたされましたから,告発者たちが,本来,C・T・ラッセルの名誉毀損を意図していたことは明らかでした。公平な仲間の信者が事情を調査してラッセルの正しさを認めたため,「ラッセル氏とその業績をふっ飛ばす」という反逆者たちの計画は完全に失敗しました。使徒パウロと同様,ラッセルは「偽兄弟」による苦しみを経験したわけです。しかし,その試練はサタンの謀りごとであることがわかりましたから,反逆者たちはクリスチャンの交友を楽しむには不適当とされました。―コリント第二 11:26。

      言うまでもなく,C・T・ラッセルの試練や苦難はそれで終わりませんでした。さらに,彼自身の家庭の事情により,非常に個人的な仕方で苦しまねばならなかったのです。1894年にもめ事のあった間,C・T・ラッセル夫人(旧姓はマリア・フランシス・アクレイで,1879年にラッセルと結婚した)はニューヨークからシカゴまで旅行し,その道すがら聖書研究者と会合して夫を弁護しました。彼女は教育を受けたそう明な女性でしたから,その時訪問した幾つかの会衆で非常な歓迎を受けました。

      ラッセル夫人はものみの塔協会の理事でしたし,数年にわたって秘書および会計の仕事もしていました。さらに,「シオンのものみの塔」の定期寄稿者で,しばらくは同誌の共同編集者でもあった彼女は,ついに,「ものみの塔」に掲載する記事に関してより大きな発言権を要求するようになりました。それは,モーセの姉のミリアムの野心に匹敵するものでした。ミリアムは,神によってイスラエルの指導者となった弟に反抗して自分自身を目立つ地位に置こうとしたのです。それは神の不興を買う行為でした。―民数 12:1-15。

      ラッセル夫人のこのような態度を助長したのは何でしたか。1906年に,C・T・ラッセルは次のように書いています。「わたしはその時は気づきませんでしたが,反逆者たちが甘言を使ったり『女性の権利』を論じるなどして,妻の心に不一致の種をまくよう努力したことをやがて知るようになりました。しかし,[1894年に]衝撃的事件があった時,わたしは,主の摂理により,妻が反逆者に加担しているのを見るという屈辱は免れることができました。……事態が収まり始めると,『女性の権利』という考えと個人的な野心が再び頭をもたげるようになりました。わたしの理解によれば,ラッセル夫人は,わたしを弁護するために活躍し,その際の旅行中ずっと愛する友人たちから非常に暖かい歓迎を受けたことが災いして,自賛の気持ちを募らせたのです。……彼女は,しだいに,自分の書いたものでなければ『ものみの塔』誌に掲載するのは適切でないという考えに至ったように思われます。それで,わたしは,わたしの書いたものを書き直すようにという提案に絶えず悩まされました。最初の幸福な13年間彼女の特質であった謙そんさとはおよそ縁のない,そうした性質が強まっていることを指摘するのは,わたしにとってつらいことです」。

      ラッセル夫人は非常に非協力的になり,緊張した関係が続きました。しかし,1897年の初めに夫人は病気にかかりました。ラッセルは彼女の世話を十二分に,しかも快く行ないました。その親切な世話が夫人の心に達して,夫人が以前の愛に満ちたやさしい心を取り戻すであろう,とラッセルは思いました。ところが,夫人は快復すると委員会を招集して夫と会見したのです。それは「特に,『ものみの塔』誌上で彼女がわたしと同等の権利を持っていること,また,彼女が望む自由を与えないわたしはまちがっているということを,兄弟たちを使ってわたしに教えるのが目的でした」,とC・T・ラッセルは書いています。しかし,事情が明らかになった時,委員会は,彼らも他の人々もラッセルによる「ものみの塔」の運営に干渉する権利を持っていないことを彼女に告げました。ラッセル夫人は,委員会に同意しかねるけれども,委員会の見地から物事を見るように努めたい,という主旨のことを述べました。ラッセルはさらにこう伝えています。「それで,わたしは皆のいる所で,握手をしてくれるかどうか彼女に尋ねました。彼女はためらいましたが,結局わたしに手を差し出しました。次にわたしは,『では,君がこれまで持ってきた考えを入れ替えたしるしに,わたしに接ぷんしてはくれないだろうか』と言いました。彼女はまたもやためらいましたが,最後にわたしに接ぷんし,さらに他の方法でも,愛情がよみがえったことをその委員会の前に示しました」。

      こうして,ラッセル夫妻は,『接ぷんを交わして仲直りしました』。その後,夫人の要請で,ラッセルは,「アレゲーニー教会の姉妹たち」の集会を毎週開く取決めを設け,夫人をその指導者にしました。それは騒ぎを大きくし,C・T・ラッセルに対する中傷が広まる結果になりました。しかし,この問題も収まりました。

      ところが,結局,敵意を募らせたラッセル夫人は,ものみの塔協会および夫との関係を自ら断つに至りました。彼女は,およそ18年間の結婚生活のあと,1897年に突然夫のもとを去ったのです,ほぼ7年間の別居中,C・T・ラッセルは夫人のために別個の家を備え,経済的な支持も与えました。1903年6月,ラッセル夫人は,ペンシルバニア州ピッツバーグの民事裁判所に合法的な別居の訴訟を提出しました。1906年の4月中に,それはコリアー判事と一陪審員によって審理され,およそ2年後の1908年3月4日に,「絶縁」という形で判決が下されました。判決文は次のとおりです。「要請により審理した結果,原告マリア・F・ラッセルと,被告チャールズ・T・ラッセルは,寝食を共にしないとの判決を下します」。判決文と,裁判所の書記が作成した判決記録には,ともに,「寝食を共にしない」となっています。これは,ある人々がとり違えているような,完全な離婚では決してなく,合法的な別居でした。「ブビエールの法律事典」(1940年,バンクス-ボールドウィン法律出版会社 発行)はこの処置を,「部分的もしくは限定的離婚であり,当事者は別居し,共に住むこと,すなわち夫婦生活を営むことを禁じられている。しかし,結婚それ自体には影響しない。ブラックストン評釈書第一巻440ページ」と定義しています。(314ページ)その312ページでは,「合法的な別居と呼ぶのがさらに適切であろう」とも述べています。

      C・T・ラッセル自身,裁判所が完全な離婚を認めたのでなく,それが法律上の別居であることを十分に理解していました。1911年,アイルランドを旅行していた時,ダブリンで,「あなたが奥さんと離婚されたのはほんとうですか」と尋ねられた時,どのように答えたかをラッセルは次のように書いています。「『わたしは妻と離婚していません。同情心のある陪審員のおかげで,裁判所の判決は離婚ではなくて別居でした。そこには,わたしたち双方は別居したほうがさらに幸福であろうとはっきり述べられています。妻はわたしが残酷なことをしたと訴えました。しかし,証拠として挙げられた唯一の残酷な行為とは,彼女が接ぷんを求めた時に一度それを与えなかったということでした』。わたしは,残酷であるとの非難に異議を唱え,彼女ほど夫から大切に扱われた女性はないと信ずる旨を聴衆に断言しました。拍手がわき起こり,聴衆がわたしのことばを信じたことがわかりました」。

      その点に関連して,1916年にピッツバーグで行なわれたC・T・ラッセルの葬式の様子も注目に価します。アンナ・K・ガードナーはその時のことをこのように話していますが,他の出席者たちも同じことを覚えています。「カーネギーホールでの式の直前,新聞に載った,ラッセル兄弟に関する虚偽の陳述を反ばくする,ひとつの出来事が起きました。会場は式が始まるずっと前から満員で,静まりかえっていました。その時,ベールをかぶった人が通路を通って棺に近づき,その上に何かを乗せるのが見えました。最前列の人にはそれが何かわかりました。それは,ラッセル兄弟のお好きだった,すずらんの花束で,『わたしの愛する夫へ』と記されたリボンがついていました。ベールの人はラッセル夫人だったのです。ふたりは離婚してはいませんでした。そしてこれはそれを公の前で認めるものでした」。

      家庭内の試練がC・T・ラッセルにどれほどの心痛と感情的緊張をもたらしたかは,想像できるにすぎません。結婚上の問題が起きていたある時点でラッセル夫人にあてられた,日付のない自筆の手紙の中で,ラッセルは次のように書いています。「この手紙が届く時には,君が,『どんなことがあっても行末永く,死別するまで』愛し,従い,仕えることを神と人の前で自ら誓った者のもとを去ってちょうど一週間になることだろう。君がこのようになろうとは経験による以外には決して信じられないことだ。一時期,君ほどの愛に満ちた献身的な助け手は他にいなかったとわたしは真実に言うことができる。君がそうでなかったなら,主は君をわたしにお与えにならなかったに違いないと思う。主はあらゆる事をよく行なわれるからだ。このようにして主がわたしに示してくださった神慮に対して,わたしは今も感謝している。そして今なお,君が1日に少なくとも30回わたしに接ぷんし,わたしなしで生きて行けることなど考えられない,わたしに先立たれたらどうしようとたびたび話してくれた時のことを楽しい気持ちをいだきながら振り返っている……しかも,そうした愛の証拠のいくつかをほんの1年半前まで示してくれていたね。ところが,わたしが君をどれほど強く愛しているかを何百回となく断言し,今もなおそうしているにもかかわらず,去年1年のあいだに君の熱烈な愛は薄らいでしまった」。

      ラッセルは,大敵対者が夫人を「しっかりとらえ」ていたことをまさしく感じていました。彼は,「わたしは君のために主に真摯な祈りをささげてきた」と語り,また夫人を援助することに努めました。とりわけ,彼は次のように書き送っています。「わたしの悲しみを話して君に負担をかけるつもりはない。愛と同情心と親切といった,キリストの精神にあふれた,かつての君の姿をわたしの脳裏にありありと思い出させる君の服や品物に時々出くわす時のわたしの気持ちを書いて,君の同情心に働きかけようとするつもりもない。わたしの心は,『あー,わたしが君を,それとも君がわたしをあの幸福な時代に葬り去ってしまったのだ』と叫んでいる。しかし,試練や試みはまだ十分ではないように見える。……どうか,わたしが言おうとしていることを祈りのうちに考えてほしい。そして確かに知ってほしい。わたしが痛切に悲しみ,胸の刺される思いがするのは,わたしが残りの人生航路をひとり寂しく行かねばならないからではない。わたしが知るかぎりでは,妻よ,君の落伍,君が永遠に失われてしまうからだよ」。

      不道徳ではない

      結婚生活上の問題でラッセルを圧迫するだけでは十分でないかのように,敵は,卑劣にも,ラッセルが不道徳を犯しているという趣旨のびろうな非難を彼に浴びせました。そうした故意の虚言は,いわゆる「クラゲ」の話にまつわるものでした。1906年4月に行なわれた裁判の時に,ラッセル夫人は,C・T・ラッセルが「わたしはクラゲのようで,あちらこちらと泳ぎ回り,これに触ったり,あれに触ったりする。もし,その女性が答え応じるなら,彼女を自分のものにし,そうでなければ,他の女性たちの方へ泳いでゆく」と言ったことがあるとボール嬢という女性から聞いた,と証言しました。証人台でC・T・ラッセルは,「クラゲ」の話を断固として否定しました。陪審員に対する説示の中で,裁判官が,「家族の成員であったその女性に関するそうしたささいなでき事は,原告の申し立ての根拠となり得ず,したがって本件とは関係を持たない」と述べたため,その事柄は裁判記録から全く取り除かれました。

      問題の女性は,1888年,10歳ぐらいの時に,孤児としてラッセル家に来ました。ラッセル夫妻は彼女を自分の子どものように扱い,少女は,毎晩床に就く前に,ふたりにおやすみのキスをしました。(裁判記録90,91ページ)ラッセル夫人は,例の事があったのは1894年であると証言しましたが,その時少女が15歳を過ぎていたことはあり得ませんでした。(裁判記録15ページ)そのあと,ラッセル夫人は,3年間夫と共に生活してからそのもとを去り,それから約7年後に別居の訴訟を起こしました。夫人が作成した別居の訴状に,問題の事柄は何もふれられていませんでした。ボール嬢はその時生存していて,ラッセル夫人は彼女の住所を知っていましたが,ボール嬢を証人にすることはなされず,また,ボール嬢の証言を提出することも行なわれませんでした。C・T・ラッセルも,ボール嬢に出廷して証言してもらうことはできなかったでしょう。なぜなら,夫人がそうしたことを裁判に持ち出すという知らせ,もしくは通告を何も受けていなかったからです。さらに,申し立てのあったでき事から3年して,ラッセル夫人は委員会を招集し,その前で夫と幾つかの相違点について話し合いましたが,「クラゲ」の話はほのめかされることさえありませんでした。別居扶助料を要求する際,ラッセル夫人の弁護士は,「わたしたちは姦淫の罪で告発しているのではありません」と述べました。また,ラッセル夫人も,実際,夫が不道徳な行ないで罪があるとは考えていなかったということは,記録に(10ページ)示されています。彼女の法律顧問から,「あなたは,ご主人は姦淫の罪があると言っておられるのではないのですね」と尋ねられて,夫人は,「はい,そうではありません」と答えたのです。

      チャールズ・テイズ・ラッセルが,家庭の問題やそれに関係した苦難を経験した試みの期間中,エホバは聖霊をもって彼を支えられました。そうした年月の間引き続き神に用いられたラッセルは,「シオンのものみの塔」誌の記事を書くかたわら,責任の重い他の仕事も果たし,さらには,「千年期黎明」(もしくは,「聖書研究」)の3巻を執筆しました。これは,今日のクリスチャンにとって,様々な試練に悩まされても神のご意志を行ない続けてゆく際の大きな励ましではありませんか! イエスの忠実な油そそがれた追随者たちを特に力づけるのは,ヤコブの語った次のことばです。「試練に耐えてゆく人は幸いです。なぜなら,その人は是認されるとき,エホバがご自分を愛しつづける者たちに約束されたもの,すなわち命の冠を受けるからです」― ヤコブ 1:12。

      奇跡の小麦

      C・T・ラッセルの敵は,彼の家庭の問題ばかりでなく,他の「武器」も使って攻撃しました。たとえば,ラッセルが普通の小麦の種を,「奇跡の小麦」の名のもとに1ポンド1㌦,もしくは1ブッシェル60㌦で売った,と告発したのです。彼らは,ラッセルがそれから多額の個人的な利益を得たと考えました。しかし,そのような非難は全くの偽りです。では,真相は何ですか。

      1904年のこと,K・B・ストーナーという人は,ヴァージニア州フィンカースルにある自分の庭で珍しい植物が育っているのに気づきました。それには142本の茎があって,それぞれに成熟した穂がついており,小麦の変種であることがわかりました。1906年に,ストーナーはそれを「奇跡の小麦」と命名しました。やがて他の人々もそれを手に入れて栽培し,驚くほどの収穫を得ました。事実,奇跡の小麦は幾つかの品評会で賞を獲得しています。C・T・ラッセルは,「沙漠はよろこびて番紅の花のごとく咲かがやかん」という聖書の予言や,「地はその産物を出さん」という予言に関係したことであれば,何にでも大きな関心を持ちました。(イザヤ 35:1。エゼキエル 34:27)1907年11月23日,アメリカ政府の農務次官,H・A・ミラーは,ストーナー氏が栽培した小麦を推薦する報告書を農務省に提出しました。アメリカ全国で,一般の新聞がその報告に注目しました。C・T・ラッセルもそれに注目し,「シオンのものみの塔」誌1908年3月15日号の86ページに,幾つかの新聞の論評と政府の報告書の抜粋を掲載しました。その結論の部分で,彼は次のように述べました,「たとえその話には半分の真実しか含まれていないとしても,それは,『世が始まって以来,神がすべての聖なる預言者たちの口を通して語られたすべての事がらの回復の時』に必要な物を備える神の力をさらに証明しています。―使徒 3:19-21」。

      ストーナー氏をはじめ,奇跡の小麦を試みた他の様々な人々は,聖書研究者もしくはC・T・ラッセルの仲間ではありませんでした。ところが,1911年に,ペンシルバニア州ピッツバーグのJ・A・ボーネットと,インジアナ州ワバシのサムエル・J・フレミングという「ものみの塔」の読者が,奇跡の小麦を合計約30ブッシェルほどものみの塔協会に提供し,それを1ポンド1㌦で売るように,収益はすべて協会に寄付するので,宗教的なわざに使ってほしい,と申し出ました。協会は受け取った小麦を発送し,総額1,800㌦(約54万円)のお金を得ました。ラッセル自身はそれから1銭も受け取ってはいません。彼は,寄付された小麦を1ポンド1㌦で求めることができるということを,「ものみの塔」誌に発表したにすぎませんでした。協会自身,自らそれと知って小麦を求めたのではありませんし,受け取ったお金は寄付としてクリスチャン宣教のわざに用いられました。他の人々が小麦の販売を批判した時,寄付をした人々すべてに対して,不満があれば代金をお返しします,という知らせがなされ,小麦の代金として受け取られたお金は,事実,そのために1年間保管されました。しかし,返済を求めた人はひとりもいませんでした。奇跡の小麦に関する,ラッセル兄弟と協会の行動は全く公明正大でした。

      チャールズ・テイズ・ラッセルは,神のみことばから真理を教えたゆえに,多くは宗教指導者から憎まれ,中傷されました。しかし,現代のクリスチャンはそうした取扱いを予期しています。なぜなら,イエスと彼の使徒たちは宗教的な反対者から同様に扱われたからです。―ルカ 7:34。

      『エホバこの民をすてたまはざるべし』

      エホバは忠実な神です。預言者サムエルは,心をつくして神に仕えるようにと,イスラエルの民に助言し,こう言明しました。「エホバ其大なる名のために此民をすてたまはざるべし其はエホバ汝らをおのれの民となすごとを善としたまへばなり」― サムエル前 12:20-25。

      聖書研究者たちは,そのことの真実さを身をもって知りました。たとえば,1914年から1916年にかけて,彼らは失意や悲しみをもたらす経験をしましたが,エホバはご自分の民をささえられ,決してお見捨てになりませんでした。―コリント第一 10:13。

      大きな期待

      その時には喜ぶ理由もありました。長年の間,神の民は,1914年を異邦人の時の終わりをしるしづける年として指し示していましたが,その期待は失望に至らなかったのです。1914年7月28日に第一次世界大戦がぼっ発し,10月1日が迫るにつれて,参戦する国や帝国は増えてゆきました。エホバのクリスチャン証人が聖書研究を通して知るとおり,妨げられることのない異邦人の世界支配の期間は,イエス・キリストを王として戴く神の天の王国の誕生をもって,1914年に終わりました。(啓示 12:1-5)しかし,1914年に関して他にも期待されていたことがありました。それについて,A・H・マクミランは,自著「信仰の行進」の中で次のように書いています。「忘れもしません,1914年8月23日に,ラッセル師は,北西部から太平洋岸を南下して南部諸州を回り,9月27-30日にかけて大会の開かれた,ニューヨーク州サラトガ・スプリングスを最後とする旅行にでかけました。わたしたち数人は,その年の10月の第一週に天へ行くとまじめに考えていましたから,それは非常に興味深い機会でした」。

      ある聖書研究者は,1914年に天へ行くという考えを強く持っていました。ドワイト・T・ケンヨン姉妹はこう語っています。「わたしたちが考えていたのは,戦争が革命へ,また無政府状態へと進展し,当時油そそがれていた,つまり聖別されていた人々はその時に死んで栄化されるだろうということでした。ある晩,わたしはエクレシア(会衆)全体が汽車に乗ってどこかに行く夢を見ました。雷といな光がすると,たちまち仲間の人たちがあたり一面死に始めたのです。わたしは,それがごく当然だと思って死のうとしましたが死ねませんでした。それにはほんとうにあわててしまいました。それから突然わたしは死んで,大きな解放感と満足感を味わいました。この古い世に関する限り,万事がまもなく終わろうとしていること,また,『小さな群れ』の残りの者が栄化されようとしていることを,わたしたちがどれほど確信していたかは,これでおわかりいただけると思います。―ルカ 12:32」。

      ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは,1914年中ベテルの食卓で,異邦人の時の終わりのことがしばしば討議の中心になったことを覚えています。ふたりによれば,ラッセル兄弟は時々長い話をし,忠実であるように勧めながら,時に関する事がらを再検討したところ,それはやはり正確のようであると述べ,さらに次のようにも語りました。「もしわたしたちが聖書に保証されているところを越えた事がらを期待しているなら,エホバのご意志に従い,信仰を持って思いと心を神の方法に合わせて調整し,関連したでき事の成就を忠実に見守り,かつ待たねばなりません」。

      1914年のサラトガ・スプリングス大会での出来事は,その年に天へ「帰還する」というマクミラン兄弟の考えを特に際立たせました。兄弟は次のように書いています。「わたしは,水曜日(9月30日)に,『万物の終わりが近づきました。冷静にし油断なく見張り,祈りなさい』という題の講演をするように頼まれました。ところで,それは,いわばわたしの得意とするところでした。わたし自身そのこと,つまり教会は10月に『帰還する』ということを心から信じていました。その話の中で,わたしは,『わたしたちはまもなく帰還するのですから,おそらく,これがわたしの最後の講演となるでしょう』というふさわしからぬことを言ってしまいました」。

      翌朝,1914年10月1日に,およそ500人の聖書研究者は,アルバニーからニューヨークまで汽船に乗ってハドソン川を楽しく下りました。日曜日に大会出席者はブルックリンで催しを開き,大会はそこで終わることになっていました。ベテルには多数の代表者が宿泊しました。10月2日,金曜日の朝食の席に,本部職員が出席していたことはいうまでもありません。ラッセル兄弟が入ってきた時には全員が着席していました。兄弟は,いつものとおり,「みなさん,おはよう」と元気にあいさつしましたが,その朝は変わったことがありました。ラッセル兄弟は,すぐ席に着くかわりに拍手をして,「異邦人の時は終わりました。その王たちの日は過ぎ去ったのです」とうれしそうに発表しました。「わたしたちは盛大な拍手を送りました」とコラ・メリルは高い声を上げます。マクミラン兄弟は次のように述懐しました。「わたしたちはたいへん興奮していました。その時わたしたちのからだが上がり始める,つまり,天へ向かって昇るしるしがあっても,わたしは驚かなかったでしょう。しかし,いうまでもなく,そうしたことは全く起こりませんでした」。さらに,メリル姉妹によれば,「しばらく間を置いてから,彼[ラッセル]は,『だれか,がっかりした人がいますか。わたしは失望していません。万事は予定どおりに動いています』と述べました,ふたたび拍手が起こりました」。

      C・T・ラッセルは,少し話した後すぐに,A・H・マクミランに注意を向け,悪気のない様子で,「日曜日のプログラムをいくらか変更したいと思います。日曜日の午前10時30分からは,マクミラン兄弟が講演します」と述べました。それには全員が大笑いしました。ともかく,その前の水曜日に,マクミラン兄弟は,これがわたしの「最後の公開講演」になると思うと言ったばかりだったからです。数年後に,マクミラン兄弟はこう書いています。「それではなんとかして講演の準備をしなければなりません。わたしは詩篇 74篇9節,『われらの誌はみえず預言者も今はなし斯ていくその時をかふべき われらのうちに知るものなし』を基礎にして話すことにしました。この話はまえの話とは違っていました。わたしはこの講演で,次のこと,つまり,わたしたちのうちのある人々は,すぐにも天国に行くような少し性急な考えをもっているかもしれないが,われわれのなすべきことは,主が時を定めて,みこころにかなったしもべたちを天に迎え入れられる時まで,主のわざに忙しく携わっていることであるという点を仲間の人々に理解してもらうように努めました」。

      C・T・ラッセル自身は個人的な憶測に対して警告していました。たとえば,1912年12月1日号の「ものみの塔」誌で彼は,異邦人の時の終わりについて論じたあと,次のように述べました。「最後に,わたしたちは,1914年10月とか1915年10月,あるいは他のなんらかの日付までではなく,『死に至るまで』捧げた[献身した]ことを記憶しましょう,わたしたちが預言の計算を間違うことをなんらかの理由で主が許されたとしても,時代のしるしからして,その間違いが大きいものであり得ないことを確信できます。そして,主のめぐみと平和が過去におけると同様将来においてもそのお約束どおりわたしたちと共にあるのであれば,いかなる時にも進み,もしくはとどまろうと,また幕のこちら側においてであれ向こう側においてであれ[地上であれ天であれ],主を最も喜ばせるよう主の奉仕に携わることをこれまでと同様に喜びます」。

      頂点をなす1914年が始まった時でさえ,ラッセルは1月1日号の「ものみの塔」にこう書いています。「わたしたちは,時に関する事柄を教理的な事柄と同様の絶対的な確実さを付して読まないでしょう。なぜなら,聖書の中で,時は基本的な教理ほど明確に述べられていないからです。わたしたちは今なお見えるところによってではなく信仰によって歩いています。しかし,不忠実また不信仰なのではなく,忠実を保って待っているのです。もし,教会が1914年10月までに栄化されないことが後日はっきりしたなら,わたしたちは,主のご意志がどのようなものであれ,それに満足するように努めるでしょう」。

      したがって,聖書研究者の多くは1914年に大きな期待を寄せていましたが,「ものみの塔」誌を通して健全な警告を受けてもいたのです。あるクリスチャンたちが,自分たちはその年の秋に天へ『帰還する』と考えていたのは事実です。「しかし」,とC・J・ウッドワースは次のように語ります。「1914年10月1日は過ぎ去って,その日から幾年かたち,しかも,油そそがれた者たちはなお地上にいました。ある人々は不きげんになって真理から落ちて行きました。エホバに信頼を置いていた人々は,1914年を確かに注目されていた『終わりの始まり』の時であることを理解し,しかも,いわゆる『聖徒たちの栄化』に関しては自分たちの以前の考えは間違っていたことを認めました。彼らは,忠実な油そそがれた者たちになお多くの仕事が残されていることを知りました。わたしの父[クレイトン・J・ウッドワース]もそうした人々のひとりでした」。

      しかし,1914年に対して寄せられていた大きな期待が実現したことに比べると,同年に天へ行くことが失望に終わったのは,実際,たいした問題ではありませんでした。聖書研究者が,1914年に異邦人の時が満了することを長年指摘していたにもかかわらず,その年の最初の6か月間は異邦諸国家に何も起こりませんでした。そのため,宗教指導者とか他の人々は,C・T・ラッセルとものみの塔協会を嘲笑しました。しかし,エホバがご自分の民をお見捨てになったり,彼らが誤導されるのを許されるようなことは確かにありませんでした。その民は,エホバの聖霊に動かされ,異邦人の時の終わりがその年の秋までは来ないと期待しつつ,証言のわざを続けたのです。月を追うごとに,ヨーロッパ全土で緊張は高まり,王国の音信に対する嘲笑も強まって行きました。しかし,国々が次々に第一次世界大戦に巻き込まれると,事情は変わって,エホバのクリスチャン証人のわざが注目を浴びるようになりました。

      当時の新聞の典型的な反応は,ニューヨーク市の一流新聞であった「ザ・ワールド」に見られました。1914年8月30日付の同紙日曜雑誌欄は,「1914年にすべての王国は終わる」と題する記事を載せ,その中で一部次のように述べました。

      「欧州における恐るべき戦争のぼっ発は異例な預言の成就となった。過去四半世紀の間,『千年期黎明派』としてよく知られる『国際聖書研究者』は,伝道者や出版物を通して,聖書に預言された憤りの日は1914年に明けるであろうと世界にふれ告げてきた。『1914年に注意せよ!』というのが旅行する幾百人の福音宣明者の叫びであり,彼らはこの風変わりな信条を携えて国じゅうを回り,『神の王国は近づいた』という教理を宣揚した。……

      「チャールズ・T・ラッセル牧師は,1874年以来聖書のこうした解釈を提唱してきた人である。……ラッセル牧師は1889年に次のように書いている。『聖書の強力な証拠から判断して,この世の諸王国の最終的な終わりと神の王国の完全な設立は,西暦1914年の終わりまでに達成されることは確かな事実と考えられる。……

      「しかし,苦難が1914年に頂点に達すると言うことは,奇妙であった。ラッセル牧師が華美で街頭演説者風の書き方をせず,非常に落ちついた,高等数学式の書き方をしたためであろうか,ともかく不思議な理由で,世間一般は彼のことばにほとんど考慮を払わなかった。同師の『ブルックリン・タバナクル』の研究者たちは,そのことは予期されていたことであり,この世は苦難の日が過ぎるまで神の警告に耳を傾けて聞いたことは一度もなく,また決してないであろう,と言う。……

      「そして1914年に戦争が起こる。それは,すべての人が恐れてはいたが,だれも実際に起こるとは考えていなかった戦争である。ラッセル牧師は,『わたしが皆さんにそう言いました』とは言わず,また,現代の歴史に合わせて預言を訂正もしない。彼と研究者たちは甘んじて待っている。自分たちが1914年の真実の終わりであると考える10月まで待っているのである」。

      確かに,聖書研究者は1914年10月に『帰還する』ため天に上げられませんでした。しかし,2,520年間続いた異邦人の時はその時に終わったのです。そして,あとになっていっそう十分に理解したように,エホバのしもべには,その後にほかならぬこの地上で,神の設立された王国を宣べ伝えるための膨大な仕事がありました。さらに多くの人が聖書の真理に好意的な反応を示すことは明らかでした。その点について,ラッセルは,1915年2月15日号の「ものみの塔」誌で次のように書きました。「主が,ご自分の民すべて,その見守る聖徒たちに行なわせるための膨大な仕事を現在持っておられることをはっきりと示すしるしがあります。……主の子どもたちの中には,『戸は閉められた』から,今後奉仕する機会はないという考えに支配されているように見える人がいます。そのような人々は主のわざに関して怠惰になります。わたしたちは,戸は閉められたと夢想して時間を浪費すべきではありません。真理を求めている人々,やみの中にある人々がいるのです。今はこれまでにない時です。これほど多くの人々が,良い音信を聞こうとしていることはかつてありませんでした。40年にわたる収穫の全期間を通して,現在ほど,真理を宣明する機会に恵まれている時はありません。大きな戦争や時代の無気味なしるしは人々を目ざめさせており,多くの人々は今や疑問を抱いています。ですから,主の民は,非常に勤勉になって,自分の手でなし得ることを力を込めて行なうべきです」。

      「前途には膨大な仕事がある」

      要するに,その時神の民は,堅く立って,『主の業においてなすべき事をいっぱい持つよう』にと告げられたのです。(コリント第一 15:58)何年か後にA・H・マクミランが語ったひとつのでき事は,ラッセル兄弟がエホバのしもべの前途に膨大な仕事のあることを確信していたことをさらに示していました。C・T・ラッセルは,午前中8時から正午までは,ふつう,「ものみの塔」誌の準備や他の執筆をしたり,聖書の研究をしました。マクミランはこう記しています。「その時間には,彼に呼ばれるか,よほど重要な用事のないかぎり,その書斎に近づく者はいませんでした,8時を5分ほどすぎたころ,速記者が階段をかけおりてきて,わたしに,『ラッセル兄弟がお呼びです。書斎までおいでください』と言いました。『わたしはまた何をしでかしたんだろう』と思いました。朝のうちに書斎に呼ばれるのは,ただごとではないのです」。マクミラン兄弟のその後の話を聞いてください。

      「わたしが書斎にいくと,彼は,『おはいりください,兄弟。応接間のほうへどうぞ』と言いました。書斎を延長したところが応接間になっていたのです。彼は言いました。『兄弟,あなたは真理に対して初めと変わらない深い関心をおもちですか』。わたしは驚きました。すると彼は,『びっくりしないでください。これはわたしの望む答えを得るための質問にすぎません』と言って,自分の健康状態について話しました。もし休養をとらなければ,何か月も生きられないだろうということは,わたしにもよくわかっていました。彼は言いました。『そこでですね,兄弟,わたしがあなたにお話ししたかったのはこのことです。わたしはこれ以上仕事をつづけることができなくなりましたが,まだ大仕事が残っているのです。しかもこれは世界的なわざなのです……』。

      「わたしは言いました。『ラッセル兄弟,あなたのおっしゃることは,わたしにはどうも納得がいかないのですが。つじつまが合わないように思えます』。

      「『それはどういう意味ですか,兄弟』と彼は尋ねました。

      「『あなたが亡くなられて,しかもこのわざが続行されるのですか。あなたが亡くなられる時にはわたしたちはみな満足して,あなたと一緒に天に行くのを腕を組んで待っていますよ。わたしたちも仕事をやめます』とわたしは答えました。

      「『兄弟』,と彼は言いました。『もしそれがあなたの考えでしたら,あなたにはまだ問題がはっきりわかっていないようですね。これは人間がしているわざではありません。この仕事でわたしはべつに重要な存在ではありません。光はますます明るくなっています。前途には膨大な仕事があるのです』。……

      「将来の仕事をかいつまんで話したのちラッセル兄弟は言いました。『そこでわたしは,ここにきてわたしに代わって責任をはたしてくれる人がほしいのです。わたしはまだ指示することはできますが,いままでのように,それを自分で行なうことができなくなりました』。それでわたしたちは,いろいろな人をあげて検討しました。最後にわたしが引き戸を通って廊下を出たとき彼は,『ちょっと待ってください。あなたは自分のへやへ行って,このことについて主に祈り,そしてマクミラン兄弟がこの仕事を引き受けるかどうか,わたしに知らせてください』と言いました。彼はわたしが何も言わないうちに戸をしめました。わたしは目のくらむ思いでそこに立っていたのを思い出します。ラッセル兄弟の仕事を助けるといってもわたしに何ができよう。彼のように実業家の能力をもつ者でなければこれはできない。わたしにできることは宗教を布教することだけです。しかしわたしは思いなおし,のちに彼のところへ行って言いました。『わたしにできることなら何でもします。どこに配属されてもかまいません』」。

      神の民の前途に非常に多くのわざがあることを確信していたC・T・ラッセルは,身近な人々に,神の民の増加に備えをするよう告げました。また,組織を緊密なものにするために幾つかの変更を加え,さらに,自分では個人的に行なえない将来の物事に対してもいくつかの変更を勧めました。A・H・マクミランは事務所とベテル・ホームの責任者になりました。そのあと,健康が急速に衰え,1916年の秋までには極度に衰弱していたにもかかわらず,ラッセルは以前から取り決めてあった講演旅行に出発しました。

      最後の旅行

      ラッセル兄弟と秘書のメンタ・スタージョンは,1916年10月16日にニューヨークをたち,カナダ経由でミシガン州のデトロイトに向かいました。次いでふたりはイリノイ州のシカゴに行き,カンサス州を通ってテキサス州に進みました。ラッセルの健康状態は悪化し,秘書が彼の代理として予定の講演をいくつかしなければなりませんでした。10月24日,テキサス州サンアントニオで,ラッセルは「燃える世界」という主題のもとに,彼の最後の公開講演をしました。講演中,彼は演壇を三度降り,秘書が代わりに話さねばなりませんでした。

      火曜日の夜,ラッセル兄弟と秘書および同行者は,カリフォルニア行きの汽車に乗りました。病身のラッセルは,水曜日には一日中床に就いていました。ある時,旅行の同行者が病めるラッセルの手を取りながら,「わたしは,これほど偉大な,信条を粉砕する手を見たことがない」と言ったところ,彼は,この手はこれ以上信条を粉砕することはないだろうと答えました。

      ふたりはテキサス州デル・リオで,橋が爆破されて代わりの橋が掛かっていなかったので,1日足止めされました。木曜日の朝にデル・リオを出発したふたりは,金曜日の夜にカリフォルニアの連絡駅で汽車を乗り換えました。ラッセルは,土曜日終日激しい痛みに襲われ,すっかり弱り果てていました。一行は10月29日,日曜日にロサンゼルスに到着し,その夜C・T・ラッセルはそこで会衆に対する彼の最後の話をしました。その時までにラッセルはひどく衰弱し,立って話をすることができませんでした。「強力に,力を込めてお話しできなくて残念です」と言うと,ラッセルは,司会者に演台をかたずけ,椅子をもって来るよう合図しました。そして「どうか椅子に掛けることをお許しください」と言いながら腰を降ろしました。彼は45分ほど話し,そのあとしばらく質問に答えました。ドワイト・T・ケンヨンはその時のことをこう語っています。「わたしは,1916年10月29日にロサンゼルスで行なわれた,ラッセル兄弟の最後の講演会に出席する特権を得ました。兄弟は具合が非常に悪く,ゼカリヤ書 13章7-9節に関する話の間椅子に座ったままでした。わたしは,彼が最後に引用した民数紀略 6章24-26節から深い感銘を受けました」。

      容態が悪化して,それ以上旅行を続けられないことを悟ったラッセルは,残りの講演予定を中止してブルックリンのベテル・ホームに急きょ戻ることにしました。10月31日,火曜日,C・T・ラッセルは危篤になり,それより早く電報で呼ばれた医師が,テキサス州パンハンデルで車中のラッセルを診察し,臨終の徴候を認めました。診察が済むと汽車は再び動き始めました。それから間もなく,1916年10月31日,火曜日正午過ぎに,64歳のチャールズ・テイズ・ラッセルはテキサス州のパンパで死亡しました。

      「神は今も支配しておられる」

      C・T・ラッセルの数々の試練,伝道活動,執筆の責任や他の任務はその活力に因るところ大でした。彼は,約32年間,ものみの塔聖書冊子協会の会長を務めました。また,報告によると,公開講演者として160万㌔以上旅行し,3万回を超える講演をしました。合計5万ページを上回る文書を著し,月にしばしば一千通の手紙を口述し,そのかたわら,一時は700人の講演者を擁した,世界を巡る福音宣明運動を指揮していました。さらに,ラッセルは自分で,史上最も教育的な聖書劇,「創造の写真 ― 劇」を編集しました。

      ラッセル兄弟は,良いたよりを宣明するわざにおいて,非常に重要な役割を果たしましたから,多くの聖書研究者からたいへん惜しまれました。「翌朝,朝食の時,ベテルの家族のまえで彼の死を告げる電報を読みあげたとき,食堂は悲しみの声で満ちました」と,A・H・マクミランは語りました。神の民一般のあいだでは,様々な反応がありました。C・T・ラッセルがサン・アントニオのマジェスティック劇場で彼の最後の講演をした時,偶然そこに出席していたアーデン・ペイトはこう述べています。「ある人たちは,『これでおしまいだ』と言いました。そう考えたのは,エホバがご自分の民を導いておられることがわからず,ひとりの人間をあまりに重要視したからです」。1916年11月5日,日曜日に,ニューヨーク・シティー・テンプルで行なわれたラッセルの葬式の際,彼と親交のあった多くの人々は,大きな損失について話しましたが,引き続き忠実であるようにとも勧められました。別に,11月6日の午後2時から,ペンシルバニア州ピッツバーグ(アレゲーニー)のカーネギー・ミュージック・ホールでも葬式が開かれ,その日の夕刻,アレゲーニーのローズモント・ユナイテッド・セミトリーにある,ベテル家族の墓地で埋葬が行なわれました。

      ニューヨーク市で開かれた葬式の午前中の集まりで,A・H・マクミランは,ラッセル兄弟が死ぬ少し前に彼と話し合った事がらを述べ,協会本部の仕事に関してラッセルが残した足跡についてもふれました。そのあと,マクミランはとりわけ次のように言明しました。「わたしたちの前にあるわざは膨大ですが,主は,それを成し遂げるために必要なめぐみと力をわたしたちにお与えになるでしょう。……おく病な働き人たちは,刈り入れの道具を下に置いて,主がわたしたちを家に呼ばれるまで待つ時が来たと考えるかもしれません。今はなまけ者のことばを聞いている時ではありません。今は活動の時,以前にも増して決然とした行動を取るべき時なのです」。

      夜の集まりで話したJ・F・ラザフォードは,結論に入る前に次のように述べました。「愛する兄弟たち,ここにいるわたしたちを含め,地上にいるすべての人はどうしましょうか。わたしたちの主なる王のご計画に対する熱意を弱めるでしょうか。断じてそのようなことはないように。主のご恩寵により,わたしたちは熱意と力を増し加え,自分たちの走路を喜びつつ走り通すのです。恐れたり,たじろいだりするのではなく,主の王国の音信を宣明する特権を喜びつつ,肩を並べて信仰のために戦うのです」。

      協会の会計秘書,W・E・バン・アンバーグのことばも注目に価しました。彼はラッセルの葬式で次のように語りました。「この膨大な世界的わざはひとりの人のわざではありません。それにしてはあまりに膨大すぎます。それは神のわざであり,それが変わることはありません。神は過去において多くのしもべを用いてこられたのであり,将来においても多くのしもべを用いられることに疑問の余地はありません。わたしたちは,人間や,人間のわざに献身したのではなく,神のご意志を行なうために献身したのです。神は,みことばと天佑の導きにより,それをわたしたちに啓示してくださいます。神は今も支配しておられるのです」。

      神の民にとって,当時は確かに難しい時代でした。しかし,彼らはエホバに助けを仰ぎました。(詩 121:1-3)神は,ご自分の組織の中で重要な責任を担う他の人々をお立てになり,宣べ伝えるわざは続けられるでしょう。

      試みの時を通過したばかりのエホバの民の前途には,何年かにわたる危機が待ちうけていました。1916年10月31日にC・T・ラッセルが死亡したことにより,ものみの塔協会の会長の席があきました。1917年1月6日の年次総会まで,実行委員会が協会を運営しました。その間,次の会長はだれか,という問題が持ち上がったことは言うまでもありません。ある日,バン・アンバーグ兄弟はA・H・マクミランに,「兄弟,このことについてどうお考えですか」と尋ねました。マクミランは答えました。「好むと好まざるとにかかわらず,ひとりしかいませんね。いまこの仕事に当たれる唯一の人物はラザフォード兄弟です」。「わたしもそう思います」と,バン・アンバーグ兄弟は,マクミランの手を取りながら言いました。J・F・ラザフォードはこうしたことについては何も知らず,選挙運動もしませんでした。しかし,1917年1月6日に行なわれた協会の年次総会で,彼はものみの塔協会の会長に指名され,選出されました。

      その席上,ラザフォード兄弟は,新たに委ねられた責任を謙そんに受け入れ,信仰の仲間に対して「一致した祈りと深い同情,および限りない協力」を求めました。また,確信を込めて次のように述べました。「これまでわたしたちを導いて来られた方は,引き続きわたしたちを導かれます。どのようなことがあっても常に主により頼んで導きを求めつつ,心を奮い立たせ,思いを整え,進んで働きましょう。主はわたしたちを確実な勝利へと導かれます。主とわたしたちとの契約をきょう新たなものにして,クリスチャン愛の聖なるきずなをもって一致し,世界に出て行って『天の王国は近づいた』と宣明しますように」。

      ラザフォードの経歴

      ラザフォード自身は真理のための勇敢な闘士でした。彼は,ミズーリ州モーガン郡で,1869年11月8日に生まれました。彼の両親はバプテスト派の信者でした。ジョセフ・フランクリン・ラザフォードの実の姉にあたる,ロス姉妹から話を聞いたA・D・シュレーダーによれば,「家族はミズーリ州に住んでいて,父親は厳格なバプテスト派の信者でした。彼女の弟のジョセフはバプテスト派の『地獄の火』の教理を絶対に受け入れなかったため,ふたりが真理を聞く以前でさえ,家族の間で何度か激論が交わされました。ジョセフは常に正義感にあふれた信念の強い人でした。彼は幼い頃から,法律を勉強して裁判官になりたいと考えていました。父親は,彼が大学に行って法律を学ぶよりも農場にとどまることを願っていたため,ジョセフは友だちから金を借りなければなりませんでした。そのようにして,彼は,父親の農場で彼の代わりに働く人に賃金を払ったうえ,法律を学ぶ費用もまかないました」。

      ジョセフ・ラザフォードは独力で学費を得て学校を卒業しました。とりわけ,彼は速記に熟達しました。その技術は,後になって,聖書関係の記事その他を速く書くのに大変役立ちました。在学中ですら,ジョセフ・ラザフォードは裁判所の速記者になりました。それによって,卒業するまで学費を納めることができ,実地の経験も得られました。学校教育を終了後2年間E・L・エドワーズ判事の指導を受けた彼は,20歳の時に,ミズーリ州第14法廷巡回区の公式報道官になりました。彼は22歳でミズーリ州弁護士会に加入が許され,クーパー巡回法廷の記録によると,1892年5月5日に,同州で弁護士を営む免許を得ました。そして,ドラッフェンとライト法律会社の法廷専門弁護士として,ミズーリ州ブーンビルで弁護士の仕事を始めました。

      その後,J・F・ラザフォードは,ミズーリ州ブーンビルで4年のあいだ検察官を務め,さらに,同じミズーリ州第14法廷地域の特別判事になりました。正規の判事が裁判を開くことができない場合には,その資格を持つラザフォードが代理の判事をしたのです。法廷記録によると,彼が一度ならず特別判事の任務を果たしたことがわかります。こうして,彼はラザフォード「判事」として知られるようになりました。

      ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは,J・F・ラザフォードから,エホバのしもべによって宣明されていた真理に彼が初めて関心を持つようになったいきさつを聞いたことがあります。ふたりは次のように話してくれました。「兄弟は何度か訪問してくださいましたが,ある訪問中に,兄弟は,月の光を浴びながら郊外へ散歩に出ようと言われました。歩きながら,兄弟は幼い頃のことや真理に関心を持つようになったいきさつを話してくださいました。彼は農場で育ちましたが,法律を勉強したいと考えました。お父さんは彼に農場を助けてほしいと思いましたが,結局,兄弟が独力で学費をまかない,農場で彼の代わりに働く人の賃金を払うという条件で,大学に行くことを承諾しました。夏休みのあいだ,彼はその約束を守るために本を売りました。……彼は,自分が弁護士になった時,だれかが事務所に本を売りに来たら買ってやろう,と自分に誓いました。その日は(1894年に)到来しましたが,仲間の弁護士が訪問者の応待に出ました。その人は,『聖書文書頒布者』のエリザベス・ヘッテンバッハ姉妹で,『千年期黎明』の三巻を提供していました。その弁護士は関心がなかったので彼女[と仲間の聖書文書頒布者,ビーラー姉妹]を帰らせました。自分の事務所から出て来て,本に関する事がらを耳にしたラザフォード兄弟は,誓いを思い出して彼女を呼び戻し,書籍を求めて家の書棚に置きました。本はしばらくそこに置かれたままでしたが,ある日,病気が治りかけていた時に,兄弟は1冊の本を開いて読みはじめました。それが,神に対するやむことのない専念と奉仕の始まりで,その時の関心は一生涯続くものだったのです」。

      ラザフォードの家の近くでは,聖書研究者の集会が開かれていませんでした。しかし,クラレンス・B・ビーティはこう語っています。「1904年以来,わたしたちの家で集会が開かれました。ラザフォード姉妹とラザフォード判事は,[キリストの死の]記念式のために,ミズーリ州ブーンビルからやって来ました。……彼はわたしたちの家で初めて記念式にあずかり,仲間の人々に彼としては初めての巡礼者の話をしました。ブーンビルには,そのふたりを除いて真理に入っている人はいませんでした」。

      ところで,J・F・ラザフォードはどのように伝道を始めるようになったのでしょうか。そのことに大いに関係したのはA・H・マクミランでした。彼は,1905年,ラッセル兄弟に同行して合衆国横断の旅行をしていた時に,カンザス・シティーで初めてラザフォードに会いました。しばらくして,マクミラン兄弟は一日か二日ラザフォード判事を訪問しました。ふたりの間では次のような会話が交わされました。

      「判事,あなたはこのあたりで真理を伝道なさるべきですね」。

      「いや,わたしは牧師ではなく法律家です」。

      「それでは判事,こうなさってみてはいかがですか。聖書を1冊お求めになって,少数の人を集め,生命と死と死後の状態について教えるのです。人間はどこから命を得たか,なぜ死ぬようになったか,死とは何か,について説明し,証明として聖書を使い,ちょうど裁判の時陪審員に対して言われるように,『わたしが言ったことはすべてこれで証明されます』と言って納得させればよいのです」。

      「それくらいならたいしてむずかしくもなさそうですね」。

      その後どうなりましたか。ラザフォードは助言を受け入れて何かしたでしょうか。マクミラン兄弟の話では,「町はずれに近い,彼の自宅の隣にあった小さな農場で働くひとりの黒人がいました。そこにはおよそ15人から20人の黒人がいたので,彼はそこへ出かけて行き,『命と死および死後の状態』に関する話をしました。話の間中彼らは,『ありがたいことです,判事さん。どこでそんなことを習いなすったんです?』と尋ねました。ラザフォードにとってそれはすばらしい集まりでした。また,それは彼が行なった最初の聖書の講演でした」。

      それから間もなく,1906年に,J・F・ラザフォードはエホバ神への献身を象徴しました。マクミラン兄弟は次のように書いています。「わたしは,ミネソタ州セント・ポールで彼に浸礼を施す特権にあずかりました。彼は,わたし自身がその日に水の浸礼を施した144名中のひとりだったのです。ですから,彼が協会の会長になった時,わたしはとりわけうれしく思いました」。

      1907年,ラザフォードはものみの塔協会の法律顧問になり,ピッツバーグの本部で奉仕しました。また,1909年に協会が運営をニューヨークのブルックリンに移した時,交渉を担当する特権を得ました。そのために,彼は,ニューヨーク州の弁護士会に申請し,同州公認の弁護士になりました。同年5月24日には,弁護士として合衆国最高裁判所の法廷に立つことも認められました。

      J・F・ラザフォードは,ものみの塔協会の旅行する代表者である巡礼者としてしばしば講演しました。また,聖書の講師としてアメリカを広く旅行し,要請のあった多くの単科大学や総合大学で話をしました。さらに,ヨーロッパ全土においても大勢の聴衆を前に講演しました。ラザフォードはエジプトとパレスチナを訪れ,1913年には夫人を伴ってドイツへ渡り,そこで合計1万8,000人の聴衆に話をしました。

      彼の特徴

      イエス・キリストは,ご自分の追随者すべては「兄弟」であり,『彼らの間でいちばん偉い者は,彼らの奉仕者でなければならない』と言われました。(マタイ 23:8-12)ですから,真のクリスチャンは仲間の信者のだれかを特別に重要視することはしません。しかし,聖書は,何人かの神のしもべたちの様々な特徴を明らかにしています。たとえば,モーセは柔和なことで知られていましたし,ゼベダイの子ヤコブとヨハネは,燃えるような熱心さで知られていました。(民数 12:3。マルコ 3:17。ルカ 9:54)ジョセフ・F・ラザフォードは,神の地上の組織の中で大きな責任を委ねられていましたから,彼の特徴や資質を見るのはなかなか興味深いことです。

      「ラザフォードは仲間の人々にいつも深いクリスチャン愛を示しました」,とA・H・マクミランは述べ,こう続けています。「また,心のたいへんやさしい人でした。しかし,彼は,生来,ラッセルのように穏やかで物静かな人ではなく,率直で遠慮のない言い方をする人で,自分の感情を隠しませんでした。親切な気持ちで話している時でさえ,持ち前の無骨さのためにしばしば誤解されました。しかし,彼が会長になってほんのしばらくで,主がその仕事に適切な人物を選ばれたことが明らかになりました」。

      1924年4月18日に,ラザフォードは,聖書研究者の古いロンドン・タバナクルで記念式の話をしましたが,その時のでき事から彼の性格をいっそう知ることができます。それについて,ウィリアム・P・ヒース姉妹は次のように書いています。「タバナクルというのは,協会が安く買い上げた古い監督教会派の教会堂で,今日の王国会館のように,日曜日の集会に使われていました。……講演者が立つ場所は,床から6㍍ほどの上の方にありましたから,講演者が聴衆に話す時にはその頭しか見えませんでした。ラザフォード兄弟がそこを『かいばおけ』と呼んだのはおそらくそのためでしょう。兄弟はそこから話すことを辞退しました。実際,彼は降りて来て兄弟たちと同じ高さの所に立って彼らを驚かせました」。

      ラザフォード兄弟が初めてものみの塔協会の会長に就任した時には,勇気と忠実さと決意が必要とされており,彼はそうした資質を示しました。たとえば,エステル・I・モリスは,巡礼者であったラザフォードが,アイダホ州ボイゼの当時最も大きな劇場で大聴衆を前に行なった講演の模様を回顧して,こう話してくれました。「彼が偽りの宗教を暴露したために,土地の牧師数人が怒りだし,話を中断させて抗議しようとしました。ところが,兄弟が語気を強めて『おすわりなさい。法の保護を求めますよ』と言ったので,話は中断されずにすみました。近隣の町々から聖書研究者が集まり,あるホールを借りて小さな大会を開きました。兄弟は,この音信と宣教のわざは決して小さな事がらではないことを悟らせるようたいへん力強く語りました」。

      一方,ラザフォード兄弟の一面に触れて感激した思い出を持つ,アンナ・エルスドンは,彼女の幼い頃のことを次のように書いています。「わたしたちはラザフォード兄弟と何度もお話ししたことがあります。ある時,わたしたち子ども数人がいっしょに呼ばれ,ラザフォード兄弟がやって来ました。わたしたちは,学校のことや国旗敬礼その他について多くの質問をし,兄弟はわたしたちに長い時間話してくださいました。別れぎわに,兄弟はわたしたち5人の手を,その大きな両手でやさしく握り,目には涙を浮べておられました。わたしたちが幼くても真理の深い事がらを話すので,喜ばれ,また感激されたのです。わたしはその時のことが忘れられません。ラッセル兄弟が慈愛深い方であったように,わたしたちはその大きなラザフォード兄弟の愛をも感じました」。

      わざにおいて前進!

      ラザフォード兄弟は王国を宣べ伝えるわざを決然として推し進めました。聖書研究者たちはエホバの聖霊の導きを受けて,多年,神の真理を宣明する驚くほど広範な運動を行なっていました。1870年から1913年にかけて,実に,2億2,825万5,719冊の小冊子とパンフレット,および695万292冊の書籍が配布されたのです。1914年の重大な年だけでも,エホバの証人は,7,128万5,037冊の小冊子とパンフレット,および99万2,845冊の書籍を配布しました。第一次世界大戦の拡大と,通信連絡の麻痺のため,1915年と1916年に出版活動は低下しましたが,1917年になると,わざは再び上昇傾向を示し始めました。なぜでしょうか。

      それは,協会の新しい会長がブルックリンの本部事務所を早速再組織し,さらに,野外のわざを再び活発にする処置を講じたからです。しかし,ラザフォードが進めたそうした変化や計画は,C・T・ラッセルがすでに始めていたものでした。協会を代表する巡礼者は69人から93人にふえ,無料の小冊子の配布は,戸別の訪問によって定期的に行なわれたり,時々日曜日に教会の前で行なわれたりなどして,促進されました。また,「聖書研究者月刊」という4ページの冊子が新たに出版され,1917年だけでも2,866万5,000部が無料で配布されました。

      C・T・ラッセルの生前に始められたひとつの新しい活動も促進されました。それは,「牧羊の業」と呼ばれるもので,現在エホバのクリスチャン証人が行なっている再訪問の先がけとなりました。ラッセルの時代,この活動は,自由投票で彼を自分たちの牧羊者に選んだ約500の会衆だけが行なっていました。それらの会衆にあてた手紙の中で,彼はその活動のことを,「公開集会や『劇』の上映で得たり,聖書文書頒布者のリストなどから得られた住所に基づいてできる,宗教的な事がらに幾らかの関心を持っていると思われ,また,真理に多少なりとも好意のありそうな人々を対象とした,重要な『追跡の業』」と述べています。

      そのわざを行なうことに関心のある,会衆内の婦人たちは,自分たちの中から副官ひとりと,会計秘書ひとりを選びました。ひとつの都市は幾つかの地区に分けられ,それぞれ割り当てられた姉妹は,関心のある人として住所を受け取った人々すべてを訪問しました。訪問した人は家の人に書籍を貸し,借りた人はそれを読んで研究することができました。「それは無料の貸出しでしたから,『お金を持っていませんから』と断わる人はいませんでした」,とエステル・I・モリスは言っています。訪問の終わりに,まもなくその地域で行なわれる「神の経綸」に関する図表講演に家の人を招待し,関心を示す人々は出席するよう励まされました。その後,出席した人々には追跡の訪問が何度か行なわれ,「聖書研究」の第一巻,「世々に渉る神の経綸」を使って研究を始める努力が払われました。こうして,その計画の最終的な結果,人々が「クラス」に集められました。彼らはまず図表講演を聞き,後に「ベレアン・クラス」の定期的な出席者になりました。―使徒 17:10,11。

      協会の新しい会長,J・F・ラザフォードが,宣べ伝えるわざを再び活発にするために行なったことはほかにもあります。聖書文書頒布者の奉仕が拡大され,その合計は373人から461人に引き上げられました。1917年の初頭,彼らを援助するため,協会は,本部から定期的に出される奉仕のための指示を載せた,「会報」という新聞を発行し始めました。後日,1922年10月が過ぎてから,「会報」は一般の聖書研究者に毎月手渡されるようになりました。(同紙は,やがて「監督者」,ついで「通知」,後には「王国奉仕」と改名された。)H・ガンビル姉妹は次のように語っています。その後,「『会報』には,当時『戸別訪問』と呼んでいた証言が載せられ,それを記憶して野外奉仕で用いるように勧められました。わたしの義理の姉妹は,ひとつひとつのことばをそっくり覚えようとして,部屋から部屋へわたしのあとをついて回りました。彼女は是非ともそれを正確に覚えたかったのです」。「会報」に証言が準備して載せられていたことを思い出しながら,エリザベス・エルロドは,「その頃は,今のように,ひとりの人が別の人について行って,その人が有能な伝道者となるように訓練し,援助するという取決めがありませんでしたから,わたしはそれを感謝しました。そのようにして,統一された音信が広められたのです」。

      わざを再び活発にする運動が続いている間に,1917年当時の協会の新しい管理部は,他の手段も取っていました。一例として,地方別に数多く催された大会があります。それらを通して,聖書研究者は,わざを推し進め,良いことを行なう点で疲れることがないように励まされました。

      1914年の少し前に,C・T・ラッセルは,公開講演計画を進めることを強調しました。今や,公の演壇からものみの塔協会を代表して話す,資格のある講演者を増やす取決めを設ける時が来ました。それは,V.D.M.という取決めを通して行なわれました。V.D.M.とは,「神のみことばの奉仕者」という意味のラテン語,ベルビ・デイ・ミニステルを表わしていました。その計画の一環として,聖書研究者の会衆と交わる男女に質問表が配られました。

      次に掲げるのは,V.D.M.質問表に出ていた質問の一部です。自分がどれくらい答えられるか試してみてください。(1)神は最初に何を創造されましたか。(4)神が罪人たちに課された,罪の刑罰は何ですか。罪人とはだれですか。(6)人間キリスト・イエスは生まれてから死ぬまでどんな生命体でしたか。(7)復活してからのイエスはどんな生命体でしたか。また彼は役職上エホバとどんな関係にありましたか。(13)メシアの王国に対する従順を通して人類世界にはどんな報い,もしくは祝福が及びますか。(16)あなたは,生ける神に仕えるため罪から離れましたか。(17)あなたは,自分の命とすべての力や能力を主とそのわざに全く捧げましたか。(18)あなたはその献身を水の浸礼で象徴しましたか。(22)あなたは,残りの生涯にわたってさらに有能な主のしもべとなるに十分の,しっかりした永続的な聖書の知識を持っていると信じますか。

      協会のV.D.M.部門へ解答を出した人々は,それに対する「いくらかの親切な提案と示唆」を含む返事を受け取りました。とりわけ,それらの質問に自分自身のことばで答えることが望まれました。

      ジョージ・E・ハナンはもう少し詳しく書いています。「これらの質問は,人が聖書の基本的な教理をどれほど良く知っているかを決める一つの指針とされました。献身した人で,85点以上の成績を取った人は,有資格者と見なされ,そうした兄弟はすべて,公開講演をしたり図表講演をする資格が与えられました。それらの質問は,『聖書研究』の6巻を読み,すべての参照聖句を調べるよう,協会と交わる人々全員を励ましました」。

      このようにして,ものみの塔協会の新しい会長J・F・ラザフォードは,神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざを促進するための処置をただちに講じたのです。それは祝福され,1917年には,エホバ神を賛美する野外活動の増加が見られました。

      『あなたがたの間の燃えさかる火に当惑してはなりません』

      しかし,J・F・ラザフォードが会長に選ばれたことを,組織内のすべての人が喜んだわけではありません。事実,1917年の初め頃,数名の人が野心的になって協会の管理権を奪おうとし,非常に非協力的になりました。こうして,火のような試練の期間が始まりました。いうまでもなく,クリスチャンはこの世の敵から反対され,迫害を受けることを予期しています。しかし,クリスチャン会衆そのものの内部から起こる試練は予期されず,ずっと耐え難いものである場合が少なくありません。とはいえ,神の助けを受けるなら,そうした苦難のすべてを耐えることができます。ペテロは仲間の信者に次のように述べました。「愛する者たちよ,あなたがたの間の燃えさかる火は,試練としてあなたがたに起きているのであり,何か異常なことが身に降りかかっているかのように当惑してはなりません。かえって,キリストの苦しみにあずかる者となっていることを喜びとしてゆきなさい」― ペテロ第一 4:12,13。

      エホバとその「契約の使者」であるイエス・キリストは,西暦1918年に霊的な神殿を検閲するために来られ,「神の家」の裁きと精練し清める期間が始まりました。(マラキ 3:1-3。ペテロ第一 4:17)また,その他の事がらも起こりました。「よこしまな奴隷」のしるしをつけた人々が現われ,象徴的な意味で仲間の奴隷を「たたき」始めたのです。イエス・キリストはそのような人たちがどう取り扱われるかを予告されました。同時に,「忠実で思慮深い奴隷」級が明らかとなり,霊的な食物を分け与えることも示されました。―マタイ 24:45-51。

      「忠実で思慮深い奴隷」もしくは「忠実にして慧き僕」(文語)がだれかを見分けることは,その頃きわめて重要な事がらでした。それよりずっと以前の1881年に,C・T・ラッセルは次のように書きました。「キリストの体の各成員は,信仰の家の者に時に応じて食物を与えるという祝福されたわざに,直接また間接に携わっている,とわたしたちは信じます。『主人が時に及びて食物を与へさする為に,家の者のうへに立てたる忠実にして慧き僕は誰』でしょうか。それは,献身の誓いを忠実に遂行している献身したしもべたちの『小さな群れ』,すなわちキリストの体ではありませんか。また,大ぜいの仲間の信者である家の者に,時に応じて食物を与えている,個人的また集合的な体全体ではないでしょうか」。

      ですから,霊的な食物を分け与えるために神が用いておられた「奴隷」はひとつの級であることが理解されました。しかし,時がたつにつれて,多くの人々は,C・T・ラッセル自身が「忠実にして慧き僕」であると考えるようになりました。そのために,ある人は被造物崇拝のわなに陥りました。そうした人々は,神がご自分の民に啓示するのをよしとされるすべての真理はラッセル兄弟を通して示されたのであり,それ以上のことは何ももたらされ得ないと感じました。アンニー・ポッゲンシーは,「そのため,ラッセルの業績に固執することを選んだ人々が大いにふるい分けられました」と書いています。ラッセル自身が「忠実にして慧き僕」であるというその誤った考えは1927年2月に一掃されました。

      ラザフォード兄弟がものみの塔協会の会長になって間もなく,まぎれもない陰謀が起きました。反逆の種がまかれ,次いで問題が広がったのです。以下はその次第です。

      第一次世界大戦ぼっ発後,C・T・ラッセルは本部からだれかを英国に派遣して,その地の聖書研究者を強める必要を認めました。そして,神の真理の知識を知る以前,ユダヤ教を捨ててルーテル教会の牧師をしていたユダヤ人,ポール・S・L・ジョンソンを派遣することを考えていました。彼は,協会の旅行する講演者として奉仕し,その才能はよく知られていました。ラザフォードが会長に選ばれるまでのしばらくの期間奉仕した執行委員会は,ラッセルの意志を尊重し,入国を容易にする書類を持たせてジョンソンを英国に派遣しました。彼は,英国におけるわざに関してできるだけ調べ,協会にすべてを報告することになっていましたが,英国本部の人事を移動するように言われてはいませんでした。しかし,1916年11月に英国で大歓迎を受けた彼は判断をゆがめ,ついには理性をもゆがめてしまったようです。そして,A・H・マクミランによれば,「ついに,彼は,自分がイエスのペニー(あるいはミナ)のたとえ話に出て来る『家令』であるというばかげた結論に達し,後には,自分を世界の大祭司であると考えました」。英国全土で行なった聖書研究者に対する講演の中で,ジョンソンは,自分をラッセルの後継者に仕立てて,ちょうどエリヤの外とう(「公式の衣」)がエリシャの上に落ちたようにラッセル師のマントが自分の上に落ちたと主張しました。―列王下 2:11-14。

      明らかに,ジョンソンの野望はその前からすでに芽生えていました。エダイス・ケッスラーは次のように回顧しています。「1915年にベテルを去ってアリゾナ州に向け出発する前に,わたしは長年の知り合いである一組の夫婦を訪問しました。わたしがそこに滞在中,ふたりはP・S・L・ジョンソンという名の巡礼者をもてなしました。サタンは,どんな方法ででも支配権を執ろうとして卑劣で陰険な方法をすでに示していました。ジョンソンは,『皆さんとお話ししたいと思います。居間に座りましょう』と言ったので,わたしたちは居間に行きました。彼はこんなふうに切り出しました。『姉妹,わたしたちは,ラッセル兄弟がいつなんどき亡くなられるかわからないことを知っています。しかし,その時に仲間の信者は恐れる必要がありません。わたしが彼の地位に就いて,わざを中断させることなくうまく引き継ぎます』」。

      英国滞在中,ジョンソンは英国での活動を完全に牛耳ろうと努め,権威がないにもかかわらず,ロンドン本部職員のある人々を放逐しようとさえしました。大混乱が生じたため,支部の監督はラザフォード兄弟に苦情を訴えました。折り返し,ラザフォードは,本部職員ではないロンドンの兄弟数名からなる委員会を任命しました。委員は会合して事実を聴き,考量してからジョンソンの召還を推薦しました。ラザフォードはジョンソンに帰るよう命じましたが,ジョンソンは,手紙や電報で委員会は偏見を持っていると非難し,自分の行動を正当化しようとしました。さらに,英国における自分の地位を不可欠なものにしようとして,協会が彼のために作成した書類を不正に用いてロンドン銀行にある協会の資金を押収しました。後日その資金を使えるようにするためには,法律上の手続きをとることが必要でした。

      ついにジョンソンはニューヨークに戻りましたが,J・F・ラザフォードを説得して再び英国に派遣させようと無駄な試みを続けました。ラザフォードが会長に適した人物でないと考えたジョンソンは,自分こそ協会の会長になるべきだとの信念のもとに,理事会に圧力をかけようとしました。ラザフォード兄弟は協会の会長として不適格であると見せかけることによって,彼は7人の理事のうち4人を自分の側に引き入れました。それら異論を唱える4人は協会の会長,副会長,会計秘書に反対し,会長から管理権を奪おうとしました。

      J・F・ラザフォードは反対者たちと会合を開き,話し合おうと努めました。A・H・マクミランはこう語っています。ラザフォードは「わたしたち数人のところにまで来て,『わたしが会長をやめて,反対している人たちに責任を取らせようか』とさえ尋ねました。わたしたちは皆,『兄弟,主があなたを現在の地位に就けられたのです。辞任されたりすれば,主に不忠節になります』と答えました。さらに,事務所一同は,あの人たちが支配するなら,わたしたちはやめると脅しました」。

      協会の1917年度年次総会の延長集会で,4人の反対派の理事は,協会の定款を修正する決議を提出しようとしました。それは,管理権を理事会の下に置くもくろみでした。また,それはラッセル兄弟が会長の間受け入れられていた組織の取決めに反し,株主の意志にも反することでしたから,ラザフォードはその動議を無効にし,計画は失敗しました。その後反対はいっそう強まりましたが,反対者の全く予期しない計画が進められていました。

      「終了した秘義」

      協会の会長の職にあった全期間を通じて,ラッセル兄弟は,副会長および会計秘書と共に,新しい出版物を出すことを決定していました。理事会は全体として相談を受けていませんでした。ラザフォードは同じ方針を取りました。それで,協会の3人の役員は大きな影響を及ぼす決定をしました。

      チャールズ・テイズ・ラッセルは,6巻に及ぶ「千年期黎明」もしくは「聖書研究」を書き終えていましたが,第七巻を著すことについてしばしば語り,「鍵が見つかれば,いつでも第七巻を書きます。主がその鍵をだれか他の人にお授けになるなら,その人が書けばよいのです」と話していました。協会の役員は,ふたりの聖書研究者,クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーに,啓示,雅歌およびエゼキエル書を注解した本の編集を依頼するよう取り決めました。この共同編集者がラッセル兄弟の書いたものから資料を集め,「終了した秘義」の題名を冠し,「聖書研究」第七巻として出版しました。C・T・ラッセルの考えや注解を主体としていた同書は「ラッセル師の死後の著作」と呼ばれました。

      1917年の半ば頃に新しい本を発表する時が来ました。その重大な日は7月17日でした。マーチン・O・ボウィンは次のように述べています。「〔ブルックリン・ベテルの〕台所で仕事をしていると電話が鳴りました。昼食を準備している最中でした。わたしは電話の一番近くにいたので,受話器を取りました。電話の主はラザフォード兄弟でした。『あなたのそばにだれがいますか』と彼は尋ねました。『ルイスです』,とわたしは答えました。兄弟は,すぐに書斎に来るように,『ノックはしないでほしい』と言いました。わたしたちはたくさんの本を手渡され,家族が昼食に来る前に,各の席に1冊ずつ置くようにと命じられました」。まもなく食堂はベテルの家族でいっぱいになりました。

      ボウィン兄弟はさらに続けます。「いつものように神に感謝がささげられました。それから,始まったのです。……P・S・L・ジョンソンを先頭にして,……愛するラザフォード兄弟に反対するデモが始まりました。彼らは非難のことばを声高に上げながら,行ったり来たりし,ラザフォード兄弟の食卓のところに来ると立ち止まって兄弟にこぶしを振り上げ,兄弟をいっそう攻撃しました。……それがおよそ5時間も続いたのです。それから,全然手のつけられていないたくさんの食物と食器類をそのまま食卓に残して,全員が席を立ちました。かたずけに当たった兄弟たちには,それをする元気が全くありませんでした」。

      このでき事によって,ベテル家族の中には反対者に同情する人のいることが明らかになりました。そうした反対が続けば,やがてベテルの活動全体は破綻をきたすでしょう。そこで,J・F・ラザフォードは事態を正す行動に出ました。協会の法的な仕組みに十分通じていたにもかかわらず,ラザフォードは,協会の理事会の現状に関して,ペンシルバニア州フィラデルフィアの著名な法人弁護士に意見を求めました。書面による解答によれば,4人の反対者たちは正式の理事ではありませんでした。それはなぜでしたか。

      C・T・ラッセルはそれらの人を理事に任命しましたが,協会の定款によれば,理事は株主によって選挙されねばなりませんでした。ラザフォードはラッセルに,その任命が次の年次総会で投票により確認されねばならないことを話しましたが,ラッセルはその手続きを取っていませんでした。したがって,ピッツバーグの年次総会で選挙されていた役員だけが正式の理事で,任命されただけの4人は法律の上で理事会の成員ではありませんでした。ラザフォードは,騒動の起きた当初からそのことを知っていましたが,彼らが反対をやめるとの期待から,言い出さなかったのです。しかし,その態度から,彼らに理事の資格のないことは明らかでした。当然のことながら,ラザフォードは彼らを解雇し,4人の新しい理事を任命しました。その任命は,1918年の初めに開かれる次の法人総会で確認されるはずでした。

      ラザフォード兄弟は前の理事たちをクリスチャンの組織からすぐ去らせるようなことをせず,巡礼者の地位を与えようと申し出ました。彼らはそれを拒絶して自らベテルを去り,アメリカ,カナダおよびヨーロッパ全土において,広範な講演や手紙による反対運動を始めました。その結果,1917年の夏が過ぎた頃には,聖書研究者の多くの会衆はふたつの派 ― エホバの組織に忠節な人たちと,霊的なねむけにおそわれて,反対者の上手な話の犠牲になった人々に分かれるようになりました。後者は非協力的になって,神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざに携わろうとしませんでした。

      支配権を得ようとする無駄な努力

      反対派のグループは,ベテルを去って間もなく,1917年8月にマサチューセッツ州のボストンで開かれる聖書研究者の大会を牛耳ることができると考えました。その大会に出席したメアリー・ハナンは,「ラザフォード兄弟は,彼らのそうした努力に警戒を怠らず,プログラム中演壇に上がる機会を彼らに一度も与えませんでした。兄弟は司会者を終始つとめたのです」,と伝えています。大会は大成功を収めて,エホバに賛美が帰せられ,反対者たちはそれを分裂させることができませんでした。

      1918年1月5日の年次法人集会は,反対者にとって支配権を奪うもう一つの機会となることをJ・F・ラザフォードは知っていました。また,一般の聖書研究者がそうした動きに好意を寄せていないことも当然に確信していました。しかし,問題を扱えるのは,ものみの塔聖書冊子協会という法人団体の会員だけでしたから,一般の聖書研究者は選挙にさいして意志を表明する機会がありませんでした。それでラザフォードにはどんな手段がありましたか。エホバの献身したしもべすべてに意志を表明する機会を与えることです。こうして,1917年11月1日号の「ものみの塔」誌は,各会衆が一般投票をすることを提案しました。12月15日までに,813の会衆が票を送り,その結果,1万1,421票中1万869票がJ・F・ラザフォードを協会の会長として支持していました。そのうえ,その一般投票によって,1917年7月に再任命された理事会の忠実な成員すべてが,理事であることを主張する反逆者たちよりはるかに支持を受けていることも明らかになりました。

      1918年1月5日の年次株主集会で,最高の得票数を得た7人は,J・F・ラザフォード,C・H・アンダーソン,W・E・バン・アンバーグ,A・H・マクミラン,W・E・スピル,J・A・ボーネットおよびジョージ・H・フィッシャーでした。反対者はひとりも理事会に入ることに成功しませんでした。次いで正式に選ばれた理事たちにより協会の役員の選挙が行なわれ,J・F・ラザフォードが会長に,チャールズ・H・アンダーソンが副会長に,W・E・バン・アンバーグが会計秘書にそれぞれ満場一致の票を得ました。したがって,それら3人は協会の役員として正式に選ばれ,主導権を得ようとする反対者の企ては完全に失敗したのです。

      忠実な者たちと反対者たちの間にもはや和解の余地はありませんでした。反対者のグループは,「七人委員会」の下に全く別の組織を作りました。1918年3月26日までには完全な分裂が生じました。その日,彼らは神の民の忠実な会衆とは別にキリストの死の記念式を祝ったのです。しかし,反対派を作った者たちの一致は長く続かず,1918年の夏に開かれた彼らの大会で不和が生じ,分裂が起こりました。P・S・L・ジョンソンは別の組織を作って,ペンシルバニア州のフィラデルフィアに本部を設けました。彼はそこで「現真理およびキリスト顕現の告知者」を出版し,死ぬまで,「地上最大の大祭司」と称していました。1918年以降あつれきがさらにこうじて分裂を引き起こし,結局,ものみの塔協会から離れた当初の反対者のグループは多くの分裂した宗派に分かれました。

      C・T・ラッセルの死に続く数年間に真理を離れた多くの人々は,かつてのクリスチャンの仲間に対して積極的に反対しませんでした。中には,自分の行ないを後悔して戻り,再び神の民と交わる人もありました。それが厳しい試練の時であったことは,メーベル・P・M・フィルブリックの次のことばからもわかります。「天的な賞を受ける立場にあった父と,心から慕っていた継母が落ちて行くのを知った時,ほんとうに悲しく思いました。心の置き所が定まるまで,多くの努力を払いましたし,どれほど涙を流したかわかりません。栄冠を失った者はどこか他で命が得られるという見込みのないことを十分知っていたからです。ふたりが第二の死に入ることを考えるのは耐えられないように思えました。けれども,エホバのご意志がなされることをわたしが心から願うようになったある日,祈っていると,エホバはわたしに大きな慰めを与えてくださいました。突然,わたしは,エホバの愛と公正は自分のそれよりはるかに優れていることがわかるようになりました。また,エホバがふたりを命に値すると見られないなら,他人の両親となんら異ならないのですから,わたしもふたりに執着できないということもわかるようになりました。その時以後,わたしは思いの平安を得たのです」。

      エホバの忠実なしもべから当時離れた人々は,幾つもの宗派に分裂したばかりか,大方は信者の数が減少し,活動も取るに足りないものになるか,全く行なわれなくなりました。確かに,彼らは,イエスがご自分の追随者にお与えになった,全地で良いたよりを宣べ伝え弟子を作るという任務を遂行していません。―マタイ 24:14; 28:19,20。

      1917年と1918年の危機的な年に,どれほどの人が真のキリスト教を捨てたのでしょうか。不完全ながら,全世界でまとめられた報告によれば,1917年4月5日に行なわれたイエス・キリストの死の記念式に2万1,274人が出席しました。(1918年には,組織内外の困難な事情のため,出席者数は集計されなかった。)また,1919年4月13日の記念式には1万7,961人が出席したことが,不完全な報告により伝えられています。正確ではないにしても,それらの数字は,4,000人よりずっと少ない数の人々が,神に仕えるかつての仲間と歩みを共にするのをやめたことをはっきりと示しています。

      厳しい試練を受けたクリスチャンたち

      1917年から1919年にかけて,聖書研究者は,特にキリスト教世界の僧職者によって醸成された国際的な陰謀の対象ともなりました。「聖書研究」の第七巻,「終了した秘義」は牧師の怒りを引き起こしたのです。創刊から7か月以内に,その配布数は空前のものとなり,協会が依頼した外部の印刷業者は休むことなく85万部を印刷しました。1917年の末までには,同書のスウェーデン語版とフランス語版が発行され,他の言語の翻訳も進められていました。

      1917年12月30日から,4ページ,タブロイド版の「聖書研究者月刊」の新しい号1,000万部が大々的に配布されるようになりました。「バビロンの倒壊」と題し,「古代バビロンはひな型 ― 秘義のバビロンは対型 ― なぜキリスト教国は今苦しまねばならないか ― 最後の結果」などの副題のついたこの冊子は,「第七巻」の抜粋を載せ,僧職者たちを非常に辛らつに扱っていました。最後のページにはくずれている最中の石垣の写実的な漫画が描かれていて,石にはそれぞれ,「新教」,「永遠の責め苦の教理」,「三位一体の教理」,「使徒継承」,「煉獄」などと書かれていました。その冊子は,聖書を根拠にして,僧職者の大多数が「不忠実,不忠節また不義な人々」であり,当時荒れ狂っていた戦争やその後の大きな苦悩に対し,地上の他のどんな級の人々にもまして責任があることを示しました。また,その12月30日には,冊子配布運動の一還として,広く宣伝された同じ主題の公開講演が行なわれました。

      そのような冊子配布をしてみたいとは思われませんか。C・B・ヴェットは,「あの特別な日は決して忘れないでしょう」と言って,こう続けました。「その日はとりわけ寒い日でした。しかし,配っていた音信はまちがいなく熱いものでした。……わたしはそれを1,000部持って,アパートの戸の下に入れたり,時には,会う人に直接配布しました。わたしは,それが強烈な音信で,爆発的なお返しを受ける結果になることを知っていましたから,戸の下に配布するほうを好んだことは否定できません」。

      1917年の末から1918年の初めにかけて,「終了した秘義」の配布数は次第に増えてゆきました。怒った僧職者たちは,その本のある箇所が扇動的な性質のものであると偽って非難しました。彼らはものみの塔協会を「とっちめる」ことにやっきとなり,イエスが地上におられた時のユダヤ教の宗教指導者のように,自分たちに代わって国にそれをしてもらおうとしました。(マタイ 27章1,2,20節と比較してください。)カトリックとプロテスタントの僧職者は共に,聖書研究者がドイツ政府に使われていると偽って主張したのです,たとえば,シカゴ大学神学部のケイス博士は,国際聖書研究者協会のわざに関して,次のような声明を発表しました。「教理を広めるために1週間に2,000㌦使われている。資金の出所は知られていない。しかし,それがドイツ筋から出ている疑いは大いにある。政府が資金面を調査することは有益であるとわたしは信じる」。

      1918年4月15日付の「ものみの塔」誌は,「この声明は,他の名目上の牧師による同様の告発と相まって,陸軍情報担当官が協会の会計の帳簿を差し押えたことと明らかに関係していました」,と述べ,さらにこう続けました。「協会がドイツ政府の益のために働いているという告発を裏付ける何らかの証拠が見つかるだろう,と当局が考えたことに疑問の余地はありません。いうまでもなく,帳簿はその種の事がらを何も示しません。協会が使用する資金のすべては,イエス・キリストとその王国の福音を宣べ伝えることに関心のある人々によって寄付されており,他の何でもありません」。協会の帳簿が差し押えられたことは新聞によって全国的に伝えられ,その結果嫌疑は強まりました。

      1918年2月12日は,カナダの神の民にとって注目すべき日でした。その日,ものみの塔協会はカナダ全土で禁止されたのです。一般新聞の至急報はこう伝えました。「国務長官は,出版の検閲規定に基づき,カナダにおいて何冊かの出版物の所有を禁ずるよう指令した。その出版物の中には,国際聖書研究者協会により発行された『聖書研究 ― 終了した秘義』があり,これはその著者パスター・ラッセルの死後に出版された本として一般に知られている。またニューヨーク,ブルックリンにあるこの研究会の事務所で発行した同協会の『聖書研究者月刊』もカナダで頒布することは禁じられている。禁止されている本を持っているものは,5,000㌦以下の罰金,あるいは5年間の懲役刑に処せられる」。

      なぜ禁止されたのでしょうか。マニトバ州ウィニペグの「トリビューン」紙はその点にふれて,次のように述べました。「禁止された出版物には,扇動的で非戦論的な箇所があると主張されている。『聖書研究者月刊』の最近号のひとつには,2,3週間前,聖ステパノ教会の牧師チャールズ・G・パターソンが説教壇から公然と非難した箇所がある。後程,法務長官はパターソンのところに人をやって,『聖書研究者月刊』の1部を求めさせた。検閲に関する命令が出されたのは,これによる直接の結果と考えられている」。

      僧職者にそそのかされて生じたカナダの禁令後間もなく,陰謀は国際的性質のものであることが明らかになりました。1918年2月,ニューヨーク市の米陸軍情報局はものみの塔協会本部を調査し始めました。協会が敵国のドイツと連絡をしているという偽りの情報が飛んでいたばかりか,ブルックリンの協会本部がドイツ軍と通信する本拠になっているという報告が,偽りにもアメリカ合衆国の政府になされたのです。やがて,一般新聞は,政府当局者がベテル・ホームで使うばかりに設置してある無線装置を押収したと報道しました。しかし,真相はどうでしたか。

      1915年にC・T・ラッセルは小さな無線受信機をもらい受けました。ラッセル個人はそれにあまり関心がありませんでしたが,ベテル・ホームの屋根に小さなアンテナを立て,数人の若い兄弟に受信機の操作方法を学ぶ機会を与えました。しかし,受信はあまり成功しませんでした。アメリカが参戦しようとしていた時,無線設備すべてを取りはずすようにという命令が出されました。そこでアンテナは取りはずされ,柱はのこぎりで切られて別の用途に使われました。また,受信機のほうは大事に包まれて協会の絵画室にしまわれました。そして,陸軍情報局員ふたりが,ベテル家族の成員からそれについて話を聞くまでの2年以上もの間,その受信機は全然使われていませんでした。局員は屋根に案内されて,受信機が以前設置されていた箇所を見せられました。それから,ふたりはしまい込まれていた受信機そのものも見ました。ベテルではそれが必要ではなかったので,彼らは承諾を得てそれを持って行きました。装置は受信機だけにすぎず,送信機ではありませんでした。ベテルには送信装置がありませんでしたから,どこかに通信を送るということは不可能なことでした。

      エホバの民に対する反対と圧迫は強まるばかりでした。1918年2月24日,J・F・ラザフォードは,カリフォルニア州ロサンゼルスで3,500人の聴衆を前に公開講演を行ないました。翌朝,ロサンゼルスの「トリビューン」紙は,一面全部を使って講演の報告を掲げました。それは土地の僧職者の怒りを買い,聖職者協会は月曜日の朝に集まりを開きました。彼らは会長を新聞社の編集部へ送り,講演の記事を新聞に大きく取り上げた理由の説明を求めたのです。その週の木曜日,陸軍情報局は,聖書研究者のロサンゼルス本部を占有して協会の出版物の多くを没収しました。

      1918年3月4日,月曜日,ペンシルバニア州スクレントンで,クレイトン・J・ウッドワース(「終了した秘義」の共同編集者のひとり)と他の兄弟数名が逮捕されました。彼らは陰謀という偽りの告訴を受け,5月に裁判が行なわれるまで拘禁されました。さらに,協会に対する外部からの圧力は急速に強まり,20名以上の聖書研究者は,兵役が免除されず陸軍の営舎と軍の刑務所に勾留されました。そして,そのうち数名は軍法会議にかけられ,長期刑を言い渡されました。1918年3月14日,アメリカ合衆国司法省は,「終了した秘義」の配布をスパイ法の違犯であるとしました。

      神の民による反撃,それは必要なことでした。僧職者が,聖書研究者のクリスチャン活動に対する反対をそそのかしていることは暴露されねばなりませんでした。こうして,1918年3月15日に,ものみの塔協会は新聞と同じ大きさの2ページの冊子,「王国ニュース」第1号を発行しました。それには,「宗教的な偏狭 ― ラッセル師の追随者は,人々に真理を告げるゆえに迫害される ― 聖書研究者に対する処置は『暗黒時代』を思わせる」という大胆な見出しが掲げられました。その冊子は,何百万部も配布され,ドイツ,カナダおよびアメリカの聖書研究者が僧職者によってそそのかされた迫害を受けていることを確かに暴露しました。

      興味深いことに同冊子は次のように述べています。「合衆国政府は,政治的,経済的機構であるゆえに,その基本的法律のもとに宣戦を布告し,市民を兵役に服させる力と権威を有することをわたしたちは認めます。わたしたちは,いかなる方法にせよ,徴兵や戦争に干渉する意向を持っておりません。わたしたちの仲間数名が法の保護を受けようとしたことが,迫害の手段として使われています」。

      「王国ニュース」第2号は1918年4月15日に出されました。その冊子は,「『終了した秘義』はなぜ抑圧されるか」という衝撃的な見出しを掲げていました。そして,「牧師たちはこれに関係している」という副見出しのもとに,僧職者たちが政府に働きかけて協会を苦しめ,逮捕させ,『終了した秘義』に反対させ,かつ聖書研究者たちにその本のあるページ(247-253)を切り取らせるように圧力をかけた,ということを示しています。また,その冊子は,牧師がエホバのしもべに反対する理由を説明し,さらに,真の教会についての彼らの考えと戦争に対する立場を明らかにしています。

      「王国ニュース」のこの号の配布と関連して,嘆願書が回されました。合衆国大統領ウィルソンにあてられた同書にはこう書かれていました。「我々,下に署名したアメリカ人は,自主的な『聖書研究』に対する僧職者たちの妨害を偏狭,かつ反アメリカ的,反クリスチャン的なものと考える。さらに,教会と国家を結合させる試みはいかなるものも根本的にまちがっていると思うものである。自由と宗教的自由のために,『終了した秘義』の抑圧に対して厳粛に抗議すると共に,人々が妨害なしにこの聖書研究の手引きを買い,売り,所有しかつ読むことができるように,政府がその使用に関し一切の制限を取り除くことを懇願する次第である」。

      「王国ニュース」が初めて出されてからちょうど6週間後の1918年5月1日に,「王国ニュース」第3号が発行されました。それには,「激しい二大戦争 ― 独裁政治の滅びは必至」という見出しと,「サタン的策略は失敗の運命をたどる」という副見出しが付いていました。その号は,約束の胤対サタンの胤ということを扱っており,反キリストの発展過程をその誕生からカトリックおよびプロテスタント僧職者の現在の行為に至るまでたどっていました。(創世 3:15)そして,大胆にも,悪魔がそうした手先を使って,イエス・キリストの油そそがれた追随者の地上に残っている人々を滅ぼそうとしていることを示しました。

      当時発行された「王国ニュース」を配布するには勇気が求められました。ある聖書研究者たちは逮捕されました。「王国ニュース」が一時的に没収されたことも時にあります。厳しい反対と迫害に遭ってはいましたが,エホバのしもべたちは神への忠実を守り,クリスチャンのわざを行ない続けました。

      残虐行為が行なわれる

      僧職者と一般信徒による反対が強まるにつれ,エホバのしもべに対して残虐行為が行なわれました。後日ものみの塔協会が発行した一出版物は,聖書研究者が経験した信じがたいような迫害のいくつかを報告しており,その一部は次のとおりです。

      「1918年4月12日,オレゴン州メッドフォードにおいて,E・P・タリアフェロは暴徒に襲われ,福音を宣べ伝えたかどで町から追放され,ジョージ・R・メイナードは裸にされてペンキをぬられ,町から追い出された。自宅で聖書研究をすることを許したためである。……

      「1918年4月17日,オクラホマ州ショーニーにおいて,G・N・フェン,ジョージ・M・ブラウン,L・S・ロジャーズ,W・F・グラース,E・T・グライアおよびJ・T・タルが投獄された。審理の際中,検事は次のように言った,『お前たちの聖書を持って地獄へ行ってしまえ。お前たちが打ちのめされて地獄へ行くのは当然だ。お前たちを絞首刑にしなければならない』。オクラホマ・シティーのG・F・ウィルソンが弁護士の役を買って出たところ,彼も逮捕された。各人55㌦の罰金と法廷の費用を支払うことを言い渡されたが罪状はプロテスタントの文書を配布したというものであった。審理を行なった判事は判決の後で暴徒をそそのかしたが,暴徒は裏をかかれた。

      「1918年4月22日,テキサス州キングスビルで,L・L・デイビスとダニエル・トーレは,市長と郡判事の率いる暴徒に追跡されてつかまり,令状もなく逮捕された。デイビスは職場で解雇された。1918年5月,オクラホマ州テクムセーにおいて,J・J・メイは捕えられ,脅されたり,ののしりを受けた後,判事の命令で13か月間精神病院に監禁された。彼の家族は,彼の身に起きたことについて知らせを受けなかった。……

      「1918年3月17日,コロラド州グランド・ジャンクションにおいて,聖書研究の集会が,市長と第一線の新聞記者および著名な実業家からなる暴徒によって解散させられた。……

      「1918年4月22日,オクラホマ州ウインウッドにおいて,グラウド・ワトソンは最初,投獄されてのち,伝道師,実業家その他からなる暴徒の手に故意に渡された。彼らはワトソンを打ちのめし,黒人に彼をむち打たせた。そして,なかば意識をとりもどすと再びむち打った。それから,体中にタールと羽毛を浴びせ髪の毛と頭皮にタールをすりこんだ。1918年4月29日,アーカンソー州ウォルナット・リッジで61歳のW・B・ダンカン,エドワード・フレンチ,チャールズ・フランク,グリフィンと名のる人物,D・バン・ホーセン夫人が投獄された。暴徒が刑務所に押し入り,最も口ぎたなく彼らをののしったうえ,むち打ち,タールと羽毛をあびせて町から追い出した。ダンカンは26マイル(約42㌔)歩いて家に帰らなければならなかったが,かろうじて回復した。グリフィンはめくらも同然になり,受けた暴行がもとで数か月後に死んだ」。

      その時から長年経た後でさえ,T・H・シベンリストは,オクラホマ州シャタックにおいて自分の父親に起きたことをよく覚えており,次のように書いています。

      「1917年の9月に,わたしは学校に入学しました。3月ごろまでは万事が順調に進んでいたのですが,その頃になって,全校生徒に赤十字のバッジを買うことが求められました。わたしはその知らせを昼に家へ持って行きました。父は仕事に出ており,母はその時ドイツ語しか読めませんでした。しかし,『クラス』を訪問中の巡礼者のハウレット兄弟がその問題を扱ってくださり,バッジは買いませんでした。

      「役人が仕事中の父を連行して,『終了した秘義』の上に立たせ,それもシャタックの目抜き通りのまん中で,国旗に敬礼させようとしたのは,それからまもなくのことでした。父は刑務所に入れられました。……

      「それからほどなくして父は再び連行され,さらに3日間勾留されました。その時には食物をほとんど与えられませんでした。そして釈放された時の事情は全く異なっていました。真夜中ごろ3人の男が刑務所『破り』を装って押し入り,父の頭に袋をかぶせて,はだしのまま父を町の西のはずれまで連れて行きました。そこはごつごつした土地で,ぶたくさの一種がいっぱい生えていました。彼らはそこで父を上半身裸にして,先に針金のついた荷馬車用のむちで打ちました。それから熱いタールと羽毛をかけて放置し,死ぬにまかせようとしたのです。父はなんとか起きあがって町の周りをはって歩き,南東に向かいました。それから北に方向を取って家に帰ろうとしました。しかし,父の友人が見つけて,父を家に連れて来てくれました。わたしはその晩は父を見ませんでした。しかし,家では生まれたばかりの赤ん坊がいましたから,特に,母は大きな衝撃を受けました。祖母のシベンリストは父を見て気絶しました。弟のジョンはこうしたことが起きるわずか2,3日前に生まれたばかりでした。しかし,母はすべての重圧に耐えて気をしっかりと持ち,エホバの保護の力を決して見失いませんでした。……

      「祖母と,父の異母姉妹であるカティエおばさんが,命を取り留めるよう父を介抱し始めました。タールと羽毛が肉に食い込んでいたので,傷を直すためにがちょう脂を使い,タールはだんだん出て来ました。……父は襲撃者の顔を見ませんでしたが,声でだれであるかわかっていました。父はそのことを決して彼らに言いませんでした。実際,その事件について父に話させようとするのは難しいことでした。しかし父の傷跡は死ぬまで消えなかったのです」。

      「へびのように用心深く」

      「終了した秘義」と他のクリスチャンの出版物が禁止されたため,エホバのしもべたちは困難な事態に陥りました。しかし,彼らには神から与えられたなすべきわざがあり,彼らはそれを行ない続けて,自分たちが「へびのように用心深く,しかもはとのように純真なこと」を証明しました。(マタイ 10:16)それで,聖書研究の手引きは,しばしば,屋根裏とか石炭置場,床の下や家具の中などに隠されました。

      C・W・ミラー兄弟はこう語っています。「当時わたしの家は土地の聖書研究者の拠点となっていましたので,兄弟たちは真夜中にトラックで文書を運んできました。わたしたちはにわとり小屋に本のカートンを隠し,ロード・アイランド・レッド種のにわとりと木の葉でごまかしました」。

      その頃のでき事を思い出して,D・D・ルーシュはこう書いています。「リード家では,家の裏手の外に本を隠しました。警官がやって来て隠し場所に近づいた時,リード家の人たちは息を凝らしました。ちょうどその時,雪の大きなかたまりが屋根から落ちて,隠し場所をすっかり覆ってしまいました」。

      「律法をもて害ふことをはかる」

      幾世紀も昔,詩篇作者は,『律法をもて害ふことをはかる悪の位はなんぢに親しむことを得んや』と問いました。(詩 94:20)エホバのしもべは,神の律法に抵触しない諸国家の法律すべてに常に従っています。しかし,考えればわかることですが,単なる人間の命令と神の律法が相反する場合には,クリスチャンは使徒たちと同様の態度を取り,「人間より神に従」います。(使徒 5:29)時としてクリスチャンのわざをやめさせようとの意図のもとに法律が誤用されることがあります。また,敵が神の民を害する条令を通過させるのに成功する場合もあります。

      1917年6月15日,選択的徴兵条令が合衆国議会を通過しました。それは,人的資源を強制徴集するものでしたが,宗教上の理由で戦争に参加できない人々に対する例外も設けていました。どのような道を選ぶべきかをラザフォード判事に問い合わせる全国の若者からの多数の手紙がものみの塔協会に寄せられました。そのことについて,ラザフォード判事は後日次のように語りました。「アメリカの多くの若者から,このことに関してどんな道を取るべきかを尋ねられました。問い合わせてきた若者に与えたわたしの助言は,どの場合にも次のような趣旨のものでした。すなわち,『もしあなたが良心上参戦できないなら,選択的徴兵条令第3条により,徴兵免除を申請することができます。理由を明記した徴兵免除申請書を作成して提出すれば,徴兵局はその申請を認めるでしょう』。わたしは,議会の条令の適用を受けるように勧めたにすぎません。わたしは,首尾一貫して,国の法律が神の律法に相反しない限り,市民すべては法律に従うべきであると主張しました」。

      第一次世界大戦中,エホバのしもべに対する明らかな陰謀が明るみに出ました。それを推し進めるために,多数の僧職者がペンシルバニア州フィラデルフィアで1917年に会議を開きました。彼らは,その時,首都ワシントンにおもむいて,選択的徴兵条令とスパイ法の改正を求めるための委員会を任命したのです。同委員会は司法省を訪れました。僧職者たちの要請で,スパイ法の修正案を作成して合衆国上院に提出するよう,司法省の役人,ジョン・ロード・オブライアンが選ばれました。その修正案は,スパイ法の違犯行為はすべて軍事法廷で裁判を受け,有罪者には死刑が課されるというものでしたが,その法案は可決されませんでした。

      スパイ法の改正を議会が手がけていた時に「フランス修正案」として知られる条項が提議されました。それは,「良い動機から,正当と認め得る目的のために真実のことを」語る人々を同法の規定から除外するものでした。

      ところが,1918年5月4日,上院議長は,司法長官から1通の覚え書きを受け取りました。「議会報告」(1918年5月4日,6052,6053ページ)に載せられたその覚え書きは,一部次のように述べています。

      「軍事情報局の見解は,その第3条第1項が,『良い動機から,正当と認め得る目的のために真実のことを』語る者に適用されないとする,スパイ法の修正に真向から反対するものである。

      「経験が示すとおり,そのような修正は,法律の価値を無効にすることはなはだしく,また,いずれの裁判をも,真実なこととは何かとの解決不能な難問をめぐる非実際的な論争と化せしめるであろう。人間の動機は,論じるにはあまりにも複雑であり,『正当と認め得る』ということばは非常に融通性があって実際に適用することは難しい。……

      「この種の宣伝の最も危険な例のひとつは,きわめて宗教的なことばで書かれ,大量に配布されている,『終了した秘義』と題する文書である。その趣旨は,兵士たちをして我々の大目的に不信を抱かせ,徴兵に反対してもよいという気持ちを持たせることにほかならない。

      「ブルックリン発行の王国ニュースには,『終了した秘義』および他の同様の文書に対する制限を取り除き,『人々が妨害なしにこの聖書研究の手引きを買い,売り,所有しかつ読むことができるように』すべきであるとの要求を記した嘆願書が印刷されている。修正案が通過すれば,我が方にこうした有害な影響が再びもたらされることになろう。

      「国際聖書研究者協会は,純粋に宗教的な動機を装っているが,その本部はドイツ当局の手先となっていることが以前から報告されている。……

      「修正案が通過すれば,アメリカの威信は大いに弱まり,敵国を有利にするだけである。戦争において重要なのは動機でなくて結果である。したがって,法とその執行者は,動機については判事のあわれみ,ないし歴史家の判断にまかせ,望ましい結果を得るように努めることと,危険な結果を防止することとに心がけるべきである」。

      司法省のこうした努力の結果,修正されたスパイ法は「フランス修正案」なしに1918年5月16日,承認されました。

      「我々はおまえたちをどのようにやっつけるかわかっておる。それをしてやるぞ!」

      その頃,聖書研究者と交わっていた数人の若者が兵役に召集され,良心上の理由でそれを拒否したために,ニューヨーク州ロング・アイランドのアプトン隊に送られました。その部隊を指揮していたジェイムズ・フランクリン・ベル大将は,J・F・ラザフォードをその事務所に訪ね,国の内外を問わずどこでもベルから割り当てられた仕事をするよう,それらの若者に教えることをラザフォードに勧めました。ラザフォードはそれを断りました。しかし,陸軍大将はしつこく迫ったため,ついに彼は次のような要旨の手紙を書きました。「あなたがた各人は,積極的に兵役につくかどうかを自分自身で決定しなければなりません。自分の義務であると信じ,全能の神の目に正しいと見なすことを行ないなさい」。ベルはこの手紙に満足しませんでした。

      2,3日後,J・F・ラザフォードとW・E・バン・アンバーグはアプトン隊にベル大将を訪れました。ベルは,幕僚やバン・アンバーグを前にして,ラザフォードに僧職者たちのフィラデルフィア会議について話しました。そして,問題を上院へ提出するためにジョン・ロード・オブライアンが選ばれ,スパイ法に対する違犯はすべて軍事法廷で裁かれて死刑が課されるという法案が上程されたということを語りました。ラザフォードによればベル陸軍大将は「少なからざる憤りを示し」ました。彼はさらにこう伝えています。「彼の前の机の上には書類の包みが置いてありました。彼はそれを人差し指でたたきながら,わたしに向かってすごみを効かせてこう言いました。『その法案は通過しなかった。ウィルソンが拒否したからだ。しかし,我々はおまえたちをどのようにやっつけるかわかっておる。それをしてやるぞ!』。それに対して,わたしは,『陸軍大将,わたしは逃げ隠れなどいたしません』と答えました」。

      「ふたりの証人」に対する致命的な打撃

      1914年10月の初旬が過ぎると,キリストの油そそがれた追随者は,異邦人の時が終わって,諸国民はハルマゲドンにおける滅びに近づきつつあることを宣布しました。(ルカ 21:24。啓示 16:14-16)それら象徴的な「ふたりの証人」は,1,260日,すなわち3年半の間(1914年10月4-5日から1918年3月26-27日),諸国民に対するその陰うつな音信を宣明したのです。それから,悪魔の野獣的な政治体制は神の「ふたりの証人」に対して戦いを挑み,ついには,「粗布を着て」預言をすることによって責め苦を与えるわざに関する限り,彼らを殺し,宗教上,政治上,軍事上および司法上の敵たちに大きな慰めをもたらしました。(啓示 11:3-7; 13:1)これは預言されていたことですが,その預言は成就しました。しかし,どのようにしてですか。

      1918年5月7日,ニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所は,ものみの塔協会の主要なしもべたち数名に対して逮捕状を出しました。そのしもべたちとは,J・F・ラザフォード会長,W・E・バン・アンバーグ会計秘書,クレイトン・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャー(このふたりは「終了した秘義」の共同編集者だった),F・H・ロビンソン(「ものみの塔」誌の編集委員のひとり),A・H・マクミラン,R・J・マーチンおよびジヨバンニ・デチェッカでした。

      翌日の1918年5月8日,ブルックリン・ベテルにいたそれらの人々は逮捕され,結局全員が勾留されました。その後間もなく,彼らはガービン判事により連邦裁判所で審問され,大陪審員によってすでに答申されていた起訴状をつきつけられたのです。すなわち次のように告発されました。

      「(1,3)戦時中のアメリカにおいて,アメリカ合衆国の陸海軍の兵役に対して,不法かつ故意に,反抗,不忠実,拒否の態度をおこさしめた。個人的な懇請,手紙,公開講演により,また,『聖書研究,第七巻,終了した秘義』と呼ばれる本をアメリカ合衆国中に配布し,公に流布することにより,さらにアメリカ合衆国中に『聖書研究者月刊』,『ものみの塔』,『王国ニュース』と呼ばれるパンフレットに印刷された記事,あるいはその他のパンフレットを配布し,公に流布することによりこれを行なった」。

      「(2,4)アメリカ合衆国の戦争時に,アメリカ合衆国の徴兵応召事業を,不法かつ故意に妨害した」。

      起訴状は主として「終了した秘義」のひとつの節に基づいていました。そこにはこう書かれています。「新約聖書のどこにおいても,愛国主義(偏狭にも他の民族を憎むこと)は勧められていません。あらゆる箇所で常にいかなる形式の殺人も禁じられています。しかしながら,地上の諸政府は愛国主義を口実にして,平和を愛する人々に自分自身や愛する人々を犠牲にしたり,仲間の人間を殺すことを求め,それを天の律法により命じられた義務であるとして称揚します」。

      ラザフォード兄弟,バン・アンバーグ兄弟,マクミラン兄弟,およびマーチン兄弟は,チューリッヒにある協会のスイス支部の監督に500㌦(約15万円)送金したことに基づき,敵国と取引きをしたかどで再度起訴されました。罪を問われた各の兄弟は,それぞれの起訴状につき2,500㌦ずつの保釈金で勾留されました。兄弟たちは保釈出所し,1918年5月15日に出廷しました。審理は1918年6月3日にニューヨーク州東部地方のアメリカ合衆国地方裁判所で行なわれ,兄弟たちはふたつの起訴状に対して「無罪」を訴え,すべての告訴に対して全く無実であると考えていました。

      予備審問であらわに示された感情のために,被告人たちは,ガービン判事が自分たちに偏見を持っていると感じる理由を示した宣誓供述書を提出しました。やがて,裁判を主宰する人として,アメリカ合衆国の地方判事,ハーランド・B・ハウが連れて来られました。A・H・マクミランによれば,被告人たちはハウの考え方を知りませんでしたが,政府側は,彼が「特に同法に関する訴追に好意的であり,同法違反を問われた被告人に対して反感をもっている」ことを知っていました。マクミランは次のようにも語りました。「しかし,わたしたちは長い間それを知らずにいたわけではありませんでした。裁判に先立ち,判事事務室で開かれた最初の弁護士会議から,ハウ判事は敵意をはっきりと表わし,『わたしはこれら被告人たちにできるだけ刑を与えるつもりだ』ということを示しました。しかし,その時はすでにわたしたちの弁護士が判事側の偏見に対する供述書を提出するのに遅すぎました。

      マクミランによれば,最初に答申された起訴状では被告人は,アメリカが宣戦を布告した1917年4月6日から1918年5月6日の間のどこかの時点で陰謀を企てたことになっていました。命令申請の段になって政府は,告発された罪が犯されたのは1917年6月15日から1918年5月6日の間であると明確に述べました。

      法廷での模様

      アメリカ合衆国は戦争中でしたから,扇動のかどで告発された聖書研究者の裁判は非常に注目を集めました。一般の人々の感情はどうであったかといえば,戦争努力の推進に対して好意的でした。法廷の外では,兵隊たちがバンドを鳴らしてブルックリンのバラ・ホール近くを行進したりしていました。法廷内では審理も15日を経て,おびただしい証言が山と積まれました。法廷内に入って審理の模様を見てみましょう。

      被告のひとりであった,A・H・マクミランは,その場のふん囲気を知る手がかりとして,後日次のように書きました。「裁判の時政府は,もしある人が町角に立って,人々を軍隊にはいらせないことを目的として主の祈りをくりかえし唱えるならば,その者は刑務所へ入れられる,と言いました。このことからもわかるように,政府は,まったく勝手な解釈をしました。彼らは人が何を考えているかわかると思いました。ですからわたしたちが,徴兵に影響することに荷担したことは一度もなく,兵役を拒否するようすすめたことも一度もないことをいくら証言しても,彼らは自分たちの尺度で物事をおしはかり,わたしたちに反対しました。証言はなんの効果もありませんでした。キリスト教世界の一部の宗教指導者とその政治上の同盟者たちは,どうあってもわたしたちに罪を着せることを決意していたのです。検察当局は,ハウ判事の同意を得て,有罪を証明しようとし,わたしたちの動機が尋常でないこと,そしてわたしたちの行動からその目的を推測すべきことをがん強に主張しました。わたしは,ある小切手 ― それが何の目的のための小切手かは彼らにはわからなかった ― に連署し,またラザフォード兄弟が理事会で読んだステートメントに署名したというだけの理由で有罪とされたのです。それでさえ,はたしてわたしの著名であったかどうか彼らは証明することができませんでした。この不正はあとで控訴する助けになりました」。

      ある時,協会のかつての役員が呼ばれました。提示されたふたつの署名を見た彼は,ひとつはW・E・バン・アンバーグの署名であると言いました。記録の写しにはこう記されています。

      「問. わたしはあなたに確認のための参照物件31号をお渡ししますから,マクミランとバン・アンバーグのふたつの署名もしくは署名と称されるものを見ていただきたい。そして,まず,バン・アンバーグについてお尋ねしますが,あなたの意見では,それは彼の署名を謄写版で印刷したものですか。答. そう思います。そうであることを認めます。

      「問. マクミラン氏のものについてはどうですか。答. マクミラン氏のものであるとはっきり認められるわけではありませんが,わたしはそうだと思います。

      被告側の答弁について,マクミラン兄弟は後日次のように書きました。

      「政府の申し立てが終了した後,わたしたちの答弁になりました。要するに,わたしたちが示したのは次のことでした。協会が純粋に宗教的な組織であること,成員は,チャールズ・T・ラッセルによって解説された聖書を信仰の原理として受け入れていること。C・T・ラッセルは生涯中に『聖書研究』の6巻を執筆出版し,早くも1896年には,エゼキエル書と啓示を扱った第七巻の出版を約束していたこと。ラッセルは臨終の際だれか他の人が第七巻を書くであろうと述べたこと。彼の死後まもなく,協会の管理委員会は,C・J・ウッドワースとジョージ・H・フィッシャーに原稿を書いてそれを検討のために提出する権限を与えたが,出版することは何も約束しなかったこと。啓示を扱った原稿はアメリカ合衆国が戦争に入る前に書き終えられており,全部の原稿(神殿に関する章を除く)は,スパイ法の制定以前に印刷業者の手に渡されていたこと。したがって,起訴されているような陰謀を行なって同法に違犯することはあり得なかったこと。

      「わたしたちは次のことを証言しました。すなわち,いついかなる時にも,団結し,お互いに同意し,陰謀を企てて,徴兵に何らかの影響を及ぼす事がらや戦争遂行に当たる政府に干渉する事がらなど行なわなかったこと。いかなる形であれ,戦争に干渉する意図はないこと。わたしたちのわざは純粋に宗教的であり,政治的なものでは全くないこと。徴兵を拒否するよう会員に懇請したことはなく,だれかに助言もしくは励ましを与えることも一度もなかったこと。手紙類は,法律的に言って当然に相談できる既知の献身したクリスチャンである人々にあてられていたこと。わたしたちは国が戦争することに反対するのではなく,献身したクリスチャンとして,人命を奪う戦いに参加できないこと」。

      しかし,その審理中に話されたり行なわれたりしたことすべてが公に隠しだてなくされたわけではありません。後にマクミランはこう報告しました。「審理を傍聴していたわたしたちの仲間のある人が,後日わたしに話してくれたのですが,政府側の代理人のひとりは廊下に出て,協会内で反対を引き起こしたことのある者たち数人と低い声で話をしました。彼らはこう言ったのです。『あいつ(マクミラン)を逃さないでくれ。一味のうちで一番悪いのだ。他の者たちといっしょに捕えなければ,あいつが仕事を続けさせるだろう』」。その時,野心的な者たちがものみの塔協会を支配しようとしていたことを思い出してください。後ほどラザフォードがベテルの責任を委ねた兄弟たちにこう警告したのも当然でした。「以前,協会とその仕事に反対した7人の者が裁判に出席し,わたしたちの告発者を援助したということを知らされました。それで愛するみなさん,彼らの中のある者が協会をのっとろうとしてあなたがたのきげんをとるというような巧妙な手口を弄してもそれにのらないように注意してください」。

      長い裁判の末,ついに,待たれた判決の下される日が来ました。1918年6月20日午後5時,訴訟は陪審員へ回されました。J・F・ラザフォードは後に次のように回顧しています。「陪審員は評決を下すのに長い間手間取りました。後から陪審員のひとりがわたしたちに話してくれたのですが,結局,ハウ判事が,有罪と評決するよう指図しました。4時間半ほど審議した後,午後9時40分に陪審員は評決をもって戻り,「有罪」と言い渡しました。

      刑の宣告は6月21日に行なわれました。法廷は満員でした。被告人たちは,何か言うことがないか聞かれた時,答えませんでした。続いて,ハウ判事による刑の宣告が行なわれ,彼は腹立たしげにこう言いました。「これらの者たちが携わっている宗教的宣伝活動はドイツ兵の一個師団よりも有害である。彼らは政府の法務官に異議を唱えたばかりか,あらゆる教会の牧師すべてを公然と非難した。その刑は厳しいものでなければならない」。

      確かにそのとおりになりました。被告人中7人は80年の懲役を言い渡されたのです。(それぞれ4つの異なる訴因で20年づつの判決を受けた。)ジヨバンニ・デチェッカの刑の宣告は遅れましたが,最終時に,40年,すなわち同じ4つの訴因でそれぞれ10年の刑を言い渡されました。彼らは,ジョージア州アトランタの連邦刑務所で服役することになりました。

      裁判は15日間続きました。おびただしい量の証言が記録され,訴訟手続きはしばしば不公正でした。事実,その裁判には125を上回る誤りが含まれていたことが後に明らかにされたのです。上告裁判所が全部の訴訟手続きを公正でないと最終的に宣告するには,そうした不正の2,3を挙げるだけで十分でした。

      その時傍聴席にいたジェイムズ・グウィン・ジーは,「わたしは行って兄弟たちがこの不公正で筋の通らない裁判に服させられていた間中ずっと兄弟たちと共に苦しみました」と述べ,さらにこう続けています。「今だに忘れられないのは,裁判官がラザフォード兄弟に弁論の機会を与えようとしなかったことです。『この法廷で聖書は通用しません』と裁判官は言いました。その夜,わたしはM・A・ハウレット兄弟とベテルに留まりましたが,10時ごろ,兄弟たちが有罪となったという知らせを受けました。刑が宣告されたのは翌日でした」。

      不正な有罪判決を受け,厳しい刑を言い渡されたにもかかわらず,ラザフォード兄弟とその仲間は恐れませんでした。興味深いことに,1918年6月22日のニューヨーク・トリビューン紙は次のように報じました。「ジョセフ・F・ラザフォードと『ラッセル派』の他の6人は,スパイ法違反で昨日ハウ裁判官により有罪と宣告され,アトランタの刑務所で20年間の服役を言い渡された。『これはわたしの生涯で,もっとも幸福な日です。自分の宗教上の信念のために,地上で罰を受けることは,人間の最大の特権のひとつです』,とラザフォード氏は法廷から刑務所へ向かう途中語った。有罪の宣告を受けた者たちが大陪審室につれて行かれてからすぐ,ブルックリンの連邦裁判所の事務所では,今までにない非常に珍しいデモンストレーションが彼らの家族や親しい友人たちによって行なわれた。全員が古い建物を『結ばれるきずなに幸いあれ』という歌で鳴り響かせたのである。彼らは,ほとんど輝かしいといった顔つきで,『これはすべて神のご意志だ。いつか世界は,このすべての意味を悟るようになるであろう。さしあたり,わたしたちは試練の時にわたしたちを支えてくださった神の恵みに感謝し,来たらんとする「大いなる日」を待ち望もうではないか』と語り合っていた」。

      兄弟たちは上告している間に,二度にわたり保釈されるよう努力しましたが,最初はハウ判事により,二度目にはマーチン・T・マントン判事により差し止められました。そうしている間に,兄弟たちは,まず,ブルックリンのレイモンド・ストリート刑務所に入れられました。A・H・マクミランによれば,そこは,「今まで入った中で一番汚い穴倉」でした。クレイトン・J・ウッドワースはそこを「ホテル・ド・レイモンディ」とおどけて呼びました。その不快な刑務所で一週間過ごした後に,ロング・アイランド・シティー刑務所でもう一週間過ごしました。そして,ついに,アメリカ合衆国の独立記念日に当たる7月4日,不正にも有罪とされたそれらの人々は,ジョージア州アトランタ刑務所へ汽車で送られたのです。

  • 第2部 ― アメリカ合衆国
    1976 エホバの証人の年鑑
    • 第2部 ― アメリカ合衆国

      敵は大いに喜ぶ

      それらエホバのクリスチャン証人たちの投獄は,象徴的に言って致命的な打撃でしたから,敵にとっては大きな喜びと安どを与えるものとなりました。啓示 11章10節に出ている次のことばが成就したのです。「また,地に住む者たちは彼らのことで喜びまた楽しみ,互いに贈り物を交すであろう。これらふたりの預言者は地に住む者たちを責め苦に遭わせたからである」。「ふたりの証人」に対する,宗教上,司法上,軍事上および政治上の敵たちは,自分たちを責め苦に遭わせた者たちに勝利を収めるうえでそれぞれ貢献したことを互いに祝い,そのようにして互いに『贈り物を交し』ました。

      レイ・H・アブラムズは,自著「説教者が武器を捧げる」の中で,J・F・ラザフォードとその仲間たちの裁判を考察し,次のように述べています。

      「事件全体を分析すると,教会と聖職者たちが最初から,ラッセル派を消し去ろうとする動きの背後にいたという結論に達する。……

      「20年の刑が宣告されたというニュースが宗教新聞の編集者に届くと,大小を問わずそうした刊行物の文字どおりすべてが,そのことを喜んだ。正統派の宗教雑誌のどれひとつを取っても,その中に同情のことばひとつ見いだせなかった。アプトン・シンクレアはこう結論している。『彼らが「正統派」宗教諸団体の憎しみをかったことが一部理由となって,迫害が……起こったということに疑問の余地はない』。諸教会の結束した努力が失敗したこと,― それら『バアルの預言者たち』を永遠に打ち砕くことを,今度は政府が彼らに代わって成し遂げることに成功したようである」。

      『バビロンの捕われ』にもかかわらず楽観的

      西暦前607年から537年にかけて,古代バビロンに捕われの身となっていたユダヤ人は不活発になっていました。同様に,エホバの献身した崇拝者でその聖霊を注がれた人々は,第一次世界大戦の行なわれた1914年から1918年の期間中,バビロンの捕われの状態に陥り流刑に処されました。協会本部の8人の忠実な兄弟が,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に監禁された時に,捕われの状態の深刻さは特に感じられました。

      しかし,こうした困難な期間全体を通して,「ものみの塔」誌は一号も欠けることなく印刷されました。任命された編集委員会は同誌を発行し続けたのです。さらに,当時難しい事態に直面したにもかかわらず,忠実な聖書研究者が示した態度は模範的でした。T・J・サリバン兄弟は次のように語りました。「わたしは,兄弟たちが監禁されていた1918年の夏の終わりごろにブルックリン・ベテルを訪問する特権にあずかりました。ベテルの仕事を託されていた兄弟たちは,少しも恐れておらず,気落ちしてもいませんでした。事実その反対に,兄弟たちは楽観的で,エホバは最終的にはご自分の民に勝利をもたらされることを確信していました。わたしは月曜日の朝食の席に着き,割当てを受けて週末に派遣された兄弟たちからの報告を聞く特権を得ました。状況がはっきりとつかみ取れました。どの報告でも,兄弟たちは,エホバが自分たちの活動を進める指示を与えてくださるのを待ち,確信を抱いていました」。

      興味深いことですが,ラザフォード兄弟とその仲間の裁判が終わってからのある朝,R・H・バーバーは,ペンシルバニア駅に来てほしいとの電話をラザフォード兄弟から受け取りました。兄弟たちは,そこでアトランタへの直通列車を数時間待っていたのです。バーバー兄弟ほか数人の兄弟たちは駅へ急行しました。本部の兄弟たちが警官にあまりにも悩まされるようであれば,ベテルとブルックリン・タバナクルを売り,ものみの塔協会はペンシルバニアの法人なので,フィラデルフィアかハリスバーグもしくはピッツバーグに移るように,とラザフォード兄弟は言いました。ベテルの価格として6万㌦(約1,800万円),タバナクルの価格として2万5,000㌦(約750万円)が提案されました。

      事情は結局どうなりましたか。その時協会をまかされていた人々は,実際,多くの問題に直面しました。そのひとつは,紙と石炭の不足でした。愛国主義が高まり,多くの人々は誤りにもエホバのクリスチャン証人たちを国賊と見なしました。ブルックリンでは,協会に対する敵意がはなはだしく,そこで運営を続けることは不可能に見えました。それで,本部の責任に当たっていた管理委員会は他の兄弟たちと相談した結果,ブルックリン・タバナクルを売却してベテル・ホームを閉鎖するのが最善であるという決定が下されました。R・H・バーバーの記憶によれば,タバナクルは結局1万6,000㌦で売却されました。その後,ベテルを政府へ売り渡すための必要な手続きがすべて行なわれ,現金の譲渡だけが残るのみとなりました。ところが,邪魔が入りました。休戦です。売却は完了されませんでした。

      しかし,1918年8月26日,協会の本部はニューヨークのブルックリンからペンシルバニア州ピッツバーグに移転し始めました。「当時を振り返ってみると,聖書研究者たちは兄弟たちの投獄にぼう然としてはいましたが,決して証言することをやめませんでした。少しばかり用心深くなっていたようでしたが」と,ヘイゼル・エリクソンは語っています。H・M・S・ディクソン姉妹は回想して,「仲間の人たちの信仰は弱まることなく,集会は定期的に開かれました」と述べました。エホバのクリスチャン証人たちは,神への信仰を表わし続けました。確かに,彼らは,困難な状況と迫害の厳しい試練に遭いました。しかし,神の聖霊はその上にあったのです。忍耐できさえすれば,「神」は,必ずや,彼らを迫害者の手から救い,『バビロンの捕われ』の状態から救出されます。

      刑務所での数か月

      1918年の半ばまでに,J・F・ラザフォードと7人の仲間は,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に入っていました。A・H・マクミランの,1918年8月30日付の手紙は,刑務所の壁の向こう側の様子を知る手がかりとなります。メルビン・P・サージャントから入手した手紙の写しによれば,一部次のように書かれています。

      「刑務所にいるわたしたちの様子についてお聞きになりたいに違いありません。ここの生活について,二,三手短にお知らせしましょう。ウッドワース兄弟とわたしは『監房仲間』です。わたしたちの監房は非常に清潔で,通風も採光も良好です。大きさは,3×1.8×2.1㍍で,わらのふとんがわと二枚のシーツ,毛布,まくらの備わった二つの寝台,いす二脚,ひとつのテーブル,それに清潔なタオルと石けんが十分に備わっています。また,洗面用具をしまっておくキャビネットも付いています。……

      「兄弟たちは皆いっしょに被服室で働きます。その部屋は,間口と奥行きが18×12㍍で,風通しもよく,明るいところです。ウッドワース兄弟とわたしは,シャツと囚人服にボタンホールを作ってボタンを付けます。バン・アンバーグ,ロビンソン,フィッシャー,マーチンそしてラザフォード兄弟たちは,囚人用の上着とズボンを作る,むしろはぎ合わせることをします。この部門では全部で100名ぐらいが作業しています。わたしが働いている場所から全部の兄弟が見えます。バン・アンバーグ兄弟が,ミシンでズボンの右と左を縫い合わせているのを見るのは本当に興味深いことです。……ラザフォード兄弟は,上着の組立て方を覚えるのをほとんどあきらめました。兄弟は三週間ぐらい作業していますが,一着も仕上げていないと思います。見ていると,兄弟は忙しそうですが,実のところ,針に糸を通そうと努力してそれに時間の大半をかけているのだと思います。(ひとりの監守が兄弟を非常に理不尽に扱ったので,他の囚人たちがその上着を取って仕上げました。とうとう,ラザフォード兄弟は,彼がもっと『気楽に』感じられる所,つまり図書室に移されました。)……

      「夕食が済んで監房に戻ると,わたしたちはまず夕刊を読みます。それから1時間のあいだ,つまり6時から7時までは望むなら手元にある楽器をかなでてもよいことになっています。まったくいろいろなものが聞こえます。彼らはユダヤ琴以外なら既製の楽器はなんでもやれるようです。それでわたしも個人用にユダヤ琴をひとつ入手したいと思っています。なぜなら,十弦のハープ以外でわたしが演奏できるのはそれだけだからです。ウッドワース兄弟が『ダンテの地獄編』と呼んでいるこの演奏の間,わたしたちはドミノで遊びます。その後,黎明か聖書を消灯時間の10時まで読んで寝ます。翌日も同じことを行ない,土曜までそれのくり返しです。土曜日の午後,囚人全員は運動場に出ます。野球があるのです。良いゲームが行なわれるので,みんな強い関心を持っています。わたしはその午後は普通テニスをします。他の兄弟たちは話をしながらあたりをぶらつきます。異なる階層の人々が少人数ずつ集まっています。無政府主義者,社会主義者,にせ金造り,酒類密輸入者,ドイツびいきの人,銀行の出納係,弁護士,薬剤師,医師,列車強盗,夜盗,牧師(その数はかなり多い)などその他さまざま。刑務所の楽団は午後に抜粋曲をいくつか演奏します」。

      投獄された8人の聖書研究者には,他の囚人に神の王国の良いたよりを宣べ伝える機会がありました。囚人全員は,日曜日の朝に付属教会堂の礼拝に出席することが求められ,希望者はその後もとどまって日曜学校に出席できました。8人の兄弟たちは,聖書の研究と交わりのために一クラスを作りました。やがて他の囚人もそれに参加し,兄弟たちは交代でクラスを教えました。役人の中にも近寄って耳を傾ける人さえいました。関心は高まり,90名の人が出席するまでになりました。

      神の真理の。人を変化させる力は,数名の囚人に強い影響を与えました。一例として,ひとりの人は次のように語りました。「わたしは72歳ですが,真理を聞くために刑務所に入らなければなりませんでした。ですから,刑務所に送られたことを喜んでいます。57年間わたしは牧師に質問してきましたが,満足のゆく答えを得たことがありませんでした。わたしが尋ねる質問すべてに,この人たち(投獄されていた聖書研究者)は得心のいくよう答えてくださいました」。

      その頃スペイン風邪が猛威を振るい,そのために日曜学校のクラスは閉鎖されました。しかし,8人の聖書研究者がアトランタ刑務所から釈放される直前に,彼らが教えた人々全員はいっしょに集まり,J・F・ラザフォードはそれら集まった人々に45分ほどの話をしました。数名の役人も出席し,囚人の多くは,王国の支配の下で人類にもたらされる自由の望みに喜びの涙を流しました。聖書研究者が釈放された後には,忠実な人々の小さな群れが刑務所に残っていました。

      確信の表明

      休戦協定は1918年11月11日に調印され,第一次世界大戦は終結しました。にもかかわらず,8人の聖書研究者は依然投獄されたままで,その間に,仲間の信者たちは,1919年1月2日から5日にかけて,ペンシルバニア州のピッツバーグで大会を開きました。この大会では,ものみの塔聖書冊子協会の非常に重要な年次総会が1919年1月4日,土曜日に組み込まれていました。

      J・F・ラザフォードは,この法人集会で,組織内の反対者たちが彼と協会の他の役員を退けて自分たちの選んだ人々をその立場に就けようとすることを知っていました。その当日の,1月4日,土曜日,A・H・マクミランは獄舎の外のコートでテニスをしていました。ラザフォードは彼に近づいて来て,マクミランによれば,次のような会話が交わされました。

      「ラザフォードは言いました。『マック,君に話したいことがあります』。

      「『どんなことですか』。

      「『ピッツバーグで行なわれていることについて話したいのです』。

      「『わたしはここでこの試合にけりをつけたいと思っています』。

      「『君は,行なわれていることに関心がないのですか。きょうは役員の選挙の日なんですよ。君は無視されて落選し,わたしたち全員は永久にここにいることになるかもしれない』。

      「わたしは言いました。『ラザフォード兄弟,おそらく,あなたはこのようなことをお考えになったことがないかもしれませんね。つまり,協会が法人化されて以来,エホバ神がだれを会長として望まれるかが明白にされるのは今回が初めてです』。

      「『それはどういう意味ですか』。

      「『つまり,ラッセル兄弟は支配的な投票権を持っていて,いろいろな役員を任命しました。今や,引退したかに見えるわたしたちにとって,事情は違います。しかし,もしわたしたちがなんとか間に合うように出所して,大会のその議事集会に出席すれば,そこでわたしたちは当選し,ラッセル兄弟が受けたと同様の栄誉を受け,彼の立場に就くことが認められるでしょう。そうすればこれは神の業ではなく人間の業に見えるかも知れません』。

      「ラザフォードはただ考え深げな様子をして,立ち去りました」。

      その日はピッツバーグにおける重大な日でした。「議事集会の時間が来ると,緊張が高まりました。反対者のある者たちが出席しているのが見えました。彼らは自分たちの仲間を役員にしようとしていたのです」,とメアリー・ハナンは回顧しています。

      ラザフォード兄弟からの手紙が聴衆に読まれました。その中で,彼は全員に愛とあいさつを送り,サタンの主要な武器である誇りと野心と恐れに警戒するよう注意しました。彼は,謙そんにも,協会の他の役員が選ばれるようになった場合に適当と考えられる人々を提案し,神のご意志に従いたいという願いを表わしました。

      話し合いがかなり長引いた後,E・D・セクストンがきたんなく次のように述べました。

      「わたしは到着したばかりです。汽車は,雪で立ち往生して48時間遅れました。わたしには申し上げたいことがありますが,今それをお話しするほうが気持ちがすっきりすると思います。親愛なる兄弟たち,みなさんもそうであるように,わたしは賛否に対するある考えを持ってここに来ております。法律関係の仕事につかれる友人の皆さんにあらゆるふさわしい敬意を表しつつ,わたしたちは他の数人の法律家にこれまで相談して来ました。彼らは非常に学者的で,時には,意見が異なります。しかし,わたしの申し上げることは,彼らの語ったことと完全に一致するものと信じます。法律上障害となるものは何もありません。もし,わたしたちが,南部にいる兄弟たちを再選し,彼らが保持できる役職につけたいと願うのであれば,わたしから見て,またわたしが受けた助言からしても,それが何らかの形もしくは形式で,連邦裁判所もしくは一般の人々の前で兄弟たちの立場をある点で悪くするとは考えられません。

      「わたしたちの敬愛するラザフォード兄弟に対して。わたしたちが表し得る最大の挨拶は,同兄弟を再びものみの塔聖書冊子協会の会長として選出することでありましょう。わたしたちがこの問題に対してどのような立場を取っているかということに関して,一般の人々の間に何らの疑問もないと思います。かりにわたしたちの兄弟たちが,理解していなかった法律を何か専門的な面で破ったとしても,その動機は純粋なものであったということをわたしたちは知っています。その上,全能の神のみ前では兄弟たちは,神の律法も,人間の法律も破ってはいないのであります。もし,わたしたちがラザフォード兄弟を協会の会長として再び選出するなら,わたしたちは最大の確信を表わすことができます。

      「わたしは法律家ではありませんが,こと事態の合法性という話になれば,忠節の法律ということは少し知っているつもりです。忠節は神が要求していることです。わたしたちが選挙をしてラザフォード兄弟を再選すること以上に,わたしたちの確信をよりよく表わすことができるものはないと思います」。

      指名投票が行なわれ,J・F・ラザフォードが会長に,C・A・ワイズが副会長に,W・E・バン・アンバーグが会計秘書に選ばれました。アンナ・K・ガードナーは,「エホバがご自分の民を導いておられるのを目の当たりにして,その集会の後には大きな満足がありました」と回顧しています。

      場面はアトランタ刑務所に変わります。1919年1月5日,日曜日,J・F・ラザフォードはマクミランの監房の壁をたたいて,「手を出してくれませんか」と言い,マクミランに一通の電報を渡します。その内容ですか。ラザフォードが会長に再選されたのです。その日の後刻,ラザフォード兄弟はA・H・マクミランにこう語りました。「わたしはあなたに話したいことがあります。わたしはあなたがきのう言ったことを考えているのです。あなたは,われわれがラッセル兄弟の占めていた地位に置かれること,また,もしわれわれがピッツバーグにいたならば選挙に影響を与えていたこと,主が望む人物を示される機会がなかったことについて話しましたね。兄弟,もしわたしがここを出ることがあれば,神の恵みによって,この人間崇拝を徹底的にたたきつぶしてやります。そればかりでなく,真理の剣を取って,バビロンの内臓を切り出してやります。彼らはわたしたちをここへ入れたけれども,わたしたちは必ず出ます」。ラザフォードはそのことばをたがえませんでした。出所後1942年の初頭に没するまで,彼は邪悪な偽りの宗教を暴露することによってその約束を果たしました。

      釈放をとりつける努力

      1919年2月,J・F・ラザフォードと監禁された彼の仲間たちを釈放しようとする全国的な運動がいくつかの新聞社を通して始められました。聖書研究者たちは何千通にもおよぶ手紙を書いて,新聞の編集者,下院議員,上院議員そして知事に送り,投獄されている8人のクリスチャンのために手を打つようにとしきりに訴えました。そうした手紙を受け取った人の多くは,釈放することに賛成し,それについて尽力する旨を明らかにしました。

      たとえば,下院議員である,ヴァージニア州のE・W・サウンダースは次のような手紙を寄せました。「現在アトランタで監禁されている聖書研究者の事件に関した貴殿の手紙を受け取りました。それらの人々の恩赦に賛成し,その趣旨の推薦に喜んで参与することを申し上げます。彼らは,何か専門的な意味で法律違反を犯したかもしれませんが,普通の意味の犯罪者ではありません。しかし,戦争は今や終わり,わたしたちは,できるだけ速くそれをわたしたちから遠ざけるように努めるべきです」。また,ミズーリ州セント・ルイスの市長ヘンリー・W・キールは,合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンあてに書簡を送り,こう述べました。「すでに請願がなされていますが,わたくし個人としても請願させていただきたく思います。すなわち,国際聖書研究者協会のラザフォード氏とその仲間に,上級裁判所での最終判決を待つ間保釈を許していただき,できれば,それらの件に関して恩赦を与えていただきたく願い上げます」。

      1919年3月には,ラザフォード兄弟と仲間たちの釈放を得るための新たな努力が払われました。全国的な嘆願状が回され,短い期間に70万の署名を得ることができました。それは当時最大の署名運動でしたが,ウィルソン大統領もしくは政府に提出されませんでした。そうするまでもなく,8人の聖書研究者は釈放されたからです。しかし,その署名運動は著しい証言となりました。

      その署名運動に関連したわざについて,アーサー・L・クラウス姉妹は次のように語っています。「わたしたちがありとあらゆる経験をしたことは言うまでもありません。ある人々は喜んで署名してくださり,わたしたちは証言することができましたが,敵対的な人もいて,『やつらはそこにいて,腐ってしまえばいい』と言うのでした。普通,それは,屈辱的なわざでしたが,わたしたちは,エホバの霊がわたしたちを導いているのを感じました。それで,そのわざを心から楽しみ,最後まで行ない続けたのです」。

      刑務所からの釈放

      1919年3月2日に,裁判官だったハーランド・B・ハウ連邦地方判事は,首都ワシントンの検事総長グレゴリーに,獄中の聖書研究者8人の刑を「ただちに軽くする」ようにという電報を送りました。グレゴリーはそれよりも先,ハウがこの手を打つようにと勧める電報を打っていたのです。そのようにことを運んだ理由は明らかに,兄弟たちが上訴しており,検事総長もハウも上級裁判所に事件が持ち込まれることを望まなかったからです。(ハウ判事および後ではマントン判事が保釈を拒んだために,8人の兄弟たちは上訴中,投獄されたままでした。)ハウ判事が検事総長にあてた,1919年3月3日付の興味深い書簡を次に掲げます。

      「検事総長閣下,

      「ワシントン,D.C.

      「拝啓,

      「本月1日付で閣下から送られた電報の返信として,同日夕刻,次のような電報をお送りしました。

      「『ジョセフ・ラザフォード,ウィリアム・E・バン・アンバーグ,ロバート・J・マーチン,フレド・H・ロビンソン,ジョージ・H・フィッシャー,クレイトン・J・ウッドワース,ジヨバンニ・デチェッカ,A・ヒュー・マクミランの刑をただちに軽くするよう勧めます。これら全員は,ニューヨーク東部地域における同一訴訟事件の被告でした。戦争が終わった以上,わたしは寛大な立場を取らねばなりません。この者たちは,その宗教教理を伝道し,出版することにより,多大の被害を与えました』。

      「デチェッカを除く被告には,20年という厳しい刑が宣告されました。デチェッカの場合は10年でした。わたしの主要な目的は,他の人々への警告として判例を残すことでした。そのうえ,戦争が終われば大統領は彼らを釈放するだろうとわたしは考えました。電報でもお伝えしましたとおり,彼らは多大の被害をもたらしましたから,すぐに自由にすべきではないと主張されるのも当然ですが,今や彼らはいっそう害を及ぼすことはできませんから,刑を宣告した時の厳しさに匹敵する寛大さを示したいと存じます。また,彼ら全員といわないまでも,その大半は誠実であり,彼らが問題を起こす機会がなくなった以上,そうした人々を監禁しておくことは好みません。この事件は,巡回上告裁判所にはまだ上訴されておりません。

      「敬具,

      (署名で)ハーランド・B・ハウ

      合衆国地方判事」。

      1919年3月21日,アメリカ合衆国の最高裁判所の裁判官,ルイス・D・ブランデースは,獄中の8人の兄弟たちの保釈を命じ,同年4月14日に上訴する権利を与えるよう指示しました。兄弟たちはただちに釈放され,3月25日,火曜日に汽車でアトランタ刑務所をたちました。1919年3月26日ブルックリンに戻ると,兄弟たちは各1万㌦の保釈金で連邦当局により次の裁判まで釈放されることになりました。

      喜びの帰宅

      「8人の釈放の知らせを受けた兄弟たちはたいへん喜び,彼らを迎えるために待機しました」,とルイス・パーシュは思い出しながら,さらにこう続けました。「兄弟たちは,さっそく,ブルックリンのベテル・ホームで大歓迎会の準備をしました。わたしは,父がブルックリンへ行って部屋を整えるのを手伝い,帰って来る兄弟たちを迎える喜びにあずかったのを覚えています」。

      それは確かに幸福な時でした。メーブル・ハスレットは次のように書いています。「わたしはドーナツを百個作ったのを覚えています。兄弟たちはそれを楽しんでくださったようでした。……ドーナツに手を伸ばすラザフォード兄弟の姿は今でも目に見えるようです。ラザフォード兄弟や他の兄弟たちが刑務所での経験を話された時の情景は忘れられません。背の低いデチェッカ兄弟が腰掛けの上に立ち,皆に見えるようにして話をしたことも思い出されます」。ギュスト・バッタイノはこんなふうに話してくれました。「チキンのごちそうが用意されました。あまりにも大勢だったので,わたしたちは立って食べなければなりませんでした。それから,兄弟たちの経験を聞いたのですが,全く胸のおどる思いでした。……デチェッカ兄弟はその話の中で,『兄弟たち,問題が大きければ大きいほど祝福も大きいものです』と言いました。確かに,わたしは,エホバが豊かな祝福をご自分の民に注がれるのを見ることができました」。

      1919年4月1日には,ピッツバーグのキャサム・ホテルで,釈放された兄弟たちのためのもうひとつの宴が,ものみの塔事務所一同によって開かれました。T・J・サリバンの話によれば,「1919年3月25日,火曜日に兄弟たちがアトランタ連邦刑務所から釈放されたことに対する,エホバの民の喜びはとどまる所を知りませんでした。……兄弟たちがエホバへの専念をいっそう強めたことは,彼らが,1919年のシーダー・ポイント大会を通して,エホバの救出に関する知識を各地のエホバの民にふれ告げるための仕事にただちに着手した事実によって示されました」。

      無実が完全に立証される

      8人の聖書研究者の上訴審は,1919年4月14日に行なわれることになっていました。その日にニューヨークの連邦第二巡回上告裁判所で審理が行なわれ,1919年5月14日に誤った判決はくつがえされました。その時審理に当たったのは,ワード,ロジャース,マントン各裁判官でした。再審理のために事件を下級裁判所に差し戻すにあたり,ワード裁判官は次の意見を述べました。「この事件の被告たちは当然受くべき適当かつ公平な裁判を受けなかった。よって判決はくつがえされた」。

      マーティン・T・マントン裁判官の意見はそれとは異なっていました。1918年7月1日に,このカトリック教徒である裁判官は,何の理由もなく,ラザフォードとその仲間の保釈を拒絶していたのです。そのために彼らは,上訴申請中,9か月も不当に刑務所にいることを余儀なくされました。ついでながら,後ほど,法王ピオ11世は,マントン裁判官を「聖グレゴリー1世の勲爵士」にしました。しかし遂に,マントンが公正でなかったということが明るみに出されました。1939年6月3日,彼は,6つの判決に対して18万6,000㌦のわいろを受け取って,破廉恥にも自身の高い連邦裁判官の権限を誤用したかどで2年間の投獄に加えて1万㌦の罰金という最も重い刑罰を課せられました。

      1919年5月14日に,8人の聖書研究者に対する誤った判決がくつがえされたということは,政府が再び起訴しないかぎり,兄弟たちが自由の身であることを意味しました。ところが,戦争は終わっていましたし,有罪と決定することは事実上不可能であることを当局者たちは知っていました。したがって,1920年5月5日に開かれた公判で,政府側の検事は訴追を取下げると宣言し,訴訟は原告の訴訟中止の同意により却下されました。こうして,それら8人のクリスチャン全員は,非合法的な裁判からすっかり解放されたのです。

      その判決がくつがえされ,訴訟が却下されたということは,J・F・ラザフォードと7人の仲間が完全に無罪となったという意味でした。ある人々はラザフォード判事のことを「前科者」と言ったことがありますが,それは全く根拠のないことです。1919年5月14日の判決は,彼とその仲間が不法にも有罪とされ,投獄されたことをはっきり確証しました。ラザフォード兄弟が前科者とみなされていなかったということは,後になって彼がアメリカ合衆国の最高裁判所で弁護士を務めた事実によって明らかに証明されています。前科者にはそれはできません。ラザフォードは,不法な投獄を経験してから20年後,1939年の秋に最高裁判所の9人の裁判官の前でシュナイダー対ニュージャージー州の弁論を行ないました。同法廷は,ラザフォードの弁護依頼人でありエホバのクリスチャン証人でもあったクララ・シュナイダーに8対1で無罪の判決を下しました。

      1918年と1919年の,頂点とも言うべき期間に,エホバの民は非常な苦難に遭いましたが,神の援助によって忍耐しました。(ローマ 5:3-5)サタンは様々な手段を用いましたが,神を賛美する人々の口を封じることはできませんでした。聖書研究者の1919年の年句はまさに適切であったと言わねばなりません。その聖句は次のとおりです。「すべてなんぢを攻んとてつくられしうつはものは利あることなし……これエホバの僕等のうくる産業なり」― イザヤ 54:17。

      新たな見込み

      1917年から1919年にわたる苦しい期間が過ぎると,エホバの民は厳しい自己吟味をしました。自分たちが神に是認されない行動を取ったことに気づいた彼らは,以前の行ないを悔い改め,祈りのうちに許しを請い求めたのです。その結果,エホバの許しと祝福がもたらされました。―箴 28:13。

      妥協したひとつの点は,「終了した秘義」から数ページを切り取ったことでした。それは,検閲官の立場にある人々を喜ばせるために行なわれました。もうひとつの妥協は,1918年6月1日の「ものみの塔」誌に見られました。それにはこう書かれていたのです。「4月2日付の国会の決議に従い,また,5月11日付のアメリカ合衆国大統領の布告に基づいて,全国の主の民が5月30日を祈りおよび請願の日とするのはいかがでしょうか」。そのあとには,アメリカ合衆国を称揚し,クリスチャンが取るべき中立の立場に反することばが続いていました。―ヨハネ 15:19。ヤコブ 4:4。

      第一次世界大戦中,聖書研究者の間に,兵役に対して取るべき立場に関して問題が生じました。ある人々は,いかなる形においても参与することを拒みましたが,非戦闘的な軍務に就いた人々もありました。それに関連して,戦時公債や切手を買うかどうかの問題も起きました。買わなければ迫害を受けたり残酷な仕打ちを受けることさえ時にあったのです。今日のエホバのしもべが国の計画や活動を考慮する際には,イザヤ書 2章2-4節(口)で明示されているような聖書の原則に一致して行動します。その聖句は次のようなことばで結ばれています。「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて,すきとし,そのやりを打ちかえて,かまとし,国は国にむかって,つるぎをあげず,彼らはもはや戦いのことを学ばない」。

      新たな見込み。それこそ,1920年代に入ったエホバの民が持っていたものです。彼らは数年にわたって苦しい経験をしましたが,キリストの油そそがれた追随者たち,すなわち象徴的な「ふたりの証人」は霊的に生き返り,活動の用意を整えていたのです。そうした状態を促したものは何でしたか。また,ラザフォード兄弟と7人の仲間が刑務所から釈放された直後の数か月間にどんな事が起きたのでしょうか。

      成功した試み

      出所したラザフォードの頭の中にはひとつの大きな疑問がありました。それは,王国の音信にどれほどの関心が持たれているかということでした。彼の体は弱っていました。そして,病身の人がおもに自分の健康を気づかうというのは当然考えられることでしょう。しかし,彼はただその重要な質問に対する答えを得なければならなかったのです。

      実のところ,アトランタ刑務所に監禁中,ラザフォード兄弟とバン・アンバーグ兄弟がいっしょに生活した監房は換気扇の故障のために通風の悪い所でした。十分な酸素が得られず,ふたりの体には毒でした。事実,ラザフォードは投獄中に肺をいため,その状態は終生つきまといました。釈放後まもなく彼は肺炎にかかり,病状が悪化したために生死も危ぶまれたほどでした。健康のためと,家族がそこにいたため,ラザフォードはカリフォルニアに行きました。

      王国の音信に実際どれほどの関心が持たれているかを知る試みとして,ラザフォード兄弟は,1919年5月4日,日曜日に,ロサンゼルスのクルネ講堂で公開集会を開くことを取り決めました。そして,広範な新聞広告を通じて,ものみの塔協会の役員が不法にも有罪を宣告された理由を説明すると約束しました。

      土地の牧師たちは,聖書研究者も協会も消滅してしまったから,宣伝された,「苦悩する人類のための希望」と題する講演にはだれも姿を見せないだろうと考えていました。しかし,彼らは間違っていました。三千五百人が出席し,六百人ほどの人々は席がなくて帰らなければならなかったのです。ラザフォードは月曜日の夜に話をすることをそれらの人に約束しました。一日中具合が悪かったにもかかわらず,彼は1,500名の聴衆に向かって講演しました。とはいえ,状態が非常に悪くなったために,1時間ほどしてから付添いの人に代わってもらわねばなりませんでした。それにしても,ロサンゼルスでの試みは成功しました。王国の音信に著しい関心が示されたからです。

      「ベテル・ホームは再建される」

      それはもうひとつの大きな問題でした。ブルックリン・タバナクルは売却されており,ベテルは依然協会に属していたものの,設備はないも同然の状態で,本部の運営はピッツバーグに移されたからです。フェデラル・ストリートの本部はわざを拡大するうえであまりにも手狭でしたが,ピッツバーグの兄弟たちには資金がありませんでした。印刷設備もなく,本の印刷に用いてきた鉛版さえもその多くは処分されてしまったので,見通しは本当に暗いものでした。

      しかし,J・F・ラザフォードがカリフォルニアにいる間に,ピッツバーグの協会本部で興味深いでき事がありました。ある日,相当な財産家のジョージ・バターフィールドというクリスチャンが事務所に入ってきました。A・H・マクミランがその人と談話室で会い,ラザフォード兄弟はカリフォルニアにいると告げたところ,次のような事が起きました。これはマクミラン自身の報告です。

      「『ふたりだけで話せる所がありますか』,と彼は言いました。

      「『そうですね,このドアを閉めれば,ふたりだけになれます。何のお話ですか,ジョージ』。

      「わたしが話していると彼はワイシャツを脱ぎ始めたので,気が狂ったのではないか,とわたしは思いました。ジョージは普段はきちんとして身づくろいの良い人でしたが,うすよごれて旅行に疲れた様子をしていました。彼は下着1枚になると,ナイフを貸して欲しいと言いました。それから,下着に縫い付けた小さな布を切り取ると,札束を取り出したのです。その札束は約1万㌦ありました。

      「彼はそれを置くとこう言いました。『ここの仕事を始めるのに,それがお役に立つでしょう。ここにだれがいらっしゃるのかわからなかったので,小切手で送りませんでした。わたしがこれを持っているとにらむ者がいて盗まれるといけないと思ったので,寝台車には乗らず,一晩中起きていました。だれが仕事の責任に当たっておられるのかわかりませんでしたが,信頼できる顔見知りの兄弟たちにお会いしましたから,ここに来てほんとうによかったと思います』……それは愉快な驚きであり,確かに励ましとなりました」。

      ラザフォード兄弟は協会のピッツバーグの事務所に戻ると,副会長であるC・A・ワイズに,ブルックリンへ行って,ベテルを再開できるかどうか,また協会が印刷を始められる場所を借りられるかどうか調べてくるように指示しました。その時次のような会話が交わされました。

      「ブルックリンに戻ることが主のご意志かどうか,行って見てきてほしいのです」。

      「戻ることが主のご意志かどうかをどのようにして決めますか」。

      「1918年には石炭を入手するのに失敗して,わたしたちはやむなくブルックリンからピッツバーグへ戻りました。石炭で試みてみましょう。行って石炭を注文してください」。(終戦当時のニューヨークでは石炭がまだ配給制でした。)

      「ためしに何㌧の石炭を注文しますか」。

      「そうだね,ひとつ大きな試みをしよう。500㌧注文してください」。

      ワイズ兄弟はそのとおりの事をしました。そして当局に申請したところ,500㌧の石炭を買う許可がおりたのです。ワイズ兄弟はすぐJ・F・ラザフォードに電報を打ちました。それによって,協会の使う何年分もの石炭が確保されました。しかし,石炭の置き場所が問題です。ベテル・ホームの地下室の大部分が石炭貯蔵庫に変えられました。その試みが成功したことは,ブルックリンへ戻るのが神のご意志であることの間違いのないしるしであると考えられ,1919年10月1日に移転が行なわれました。

      喜びの再会

      ベテルが再び開かれる少し前,一般のエホバの民は喜びの再会という確かに著しい事がらを経験しました。1919年5月にロサンゼルスで公開講演を行なって成功を収めるとすぐ,ラザフォード兄弟は大規模な大会を開くことを決めました。大会開催地として,オハイオ州のシーダー・ポイントが最終的に選ばれました。1919年9月1日から8日にかけて行なわれたその大会は,いつにもまして霊的に益のある大会となりました。

      シーダー・ポイントのホテルは約3,000人を宿泊させることができました。それで,聖書研究者は,大会開会日である9月1日,月曜日正午までにそれらの施設すべてを借切る取決めを設けていました。開会の話の時には1,000人しか集まっていなかったので,やや期待はずれでしたが,人々は特別列車や他の手段を使って続々と集まりました。やがて,宿舎の割当てを待つ意気盛んな出席者の列ができました。宿舎の割当てを渡すカウンターの向こうで働いているのはだれでしたか。それはほかでもない,かつてアトランタ刑務所の同じ監房で生活した。A・H・マクミランとR・J・マーチンのふたりだったのです。さて,向こうを見ると,ラザフォード兄弟ほか多くの兄弟たちがボーイの役を務め,スーツケースを運んだり大会出席者を部屋に案内することに大わらわでした。そのような活気は夜中過ぎまで続きました。

      喜びにあふれた代表者たちは続々と集まって来ました。出席者は第1日目の夜の約3,000人から金曜日の6,000人に増加し,日曜日の公開講演にはおよそ7,000人が出席しました。その喜ばしい大会で,200名を越す人々が水のバプテスマを受けて神への献身を象徴しました。

      「苦悩する人類のための希望」と題する公開講演について,アーデン・ペイトは,「その公開講演は屋外で,ラザフォード兄弟によって行なわれるように取り決められていました。……それぐらいの少ない人数ではさほど聞きにくいことはありませんでした」と書いています。

      なぞの文字,「GA」

      シーダー・ポイントに着くとすぐ,非常に好奇心をそそるものが大会出席者の目に入りました。ウルスラ・C・セレンコはその思い出をこう語ります。「わたしたちは,講演者の演台の上方に張りわたされた,『GA』というふたつの大文字のついた大きな旗を目にしました。わたしたち全員は,そのふたつの文字の意味を考えながら一週間のあいだずっと期待していました。マクミラン兄弟はステージに上がり,いつもの口調で,彼も一週間のあいだずっとその『GA』というふたつの文字の意味に頭をひねってきたと聴衆に語りました。そして彼はひとつの結論に達しました。『みなさん,それは結局「ゲス アゲン(もう一度推測しなさい)」という意味だと思います』。聴衆は笑って反応しました」。

      大会出席者たちが,つきまとう好奇心から解放されるには,「同労者の日」である9月5日の金曜日まで待たなければなりませんでした。あなたがJ・F・ラザフォードの「王国を宣伝する」と題する講演を聞いたあの幸福な聴衆のひとりであると想像してみてください。その話の中で,彼は「黄金時代」という新しい雑誌の出版を発表したのです。

      秘密は明かされました。「GA」という文字は「ゴールデン エージ(黄金時代)」を表わしていました。ラザフォード兄弟の次にプログラムを扱ったのはR・J・マーチンで,彼は「黄金時代」の予約を得るという新しいわざの方法のあらましを説明しました。その32ページの雑誌は一週間おきに発行され,時代のでき事を神の預言の光に当てて説明する宗教的な記事を豊富に掲載することになっていました。1919年10月1日付で発行された第1号は,労働と経済状態,製造業と鉱業,財政や商業および輸送,農業と耕作,科学と発明,そして宗教などを取り上げた記事が載せられており,「死者と話をする?」と題する聖書に基づいた記事も含まれていました。

      「黄金時代」の編集者は,ラザフォード兄弟と共に投獄された兄弟のひとり,クレイトン・J・ウッドワースでした。彼の息子,C・ジェイムズ・ウッドワースから興味深い次のような詳細を聞くことができました。「父はわたしたちのために(ペンシルバニア州の)スクラントンに家を建て直してくれました。そして,1919年に『黄金時代』が『ものみの塔』誌の姉妹雑誌として発行されるようになると,協会は父をその編集者に任命しました。時間の大半は実際にブルックリンで過ごさなければなりませんでしたから,協会は親切にも,父が2週間ずつ交代にブルックリンと家で仕事をするように取り決めました。そして,その取決めは何年間も続いたのです。わたしは父がしばしば朝の5時に忙しくタイプライターを打っていたのを覚えています。『黄金時代』の記事を書いて編集すると,父はそれを早朝の郵便でブルックリンへ送りました」。

      クレイトン・J・ウッドワースは,「黄金時代」およびその後の「慰め」(1937年10月6日から1946年7月31日まで)の編集者として忠実に奉仕しました。1946年8月22日付で新しく「目ざめよ!」が「慰め」に取って代わった時,彼は老齢のためにその仕事から解放されました。しかし,ウッドワース兄弟は,1951年12月18日に81歳で死ぬまで神の奉仕の他の務めを忠実に果たし続けました。

      「わたしたちは,わざを行なおうとしていました」

      A・H・マクミランの次のことばどおり,1919年のシーダー・ポイント大会は,宣べ伝えるわざがエホバの民によって世界的な規模で行なわれなければならない,ということをより強く認識させました。「それで,『今やわたしたちには行なうべきことがある』という考えが支配的になり始めました。わたしたちは,もはやその辺で立ち止まって天へ行くのを待つつもりはなく,わざを行なおうとしていました」。

      神の民は確かに「わざを行なおうとしていました」。真の崇拝を推進するための積極的な行動が取られたのです。たとえば,1919年には聖書文書頒布者のわざが再開されました。同年春に神の奉仕のこの分野で150名が活発に奉仕していましたが,秋には507名が携わりました。

      巡礼者の奉仕も再び行なわれるようになりました。協会の旅行する代表者として全時間奉仕する人々の数は86名に増加し,彼らは,戦時中の迫害で散らされていた人々を集めるために諸会衆へ派遣されました。さらに,神の地上の組織の本部とのこうした密接な交わりを得させることによって人々の関心を高めましたから,真の崇拝の関心事は再び前進して行きました。

      野外へ!

      1919年8月1日号と15日号の「ものみの塔」誌には,「恐れなき者は祝福される」と題する,二部に分かれた記事が掲載されました。その記事は神の奉仕における忠実で恐れない行動の必要を率直に示していました。エホバの民は恐れない行動へのそうした召しに熱意と勇気を持って答えました。今や自分たちの前に置かれた,王国を宣伝するわざに熱心に取り掛かったのです。霊的に生き返った彼らは,エホバの大使としてエホバへの活発な奉仕をするようになり,こうして,啓示 11章11,12節に描かれている神の「ふたりの証人」の復活の預言が成就しました。

      1920年には証言のわざに参加した人々が活動の報告を毎週出すようになったので,宣べ伝えることに対する個人的な責任がいっそう強く感じられました。1918年以前は聖書文書頒布者だけが報告していました。さらに,伝道活動を促進するため,諸会衆に特定の区域が割り当てられました。その結果はどうでしたか。1920年に8,052人の「クラスの同労者」と350人の聖書文書頒布者がいました。1922年までに,アメリカ合衆国の1,200を超える会衆のうち980の会衆は,野外奉仕に携わるための再組織が完全に行なわれていました。それらの会衆には8,801人の働き人が交わり,一般の人々に聖書文書をある金額の寄付で配布しました。そうした働き人は週平均2,250人いました。

      「黄金時代」のわざが始まったころ,そのあらましは次のようなものでした。「『黄金時代』のわざは王国の音信を携えて戸別に訪問する運動です。わたしたちは神の報復の日を宣べ伝え,嘆く者を慰めます。この運動のほかに,予約が得られても得られなくても,すべての家に『黄金時代』の1部を配布します。見本は無料で備えられます。……クラスの同労者は指揮者から見本の雑誌をもらいます」。参加を望む会衆は,奉仕組織としてものみの塔協会に登録しました。すると,協会はそれぞれの会衆のひとりを「主事」の務めに任命します。その人は,任命されていましたから,当時の長老のように各地で行なわれる毎年の選挙に拘束されてはいませんでした。

      わたしたちも黄金時代のわざにちょっと参加するのはどうでしょうか。エルバ・フィッシャーはそれについてこんな風に話してくれます。「1919年に新しい雑誌『黄金時代』の荷物を初めて受け取りました。……当時,わたしたちはだれも自動車を持っていませんでしたから,夫と実の兄弟のオーディー・ブラッドショウは,ひとり乗りの小さな荷馬車に雑誌を乗せて出かけ,馬と荷車の上から良いたよりを宣べ伝えました。わたしたちみんなは農業で暮らしていましたから,わたしの義理の姉妹は家にいて家畜類と子どもたちの世話をしてくれました。『黄金時代』を各家庭に1冊ずつ置いてくることになっていたので,男の人たちは雑誌の配布に丸二日費やしました。そのようにして宣べ伝えるわざに参加できたので,わたしたちみんなはとても幸福でした」。

      フレッド・アンダーソンは,「雑誌の予約を得るために自発奉仕者が募られました」と述べ,こう続けます。「わたしはそれに応じて,活発に証言を行なう真の喜びを初めて味わいました。それ以来わたしは多くの予約を得,現在『目ざめよ!』と呼ばれている雑誌を何百冊も配布してきました。それは,人々を危機的な時代に目ざめさせ,清められた地上での命と平和のすばらしい希望を与える強力な道具としてこれまで用いられてきました」。

      「ZG」活動

      1920年6月21日,「終了した秘義」の普及版が配布用に印刷されました。それは一般に「ZG」と呼ばれました。(「Z」は「ものみの塔」誌のもとの名称である「シオンのものみの塔」を表わし,「G」は「聖書研究」の第七巻に指定された,英語のアルファベットの第7番目の文字を表わしていました。)「ものみの塔」誌(1918年3月1日号)のこの特別版は同書が発禁になった時に保存されたもので,1冊20㌣で人々に配布できました。

      「ZG」のわざをした時のことを回顧して,ビューラー・E・コベイは次のように述べています。「それには1ページ大の教会のさし絵がついていました。そして,片手に鉄砲,もう一方の手に寄付盆を持って通廊を歩いていくふたりの説教者が描かれていました。『ZG』を配布するには,その絵を見せさえすればよかったのです。野外で1日に40冊から50冊配布することはごく普通でした」。

      「終了した秘義」のこの雑誌版を使ったわざは良い結果をもたらしました。たとえば,アンニー・ポッゲンシーは次のように書いています。「わたしはひとりの婦人を訪問して『ZG』を配布し,その家を出ました。その配布がどんな結果になるか,わたしはその時つゆ知りませんでした。2,3週間後,1枚のビラが彼女の家の玄関に置いてありました。婦人はそれが同様の事柄であることを認めて,ビラに宣伝されていた講演会に出席しました。さらに,集会にも引き続き出席し,とうとう,夫とふたりの娘も出席するようになりました。まもなく,アンダーソン一家全員が真理に入ったのです」。

      「GA」第27号

      やがて「黄金時代」第27号が登場しました。「それは1920年9月29日号で,圧迫された期間中に兄弟や姉妹に加えられた迫害や虐待を詳しく載せていました」と,その配布に参加したロイ・E・ヘンドリクスは書いています。アメリア・ロッシュとエリザベツ・ロッシュはこうつけ加えます。「それは,第一次世界大戦中,キリスト教世界の宗教指導者と彼らの政治的軍事的同盟者たちによって国際聖書研究者に加えられた数々の不敬虔な迫害を暴露しました。……会衆の中で9名の人はこのわざに参加することを拒否して,それをしないようにという嘆願状に署名しました。その人たちは『忠実で思慮深い奴隷』に対する信仰に欠けていたのです。そのため,わたしたちは,信仰を保っていた他の3人といっしょに,わずか2週間で2万5,000冊を配布しました。その運動が終わった時には,わたしたちは疲れていましたが,神のみことばの光によって忠実に歩んでいることを知って幸福でした」。

      「黄金時代」第27号は400万部印刷され,無料で与えられるか,1冊10㌣の自発的な寄付で配布されました。原則として配布は戸別に行なわれました。

      海外でのわざ

      聖書文書の需要は増加の一途をたどりました。たとえば,1920年1月1日にものみの塔の出版物に対する検閲が解除されたカナダの場合がそうでした。同国における迫害は,神の民を奮い立たせ,いっそう熱心に宣べ伝えて真の崇拝を推し進めさせたようでした。

      1920年8月12日に,J・F・ラザフォードと2,3人の同行者はヨーロッパに向け船で出発しました。大会は,ロンドン,グラスゴーおよび他の英国諸都市で開かれました。ラザフォードは他の数名の人々と共にエジプトとパレスチナへ旅行しました。また,いくつかの事務所と聖書クラスを訪問して霊的に強めました。協会の支部事務所がラマラーに設立されました。さらに,年度末の報告の中でラザフォード兄弟は,協会が,スイス,フランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,オーストリアおよびイタリアにおける伝道活動を監督する,中部ヨーロッパ事務所を設立中であることを発表しました。

      「万民運動」

      その頃弟子を作るわざに貢献した新しい伝道活動は,「万民運動」でした。それは,「現存する万民は決して死することなし」と題する128ページの本を1冊25㌣の寄付で配布することを特色としていました。この本は1920年9月25日に始まった公開講演計画と関連して用いられたもので,1918年2月24日にロサンゼルスでJ・F・ラザフォードが行なった講演(もとの題名は「世の終わりは近し ― 現存する万民は決して死することなし」)に基づいており,1920年に書籍の形で出版されました。

      レスター・L・ローパーは次のように回顧しています。「それから,わたしが,『人々のために合図の旗を立てよ。現存する万民は決して死することなし』という公開講演をする番が来ました。わたしは一般の人々の前で話をすることに慣れていましたが,その時は別でした。いつか床が上がって来てわたしの顔を打つのではないかと感じました。そして,当時,真理にいる人々は全世界でほんのわずかでしたから,『現存する万民は決して死することなし』と人々に言うのはよほどの勇気のいることだと思いました」。

      「現存する万民は決して死することなし」はやがて各種の言語に翻訳出版されました。「牧羊のわざ」の時には人々に書籍を貸しましたが,「万民」の本は寄付と引き換えに配布され,関心を示した人々は,後日,「聖書研究」数巻を入手できました。「万民運動」はしばらくの間続き,この方法を通して大々的な証言が行なわれました。人々の注意を向けさせるために,「現存する万民は決して死することなし」ということばを新聞の告知欄に掲載したり掲示板に掲げたりしました。その運動は非常に大規模に行なわれたため。スローガンは何年間も人々の記憶に残っていました。

      「万民運動」の思い出をルフス・チャペルは次のように書いています。「わたしたちは,(イリノイ州の)ザイオンおよびその周辺で『現存する万民は決して死することなし』という出版物を提供しましたが,その結果は興味深いものでした。わたしは,ザイオンから約5マイル(8㌔)の北シェリダン道路に建っていたワウケガン・クリーニング店の上方に,『当店は,決して死する(英語でダイ)ことのない現存する万民の方々のためにお染め(英語でダイ)します』という大きなネオンサインがあったのを覚えています。それは,当時非常によく知られた主題で,多くの人々がそれについて質問し,その出版物から真理を学びました」。

      新しい書籍は進歩を促す

      「聖書研究」は,長年にわたり聖書研究者によって読まれ,広く配布されました。しかし,1921年に新しい本すなわちJ・F・ラザフォードによって書かれた「神の立琴」が出版され,配布部数は22の言語で581万9,037冊に上りました。カリー・グリーンは「『神の立琴』が出た時それはほんとうに祝福となり,わたしたちの祈りの答えでもありました」,と述べ,「それは,真理,真理全体を簡明平易にし,異なる主題の全部が『立琴の糸』になぞらえられていました」と続けます。

      その本は,「神の立琴,つまり聖書の十の絃」にそって。エホバの目的を略述していました。その『十の絃』,すなわち見出しは次のとおりです。創造,神の義の表明,アブラハム契約,イエスの誕生,復活,奥義の解明,主の再臨,教会の栄化,復興。またそれは初心者向けの本でしたから,個人研究やクラスの研究のために質問が設けられていました。聖書研究者は戸別に奉仕してこの出版物を提供すると共に,通信教育課程を終了することも勤めました。この課程には12枚の質問のカードが用意され,それが1週間に1枚ずつ郵送されました。ひとつの会衆は,平均してこの課程のために毎週400枚から500枚のカードを取り扱ったようです。この課程は長年の間続けられ,大きな益をもたらしました。ヘイゼル・バーフォードはこう語っています。「関心のある人々の家で今日の家庭聖書研究に似た研究も行なわれていました。ただし,今の会衆の書籍研究のように伝道者が全員それに出席していたものですが」。

      宣べ伝えるわざを促進する施設

      第一次世界大戦の翌年,ものみの塔協会はいくらかの印刷をするために大きな輪転機を1台購入したいと考えました。アメリカには2,3台しかなく,それらは皆フル回転していましたから,当然,何か月もの間購入する機会はありませんでした。しかし,エホバの手は短くありません。1920年に本部の働き人たちによって据え付けられた大きな輪転機が動くようになったのです。「古い戦艦」という愛称で呼ばれたこの機械は,長年にわたって,何百万冊もの雑誌や冊子その他の出版物を生産しました。

      「古い戦艦」を入手すると同時に,協会は,ブルックリンのマート街35番に工場を借りました。W・L・ペレとW・W・ケスラーは1920年1月22日にベテルに着くとすぐ,その建物で働く割当てを受けました。ペレ兄弟は次のように話してくれました。「最初の仕事はマートル街35番の1階の壁を洗うことでした。それはわたしがそれまでに経験した最もきたない仕事でしたが,普通とは違っていました。わたしたちは幸福だったのです。それは主のわざでしたから骨折りがいがありました。掃除が完了するのにおよそ3日かかりました。それから,郵送部門の仕事が始められるようになりました。地下室に輪転機(「戦艦」)が組み立てられ,2階には平版印刷機,折りたたみ機,中とじ機が据え付けられました」。

      ほどなくして,そうした設備が始動しました。ペレ兄弟はさらにこう語っています。「機械工と印刷工の経験のあるふたりの兄弟が平版印刷機を,ケスラー兄弟が折りたたみ機を,わたしが中とじ機をそれぞれ操作しました。こうして,『ものみの塔』の1920年2月1日号の一冊目が自分たちの印刷機から生まれたのです。それは実に胸の躍る一瞬,喜びの時でした。その後まもなく,『黄金時代』第27号が地下室の『戦艦』印刷機から出て来ました。小さな出発でしたが,確かにとどまることなく成長し続けて来ました」。

      宣べ伝えるわざは拡大し続けました。1922年までに文書に対する需要は非常に大きくなっていました。そこで,1922年3月1日現在をもって,協会は工場をブルックリンのコンコード通り18番にある6階の建物に移しました。最初は4階までを使用していましたが,ついには6階全部を使いました。協会はその工場で初めて自分たちの製本された本を印刷しました。マートル街の建物は紙と文書の倉庫にされました。

      マートル街からコンコード通りへ移転する際のひとつの大仕事は「古い戦艦」を移すことでした。それがどのように行なわれたかを,ロイド・バーチはかつて次のように語りました。

      「1922年3月1日,わたしたちは印刷設備をマートル街からブルックリンのコンコード通り18番にあるもっと大きな建物へ移しました。小さなトラックを使って重い物の大部分を運びました。『戦艦』印刷機の大きないくつかの版胴を運ぶ段となりましたが,そのトラックには重すぎました。それらを新しい建物へどのようにして運んだらよいかわからなかったので,わたしたちは途方に暮れました。ところが,翌朝起きると,その問題は解決されたのです。

      「意外なことに,夜の間に雪が2インチ(約5㌢)積り,問題を解決してくれたのです。わたしたちは滑材を作り,版胴をころがしてその上に乗せました。それからトラックを滑材に連結し,それを新しい場所まで引いて行きました。滑材は雪の上をなめらかにすべりました。版胴はコンコード通りにある地下室の窓からおろされました。その後何年もの間,工場の監督R・J・マーチンは大会で兄弟たちに不意の雪のために移転の問題が解決された話を好んでしました」。

      まもなく「古い戦艦」はコンコード通りの工場で再び回転し始めました。そのために,その古い建物はずいぶん振動しました。それで工場の監督マーチンは,「天使たちがこの建物を支えてくれている」とよく言っていたということです。

      エホバの助けによってのみ

      「わずかな人々,または全く経験のない人々が輪転機で書籍類を印刷することに成功したのは,エホバの監督とその霊の導きがあった証拠です」,とチャールズ・J・フェケルは語りました。彼は1921年以来ベテル奉仕を続けています。半世紀にわたって協会本部の発展にあずかって来たフェケル兄弟は,こう言明しています。「それぞれの仕事を果たす人々は,仕事を重複して行なったり,無駄な努力をすることは決してありませんでした。前もって計画された膨大な仕事は,サタンの反対にもかかわらず,予定通り完了しました」。

      協会が工場をブルックリンのコンコード通り18番に移した1922年に,植字,電気メッキ,印刷および縫いとじの機械一式 ― その大部分は新品だった ― が購入されました。それまで協会の印刷の仕事の大半を行なっていたある著名な印刷会社の社長は,その設備を見て次のように言いました。「あなたがたは一級の印刷設備を持っておられますが,その扱い方を知っている人はここにひとりもおられないようですな。半年もたたないうちに,この全部はくず同然になってしまうでしょう。そして,あなた方のために印刷をしていた人々が,やはり仕事に慣れているし,うまくやれることが分かるでしょう」。

      確かに山ほどの問題がありました。しかし,兄弟たちは,神の助けを得て,すばらしい進歩を遂げたのです。たとえば注目すべき次のような事実があります。それほど前のことではありませんが,ドイツからの専門の技士と数人の援助者は協会が購入した大きな輪転機の据え付けに2か月かかりました。それから2年を経ずして,大きさも型も同一の輪転機が,ベテルのひとりの兄弟と数名の援助者により,わずか3週間で本部に据え付けられたのです。

      協会の本部の兄弟たちは精魂を傾けました。彼らは学んだのです。そして,ほどなくして良い本を作るようになっていました。最初は1日に2,000冊を製本できただけですが,1927年までには,1日に1万冊から1万2,000冊を生産していました。

      再びシーダー・ポイントへ

      協会がニューヨークのブルックリンにあるコンコード通りの印刷工場の操業を始めて間もなく,神の民は1922年9月5日から13日にかけて国際大会に参集しました。開催地はオハイオ州シーダー・ポイントで,1919年に聖書研究者が総会を開いた所です。その3年間には成長が見られました。1922年の大会には,アメリカ合衆国,カナダおよびヨーロッパの代表者が集まりました。一日の平均出席者数は1万人で,日曜日には1万8,000人から2万人が出席しました。バプテスマを受けた人々は361名でした。英語と外国語の集会が同時に開かれ,一度に11の集会が行なわれました。

      シーダー・ポイントに行って霊的に報いの多い大会に出席してみることにしましょう。大きな旗や,立ち木につけた小さな木製のサイン,柱や他の場所の白いカードに注目してください。それら全部には「ADV」の文字が書いてあります。それは何を意味しているのですか。油そそがれた残りの者たちは依然として天へ「帰還」することに大きな関心がありましたから,ある人は,その文字は「After Death Victory(死後の勝利)」を表わしているのだと言います。「Advise the Devil to Vacate(悪魔に退くよう忠告する)」という意味であると考える人々もいます。

      「重大な日」と言われていた9月8日の金曜日まで,そのなぞは解けませんでした。その日,ラザフォード判事は「王国」に関する話をしました。T・J・サリバンはこう語りました。「その集会に出席する特権のあった人々は,炎熱のためあたりをうろうろしていた数人の落ち着かない人々に向かって,『座って』ぜひとも話を『聞きなさい』,と言った時のラザフォード兄弟の真剣な様子を今でもありありと思い浮べることができます」。ラザフォード兄弟はとりわけ,1914年に異邦人の時が終わったことについて語り,連邦教会会議が冒涜的にも国際連盟をたたえて「地上における神の王国の政治的表現」と述べたことばを引用しました。ラザフォードがその講演の劇的な結論の部分に入って行く時,読者自身も聴衆のひとりになっていると想像してください。そして,彼の次のことばにじっと聞き入ることにしましょう。

      「……1914年以来,栄光の王はその力を執って統治しておられます。彼は神殿級の口びるを清め,彼らに音信を携えさせて遣わしておられます。王国の音信の重要性はどれほど強調してもし過ぎではありません。それは音信の中の音信です。また,現代の音信であり,それを宣明するのは主に属する人々の義務です。天の王国は近づいています。王は統治しておられ,サタンの帝国は倒れようとしています。現存する万民は決して死ぬことはありません。

      「あなたはそれを信じますか。……

      「では,至高の神の子であるみなさん,野外に戻りなさい。武具を身につけなさい。心をひきしめ,警戒をはらい,活動的で,しかも勇敢でありなさい。主の忠実な真の証人でありなさい。バビロンが跡かたもなく荒廃するまで戦いに前進しなさい。音信を遠く広く述べ伝えなさい。世界は,エホバが神であり,イエス・キリストが王の王,主の主であることを知らねばなりません。今日こそ,あらゆる時代のうちで最も重大な日です。ご覧なさい,王は統治しておられます! あなたがたは王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」。

      それと同時に演壇の上方の三色に塗られた長さ10㍍余の旗が広げられました。それには中央に大きなキリストの絵が描かれ,「王と王国を宣伝しなさい!」という標語が書かれていました。今や明らかになりました。なぞの文字,「ADV」は,「ADVERTIZE(宣伝しなさい)」ということを意味しています。何を宣伝するかは明らかです。「王と王国を宣伝」するのです。「兄弟たちの感激と喜びと興奮をご想像いただけると思います。そうした経験は,兄弟たちにとって生まれて初めてのことでした。それはわたしの思いと心に焼き付いています。終生忘れることはないでしょう」,とジョージ・D・ギャンギャスは感動的に語ります。当時16歳の少年で,大会のオーケストラに加わっていた,C・ジェイムズ・ウッドワースは次のように思い出を語ります。「それは劇的な瞬間でした。聴衆からはなんという拍手がわき起こったことでしょう。ファンネベッカー兄弟は頭上でバイオリンを振りながらわたしの方を向き,大声で,『いや,すごいね。そして今ぼくたちはそれをするんだ,そうだろう』,と言いました」。

      王国を宣伝するよう動かされる

      そして彼らはそれを実行しました。実際,神のしもべはそれ以来ずっと行なってきました。王と王国を大胆に宣伝してきたのです。シーダー・ポイントを去った聖書研究者は霊に燃え,前途にある宣べ伝えるわざに対して燃えるような熱意を抱いていました。「家に帰って宣伝しよう,とはやる気持ちをことばで言い表わすことはできません」,とオラ・ヘッツェルは断言します。ジェイムズ・W・ベンネコフ姉妹はこうつけ加えています。「わたしたちは,王と王国を宣伝し,宣伝し,宣伝するように,そうです,かつてないほど強い熱意と愛を心に抱いてそれを行なうように奮い立たされました」。

      その点では,大会出席者たちはシーダー・ポイントを立ち去る前に王国を宣伝する機会が与えられました。1922年9月11日,月曜日は,「奉仕の日」になっていました。数百台の自動車が使われ,1台に5人かそれ以上が乗り,聖書文書を十分に積んで野外で王と王国を宣伝する万全の用意を整えていました。ドワイト・T・ケンヨンは次のように語っています。「わたしの,『奉仕者への指示』のカードは144番でした。そのカードには『自動車は午前6時30分にラジエターの番号に従って(シーダー・ポイントの)湖岸沿いに並びます。迅速に行動してください。あなたの自動車番号は215で,奉仕者番号は5です,……』。わたしのグループは7人でした。わたしたちはふたりの聖書文書頒布者が運転するトレーラーで出かけました。割り当てられたのは,数㌔離れたオハイオ州のミランでした。わたしは,ラザフォード兄弟が朝早く集合場所に来て,わたしたちを見送ってくださったのを覚えています」。

      確かに,J・F・ラザフォードは『その人々を見送る』ためにそこに来ていました。しかし,それ以上のことがありました。「ラザフォード兄弟はその朝出発した最初の車に乗っていました」,とサラ・C・ケリンは言います。ジョン・フェントン・ミキーはこうつけ加えます。「ラザフォード兄弟は最初の車に乗りました。彼はわたしと妻,妻の妹のクララ・メイヤーズ,それにリチャード・ジョンソンとその妻に同乗するよう勧めてくださいました。わたしは幼い娘が病気だったので行けませんでした。……さて,最初の車の区域はシーダー・ポイントとオハイオ州のサンダスキを走る道でした。ラザフォード兄弟が一軒目の家に入り,クララ・メイヤーズが次の家にという具合にして奉仕を終え,大会場へ戻りました」。

      より大きな王国奉仕への召しに答え応じる

      エホバのしもべたちは何年間かにわたり戸別訪問による伝道をある程度行なっていました。しかし,今や,そのわざは速度を速められました。1922年の10月が過ぎると,「会報」という月ごとに発行される奉仕の指示書に載せられた情報を通して,戸別訪問による伝道は大いに促進されたのです。

      聖書研究者の集会は引き続き豊かな霊的食物を供給しました。1922年にグループで行なう「ものみの塔」研究が始めて組織されました。研究の助けとして質問が印刷されました。クリスチャンの集会も,野外奉仕にますます重点が置かれるにつれて変化していきました。特に影響があったのは,週中の祈りと賛美と証言の集会でした。長い間,その集会は,賛美の歌をうたい,証言を行ない,祈りをささげる機会となっていました。しかし,1920年の初めに,戸別訪問による王国の宣明に関連して変化が生じました。そのことに関して,ジェイムズ・ガードナーは次のように書いています。「1923年5月1日に重大な前進が始まりました。毎月の第一火曜日は奉仕の日と決められ,クラスの奉仕者は,協会によって任命された『主事』と共に野外奉仕に携わることができました。このわざを鼓舞し,兄弟たちをいっそう励ますために,その時以後,毎週水曜日の夜に開かれていた会衆の祈りの集会はプログラムの半分が野外での経験の話に当てられることになりました」。T・H・シェベンリストはさらにこう語ります。「後に水曜日の夜の集会で,『会報』という,協会の野外奉仕の印刷物を考慮することが行なわれました。こうして野外奉仕が強調されるようになると,オクラホマ州のシャタックの会(会衆)は伝道に忙しく携わり,『会報』に載せられたキャンバス(証言)を暗記しました」。

      やはり1923年のことですが,協会は,一年に数回の日曜日を「世界的な証言」の日と決めるようになりました。その日には,一致した努力を払って世界中で同時に公開集会を開くようにしました。聖書研究者はみな,「サタンの帝国は倒壊しつつあり ― 現存する万民は決して死することなし」というようないくつかの講演を宣伝するように励まされました。

      1927年の初めごろ,アメリカでは戸別に訪問して寄付と引き換えに本や冊子を配布するわざが毎週日曜日に行なわれ始めました。以下は,ジェイムズ・ガードナーの話です。「ある人々は,世の中の人はわたしたちに反対しているから,どういうことになるだろうかといぶかっていました。確かに,所によって,そのわざは迫害の波を立てました。しかし,それは『忠実で思慮深い奴隷』からの召しでしたから,ちゅうちょする理由があるでしょうか。わたしたちは喜び勇んで出かけました。ある人々は,『日曜日に本を持って来る』などと不平を言っていましたが,エホバが世界中の民を導いておられることはまもなくわかりました。今でも日曜日は出かけるのに良い日ですから,わたしたちは引き続きそうしています」。

      戸口で

      王国を宣伝する人々と共に,昔の戸別訪問による伝道のわざに参加したいと思われる方がおられるかもしれません。マートル・ストレインはそのわざをこう説明しています。「たいてい本の内容を説明し,販売技術も駆使しました。でも,わたしたちはしばしば家に招じ入れられました。それで,家の人が関心を示した時には,アダムの失敗から始まって人間の回復に至る神の目的の全容を簡単に説明したものです。1軒の家で1時間かそのぐらい掛かることも時にありました」。

      マーサ・ホームズは次のように話しています。「エホバの民と交わった昔の時代には忘れられない思い出がたくさんあります。わたしは,わたしたち5人の小さなグループがアイオア州デ・モアンの区域のあらかたの町で奉仕した時のことを覚えています。時々日の出前に出発して暗くなるまでとどまりました。当時わたしたちの自動車には,ハード・トップやパワー・ブレーキ,パワー・ステアリングや冷暖房装置がついていませんでした。また,たいてい舗装されていない道を走らねばなりませんでした。泥にはまり,再び動かすために車輪の下に板を数枚押し込まなければならないこともしばしばでした。わたしたちの自動車の左右の窓には,雨や雪の時に使う,ボタンで止めるカーテンがついていました。わたしたちは弁当箱を持って行き,寒い自動車の中で食べました。ある日,デ・モアンから約30マイル(約48㌔)の所にあるアイオア州のニュートンで数時間奉仕した時。ひどいあらしが来ました。強い風が吹いて。車を道路に沿って走らせるのがたいへんでした。おまけに,ズック製の屋根があおられて風でばたばた動いていました。わたしたちはついに無事デ・モアンに戻りましたが,みんなずぶぬれでした。見ていた人たちは,『なんて気違いじみた人たちだろう』と思ったに違いありません」。

      しかし,彼らの努力はしばしば報われてすばらしい結果を生みました。たとえば,ジュリア・ウィルコックスは1920年代のある日のことを覚えています。その時彼女は王国を宣伝する奉仕者になったばかりで,ノースカロライナ州のワシントンにおいてひとりで戸別に奉仕していました。そして,「死者と話す」と題する協会の小冊子に大きな関心を示したひとりの婦人に会い,数冊の文書を提供しました。以下はウィルコックス姉妹の話です。

      「わたしはその婦人にひまを取らせては悪いと思い,帰ろうとしましたが,彼女はわたしを引き留めてこんな話をしました。

      「『わたしは,主があなたをきょうここへ遣わされたのだと思います。わたしたちの祈りの答えとして,あなたが来てくださったのです。母とわたしは,神がわたしたちを光に導いてくださるよう祈って参りました。わたしたちはこれまでずっとメソジスト教会の会員でしたが,そこでは何も得られないので,最近は教会へ行くのをやめてしまいました。聞くことといえば,寄付金の催促ばかりです。先日,母はある雑誌で神に直接話せる方法を書いた『心霊術』の本の広告を見ました。母は,その本を注文してどんなことが書いてあるか調べてみようとわたしに言いました。さて,わたしはその本を注文する手紙を書いたのですが,どういうわけか投かんするのを忘れてしまいました。(その手紙はついに投かんされませんでした。)それで,まずあなたから求めたこの本を読もうと思います。母も今度わたしの家に泊まりに来た時に読むことでしょう。また近いうちにわたしたちの家に来てくださるよう約束していただけませんか』。

      「わたしが約束したのはいうまでもありません。それは,わたしの最初の再訪問となるはずでした。当時,再訪問をすることは強く勧められていませんでした。区域を網らして文書を配布することが強調されていたのです。ともかく,わたしが約束どおり訪問すると,お母さんがおられました。ふたりは最初に訪問した時にわたしが配布した文書を『むさぼる』ように読んでいて,別の書籍を読みたいと言いました。その時以来,ふたりは協会から出版される文書をすべて求めました。……わたしが初めて再訪問をした(ソフィア・)カーティ姉妹が1963年に亡くなるまで忠実に奉仕し集会に出席したことをお伝えできるのは,わたしにとって大きな喜びです」。

      七人の使いはラッパを吹く

      1920年代にエホバのしもべは王と王国を宣伝することに忙しく携わり,良い成果を得ました。その上,神の民は当時こそ理解してはいませんでしたが,啓示の預言の感動的な成就にあずかっていました。七人の使いの吹奏者がラッパを吹くたびに,真のクリスチャンは地上の劇的なでき事で役割を演じたのです。そして彼らは今日に至るまで引き続きそれにあずかっています。―啓示 8:1–9:21; 11:15-19。

      第一の使いがラッパを吹いた時以来,キリスト教世界は聖書の真理に基づく強烈な暴露を象徴する破壊的なひょうを浴びせられています。(啓示 8:7)それが始まったのは1922年9月に開かれた聖書研究者のシーダー・ポイント大会の時で,神の民は「挑戦」と題する決議文を熱烈に採択しました。その決議文は,大胆にも,僧職者たちが戦争に参与し,その後は国際連盟がメシアの王国の政治的表現であると主張することによってその王国を拒絶し,神に対して不忠節になっていることを暴露しました。同年10月,裏付けとなる記事と共に決議文4,500万部が全世界で配布され始めました。以来,キリスト教世界(カトリックとプロテスタントの僧職者およびその教会員)は,イエス・キリストの真の追随者であると偽って主張していることが暴露されています。

      ラッパを吹く第二の使いに導かれ,聖書研究者は1923年の8月18日から26日にかけてカリフォルニア州のロサンゼルスで地区大会を開きました。その際,彼らは「警告」と題する決議を圧倒的に採択しました。それは,キリスト教世界の僧職者が王国の音信の宣明を支援していないことを暴露し,「国家的また個人的やまいをいやす唯一のもの」として,僧職者が支持する国際連盟ではなく神の王国に頼るよう,羊のような人々に訴えました。僧職者がそうしたことを怠ったのがおもな原因となって,不安定な「海」として描かれている急進的革命分子が台頭したのです。しかし,人間の体から注ぎ出された血が命を与え得ないのと同様,それら急進的な分子も人類に命を与えることができません。1923年12月に,大会の決議を載せた,「宣明 ― すべてのクリスチャンに対する警告」と題する小冊子の印刷が始まりました。海外で何百万部も発行されたほか,アメリカでも1,347万8,400部が印刷されました。その「宣明」の大々的な配布はことの始まりに過ぎませんでした。今日まで,イエスの油そそがれた追随者は神の王国を擁護する数多くの宣明を行なってきたからです。―啓示 8:8,9。

      第三の使いがラッパを吹いた時,水の三分の一がにがよもぎに変わりました。(啓示 8:10,11)意義深いこととして,1924年7月20日から27日にかけてオハイオ州コロンバスで開かれた聖書研究者の大会で,神の民は「告発」という決議を熱意をもって採択しました。それは,キリスト教世界の背教した僧職者によって教えられる,神を侮辱した偽りの教理を暴露し,彼らと彼らの政治的仲間が人々を導いて取らせている宗教的な行為は死を招くものであることを示しました。確かに,僧職者は霊的な死と最終的な滅びに至らせるにがよもぎのようなにがいものを人々に飲ませました。大会の決議は,アメリカで1,354万5,000部印刷された,「教会教職者級を告発する」と題する小冊子に組み込まれました。さらに,海外では外国語の小冊子が何百万部も発行され,やがて5,000万部が配布されました。その告発文は「ものみの塔」誌にも掲載されました。それとてもやはり始まりにすぎませんでした。ラジオ,書籍,小冊子,雑誌および口頭の証言を通して,エホバのしもべはキリスト教世界の僧職者の教えが命の水ではなくて死に至らせるものであることを指摘し続けたのです。

      1925年になると,ラッパを吹く第四の使いが身構えて立ちました。ラッパが吹き鳴らされると,太陽と月と星の三分の一が強打されて暗くなりました。(啓示 8:12)1925年8月24日から31日にかけてインディアナ州インディアナポリスにおいて開かれた区域大会の際,神のしもべは「希望の音信」と題する決議を心から承認しました。それにはやさしい表現が使われていましたが,人々は,世界の霊的な光であると主張するキリスト教世界の暗やみにはまっていることも明らかにされていました。「ものみの塔」と「黄金時代」誌に決議文が掲載されたほか,ついには冊子の形で様々な言語により何百万部も発行されました。こうして,人々はキリスト教世界が天からの真理の光と神の好意を受けていないことを知らされました。

      1926年の春に第五の使いがラッパを吹き鳴らすと,象徴的ないなごの攻撃が告げられました。(啓示 9:1-11)その年の5月25日から31日まで,聖書研究者は英国のロンドンで国際大会を開きました。その時,「世界の支配者たちへの証言」と題する決議文が全面的に採択されました。5月30日日曜日にラザフォード兄弟はロイヤル・アルバート・ホールで大聴衆を前に「世界の諸勢力はなぜよろめいているのか ― その救済策」と題する,決議文を裏付ける講演を行ないました。決議文およびその講演は,国際連盟の産みの親がサタンであることを暴露し,僧職者たちは神のメシアによる王国を支持することに失敗していることを指摘しました。同様の情報は,新たに発表された「神の救い」という本と「人々の規準」という小冊子に載せられました。ロンドンのデーリー・ニューズ紙は,月曜日の朝刊の1ページ全面に,その決議文と日曜日の公開講演の骨子を掲載し,さらに月曜日の夜に行なわれるラザフォード兄弟の講演広告を掲げました。その紙面のために相当の金額が支払われましたが,新聞は百万部以上が一般に行き渡りました。

      やがて,「証言」の決議文を小冊子にしたもの約5,000万部が多くの言語で世界中に配布されました。宗教の名のもとに神の王国に敵してもくろまれた人間の企てのこうした暴露は,さそりの尾の針のように苦しみを与えました。また,それは引き続き苦しめています。

      第六の使いがラッパを吹くと,四人の象徴的な使いが解かれ,2億頭の象徴的な馬が『人びとの三分の一を殺す』ために出て行きました。それらの「馬」は,特に印刷物を通して恐ろしい裁きの音信を宣布する手段を表わしています。そのことが起こり始めたのは,1927年の注目すべきでき事,すなわち,カナダのオンタリオ州トロントにおける聖書研究者の国際大会の時からです。(啓示 9:13-19)7月24日,日曜日,コリセウムにおいて約1万5,000人は,J・F・ラザフォードが,人類の約三分の一を占める「キリスト教世界の人々へ」向けられた決議文を読むのを聞きました。それは,キリスト教世界と共に滅ぼされないため同世界を捨てるよう誠実な人々に強く勧めました。人々は,心からの専念と忠誠をエホバ神とその王および王国に捧げ尽すよう促されました。ラザフォードによる,「人々への自由」と題する裏付けとなる講演が終わった時,出席者から「はい」という声が嵐のように起こりました。出席者は起立して,決議文に賛意を表明したのです。何百万人もの人々は,53局を国際的に結ぶ当時最大の放送網を通してその模様を聞きました。1927年7月25日,月曜日のニューヨーク「ワールド」紙は,「巨大な放送網がラザフォードに傾聴」と言明し,「最大の中継放送は組織化された僧職者を非難する講演を世界の津々浦々に広める」とも述べました。

      キリスト教世界の支持者たちは,そうした世を揺り動かす決議文の火のように激しいことばを受けてもだえ苦しんだに違いありません。決議文とそれに伴う公開講演の内容は,「人びとへの自由」と題する小冊子として出版され,やがてそれは一般の人々や支配者に何百万冊も手渡されました。こうして,幾千幾百万頭の象徴的な馬は,「四人の使い」で表わされる油そそがれた残りの者によって操縦を受けつつ,キリスト教世界に対する攻撃を開始しました。長年にわたって,幾億にものぼるそうしたクリスチャンの出版物が生産され,多くの人々は快い反応を示して偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンを離れました。―啓示 9:13-19; 18:2,4,5。

      第七の使いがラッパを吹くと,劇的なでき事が起きました。「大きな声が天で起きて言った,『世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配するであろう』」。人類世界の王国は当然神に属していますが,神は,ダビデ王の油そそがれた子孫による王権が西暦前607年から「七つの時」すなわち2,520年の間途絶える,もしくは中断されるのを許されました。その期間は,1914年10月4日から5日ごろ満了しました。その時設立されたメシアによる王国を通してエホバが王として支配しておられ,まもなく,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」こと,また,エホバのみ名を恐れる人々はエホバの協働者として地を楽園に変えることになるということを,人々は知る必要がありました。―啓示 11:15-18。

      「第七の使い」のラッパが鳴り響くかのように,そうした事柄が全世界でふれ告げられたのはいつですか。地球を巡るその発表は1928年に始まりました。その年の7月30日から8月6日にかけて,聖書研究者はミシガン州デトロイトにおける大会に集まりましたが,特に8月5日,日曜日は注目すべき日でした。すなわち,その日,代表者たちは,「サタンを退け,エホバを支持する」という強い決議と,J・F・ラザフォードによる決議の裏付けとなる公開講演,「人々の支配者」を聞きました。中でもその決議がはっきりと述べていたのは,サタンが諸国家と人々に対するその邪悪な支配を放棄しようとしないゆえに,エホバは,ご自分の刑執行官であるイエス・キリストと共に悪魔および邪悪な勢力に敵して行動し,その結果,サタンは完全に拘束されて,彼の組織は全く覆されるということでした。さらに,神がキリストによって地上に義を確立し,人類を邪悪なものから解放するとともに地上の全住民に永遠の祝福をもたらされることを指摘しました。また,決議文は結論で,「したがって,義を愛するすべての人々にとって今こそエホバの側に立ち,清い心でエホバに従い,仕える時です。そのようにして,全能の神が彼らのために蓄えておかれた尽きることのない祝福を得られるでしょう」と述べていました。

      「サタンを退け,エホバを支持する宣言」とそれを裏付ける公開講演の報告は,「黄金時代」と「ものみの塔」誌に掲載されました。さらに,講演と決議の両方は「国民の友」という冊子に発表され,数多くの言語で何百万冊も配布されました。このようにして,イエス・キリストによる神の王国を支持し,サタンとその手先による世界支配を無視する音信は40年以上昔に吹き鳴らされました。しかし,その音信は以来,印刷物と公開講演によって,エホバのしもべが神の王国の音信を世の人々のもとに引き続き携えて行くにつれ,ますます大々的に全世界でふれ告げられて来ました。

      ラジオの開拓者は声を上げる

      1922年4月17日付のフィラデルフィアの「レコード」紙は,「世界の千年期が来るとラジオは発表。ラザフォード判事の講演はメトロポリタン・オペラ・ハウスから放送された。話は送信所に送られた。音信はベル電話会社の電線によってハウレット局まで何マイルも運ばれた」と知らせました。そのあと,同紙は,1922年4月16日,日曜日に,ペンシルバニア州フィラデルフィアのメトロポリタン・オペラ・ハウスにおける,J・F・ラザフォードの初のラジオ放送について伝えたのです。その主題は,「現存する万民は決して死することなし」というものでした。講演を生で聞いた人々はほんの少数であったとはいえ,それをはるかに上回る推定5万の住民がペンシルバニア州,ニュージャージー州,デルウェア州の自宅で原始的なラジオによりその話を聞きました。

      当時,ラジオは揺籃期にありました。アメリカで,ピッツバーグのKDKA局とミシガン州デトロイトのWWJ局から定期的な商業放送が行なわれるようになったのは1920年のことでした。当時工場で組み立てられたイヤホーン付きの鉱石ラジオを買うことができましたが,拡声装置とアンテナを内蔵したラジオが手に入るようになったのは1930年代のことです。

      1920年代初期のエホバのしもべは比較的少数でした。アメリカでは1924年までに,週平均1,064人の聖書研究者が戸別の伝道をしていたにすぎません。したがって,その時期に,神の民はラジオの強力な効果を認め,王国の音信を大衆に伝えるすぐれた手段とみなしました。

      1922年に,J・F・ラザフォードと数人の顧問は,まず,ニューヨーク市のリッチモンド独立区にあるスタテン島に24エーカー(約10ヘクタール)の土地を購入しました。ロイド・バーチは,かつて,当時のこんな興味深い話をしてくれました。「ある土曜日の午後,協会の会長ラザフォード兄弟は,わたしたち数人をスタテン島に連れて行きました。購入した土地に着くと,彼はその森の中心となる地点をさして,『さて,みなさん,ここから掘り始めましょう。この土地にラジオ放送局を建てるのです』と言いました。そして,わたしたちは実際そこを掘ったのです。その夏は週末ごとにそこへ行きました」。冬が過ぎ,翌年の夏までかかって建設は急ピッチで進みました。週末にはブルックリンの協会本部から多くの若い人々が援助に行きました。

      1923年のこと,オハイオ州アライアンスの高等学校で無線電信の理論を教えていたラルフ・H・レッフラーは,ある日,ものみの塔協会の会長事務所から一通の手紙を受け取りました。それには,「あなたが無線電信を教えておられることを知りました。……その分野で主への奉仕に全時間を捧げることを考えてごらんになりませんか」と書かれていました。レッフラー兄弟は,そこにエホバのみ手の働きをはっきり感じたので,その機会を捕えるのを拒むことはできませんでした。レッフラー兄弟は10月の半ばにベテルに到着しましたが,なんと皿洗いの仕事に割り当てられたのです。後日,彼は次のように書いています。「皿洗いは軍隊でさんざんやった,とわたしは思いました。それから,『汝らの神エホバ汝らが心を尽し精神を尽して汝らの神エホバを愛するや否やを知らんとてかくなんじらを試みたまう』という聖句を思い出しました。(申命 13:3)そうだ,これも試みのひとつだ,とわたしは思いました」。しかし,一か月後に彼は放送の仕事を始めました。「500の㍗複合ラジオ送信機が町でみつかったので,放送局用に購入しました」,とレッフラー兄弟は回顧します。彼はそれをたちまち設置して,放送開始の用意はすっかり整いました。

      「心臓がどきどきしました」,とレッフラー兄弟は認めます。「最初の放送は成功するでしょうか。だれかわたしたちの放送を聞いてくれる人がいるでしょうか。放送の許可は政府から得ていました。コールサインはWBBRでした。用意はすっかり整い,1924年2月24日,日曜日の夜に放送が開始されました。その時,わたしは電源スイッチを入れる特権にあずかりました。わたしたちは最善を希望して出発したのです」。

      WBBRのその最初の番組は午後8時30分から10時30分までの2時間にわたりました。「ラジオと神の預言」と題する,協会の会長J・F・ラザフォードの講演がおもな番組で,その前後にピアノの独奏と歌がありました。その後毎晩8時30分から10時30分まで,日曜日には午後3時から5時まで,きれいな音楽と教育的な話が放送されました。

      WBBRを通して放送劇を流す機会が何度かありました。スイスのチューリッヒの有名なシティー劇場で演劇の厳しい訓練を受けた経験を持つ,マックスウェル・G・フレンドはそれに出演しました。数年後,エホバはフレンド兄弟に,聖書劇や,僧職者の影響を受けて偏見を抱いた裁判官と陪審員によるアメリカのエホバの証人の裁判を再現した場面を製作監督するという,思いがけない特権をお与えになりました。そうした劇はその人々の醜態を暴露し,神のしもべの無実を証ししました。出演したのは訓練を受けた俳優と音楽家で,彼らは「王の劇団」を作りました。

      1928年,ニュージャージー州のサウス・アンボイで,数名のエホバの証人が日曜日に良いたよりを伝道したかどで逮捕されました。それが発端となって,10年にわたる,いわゆる「ニュージャージーの戦い」が始まりました。「王の劇団」はそれに一役買いました。真のクリスチャンの裁判において,土地の裁判官はカトリック教徒の場合が多く,彼らは法廷で偏見を示し,粗野なことばを使ったり,表面に立たないでいようとする教会関係の仲間を裏切りさえしました。法廷でのやり取りは速記で記録されました。訓練された俳優は,裁判を傍聴して,裁判官や陪審員その他の声や口調を研究し,数日後に「王の劇団」は法廷の場面を驚くほど生々しく再現しました。こうして,電波は敵を暴露するために用いられたため,ついに裁判官たちは,誤導された警察官や陪審員と同様自分たちにも注意が向けられたのを知って大いに恐れ,エホバの民に関する事件を扱う際にはもっと抜目がなくなりました。

      約33年間,WBBRはエホバに栄光をもたらし,聖書の真理をあまねく広めました。最初500㍗の送信機で放送が始められましたが,3年後に1,000㍗の新しい送信機が購入されました。1947年,連邦通信委員会は,アメリカ各地に広く散在している同じ周波数の他の放送局を妨害しない条件で,放送出力を5,000㍗にすることをWBBRに許可しました。三方に働く指向性アンテナ装置の塔を立てたので問題は解決し,また,出力を5,000㍗から25,000㍗以上に上げて人口が最も密集している北東方面に送ることができるようになりました。WBBRの放送はニューヨーク市と,近接するニュージャージー州およびコネチカット州で聴取できました。しかし,番組を聞いたという手紙は,英国,アラスカ,カリフォルニア,その他遠方から寄せられました。

      協会は1957年4月15日に放送局を売却しました。その理由はこうです。放送局が開局した1924年当時,ニューヨーク市の5つの独立区すべてとロングアイランドおよびニュージャージー州の一部をさえ含む地域には,約200名の聖書研究者からなるひとつの会衆があったに過ぎません。しかし,1957年までに,ニューヨーク市内には62の会衆があり,王国の宣布者は7,256名の最高数を記録し,そのうえ良いたよりの全時間伝道者が322名いました。したがって,証言は十分行なわれていたのです。また,家に行って人々に話しかけるほうが,質問に答えたり,神のみことばからさらに説明できるのでずっと効果的です。放送のための経費は神の王国の関心事を促進するために他の方面に用いることができました。

      とはいえ,協会の放送事業に関係した話はほかにもあります。ある日,J・F・ラザフォードはラルフ・レッフラーの部屋に入って来てテーブルの上に地図を広げ,指で示しながら,「わたしはここ,ここ,そしてここに放送局を建てることを考えているのですが,あなたはその建設の監督を引き受けてくださいますか」と言いました。『喜んでお引き受けします」というのがその返事でした。こうして,1924年の11月が来ると,レッフラー兄弟は,協会所有のWORD(ことば)というコールサインを持つ放送局をもうひとつ建てる仕事のためにシカゴ方面へ行きました。協会の直接の持ち物ではなく,協会の代表者が運営に当たった他のいくつかの放送局の送信機も彼が据え付けました。

      放送史上画期的な仕事をする

      1920年代に,エホバの民は初期の放送局のひとつ,WBBRを建ててその方面の開拓者となっただけではありません。すでに述べたとおり,エホバのしもべは1927年7月24日,日曜日に放送史上画期的な仕事を行ないました。すなわち,J・F・ラザフォードは,カナダのオンタリオ州トロントから,53局を結ぶ当時最大の放送網を通して話したのです。

      放送網を通じて行なうという先例のない放送が行なわれるまでには一連のでき事がありました。WBBRとニューヨーク市の放送局WJZの所有者との間には,時間を分かつ協定が結ばれていましたが,それは守られませんでした。後になって,WBBRは別の周波数を割り当てられ,さらにその後もっと不都合な周波数が割り当てられました。協会の放送局は,1927年の放送法に基づき,比較的望ましい周波数が割り当てられるよう,連邦通信委員会に訴えました。審理(1927年6月14,15日)の際,会長であるナショナル放送会社のメーリン・ホール・アイレスワースは,大きな放送事業をしているのはニューヨーク放送局のWEAFとWJZであると証言しました。それは明らかにWBBRに一部の時間を専有させるのは正当でないことを示そうとするものでしたが,WJZとWEAFは双方とも別個の周波数を持っていたのです。反論に立ったJ・F・ラザフォードはアイレスワースに次のように問いつめました。「あなたの目的は,ラジオを用いて,世界最大の経済人,もっとも著名な為政者,および最も有名な牧師の音信を人々に伝えることですか」。肯定の答えが返りました。

      「宇宙の偉大な神は,地上の全家族と全国民に平和,繁栄,生命,自由および幸福を与えて祝福する計画を持っておられ,その計画を間もないうちに実施されます。あなたがそれを確信されるなら,それを放送しますか」。否定の答えをするわけにもいかなかったのでしょう,はい,との答えがなされました。それから,アイレスワース氏は,国際聖書研究者の講演を喜んで放送しましょう,と申し出ました。いうまでもなく,J・F・ラザフォードはその申し出を受け入れました。

      こうして,ラザフォード兄弟が1927年7月24日,日曜日にカナダのオンタリオ州トロントで約1万5,000人の大会出席者に講演した際,さらに何百万人もの人々が,それまでに例のない放送網によって彼の話を聞くことになったのです。ナショナル放送会社から協会へ寄せられた手紙には,「きのうの午後,ラザフォード判事はラジオを通して地上のだれよりも多くの聴衆に話をしたと思います」と書かれていました。

      聖書研究者は1928年にも放送事業上注目すべきことを行ないました。ミシガン州のデトロイトで8月5日の日曜日に,J・F・ラザフォードは「民のための支配者」と題する公開講演を1万2,000人の聴衆を前に行ない,その講演は107の放送局を結ぶ放送網によって中継されました。そのために要した電話線は3万3,500マイル(約5万3,600㌔),電信線は9万1,400マイル(約14万6,240㌔)でした。またその講演はオーストラリアとニュージーランドに向け短波で再放送されました。

      ものみの塔放送網,もしくは「ホワイト」放送網は,1928年にデトロイト大会のために特に組織されましたが,非常な成功を収めたので,協会はカナダとアメリカ全土で毎週放送網を使用することを決定しました。1時間の番組が取り決められ,WBBRから放送されました。それは生の放送で,ラザフォード兄弟の講演を扱っており,協会専属のオーケストラが初めと終わりに音楽を演奏しました。こうして,1928年11月18日から1930年中毎週日曜日に「ものみの塔アワー」を聞くことができました。

      すぐれた証言がなされましたが,ラザフォード兄弟は放送のために多くの時間を取られてしまい,各地を訪問して大会を組織することが不可能になりました。そのため,1931年に協会は録音番組を放送することに決定し,250の放送局が編成されてラザフォード兄弟の15分の話を放送しました。その番組はラザフォード兄弟の都合のよい時に録音され,放送局の好きな時に放送されました。1932年,(録音チェーンと呼ばれた)このラジオ放送は340局にひろまり,1933年には頂点に達して408の放送局が使用され,6つの大陸に音信が伝えられました。2万3,783の聖書の話がなされ,そのほとんどが15分間の電気録音の話でした。その時代に,ラジオのダイヤルを回して,広範な地域に散在していた放送局から同時に流されるものみの塔の放送に合わせることもできました。あらゆる電波に,神をたたえる真理のことばが満ちることもしばしばでした。

      自分のものと呼べる工場

      エホバの民は一般の注目をますます集めていきました。1920年代後期に彼らが行なった,歴史的なラジオの中継放送は見過ごされるものではありませんでした。また,戸別訪問による伝道のわざは急速に拡大しましたから,人々はそれら王国の宣布者たちに無関心でいることはできませんでした。聖書文書に対する需要は増大の一途を示し,協会の出版業務はそれについてゆかねばなりませんでした。1920年代後半を振り返って,C・W・バーバーは,「コンコード通り18番(ニューヨークのブルックリン)の工場は小さくなりすぎて,必要をまかないきれなくなっていました」と語ります。

      疑問の余地はありません。聖書研究者はもうひとつの工場を必要としていたのです。工場を建てることが決まりました。十分な建設資金を投じるには,世界の他の土地でのわざを縮少せずにはすまなかったので,協会は,不動産の実際の価格の半分を越えない額を抵当に,債券を発行しました。それは額面が100㌦,500㌦および1,000㌦で,年に5%の利子が付くものでした。債券は市場に売りに出されず,「ものみの塔」誌の付録を通して,聖書研究者に債券を申し込む機会が差し伸べられました。

      1926年と1927年に,ブルックリンのベテル家族の人々は,アダムス・ストリート117番に工場ができ上がって行くのを見る喜びを味わいました。やがて,多くの窓の付いた,8階建てのりっぱな鉄筋コンクリートの建物が完成して使用できるばかりになりました。その建物は近代的な耐火建築で,約6,300平方㍍の床面積を持っていました。そして,1927年2月までにコンコード通り18番に移ることになりました。「機械が移される時,R・J・マーチン兄弟(工場の監督)が他の兄弟たちと小躍りして喜んでいたのを覚えています」とハリー・ペトロスは言います。新しい工場に対するマーチン兄弟の感激は,「国際聖書研究者協会の1928年の年鑑」に収められている,協会の会長にあてた彼の報告にはっきり表われています。その報告の中で彼は,工場批評家でさえ,「世界の印刷業の中心地であるニューヨークでも最もすぐれた印刷工場のひとつ」であると認めている,と述べました。同報告は,工場の運営についても次のように記述しています。

      「建物全体の図面はわたしたちの仕事にぴったり合っています。作業はすべて,引力に従って,また自然な順序で上の階から下の階へ流れます。つまり,一番上の階に事務所があり,当然の順序としてその下の階には植字部門があります。鉛版は6階に下り,そこで印刷が行なわれます。郵送の仕事と小冊子類は5階で扱われ,製本は4階,倉庫は3階,発送は2階,そして,予備の紙置場と車庫それに発動機は1階にあります。これに改善する余地があるでしょうか」。

      本部の職員も200人近くになっていましたから,ベテル・ホームの拡張も行なわれていました。1926年の12月中に,協会は,ブルックリンのコロンビア・ハイツ124番にある所有地に隣接した土地を買いました。1927年の1月初旬,122番と124番および126番の三つの建物が取り壊されて,80ほどの部屋を擁する9階の建物の建築が始まりました。それは1911年に完成した協会の建物の背後につけ足され,ファーマン通りに面していました。

      「エホバに教えられる」

      エホバは1920年代にご自分の民を確かに祝福され,王国の関心事を促進するために必要なものを備えられました。エホバは,また,ご自分が漸進的に啓示を与える神であることも示されました。聖書研究者は,やがて,自分たちの考えをいくらか調整する必要を知ったのです。しかし,彼らは神の導きを感謝し,『エホバに教えをうけ』ることをしきりに求めました。―ヨハネ 6:45。イザヤ 54:13。

      たとえば,神の民は1925年に対する考え方を調整しなければなりませんでした。彼らは,イスラエル人がカナンに入って以来50年ごとのヨベルの年の70回めが1925年に当たると考えて,その年に回復と祝福を期待していたのです。(レビ 25:1-12)A・D・シュローダーはこう語っています。「その時にはキリストの油そそがれた追随者の残りの者が天へ行って王国の成員となり,アブラハムやダビデそして,その他昔の忠実な人々は君たちとして復活し,神の王国の一部である地の政府を受け継ぐものと考えられていました」。

      1925年となり,その年は過ぎました。しかし,イエスの油そそがれた追随者たちはひとつの級としてなお地上にいました。また,アブラハム,ダビデほか昔の忠実な人々は,復活して地の君たちになってはいませんでした。(詩 45:16)その時の様子をアンナ・マクドナルドは次のように回顧しています。「1925年は多くの兄弟にとって悲しい年でした。希望がくじかれたために,ある人々はつまずきました。『古代の名士たち』(アブラハムのような昔の人たち)の幾人かが復活するのを見ることができるという希望を持っていたのです。ひとつの『可能性』と見る代わりに,その人たちはそれが『確実なこと』として読み取り,中には,自分の愛する人が復活するかもしれないと期待して,その人たちのために仕度をする人もありました。わたし自身は,わたしを真理に導いてくださった姉妹からお手紙を受け取りました。それには,以前わたしに間違ったことを言って申し訳ない旨が書かれていました。……(でも)わたしは,自分がバビロンから解放されたことを感謝していました。わたしはエホバを知り,エホバを愛するようになったのです。いったい他のどこへ行けるでしょうか」。

      神の忠実なしもべたちは,ある定まった年までしか神に献身していなかったのではありません。彼らは永遠に神に仕える決意をしていました。そのような人々は,1925年に対して抱いていた期待がはずれたからといって,大きな支障をきたしたり信仰を弱めたりしませんでした。ジェイムズ・ポウロスはこう語っています。「忠実な人々にとって,1925年はすばらしい年でした。エホバは,『忠実で思慮深い奴隷』を通して,啓示の12章の意味するところにわたしたちの注意を向けさせました。『女』が神の宇宙的な組織であること,天で戦争があり,サタンと悪霊たちはイエスと聖なるみ使いに敗れて天廷から放逐されたこと,そして神の王国の誕生のことを学びました」。ポウロス兄弟が,1925年3月1日号の「ものみの塔」誌に載せられた,「国民の誕生」と題する非常に注目すべき記事を念頭に置いていることは明らかです。その記事を通して,神の民は,対立する二大組織である,エホバの組織とサタンの組織がどのように象徴されているかをはっきり識別しました。さらに,1914年に始まった『天での戦争』の結果天から追い落とされて以来,悪魔はその活動を地に限らなければならなくなっていることも学びました。

      祝いと祭日

      「昔の大会では,プログラムの合間にみなさんとおしゃべりしていると,数名の人からそれぞれの『マナ』の本(『信仰の家の者のための日々の天のマナ』)を差し出され,『マナ』に住所と名前を書いてほしいと言われることがありました。自分の誕生日の日付が載っているページの反対側の,何も書いてないページに住所と名前を書くと,その人たちは誕生日に当たる日の朝その日の聖句を読んで,誕生祝いのカードや手紙をくださることがありました」,とアンナ・E・ジンママンは書いています。

      このように,初期の時代には,献身したクリスチャンたちは誕生日を祝っていました。そうであれば,イエスの誕生日とされている日を祝っても不思議はないのではありませんか。彼らは長年の間その祝いも行なったのです。ラッセル師の時代,ペンシルバニア州アレゲーニーの古い聖書の家ではクリスマスが祝われました。オラ・サリバン・ウェイクフィールドは,ラッセル兄弟が,クリスマスの時,聖書の家の成員に5㌦か10㌦の金貨を与えたのを覚えています。メーブル・P・M・フィルブリックは,「今では絶対に行なわれないことですが,ベテルの食堂にクリスマス・ツリーを飾ってクリスマスを祝う習慣がありました。いつもは,『みなさん,おはよう』と言うラッセル兄弟が,『みなさん,クリスマスおめでとう』と言いました」と述べています。

      聖書研究者がクリスマスを祝うのをやめたのはなぜですか。リチャード・H・バーバーが次のように答えてくれました。「わたしは,(ラジオの)中継放送を通してクリスマスに関する1時間の話をするよう頼まれました。その放送は1928年12月12日に行なわれ,『黄金時代』の241号に掲載されました。また,1年後に同誌の268号にも掲載されました。その話は,クリスマスが異教に起源を持っていることを指摘していました。その後,ベテルの兄弟たちは決してクリスマスを祝いませんでした」。

      チャールズ・ジョン・ブランドラインは,「わたしたちは,そうした異教のものを捨てることに反対したでしょうか」と問いかけ,「そういうことは全くありませんでした。新しく学んだ事柄に従うことにすぎなかったからです。わたしたちは,それらが異教のものだということを知りませんでした。ちょうど,汚れた上着を脱いで捨てるようなものでした」と語っています。続いて廃止されたのは,被造物崇拝の色がさらに濃い,誕生日の祝いと母の日でした。リリアン・カンメルド姉妹は次のように回顧しています。「兄弟たちはそうした祭日の祝い全部をすぐさまやめ,自由になってうれしいと言いました。新しい真理はいつもわたしたちを幸福にします。そして……わたしたちは,他の人々の知らないことを知っているのは特権だと思いました」。

      他の見解上の変化

      神のみことばの理解が深まるにつれ,クリスチャンの考え方にもさらにいくつかの調整が加えられました。グラント・スーターによると,それが顕著に見られたのは1920年代の後期でした。彼はこう語っています。「その数年間,聖句や手続き上の事柄に対する見方に絶えず調整が加えられたように思われます。たとえば,キリストの体の眠りについている忠実な成員は1878年に復活しなかったこと(かつてはそう考えられていた),命は血にあること,黒ずんだ衣服は変えた方がよいことなどが『ものみの塔』で指摘されたのは1927年でした。(1927年の『ものみの塔』[英文]の150-152,166-169,254,255,371,372ページをご覧ください。)それについては,エホバのクリスチャン証人の公開講演者たちはそれまで長い間黒のフロックコートを着用していましたが,前年の1926年,5月25日から31日にかけて英国のロンドンで開かれた大会の時に,ラザフォード兄弟は普通の背広を着て演壇から話をしました。

      もうひとつの見解上の変化は,1891年1月から「ものみの塔」誌の表紙に付けられていた,「十字架と冠」の表象に関するものでした。実際のところ,聖書研究者は長年にわたってその記章をつけていました。それがどのようなものであったかを,C・W・バーバーは次のように書いています。「それはバッジでした。月桂樹の葉の輪の中に冠があり,その冠を十字架が斜めに貫いていました。それはとても魅力的に見えました。その記章には,時が来て勝利の冠をつけることができるように,自分の『十字架』を取ってキリスト・イエスに従うという意味があると考えられていました」。

      『十字架と冠のバッジ』をつけることについて,リリー・R・パーネルはこう語っています。「ラザフォード兄弟は,それはバビロン的だから廃止すべきだと考えました。兄弟はわたしたちに,人々の家に行って話を始める時,そのこと自体が証言なのであると言いました」。それで,1928年にミシガン州のデトロイトで開かれた聖書研究者の大会でのことを,スーター兄弟は次のように書いています。「その大会で,十字架と冠の表象は不必要なばかりか好ましくないことが示されました。それでわたしたちはその装飾品のたぐいを捨てました」。それから3年ほどして,1931年10月15日号の「ものみの塔」誌から表紙に十字架と冠の表象がつかなくなりました。

      2,3年後,エホバの民はイエスが十字架の上で死んだのではないことを初めて知りました。1936年1月31日に,ラザフォード兄弟は「富」と題する新しい本をブルックリンのベテル家族に発表しました。その27ページには,聖書に基づいて一部こう書かれていました。「イエスは,多くの像や絵画に描かれているように,木の十字架にはりつけにされたのではありません。そうした像は人間が作って形にしたものです。イエスは一本の木に体をくぎ付けにされました」。

      『なんぢらはわが証人なり これエホバ宣給へるなり』

      1929年10月29日の「黒い火曜日」,世界は衝撃を受けました。株式市場が破局に陥ったのです。「全国的な売り逃げの大勢 ― 株式相場は140億ドルに暴落。銀行は今日,市場の買い支えを予定」。こうして1930年代を襲った世界大恐慌が始まりました。しかし,この深刻な経済的困窮の時期に,エホバはご自分の民に霊的な備えを豊かにお与えになりました。また,『なんぢらはわが証人なり われは神なり これエホバ宣給へるなり』ということばの底にある深い意味を非常にはっきりと悟らせられました。―イザヤ 43:12。

      神のお名前はいっそう強調されるようになりました。たとえば,数年間にわたる「ものみの塔」誌の1月1日号に掲載された主要な記事は次のとおりです。「だれがエホバをたたえますか」(1926年),「エホバとそのみわざ」(1927年),「そのみ名をほめたたえなさい」(1928年),「わたしはわたしの神を賛美します」(1929年),「エホバに向かって歌いなさい」(1930年)。

      しかし,エホバのみ名を高めるうえで里程標となったのは,1931年7月24日から30日にかけてオハイオ州コロンバスで開かれた神の民の大会でした。それは全地の他の165か所でも同時に行なわれるよう計画された点で類例のない大会でした。しかし,そのことは最も大切な要素ではありませんでした。それよりずっと重要なことがあったのです。その重要なことは,印刷された大会のプログラムや「使者」という大会の新聞の第一面につけられた,また実際多くの場所に見られた「JW」というなぞの文字と関連していました。バーニス・E・ウィリアムズ2世は,「大会会場に近づくと,いたるところに『JW』という文字が見えました。しかし,それがどういう意味かわからず,みんな,『JWとは何だろう』といぶかっていました」と述べています。ハーシェル・ネルソン姉妹はその時の思い出を「JWが何を表わしているかいろいろ憶測されました。Just Wait(ちょっと待て)とかJust Watch(ちょっと用心しなさい)など,そして正しい意味は……」と語ります。

      「JW」の意味は1931年7月26日,日曜日に明らかにされ,その時,感動した大会出席者は,J・F・ラザフォードが提出した「新しい名前」と題する決議を心から採択しました。それは一部次のように述べました。

      「それゆえに今,私たちの真の立場を知らせるため,またそれがみことばに表明されている神の意志と調和するものであることを信じて,次のように決議いたします。

      「私たちはチャールズ・T・ラッセル兄弟をその働きのゆえにこよなく愛しており,主が同兄弟を用いて,その働きを大いに祝福されたことを喜んで認めるものですが,神のみことばに終始一貫従う者として,『ラッセル信奉者』という名称で呼ばれることには承服できません。ものみの塔聖書冊子協会,国際聖書研究者協会および一般人伝道者協会という名称は,クリスチャンである私たちが一団として神のご命令に従って私たちのわざを遂行するために保持し,管理し,用いている法人の呼称にすぎません。それらの名称はいずれも,私たちの主で主人であるキリスト・イエスの足跡に従うクリスチャンの団体としての私たちに正しく結びつく,もしくは当てはまるものではありません。私たちは聖書の研究者ですが,協会を組織しているクリスチャンの団体として,主のみ前における私たちの正しい立場を明らかにする手段としては,『聖書研究者』その他同様の名称を持つ,あるいはそうした名称で呼ばれることを拒みます。私たちはいかなる人間の名前を持つことも,あるいはそれで呼ばれることをも退けます。

      「また,私たちの主で,買い戻し手であるイエス・キリストの貴い血をもって買い取られ,エホバ神によって義とされ,生み出され,そしてその王国に召されたゆえに,私たちはエホバ神とその王国に対して全き忠誠と専心の限りを尽くすことを,ためらうことなく断言します。私たちはエホバ神のしもべであって,その御名によって仕事を行ない,またそのご命令に服してイエス・キリストの証しを伝え,エホバが真の,そして全能の神であられることを人々に知らせるわざを委ねられています。それゆえに,私たちは主なる神が御口をもって命名した名称を喜んで採用し,また用います。私たちは,すなわちエホバの証人という名称で知られ,また呼ばれることを欲するものです」。

      これではっきりしました。なぞの文字「JW」はJehovah's Witnesses(エホバの証人)を表わしていたのです。「そのことがついに知らされた時,大会会場に割れるような歓声と拍手が響き渡ったのを決して忘れないでしょう」とアーサー・A・ウォースレイは断言します。そして,ハーバート・H・ボイクはこうつけ加えます。「コロンバス市のいたる所で,商店の窓の『I.B.S.A.を歓迎』という広告は取られて,『歓迎,エホバの証人』という広告になりました」。

      エホバの証人という名前を受け入れるのは感動的なことでした。「新しい名前」と題する決議は,コロンバスに集まった何千人というキリストの油そそがれた追随者によって,喜びのうちに採択されただけでなく,後日,各会衆も同様の決議を採択しました。エホバの証人は,世界の他のだれも望まない名前を持ちました。しかし,神のしもべたちはその名前に深く感謝したのです。―イザヤ 43:12。

      A・H・マクミランは,88歳の時,同じ都市におけるエホバの証人の「霊の実」大会に出席しました。1964年8月1日,そこにおいてマクミラン兄弟は,その名前が採択されたいきさつを興味深く語りました。

      「わたしは,……新しい名称もしくは名前……を受け入れた1931年にコロンバス大会に出席する特権を得ました。わたしは,その名前を採用する計画に対して意見を求められた5人のうちのひとりだったので,簡潔にこうお話ししました。その名称は,わたしたちが何を行なっているか,またわたしたちの務めは何かを世の人々に伝えるので,すばらしい名前だと思う。それ以前にわたしたちは聖書研究者と呼ばれたが,なぜかというと,わたしたちはまさしく聖書研究者だったからである。他の国の人々がいっしょに研究するようになって,わたしたちは国際聖書研究者と呼ばれた。しかし,今やわたしたちはエホバ神の証人であり,その名称は,わたしたちがどのようなものであり,何を行なっているかをそのまま一般の人々に伝える。……

      「実際のところ,そのように導かれたのは全能の神であった,とわたしは信じます。というのは,ラザフォード兄弟自身がわたしに次のような話を聞かせてくれたのです。ラザフォード兄弟は,その大会の準備をしていたある夜目を覚まして,『特別な講演とか音信もないのに,いったいなぜわたしは国際大会を提案したのだろう。なぜみんなをここへ集めるのだろうか』とつぶやきました。そして,そのことについて考え始めると,イザヤ書 43章が頭に浮びました。彼は夜中の2時に起きると,机に向かい,王国は世界の希望という講演と新しい名前に関する話の筋書を速記しました。あの時彼が行なった話はすべて,その夜,つまり朝の2時に準備されたのです。わたしは,主がラザフォード兄弟を導かれたことに対して,昔も今も一点の疑いも持っていません。それはまさしく,わたしたちの名前としてエホバが望んでおられるものであり,わたしたちはその名前を与えられて大きな喜びと幸福を感じています」。

      「王国は世界の希望」

      コロンバス大会で,1931年7月26日,日曜日の正午に,J・F・ラザフォードによる「王国は世界の希望」と題するきわめて重要な公開講演が始まりました。ナショナル放送会社とコロンビア放送制度の双方は放送施設の使用を断わりました。しかし,エホバの崇拝者たちは,コロンバスからその音信を伝える放送網を作ったのです。アメリカ電信電話会社は,「この特殊な放送網は,個人の放送網としては放送史上最大のものである」と言いました。音信は,アメリカ,カナダ,キューバおよびメキシコの163の放送局を通して伝えられました。

      放送網による講演,「王国は世界の希望」が終わるとすぐ,ラザフォード兄弟は,「支配者と人々に対するエホバからの警告」と題する決議文を読み,それも放送されました。その決議文は,とりわけ,「世界の希望は神の王国にあり,他に希望はひとつとしてありません」と言明していました。そして,神の王国の側に立つよう人々に勧めました。ラザフォード兄弟が,見える聴衆と見えない聴衆に決議を採択するよう呼びかけると,大会出席者はいっせいに立ち上がり,大きな声で「はい」と言いました。アメリカ全国から寄せられた電報によれば,ラジオの聴衆の多くも同様に起立してその決議を承認しました。

      僧職者を含め,世界の指導者は,ラザフォード兄弟が大会で行なった講演,「王国は世界の希望」の内容を知らされることになっていました。また,彼らは「エホバからの警告」という決議の内容も知らねばならない立場にありました。さらに,神の真のしもべが「新しい名前」と題する決議文を採択し,以後「エホバの証人」と呼ばれることも知る必要がありました。このすべては「王国は世界の希望」と題する小冊子が配布されることにより行なわれました。エホバの証人は,一般の人々を訪問するほか,僧職者や政治家,資本家や軍人を訪れてその小冊子を配布しました。2か月半のうちに500万部以上が発行されましたが,それでも同小冊子を用いてのわざが完了したのはずっと後のことでした。

      小冊子の運動を回顧して,フレッド・アンダーソンは次のように書いています。「わたしは,ラ・クロッセの司祭を訪問しました。その司祭はたいへん丁重にわたしを客間に通してくれました。そこで,わたしは訪問した理由を話して小冊子を差し出しました。司祭はそれを見て何も言いませんでした。わたしは彼に礼を言っていとまごいをしました。司祭は激怒して,戸口から出て行くわたしに小冊子を投げつけました。それは床に落ちました。彼はそれを拾い上げると,わたしがちょうど網戸を閉める時にもう一度投げつけました。小冊子は閉められた戸に当たりました。司祭は小冊子を処分することができなかったのですから,それを読んでくれたことを願っています」。C・E・バートウはこんな風に話してくれました。「ひとりの牧師は,わたしから受け取ったものが何であるかわかると,わたしに対して金切り声を上げ,『無知なやからめ! 8年間も神学者をしているわたしがおまえたちに言われることなどない!』と言いました。わたしは,真の神に仕えていることをほんとうに幸福に思いました」。

      物々交換が行なわれる

      1930年代は恐慌のために非常に苦しい時代でした。工場は閉鎖され,1932年までに,1,000万人を上回るアメリカ人が失業していました。農業従事者,都市生活者にかかわらず一般大衆は世界大恐慌の影響を感じていました。

      お金には乏しくても,心の正直な人々は聖書の真理の喜ばしい音信を必要としていました。エホバの証人はしばしば,聖書文書の代金を寄付できない人に文書を無料で置いてきました。しかし,いつもそうするわけにもいきませんでした。それでどうしたでしょうか。マーガレット・M・ブリジェットは次のように回顧しています。「わたしたちは,卵とかバター,生のくだものやカン詰めのくだもの,にわとり,メープル・シロップといった品物と交換しました。それに,わたしは,ふとんがわとかクッションがわ,タッチングで作ったレースや自家製の敷物というような手芸品と引き換えにしました。借りていた部屋の代金を,そうしたもので支払ったことも時にあります。……(数年後)わたしはギレアデ(宣教者学校)の卒業式に出席しましたが,ふとんがわと引き換えにわたしから書籍一式を求めた姉妹もそこに出席していました。その人は真理を受け入れて開拓者(全時間の伝道者)になっており,彼女の息子さんも関心を持っていました」。

      アーデン・ペイトとジョン・C・ブースは,お金のない人から文書と引き換えに得たにわとりを入れる小さなかごを自動車の後部に置いたことを覚えています。いうまでもなく,にわとりと文書を交換するのは必ずしも簡単なことではありませんでした。ルラ・グローバーは次のように書いています。「わたしたちは,アラバマ州,ジョージア州,フロリダ州,北および南カロライナ州の多くの区域,そしてテネシー州とミシシッピー州の一部を網らしました。グリーン姉妹とわたしが広い農家の庭でにわとりを追い回す様子をご想像いただけますか」。

      農産物その他の品物と文書を交換することは,利己的な理由で行なわれたのではありません。人々は良いたよりを必要としていたのであり,良いたよりを印刷物の形で得るためのひとつの方法が物々交換だったのです。「エホバがわたしたちを支えてくださることをわたしたちはいつも感謝しました。衣食住で必要な物はいつも備えられていました」とマックスウェル・L・ルイスは語っています。

      分団運動

      1930年代は,また,王国を宣べ伝えるわざが非常に反対を受けた時期でもありました。エホバの民は1928年まで日曜日に戸別訪問による証言を行なっていましたが,たちまち反対が起こりました。その年代に,エホバの証人は,許可なく販売をしているとか,平和を乱すとか,日曜日に安息日の律法を犯しているとかといった事柄で偽りの告発を受け,多数の逮捕事件がありました。ものみの塔協会は相談を受ける法律部門を設け,王国宣布者が法廷で自分の立場を弁護するのを助けるために,「裁判の手続」を発行しました。不利な判決は上訴されました。

      しかし,その他にも行なわれたことがありました。1933年,1万2,600名のアメリカの証人は,市民の反対がある地域で,特別な使命をもって戸別の伝道をするという短い知らせに進んで応じました。彼らは78の分団に組織され,各分団に相当数の自動車が配備されました。1台に奉仕者が5人ずつ乗り込み,10台から200台が問題の地点に派遣されました。野外奉仕中にだれかクリスチャンが逮捕されると,それは協会に伝えられました。招集がかかり,事件後すぐの日曜日に,ひとつの分団の自動車グループ全部は予定されていた集合地点に集まります。通常それはいなかが選ばれました。そこで指示や区域の割当てを受けると,「いなご」のように町を包囲攻撃して,時には30分から1時間のうちにくまなく証言しました。(啓示 9:7-9)一方,兄弟たちからなる委員は警察に行ってその朝そこで伝道を行なっている証人全部の名前を知らせました。運動中に逮捕された王国伝道者は,警察署に着き次第,決められたところに電話をかけると弁護士が保釈金を持ってかけつける手はずになっていました。

      バーニス・E・ウィリアムズ1世によれば,ある運動の場合,まず10台の自動車が証人を乗せて区域に行きました。彼はこう続けています。「しばらくして,区域に出かけた人々は逮捕されたことを連絡してきました。すると,さらに10台の自動車がくり出されて,留置場はいっぱいになりました。留置場がいっぱいになると,わたしたちは大挙してくり込みました。おわかりのように,当局にはわたしたちを逮捕して入れる場所がなかったのです。わたしたちがその区域で奉仕する決意をしていることがわかると,彼らは簡単にあきらめたので,わたしたちはそこへ行って好きな時に奉仕することができました。わたしたちはいつも勝ちました」。

      ニコラス・コバラク2世は,証人たちは逮捕されるのを覚悟していたと言い,次のように回顧しています。「警官がわたしたちを逮捕して『貴重品』を取り上げると,どの証人も歯ブラシを持っていたものです。警官は『どうしてみんな歯ブラシを持っているんだ』と尋ねました。わたしたちはみな,『逮捕されて留置場に入れられるのを覚悟しているので,用意して来たのです』と答えました。彼らはさじを投げて,『どうしようもない』と言ったものです。彼らは証人をおどしたり,伝道をやめさせることはできないのを知っていました」。

      1933年から1935年にかけてそうした運動が行なわれてから数十年たちますが,昔の参加者たちはその時のことを懐かしく回顧しています。ジョン・ダルチノスは語ります。「確かに当時は感動的な時代でした。それは貴重な思い出です。エホバの霊によってわたしたちは恐れを知らないものとなりました」。

      電波をめぐる戦い

      高まる反対にもかかわらず,1930年代初期のエホバの証人は戸別に訪問して王国の音信を大胆に宣明しました。しかし,良いたよりはラジオを通して何百万もの家庭に達するようになり,僧職者たちを仰天させました。当時ものみの塔協会は国際的に408の放送局を使用していました。1933年の春,アメリカのカトリック教徒は枢機卿や司教および司祭に率いられて全国的な運動を開始しました。その目的とは,「ラザフォードを電波から追い出す」ことでした。

      法王ピオ11世は1933年に「聖年」を宣言しました。その年の4月23日,ラザフォード兄弟は55の放送局を通して,「平和と繁栄におよぼす聖年の影響」と題する歴史的な講演を行ないました。その中で,ローマ・カトリックによって人々に差し伸べられたむなしい希望は神の王国によって来ると約束された平和と繁栄に代ろうとする偽物であるとの烙印が押されました。また同じ講演を1933年6月25日に158の放送局を通して再放送する計画もありました。その放送に備えて,500万枚のちらしが各家庭に配られました。カトリック教会は猛烈に激怒し,おどしを強めていったため,ものみの塔の番組を放送することを拒絶した放送局もありました。

      1933年の下旬から1934年の初めにかけて,エホバの民は,そうしたカトリックの行為に抗議する嘆願状を全国的に回布しました。アメリカの議会にあてられたその嘆願状は,ついに,241万6,141の署名を得ました。1934年10月4日,J・F・ラザフォードは連邦通信委員会に出頭しました。彼は,特定な例とか統計を用いて,カトリックの圧迫がエホバの証人の崇拝の自由と,公共の益のためのラジオの使用をはなはだしく害したと報告したのです。連邦通信委員会は,証言を受けて事実が明らかになったにもかかわらず,ほとんど手を打とうとはしませんでした。したがって,エホバの証人はもう一度嘆願状を全国的に回布しました。この嘆願状も議会にあてられたもので,228万4,128の署名を得て1935年1月に提出されましたが,何の考慮も受けませんでした。その後の事情により,ついに,三番目の全国的な嘆願状が回布されるに至りました。263万人の署名者は,おどしとボイコットの手段に抗議し,ローマ・カトリック教会の高位僧職者とラザフォード判事との公開討論会を取り決めるよう要求しました。嘆願状の回布のわざに携わった,レオナルド・U・ブラウンは,「その討論を聞けたらうれしいというカトリック教徒にたくさん会った」と述べています。嘆願状は,1936年11月2日に連邦通信委員会に提出されましたが,またもや無視されました。

      カトリックの僧職者はラザフォード兄弟と討論しませんでしたが,協会は1937年に「暴露」と題する小冊子を発行しました。それには,特にカトリックの偽りの教理を反ばくする基本的な聖書の教理が示されていました。家の人がその出版物に目を通している間に,証人は,ラザフォード兄弟の吹き込んだ「摘発」という一連のレコードを掛けました。「模範研究」第一号という質問集を使って聖書研究が行なわれることもありました。そのことについて,メルビン・P・サージァントは次のように書いています。「わたしは,ある男の人からそのレコード集を持って彼の家へ行くよう招かれました。その人は,研究に参加するよう親せきから3組の夫婦を招いていました。『摘発』のことや,『宗教とキリスト教』といった他のいくつかの題目を網らするのに数週間かかりました。出席した8人のうち6人がエホバに献身しました」。

      1937年の11月以降,エホバの民は商業放送を利用することを自発的にやめました。その後も時折,協会の会長は放送網を通して公開講演をしました。また,WBBRが引き続き神の栄光のために働いたことはいうまでもありません。しかし,1937年の末から1940年代にかけて,幾百万もの家庭に王国の音信を伝えるため,蓄音機と聖書講演のレコードを使用することが盛んになって行きました。

      「大群衆」を構成するのはだれか

      これはエホバの民の間で長年にわたりさかんに論議されていた問題でした。長い間彼らは「大いなる群衆」(新世界訳では「大群衆」)を,天において14万4,000人と交わる副次的な霊的級,つまり,キリストの花嫁の付添人もしくは「友だち」であると考えていました。(詩 45:14,15。啓示 7:4-15; 21:2,9)それに加えて,早くも1923年に,イエスの羊とやぎに関するたとえ話の「羊」は,ハルマゲドンを生き残って神の新秩序へ入る現代の地的級であることが明らかにされました。(マタイ 25:31-46。啓示 16:14,16)「弁明」の1931年版(第一巻)は,生き残るために額にしるしを付けられた人々がキリストのたとえ話の「羊」であることを示しました。(エゼキエル 9章)1932年,現代の「羊」級はエヒウの随伴者であるヨナダブによって予表されていたという結論が下されました。1934年には,地的な希望を持つ「ヨナダブたち」は「聖別」されねばならない,すなわちエホバに献身した関係に入らねばならないことが初めて明らかにされました。しかし,啓示の7章で言及されている「大いなる群衆」がだれであるかは,それまでと同様に考えられていました。

      「大いなる群衆」に関する疑問が取り除かれたのは,1935年5月30日から6月3日にかけて首都ワシントンで開かれたエホバの証人の大会中,ラザフォード兄弟がその主題を論じた時のことでした。その講演は,「大いなる群衆」が終わりの時の「ほかの羊」と同一の人々を指すことを聖書から明らかにしました。ウエブスター・L・ロウは,最高潮の時にJ・F・ラザフォードが,「地上で永遠に住む希望を持つ方々は全員起立していただけませんか」と言ったのを覚えています。ロウ兄弟によれば,「聴衆の半数以上が起立しました」。すると話し手は,「ご覧なさい。大いなる群衆です」と言いました。「最初,シーッという声が掛かりましたが,その後,喜びの叫びや歓声が高く上がってなかなか静まりませんでした」とマイルドレッド・H・コッブは回顧しています。

      まもなく大会は終わりましたが,開始された事柄があります。それは捜すことです。「熱意が高まり,霊性が新たになったわたしたちは,まだ集められていない羊のような人々を捜すために自分たちの区域へ戻りました」とサディー・カーペンターは語っています。

      主の夕食の時にそれまで象徴的なパンとぶどう酒にあずかっていた人の中には,1935年の大会のあとそれにあずからなくなった人がいました。それは,その人たちが不信仰になったからではなく,自分の抱く希望が天的なものでなくて地的なものであることを悟ったからです。また,それまで長年発行されていた協会の出版物は主としてイエスの油そそがれた追随者を対象にしていましたが,1935年以降「ものみの塔」誌や他のクリスチャンの出版物は,油そそがれた級と地上での見込みを持つ彼らの仲間双方を益する霊的な食物を供給しました。

      真理を鳴り響かせなさい!

      1930年代に,王国宣布者たちは羊のような人々を捜すために蓄音機を用いました。そのことについて,ヘンリー・カントウェルはこんな風に話してくれました。「協会が伝道のわざを拡大し始めた1933年に,全国各地で行なわれたJ・F・ラザフォード兄弟の講演を録音する取決めが設けられました。そのために,協会は電気蓄音機と呼ばれるものを作製しました。それは,バッテリーで動く,電気のピックアップつまり音管と増幅器および拡声装置の付いたバネ仕掛けの大きな蓄音機です。……そしてレコードにもいくつかの種類がありました。1枚で完結しているものもあれば,ひとつの講演が2枚から4枚のレコードに収められている場合もありました。つまり,15分の話,30分の講演それに1時間の講演があったのです。このようにして,わたしたちは自分が奉仕する様々な区域で公開講演を開くことができました」。

      ジュリア・ウィルコックスは,このわざをさらに説明し,「わたしたちはまず1時間の講演を行なえる家,時には公共の建物 ― 古い納屋や教会の場合さえあった ― を見つけたものです。それからほとんど丸1日戸別訪問をして講演を宣伝し,交通手段を持たない人々とは,連れに行く取決めを作りました」と書いています。

      蓄音機の集会を12回開くと一連の集まりが終わるのですが,その間に同じ区域は聖書文書を用いて3回網らされ,発表を携えて4回網らされます。店の窓にプラカードをつけたり,証人の自動車に広告をはったりして集会を宣伝することもしました。すぐれた結果が得られ,多くの人々は続けて勉強するためにやって来て,伝道のわざに参加することさえしました。

      ラルフ・H・レッフラーによると,「協会は33 1/3回転のレコード数百枚を用いて王国の音信を広めました」。彼はさらにこう述べます。「多くの場合,宣伝カーやトラックが用いられました。……『王国の音信』ということばは,多数の警笛の横につけられました。いうまでもなく,それが主題でした。通りのあちこちやいなかの至る所でその音信は聞かれました。……静かな夜などに,谷間の小さな町を見降ろす丘の頂上に宣伝カーを止めると,数キロ先でも音の聞こえることがありました」。

      ヘンリー・A・カントウェルはその思い出を次のように語ります。「区域に入ると,注意を引くために何か音楽のレコードをかけ,マイクロフォンを使って簡潔な発表をしてから講演のひとつを聞かせたものです。それから,お望みの方には係りの者が各家庭に伺ってさらにご説明します,と発表しました」。宣伝用の船もあり,同様に用いられました。

      しかし,エホバの証人が行なった蓄音機による伝道は反対を受けずに済みませんでした。たとえば,レンナート・ジョンソンは次のように書いています。

      「(イリノイ州の)ロックフォードの南に当たる郊外の第11番通りのある場所でのこと,宣伝カーによる伝道も王国の音信も好まない人がいました。その婦人は感情を抑え切れず,自分の車で宣伝カーのそばに接近すると,講演者のことばをかき消そうとするかのように警笛を3,4分の間思い切り大きく鳴らしました。それは,婦人の車のバッテリーがあがる結果になったに過ぎませんでした。その証拠に警笛はどんどん弱くなりました」。

      一方,宣伝カーに関係した愉快な経験もあります。ジュリア・ウィルコックスは,「最初こわがった人もいます」と言ってから,こんな話をしてくれました。「その人たちは宣伝カーから遠く離れた所で野良仕事をしていました。それで,天から神について話す声がしたように思ったそうです。裁きの日が来たのだと思って,野良仕事をやめて家に帰ろうとした家族もあったということさえ聞きました」。

      レコードを高らかに鳴らしなさい!

      長年の間,携帯用の蓄音機は王国の伝道で重要な役割を果たしました。このわざの発展にとって,1937年9月15日から20日にかけてオハイオ州のコロンバスで開かれたエホバの証人の全国大会は大きな意味を持ちました。エルウッド・ランストラムは,その大会についてこのように語っています。

      「この大会で,携帯用の蓄音機を玄関で用いて行なうわざのことが発表されました。それまで奉仕の時に蓄音機を持って行きましたが,家の中に招じ入れられた時にそれを掛けただけでした。……

      「コロンバス大会では,『特別開拓者』の組織のあらましが話されましたが,それは,レコードを使った玄関での証言の運び方,関心のある人々を引き続き援助し(当初は『バック・コール』と呼ばれた),『模範研究』と呼ばれる取決めに従って行なわれる聖書研究の仕方などを先頭に立って示すためのものでした」。

      その大会後まもなく,アメリカ全国からおよそ200名の特別開拓者が選ばれ,神の民の会衆がすでにあった大都市に派遣されました。それら全時間の伝道者は,携帯用の蓄音機を持って奉仕にでかけました。ほどなくして,エホバの証人一般が「蓄音機づい」て,協会のブルックリンの工場はわずか2年間に2万台を上回る蓄音機を作らねばなりませんでした。何万何千人もの王国宣布者はすべての人に聞かせるために蓄音機をかけて真理を鳴り響かせたため,それでも供給は需要に追いつきませんでした。

      王国伝道者が用いた蓄音機自体,時の経過とともに変化しました。1934年ごろには,バネ仕掛けのモーターが付いていて,数枚のレコードを入れる場所のある丈夫でがっしりした型の蓄音機がありました。レコードを6枚入れると,その重さは21ポンド(約9.5㌔)になりました。伝道者はその蓄音機でかなり鍛えられました。2年ほどして,協会はもっと軽い蓄音機を作りました。その後,1940年の大会で新しい縦型の蓄音機が紹介されました。それは協会本部の兄弟たちが設計し組み立てたもので,縦の位置で動きました。文書を入れるちょっとした場所さえもありました。そこには小さな弁当も入ったことでしょう。この型の蓄音機のおかげで,戸別訪問による伝道のわざは大いに楽になりました。

      では,30年ほど前に自分が王国宣布者として野外奉仕をしていると想像してみてください。「家の人が戸を開けると,わたしたちは,『あなたにお聞かせする音信があります』と言って,レコードの針を降ろしました。するとラザフォード兄弟の声が鳴りました」とL・E・ルーシュは当時を語ります。アンジェロ・C・マネラ2世は,「話の最後に,講演者はわたしたちが特に紹介している本にふれ,その値段を言いました。その後わたしたちは本を示して,相手に関心があればそれを配布しました」と言います。ジョージ・L・マッキーは,「わたしたちは決して無作法だったのではありません。どの人も王国の良いたよりを聞く必要があることを確信していたのです」と述べています。

      蓄音機によるわざは,反対を受けずには行なわれませんでした。オーニスト・ヤンスマは次のように話してくれました。「目の前で自分の蓄音機が文字通りさんざんに砕かれた人が何人かいました。他の人たちは,蓄音機を玄関へ乱暴に投げ出されました。中西部のひとりの兄弟は,怒った農夫が猟銃で蓄音機を吹き飛ばすのをそばで立って見ていました。そして,その場を立ち去る時に,銃弾がうなって彼の自動車をかすめるのを聞きました。その頃,人々は乱暴で狂信的でした」。アメリア・ロッシュとエリザベス・ロッシュは,ある家の玄関先で「敵」と題するレコードを掛けて一群の人々に聞かせた時のことを話してくれましたが,講演が終わると,ひとりの婦人が蓄音機からレコードを取って,「法王様のことをそんな風に言えると思っているの!」と言いながらそれを壊してしまったそうです。

      反対にめげず,蓄音機によるわざは進められましたが,1940年代には野外奉仕でそれを使用することは次第に行なわれなくなり,1945年以降は,10年間続いた蓄音機によるこの伝道運動は戸口で行なわれる口頭の証言に取って代わられ始めました。

      昔行なわれた証言上の工夫のひとつに,1933年末に取り入れられ1940年代までよく用いられた証言カードがあります。ジョン・グローとヘレン・グローの説明によれば次のとおりです。「良いたよりの伝道者は現在ほど多くなく,また十分訓練されてはいませんでした。わざの助けとして,また区域をより良く網らするために,わたしたちは証言カードというものを用いました。それは印刷された短い聖書の話で,人々にそれを読んでもらいました。読みたくないと言う人や,手もとに眼鏡がなくて煩わしそうにする人には,わたしたちがカードに書いてあるのと同じ事柄を話してあげました」。

      王国を宣伝するもうひとつの方法

      1936年に開かれた,ニュージャージー州ニューアークの大会の時から,王と王国を宣伝するエホバの民に一般の人々の注意を促した大切なわざが始まりました。それがさらに進展したのは,1938年に英国のロンドンで開かれた大会の時です。数年後,このわざは,情報行進と呼ぶにふさわしいほどのものになりました。1936年のニューアーク大会を振り返って,ローザ・メイ・ドレヤーはこう語っています。「主要な講演を宣伝するために,『サンドイッチ広告』つまり肩から前と後ろにつるしたプラカードが用いられました。(伝道者はプラカードで『サンドイッチ』にされたのです。)ビラも配られました」。

      1938年のロンドン大会の時,J・F・ラザフォードの指示で,数人の情報行進者はさおに付けた非常に考えさせる内容の広告を携えていました。A・D・シュローダー(当時英国で協会の支部事務所の監督をしていた)は一部このように話してくれました。

      「……次の夜,ノア兄弟とわたしは最初の行列の先頭を歩きました。それはおよそ10キロにわたる行進で,千人ぐらいの兄弟たちがロンドンの目抜き通りを歩いたのです。『事実を直視せよ』というプラカード(ロイヤル・アルバート・ホールで行なわれる公開講演の宣伝)を持った人と,『宗教はわなであり,商売である』というプラカードを持った人が交互に並んでいました。それは実に,その晩の見物でした。

      「翌朝ラザフォード兄弟はわたしを彼の事務所に呼んでどんなことがあったかを報告させました。わたしは,非常な注目を集めたこと,また多くの人はわたしたちの後で『共産主義者』と叫んだことを話しました。すると彼はペンでいたずら書きをしながら数分の間考えていました。もう一枚の紙がはぎ取られてわたしに手渡されました。そこには,『神と王であるキリストに仕えなさい』と書いてありました。ラザフォード兄弟はわたしに,三番目の広告にそのようなことばを載せれば,前の夜のやじを打ち消すことができると思うか尋ねました。わたしは,『そう思います』と答えました。そこで彼は,そのことばを印刷して次に行なわれる2日後の夜の行列で使うように指示しました。わたしたちはそのとおりに行ない,すぐれた結果を得ました。こうして,わたしたちは三つの広告を交代に用いて,大会の開催日である9月9日から11日以前に目立つ行列を数回行ないました。英国政府は何年もの間,わたしたちがラジオから教育番組や発表を放送するのを認めませんでしたから,行列を用いるその方法は,一般の人に知らせるのにたいへん効果的なことがわかりました」。

      グラディス・ボルトンにとって,情報行進は「すべてのわざの中で一番難しいわざ」でした。彼女は,「各のプラカードの内容は異なっていましたが,わたしの頭から離れないのは『宗教はわなであり,商売である』というプラカードです。牧師はそれをどんなにか『喜んだ』ことでしょう」とも語っています。「宗教はわなであり,商売である」という広告について,ウルスラ・セレンコは次のように述べています。「その時には『真の宗教』とか『偽りの宗教』とか呼びませんでした。宗教はすべてひっくるめて悪とされました。わたしたちが真のと言えば『崇拝』のことを指していたのであり,偽りのものは『宗教』でした」。

      情報行進に対して時々あからさまな敵意が示されました。「(ペンシルバニア州の)ピッツトンのようないくつかの町では,わたしたちは快く受け入れられませんでした。多くの人々はわたしたちにつばを掛けたり,ありとあらゆる種類の下品な名前で呼び,わたしたちが共産主義者だと言いました。物を投げたり,ある人は実際にこぶしで殴ったりしました」とジョン・H・ソヴィルダは語ります。

      では,エホバの証人はなぜ情報行列に加わったのでしょうか。「偽りの崇拝に関係した事柄や,わたしたちクリスチャンのわざに向けられている反対のことを人々に知ってもらうのは重要だと感じていたのがおもな理由です」とチャールズ・C・エベールは語ります。アンジェロ・C・マネラ2世は次のように述べています。「わたしたちが行なうよう計画された奉仕の新しい方法をエホバに仕える別の仕方,エホバに対する自分の忠節を示すもうひとつの方法,忠誠に対する別の試みというように見なしました。わたしたちは,エホバが求めるならどんな方法ででもエホバに喜んで仕えたいと思っていることを是非証明したいと望んでいました。

      グラント・スーターは,情報行進が「ものみの塔」誌上の発表により1939年11月以降行なわれなくなったと語り,さらにこう付け加えました。「エホバの証人の奉仕に多くの人の注意を向けることに成功したこの珍しい方法は,その時代に類を見ないものでした。それが用いられるようになったことも,用いられなくなったことも,そこにエホバの指導があったことを示しています。最近(1970年代の)あらゆる形のデモが一般に行なわれていますが,わたしたちはどんな方法にせよそれに参加していませんし,わたしたちが行なっているどんな事もそうしたデモと混同されてはなりません」。

      雑誌を通して「真の知恵」を広める

      王国伝道者には,戸別訪問による伝道の際に「ものみの塔」誌や「慰め」誌の予約を提供することにより,「大群衆」を集めたり真の知恵を広めたりすることに貢献するすぐれた機会がありました。1938年の4月から6月にかけて行なわれた,「慰め」誌の初めての予約運動中,アメリカで7万3,006件の新予約が得られました。毎年行なわれる「ものみの塔」誌の予約運動が初めて行なわれたのは1939年の1月から5月にかけてでしたが,その時アメリカのエホバの証人だけで9万3,000件の新しい予約が得られました。

      しかし,「ものみの塔」誌と「慰め」誌は,特別な方法で一般の注意を引くことになっていました。「真の知恵」は文字通り『街にその声をあげ』ようとしていたのです。(箴 1:20)それは,つまり1940年2月から始まった街頭での雑誌活動のことです。この活動をするエホバの証人は,特別なデザインの雑誌用カバンを肩から掛けて繁華街の角に立ちました。そのカバンには,二種類の雑誌の名前が書いてあり,1冊5㌣寄付であることが示されていました。王国宣布者は,「慰め」誌を高く掲げて,「他の雑誌があえて印刷しようとしない事実を載せています」と大きな声で言うこともありました。他の標語の中には,「宗教の商売を暴露しています」とか「『ものみの塔』誌は神権政府を説明しています」というのがありました。そのわざをする伝道者は街頭でていねいなことばづかいをし,上品な態度を保つよう勧められました。いうまでもなく通行人は引き付けられ,多くの人々が好意的に応じました。

      雑誌の街頭伝道がどのようないきさつで行なわれるようになったかを知りたい方もおられることでしょう。S・E・ジョンストンの記憶では,1939年に協会はすべての地帯のしもべ(今日の巡回監督の前身)にあてて「ものみの塔」誌と「慰め」誌を人々に手渡す様々な方法を試みるようにという手紙を送りました。ジョンストン兄弟は,新聞配達の少年が肩から袋をさげているのを思い出して,「ああいったものを試してみるのはどうだろう」と考えました。デイブ・ローシュとエマ・ローシュは雑誌のカバンを作るのを引き受け,ふたりの娘にあたるベラ・コウテスは「一方に『ものみの塔』,他方に『慰め』」という文字のはいった色彩豊かな絹地をつけました。ジョンストン兄弟がカリフォルニア州のコンコードにある小さな会衆を訪問した時,一群の人々が彼に加わって街頭の証言をしました。彼は次のように書いています。「翌週ローシュ家の人たちはさらに多くの雑誌用カバンを作ってくれました。そして,オークランドの繁華街で試してみました。ある兄弟たちは最初少し恥ずかしがっていましたが,街頭のわざは人気を得,他の仲間(会衆)から雑誌用カバンの注文が来るようになりました。それでわたしは協会に報告を書いて見本のカバンを送りました。……協会は,わたしを含めその活動を試験的に行なった関係者全員に感謝していること,またまもなく『通知』に発表する旨を書いた手紙をくれました。そしてその通り発表されました」。

      協会は雑誌用カバンを供給する取決めを設けました。ニコラス・コバラク2世は次のように語っています。「ニュージャージー州のパッサイク会衆の伝道者は協会のために雑誌用カバンを作る特権を得ました。わたしたちは生地を裁断して雑誌用カバンを縫いました。土曜日と日曜日に,縫える人で自発的に行なう気持ちのある人は皆,フランク・カタンザ兄弟のズボン縫製工場に集まり,アメリカ全土の兄弟のために雑誌用カバンを縫う特権にあずかりました。……印刷の方は協会がしました。ですから,雑誌用カバンを見るたびに,エホバの王国の宣伝にわずかながら参加しているということを感じました」。

      1940年2月当時,「ものみの塔」誌と「慰め」誌を持って街頭に初めて立った時はどんな様子だったでしょうか。ピーター・デュミューラは次のように答えています。「わたしは,1940年2月1日のことを実によく覚えています。……わたしたちはどのように迎えられるでしょうか。近所の人や町の人たちはどんな反応を示すでしょうか。わたしたちは興奮しました。そのわざを2時間しようと考えていました。……ほんとうに驚いてしまいました。適切な標語を使って人々に近づくとそれは成功しました。どの人もたくさんの雑誌を配布しました」。

      一般の反応についてグレース・A・エステプはこのように回顧しています。「最初人々は,興味と時には怒りのまざった驚がくのようなものを感じたようです。それからたいへん当惑して,口をききたくない隣人を避けるためにこちらの通りから向こうの通りに逃げましたが,それでも無視したことを恥ずかしく思っているようでした。でも,数週間後にはあきらめて,街頭伝道者が話しかけると快く会話に加わったり,雑誌をのぞいていったりしました」。

      その頃,エホバのしもべが雑誌の街頭伝道をしていると,暴徒が暴力を振るうことが時々ありました。たとえば,H・S・ロビンズは,数年前にテキサス州のサン・アントニオで雑誌の街頭伝道をしている時,兄弟と他の王国伝道者が怒った暴徒に襲われたことを記憶しています。事情が明らかになった時,けがをしたエホバの証人はいませんでしたが,暴徒ではなくて彼らが逮捕されました。ロビンズ兄弟は次のように語っています。

      「わたしたちは釈放されると,再組織をして次に何を行なうか考えるために王国会館に戻りました。……わたしたちは再組織をし,もとの所へ戻って行きました。

      「わたしたちが下町に戻った時には新聞の『号外』が出ていて,新聞配達の少年が『エホバの証人は町から追い払われた』と叫んでいました。しかし,わたしたちは再び通りの随所にいたのです。……わたしたちは確かに町から追い払われたのではなく,また立ち去ろうともしていませんでした」。

      「選出された長老たち」

      聖書中で,神の民はエホバを天の羊飼いとする羊として特色づけられています。(詩 28:8,9; 80:1。エゼキエル 34:11-16)彼らはエホバのやさしい世話を受けるほか,りっぱな羊飼いであるイエス・キリストの助けと指示,およびクリスチャン会衆内の他の羊飼いの援助をも享受しています。(マタイ 25:31-46。ルカ 12:32。ヨハネ 10:14-16。ペテロ第一 5:1-4)1870年代から1932年にかけて,神の民の間では会衆ごとに長老職に選出された人々が会衆の聖書研究や講演を監督しました。そして会衆ごとに執事の職に選出された人々は彼らを援助しました。C・W・バーバーによれば,長老は,「集会を司会したり,講演をしたり,全体的な監督をして霊的な事柄に率先し」,一方執事は「座席の取決めを扱ったり,霊的な事柄以外で援助をするなど案内係として用いられました」。

      長老と執事は,各会衆に交わる人々の挙手によって毎年会衆ごとに選出されました。「選出について」,ハーバート・H・アボットはこう説明しています。「当時,使徒たちの活動 14章23節で『選び』(文語。新世界訳では『任命し』)と訳されていたギリシャ語は,手を伸ばすことと関係があり,クラスの指導者を選出する際に選出者となることを意味すると考えられていました。(ロザハム訳の使徒 14章23節をご覧ください。)そのことばが使徒たち,もしくは統治体によって,任命される,または指名されるという意味で使われるようになったということを当時は知りませんでした」。

      「会衆の監督者として選ばれる人々の霊的な資格を決めたのは何でしたか」とヘンリー・A・レブは尋ねます。そして一部こう答えます。「ひとつには,新しく信者になった人は選ばれませんでした。それは確かに聖書的でした。選出のための集会に先立って,務めに対する資格がテモテ第一 3章1-13節,およびテトス 1章5-9節から読まれました」。エディス・R・ブレニスンは次のように語っています。「指名された人の一覧表ができあがると,指名された各人の資格や能力を聖書に従って注意深く,また祈りを込めて考慮し,決定をする上で聖霊の導きを求めるよう真剣に勧められました。……決められた時に再び集まって指名された人々を選出しました」。

      ある所では,長老を選出するうえで問題が生じました。アベリ・ブリストウ姉妹の記憶では,「選挙運動や競争がありました。そのためにある会衆では兄弟姉妹のあいだに分裂や徒党がありました。他のグループの人たちと話そうとしない人さえいました」。ジェイムズ・レットスは,「ある人たちは自分が選出されないと非常に腹を立てさえしました」と語っています。

      野外奉仕に関連して問題の起きたこともあります。ウルスラ・C・セレンコは次のように書いています。「全員が文書を用いての戸別訪問による証言,特に日曜日に戸別訪問のわざに参加するようにという発表が行なわれた1927年までは万事がうまくいっていました。わたしたちの選出した長老たちは反対で,全クラスにそうしたわざを少しでも行なったり,何らかの形で参加したりするのを思いとどまらせようとしました。クラスが味方をするようになったり,分裂が明らかに見え始めました」。戸別訪問による伝道のわざに対する長老の態度は非常に重要でした。したがって,毎年行なわれる選挙の時にはその点がはっきりと強調されたようです。たとえば,H・ロバート・ドーソンによると,1929年にペンシルバニア州ピッツバークの長老と執事の候補者は,「あなたは奉仕のわざに喜んで参加しますか」という質問に答えなければなりませんでした。

      J・M・ノリス姉妹の話では,ある長老たちは優越感を抱いていて,講演することだけを望みました。彼女はさらに,「他の長老は『ものみの塔』誌の記事に批判的で,それを神が依然として用いておられる真理の径路として受け入れようとせず,いつも自分の考え方をもって他の人々に影響を与えようとしました」と語っています。

      しかし,選出された長老すべてが誤った態度,もしくは精神を持っていたと結論すべきではありません。多くの長老は,クリスチャンとして神の民の羊飼いの責任を忠実に果たしました。(ペテロ第一 5:1-4)「伝道のわざを妨げる障害物をいつも置いていたのはほんの数人にすぎませんでした」とジェイムズ・A・バートンは語ります。ロイ・E・ヘンドリクスによれば,「長老の多くは真に献身した聖書研究者,正真正銘のエホバの証人でした」。クラレンス・S・ハゼイは,「そうした長老の多くは,会衆の福祉を気づかうりっぱな円熟したクリスチャン兄弟たちでした」と述べています。エホバはご自分の民を牧しておられました。そして,献身した崇拝者の益のためにそうした人々を用いることを喜んでおられました。

      「選出された長老たち」は長年のあいだ会衆の活動を監督しましたが,1932年になって,一時的な変化が生じました。ブルックリンのベテル家族の古い成員は,1932年10月5日,水曜日晩にブルックリンのアポロ・ホールで開かれた集会のことを今でも覚えています。その時,ニューヨーク会衆の成員約300名は,ニューヨーク市で長老を選出することをやめるという決議を承認したのです。(「ものみの塔」誌〔英文〕の1932年9月1日号265ページと266ページおよび1932年10月15日号319ページをご覧ください。)他のほとんどすべての会衆は,類似した決議を承認して,長老を選出することをすみやかに停止しました。こうして,1932年は,「奉仕委員」と呼ばれる一群の円熟したクリスチャン男子が「選出された長老」に取ってかわった年となりました。奉仕委員は,ものみの塔協会によって任命された奉仕の主事を援助するために会衆によって選ばれました。

      1932年に設けられた新しい取決めはいくらかの問題を起こし,ある人々は組織を離れました。しかし,会衆の大多数とそこに交わる人々は組織による調整を喜んで受け入れました。

      組織の機構上の他の発展

      長年にわたり,イエス・キリストの油そそがれた追随者である兄弟たちだけがクリスチャン会衆の責任ある立場についていましたが,1937年に変化がもたらされました。グラント・スーターは次のように書いています。「組織の面で,わたしたちは,1937年5月1日号の『ものみの塔』誌に載せられた,(地的見込みを持つ)ヨナダブ級の人々が会衆の奉仕の立場に任命され得るという主旨の勧告によって援助されました。……8月15日号の『ものみの塔』誌は,ヨナダブが会(会衆)で奉仕委員を務めたり,他の類似の立場で奉仕したりできることを指摘しました」。「ものみの塔」誌によれば,油そそがれた残りの者の資格ある成員で奉仕できる人のいない場合は,「ヨナダブ」が「会のしもべ」もしくは主宰監督になることができました。「やがてもたらされようとしていた大きな増加に対してエホバがいかに備えを設けられていたかがわかります」とノーマン・ラーソンは述べ,こう付け加えました。「わたしのように地的な級の人々にとって,それは確かに新たな視野を開きました」。

      1938年には,もうひとつの重要な組織上の発展がありました。「ものみの塔」誌に載った,「行動上の一致」(5月15日号)および「組織」(6月1日,15日号)と題するそれぞれの記事は,監督と補佐を任命する権威が個々の会衆にないことを明らかにしたのです。世界中の会衆は「ものみの塔」誌に提示された決議を考慮し,「協会」が奉仕のために会衆を組織して,「その様々なしもべを任命する」,すなわち各地の責任ある立場につくすべての人を任命することを求めるよう提案されました。(1938年の「ものみの塔」誌〔英文〕169,182,183ページをご覧ください。)ほとんどの会衆はその決議を採択しました。そうしなかったわずかの会衆は,まもなく霊的な視力と王国の奉仕に関連して持っていた特権とを失いました。

      「王国会館」

      天の羊飼いであられるエホバは,ご自分の民に豊かな霊的備えを設けられます。彼らを養ううえで大きな役割を果たしているのはクリスチャンの集会です。(ヘブライ 10:24,25)神の現代のしもべは,しばしば,個人の家に集まったり一般の建物を借りたりしました。しかし,天の王国は1914年に誕生したので,やがて彼らは,おもな集会場所を「エホバの証人の王国会館」と呼ぶようになりました。

      ドメニコ・フィネリによれば,最初の王国会館は1927年にペンシルバニア州のロセトで建てられました。彼は,その「落成式の時にジヨバンニ・デチェッカ兄弟が公開講演をした」と語っています。しかし,「王国会館」という名前が一般に使われるようになったのは1935年以降のことです。その年,ものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードは,ハワイ諸島を訪れ,ホノルルで支部事務所設立に着手しました。支部の建物に付随して大会ホールも計画され,それは「王国会館」と呼ばれました。

      1935年以降,各地のエホバの証人は建物を借りたり,大会のために建物を準備したり,王国会館として建物を使用したりしてきました。しばしば会衆は土地家屋を購入し,建物を修復したり新築したりして聖書研究と神の崇拝のための場所にしました。最近のこと,W・L・ペレは適切にも次のように語りました。

      「王国会館は,外見が美しく内部は小じんまりと便利にできています。それに,新しく関心を持った人が入って来た時に居心地よく感じるばかりか,外見が美しいので無言の証言になります。建築のための労力の非常に多くは兄弟たちや深い関心を持つ人々によって提供されました。わたしたちは,(悪魔の世界に見られる)『建てて貸付ける」方式を採ったことはありません。資本も財産もエホバの証人が使用する範囲内にとどめられています。それは,はるか昔に見られたイスラエル人の『荒野における天幕』の場合と同様です。(使徒 7:44)それほど前のことではありませんが,『どうしてみなさんは使っておられる建物を「王国会館」と呼ぶのですか』と聞かれたことがあります。わたしはこう答えました。わたしの辞書の『ホール(会館)』の項によれば,その第一義は『もっぱら一般業務のために使用される建造物』となっています。王国会館は全能の神とその王国の業務のためにもっぱらささげられていますから,これ以上にふさわしい名前はありません」。

      地帯の奉仕はエホバの民を強める

      1930年代に,増加の一途をたどる「大群衆」が流れのように王国会館に集まるにつれ,神の民の会衆を強める意図を持った活動が始まりました。(啓示 7:9)それは今日の巡回のわざに似た地帯のわざです。その国の特定の地域にある20ほどの会衆がひとつの地帯を形成していました。各会衆を訪問して,たいていその会衆に一週間滞在する地帯のしもべが協会によって任命されました。地帯のしもべの目的は組織的に会衆を強め,伝道のわざの面で会衆を援助することでした。時折,ひとつの地帯の会衆は地帯の大会に集まって聖書の教えや霊的な援助を受けました。そうした大会で奉仕するため,特別なしもべたちが協会の本部から派遣されました。地帯のわざは1938年10月1日から始まり,1941年11月いっぱいまで続けられました。

      クリスチャンたちが地帯のわざにどのように反応したかについて,エドガー・C・ケネディはこう語っています。「彼らは強い精神を持っていて,わたしたちの訪問に対する感謝を暖かく表わしてくれました。会(会衆)はどこも小さかったのですが,そこには活発なふんい気が見られました。会が神権的な指示を喜んで受け入れ,真理を愛し,群れの奉仕と模範研究を伴うわざに応じたので,成長のきざしが見えはじめつつありました。新しい会がいくつか形成されるようになりました」。

      「救いはエホバにあり」

      その頃エホバの証人は激しい迫害の的となっていましたから,強いクリスチャンの組織がぜひとも必要でした。迫害が強くなり始めたのは1935年のことです。その年の6月3日,月曜日に首都ワシントンでの大会においてラザフォード兄弟は学童の国旗敬礼に関する質問に答えました。彼は,地的な象徴を敬礼してそれに救いを帰することは神に対して不忠実な行為であり,自分は国旗を敬礼しないと大会の聴衆に話しました。

      H・L・フィルブリクの話では,ラザフォードの解答は「いく人かの若い人に聞かれたに違いありません。というのは,その年の秋に学校が始まると,突然,ボストンの新聞の見出しに,マサチューセッツ州リンに住むある少年が新学期の初めに学校で国旗敬礼を拒否したことが出たのです。その少年の名前はカールトン・ニコルスでした。同じ日,マサチューセッツ州のサドベリの学校でバーバラ・メレディスという少女も同様の立場を取りました」。しかし,彼女の担任の教師は寛容でそれを問題にしなかったため,少女のことは新聞で取り上げられませんでした。

      幼いカールトン・B・ニコルス2世が国旗に敬礼することを拒否したのは1935年9月20日でした。その事件はアメリカ全土で公表されました。連合通信社はものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードに近づき,その件に関するエホバの証人の見解について公式の声明を求めました。声明は与えられましたが,新聞社はそれを発表することを拒否しました。そこでラザフォードは1935年10月6日の全国放送を通して,「国旗敬礼」という主題の話をしました。その講演は「忠節」と題する32ページの小冊子の形で出版され,何百万部も配布されました。新聞社に対するその解答の中で,ラザフォードは,エホバの証人は国旗を尊重するが,聖書的な義務と神との関係からどんな偶像に対しても絶対に敬礼できないことを示しました。エホバのしもべにとって,それは十戒中に述べられている諸原則に反する崇拝行為となります。(出エジプト 20:4-6)その解答はさらに,主としてクリスチャンの両親は子どもを教える責任を持っており,子どもたちは聖書に対する両親の理解と認識に従って真理を教えられねばならないことも示していました。

      多くの学校職員は寛大でしたが,他の人々は専横な振舞いをして,国旗敬礼拒否を理由にエホバの証人の子どもたちを放校処分に付しました。その一例として,1935年11月6日に,エホバの証人の子どもふたりはペンシルバニア州マイナースビルの公立学校からこの理由で放校処分を受けました。ふたりの父親であるウォールター・ゴビティスは,マイナースビル学区の教育局を相手取って訴訟を起こしました。訴訟はペンシルバニア州東部地区の合衆国地区裁判所で始められ,エホバの証人に有利な判決が下されました。その判決に対して異議が申し立てられましたが,証人は巡回上訴裁判所でも有利な判決を勝ち得ました。しかし,事件は次に合衆国最高裁判所に持ち込まれました。1940年6月,同裁判所は8対1で有利な判決をくつがえし,悲惨な結果をもたらしました。

      ひとつの場所から他の場所へと各地で,国旗敬礼に対する聖書的な立場のためにクリスチャンは迫害されました。たとえば,1940年6月20日に,数名の警官を交えた暴徒はメリーランド州ロックビルで聖書の集会を開いていたエホバの証人を攻撃しました。暴徒の指導者は,王国会館に押し入ると国旗を掲げて,「アメリカ時間で2分を与えるから国旗に敬礼しろ。さもないと虐殺だ」と言いました。ソティール・K・バッシルはその時の模様をこう伝えています。「1分ほど沈黙がありましたが,突然,集会に初めて来た男の人が恐怖にかられて飛び上がるなり,国旗に敬礼して出て行きました。……他のだれも国旗に敬礼しませんでした。2分たつと,指導者はわたしが手にしていた物を全部たたき落とし,いす,その他『なにもかもばらしてしまえ』と暴徒に命じたため,調度品が飛びはじめました。腰にピストルを付けたふたりの警官が彼らに混じっていたので,わたしはふたりのところへ行って何とかしてもらえないかと頼みました。ふたりは口さえきかず,暴徒を止める何らかの行動を取る様子すらありませんでした」。事態は悪化して行きました。バッシル兄弟の話は続きます。「暴徒は悪鬼の一味のように振舞い始め,わたしたちを押したり突いたりして会館から出しました。そして,『やつらはナチだ。殺せ。殺せ』と叫び続けていました。会館にいた子どもの中の数人が泣き始めると,暴徒のある者は『あのがきどもを窓からほうり出してしまえ』と叫びました。彼らはわたしたちを建物から街路へと文字通りけちらかし,次には『町から追い払うんだ。町から追い払うんだ』とわめいていました」。

      その後,暴徒を逃れたバッシル兄弟は,地帯のしもべのチャールズ・エバールに会いました。エバールはただちにその事件を合衆国法務長官に報告しました。連邦調査局は翌日事情を調べ始め,ついに,事は法廷に持ち出されました。バッシル兄弟はこう語っています。「裁判はわたしたちに有利な結果となってエホバに栄光が帰されました。その後,ロックビル町区はわたしたちの集会のつど王国会館を警備する警官を配置してくれたので,再びそうした事件が起こることはありませんでした。わたしたちの新たに作られた会衆と王国会館を滅ぼすためのサタンの手だてはその時失敗したのです。―イザヤ 54:17」。

      この話はひとつの例に過ぎません。他にも多くの事件がありました。たとえば,インディアナ州コンネースビルでは,証人たちの弁護士が打ちたたかれて町から追い出されました。神のしもべたちはそうした激しい迫害に忍耐を示し続けました。なぜなら,彼らは聖書に堅く付き従い,敵や危険からの救いと釈放が国家からではなく神からもたらされることを勇敢に主張したからです。確かに,『救いはエホバにあり』ます。―詩 3:8。アメリカ標準訳(英文)と比較してください。

      王国学校

      学校で国旗敬礼が強制された結果,エホバの証人の生徒多数が放校処分を受けました。しかし,ものみの塔協会は真のクリスチャンが子どもに教育を施すのを援助しました。早くも1935年に,その目的で私設の「王国学校」が開かれたのです。その学校では,エホバの証人の中の資格を持つ教師が自分の時間と力を捧げて公立学校から放校された証人である子どもたちの教育に当たりました。神の民は,そうした私設の学校を各地で組織し,経済的に支援しました。

      ニュージャージー州レイクウッドには王国学校のひとつがありました。かつてそこの生徒だったC・W・アーリンメヤーの話では,1階がレイクウッド会衆の王国会館および教室と台所と食堂になっていました。女生徒の寝室は2階,男生徒のそれは3階でした。アーリンメヤー兄弟はこう述べています。「むろん,生徒の大半はそこに寄宿して,家に帰るのはせいぜい週末でした。遠方から来ていた生徒は一週おきの週末に帰りました。最後の年には,戦時中でガスが配給になったため,2週間おきに家へ帰りました」。

      なすべき仕事がたくさんあったので,食事を作る人とそうじをする人がいました。しかし,子どもたちも割当てを受けて,料理を作ったり皿を洗ってふいたり,ゴミを捨てるなどの手伝いをしました。朝の食卓では日々の聖句の討議が行なわれ,授業は毎朝30分の聖書研究で始まりました。したがって,子どもたちは霊的に養われ,さらに,土曜日と日曜日には野外奉仕に参加して,自分が学んだ事柄を用いる機会にあずかりました。

      ペンシルバニア州のゲイツにも王国学校が建てられました。そこで教べんを執っていたのは,担任のクラスで忠誠の誓いや国旗敬礼をさせようとしなかったために解雇された公立学校の教師グレース・A・エステプでした。エステプ姉妹は,王国学校の第一年目の思い出を,あらゆる方面の「役人」が何か理由を見つけて学校を閉鎖しようとしたため「騒乱の一年」だったと語っています。彼女はさらにこうも述べています。「学校その他の関係の役人が,あらさがしをしたり,いっそう困らせる目的で授業中に入ってくることがよくありました。そのうえ,一般の人々の多くに愛国熱が行き渡っていました。ある時など,怒った群衆が,わたしたちの家主に抗議し,学校を爆破するか焼打ちにするために集まりました。でも,家主は町の有力者でしたし,学校を爆破すると(同じ建物の中にあった)理髪店をも爆破しなければならなかったので,そうするのをあきらめました」。やがて生徒数は増加し,幼稚園,小学校8学年そして中学校4学年を設けることが必要になりました。

      王国学校の教育の方の成果はどうだったでしょうか。マサチューセッツ州サウガスの学校で教えたロイド・オーエンは次のように伝えています。「どれほど成果があったかを見るためアチーブメントテストをすることにしていました。ほとんどの場合,生徒は普通の学力より半年か1年進んでいました。……1年に少なくとも2回試験をしましたが,生徒はそうした優秀な成績を維持しました」。

      王国学校に関係した人々の間にはすぐれた精神が行き渡っていました。エステプ姉妹はこう語っています。「皆さんはほんとうにすばらしく,とても多くの方法でいつも援助を差しのべてくださいました。その全体は一種の共同体のようなもの,各人が皆何らかのかたちで関係した『共同体』でした。その頃やさしい仲間の人たちがしてくださったすばらしい事柄すべてを思い起こし,あの方々のとどまる所を知らないエホバへの愛を思う時,わたしの胸は愛と感謝でふくらむのです。お金はなくても,時間と体力の及ぶ限り必要な物を整えてくださいました」。

      最高裁判所は自らの判決を翻す

      1942年6月8日,合衆国最高裁判所は,ジョーンズ対オペリカの許可税をめぐる裁判でエホバの証人を5対4で有罪としました。ところが,興味深いことに,ブラック裁判官とダグラス裁判官それにマーフィ裁判官は意見を異にしたうえ,1940年のゴビティス国旗敬礼事件の票決を撤回しました。それに伴い,ものみの塔協会の弁護士は,西ヴァージニア州教育委員会を相手に西ヴァージニア州南部地域合衆国地域裁判所に禁止命令請願を提出しました。強制的国旗敬礼法の実施を抑えるのがその目的でした。3人の裁判官は全員一致でエホバの証人に有利な判決を下しましたが,西ヴァージニア州教育委員会は上訴しました。1943年6月14日旗の日に,合衆国最高裁判所は(西ヴァージニア州教育委員会対バーネットの争いで)学校の理事には放校処分をとる権利はなく,したがって国旗を敬礼しないエホバの証人の子どもを教育するのを拒否する権利はないと決め,ゴビティス事件におけるその立場を翻しました。

      その判決は,ゴビティス事件における最高裁の決定をくつがえすものでした。国旗敬礼に対するクリスチャンの立場に関連した問題がそれによってすべて解決したわけではありませんが,王国学校はもはや必要ではありませんでした。したがって,エホバの証人の子どもは約8年ぶりで公立学校に戻ることができました。

      「良いたよりを擁護して法的に確立する」

      エホバのクリスチャン証人は,老若を問わず,迫害されることを予期しています。結局,イエスが弟子たちに言われたとおり,「あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的になるでしょう」。(マタイ 10:22)「実際」,パウロは書きました,「キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受けます」。(テモテ第二 3:12)迫害は時に,許可なく販売するもしくは平和をかき乱すといった偽りの告発によるクリスチャンの逮捕という事態にまで至ることもありました。最初統計は取られていませんでしたが,1933年にはアメリカ全国で268件の逮捕が報告されました。1936年までにその数は1,149件に上りました。不当にも,エホバの証人は福音宣明者としてよりもむしろ,勧誘員もしくは行商人の部類に入れられました。

      といっても,エホバの証人は戦わずして逮捕や裁判また投獄の苦しみに遭うままになったわけではありません。法廷での不利な判決を上訴する方針をとったのです。エホバの援助により,彼らは「良いたよりを擁護して法的に確立すること」ができました。―フィリピ 1:7。

      わずか数ページで,感動的な劇を再演する,つまりエホバのしもべが伝道の自由のために戦った勇敢な神権的闘争の数々の場面を再現するのは不可能でしょう。それでも,荒れ狂った「ニュージャージーの戦い」から始めるのは適切です。『火ぶた』が切られたのは神のしもべ数名がニュージャージー州のサウス・アンボイで逮捕された1928年でした。しかし,同州の証人に対するカトリックの主戦場となったのはプレインフィールドでした。

      プレインフィールド事件

      エホバの民が迫害される土地としてプレインフィールドが筆頭にあげられていたため,J・F・ラザフォードはそこにおいて「今日,我が国に宗教的偏狭が見られるのはなぜか」という主題で公開集会を開くことを決めました。1933年7月30日のその特別な催しに対して,おそらく劇場を警備するつもりなのか,こちらが招待せず,望みもせず,必要ともしない50名ほどの警官が入って来ました。なんとか集会を妨害し,あわよくば講演者を葬り去ろうとうかがうカトリックの僧職者の要請でやって来たことに疑問の余地はありませんでした。

      劇場に着いたラザフォード兄弟は,幕の背後で警官が兄弟と聴衆に向けて二丁の機関銃を持っているのに気づきます。兄弟は抗議しますが,警官も武器も動きもしません。警官たちは,暴動が起きるという内報を受けているので秩序を維持するためにその場にいるのだと言います。ジョージ・ギャンギャスは,話が終わるまで緊張したふんい気だったと言っています。彼は特に,ラザフォードの講演の結論に近い,次の部分にひやひやさせられました。

      「人々を真理に対する無知の状態に置いて,自分たちがあばかれないようにするために,エホバの証人に対する迫害を黙認したりそれを引き起こしたりした司祭と牧師に恥がもたらされるように。自らの利己的な目的にかなうように,エホバの証人を利己的な行商人や呼売り商人の部類へ唯々諾々とまた進んで入れてきた公官吏に恥がもたらされるように。法廷の判事席で審理をする法律家たちに恥がもたらされるように。彼らは個人的な利益が失われるのを恐れるゆえに問題を回避し,行商人や呼売り商人を取り締まる市条令の制定および施行によって神の王国の福音を伝道することが妨げられて然るべきか,という問題に勇断を下すことを怠ったり拒否したりしているのである」。

      ギャンギャス兄弟は次のように認めています。「わたしは内心,『今度は撃たれるだろう。今度こそ逮捕されるだろう』と言い続けていました。しかし,『偏狭』の小冊子の前置きに述べられていたように,『〔エホバ〕の使いは〔エホバ〕をおそるる者のまわりに営をつらねてこれを助け』ました」。(詩 34:7)厳しい状況でしたが,ラザフォード兄弟の講演は何事もなく行なわれ,熱烈に受け入れられました。後に「偏狭」の小冊子が出版され広く配布されました。

      証人は独裁者に告げる

      エホバの証人が言論と崇拝の自由のために戦っていたのはアメリカだけではありませんでした。いわゆる「聖年」の1933年6月にアドルフ・ヒトラー政権はマグデブルクにあったものみの塔協会の資産を占拠し,同年の10月にそれを返還したものの,ドイツのエホバの証人の集会と文書配布を禁止しました。1934年10月7日,ドイツのエホバの証人はいくつかの群れになって集まり,真剣な祈りをささげた後にヒトラー政府の役人にあてて抗議の電報を打ちました。しかし,他の国々の神のしもべたちも何もせずに傍観してはいませんでした。

      グラディス・ボルトンは次のように回顧しています。「1934年のある晩,奉仕会で,特別なことがあるので日曜日の午前9時に集会場所に来るようにと言われました。だれもが興奮していました。なにがあるのでしょう。日曜日の朝,家は満員でした。話し手は,その日世界中のエホバの証人が同時刻に集まって,ドイツのエホバの証人を迫害するのをやめることを要請した電報をヒトラーに送るという発表をしました」。エホバへの祈りの後,各グループは以下のような電文を送りました。「ドイツ国ベルリン市,ヒトラー政府殿。エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱めています。エホバの証人をこれ以上迫害するのをやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。その電報には「エホバの証人」と署名され,集まった会衆の所在都市もしくは町の名前が明記されていました。

      そうした電報は,アメリカの電報局においてさえ非常な騒ぎを引き起こしました。「ヴァージニア州のケイスビルや他のいくつかの場所で,仲間の信者が電文を持って行ったところ,係りの人はもう少しで気絶するほどでした」,とメルビン・ウィンチェスターは語ります。

      ナチ政権はどんな反応を示したでしょうか。エホバの証人の迫害は激しくなったのです。しかし,ドイツや他の場所の神の民は前途に迫害や苦難のあることを覚悟していました。エホバは適切な時にご自分の民が必要な聖書的助言と励ましを受けられるように取り計らわれました。それは,1933年の末に「ものみの塔」誌の「彼らを恐れてはならない」と題する記事によって与えられました。その記事は,ローマ・カトリック教会の敵意を暴露し,神の忠実なしもべのある人々は反対のために死ぬかもしれないことを警告しました。しかし,それはまた,大胆さと喜びを持って引き続き神のお名前の証しをし,その神聖なみ名の立証にあずかるよう神の民に勧めました。

      抗弁するための助け

      クリスチャンにとって当時は信仰を試みられる時代でした。いうまでもなく,あからさまな反対事件のすべてが,あるいは逮捕事件でさえことごとく法廷に持ち出されたわけではありません。しかし,エホバのしもべが合衆国の法廷で抗弁に成功するための助けを必要とすることが少なからずありました。王国宣布者を助けるために,ものみの塔協会はニューヨーク市のブルックリンの本部に法律部門を設けました。

      当時を振り返って,ロバート・E・モルガンは次のように語っています。「毎週の奉仕会で,協会が準備した『裁判の手続』を勉強して,野外奉仕でわたしたちを絶えず悩ましていた警官と判事に対処する備えを身につけるよう努力しました。警官に呼び止められた時の答え方や,市民としてわたしたちにはどんな権利があるかということ,また,有罪の判決を受けて上告裁判所へ行かねばならなくなった場合,良いたよりを擁護して法的処置を取るうえの十分な根拠を確立するためどうしても踏まねばならない手順などを奉仕会で教えられました」。

      「奉仕会の実演で,逮捕の時から裁判の終了および事件の処理までの過程が示されました。会衆のしもべたちが検察官や弁護士を演じ,ある“裁判”は数週間も続きました」と,レイ・C・ボップは回顧します。

      逮捕され投獄される

      協会によって備えられた法律的な助けと奉仕会の優れた訓練は,神の民にとって大いに役立ちました。しかし,獄中の厳しい生活で民を強め得たのはただエホバご自身だけでした。パウロはこう述べています。「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」― フィリピ 4:13。

      1930年代と1940年代の動乱の時に,何百人ものエホバのクリスチャン証人は逮捕投獄されました。ある地域でエホバの民が遭遇した法律上の問題に関してホーマー・L・ロジャースは次のように語っています。「ラ・グランジェ市(ジョージア州)は,市内の家庭を訪問して何らかの印刷物を提供することを禁じる条例を定めていました。それはエホバの証人をねらいとしており,エホバの証人に対してのみ実施されました」。彼はどうしてそう確信できたのでしょうか。同市の住民が,ラ・グランジェで他のすべての印刷物は当局の干渉を受けることなく自由に配布された,と証言したからです。

      1936年5月17日,176名の証人はラ・グランジェにおいて伝道したかどで逮捕され,投獄されました。翌日女性は釈放されましたが,76名の男子は同市から約6㌔の郊外にあるトループ郡刑務所および営そうに14日間勾留されました。普通そこでは,囚人たちは鎖でじゅずつなぎにされ,日の出から日没まで道路工事をしている間,文字通り足かせをかけられました。C・E・シラウェイによると,裁判を受けた証人たちは有罪の宣告を受け,各人1㌦の罰金か30日の懲役を申し渡されました。市の代理人は事件移送命令による上訴の契約書に署名しないようにと市の書記に命じたため,兄弟たちは上訴する権利を失い,57人が1937年5月28日に営そうで30日の刑期を終えるために戻りました。無実であったにもかかわらず,それら証人たちは囚人服を着,寒い夜にふたりで1枚の毛布を使わなければなりませんでした。その上,街頭その他の場所で重労働をしたのです。

      投獄された人々は多くの苦しみを経験しましたが,霊的に善を行なう機会も得ました。C・E・シラウェイ兄弟は次のように書いています。「30日の刑期の終わりごろ,わたしのグループともうひとつのグループの合計12名は,たいていいなかに隔離されている黒人基地に割り当てられました。午前10時ごろ,葬式の行列が正門から入って来て止まると,葬儀屋がわたしたちに近づいて来ました。その家族はあまりに貧しくて説教者に葬式の定まった費用を払えず,説教も祈りもしてもらえなかったようでした。わたしたち奉仕者のだれかがふたことみことでも話してあげられないでしょうか。その少数の人々に死者のほんとうの状態と復活の希望について話すのは特権でした。その人たちは囚人服を気にしませんでした」。

      テレサ・ドレイクは,神の民に対する不寛容さを初めて知ったのは,彼女がニュージャージー州のバーゲンフィールドで最初に逮捕された1930年代初期のことだったと語っています。ドレイクはこう続けます。「わたしは最初ニュージャージー州のプレインフィールドで指紋を取られました。わたしが他の28人の姉妹たちと一晩勾留されたのはプレインフィールドでした。わたしたちはひとつの小さな監房に入れられたのです。そこにわたしたち29人が入れられたのですから,横になって寝ることなどできませんでした。とうとう当局は,わたしたちを同じ建物にある体育館に連れて行き,横になるためのマットをくれました。わたしはひとりの警官が戸を開けてわたしたちをのぞき込みながら,『ほふり場に引かれる羊のようだ』と言ったのを覚えています」。

      ドレイク姉妹はもうひとつの事件のことを次のように書いています。「パース・アンボイでわたしたちは逮捕され,朝の10時から夜の8時まで勾留されました。わたしがラザフォード兄弟にお会いしたのはその時でした。兄弟は逮捕されたわたしたち150人を保釈金で仮出所させるために来られたのです。わたしたちは,裁判所庁舎の大きなひと部屋に勾留されました。外では,人々がわたしたちの車から文書類を持ち出して庁舎の芝生一面に投げちらしていました。庁舎の裏には6人の男たちがいて,ラザフォード兄弟を捕まえようと待機していました。彼らは兄弟を脅迫しましたが,その機会を得ることは決してできませんでした。なぜなら,兄弟はわたしたちに取り囲まれて庁舎を出,待機していた,いつものとは違う車にすばやく乗り込んだからです」。

      オハイオ州と西ヴァージニア州について,エドナ・バウアーは,「友人の多くは逮捕され,けたたましくサイレンを鳴らして逮捕の起きたことを知らせる消防自動車で刑務所に運ばれました」と語っています。一度に多くの人が刑務所に入れられるということは珍しくなく,年齢も考慮されませんでした。たとえば,ジェイムズ・W・ベネコッフ姉妹は,南カロライナ州コロンビアの事件で「200名が刑務所に入れられましたが,最年少者は生後6週間の赤ちゃんでした」と語っています。

      刑務所の状態はまったくひどいこともありました。アール・R・デイルは,ニューハンプシャー州サマズワースでクリスチャンゆえに不当な監禁を受けた時の思い出をこう書いています。「わたしはその夜眠りました。いえ,眠ろうとしました。刑務所はあまりきれいではありませんでした。夜に何やら小さな生き物がわたしたちの上をはっていました。わたしはそれが好きではありませんでしたが,彼らはわたしが好きでした」。R・J・アデール兄弟と姉妹は,1941年にミズーリ州カルサースビルで良いたよりを伝道したために78日間投獄されました。アデール姉妹は監禁された所を「土牢」だったと言っています。姉妹の健康は監禁中にそこなわれてしまいました。「78日間コンクリートの上に1枚の毛布と枕で寝るのは気持ちの良いものではありませんでした。でも,大切なのはエホバに忠実であり続けることでした」と述懐しています。

      アメリカのエホバの証人は,王国のたよりを伝道したかどでしばしば投獄されましたが,そのために彼らの口びるが閉ざされることはありませんでした。囚人の身でも良いたよりをどしどし宣明し続けたのです。たとえば,ドラ・ワダムスは投獄中に様々な伝道の機会を得ました。かつて,ニュージャージー州のニューアークでエホバの証人が釈放されるというニュースが知れ渡った時,ワダムスによればこんな事があったそうです。「わたしたちがそれぞれの監房に閉じ込められていたある晩,まわりの囚人たちが,『聖書の人たちはあしたここを出るんだってさ。ここも変わっちまうだろうな。あの人たちはわしらに遣わされた天使のようだからな』と言うのを聞きました」。

      法廷での戦い

      エホバのしもべは,いつなんどき逮捕されて裁判を受けるようになっても自分自身と神から与えられたわざを擁護できる備えをしていました。彼らは弁護士に代理をしてもらうことさえできない時がありました。たとえば,1938年のこと,マサチューセッツ州のオレンジ会衆と交わっていたローランド・E・コリアは近くのアトルで宣伝カーを使う許可を得ました。彼ともうひとりの兄弟は宣伝カーに乗って「敵」と題するレコードをかけ,他の王国伝道者たちは戸別に伝道していました。コリア兄弟は,その時戸別に訪問していなかったにもかかわらず,そうしていたとのかどで逮捕され告発されました。彼は次のように話してくれました。「わたしたちは興味を抱いて裁判を待ち,それに備えました。わたしは法廷の審理に備えて協会から発行された『裁判の手続』を注意深く勉強しました。裁判の日,数人の兄弟はわたしを力づけるために法廷にやってきました。わたしは協会が略述してくれた適切な裁判の手順に従い,警察署長に反対尋問をすることさえしました。法廷での審理が完了してすべての証拠が提出された時,わたしは無罪とされました。そして新聞は,『オレンジ市の男,出所して伝道を続ける』という見出しを掲げました」。

      エホバの証人ではない数人の弁護士たちも,神の民を擁護するために奮闘しました。しかし,たいてい,証人の弁護士が裁判の時に仲間の信者を代表しました。そうした人のひとりにビクター・シュミットがいました。彼の妻ミルドレドは一部こう語っています。「合衆国最高裁判所が国旗敬礼事件に対して不利な判決を下してからというもの,シンシナチ市(オハイオ州)の外の多くの場所で,兄弟たちに対する暴徒の襲撃や逮捕がまるでなだれのように続きました。主人は自動車を運転しなかったので,わたしが主人を自動車でそうした所へあちこちと運ばねばなりませんでした。しばらくの間はほとんど毎日のように違った場所へ行かねばなりませんでした。ですから,わたしはやむなく開拓者の人たちといっしょに奉仕するのをあきらめました。……ビクターはエホバに厚い信仰を持っていました。そのことは,同様の信仰を持つようわたしを強めました。法廷で兄弟たちの代理をすることになっている町に近づくと,主人はわたしに車をわき道へ入れさせ,エホバに祈りをささげました。つまり,自分が兄弟たちになにか助けとなることができる道を開いてくださるように,また,エホバのご意志であれば,わたしたちをやさしく保護し,人間に対する恐れに決して屈しないよう自分たちを助けてくださるようにと祈ったのです。わたしたちは,エホバの使いの軍勢の強力な力がわたしたちのために働いた証拠を何度も見ました」。

      合衆国最高裁判所へ

      エホバの証人に関する様々な裁判事件は,ついに合衆国最高裁判所に持ち込まれました。ロベル対グリフィン市の件はそのひとつでした。それまでにも神の民はジョージア州のグリフィン市で良いたよりを伝道したためにしばしば逮捕されていましたが,ある時,「グリフィン市の市長から書面による許可を得ずに……何らかの文書の……配布をならわしにすることを禁じる市の条令に違反したとして,大ぜいの人が逮捕されました」。G・E・フィスク兄弟は次のように語ってもいます。「身長が180㌢を越える兄弟が数人いたので,当局者はグループの代表者を自分たちで適当に選ばせてほしいと言いました。監督たちは承諾しました。そこで彼らは,良いえじきになると考えて,小柄でやせたひとりの姉妹を選びました。ところが彼女(アルマ・ロベル)は『裁判の手続』を学んでいたのです。……男性の中にはその小柄の姉妹ほど勉強していた人はひとりもいませんでしたから,事件が裁判にかけられた時に彼女は法廷に対して1時間以上にわたって抗弁し,すばらしい証言を行ないました。しかし,裁判官は少しの関心も示さず,足を机にのせていました。姉妹が着席すると,裁判官は足をおろして,『それで全部ですか』と言いました。姉妹が,『はい,裁判官殿』と言うと,彼は全員に有罪を宣告しました。協会の弁護士はその事件をただちに上訴しました」。1938年3月28日,最高裁判所は問題の条令は明らかに無効であることを満場一致で判定しました。

      1938年4月26日,王国伝道のわざに携わっていたクリスチャン証人ニュートン・カントウェルは,「敵」と題するレコードを聞かせ,同名の書籍を配布していたところを,ふたりの幼い息子とともに逮捕されました。ふたりのローマ・カトリック教徒によってその事件はコネチカット州の裁判所に訴えられました。その理由は,治安妨害と,州の公共福祉協議会の幹事の承認なくして慈善事業や宗教的な運動へ寄付を懇願することを禁じた,コネチカット州の法律に違反したというものでした。コネチカット州の裁判所では有罪判決を受けました。R・D・カントウェルは次のように書いています。「その事件は協会によって上訴され,合衆国最高裁判所まで行きました。……有罪判決はくつがえされ,宗教文書を販売したり,宗教的な運動のために寄付を受けるには許可が必要であるとするコネチカット州の法律をエホバの証人に適用することは憲法違反であるとされました。エホバの民はまたもや勝ちました」。

      しかし,1942年6月8日,エホバの証人は合衆国最高裁判所での重要な裁判において5対4で敗れました。それはジョーンズ対オペリカ市の戦いであり,街頭で雑誌活動を行なったロスコ・ジョーンズが,許可を得ず,またしかるべき税金を支払わずして「書籍を販売」することに関してアラバマ州オペリカ市の条令に違反したとして有罪とされることの是非が問題になりました。

      神の民にとって「大成功の日」

      1943年5月3日が来ました。それはエホバの証人にとって「大成功の日」と呼ぶにふさわしい日でした。なぜなら,裁判にかけられた13件のうち12件が有利な判決を受けたからです。際立っていたのは許可税をめぐるムルドック対ペンシルバニア州の戦いでした。合衆国最高裁判所が下したこの判決はジョーンズ対オペリカ市事件でのその立場を翻すものでした。ムルドックの判決の中で,最高裁は次のように述べています。「しかしながら,許可税がこの活動を抑制もしくは統制し得るという事実はそれが実際に抑制しない限り重要でないと主張されている。しかしながら,それはこの税金の性質を無視することになるであろう。これは,権利宣言で認められた特権の行使に対して一律に課される許可税である。州は,連邦の法律で認められた権利の行使に対して料金を課さないであろう」。ジョーンズの件に関して,最高裁はこう述べています。「ジョーンズ対オペリカの判決は今日無効になった。あの支配的な判例にとらわれることなく,文書類の配布によって自分たちの宗教的信念や信仰信条を巡回しながら広める福音宣明者の自由を,高潔な憲法上の位置にまで復帰させることができる」。ムルドックの有利な判決は,エホバの民を巻き込んだ許可税に関する洪水のような問題を解消しました。

      彼らの努力は法律にも影響を与えました。適切にも次のように言われているからです。「合衆国最高裁判所が権威をもって解釈している,個人の自由に関する現在の法的保証は,1938年春以降それまでよりはるかに広範に及ぶようになったことは明らかである。さらに,そうした保証範囲の拡大が見られるのはほとんど31件に及ぶエホバの証人の判例(16件は決定的な意見)の場合であり,ロベル対グリフィン市はその最初のものであった。『殉教者の血は教会の種子たり』とされるなら,憲法がこの奇妙なグループの戦い抜こうとするしつようさ ― あるいは献身的な態度と言うべきであろうが ― に負うところは何であろうか」― 1944年3月発行の「ミネソタ法律レビュー」誌,第28巻4号,246ページ。

      激しい暴徒たちはエホバの賛美者を沈黙させることに失敗

      エホバの証人は,崇拝の自由と良いたよりを宣べ伝える権利のために法的な戦いをしていましたが,野外では時々激しい暴徒に出会いました。しかし,それは類例のないことではありませんでした。イエス・キリストご自身その種の経験をされたからです。(ルカ 4:28-30。ヨハネ 8:59; 10:31-39)また忠実なステファノは怒った群衆の手にかかって殉教の死を遂げました。―使徒 6:8-12; 7:54–8:1。

      1939年6月23日から25日にかけて開かれた世界的なクリスチャンの大会は,ならず者たちからは神の民を悩ますチャンスであると見なされました。その時,主要都市であるニューヨーク市と,アメリカ,カナダ,英国諸島,オーストラリアおよびハワイの他の大会開催地が無線で直接結ばれました。J・F・ラザフォードの「政府と平和」と題する講演を宣伝している時に,エホバのしもべは,カトリック・アクションのグループが6月25日の公開集会を阻止する計画をしていることを知りました。それで,神の民は騒動に備えました。ブロスコ・ムスカリエロはこう話してくれます。「エルサレムの城壁を建てる時,人々に建築の道具と戦いの道具の両方を持たせたネヘミヤのように(ネヘミヤ 4:15-22),わたしたちも武装しました。……わたしたち若い男子数人は案内係として特別な指示を受けました。また,主要な講演中に妨害が起きた場合に使うがん丈なこん棒が各人に支給されました」。とはいえ,R・D・カントウェルによると,「どたん場に追い詰められた場合でない限りそれを使わないようにと言われていました」。

      一般に知られていなかったことですが,1939年6月25日,日曜日午後にニューヨーク市のマジソン・スクウェア・ガーデンで演壇にあがったラザフォード兄弟は健康をそこねていました。まもなく講演が始まりましたが,遅れてきた人々の中に,ローマ・カトリックの僧職者チャールズ・E・コフリンの信奉者が500名ほど混じっていました。コフリンは1930年代の名高い「ラジオの司祭」で,何百万人もの人々が彼の定期的な放送を聞きました。講堂の下の方の席は証人用になっていて詰まっていましたから,数人の司祭を含むコフリンの信奉者たちは,講演者の背後にあるバルコニーの最上段の一画を占めなければなりませんでした。

      「慰め」誌の通信員は次のように書いています。「講堂内のどこにおいてもたばこを吸っている人はいませんでした。ところが,講演が始まってから18分たった時,その群衆の最前列の左端にいたひとりの男がたばこに火をつけました。ついで,最前列の右端にいた別の男もたばこに火をつけました。それから,その一画の電燈だけが明滅し,そこだけに非難の声や叫びややじがありました」。エドワード・ブロード姉妹はこう語っています。「わたしは,ガーデン中に混乱が広がるのではないかと緊張して座っていました。でも,しばらくたつと,騒いでいるのは講演者のまうしろにいるクループの人たちだけだということがわかりました。『講演者はどうするのかしら』とわたしは思いました。演壇に物が投げ落とされたり,いつなんどきマイクロフォンが奪われるかわからない中で講演を続けることは不可能に思われました」。エステル・アレンは,「荒々しい叫びや,『ヒトラー万歳』とか『フランコ万歳』,また『ラザフォードの畜生を殺せ』ということばが空中にみなぎりました」とその時の様子を話してくれます。

      病身のラザフォードはそれら乱暴な敵に屈するでしょうか。「彼らが講演者の声をかき消そうと叫び声を大きくすればするほど,ラザフォード判事の声はますます強くなりました」とA・F・ラウパートは語っています。また,アレック・バングルはこう述べました。「協会の会長は恐れるどころか勇敢にも,『ナチとカトリック教徒はこの集会を解散させようと願っていますが,神の恩ちょうによってそうできないことをきょう心に留めておきなさい』と言いました」。「その時こそ,心からの拍手をどっと送って,わたしたちが熱烈に支持していることを講演者に示す待ちに待った機会でした」とロジャー・モルガンは書き,「ラザフォード兄弟は時間の終わりまで一歩も退きませんでした。後日,人々の家庭でその講演のレコードをかけるたびにわたしたちは感激しました」と付け加えています。

      C・H・リオンはこんな話をしています。「場内整理係は自分の務めを立派に果たしました。相当手におえないコフリン派の二人はこん棒で頭をたたかれ,彼ら全員は講堂から坂道へ儀礼抜きでほうり出されました。そのうちのひとりは,翌朝,タブロイド版の新聞紙上で一般の人々の注意を引きました。なぜなら,ターバンを巻いたように頭を包んだその人の写真が新聞に載せられたからです」。

      案内係をしていた証人三名が逮捕され,「暴行」のかどで訴えられました。三人は1939年10月23日と24日にニューヨーク市の特別法廷で三人の裁判官(ローマ・カトリック教徒ふたりとユダヤ人)によって審理されました。裁判で,場内整理係がマジソン・スクウェア・ガーデンの妨害の起きた一画へ妨害者を取り除くために入って行ったことが明らかにされました。暴徒に襲われるにいたって,案内係は抵抗し,その急進的なグループに属する数名の人を断固とした態度をもって処理したのです。検察側の証人は多くの矛盾する証言をしました。法廷は三人の案内係を無罪としたばかりか,証人の案内係はその権限内で行動したことも明らかにしました。

      世界大戦は暴力の炎をあおる

      暴徒の暴力行為は1939年のエホバの証人の大会の時に勃発しましたが,彼らに対する暴力の炎があおられて非常に強くなったのは,世界が戦争に入った時でした。アメリカがドイツとイタリアと日本に宣戦を布告したのは1941年の末でしたが,国家主義の精神はそれよりもずっと以前から高まっていました。

      第二次世界大戦勃発直後の数か月間に,エホバ神はご自分の民に優れた備えを設けられました。1939年11月1日号の英文の「ものみの塔」誌に「中立」と題する記事が載せられたのです。見出しの聖句には,ご自分の弟子について語ったイエス・キリストの次のことばが出ていました。『我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず』。(ヨハネ 17:16,文語)クリスチャンの中立に関するそうした聖書の研究は,まさに適切な時に,前途の難しい時代に対してエホバの証人にあらかじめ備えをさせるものでした。

      王国農場で焼打ちの脅威にさらされる

      ニューヨーク州サウス・ランシングに近い王国農場は,協会本部職員にくだもの,野菜,肉,牛乳,チーズを供給する大きな働きをしていました。ダビデ・アブールは,王国農場の平和と安全が破られた1940年の当時そこで働いていました。同兄弟はこう語っています。「1940年6月14日の旗の日の前夜,サウス・ランシングの居酒屋へウイスキーを買いに行くために毎日通る老人から,町の人々とアメリカ世界大戦参加軍人会の人々が協会の建物を焼き払い,機械を破壊する計画をしていることを知らされました」。治安官に連絡がなされました。

      ついに敵が現われました。当時農場のしもべだったジョン・ボガードは,以前に,その騒動の模様を生き生きと話してくれたことがあります。「晩の6時ごろ,車が次から次へとやって来て一味が集まり始め,ついに30台から40台になりました。治安官とその部下が到着し,運転手を止めて免許証を調べ,王国農場にいかなる手出しもしないようにと警告し始めました。一味は夜遅くまで協会の土地の前を走る高速道路を車で行ったり来たりしていましたが,警官がいたために高速道路から出ることができず,農場をこわす計画は失敗しました。農場にいたわたしたちみなにとってそれはほんとうに興奮の夜でした。しかし,わたしたちはご自分の追随者に対する,『あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。それでも,あなたがたの髪の毛一本すら滅びることはありません』というイエスの保証のことばを鮮明に思い出しました。―ルカ 21:17,18」。

      こうして,威嚇攻撃と計画的焼打ちは回避されました。推定1,000台の車が,4,000人ぐらいの人々を乗せて,協会の王国農場の資産を破壊するためにニューヨーク州西部の各地からやって来ましたが,無駄に終わりました。「あの人たちの目的は失敗しました。そして,まさに暴徒に加わっていた人のうちいく人かが今エホバの証人になっていて,全時間奉仕者になっている人たちさえいます」とカスリン・ボガードは語っています。

  • 第3部 ― アメリカ合衆国
    1976 エホバの証人の年鑑
    • 第3部 ― アメリカ合衆国

      リッチフィールドで暴力行為が勃発

      王国農場が襲撃と焼打ちの脅威にさらされていたのと同じ頃,イリノイ州のリッチフィールドでもエホバの証人に対するいやがらせの火の手が上がりました。クラレンス・S・ハゼイは次のように回顧しています。「リッチフィールドの暴徒たちは何かの方法でわたしたちの計画をかぎつけ,わたしたちが奉仕のために町に入った時には,彼らは待ちかまえていました。町の司祭が教会の鐘を鳴らして合図すると,彼らは兄弟たちを取り巻き始め,町の刑務所に連れて行きました。数人の兄弟はひどく殴打され,暴徒たちは刑務所を焼き払うと脅しさえしました。そのうちのある者は兄弟たちの車を見つけてこわし始め,がらくた同然にしてしまいました」。

      ウォルター・R・ウィスマンはこう語ります。「暴徒に殴打された後,兄弟たちは州の高速道路巡視隊によって刑務所に集められ,保護されました。一兄弟チャールズ・セルベンカは,国旗に敬礼することを拒否したため地面にたたきのめされ,顔に旗を押し付けられ,頭やからだのあたりをしたたかけられたり打たれたりしました。彼は兄弟たちのうち一番ひどく傷つけられ,殴打のあとが完全には良くならず,2,3年後に亡くなりました。後日,彼は話していましたが,これが比較的新しい兄弟にでなく自分にふりかかってよかった,自分はこれをがまんできるが,新しい人は弱くなって妥協するかもしれないから,と打たれながら思ったそうです」。

      ウィスマン兄弟はさらに次のように回顧します。「リッチフィールド市は,それをやり遂げたことを非常に誇りにしていました。事実,何年も後の1950年代に,リッチフィールドは百年記念祭を催して,同市の100年の歴史で際立った出来事を描いた山車を作りましたが,その山車のひとつは1940年にエホバの証人を襲撃したことを記念するものでした。市の当局者はそれを同市の歴史上記念すべき出来事だと考えたのです。エホバが彼らに返報されますように」。

      無視された訴え

      エホバの証人に対する暴力的な攻撃が非常に激しくひんぱんに行なわれたため,アメリカ合衆国の首席検事フランシス・ビドルとエリノア・ルーズベルト夫人(フランクリン・D・ルーズベルト大統領夫人)は,そうした行為をやめるよう一般に呼びかけました。実際,ちょうどリッチフィールド事件の起きた1940年6月16日に,NBCの国内放送を通してビドルは次のように語りました。

      「エホバの証人は繰り返し襲われて殴打されています。彼らは罪を犯していません。しかし,暴徒たちは彼らが罪を犯したとして暴力的な制裁を加えています。法務長官は,そうした暴力行為をただちに調査するよう命じました。

      「国民は油断なく警戒し,とりわけ冷静かつ健全でなければなりません。暴徒による暴力行為は政府の業務をきわめて難しくしますから,それを大目に見ることはできません。ナチの方法をまねてみたところでナチの悪を滅ぼすことにはなりません」。

      しかし,そのような訴えもエホバの証人に向けられたうしおのような憎しみをせき止めませんでした。

      乱されたクリスチャンの集まり

      そうした騒乱の時代,アメリカでは,クリスチャンたちは聖書の教育を受けるため平和裏に集まっている際中に襲われることがありました。その一例は1940年にメイン州のサコで起きた事件です。ハロルド・B・ダンカンの話では,ある時エホバの証人が二階の王国会館に集まってレコードによる聖書講演を行なう準備をしていると,1,500人から1,700人の暴徒が現われました。ダンカン兄弟は,ひとりの司祭が暴徒に加わり,会館の前にいた自動車の中に座っていたのをはっきりと覚えています。「(隣りの)ラジオ修理店の人はありったけのラジオのスイッチを入れてボリュームをいっぱいに上げ,講演をかき消そうとしました」とダンカン兄弟は述べ,こう付け加えました。「すると暴徒は窓に石を投げ始めました。懐中電燈を持った私服の警官は,石を投げる窓に光を当てました。警察署は一区画半しか離れていなかったので,わたしはそこへ二回足を運び,起きていることを知らせました。警察は,『おまえたちがアメリカの国旗に敬礼したら助けてやろう』と言いました。暴徒は会館の(小さな窓ガラス)70枚を石でこわしました。わたしのこぶしくらいある石がガートルド・ボッブ姉妹の頭をかろうじてはずれ,しっくいの壁の角を落としました」。

      暴徒による暴力行為は,オレゴン州のクラマス・フォールズで開かれた1942年の大会中にも起きました。ドン・ミルフォードによると,暴徒たちはもうひとつの大会都市に講演を伝える電話線を切りましたが,講演の写しを持っていた兄弟がただちに引き継いでプログラムは続けられました。ついに暴徒は会場に押し入ったので,証人たちは自己防衛しました。とびらが再び閉まった時,暴徒のひとり ―「大きくて強そうな男」が建物の中で意識を失って倒れていました。その人は警察署員でした。顔のそばにバッジを置いてその人の写真が撮られました。ミルフォード兄弟はこう語っています。「わたしたちは赤十字を呼びました。担架を持ったふたりの女性が派遣され,その人は運ばれて行きました。彼は後日,『やつらが戦うとは思っていなかった』と語ったそうです」。警察は証人を助けることを拒否しました。そのため州の国民軍が暴徒を追い払うまでに4時間以上たっていました。

      街頭の雑誌活動中に襲われる

      いくつかの土地の警官はエホバの証人を保護することを怠りましたが,きまってそうだったわけでは決してありません。たとえば,L・I・ペインは,数十年前にオクラホマ州のツルサで街頭の雑誌活動をしていた時,ひとりの警官がいつもそばにいることに気づきました。「それで」とペイン兄弟は話します。「ある日わたしはどうしていつもそんなに近くにいるのかと警官に聞いてみました。担当区域は広いが,だれかがわたしを追い払ったりたたいたりすることがないようにその付近にいるのだという答えでした。その警官は小さな町で証人がどんな扱いを受けているかを新聞で読みましたが,このわざを妨害しようという人の気持ちが理解できなかったのです」。

      しかし,エホバのしもべが「ものみの塔」と「慰め」誌を用いて街頭で証言している時にしばしば激しい暴徒の襲撃を受けたことは確かです。たとえば,ジョージ・L・マッキーは,オクラホマ州のある所で来る週も来る週も100人から1,000人を優に超す怒り狂った男たちが徒党を組み,街頭の雑誌活動をしている証人を襲ったと語っています。市長や警察署長,また他の役人は何ら保護の手を差し伸べませんでした。マッキー兄弟の話では,暴徒を率いていたのは,たいてい,名うての女強盗ベル・スターのいとこにあたる米国在郷軍人会連盟の指導者で,著名な医師でもある人物でした。まず,酔った手下が騒ぎを起こし,それから,玉突きの棒やこん棒,ナイフ,大きな肉切り包丁,銃で武装した暴徒がやってきました。彼らの目的,それは証人を町から追い出すことでした。しかし,王国の宣布者たちは土曜日ごとに何時間ぐらい街頭伝道をするかをあらかじめ決めていました。そして,暴徒はたちまち集まりましたが,証人たちは定められた時間いっぱい首尾よく奉仕できました。多くの雑誌が買物客に配布されました。

      ある土曜日,15人ほどの証人はだし抜けに襲われました。マッキー兄弟は,「わたしたちは生きて逃げおおせるには,エホバ神と正しい判断に頼らねばならないことを知りました」と言ったあと,こう続けました。「なんの警告もなく,彼らは包丁とこん棒を持ってわたしたち三人の兄弟に襲いかかったのです。……腕を折られたり,頭骨にひびが入るほど打たれたり,ほかにもけがをさせられたわたしたちは,その土地の四人の医者へ行きましたが,四人ともわたしたちに必要な治療を施すのを断わりました。わたしたちは,ある同情心に富んだ医師の治療を受けるために80㌔離れた土地まで行かねばなりませんでした。心身の傷がまもなくいえたわたしたちは,次の土曜日に王国の良いたよりを携えて街頭に戻りました。こうした精神は,迫害のさなかの難しい期間全体を通じて示されました。

      コナースビルの狂暴

      暴徒による暴力行為のなかでも有名なのは,インディアナ州コナースビルで1940年に起きた事件でした。その町で数人のクリスチャン婦人が裁判にかけられ,「暴動を共謀した」という偽りの告発を受けました。裁判の第一日目に地帯のしもべのレインボー兄弟とビクター・シュミットおよびミルドレド・シュミットが裁判所を出ると,約20人の男たちが三人の自動車目がけて突進し,殺してやると脅して車を転覆しようとしました。

      裁判の最終日,検察官は弁論の時間の多くを暴動を扇動することに用い,時には建物内の武装した人々に直接話しかけました。午後9時ごろ,「有罪」の評決が下ると,暴力のあらしが切って放たれました。シュミット姉妹によると,彼女と,裁判に立ち会った弁護士のひとりである夫のビクターはふたりの兄弟とともに他の証人からしゃ断され,200人ないし300人の暴徒に襲われました。彼女の話は次のとおりです。

      「ほとんど間髪を入れずに,くだものや野菜や卵などありとあらゆる物が雨あられのようにわたしたちに浴びせられ始めました。後で聞いたのですが,暴徒たちはそれらをトラック1台分も投げたそうです。

      「わたしたちは自動車へ走って行こうとしましたが,さえぎられて市の外へ通じる高速道路の方へ追いやられました。それから暴徒はわたしたちに突進して,兄弟たちを打ったりわたしの背中をたたいたりしました。わたしたちはのめったり,のけぞったりしました。その時までにはあらしがたけり狂っていました。雨は滝のように降り,風は吹き荒れていました。でも,自然力の猛威はその悪霊につかれたような暴徒の猛威に比べれば問題ではありませんでした。あらしになったので多くの者たちは自動車に乗り,わたしたちのそばを走りながら,叫んだりのろったりしました。のろいのことばには決まってエホバの名前を使ったので,わたしたちは心を突きさされる思いでした。

      「でも,あらしにはおかまいなく,少なくとも100人の男は歩いてわたしたちに押し迫っていたように思います。オハイオ州スプリングフィールドから来たヤコビー姉妹(現在のクレイン姉妹)の運転する自動車に乗った友人たちが一度わたしたちを救おうとしました。しかし,暴徒は自動車を倒さんばかりにし,自動車をけったりドアをこわしたりしました。そして,その自動車からわたしたちを引き離すと,いっそうひどく殴打を浴びせました。友人たちはわたしたちを置いたまま自動車を走らせなければなりませんでした。わたしたちは追い立てられ,あらしはいっこうに弱まらず,暴徒は叫んだり,『やつらを川へぶち込め,川へぶち込め』と言い続けていました。絶えず繰り返されるそのことばに,わたしの心は恐ろしさでいっぱいでした。ところが川に渡した橋にさしかかった時,繰り返されていたそのことばが突然やんだのです。やがて,わたしたちはほんとうに橋を渡っていました。まるでエホバの使いたちが暴徒をめくらにして,わたしたちがどこにいるかわからないようにしているかのようでした。わたしは,『ああ,エホバ,ありがとうございます』と心の中で言いました。

      「それから,大きくてがっしりした暴徒たちが兄弟たちを打ちたたき始めました。自分の愛する人が打たれているのを見るのはほんとうにつらいことでした。彼らが打ちたたくたびにビクターはよろめきましたが,決して倒れませんでした。そうした殴打はわたしにとって恐怖の殴打でした……

      「彼らはたびたび背後からわたしに近づいてドンと突き,のけぞらせました。とうとう,わたしたちは他のふたりの兄弟と離ればなれになりました。ふたりで腕をがっちり組んで歩きながら,ビクターはこう言いました。『ぼくたちはパウロほどの苦しみに遭ってはいない。血を流すほどに抵抗してはいないんだ』。(ヘブライ 12:4と比較してください。)

      「あたりはまっ暗になり,夜がふけて行きました。(あとで知ったのですが,11時ごろになっていました。)わたしたちが市外に出て,疲れきってしまいそうになっていた時,突然1台の車がわたしたちのすぐそばで止まりました。聞き慣れた声が,『速く! 乗ってください!』と言いました。そこにいたのは,なんと,あのりっぱな若い開拓者,レイ・フランズでした。わたしたちをそのすさまじい暴徒から助けに来てくれたのです。……

      「その時も,わたしたちはみな,エホバの使いが敵の目をくらまして,わたしたちが自動車に乗るのを見えないようにしてくれたと感じました。暴徒から襲われる心配のない車の中には,レインボー兄弟と彼の妻のほか3人が乗っていました。その小さな車に全部で8人がなんとか乗れました。エホバの使いは,わたしたちが自動車に乗るところを敵に見えないようにしてくれたのだとだれもが思いました。暴徒たちはわたしたちに対してなおも激しく怒り,わたしたちを自由にする様子はなかったのです。まるで,エホバがその優しい腕をわたしたちに伸ばして救ってくださったように思われました。あとでわかったのですが,ふたりの兄弟はわたしたちから離された後,早朝ほかの兄弟たちに見つけられるまで干し草の中に隠れていました。ひとりの兄弟は物を投げつけられてひどくけがをしていました。

      「わたしたちは朝の2時ごろ,ずぶぬれになり,冷え切って家にたどり着きました。あらしとともに温暖な気流が終わり,寒波に変わっていたのです。兄弟や姉妹たちはわたしたちを介抱し,ビクターの顔の5つの傷口をふさいでくれさえしました。愛する兄弟たちのやさしい世話を受けて,わたしたちはどれほど感謝したかしれません」。

      しかし,そうした厳しい経験にもかかわらず,エホバはご自分のしもべを支え,強めておられます。「このようなわけで,わたしたちはまた異なる種類の試練に遭いましたが,エホバはそれを耐え,『忍耐にその働きを全うさせる』ようわたしたちをあわれみ深く助けてくださいました」とシュミット姉妹は語っています。―ヤコブ 1:4。

      暴徒による他の残虐行為

      エホバの証人を標的とした暴徒の暴力行為は,多くを数えました。1942年12月のこと,テキサス州のウィンズボロで,街頭の雑誌活動をしていたエホバの証人多数が暴徒に襲われました。その証人の中に,兄弟たちのしもべ(巡回監督)をしていたO・L・ピラーズがいました。暴徒が近づいて来たので,証人たちはそうした状況で街頭のわざをするのは無理だと結論し,自動車の方に向かって歩き始めました。ピラーズ兄弟はその時のことを次のように語っています。「目抜き通りのまん中に,宣伝カーに乗ったバプテスト派の伝道師のC・C・フィリプスがいました。彼はキリストとキリストがはりつけにされたことを話していましたが,わたしたちの姿を見ると,さっそく説教の内容を変えました。フィリプスは,エホバの証人が国旗に敬礼しようとしないことを大声で熱烈に話し始めたのです。彼は米国国旗のために喜んで死んでも良いと述べ,国旗に敬礼しない者は町から追放されるべきだと言いました。わたしたちがその宣伝カーのそばを通った時,前方にもう一組の暴徒がこちらへ来るのが見えました。彼らはたちまちわたしたちのほうへ押し寄せて来て,警察署長が来てわたしたちを逮捕するまで,わたしたちを押えていました」。

      その後,暴徒は警察署に入ってきて証人を捕まえましたが,署長は証人を守るために何もしませんでした。路上で,少なくともピラーズ兄弟自身はこぶしで続けざまに打たれました。同兄弟は次のように語っています。「その時,わたしは非常に不思議な助けを受けました。わたしは猛烈に打たれ,鼻や顔や口から血が吹き出ましたが,ほとんど,もしくは全然痛みを感じませんでした。打たれながらも,わたしにはそれが不思議で,み使いが助けてくれているのだと感じました。……ドイツの兄弟たちが,どうしてナチの火のような迫害を動じることなく忠実に耐えたかがその経験でわかりました」。

      ピラーズ兄弟は意識がなくなるまで何度も打たれ,息を吹き返すと再び打たれました。とうとう息を吹き返さなくなると,暴徒たちは彼を冷たい水につけ,縦5㌢横10㌢の国旗に敬礼させようとしました。ピラーズ兄弟によれば,「それは大いなる『愛国主義者たち』が見つけたただひとつの国旗でした」。暴徒たちは旗を掲げると,ピラーズ兄弟の腕も上げようとしましたが,彼は手をたれて敬礼する意志のないことを示しました。間もなく彼らは兄弟の首に綱を巻きつけて地面に引き倒し,刑務所に引っぱって行きました。兄弟は彼らが,「このままこいつを絞首刑にしてしまおうじゃないか。そうすりゃ,証人どもを永久に除けるだろう」と言うのをぼんやり聞きました。彼らはそれをさっそく実行しました。ピラーズ兄弟は次のように書いています。「彼らは新しい1.3㌢ほどの絞首索をわたしの首に巻き,耳のうしろで結ぶと通りへ引きずって行きました。それから索は建物から出ているパイプに渡しかけられ,4,5人の暴徒が索を引き始めました。わたしが地面からつり上げられると,索が締まって,わたしは意識を失いました」。

      気がついてみると,ピラーズ兄弟は寒々とした刑務所に戻っていました。医師は彼を診察して,「この人を生かしておきたいなら病院へ入れたほうがいいですね。出血多量ですし,瞳孔が開いています」。それに対して警察署長は,「これは,わたしが会った中で一番しぶといやつです」と言いました。「そのことばはわたしをほんとうに力づけました。それによって,わたしが妥協しなかったということを確信できたからです」とピラーズ兄弟は言っています。

      医師が出て行くと,暴徒たちが列を作って寒いまっ暗な留置所に入ってきました。彼らはピラーズ兄弟の顔を見ようとマッチをすりました。兄弟は彼らが「こいつは死んでいるのか」というのを聞きました。だれかが,「いや,だが死にそうだ」と答えました。冷え切ってずぶぬれになっていたピラーズ兄弟は,自分が死んだものと思ってくれることを願いながら,ふるえないようにしました。とうとう暴徒たちは立ち去り,すっかり静かになりました。やがて戸があき,テキサス州警察がはいって来て,ピラーズ兄弟は救急車でテキサス州ピッツバークの病院へ運ばれました。彼は6時間も暴徒の意のままにされていました。それにしても,暴徒が兄弟を絞首刑にした時,何が起きたのですか。どうして死ななかったのでしょうか。「わたしはその答えをあくる日遅くなってから知りました」とピラーズ兄弟は語り,こうつけ加えました。

      「わたしが回復を待っていたピッツバーク病院の囚人用の部屋へ,トム・ウィリアムズ兄弟が来ました。彼はサルファー・スプリングス出身の地方弁護士で,正義のための真の闘士でした。ウィリアムズ兄弟はわたしを懸命に捜しましたが見つからなかったので,町を相手どって訴訟を起こすと脅しました。すると彼らはわたしが病院にいることを明らかにしました。兄弟の顔を見るのは実にうれしいことでした。そして兄弟は,わたしが絞首刑にされたが索は切れたということが町中のうわさになっていると話してくれました。

      「後日,連邦警察が公式の調査をして,大陪審による尋問がなされた時,ペンテコステ派の人々は進んで証言しました。彼らは,『今日はエホバの証人なら,あすはわたしたちです!』と言いました。そして,絞首刑のことについてはこう説明しました。『わたしたちは彼が索にぶらさがるのを見ましたが,それは切れたのです。索が切れるのを見た時,わたしたちはそれを切ったのは主であると思いました』」。

      警察署長と他の役人は州の境界線を越えて逃亡したため裁判にはかけられませんでした。ピラーズ兄弟は回復して,その地域の兄弟たちのしもべとしての仕事に戻りました。

      残酷な迫害に耐える

      読者は,「わたしだったらそうした残酷な迫害にとても耐えられません」と言うかもしれません。自分の力では耐えられないでしょう。しかし,霊的に築き上げるエホバの備えを今活用しているなら,エホバはあなたを強めてくださいます。迫害を受ける一番の理由は,宇宙主権の論争に関連があります。事実上,サタンは,悪魔の試みを受けてエホバへの忠実を保てる人間はだれもいないと主張して,神に挑戦しました。神への忠誠を保ち,それによってサタンが偽り者であることを証明し,その論争でエホバの側を支持するのはなんという特権でしょう。―ヨブ 1:1–2:10。箴 27:11。

      暴徒による攻撃がアメリカのエホバの証人に幾度となく浴びせられた激動の時代以来,神の民はエホバに全く依り頼む必要を年ごとに認識してきました。彼らはクリスチャンの原則に一致して自分と愛する人々を守りますが,攻撃を予想して凶器を身に帯びることはしません。(マタイ 26:51,52。テモテ第二 2:24)むしろ,彼らは『自分たちの戦いの武器は肉的なものではない』ことを認めています。―コリント第二 10:4。1968年9月1日号の「ものみの塔」誌の536-542ページをご覧ください。

      セント・ルイスでの神権的な大会

      人類は第二次世界大戦に苦しみ,神の民に対して迫害が荒れ狂いました。しかし,『万軍のエホバは彼らとともに』おられました。(詩 46:1,7)エホバは,ご自分の民が霊的な方法で良いものを豊かに備えられるよう取り計らわれました。その点で非常に注目に価したのは,1941年8月6-10日にミズーリ州セント・ルイスで開かれたエホバの証人の神権的な大会でした。

      エホバのしもべたちはその大会に是非とも出席したいと考え,その多くがセント・ルイスに向けて旅行していました。A・L・マックリーリ姉妹は次のように語っています。「わたしたちはじきに,どの証人も身分を明らかにするために雑誌(「ものみの塔」誌か「慰め」誌)を自動車の窓に付けているのを知りました。それでわたしたちもそうしました。旅行中ずっと,わたしたちはそばを通り過ぎて行く全く見ず知らずの人々に手を振っていました。でも,笑顔で手を振ってくださるので,その人たちは兄弟だということがわかりました」。

      カトリック・アクションと海軍従軍軍人会の圧力にもかかわらず,競技場の管理部はエホバの証人との使用契約を解消することを拒否しました。しかし,カトリック教会が宣伝したために,神の民に部屋を貸そうとしていた多くの家がそれを解消しました。「尼僧たちはエホバの証人に部屋を貸さないようにと戸別に言って歩きました」とロバート・E・レイナーは語っています。したがって,マーガレット・J・ロジャーズによれば,「セント・ルイスに着いた時,非常に多くの証人は宿舎がなかったので,競技場のグランドで寝られるように詰め物をしたマットを作らなければなりませんでした」。

      宿泊施設に関する問題について,G・J・ヤンセン兄弟と姉妹は次のように語っています。「大会中,会場のグランドの芝生で証人の母親と子どもが夜寝ている写真が新聞に掲載されました。まさにそのとおりだったのです。市民は,彼らの偽りの教師よりもずっと思いやりがあり,あいた部屋を証人に貸したいという電話を宿舎部門にかけてきました」。まもなく,電報や電話,手紙,直接の訪問その他の方法で部屋が提供されてゆきました。王国の伝道者が街頭で人々に呼び止められて,宿舎を提供されるということさえありました。

      ある証人たちは,到着すると,神権トレーラー市に向かいました。その町は大きくなって,677台のトレーラー,1,824のテント,寝台付きの自動車100台,トラック99台,バス3台で編成された人口1万5,526人の町になりました。「それは実に壮大なものでした」とエドナ・ゴーラは語り,さらにこう述べました。「通りには名前が付けられ,洗たく施設や適当な入浴施設その他の設備がありました。さまざまな州から来た人々がみな一致してトレーラーやテントやバスで生活するのを見るのはほんとうに壮観でした」。

      際立った幾つかのプログラム

      大会のプログラムは実に霊的な報いの多いものでした。たとえば,現在パナマで宣教者をしているヘイゼル・バーフォードは次のように語っています。「そこでは,最高主権者としてのエホバの宇宙支配と,エホバのしもべの忠誠がそれに関係していることが明らかにされて,わたしたちは感動しました。……エホバが全世界のご自分の民に対する非常に厳しい迫害をなぜ許しておられるかを以前よりもずっとはっきり認識しました」。「忠誠」と題する講演の中で,ラザフォード兄弟は,ヨブの時代にサタンが提起したのは,「もっとも厳しい試練の下にあっても,エホバは神に忠実と真実を証明する人をこの地上に置くことができるだろうか」という問題であったことを指摘しました。とはいえ,主要な論争は宇宙支配のそれであることが示されました。講演者がとりわけ聴衆に勧めたのは,それがエホバのお名前を立証し,正義を愛してエホバに仕えるすべての人々に解放をもたらすことを自覚しつつ,キリスト・イエスによる神権政府に完全にまた無条件に自らをささげることでした。

      その大会では出席者を特に感激させたひとつの特筆すべきことがありました。1941年8月10日,日曜日はセント・ルイス大会で「子どもたちの日」になっていました。その朝早く,バプテスマの話が行なわれて3,903名が浸礼を受けましたが,そのうちの1,357人は子どもたちでした。しかし,その日はおとなにとってもそうでしたが,子どもたちにとって,とりわけ特別な日だったのです。プログラムには,「献身した父兄を持つ5歳から18歳までのお子さんで,指定席券のある方々は全員,演壇正面に当たる本競技場にお集まりください」と印刷されていました。ラザフォード兄弟の「王の子供たち」という講演は午前11時に予定されていました。

      その時までに大会の聴衆は11万5,000人という驚くべき群衆になっていました。講演者の演壇の正面と,演壇の周囲のます席には異例の聴衆がいました。全員が5歳から18歳の子どもたちだったのです。ラザフォード兄弟が演壇にあがると,子どもたちは歓呼の声をあげ,拍手を送りました。兄弟がハンカチを振ると,大ぜいの子どもが手を振りました。やがて彼はその光景に文字通り晴れやかにほほえみながら演壇の前方へ大またに歩いて行きました。

      J・F・ラザフォードはそれら子どもたち全員と他の大聴衆に向かって多くのことを語りました。たとえば,ドロシー・ウィルケスはこう語っています。「ラザフォード兄弟が,『大会への道すがらみなさんが目にされた有様は,将来与えられるものとは比べものになりません』と言われた時,地上での楽園の状態の希望がわたしたちにとってたいへん身近なものとなりました」。その日,幼い聴衆のひとりであったニール・L・カラウェイは,かつて次のように書きました。「……その話を終えた後,協会の会長は言いました。『皆さんひとりひとりに尋ねたいことがあります。神の意志を行なうことに同意し,イエス・キリストによる神権政府の側に立場を取り,神とその王に従うことに同意した人は全員起立してください!』

      「わたしたちは皆いっしょに起立しました。『見てください。1万5,000人以上もの王国の新しい証人たちです』と協会の会長は叫びました。しばらく拍手が続いたあと彼は,『神の王国とそれに伴う祝福を告げるため,できるかぎりのことをする意志のある人は全員,はい,と答えてください』と言いました。すると,起立していた1万5,000人の子どもたちがいっせいに『はい』と大きな声で答えました。

      「ついで協会の会長は言いました。『エホバの名前に誉れを帰するのに用いる道具ともいうべきものを受け取るなら,皆さんはそれを勤勉に使いますか』。わたしたちは『はい』と答えました。『では着席してください。その道具について話しましょう。主はこの本をあなたがたに対するメッセージとして準備してくださいました。題は「子供たち」です』。ものすごい拍手が起こりました」。ラザフォード兄弟の著した「子供たち」という新しい本が,競技場とトレーラー駐留地の特別席にすわっていた子どもたちに1冊ずつ無料で渡されました。

      そのすばらしい機会にあずかった幼い子どもたちの多くは引き続き進歩した,とジョージ・D・キャロンは述べます。「彼らは開拓者になったり,ギレアデ学校に行って宣教者の割り当てを受けたり,ベテルに入ったりしました。またそうでなくても組織とともに進歩しました。今日,彼らは世界中の多くの会衆で主力またささえとなっています」。

      1941年8月10日の日曜日午後,病身のJ・F・ラザフォードは大会の聴衆を前に最後の講演をしました。それは約45分間にわたるノートを使わない即席の話でした。

      彼はエホバの民の指導的地位に関する非常に重要な事がらを次のように述べました。「わたしは皆さんが自分たちの指導者としての一人間についてどんな考えを持っておられるかを,ここにおられる外部の方々に知らせたいと思います。外部の方々にそれを覚えていただくためです。事が起きて発展し始めれば,必ず,ある人,多くの人々を従える指導者がいるといわれます。聴衆のみなさんで,ここに立っているわたしがエホバの指導者であると考える人がどなたかおられるなら,はい,と答えてください。(満場一致で否定された)

      「わたしは主のしもべのひとりにすぎず,わたしたちは肩を並べ一致して働き,神に仕え,キリストに仕えていると思われる方は,はい,と答えてください。(全員がはいと答えた)

      「そうです,みなさんは,このような人々の群れをわざへと動かすのに,わたしを地上の指導者としなければならないわけではありません。それは,にれの木のこん棒ででも悪魔と戦うであろう種類の人々です。そして彼らは霊の剣で戦っているのです。それにはもっと威力があります」。

      その最後の講演中,ラザフォード兄弟は,王国の音信を伝道するわざを推し進めるよう聴衆に繰り返し勧めました。

      ベス-サリムでの最後の日々

      11月までに病状が非常に悪化したため,ラザフォード兄弟はインディアナ州エルクハートで手術を受けなければなりませんでした。その後,彼はカリフォルニアへ行きたいとの希望をもらしたので,「ベス-サリム」として知られたサンジエゴの住まいへ連れて行かれました。彼の身近な人々や非常に優秀な医師たちには,ラザフォード兄弟が治る見込みのないことがしばらく前からわかっていました。

      かいつまんで言えば次のとおりです。ラザフォード兄弟は,エホバへの忠実さゆえに1918年から1919年にかけて不当にも投獄され,釈放後にひどい肺炎にかかりました。それ以後良いのは片方の肺だけになったため,冬のあいだニューヨークのブルックリンにいて協会の会長の仕事を果たすのは実際不可能なことでした。1920年代に彼は治療を受けていた医師の勧めでサンジエゴに行きました。そこの気候はたいへん良かったので,医師は彼にできるだけ長くサンジエゴで過ごすように勧めました。ラザフォードは結局その勧めどおりにしました。

      やがて,ラザフォード兄弟が使用する家をサンジエゴに建てるようにと直接の寄付が寄せられました。その家はものみの塔協会の費用で建てられたのではありません。その土地と家屋について,1939年の「救い」と題する本にはこう記されています。「カリフォルニア州のサンジエゴには小さな土地があります。そこには1929年にベス-サリムという名前で知られている家が建てられました」。

      ヘイゼル・バーフォード姉妹は,ラザフォード兄弟が1941年11月にベス-サリムに連れて行かれて以来,その最後の期間に彼の世話をした看護婦のひとりでした。「わたしたちは興味深い経験をしました。兄弟は,昼間はずっと寝室でお休みになり,夜になると一晩中忙しく協会の仕事をなさってわたしたちを動きまわらせたからです」と彼女は語ります。12月半ばのある朝,ノア兄弟を含む3人の兄弟がブルックリンから到着しました。バーフォード姉妹は次のように回顧しています。「3人はラザフォード兄弟と数日を過ごし,『年鑑』の年次報告や他の組織上の事柄を調べました。彼らが帰ったあとラザフォード兄弟はどんどん衰弱して,約3週間後の1942年1月8日木曜日に地上での忠実な生涯を終え,天のみ父の宮でのさらに十分な奉仕の特権へと移って行かれました」。その日の後刻,午後5時15分に,その知らせは長距離電話でブルックリンの本部に伝えられました。

      J・F・ラザフォード死亡のニュースはブルックリン・ベテルでどう受け止められたでしょうか。「ラザフォード兄弟が亡くなったことを知った日をわたしは決して忘れないでしょう。発表は短いもので,兄弟たちの発言はなにもありませんでした」とウィリアム・A・エルロドは語っています。

      円滑な移行

      1942年1月8日木曜日は,72歳のジョセフ・フランクリン・ラザフォードが地上の生涯を終えた日となりました。彼は25年間ものみの塔協会の会長を務めました。協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルが1916年に死亡した時,聖書研究者たちは動揺し,多くの人々はどのようにして神の奉仕を行なっていくことができるだろうかといぶかりました。さらに,利己的な人々が協会を乗っ取ろうとしたため,その反対や企ては神の援助によって完全に克服されはしたものの,しばらくの間いろいろな問題が起きました。しかし,J・F・ラザフォードの死はそうした影響をもたらしませんでした。なるほど,神の民の敵たちはエホバの証人のわざがきしみながら止まると考えました。が,彼らは間違っていました。「神権組織は停止することもつまずくこともなく進みました」とグラント・スーターは語ります。

      1942年1月13日,神の民が用いていたペンシルバニア法人とニューヨーク法人の理事会の全成員はブルックリン・ベテルで会合しました。それより数日前に,協会の副会長ネイサン・H・ノアは,祈りと黙想によって神の導きを熱心に求めるよう彼らに要請し,彼らはそのとおりにしました。その合同集会はエホバの導きを求める祈りによって始められ,注意深い考慮の末にノア兄弟が指名されて満場一致で協会の会長に選出されました。C・W・バーバーはこう語っています。「わたしの知っている人は,だれもノア兄弟の任命に疑問をさしはさむことすらしませんでした。どの人も肩を並べて彼を支持し,エホバの組織に対する専念を証明することを決意していました。また,協会の理事全員の間には完全な一致がありました」。世界中のエホバのしもべは一致し,伝道のわざを続行する決意をしていることを示す電報や手紙が多数寄せられました。

      ネイサン・ホーマー・ノアは,1905年,ペンシルバニア州ベツレヘムでアメリカ生まれの両親から生まれました。16歳の時,聖書研究者のアレンタウン会衆と交わるようになり,1922年にシーダー・ポイントの大会に出席して改革派教会から籍を抜くことを決意しました。水による浸礼を受けて,エホバ神に対する献身を象徴する機会が訪れたのは1923年7月4日のことでした。その時フレデリック・W・フランズがブルックリン・ベテルからアレンタウン会衆を訪問していました。フレッド・フランズ兄弟はバプテスマの話を行ない,18歳のネイサン・H・ノアはその日リトル・リハイ川でバプテスマを受けた人々のひとりでした。その日のことはいつでも楽しい思い出となってきました。そして,これまで51年以上もの間,フレッド・フランズ兄弟と協力して奉仕する特権を得たことは,ノア兄弟にとってどれほど喜ばしいことでしょう。

      2か月後の1923年9月6日にノア兄弟はブルックリン・ベテル家族の一員になりました。C・W・バーバーはその時の思い出を次のように話しています。「彼が着いたのは正午でした。わたしたちが昼食に帰ると,ひとりの若い兄弟がA-9号室の片方の洋服掛けに衣類やその他のものを一生懸命入れていました。変更があったことや,ノア兄弟がスタテン島のWBBRへ移された兄弟の代わりに入ったことを知らなかったために,わたしたちは彼をいさめてこう言いました。『君はここで何をしているんだい』。『この部屋はもう一杯で,詰まり過ぎているんだよ』。わたしたちは,その部屋にもうひとり入るのは多すぎると考えたのです。しかし,事は収まり,その若い兄弟はほかならぬN・H・ノア兄弟であることがわかりました。全くふさわしからぬ歓迎でしたが,わたしたちはその後しばしばその時のことを語り合っては大笑いしました。最初から,彼が与えられた仕事にもっぱら専念するためにベテルへ来た人であることは明らかでした。彼は発送部門で精力的に働き,種々の責任のある仕事を行なうことや,求められたことは何でも行なう点で急速に進歩しました」。

      その後,彼は協会の工場の管理者になり,1928年2月8日にはラザフォード兄弟により「黄金時代」誌の共同発行者に任命されました。クレイトン・ウッドワースが編集者で,ロバート・J・マーチンが業務責任者,ネイサン・H・ノアは会計秘書でした。工場の監督であったロバート・J・マーチンが1932年9月23日に死亡すると,J・F・ラザフォードはN・H・ノアをその責任の立場で奉仕するよう任命しました。1934年1月11日,ノア兄弟は一般人伝道者協会(現在のものみの塔聖書冊子協会ニューヨーク法人)の理事のひとりに選ばれました。また,E・J・カワードの死に伴い,1935年1月10日には同協会の副会長に選ばれました。さらに,1940年6月10日,ノア兄弟はペンシルバニア法人の理事になり,副会長に選ばれました。そして,両法人の会長に選ばれたのは,1942年1月13日でした。彼は国際聖書研究者協会の会長にも選ばれました。仕事に対するノア兄弟の態度について,J・L・カントウェルは次のように回顧しています。「おびただしい迫害が進行していた1940年に,いくつかの支部は閉鎖されて行き,暴徒の活動が起こっていました。ある晩,わたしたちは工場で残業をしていました。『避難訓練』があって,その時の集まりを司会したノア兄弟は,なかでも次のように話しました。『事態はわざを行なうのに不都合に見えるのは確かです。しかし,ここにいるわたしたちすべてが覚えておきたいのは,もしハルマゲドンがあす来るなら,わたしたちは今夜一晩中工場で働きたいと思うだろう,ということです』」。

      命を得させるために人々を教育する

      エホバの民は野外奉仕で証言カードとレコードを用いていました。しかし,彼らは聖書に基づいて自分の考えを言い表わす能力を持っているはずです。また,自分たちの希望の理由を語ることができるはずです。それが,協会の新しい会長,N・H・ノアの考えでした。C・ジェイムズ・ウッドワースは昔を振り返ってこう語っています。「ラザフォード兄弟の時代には『宗教はわなであり,商売である』点が強調されましたが,今や世界的な拡大の時代が夜明けを迎えていました。聖書および組織に関する教育がそれまでエホバの民の知らなかった規模で始まったのです」。

      聖書教育に重点が置かれることは続く数年間にさらにいっそう明らかになるはずでした。エホバの証人は命を得させる教育の時代に実際入っていました。

      神権宣教課程

      ヘンリー・A・カントウェルによれば,「ノア兄弟が協会の会長になってわずかひと月余り後に,当時『神権宣教高等課程』と呼ばれるものが取り決められました」。それは何でしたか。1942年2月にブルックリン・ベテルで開校した学校でした。

      C・W・バーバーは次のように説明しています。「ブルックリン・ベテル家族の男子の成員すべては入学するよう招待されました……その課程ではまず学生全員に対して講義が行なわれました。姉妹たちは出席するよう招かれましたが,その時は学校に入れられませんでした。講義が終わると小さなクラスにわかれ,それぞれの教室で入学している生徒全員が話をし,訓練された指導員から個人指導を受けました」。L・E・ルーシュは,「学校の教官だったT・J・サリバン兄弟の準備した復習が毎月行なわれました」と付け加えています。

      これは聞いたことのあるような事柄ではありませんか。エホバの証人の読者であれば,30年以上前にブルックリン・ベテルで始まったもの,すなわち神権宣教学校を知っておられるはずです。まもなくエホバの他の賛美者たちもこの学校から益を受けるようになりました。1943年4月17日と18日に全米247の都市で開かれた「活動への召し」大会で,「神権宣教課程」のことが発表され,実演で示されました。また,同じ題名の出版物が予告なしに発表されました。それは96ページの小冊子で,各会衆で新しく開かれる学校の司会方法を説明し,毎週の講話に関する情報を提供していました。任命された学校の教官は,司会者を務め,また男子の生徒が聖書に関する様々な題目に基づいて行なう6分間の話に建設的な助言を与えることになっていました。

      今日の神権宣教学校に入っている人でしたら,おそらく初めて話が割り当てられた時不安に思われたことでしょう。しかし,1940年代初期の昔,学校自体が新しかった時のことを考えてください。当時はどんな様子でしたか。学校で初めて話をすることはある兄弟にとって全くの一大経験でした。ジュリオ・S・ラムはそのことをこう認めています。「ひざはがくがくし,手は震え,歯は鳴っていました。わたしは全部の話を3分で終え,6分間続きませんでした。それはわたしにとって演壇で話した初めての経験でしたが,わたしはやめませんでした」。アンジェロ・カタンザーロが初めて生徒の話をした時の題は,「とこしえの王」でした。彼は次のように語っています。「わたしはその時のことを決して忘れないと思います。母は,わたしが数日間毎夜寝ごとでその話をしたと言いました」。しかし,祈りとエホバへの信頼が重要な役割を果たしました。「彼らは喜んで努力しました。そして熟達して確信に満ちた講演者になるようエホバの霊が助けるのを見るのはすばらしいことでした」とルイザ・A・ワーリントンは述べます。

      1959年の1月から,神の民の会衆に交わる姉妹たちにも神権宣教学校に入学する特権が与えられました。家庭で人々に6分間の聖書の話をするところを実演するのは姉妹たちにとって大きな挑戦となりました。今度は姉妹たちが胸をどきどきさせる番でした。グレース・A・エステプは,会衆の神権宣教学校で姉妹たちが割当てを果たした初めての晩に聖書の話をしました。彼女はこう述懐しています。「わたしはすっかりおどおどしていました。でも,良く知っているやさしい主題でしたから,なんとか果たしました。話をするのはとても難しいことでしたが,あとになって,エホバからのそのような増し加えられた祝福を喜びました」。あなたもそう感じておられますか。

      なるほど,事のすべては1942年2月にブルックリン・ベテルで始まりました。しかし,今日,神権宣教学校は,全地にある神の民の3万4,576に及ぶ会衆で施されるクリスチャンの訓練の一環として定期的に開かれています。発足以来,神権宣教学校はエホバの民に多大の益をもたらしてきました。話す能力が改善されたりっぱなものになったことはほどなくして認められるようになりました。それで1945年以降は,10年間使用されたレコードに代わって,神権的な伝道者が戸口や人々の家庭で口頭による証言を行なうようになりました。

      神権宣教学校の際立った特色は神のみことばの朗読です。それはこれまでプログラムに必ず含まれてきました。神権宣教学校で用いるように考えられた昔の出版物のひとつに,1946年に発行された「凡ての良い業に備える」という本がありました。メーブル・P・M・フィルブリクの話を聞きましょう。その本は「外典が付け加えられたいきさつや,聖書の記述と保存に関して深い理解を得させてくれました。わたしは,タルムードやマソレティック写本,その他多くの事柄について初めて知りました。一番良かったのは聖書の各本の分析でした」。

      その後出された様々な出版物は神権宣教学校を考慮に入れて準備されました。そのひとつは,1963年に「ものみの塔」誌の大きさで出された「聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です」と題する本です。アリス・バブコックはその本を「まさに霊的な宝の倉」と呼んでいますが,他の大ぜいの人々もそう考えているに違いありません。この本も,聖書の66冊の本を徹底的に扱っており,聖書の各本が今日のクリスチャンにとってどのように有益かという点を特に強調しています。

      現在神権宣教学校や個人研究の際に用いられている出版物の中に,6年間の研究の成果を示す本があります。90以上の国々の約250人の兄弟が資料を集め,ついで特別の編集員がブルックリンにある協会の本部で編集に当たりました。その結果,「アロン」から「ズジ人」に至る聖書に関係した論題を扱った,1,700ページに及ぶ本が生まれました。その題名ですか。それは「聖書理解の助け」です。1970年に完成した同書は確かにエホバ神が備えてくださったものです。

      公開講演運動

      1940年代当時,神権宣教学校は時を経ずして公開講演をする資格のある多くの兄弟を生み出しました。したがって,1945年1月には世界的な公開講演運動が始められました。講演者各人は自分が行なう話を準備しましたが,ものみの塔協会は主題を選んだり,そうした1時間の講演のために1ページの筋書きを用意するなどしたので,講演の内容は統一されていました。その公開集会運動は8つの連続講演で始められ,最初の講演の題は「人間は世を確立する者として功を奏するか」でした。

      講演者ばかりでなく,他の王国宣布者たちもその運動に参与しました。すなわち,街頭や戸別の訪問でビラを配布して講演を宣伝したのです。講演を宣伝したプラカードをつけて,印刷された招待ビラの配布がなされたことも時々ありました。講演はしばしば王国会館で行なわれましたが,会衆の区域外の土地で会場を借りるなどして連続講演が計画されることもありました。クリスチャンの集会に定期的に出席している人は,今まさにそのような公開集会から益を得ています。

      それら初期の時代には,言うまでもなく,公開講演をすることは大きな挑戦でした。新しいことだったからです。W・L・ペレは次のように語っています。「何年ものあいだ,わたしは公開講演をすることになっている日の前の晩にベッドのかたわらにぬかづき,エホバに喜ばれる仕方で講演する能力と力を与えてくださるようエホバに祈ってきました。神権宣教学校に入っている若い兄弟にも同じようになさることをお勧めします。エホバはわたしの切なる願いを常に聞いてくださいましたし,若い兄弟たちの願いも聞いてくださるからです」。―詩 65:2。

      エホバは全世界的な証言の備えを与えられる

      30年ほど前といえば,人類は第二次世界大戦の苦しみを味わっている時でした。その頃,王国伝道活動を国際的に拡大する計画を立てることは,ある人々には非実際的に思われたかもしれません。しかし,エホバの霊は,前進するようご自分のしもべを強められました。命を得させる教育を施すことはきわめて重要な事柄でした。

      1942年9月,ノア兄弟およびものみの塔協会の他の理事たちは,世界中の国々の宣教活動のために宣教者を訓練する学校を設立することを満場一致で承認しました。それはどこに建てられるのですか。ニューヨーク州北部のフィンガー湖地域にある協会の土地,すなわちサウス・ランシングに近い王国農場にです。

      そこには1941年にものみの塔協会が完成した3階建ての大きなレンガ造りの建物がありました。その建物は,ブルックリン・ベテル家族の避難所として,迫害が厳しくなった場合にそこへ移れるように建てられました。しかし,その目的で使われたことは一度もありません。エホバは,その建物をすばらしい目的に用いるため,初めから物事を指導しておられたように思われます。いよいよ新しい神権的な教育施設の諸計画が立てられました。学校自体はものみの塔ギレアデ聖書大学と命名されることになり,後に,ものみの塔ギレアデ聖書学校と呼ばれました。

      あわただしい活動が見られ,1942年10月には,A・D・シュローダーとマックスウェル・G・フレンドそしてエドアルド・F・ケラーが,統治体によって下書きされた教科課程の準備に取りかかりました。講義の内容を作成し,教科書を取り寄せ,図書を集めたのです。同時に,図書館や講堂,教室,居室その他の施設を備えるため,王国農場にあった幾つかの建物が改造されました。その数か月間は実に期待に満ちていました。

      新しい学校へ入学する申込書を受け取った時の開拓者たちの驚きを想像してください。申込書が受理された時にはさらに大きな感激がありました。チャールズ・アイゼンハワー兄弟と姉妹は次のように述べました。「わたしたちは全くふさわしくないと思いましたが,特権に感謝しました。申込書は受理され,わたしたちは自動車もトレーラーも売って学校へ向かいました。それはギレアデの最初のクラスでした。新しい学校,新しい教室,そして教官も生徒も新しかったのです」。

      1943年2月1日,月曜日待ちに待った開校の日が来ました。それは冬の寒い日で,王国農場の畑は雪でおおわれていました。しかし,本館には,既婚者と独身者とからなる49人の男子と51人の女子が大きな喜びを抱いて集まっていました。彼らと共に学校の献堂式に出席したのは,協会の理事,教訓者,知人,親族など全部で161名の人々でした。

      F・W・フランズとW・E・バン・アンバーグおよび他の人々の話が行なわれ,ノア兄弟自身は歓迎のあいさつと献堂の話をしました。出席していたすべての人は,彼の次のことばに全く同意したに違いありません。「エホバ神はご自分の目的のためにこの土地と『ギレアデ』という名の建物を備えてくださいました。エホバにこそ,わたしたちはあらゆる感謝と賛美をささげます」。そのことに疑問の余地はありませんでした。同校の設立は神権的な大躍進でした。

      聖書の調査,神権的野外宣教,聖書の公開講演,至高の法,聖書主題,これらは,勤勉な学生たちが5か月間の課程で注意を傾けた科目の一部でした。外国語も教えられ,最初のクラスはスペイン語を学びました。確かにたくさん学ぶことはありましたが,ギレアデの学生は授業のある日は毎日いくらかの時間をさいて農場や屋内の仕事をしました。そのことは,ひとつに,緊張をほぐす助けになりました。週中の晩は個人研究に充てられ,週末には王国伝道という命を救うわざを行なう優れた機会がありました。学生も教訓者も野外奉仕に携わったのです。

      ギレアデ学校の初期のクラスが卒業した頃は,第二次世界大戦がなおも激しい時でした。したがって,アジアのみならず,ヨーロッパや西方の海洋諸島に宣教者を派遣することは実際上不可能だったため,彼らはまず,キューバ,メキシコ,コスタリカ,プエルトリコ,カナダおよびアラスカに派遣されました。以来,宣教者たちは「証しのために」王国の良いたよりを宣明するため,まさに地の果てまで出かけて行きました。―マタイ 24:14。

      ギレアデ聖書学校第35期生の卒業式は1960年7月24日に王国農場で行なわれました。第36期の学校は1961年2月6日,月曜日にニューヨーク市ブルックリンのコロンビア・ハイツ107番にあるものみの塔協会の諸施設を使って開校しました。学校が協会の本部で開かれるのはなんと有益なことでしょう。今や学生には,エホバの証人の統治体の成員を含め,協会職員と共に働く多くの兄弟たちによる講義を聞く機会があるのです。

      ものみの塔ギレアデ聖書学校が開校してから30年たちました。今日まで5,500人を上回る学生がこの神権的教育制度に入りました。そのうちの2,500人あまりは今なお活発に全時間奉仕に携わり,世界中で王国の良いたよりを宣べ伝えています。

      王国宣教学校

      命を得させる神権的教育は,長年にわたって引き続き強調されてきました。1958年に新しい学校の教科課程を準備する仕事が始まりました。それは王国宣教学校と呼ばれる監督たちのための学校で,最初は教室での授業が96回と20の講話もしくは講義からなる,授業日数が24日の課程でした。それには王国の教え,野外宣教,講演,監督という科目が含まれていました。王国宣教学校に最初に出席したのは,アメリカの巡回のしもべ(監督)と,ギレアデ学校を卒業していない彼らの妻たちからなる25名の学生でした。その第1回の課程は1959年の3月9日から4月3日までニューヨーク州のサウス・ランシングに近いものみの塔の施設で行なわれました。同校は1967年4月9日にブルックリンの本部へ移されました。

      時の経過と共に,2週間の教科課程の実施など王国宣教学校には調整が加えられてきました。また,同校は世界の多くの国々で開かれ,エホバの民に多大の益をもたらしました。教訓者があちらこちら旅行して地方の王国会館を使用することにより,長老たちに比較的便利な所で学校を開いてより多くの長老に益を与えている国も少なくありません。エホバの民は,そうした優れた訓練の施されたことをどれほど感謝できるかわかりません。王国宣教学校は,その責任と特権に対してクリスチャンの監督を備えさせるために多くの働きをしました。

      命を得させる神権的な教育で無視することのできない興味深い面があります。ある人々は聖書の知識を求めつつも長年文盲でした。しかし,彼らの問題はわきへ押しやられなかったのです。多くの国々で,神の民の組織は読み書きの教室を開いてきました。その幾つかは政府当局者から非常な称賛を受けています。読み書きを学んだ男女の多くは引き続き進歩して,エホバに誉れと栄光を帰する豊かな奉仕の特権を享受しています。

      「前進せよ」との合図が鳴る

      1942年当時,ノア兄弟と彼の執行部の仲間は前途に多くのわざのあることを認識していました。実際,1942年9月18日から20日にかけて開かれた,エホバの証人の新しい世の神権的大会で,「前進せよ」との合図が鳴らされました。オハイオ州のクリーブランド市を主要都市としてアメリカ全国の他の51都市が結ばれました。

      大会の基調をなす話はイザヤ書 49章と60章に基づく,「唯一の光」と題するもので,1942年9月18日金曜日の夜にF・W・フランズによって行なわれました。その講演で,「前進せよ」との合図は鳴り渡りました。ジュリア・ウィルコックスは次のように書いています。「『唯一の光』という基調をなす話が終わった時,手をたれてくつろぐ時が来たと考えた人は聴衆の中にひとりもいなかったと思います。それどころか,それは神の民がこの古い世のやみの中で唯一の光を放つべく,『起きて輝く』べき時でした」。

      プログラムによると,F・W・フランズに続いてノア兄弟が「『御霊の剣』を執る」という主題で話しましたが,彼は「なすべきわざはあります。しかもたくさんあります」という意味深いことばでその講演を始めました。

      前途にわざのあることは,さらに,9月20日,月曜日の午後に行なわれた公開講演の中でも幾度か指摘されました。その主題はというと,諸国家が第二次世界大戦に巻き込まれていた当時にしては,全く奇妙な主題でした。「平和 ― それは永続するか」という主題だったからです。

      それが非常に重要な講演であることをノア兄弟は知っていました。エホバの助けを得て,彼は『全力を尽くして』その話をすることを決意しました。L・E・ルーシュはこう語っています。「数か月前から,彼が『平和 ― それは永続するか』という公開講演を大きな声で文字通り何十回も練習しているのが聞こえました。ベテルのわたしの部屋は会長の部屋の真下でしたから,彼が講演の練習をどれほど時間をかけて一生懸命行なったか直接に知っています」。

      そのテンポの速い1時間の講演の中で,大胆にも,国際連盟は啓示 17章の緋色をした政治的野獣であることが明らかにされました。また,国際連盟はその時無活動の底知れぬ深みに入っていて,『いません』が,いつまでもあなの中にとどまるのではないことが指摘されました。(啓示 17:8)それは再起するでしょう。「しかし,このことに注意してください。すなわち,預言によれば,現在の全面戦争が終わって『野獣』が底知れぬ深みから出て来る時,『バビロン』という女を背中に乗せて出て来るか,あるいは野獣が現われるや彼女がその背中に乗るのです」。しかし,人間製の平和も緋色の野獣も存続しないでしょう。やがて,野獣自体が完全に滅ぼされます。

      その講演を振り返って,マリー・ギッバードは次のように語っています。「国際連盟が底知れぬ深みから出て来て永続しない不安定な平和をもたらすとは,啓示 17章の預言のなんと正確な解明でしょう。ヨーロッパ戦勝記念日と対日戦勝記念日に我が国が喜びに包まれ,次いで1945年に国際連合が将来の平和に対する答えとしてたたえられるといった,その後の世界情勢にわたしたちが動揺させられないためのなんとすばらしい保護だったのでしょう。その講演は確かに実際的な適用の面から消えない印象を与えました」。結論も明快でした。エホバのしもべにはなすべきわざがあり,しかもそれを行なうために残されている時はわずかなのです。

      訪問する,群れの牧者たち

      同じ1942年の大会で,ものみの塔協会の代表者が神の民の諸会衆を定期的に訪問することが発表されました。(地帯のしもべは以前そうしたわざを行なっていましたが,彼らの活動と地区のしもべの活動および地帯大会を開くことは1941年12月1日以降中止されていました。)協会の旅行する代表者の派遣は,1942年10月1日から実施されることになっていました。そうした兄弟たちは「兄弟たちのしもべ」と呼ばれ,今日の巡回監督に対応するものでした。「その方々は,王国の関心事を推し進めるために会衆の記録を調べ,兄弟たちを援助しました。そうした事柄すべてを通して,わたしたちは,神が組織によってご自分の民を世話しておられることを自覚しました」とJ・ノリス姉妹は語っています。

      1946年10月15日以降,このわざに関連して幾つかの新たな特色のある事柄が導入されることになりました。全体の区域は,各が約20の会(会衆)からなる巡回区に分けられます。旅行する代表者は1週間ずつ各の会を訪問して,戸別の伝道で証人たちを援助することに主として関心を払います。ひとつの巡回区内の全会衆は,年に二回一か所に集まり,「地域のしもべ」が主宰する3日間にわたる巡回大会を開きます。その後,この取決めには幾つかの調整が加えられました。そして,読者がエホバの証人のひとりであれば現在もその取決めから益を得ておられます。ともあれ,しばらく前はどのように行なわれていたのでしょうか。

      それら進んで働く,神の羊の群れの牧者たちが払った努力の一例として1940年代の地域のわざを取り上げましょう。たとえば,1940年代の後半に,アメリカで地域のわざに携わっていた数少ない兄弟のひとりにニコラス・コバラク2世がいました。彼は1949年10月当時のことを,「わたしはその月に自動車で6,400㌔ぐらい旅行しました」と語っています。また,こう話します。「週末には5つの巡回大会を開き,しかもその間に幾つかの会衆で奉仕しました。ですから,わたしは旅行し,講演を行ない,証言し,記録を調べ,食事を取り,研究を行ない,読書をして,寝る時間はわずかでした」。ある週など,彼は約3,200㌔の旅をしてふたつの会衆で奉仕し,週末には巡回大会を開きました。もちろん,自動車でいつもそんなに長い旅行をしたわけではありません。コバラク兄弟は,「今ではずっと多くの会衆がありますから,旅行が楽になりました。エホバはわたしたちに寛大で,わたしたちをささえてくださいます」と自分の気持ちを述べています。

      今日の巡回監督と地域監督は,仲間のエホバの崇拝者に強い関心を持っており,野外奉仕で彼らを援助したり,霊的に築き上げようと努めます。巡回大会も王国の関心事を促進するうえで大切な役割を果たしています。読者は,一昨奉仕年度中,アメリカで毎週平均20の巡回大会が開かれ,平均出席者数は1,605人だったことをご存じでしたか。年間の合計としては1,064の巡回大会が開かれ,170万8,143名が出席しました。

      中立を守るクリスチャンは立場を取る

      ものみの塔協会の新しい管理部が発足した1940年代の初めは,第二次世界大戦がたけなわのころで,クリスチャンの男子の多くはエホバへの忠誠の試みを受けていました。1940年に,当時まだ平和であったアメリカ合衆国で選抜的軍事訓練および軍役法が実施されました。それによって,18歳以上の青年を軍役に徴用することが可能となりました。しかし,その法律では,IV-D級の「専門の,もしくはしかるべく叙任された聖職者」は免除されていました。エホバの証人は,だいたいにおいて,聖職者としての扱いを受けられませんでした。エホバの証人は扇動的でありませんでしたし,人間の政府が行なう軍事的な事柄や他の事柄に干渉しようともしませんでした。しかし,証人たち自身はクリスチャンとして厳正中立の立場を維持することを決意していました。(ヨハネ 17:16)さらに,彼らは『その剣をうちかへて鋤とし』ていました。―イザヤ 2:2-4。

      数多くの裁判で,エホバの証人は軍隊へ行ってからでなければ法廷で免除を求めることはできないということが検事側によって論じられました。したがって,忠誠を保った人々は,多くの場合最高の5年の懲役と1万㌦の罰金を宣告され,連邦地域裁判所から刑務所へ送られました。ユージン・R・ブラント兄弟の思い出によると,興味深いことに,彼と他の6人の証人が刑を宣告された時,裁判官は彼のベンチの後ろの壁に掲げられている国旗を指差して,「おまえたちにはあの国旗が見えるか。ところで,わたしにはあの国旗にわたしの神のみ顔が見えるので,わたしは国旗を崇拝することに何ら抵抗を感じない。おまえたちも同じように考えるべきなのだ」と言いました。

      刑務所の中で時間を有効に使う

      刑務所での最初の夜は忘れがたい経験でした。開拓者だったダニエル・シドリック(現在ブルックリン・ベテルで奉仕している)はクリスチャンの中立ゆえに1944年に投獄されました。彼は,寝棚の一番上に横になり,鉄の戸が,「雷鳴のような音をたててしまる」のを聞いたことを覚えています。そうした戸の音がひとつひとつ近づいて来て,ついに彼の監房の戸が動き,ごろごろと音をたてながらゆっくりしまりました。彼はこう語っています。「突然わたしはどうしようもない胸の悪くなるような気持ちに襲われ,逃げ道のないわなにかかったように感じました。そのあとすぐに別の,同じぐらい強い気持ちがわいてきました。それによって,わたしの心は非常な平和と喜び,聖書に『いっさいの考えに勝る神の平和』と述べられているような平和で満たされました」。―フィリピ 4:7。

      シドリック兄弟は,他の多くの兄弟たちと同様,ついには連邦刑務所に入れられました。中立を守るクリスチャンはそこで何をしましたか。彼らは時間を有効に使いました。刑務所での仕事が暇な時は,聖書やものみの塔協会の出版物を研究するために集会を開くことが許されました。さらに兄弟たちは,スペイン語やギリシャ語といった外国語を学ぶなどして,一般教養を高めました。西ヴァージニア州のミル・ポイントの刑務所にいたクリスチャンたちについて,ルドルフ・J・スナルは次のように語っています。「わたしたちは会衆の書籍研究を開いていました。……また,兄弟たちは刑務所の宿舎ごとに奉仕会と神権宣教学校を開いていました。……日曜日には図書室でものみの塔研究を行ないました。……わたしたちが取り決めることのできたもうひとつの備えは,小規模な大会という特権でした。……ある夏など,野球をする広場を使って,ピアノや他の楽器を用意し,非常に教訓的なプログラムを行なうことができました」。

      当時刑務所で行なわれたクリスチャンの教育的なプログラムの思い出を,F・ジェリー・モロハンは,「わたしたちの研究集会といえばどんな集会でも,きわめて良い出席が見られました。非常に教育的な集会でしたから,わたしたちはおどけて,レブンワース刑務所オナー農場‘石の壁大学’と呼んでいました」。

      ものみの塔協会はそうした若者たちの霊的な福祉を気づかい,A・H・マクミランやT・J・サリバンなど数名の兄弟たちが彼らを定期的に訪問する取決めを設けました。もちろんのこと,聖書から助言と励ましを与えるためでした。

      自由の身であろうと,投獄されていようと,エホバの証人は弟子を作るという任務を遂行する方法をさがします。(マタイ 28:19,20)なるほど,中立を守るクリスチャンに開かれた機会は制約されていました。しかし,そうだからといって,彼らの口びるを完全に封じてはいなかったのです。モロハン兄弟は次のように語っています。「わたしはある機会を最大限に活用しました。というのは,フランク・ライデンという名の終身刑を受けていた良い心の持ち主がわたしの最初の『推薦の手紙』となり,らばのかいばおけでバプテスマを受けたからです」。―コリント第二 3:1-3。

      恩赦の請願

      1946年8月10日,オハイオ州クリーブランドにおけるエホバの証人の,喜びを抱く国々の民の神権的大会で,6万人に上る大会出席者はある重大な決議を満場一致で採択しました。それは不当にも有罪とされて投獄された4,000人を上回る証人に対する大赦を合衆国の大統領に請願するものでした。そうした情け深い処置が取られるなら,1940年から1946年にかけて徴兵委員や連邦法廷によって不法にもその権利を否定された中立を守るクリスチャンの市民権が回復されることになるのでした。エドガー・C・ケネディはこう語ります。

      「驚いたことにそれらの人々全員の大赦を願う決議は協会の代表者によって合衆国の大統領に直接提出されるということが司会者によって発表されました。大統領だったのは第一次世界大戦中,わたしといっしょに軍役についていたかつての陸軍士官であるハリー・トルーマンでしたから,わたしはそのことを司会者室に伝えたほうがよいと思い,そうしました」。事情が変わったので,1946年9月6日金曜日午後12時30分に,協会の法律顧問ともうひとりの弁護士および開拓者であったケネディ兄弟は大統領と約40分間会見しました。ケネディ兄弟によれば,トルーマンは,協会の弁護士が決議の要旨を発展させて行政部の情け深い処置を請うところまで話すのを熱心に聞いていました。それから,「トルーマンは感情を高ぶらせて話をさえぎり,『わたしは自分の国のために戦わないようなバカ者はきらいだ。それに,あなたがたが国旗に対して不敬を示していることが気に入らない』と言いました」とケネディ兄弟は回顧し,さらに話を続けます。

      「そこでわたしは自分が話す番が来たと思いました。わたしは自分がかつての仲間の士官であることを明らかにし,戦争中に彼の砲兵中隊が使用した弾薬はすべて,わたしの責任において供給されたことを話しました。そして,書類鞄から連隊士官たちを撮った一枚の写真を取り出して彼の机の上に置きました。彼はそれを見ると,自分も同じ写真を持っていて,彼の図書室の机の上方に掛けてあると言いました。それから,わたしは彼に,戦争で戦うより,クリスチャンの原則のために戦うほうが難しいと言って,エホバの証人が国旗に敬礼しない理由を手短に説明しました。彼は聞いていましたが,『わかった,ぼくが間違っていた』と言いました」。

      ケネディ兄弟によれば,そのあと協会の弁護士が「最後に選抜軍役法のため刑務所に捕われているエホバの証人の釈放を願ったところ」,大統領はそのことばに注意を向けました。「そして,トルーマンは,その件について法務長官と検討する意向を述べました」。

      やがてトルーマン大統領は特赦委員を任命しました。彼らは幾千もの法廷記録や徴兵委員のつづりを調査し,幾人かの人々に対する恩赦を推薦しました。しかし,1947年12月23日にトルーマンは1,523人に恩赦を与えたものの,そのうち恩赦を受けた証人はわずか136人でした。他の宗教グループで投獄された人は合わせて1,000人だけでしたが,それに比べ,エホバの証人は4,300人が投獄されていました。したがって前者は優遇されていたことになります。こうして,中立を守ったクリスチャンの大多数は,エホバ神への忠誠を保つ固い決意を持っていたというだけで差別待遇を受けたのです。

      法律上の戦いは続く

      1946年2月4日,最高裁判所はスミスとエステプの件で次のように裁定しました。すなわち,エホバの証人に公正な聴問の権利を拒絶し,軍隊にはいってからでなければ証人たちは法廷で自分を弁護できないと裁定した下級連邦裁判所は間違っていたというものでした。1946年12月23日,ギブソンとドデツの件において,同裁判所は法律を拡張し,良心的反戦主義者の収容所へ出頭することを怠った,もしくは出頭しても収容所に残らなかったゆえに告発されたエホバの証人が法廷で弁明することを許しました。

      全時間の開拓奉仕者は,決まった会衆を持っていないゆえに,兵役や軍事教練の免除を受ける資格がないと検察側は主張しました。さらに彼らの論議によれば,会のしもべたち(主宰監督)は平信徒からなる会衆を持たず,エホバの証人からなる会衆を主宰しているゆえに,免除の対象にはなりませんでした。1953年11月30日,合衆国最高裁判所は,ディキンソンの件で,エホバの証人に有利な判決を下したため,そうした論議は敗れました。それは,すべての連邦裁判所が従うべき判例となったのです。

      投獄されても信仰に堅く立つ

      中立を守る非常に多くのクリスチャンが忠誠を保つがゆえに投獄された30年ほど前のことを考えて,ある人は,同じような状況下で自分だったらどうするだろうかといぶかるかもしれません。神の民を監禁するために敵がどんな口実を設けるかは実際に問題ではありません。中立を守った多数のクリスチャンが幾年か前にまさに経験したとおり,エホバの助けによって忠誠は保てるのです。1965年,共産中国の刑務所から7年ぶりに釈放されたスタンレー・アーニスト・ジョーンズは,ニューヨーク市のヤンキー野球場で3万4,700人を超える人々に向かって話をしました。獄中で彼は聖書のことばを思いめぐらし,しばしば祈り,エホバの霊の援助によって自分自身を霊的に強く保ちました。しかし,彼は話の中で次のようなことも言いました。「わたしたちが苦しみに遭うのは結局『十日のあいだ』にすぎません。言いかえるとその苦しみには終わりがあるということです。時がくればすべては終わります。ゆえに忍耐しなければなりません。神はわたしたちをその中から連れ出されます」。―啓示 2:10。

      仲間の宣教者のハロルド・キングは,共産中国の刑務所で5年近くを過ごしました。彼も霊的な強さを保った人です。彼が獄中で聖書にちなんだ歌を作曲しさえしたことをご存じでしたか。今日エホバの証人が使用している,「心に音楽をかなで…歌いつつ」と題する歌の本にはキング兄弟が刑務所の中で作曲したメロディーが載せられています。それは「家より家へと」という題の10番の歌です。ですから将来のことを恐れないでください。中立を守って投獄されたアメリカのクリスチャンや,共産主義中国の刑務所に監禁されるという厳しい経験をしたジョーンズ兄弟とキング兄弟を含む他の多くの忠誠を保った人々の場合と同様,エホバはあなたをささえることがおできになるのです。

      救援の手が差し伸べられる

      1945年9月2日,第二次世界大戦は終結しました。多くの土地で,ものみの塔協会の支部事務所がさっそく再開され,諸会衆は再建されました。霊的な食物が再び入手できるようになって,それは増加の一途をたどっています。しかし,戦争で荒廃した国々のクリスチャンは物質的なものも必要としていました。したがって,困窮していた仲間の信者へのクリスチャン愛を示すため,エホバの民は,結局2年半に及んだ世界的な救援運動を開始しました。(ヨハネ 13:34,35)アメリカ,カナダ,スイス,スウェーデンおよびその他の国の証人は,オーストリア,ベルギー,ブルガリア,中国,チェコスロバキア,デンマーク,英国,フィンランド,フランス,ドイツ,ギリシャ,ハンガリー,イタリア,オランダ,ノルウェー,フィリピン共和国,ポーランドおよびルーマニアのクリスチャンを助けるために食物を買うお金や衣類を寄付しました。

      ヘイゼル・クルルとヘレン・クルルは次のように回顧しています。「第二次世界大戦が終わると,兄弟たちは刑務所から帰りました。その多くは病気で,物質的な持ち物を永久にはく奪されていましたし,その中には家族と引き離されてその生死がわからないという人もいました。しかし,そうした事柄すべてにもかかわらず,兄弟たちは霊的に驚くほどしっかりしていました。彼らは全世界の兄弟たちに迎え入れられました。彼らが第一に関心を持っていたのは,王国のわざのために再組織し,投獄される原因となったものと同じ良いたよりを宣明し,霊的な知識の埋め合わせをすることでした。あのようにひどい数々の苦難を経験した後でも兄弟たちがやみ難い願いを持っていたことからわたしたちはたいへん励まされました。そして,兄弟たちの物質的な必要物をわずかながら融通して援助する特権にあずかれたことは喜びでした。衣類とか靴その他の必需品が王国会館に集められて仕分けされ,兄弟たちのもとへ運搬するトラックに積み込まれました。こうして幾トンもの愛のこもった物資が供給されました」。

      送られた衣類は合わせて約479㌧,食料品の合計はおよそ326㌧に上りました。加えて,この救援運動中に12万4,110足の靴が困窮していたクリスチャンに送られました。それらすべては金額にしておよそ3億9,672万2,000円になりました。そうした親切な贈物は感謝されました。あるお礼のことばについて,エステル・アレンは,「送られて来た感謝状にうれし涙が出ました」と語っています。ですから,一方には物質的なものが流れ出,逆の方向には深い感謝と励ましとなる忠誠の記録が流れたことになります。

      長年にわたり,アメリカのエホバの証人は,国の内外を問わず仲間の信者を物質的に援助する様々な機会に恵まれてきました。1970年のペルーの地震の場合,リマの諸会衆は衣類や食料および金銭を集めて,約7㌧の物資をただちに被災地に送りました。またニューヨーク市のエホバの証人は10㌧を優に越す衣類を寄付しました。それは実際のところあり余るほど多くの衣類でした。さらに,ものみの塔協会は,被災地の兄弟が必要とするものを手に入れるために用いるよう,2万㌦(約600万円)をペルーの支部事務所に支給しました。1972年にニカラグアのマナグア市が地震で壊滅した時にも同様に援助が差し伸べられました。クリスチャン愛がそのように表わされるのを見る時,第1世紀のクリスチャンが善良な心から寛大さを示したことが思い出されます。―コリント第二 9:1-14。

      しかし,仲間のエホバの崇拝者に対する援助は,必ずしも物質的なものとは限りません。1961年にアメリカおよび他の国々のエホバのしもべたちが,スペインの当局者にあてて,同国の神の民に崇拝の自由が与えられるよう求める何千通もの手紙を送ったことを読者はご存じでしたか。また,1968年には,マラウィの当局者にあてて,その地のエホバのクリスチャン証人に対する非道な扱いを抗議する手紙が送られました。エホバのしもべたちはあらゆる場所の兄弟たちに対して真実の愛ある関心を抱いているのです。

      歴史的な大会は真にエホバをたたえる

      昔も今も,神の民の大規模な集まりは霊的に多大の益を受ける機会となってきました。しかも,それはしばしば大きな喜びの時となりました。(申命 31:10-13。ネヘミヤ 8:8,12)1946年8月4日から11日にかけて戦後初めて開かれた,オハイオ州クリーブランドにおけるエホバの証人の,喜びを抱く国々の民の神権的大会についてはまさにそのとおりのことが言えました。その大会は変わっていました。それまでは,いろいろな土地でラジオと電話の施設を用いて結ばれる多都市大会が開かれ,合計して大勢の聴衆が集まりました。ところが,喜びを抱く国々の民の神権的大会において初めて,神の民は世界各地の代表者をひとつの都市に集めるという大規模な国際大会を開いたのです。

      大会前のなみなみならぬ仕事は出席者のために宿舎を見つけることでしたが,それは広範な戸別訪問のわざによって成し遂げられました。しかし,多くの出席者は証人たちのトレーラー・キャンプに宿舎を得ました。やがてそこに2万人の人々がひとつの共同社会を作って快適に,また安い経費で生活しました。いうまでもなく,出席者たちは物質的な食物を必要としました。ですから会場に設けられた簡易食堂はたいへん重要な役割を果たし,1時間のうちに1万5,000人から2万人がそこで食事をすることができました。

      とはいえ,最も重要なのは霊的な食物であり,それは豊かに備えられました。たとえば,F・W・フランズは「収穫,世の終わり」について話しましたが,それは小麦と雑草もしくは毒麦に関するイエス・キリストのたとえ話を詳しく説明したものでした。(マタイ 13:24-30,36-43)また,L・A・スウィングルが「目ざめよ!」という主題で話をしたのもこの大会です。原爆がさく裂し,ジェット機が飛び,レーダーで制御され,電子時代を迎えた総合的な20世紀の世界は,人類が直面している真の問題に目ざめていないため,滅びのどたん場に向かっている,とスウィングルは語りました。ノア兄弟は「積極的な召しに対する答え」と題する話を行ない,「目ざめ,目ざめ続け,『目ざめよ!』誌を読む」よう聴衆に勧めました。そうです,「目ざめよ!」という新しい雑誌が,かつて「黄金時代」誌として知られた「慰め」誌に代って発行されることになったのです。幾年も後になって,ヘンリー・A・カントウェルは次のように言うことができました。「『目ざめよ!』誌がその名前にふさわしく,熟睡していた多くの人を目ざめさせて真の崇拝に向かわせたことに疑問の余地はありません」。

      ある人々は,この大会で「神を真とすべし」と題する優れた基礎的な聖書研究手引きを受け取った時の感激を忘れないでしょう。その初版はおよそ6年以内に1,050万冊余りが出版されました。1952年4月1日現在をもって改訂された同書は引き続き配布され,1971年の初めまでに54の言語で合計1,924万6,710冊が出版されました。当時「神を真とすべし」は,ノンフィクションとして,20世紀の世界のベストセラー中第4位を占めていました。

      8月8日木曜日は,1946年の大会で特に顕著な日でした。ノア兄弟は「再建と拡大の諸問題」という主題の話をしました。その時の思い出を,英国諸島のエドガー・クレイは後にこう書いています。「その夜,わたしは演壇上のノア兄弟のうしろにひかえていました。ノア兄弟がわざについて要約してから,ブルックリン・ベテルの家と工場を拡大する計画を説明すると,大聴衆から万雷の拍手が幾度もわき起こりました。演壇からみなさんの顔をはっきりと見ることはできませんでしたが,みなさんの喜びを感ずることができました」。

      世界情勢を視察する

      神権的な再建と拡大が行なわれねばならないこと,それは明白でした。そこで,喜びを抱く国々の民の神権的大会からおよそ6か月後の1947年2月6日に,協会の会長N・H・ノアと秘書のM・G・ヘンシェルは,世界一周奉仕旅行に出発しました。約7万6,472㌔に及ぶその旅行で実際に視察することにより,世界的な組織を強め統一するためにどんな措置を講ずべきかを決定することができました。

      その旅行は多くの成果を上げました。とりわけ,旅行のあと,ギレアデの宣教者がアジアの幾つかの国と太平洋の島々へ派遣されました。王国の関心事は推し進められていました。神権政治は急速に前進していたのです。

      増し加わる神権政治

      エホバは『小さな者を千とならせ,小さい者を強大な国民とならせる』ことがおできになります。(イザヤ 60:22,新)エホバは,幾世紀も昔,バビロンに捕われていたイスラエル人を彼らの故国に復帰させられた時,そのことを行なわれました。同様に神は,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの束縛から霊的なイスラエルを救い出されました。そのうえ,彼らを祝福し,増加させられたのです。1938年,世界の王国宣明者の最高数は5万9,047人でした。それから戦争とクリスチャンに対する迫害の数年があり,その後神の民の間で組織的な再建が行なわれました。その結果,なんと,1949年までにエホバのクリスチャン証人は31万7,877人に達したのです。神権政治が増し加わっていたことは明らかでした。

      したがって,神の民が,エホバの証人の増し加わる神権政治大会に参集するのはなんとふさわしいことだったのでしょう。彼らは,1950年7月30日から8月6日にわたる8日間の国際大会に出席するため,自動車,バス,汽車,船および飛行機を使ってニューヨーク市の有名なヤンキー野球場へ群れをなして集まりました。約1万人の外国人が繰り込んできたため,アメリカ移民局は不審を抱いてそれらの訪問者に失礼な差別待遇をしました。これに対して大会出席者は後に厳重な抗議をしました。

      オハイオ州クリーブランドにおける1946年の国際大会の場合と同様,大ぜいの人々に食事を供するために大がかりな簡易食堂が設けられました。それは実に印象的なものでした。ニューヨーク・タイムズ紙は,「わたしは魅了されてしまいました。あれほどすべてのものが円滑に運営されている集まりをいまだかつて見たことがありません」と語った衛生局の検査官のことばを掲げました。

      多くの出席者は個人の家やホテルに宿泊しました。しかし,1万3,000人を上回る人々は結局,ニューヨーク市から64㌔離れたニュージャージーに設けられた証人のトレーラー・キャンプに宿泊しました。マリー・M・グリーサムは次のように思い出を語ります。「ニューヨーク州とニュージャージー州全域から来た兄弟たちが,幾週間もかかって水道管を取り付け,ガスや電気の設備をし,洗面および入浴施設を設けました。……その町はニューヨークの大会会場と有線で結ばれていましたから,ニューヨーク市の大会のプログラムはすべてトレーラー・キャンプで聞くことができました」。

      1950年8月2日水曜日が明けた時,一般のエホバの証人は,その『御言を宣べ伝える』日にどんなすばらしい祝福が待ち受けているか全く知りませんでした。その日の午後,ノア兄弟は,「国々の民に清き唇をあたえる」と題する話をしました。(ゼパニヤ 3:9)その中でノア兄弟は,ものみの塔協会が1902年に「エンファティック・ダイアグロット」として知られるクリスチャン・ギリシャ語聖書の翻訳の版権を取得し,1926年12月21日に初めて協会の機械で印刷したことを話しました。協会は,以後,ほかにも非常に注目すべき聖書の印刷を担いました。

      ところが,1950年におけるその大会のプログラムでは,特別に感動的な事柄がありました。記念すべきその時に,ノア兄弟は大きな喜びをもって「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」の英語版を発表したのです。野球場とトレーラー・キャンプにいた8万2,075人の驚きに包まれ,大喜びした聴衆は深い感謝の念にうたれ,鳴りやまぬ拍手の嵐と熱烈をきわめる感激のうちにそれを迎えました。その聖書は大会出席者によって幾万冊も飛ぶように求められました。出席していたすべての人にとってなんと感動的な出来事だったのでしょう。

      「君たち」はここにいます!

      エホバの民は,アブラハム,ヨセフ,ダビデのような昔の忠実な人々が現在の邪悪な事物の体制の終わる以前に復活すると長い間考えていました。それら神の昔のしもべたちは,「古代の名士」とか「昔の忠実な人々」また「君」と呼ばれました。また,詩篇作者は次のように言明していました。「なんぢの子らは列祖にかはりてたち なんぢはこれを全地に君となさん」。(詩 45:16)ですから,以前エホバの民が大会へ行く時には,少なからぬ期待がありました。この大会は,それら復活した君たち,もしくは昔の人々のひとり,または数人が現われる大会となるのではないかと考えられたのです。

      そのことを念頭に置いて,1950年8月5日土曜日晩に,F・W・フランズの話を熱心に聴く8万2,601名の大会出席者たちと思いをひとつにして加わってください。聖書を詳しく説明した心をとらえて離さないその講演の最高潮のところで,彼は次のように尋ねました。「この国際大会に集まった皆さんは,今晩ここ,わたしたちの中に新しい地の君となる人々が大ぜいいることを知って喜ばれるでしょうか」。

      それに対してどんな反応がありましたか。以下は鮮明な思い出の幾つかです。「わたしは会場全体が驚きの息を飲んだのを覚えています。それからわたしたちは,期待しながら自分のまわりを見まわし始めました。……ダビデがいるのですか,それとも,アブラハムかしら。でなければ,ダニエルとかヨブがいるでしょうか。姉妹の多くは目に涙を浮べていました」。(グレース・A・エステプ)「わたしはとても興奮して,いすの端にすわり,ダッグアウトに目を凝らしました。昔の人のだれかが今にもきっと現われるに違いないと思ったからです」。(ドワイト・T・ケンヨン姉妹)「通路にいた人たちは,アブラハムやダビデ,もしかしたらモーセに会えるかもしれないと思って,講演者のいる観覧席を見るために野球場の入口に殺倒しました。聴衆は立ち上がり,ふんい気はつのりました。だれか長いひげをした人が演壇の方へ歩いていったりでもしたら,群衆を抑えることはできなかったに違いありません」。―L・E・ルーシュ。

      ついで聴衆は水を打ったように静かになりました。講演者の一言半句も聞き逃すまいと耳をそば立てているようでした。講演者は,「君」と訳されているヘブライ語の本当の意味を説明し,今日の「ほかの羊」が昔のエホバの証人たちと同様信仰のために多くの苦しみを経験したことを指摘しました。したがって,キリストがそれら「ほかの羊」を必要に応じて「全地に君」とすることに何の異論もないはずです。(詩 45:16。ヨハネ 10:16)それから,フランズ兄弟は講演の結びにこう述べました。「わたしたちの目前にはすばらしい見込みがあるのですから,さあ,神権的な組織を維持してまいりましょう。そして,神にこの組織を新世社会として引き続き改善していただきましょう。わたしたちが,滅びのために留め置かれている現代のソドムを振り返ることなど断じてありませんように。むしろ,わたしたちは全き信仰を持って前途を見続けることを決意しています。では,みないっしょに,新世社会として着実に前進してまいりましょう」。

      神権政治の増し加わる証拠

      8月6日,日曜日の午後は大会出席者にとって感激の日でした。ヤンキー野球場は8万7,195人でうずめ尽くされました。さらに,歩道や付近のテントには2万5,215名の人々がいました。そのうえ1万1,297人の人々はトレーラー・キャンプに集まっていました。

      したがって,ノア兄弟の行なった,「あなたは地上で幸福のうちに永遠に生きられますか」と題する非常に興味深い広く宣伝された公開講演には合計12万3,707名の人々が出席したことになります。その論理的で心を動かす講演は,地上で楽しく永遠に生きることのできる人々がいるということの聖書的な証拠を十分にあげていました。

      新世社会として集まる

      1953年には,神権史の上でのもうひとつの里程標に達しました。エホバの民は7月19日から26日を心待ちにしていました。アメリカほか96か国から集まった大ぜいの人々がニューヨーク市のヤンキー野球場をうずめました。8日間にわたる新世社会大会は,エホバのクリスチャン証人の間にある国際的な一致のすばらしい証拠を世間に提出するものでした。

      このたびも,大会出席者のために個人の家の宿舎が多数確保されました。ホテルに宿泊した人々もいます。そのほか4万5,000人の人々は,野球場から約64㌔離れたニュージャージー州ニューマーケット近くの新世社会トレーラー市で生活しました。ついでながら,トレーラー市のマーケットは,クリスチャンの正直さについて土地のある仕入れ業者に無言の証言となりました。(ヘブライ 13:18)多くの証人たちは,野球場で自発奉仕をするために開店前に出かけて行き,マーケットなどが閉店してから帰って来たので,必要な品物を自分で取り,代金を防備のない盆に入れていました。R・D・カントウェルはこう語っています。「その紳士(仕入れ業者)はそれを見て驚き,とうとうこんなことを言いました。『カントウェルさん,はっきり言って,わたしの教会ではこんなふうにはできないでしょうな。教会員は信用できませんからね』」。

      この大会の国際的な性格を際立たせていたのは,野球場の上段と中段の前面のまわりに一列に並べられた90本の色とりどりののぼりでした。出席者たちは,「香柏の国,レバノンからサラームス」とか,「ハワイからクリスチャンのアロハ」とかといったあいさつのことばを受けました。また,「北アメリカの日」や「太平洋諸島の日」などの地域別のテーマがそれぞれの日に設けられていました。

      7月20日,ノア兄弟は大会の主題にそって,「新世社会として今生活する」と題する時宜にかなった講演を行ないました。その午後の思い出をC・W・バーバーはこう書いています。「大ぜいの人々がこのように『新世社会』として一同に会したので,その大群衆が一致結束していることを言い表わす良い機会が訪れました」。どのようにしてそれを表明するのですか。自分たちがひとつの一致した新世社会をなしているというエホバの証人の実感を明確に表わした決議を採択することによってです。その決議は野球場および別に設けられたテントそしてトレーラー市にいた12万5,040名の人々によって満場一致で採択されました。

      警告が発せられる

      この大規模な大会は,ウエブスター・L・ロウが「スリラーだ!」と呼ぶ,特筆すべきプログラムのあったことで確かに記憶に残るものとなりました。その特別の講演に関して,ロジャー・モルガンは,「1953年のヤンキー野球場で一番感銘を受けたのは,フランズ兄弟の『新世社会は北のはてから攻撃される』と題する話でした」と書いています。

      そうです,1953年7月23日木曜日の夜には警告が発せられたのです。協会の副会長F・W・フランズは,エホバの民に対するマゴグのゴグとその一味による来たるべき攻撃を生き生きと描写しました。預言の主演者ゴグは,サタンを指すことが明らかにされました。また,フランズによれば,マゴグの地とは,(西暦)1918年までに天から放逐された邪悪な霊の勢力のいる地の近くの制約された霊の領域を言います。(啓示 12:7-9)講演者は,ゴグとその軍勢が現在エホバの民の間に繁栄,一致,安全があるのを見て攻撃して来ると述べました。しかし,エホバは新世社会を守ってその猛攻撃を切り抜けさせてくださいます。11万2,700名の聴衆は,そうした警告と,引き続きエホバにより頼んでキリストによる神の王国の良いたよりを宣明するようにという勧めをどんなにか深く感謝したことでしょう。

      大会の感動的な閉幕

      7月26日,日曜日午後,集まっていた出席者たちは特に感動的な経験をしました。N・H・ノアの,「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」と題する公開講演を聞くために,ヤンキー野球場と別に設けられたテントおよびトレーラー市に16万5,829人が集まりました。野球場だけでも9万1,562名の人々がいました。公開講演の少し前に,幾つかの門が開かれ,大ぜいの人々がグランドに列をなして入り,芝生にすわりました。そのうえ,協会のWBBR放送によって講演を聞いた人も大ぜいいました。

      時間はまたたくまに過ぎ,聞き手を魅了した公開講演はやがて終わりました。折からの涼しいそよかぜは,閉会のプログラムにとどまった何万人もの人々をさわやかにしました。ノア兄弟は,詩篇 145篇に基づく1時間の話を行ない,エホバを賛美し,神としてあがめ,またエホバが宇宙主権者であることを宣伝し,その王権を知らせる必要を強調しました。「勝利の歌をうたえ」と題する歌と閉会の祈りにより,それまでに最大のクリスチャンの大会は喜びのうちに幕を閉じました。

      神の御心国際大会

      「今でも1958年と言えば,エホバの証人の頭に浮ぶ大きな出来事があります。それは,『大規模な大会』つまり,エホバの証人の神の御心国際大会です。実にすばらしい大会でした」と,アンジェロ・C・マネラ2世は書いています。この際立った集まりには,少なくとも123の国々や島々の人々が出席しました。中東戦争ぼっ発の脅威にさらされ,国際関係に緊張の見られていた1958年の7月27日から8月3日にかけて,エホバの民はニューヨーク市のヤンキー野球場とポロ・グランドに平和と一致のうちに参集しました。

      大会に先立つ2週間ほどのあいだ,ノア兄弟は協会の支部の監督たちとその補佐たち80人余りと会合し,支部事務所の手続きに関する新しい本を討議しました。それはノア兄弟が,支部のうちで最も大きなブルックリンのアメリカ支部を直接に調査して作成したものです。大会中には,その人々との集まりのほか,それぞれ宣教者,特別開拓者,巡回および地域監督との有益な集会が開かれました。

      オーニスト・ヤンスマは7月30日水曜日の出来事に感動して,「確かに神権史上長く記録にとどめられる重大な出来事だったと思います」と語っています。まさにそのとおりで,エルサレムにおいて1日におよそ3,000人の新しいキリストの追随者がバプテスマを受けた,西暦33年のペンテコステ以来の出来事がその日に起きました。(使徒 2:41)「神の御心に従うバプテスマ」と題する話を聞いたのちただちに,7,136名の人々(うち2,937人が男子で,4,199人が女子)が数キロ離れたオチャード・ビーチで浸礼を受け,エホバ神への献身を象徴しました。それは,近代にひとところで行なわれたバプテスマとしては最大のものでした。

      この大々的な集まりで,三つの事柄,すなわち地的な楽園,霊的な楽園および天的な楽園に関する事柄が,ノア兄弟による「わたしたちの霊的な楽園を保つ」と題する講演の中で考察されました。非常に興味深いその話のあと講演者は,誤りを指摘する出版物でなく,正しい聖書の教えのみを扱った研究の手引きを発行してほしいとの要望がタイの宣教者から協会に寄せられたと語りました。そして,その宣教者たちを含め各地のクリスチャンの必要に答えて,協会は「失楽園から復楽園まで」と題する新しい書籍を出版したと述べました。平易なことばで書かれ,さし絵の豊富な「楽園」の本は,子どもにもおとなにも喜ばれてきました。グレース・A・エステプはこう語ります。「その世代の子どもたちは,『楽園』の本を集会へ持っていったり,文字など読めないうちから,さし絵を使って聖書の物語を全部話せるようになってお友だちに聞かせたりするなど,『楽園』の本を手にして成長しました」。

      8月2日の土曜日は,「御心が地に成るように」の日でした。その日の午後,協会の会長は「御心が地に成るように」と題する感動的な話をし,そのあと「御心が地に成るように」と題する新しい書籍を発表して17万5,441名の聴衆を沸かせました。出席者たちは,預言の中でも特にダニエル書の預言に関する同書の説明を研究したいとどれほど強く感じたことでしょう。

      「エホバに対する実にすばらしい証言であった」

      8月3日,日曜日の,神の御心国際大会の模様はなんと説明したらよいでしょうか。出版された大会の報告は,「エホバに対する実にすばらしい証言であった」と述べています。実際そのとおりでした。エドガー・C・ケネディは次のように語っています。「日曜日は,出席者のだれもが忘れることのできない日でした。ヤンキー野球場での公開講演に人々が集まる様子は全く壮観でした。連綿と続く流れのように人々が野球場にはいり,スタンドをうずめ尽してグランドにまであふれ,きちんとした区画を作って芝生にすわるのが座席から見えました。それは,『大群衆』が,エホバの油そそがれた残りの者たちと共に神のお名前を賛美し,『神の意志』を行なうために彼らの側に集まって来ていることを示す,見る者を圧倒する光景でした。わたしたちは自分があの群衆の一部となれたことを神に感謝しています。野球場は収容能力の限界に来ており,ポロ・グランドでも同様でした。午後3時,司会者が講演者である,ものみの塔聖書冊子協会の会長N・H・ノアを紹介し,「神の御国は支配す ― 世の終わりは近いか」という講演の題を発表すると,25万人を超える出席者はしんと静まりかえりました。

      そのとてつもなく大ぜいの群衆は25万3,922人でした。少なくはなかった金曜日の出席者数から考えると,一般の人々が6万人ぐらい出席したにちがいありません。その講演で大ぜいの人々が聞いたのは,神の王国が西暦1914年以来支配しており,世の終わりは間近いことを確信させる聖書的な根拠についてでした。

      神のことばを入手できるようにする

      命を得るための教育を人々に施し,神の王国の地的な関心事を促進させるには,王国を主題とする当の本そのものを人々が容易に入手できるようにすることがぜひとも必要でした。それはノア兄弟の長年の懸案でした。事実,彼は,協会の工場で働いていたころ,聖書全巻を印刷する際に役立つ資料を机の中に長い間持っていました。しかし,事情がなかなか許さず,その計画の実現を図ることができませんでした。ところが,協会の会長になると,ノア兄弟はただちにそれを実行に移しました。安い価格の聖書を生産することも大切でした。そうすれば,一般の人々が神のみことばである聖書を求めて読むことができるからです。

      N・H・ノアは,1942年にオハイオ州のクリーブランドで開かれたエホバの証人の新しい世の神権的大会で「『御霊の剣』を執る」と題する話をしましたが,その中で,聖書は最大の攻撃用武器,すなわち「霊の剣」であると語りました。(エフェソス 6:17)結局,彼はエホバのしもべ一般の次のような考えを言い表わしたのです。「もし望む聖句を見つけることさえできれば,わたしたちは敵対者を寄せつけないでいられるし,嘆いている人を慰めることもでき,わたしたちにわかりきった様々な事柄を豊富な証拠を用いて他の人々にわかりやすく説明することができる。必要な聖句をすばやく見つける助けの付いた聖書さえあればよいのだが」。

      その大会でそうした備えが与えられました。それは,ものみの塔版の新たな「欽定訳」で,ものみの塔協会が独自の印刷機で聖書全巻を印刷した最初のものでした。150人を上回る神のしもべたちが何か月も共同研究した結果,その聖書に付けるため,神の民が伝道のわざで用いるよう特別に企画された索引が編さんされました。ジェイムズ・W・フィルソンによれば,その聖書は「実際の必要を満たしました」。「自分たちが必要としていましたし,区域の人々に配布する必要のあるものでした。……わずか1㌦で配布できる,りっぱで安価な聖書があるのはすばらしいことでした。今日にいたるまで,それは真理にいない多くの人々の家庭で唯一の聖書となっています」。

      ノア兄弟はもうひとつの基本的な考えを持っていました。それはあらゆる言語でエホバのお名前を保存するということでした。ヘブライ語聖書中に神のお名前を使った聖書の翻訳がありました。それは「アメリカ標準訳」でした。協会はその聖書の版権を買って印刷しました。その高く評価されたものみの塔版は1944年の,一致した発表者の神権大会で入手できるようになり,出席者を大いに喜ばせました。「わたしたちはこの聖書を再訪問と聖書研究でよく使いました」とエドガー・C・ケネディは言います。

      聖書の新しい翻訳

      実際には1946年以来,協会の会長は,より深い真理を得る土台となるような,原本の意味を忠実に表わしたクリスチャン・ギリシャ語聖書の現代語訳をほしいと考えていました。増し加わる神権政治大会が開かれていた1950年8月2日に8万2,075人の聴衆を前に行なった話の中で,ノア兄弟は,ブルックリン・ベテルで1949年9月3日にペンシルバニアとニューヨーク法人の理事会が合同の会合を開いたこと,また,ひとりの理事を除いて全員が出席したその席上,「新世界訳聖書翻訳委員会」が設けられていることを発表したと報告しました。同委員会はクリスチャン・ギリシャ語聖書の翻訳を完成しており,その所有権および管理権をペンシルバニア法人のものみの塔聖書冊子協会へ引き渡しました。工場では1949年9月29日に原稿の最初の部分を扱い始めました。

      1950年8月2日のその午後,ノア兄弟は英文の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を喜びのうちに発表し,出席者は非常に感激しました。それは,以前翻訳された聖書の改訂版などというものではなく,全く新しい翻訳でした。新世界訳聖書翻訳委員会はウエストコットとホートという学者たちによる有名な優れたギリシャ語本文を使用し,他の人々の作成した幾つかのギリシャ語聖書本文をも参考にしました。この聖書は現代英語を使い,「ズィー(thee)」とか「ザウ(thou)」のような古語を使用していなかったので,現代の英語を話す読者に容易に理解できるものでした。

      特に注目に値するのは,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」の本文中に「エホバ」という神のお名前が237回使われていることでした。翻訳委員会の前書きには,そのお名前を使用する確かな根拠がはっきりと示されていました。「新世界訳」には多くの優れた特色があったのです。

      やがて,「新世界訳」はエホバの民全体のことばづかいに深い影響を与えました。たとえば,「新世界訳」は「ブレズレン(brethren)」の代わりに「ブラザーズ(brothers)」を用いています。それで神のしもべたちは現代のことばを用いるようになりました。(ローマ 1:13)さらに,1953年の初めには,「新世界訳」で用いられている「コングリゲイション」ということばが,神の民の集合した群れを表わすことばとして,「カンパニー」に取って代わりました。―「新世界訳」の使徒 20:17,コロサイ 4:15と比較してください。

      数年の間に,「ヘブライ語聖書 新世界訳」の5巻が作られ,神の民のそれぞれの大会で発表されました。1961年の一致した崇拝者の大会で,エホバのクリスチャン証人は一巻にまとめられた「新世界訳聖書」を受け取り,とりわけ大きな喜びに包まれました。ついでながら,その時までに世界中で王国の宣布者は96万5,169人に増加していました。確かに,エホバはそれまで彼らの努力を祝福してこられたのであり,聖霊によって物事を進展させておられました。―コリント第一 3:6,7。

      聖書の生産は進む

      エホバのしもべたちは,神のみことばを人々に行き渡らせたいという変わらぬ願いを抱いてきました。したがって,多くのいろいろな型の聖書が入手できるようになりました。たとえば,1963年に開かれたエホバの証人の「永遠の福音」大会を特色づけたのは,1961年に改訂された英語の「新世界訳聖書」のポケット版が発表されたことでした。さらに,引照と脚注および広範な付録が完備し,大きな文字で印刷されて一巻にまとめられた非常に有用な「新世界訳」の初版も英語で発表されました。しかし,イタリア人,デンマーク人,フランス人,ドイツ人,ポルトガル人そしてスペイン人の出席者が新たに発表された自国語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を受け取った時の喜びを想像してください。「ブラボー! ブラビッシモ!」とイタリア語を話す出席者は叫びました。あるドイツ人の大会出席者は「ドイツ人がかつて聖書に対していだいていた関心をエホバの証人が呼びさます絶好の機会です」と語りました。その後,前述のそれぞれの言語で「新世界訳」全巻が入手できるようになりました。

      1971年の「神のお名前」地域大会で発表された出版物の中には,大きな文字で印刷された英語の「新世界訳聖書」の71年度改訂版が含まれていました。また,聖書を学問的な角度から研究したい人々には,1969年に発行された,「ギリシャ語聖書の王国行間逐語訳」と題する1,184ページの聖書があります。

      エホバのお名前を人々の前に保ちたいという絶えざる願いに動かされて,他にも幾つか聖書の印刷事業が行なわれてきました。そのひとつに,ものみの塔協会が1972年に出版した故スティーブン・T・バイイングトンの「現代英語聖書」がありますが,それはヘブライ語のテトラグラマトンを終始一貫「エホバ」と訳出しています。

      1950年以来,何百万冊もの「新世界訳」が世界中で配布されましたが,その多くは英語版でした。したがって,約1万4,700の見出し語と33万3,200の聖句を収めた「新世界訳聖書総合語句索引」が1973年に発表された時には大いに喜ばれました。ブルックリン・ベテル家族の多くの成員は,その編集,校正その他の仕事を勤勉に行ないました。この索引が備えられたことにより,望む聖句を見つける時間が節約されていることはまちがいありません。

      今日,「新世界訳聖書」の全巻は7つの言語で,クリスチャン・ギリシャ語だけなら他のもうひとつの言語で入手できます。また,さらに4つの言語でクリスチャン・ギリシャ語聖書の翻訳が進められています。英語版の場合,聖書全巻の「新世界訳」の普及版は今でも1冊1㌦です。また,他の言語によるこの優れた聖書の翻訳を外国貨幣で求める場合はすべて,それと実質的に同じ額を支払います。価格がそのように安いのはなぜですか。聖書が人々の手もとに届き,そのうちの心の正直な人々がそれを読んで,聖書を「人間のことばとしてではなく,事実どおり神のことばとして」受け入れるためです。―テサロニケ第一 2:13。

      協会の印刷機のひとつが,ものみの塔版の「欽定訳」の第一冊目を出してから30年以上がたちました。その間,多くの献身した人々は熱心に働き,神のみことばの本を人々に得させ,その数はとどまるところを知りません。1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけて,協会のブルックリン印刷工場では聖書の全巻もしくはその一部が実に2,853万3,890冊も生産されたのです。また,聞いて驚かれると思いますが,1974年中,ブルックリンのものみの塔協会にある15台もの輪転機は聖書を印刷するために全時間運転されました。

      聖書のこうした膨大な生産と相まって,聖書研究の手引きが数多く出版されました。「聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です」や,「聖書理解の助け」など,そうした手引きのすべては,さまざまな背景を持つ多くの人々を勤勉な聖書研究者また良いたよりの有能な神権的宣明者とするのを助けてきました。また,ある人々は聖書の真実性を疑っていましたから,それが実際に神から出たものであることを証明するために真剣な努力が払われました。その点で注目に価するのは,「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する192ページの本で,27の言語により1,876万8,000冊を上回る部数が印刷されました。1969年に発行された協会のこの出版物は,あたかも聖書に弱点があるため,この世の「権威者」の助けを必要としているかのように,聖書の真実性が考古学者の発掘した証拠に依存してはいないことを見事に示しています。それどころか,同書の主要部分は,聖書そのものの強力な証拠や合理性,および聖書を無視しては答えの得られない問題があるという事実に基づいて,聖書の強い説得力という観点から論じられています。「この本は,僧職者が聖書の信用を落とそうとさらにあからさまな努力を払うようになっていた時に出たので,多くの人々が弱った信仰を引き締めて聖書を誠実に研究するのを助けました」とウエブスター・L・ロウは語っています。

      『生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです』

      エホバの証人は神のことばを売り歩く者ではありません。(コリント第二 2:17)彼らは神のことばを自ら信じ,かつ誠実な心でそれを擁護しているのです。それゆえ,彼らは血に関する神の律法を堅く守ります。事実,エホバの証人は,体力を支えるために血を食べたり体内に取り入れてはならないという神のご命令に忠節に従っていることで世界中に知られるようになりました。(使徒 15:28,29)たとえ命が危険にさらされているような場合でも,クリスチャンたちは一再ならず,『生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです』と語ってきました。―ローマ 14:7,8。

      血の神聖さについては,1927年12月15日号の「ものみの塔」誌上で特に取り上げられました。なかでも,「神が報復を行なう一つの理由」と題する記事にはこう書かれていました。「神はノアに,すべての生き物は彼の食物となるが,命は血にあるから血を食べてはならないと言われました」。十数年後の「ものみの塔」誌(1944年12月1日号)はこう述べました。「ノアの子孫としてばかりでなく,イスラエルに与えられた神の律法下にある者として,……他国の人は,輸血によってであれ食物としてであれ,血を食べたり飲んだりすることを禁じられていました。(創世 9:4。レビ 17:10-14)」。その後,年を経るにつれ,いろいろな事柄がさらに明らかになってゆきました。

      1945年7月1日号の「ものみの塔」誌は血に関するクリスチャンの立場を明確にしました。とりわけ同誌が指摘したところによれば,輸血の歴史は古代エジプトにまでさかのぼりますが,文献に残る最も古い例は1492年に法王インノケンチウス8世に施されたものであり,3人の若者の生命を犠牲にしたその輸血も法王の命を救うことにはなりませんでした。さらに重要なことに,「ものみの塔」誌のその号は,ノアに与えられた血に関する神の律法は全人類に対して拘束力を持つことおよびクリスチャンは血を避けるよう求められていることを示していました。(使徒 15:28,29)「ものみの塔」誌は要約して次のように述べました。

      「したがって,至高の聖なる神は,ノアおよび彼のすべての子孫と結んだ永遠の契約に一致して,血の処理に関する明確な指示をお与えになりました。また,人類に命を得させるため神が血の使用を許された唯一の場合は,罪に対するなだめ,もしくは贖いとしての使用であり,その時でも血を直接人体に取り入れるのではなくて神の聖なる祭壇すなわちあわれみの座において用いられるべきでした。それゆえ,神の義の新しい世におけるとこしえの命を追い求めるすべてのエホバの崇拝者たちが,血の神聖さを尊重し,この重大な事柄に関して神の正義の規則に従うのは当然です」。

      輸血に関するクリスチャンの立場は今や明らかにされており,あいまいなところはありません。サムエル・ムスカリエッロはこの問題に関して忠誠の試みに直面しました。ブロスコ・ムスカリエッロの話は次のとおりです。「弟のサムエルは,刑務所(クリスチャンの中立を守って入れられていた)から釈放されてまもなく,尿毒症を引き起こす連鎖球菌咽喉炎にかかりました。医師たちは手術が必要であると言いました。それは,いうまでもなく輸血を伴うものでした。そして,手術と輸血をしなければ,せいぜい2年しかもたないと言われたのです。サムは彼らのもとを去りました。それは1947年のことでした。……『ものみの塔』誌の記事(ふたりが特に注意を払っていたもの)に加えて,刑務所で聞いた……『血を取り入れることはいけない』という……(訪問中の)サリバン兄弟のことばがわたしたちの耳に鳴り響いていました。ちょうど2年たって,サムは危篤状態になり,再び病院へ運ばれました。圧力をかけられたわたしは彼のベッドの片わらに行き,『サム,医師たちは輸血したいと言っているよ』と言いました。麻酔で半分意識を失いながらも,弟はベッドから起きようとしました。(それは輸血を避けようとしてでしたが,輸血は施されませんでした。)……わたしの家族は(彼の死を)悲しみはしたものの,サムが死に至るまで意識をしっかり持ち,エホバに忠誠を保ったことから強められました」。

      1950年代の初めに,エホバの証人の輸血拒否の問題が大きくなりました。1951年4月18日のこと,医師が輸血を施せるよう子どもを両親から引き離すために,イリノイ州のシカゴにおいて裁判が行なわれるという事態が起きました。生後6日のチェリル・ラブレンツは,赤血球が破壊されて行くという珍しい病気にかかっていると診断されました。医師たちによれば,輸血を受けなければ彼女は死ぬということでした。エホバのクリスチャン証人であった彼女の両親,ダッレル・ラブレンツとローダ・ラブレンツは正しくも輸血を神の律法の違反行為であると考え,それに反対しました。ふたりは幼児の永遠の福祉を気づかっていました。なぜなら,永遠の命は神の律法につき従う人々だけが享受する見込みだからです。しかし,両親が抗議したにもかかわらず,法廷命令によってチェリルに輸血が施されました。

      ラブレンツの事件は,長い話のほんの初めにすぎませんでした。これまで20年以上にわたって,エホバの証人は血に関する神の律法を尊重するがゆえに注目を浴びてきました。マリー・M・グリーサムは,彼女の弟ダン・モルガンが経験した事柄をよく覚えています。ガンの末期にあった彼は,輸血をきっぱりと拒絶したためにニューヨーク市のある退役軍人の病院から三度追い出されました。四度目の入院が認められた時も,なお彼は輸血を拒絶しました。グリーサム姉妹はこう語っています。「それは1951年8月のことで,ダンは1951年10月に54歳で亡くなりました。ダンはとても幸福で平安そのものでした。死ぬちょうど4日前,彼は別の姉妹に,自分はまもなく眠りにつくけれども,忠実を保つことができ,またキリストの追随者の『小さな群れ』のひとりになるという大きな報いがあるので幸福だと語りました」。―ルカ 12:32。啓示 2:10。

      しかし,輸血を拒むなら死は避けられませんか。そのようなことは決してありません。グラディス・ボルトンの場合を考えましょう。彼女は,脾臓に通じる大動脈に脈瘤ができているので脾臓を切除しなければならないと医師から言われました。それで,輸血をしないという条件で手術を受けることに同意しました。医師は驚きながらも彼女の説明に耳を傾け,彼女が『代用血液』に反対しないことを認めました。そして,輸血なしで手術することに同意し,それは1959年5月21日に行なわれました。ところが,脾臓を除去できる状態になる前に動脈が破裂して,ボルトン姉妹は血液の70%あまりを失ったのです。手術室にいた医師たちや看護婦たちは輸血を勧めましたが,彼女の主治医は約束を守りました。ボルトン姉妹は2週間意識不明で,合併症が次々に起きたため,3週間酸素吸入を受けました。しかし,その医師は非常に注意深い人だったので,ボルトン姉妹は次第に回復しました。彼女は次のように書いています。「ある日,ふたりだけになった時,医師はこう言いました。『ボルトンさん,あなたの神エホバを絶対に見捨ててはいけませんよ。医学のあらゆる歴史や記録からすれば,あなたはとっくに死んでいるはずです。あれほど多量の血液を失って,しかも生きた人はいまだかつていませんからね』。わたしは答えました。『デイビス先生,わたしはエホバを捨てるつもりは毛頭ありません。でも,エホバの証人は今日信仰治療を教えてはいないのです。わたしたちは良い医師と看護婦の方々に感謝しています。それに,みなさんはわたしの命を助けるために一生懸命努力してくださいました。でも,血に関するエホバのご命令に従ったので,わたしたちすべては祝福されてきました』。医師はわたしの答えに満足げな様子で,わたしに礼を述べました」。ボルトン姉妹は1959年7月1日に退院しました。

      長年にわたり,エホバ神は恵み深くも,血に関するご自分の律法を堅く守ろうとする人々に豊かな備えを設けてこられました。よどみなくあふれる霊的な援助の中には,1961年に発行された,「血,医学および神の律法」と題する64ページの小冊子があることを忘れてはなりません。あなたはこの小冊子を用いて,こうした重要な問題をあなたの医師と話し合ったことがありますか。

      真の崇拝を促進する

      エホバのしもべたちは,神の好意を享受するには清く汚れのない崇拝をしなければならないことを知っています。(ヤコブ 1:27)彼らは道徳的にも霊的にも清くなければなりません。(イザヤ 52:11。コリント第一 6:9-11)世の中一般が道徳的退廃の泥沼の深みへと次第に沈んできた比較的最近の数年間は特に,大会の話や「ものみの塔」誌の記事その他を通して,そうした点が適切にも強調されてきました。

      1951年に,真の崇拝の擁護者たちは,「宗教」ということばについて大切なことを学びました。その中のある人々は,「宗教はわなであり,商売である」という示唆に富んだ看板をしばしば持って歩いた1938年のことを良く覚えていました。その頃の考え方によると,すべての「宗教」は悪魔に発する非クリスチャン的なものでした。ところが,1951年3月15日号の「ものみの塔」誌は宗教に関して「真の」とか「偽りの」とかという形容詞を用いることを認めたのです。さらに,「宗教は人類の為に何を成したか?」と題する興味深い本(1951年に出版され,英国ロンドンのウエンブリー・スタジアムにおける「清い崇拝」大会で発表された)はこう述べていました。「『宗教』と云う語については,その用い方から判断して,崇拝の方式又は形式と云う最も簡単な定義を下す事が出来ます。そしてそれが真の崇拝であるか偽りの崇拝であるかは問題でありません。このことは,宗教という語に対するヘブル語の言葉アボーダの意味と一致しています。何故ならば,そのヘブル語の言葉は,誰に捧げられるかということは問題ではなく,文字通りには,『奉仕』という意味だからです」。それ以来,「偽りの宗教」と「真の宗教」という表現がエホバの証人のあいだで普通に用いられるようになりました。

      神の民は,真の宗教を実践し,道徳的にも霊的にも清さを保ってエホバに奉仕することを決意しました。そのことを特に強調したのは1952年3月1日号(英文)の「ものみの塔」誌で,「組織の清さを保つ」,「排斥の妥当性」および「復帰不可能な罪」といったきわめて重要な記事が収められていました。この雑誌はバプテスマを受けている悪行者で悔い改めない者をクリスチャン会衆から追放するのは適切であることを示しました。(コリント第一 5:1-13)また,罪を犯した者が後になって悔い改めるなら復帰が可能であることも指摘されました。―コリント第二 2:6-11。

      罪を犯して悔い改めない者を会衆から追放することが「ものみの塔」誌上で述べられたのはそれが初めてではありませんでした。しかし,1952年以降,クリスチャン会衆の霊的な清さを維持することの必要が特に強調されました。また,年の経過と共に,悔い改めた人々に対するあわれみ深い処置の大切さについての認識が深まってゆきました。(ヤコブ 2:13)したがって,監督たちはしばしば,会衆から追放しなければならないほど事態が悪化しないうちに誤った人々を霊的に回復させてきました。―ガラテア 6:1。

      クリスチャンは排斥された人々と友愛精神を持って交わることをしません。また,自分たちの中で邪悪な事柄が行なわれることを容認しません。しかし,もし排斥された人が誤った道を離れるならどうでしょうか。そうした質問にきわめて適切に答えているのは,1974年11月1日号に掲げられた「神のあわれみは,誤った道を行く者に帰るべき道を示す」および「排斥されている人たちに対して平衡の取れた見方をする」と題する記事です。それらの記事は,排斥されたそのような人々を命への道に復帰させるため,彼らに真実の励ましを与えてもよいことを教えています。

      組織を清く保つうえで大きな役割を果たしてきたのは多くの大会の話です。たとえば,L・E・ルーシュは1964年の大会でF・W・フランズによって行なわれた「公のしもべの組織を清く保つ」と題する講演を特に取り上げて,次のように語っています。「彼は品行の悪い少女を公衆便所の汚いタオルにたとえました。道徳に関する歯に衣を着せない率直なことばを使った簡潔な話し方で物事が明確に説明されました。……なんと時宜にかなっていたではありませんか。それ以後のなだれのような道徳的崩壊に備えた賢明な助言だったのですから」。

      聖書に基づく健全な助言は多年減ずることなく流れ続けてきました。霊的に言えば,数々の出版物はエホバの民に歩むべき適切な道を教えてきたのです。

      王国の証言の拡大

      1950年代には,王国の音信を宣明するわざの拡大に顕著な努力が払われました。実際,非常に重要な段階が1951年に踏まれたのです。同年の10月に首都ワシントンでのある大会の席上で,ノア兄弟は,アメリカの郡のうち,わざが全く行なわれていない,あるいは部分的な証言しか受けていない郡が半数近くある(3,062の郡のうち1,469)ことを明らかにしました。しかし,翌年の6月,7月,8月中にそうした区域で働くよう一般の伝道者か開拓者が割り当てられるので状態は変わるでしょうということでした。それには熱心な反応がありました。孤立した区域における同様のわざは今に至るまで行なわれてきました。

      王国の証言を推し進めるうえでさらに顕著な段階となったのは1957年の「生命を与える叡智」地域大会でした。マリー・ギッバードは次のように書いています。「わたしたちはその時初めて,『必要の大きな所で奉仕する』という表現を耳にしました。実際,家族は宣教者のような奉仕をすることができました。それは,ギレアデ学校の訓練を受けて正式に宣教者となれない人や家族に,新たな奉仕の機会のとびらを開くものでした」。

      かつて交わっていた会衆よりも王国の伝道者の必要が大きな,アメリカや海外の土地へ移った多くのクリスチャンたちは,同じ信仰を持つ仲間の人々を励まし築き上げてきました。また,新しい人々が神の真理の知識を得るのを助けたり,会衆の設立にあずかりさえしています。

      良いたよりのよりよい伝道者となるために勉強する

      ノア兄弟はクリスチャンの主要な目標に言及して,「だれもが戸別に良いたよりを伝道する能力を持つべきである」と言明しました。彼がそれを語ったのは新世社会国際大会の開かれていた1953年7月22日のことです。エホバの証人は,それまでの何年来,良いたよりを宣べ伝えるのにレコードや証言カードを用いていましたが,その当時はもはやそうしたことを行なっていませんでした。しかし,いっそうの訓練が必要でした。「すべての僕達の主な業」と題する話をしたさい,ノア兄弟は新しい戸別訪問の訓練計画を発表しました。巡回と地域のしもべ(監督)たちがそれに大いに関係しますが,会衆の任命されたしもべすべても各王国伝道者が戸別訪問によって良いたよりを定期的に宣明する人となるよう援助することになりました。巡回のしもべは,会衆を訪問している間に,訓練計画に従い新しくて未経験な人といっしょに働く戸別訪問の経験を積んだ伝道者を選ぶのです。さらに多くのクリスチャン証人に資格を得させるこの遠大な備えは1953年9月1日から実施され,まもなく軌道に乗ってどんどん進められて行きました。

      ジェイムズ・W・フィルソンはこう語っています。「訓練計画は……非常にすぐれたものでした。内気な人は積極的な気持ちを持つように助けられました。ひとつの事,たとえば雑誌活動などしかできないと感じている人は,(神への奉仕の)他の事柄にもあずかってみるように助けられました。多くの人は他の人々を援助してみて,自分自身の能力を改善しました。

      「霊の剣」を大胆にふるう

      クリスチャンは「霊の剣,すなわち神のことば」をふるう資格を持っていなければなりません。(エフェソス 6:17)その点で,訓練計画は大きな助けとなりました。時の経過と共に,戸別訪問のための3分から8分の話と,再訪問で用いる10分から15分の話の様々な筋書が,ものみの塔協会により提案として準備され,奉仕の指示を与える月刊の会報「通知」およびそれに取って代わった「王国奉仕」に掲載されました。ある証人たちは,その後,イザヤ書 2章4節とかヨハネ 17章3節などのひとつの聖句に基づいた短い話をするほうがもっと容易もしくは簡便なことを知りました。

      ウォルター・R・ウィスマンによれば,戸別の証言や再訪問のわざで聖書の話をするようになったことは,「神権的な進歩の一里程標でした」。一般の人々は神の民と聖書をますます結びつけて考えるようになりました。R・D・カントウェルは,「ほどなくして,古くから戸口で言われた,エホバの証人は『本の販売人』だという非難のことばがだんだん聞かれなくなりました」と語っています。

      マートル・ストレインは,「わたしたちは戸別訪問の奉仕でなんとすばらしく進歩したのでしょう」と驚嘆しながらこう述べました。「人々にカードを手渡して読んでもらったり,レコードを掛けたり,家の中に入って神の目的の概要全体を1時間も話したりする必要はもはやありません。今では,主題を決め,2,3のまとをついた聖句を使ってよく準備した短い話を戸口でする方法をだれもが学んでいます。いずれも大切で時宜にかなった聖句に基づいている,たくさんの短い話を使うことができるのです。それに,わたしたちはぜひとも家の人を会話に引き入れたいと願っています」。このようにして,音信を受け入れるかどうかにはかかわりなく,人々は証しを受けてきたのです。

      偽りの光を暴露する

      エホバの証人は,人々の戸口で聖書を用いることにさらに熟達するようになる一方,かつて彼らの活動を特徴づけていた燃えるような熱意を少しも失ってはいませんでした。たとえば,1955年の初めに,エホバの証人は偽りの霊的な光を暴露する音信を恐れることなく宣明しました。

      1955年4月3日,日曜日のこと,キリスト教世界に対して,また実際には偽りの宗教の全体制に対して大胆な裁きの宣言が発せられました。それはクリスチャンの講演者による公開講演の形で全世界いっせいに多くの言語で行なわれました。「キリスト教世界それともキリスト教 ―『世の光』はどちらですか」と題するその力強い講演は50万人を超す聴衆を集めました。

      エホバのしもべは,キリスト教世界が偽りの光であることを人々にぜひとも知らせたいと願っていました。やがて,ものみの塔協会は強い要望に答え,その講演を小冊子の形にして30か国語で2,200万冊を発行しました。その配布にあずかりたいという強い願いを持った多くの人々は,1955年の4月に初めて野外奉仕に参加して新しい伝道者になりました。その月,全世界の王国伝道者の数は空前の最高数である62万5,256人に達しました。同年の7月の後半にエホバの証人は手紙とそれらの強力な小冊子を僧職者や編集者に郵送しました。

      「ことば」とはだれか

      キリスト教世界の偽りの光を暴露することは多くの僧職者に喜ばれませんでしたが,それでも彼らはエホバの証人から決定的な音信を受け取っていませんでした。全く,受け取っていないどころではなかったのです。多くの僧職者は聖書が神の霊感によるものであることを否定していました。他の人々は聖書を擁護すると主張しながら神をはずかしめる教理を教えていました。そうした偽りの教えの中に三位一体がありました。それに関して僧職者たちは,好むと好まざるとにかかわらず,1962年の後半にエホバのクリスチャン証人からひとつの音信を受け取りました。

      それは,「ヨハネによれば『ことば』とはだれか」と題する64ページの小冊子の形で与えられました。三位一体の教理が明白な偽りであることを暴露したその小冊子は,1962年の11月中特別に配布されることになりました。王国宣明者たちはそれを戸別訪問のわざで提供したばかりか,ものみの塔協会が準備した補足的な手紙をそえてその小冊子を1冊ずつプロテスタントとカトリックの各僧職者に郵送しました。こうして,ヨハネ 1章1節の「ことば」は神ではなく,人間になる以前の神のみ子,イエス・キリストであることが大々的に証しされました。

      動く大会

      伝道のわざを行なうために必要なクリスチャンの勇気を培うことに大きく貢献してきたのは,定期的に開かれる神の民の大会です。その幾つかは他の大会と違った特色を持っていました。つまり,一部の出席者があちらこちらと旅行し,世界一周さえする動く大会だったのです。そうした大会はなんとすばらしい一致をもたらしたのでしょう。クリスチャンは外国にいる仲間の信者の経験や活動について読めますが,たとえ言語の障壁があってもその人々に会って彼らと交わるのは確かに報いのある経験です。異なる国籍や人種的背景を持つ神の民がともに集まる場合,同じ言語で意志を通じ合わせることはできないかもしれません。しかし彼らはひとつの言語,すなわち,神がご自分を愛する地上の人々すべてに親切にも与えてくださった真理というひとつの「清い言語」を話すのです。―ゼパニヤ 3:9。

      動く大会の中でも際立っていたのは1955年に開かれたエホバの証人の「勝利の王国」大会です。わずか10週間にアメリカや他の国で13の大会が開かれ,多くの出席者はその様々な大会へ旅行しました。ある出版物はそれについて,「第二次世界大戦以来最も多くのアメリカ人がヨーロッパに移動したことになろう」と述べました。

      ものみの塔協会は42台の飛行機と2隻の汽船(アロサ・クルム号とアロサ・スター号)を借り切りました。船の中では乗客の益のために毎日霊的に築き上げるプログラムが催されたので,2隻の船はまさに洋上に浮ぶ大会ホールでした。

      ヨーロッパの大会開催地のひとつはニュルンベルク市のゼッペリン牧草地で,そこには10万7,423名が集まりました。C・ジェイムズ・ウッドワースはこう語っています。「ヒトラーがエホバの証人に対して『絶滅だ』といきまいたまさにその場所で,クリスチャンたちが『勝利の王国』大会のうち最大の大会を開いたことを聞いて,アメリカにいたわたしたちは非常に喜びました。ヒトラーはどこにいましたか」。

      世界一周大会

      1963年には,6月30日にウィスコンシン州のミルウォーキーで始まり,9月8日にカリフォルニア州のパサデナで終わった,エホバの民にとって非常に興味深い事柄がありました。それは,エホバの証人の「永遠の福音」大会で,24を超す都市を結ぶ文字通りの世界一周大会でした。全部で583名の出席者は地球をかけ巡る旅行をしました。いく分異なる様々な旅程を取った旅行者たちも,ロンドン,ストックホルム,ミュンヘン,エルサレム,ニューデリー,ラングーン,バンコック,シンガポール,メルボルン,ホンコン,マニラ,ソウルおよびホノルルといった都市で仲間の信者の群衆とともに集まりました。

      ロンドン大会へ出席した人々の多くは英国博物館を見学しました。そこでは,とりわけ,バビロンが崩壊した年を西暦前539年とするうえで資料となるナボニドス年代記を見ました。もうひとつ興味深かったのは粘土の肝臓で,それはバビロンの宗教の占いで用いられたものです。―エゼキエル 21:21と比較してください。

      聖書の土地へ旅行した大会出席者は聖書にゆかりの深い多くの場所を見学しました。レバノンの杉やモアブの平原,あるいはヒンノムの谷を見て,旅行者たちは神のみことばに対する認識をいっそう深めました。

      極東に到着した旅行する大会出席者たちは,他の土地における場合と同様に,そこでもバビロンの宗教のさまざまな影響を見ました。バンコックのワット・ポでは男根の象徴を見ました。産まず女たちはその前で子どもができるように祈ったのです。仏教のワット・サケットと同市内に見られる壁画は涅槃と苦しみの地獄の両方を描いています。ダンテの地獄編と大会出席者たちが見たものとが類似していることは,両者の宗教的な考えが共通の源から発していることを如実に物語っていました。

      そうした偽りの崇拝の特色となるものを幾つか見たため,「偽りの宗教に対する神の裁きの執行」と題する大会の講演はいっそう感銘深いものとなりました。その講演中,聴衆は古代のバベル(バビロン)へ連れ戻されました。神がその町の塔建設者たちの言語を乱された時,彼らは不潔な宗教を携えて他の土地へ移って行きました。その宗教はさまざまな言語で行なわれるようになり,こうして,偽りの宗教の世界帝国が存在するようになりました。その起源がバビロンにあるゆえに,聖書の啓示の書はそれを「大いなるバビロン」と呼んでいます。(啓示 18:2)その感動的な講演と関連して,大会出席者たちは「『大いなるバビロンは倒れた』神の王国は支配す」と題する704ページの新しい英文の本を受け取りました。それは実際には2冊の本を合本したもので,最初の部分は古代バビロンとエホバの民との関係を考察しており,第2部には啓示の14章から22章の節ごとの分析が収められています。

      視覚に訴える資料は弟子を作る助けとなる

      その大会後数か月して,協会は考えを鼓舞する映画を完成しました。「力強い!」「感動的だ!」「啓発的!」「ショッキング!」これらは,「世界をめぐって永遠の福音を宣べ伝える」と題するこの2時間にわたるカラー映画に対する典型的な反響でした。それは,「神が全地の王となる時」と題する重要な公開講演に合計58万509人の聴衆を集めた,1963年の「永遠の福音」世界一周大会を特集した映画です。といっても,それは単なる紀行ものではありません。現在廃虚と化している一都市が今日の多数の人々の命に影響を与えていることをその映画ははっきり示しています。地上のほとんどすべての住民の生活様式に浸透しているいろいろな象徴物や儀式はその都市,つまり古代バビロンから発祥しています。大いなるバビロンから急いで離れなければならないことが強調され,世界各地の大会で示された真のクリスチャンの暖かさと愛が描写されています。また,観客は,大いなるバビロンを離れてただちに交わるべき組織のあることを知ります。従って,正義を愛する人々は,偽りの宗教の世界帝国を捨て,エホバの崇拝者と交わるよう促されるのです。―啓示 18:4,5。

      1963年に先立つ10年間,ものみの塔協会は弟子を作るための視覚に訴える資料として近代的な映画を用いていました。そうです,1953年の国際大会の後に協会は「躍進する新世社会」と題する非常に興味深い映画を発表しました。それは,その時から約40年前に作製された「写真-劇」以来初めての,協会作製の映画でした。上映時間が1時間20分のこの映画は,神の地上の組織の大きさ,ベテル家族によってなされる膨大量の仕事,エホバの証人一般の活動,彼らの大規模な大会および新世社会が効果的かつ円滑に機能を果たしていることを見る人に知らせるうえですばらしい道具であることがわかりました。H・A・カントウェルは,「新しく関心を抱いた人に組織の大きさや規模を知ってもらうのを助けるすばらしい手段でした」と語っています。

      「幸福な新しい世の社会」と「エホバの証人の神の御心国際大会」と題する映画は,1955年と1958年の大きな大会の後協会が発表したものです。神のしもべたちは,「神は死んでいる」という哲学に対抗する手段としても映画を用いました。1966年に協会は,「神は偽ることができない」と題する,非常に興味深いカラー映画を作製したのです。この信仰を築き上げる映画は,神が生きておられ,地球と人間に対するご自分の目的を成し遂げつつあることを証明していました。カラーの,印象的な図解が所々にそう入されているその色彩に富んだ映画は,観客が聖書に出てくる基礎的な事柄を思いに浮べたり,それらがわたしたちの時代にどんな意味を持っているかをつかむのを助けました。ひとりの人はこう語りました。「その映画がおもしろかったのは,特に,『神は偽ることができない』ことを証明するのに聖書の預言の成就となる歴史上の出来事が用いられていたからでした。たとえば,写し出された様々な廃虚は,神が偽らなかったことをすべての人に知らせることのできる生きた証拠です。それらを見て,わたしは,神が今日および将来に起こると言われている事柄に対して神は偽る方でないことをいっそう確信しました」。

      1966年にものみの塔協会が作製したもうひとつの映画,「遺産」は,今日の若者が直面する様々な誘惑を扱っていました。といっても,アンジェロ・C・マネラ2世によると,その映画は「新世社会の若者が行なっている事柄や,彼らがそうした誘惑を克服してクリスチャンのとるべき道に従っている」ことを知らせるものでした。協会が近年作製した他の映画と違って,その映画には録音帯がついていましたから,多くのテレビ放送局から放映されました。ですから大ぜいの人々がその映画を茶の間で見ました。「遺産」はさらに巡回大会や他の公の集まりでも上映されました。

      ここ数年,巡回監督は神の民の会衆を訪問し,公開集会でスライドのプログラムを催してきました。最初のスライドの上映は1970年9月から開始されました。「エホバの証人の世界本部を訪問する」と題するそのスライドは,正しい行動を取らせる仕方で人々に神の組織を知らせるよう企画されていました。上映されたもうひとつのスライド,「諸教会の実情をつぶさに見る」はキリスト教世界の諸教会が真理と正義を愛する人々の居る所でないことを観客に認識させました。また,それは偽りの宗教の世界帝国から離れたいという気持ちを起こさせただけでなく,他の人々が大いなるバビロンから逃れるのを助けるわざにあずかるよう観客ひとりひとりを促したことでしょう。これらは,聖書の教えを授けるための視覚による資料として巡回監督が行なったスライドのプログラムのほんの数例にすぎません。

      今までにない感動的なもの

      「今の時代に対するダニエルのことばに耳を傾けなさい」。読者は,1966年の「神の自由の子たち」地域大会のこのプログラムを覚えておられますか。出席者が話に耳を傾けていると,びっくりすることが起こりました。ダニエル,3人の忠実なヘブライ人,それにみ使いのことばまで語るいくつかの異なった声が拡声装置を通じて聞こえてきたのです。音楽が聞こえ,3人のヘブライ人はネブカデネザルがドラの平野に立てた金の像をおがむ最後の機会を与えられました。しかし,3人は自分たちの忠誠を断固として守り,おがむことを拒絶してエホバの救出を経験しました。―ダニエル書 3章。

      聖書の教えを授ける今までにない新しい方法が使われたのです。会場にいた聴衆は,自分たちがあたかも古代のバビロンへ移されたかのように感じました。「エレミヤの忍耐 ― 今日必要なもの」と題する劇も同様に感動的でした。出席者たちは,まさに,エレミヤの忍耐を「見」たのです。古代エルサレムにいたそのヘブライ人の預言者の生活と時代を描く衣装をつけた俳優たちによって,彼らの目の前で聖書劇が演じられました。劇的効果は音響により高められ,すべての出席者は,エレミヤを殺せと口々に叫ぶ群衆の中にひとり立つ彼の苦難と忠実さをいっそう深く知りました。その劇はエホバの崇拝者が自分たちの神に信頼を置かねばならないことをなんと強調していたのでしょう! また,聴衆は,死に面してさえ忍耐して神の奉仕を行なうべきことを心に深く銘記させられました!

      ですから,1966年は画期的な事柄,つまり,神の民の大会で人々を教える新しい方法が採用されるようになった年でした。それ以来毎年,聖書劇はエホバの民の大きな大会で必ず行なわれています。そうした聖書劇は,しばしば,ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業式で学生たちが古代と現代の人物にふんし,前もって上演されてきました。

      劇から受ける祝福や益について,ジェイムズ・W・フィルソンはこう語っています。「聖書劇は,聖書の記録の教訓と助言をわたしたちの心に銘記させるのに非常に役立っていると思います」。実際,ある人々は大会の劇に心を動かされて誤った行ないを告白し,霊的な援助を請いました。―箴 28:13。ヤコブ 5:13-20。

      神の王国を擁護し,他のいかなる政府をも支持しない

      エホバのクリスチャン証人は神の王国に忠節を尽くしており,長年にわたってくり返しそのことを表明してきました。たとえば,四半世紀ほど前の1950年8月1日火曜日,すなわち,エホバの証人の増し加わる神権政治大会における「神権的専念の日」を振り返ってみましょう。ノア兄弟は,「増し加わるその支配」と題する講演の中で,エホバの証人が共産主義を支持しているという宗教上の敵からの非難が全くの偽りであることを暴露する証拠をたくさん示しました。アメリカ政府の様々な部門がエホバの証人を転ぷく計画者や共産主義に好意的な旅行者のリストに載せることを拒否したばかりか,1879年以来出版されたものみの塔協会自身の記録もエホバのしもべが共産主義に反対していることを明白に証明していました。ノア兄弟は,無神論の共産主義が台頭し発展する道を備えたのは真のキリスト教でなく,偽善的なキリスト教であることをはっきり示しました。その話の後,協会の会長は共産主義に反対する宣言と決議を提出し,8万4,950人の大会出席者はそれを熱意を込めて採択しました。

      それから数年たった1956年6月から1957年2月にかけて開かれた,エホバの証人の199の大会でひとつの請願が46万2,936名の出席者により満場一致で採択されました。各の大会からそうした請願が当時のソ連首相ニコライ・A・ブルガーニンあてに送られました。その請願はロシアとシベリアでエホバの証人が受けているか酷な扱いを詳しく記しており,投獄されている証人を釈放し,組織を持つことを許可するよう願っていました。また,証人が統治体と正規の連絡を保つことを認め,聖書文書の出版と輸入を許可するよう求めていました。そしてその請願は,エホバの証人が行なっている王国を宣べ伝えるわざに注意を促し,政治的利害や背景をいっさい否定しました。さらに,ものみの塔聖書冊子協会の代表がソ連政府の代表と会談することを提議し,証人の代表者がその目的およびエホバの証人が抑留されている収容所を訪れる目的でモスクワに行くことを提案しました。

      1957年3月1日,全部をまとめた請願がものみの塔協会の理事7人によって署名され,ソ連政府に送られました。共産主義者はこれを受け取ったことについて一言もせず,回答を寄せることもしませんでした。それにもかかわらず,ソ連のエホバの証人は,神の王国を擁護し,他のいかなる政府も支持しない者として神のみことばを大胆に語り続けてきたのです。

      エホバの証人は神の王国を忠節に擁護するだけではありません。キリスト教世界の僧職者たちが神の王国を擁護していないことにも人々の注意を促してきました。1958年8月1日金曜日に,神の御心国際大会で,ある非常に重要な決議が神の民によって採択されたのはそのためでした。大会出席者は午後のプログラムに出席するようにと呼びかけられ,19万4,418人が集まりました。彼らは,ものみの塔協会の副会長,F・W・フランズの「この大会はなぜ決議を行なうか」と題する話を注意深く聞きました。続いてノア兄弟が登場し,キリスト教世界の僧職者が今日地上で最も非難すべき者であることを単刀直入に述べた決議を力強く提出しました。その決議文は,また,エホバの民の神権的な諸原則を再確認し,キリストによる神の王国こそ救いの唯一の手段であることを恥じることなく宣明し,エホバがハルマゲドンで証言のわざを終わらせるまでは手をゆるめずに愛と平和と一致を保ちながら神の王国を宣べ伝えるというエホバの証人の決意を表明していました。ノア兄弟は読み上げられたとおりの決議の採択動議を提案し,賛成を得ました。その後ノア兄弟が大聴衆に向かって決を採ると,「はい!」という賛成の声がいっせいに聞こえました。

      やがてその決議文を載せた小冊子が53の言語で7,234万8,403部印刷され,その大半は1958年12月に全世界で配布されました。また同決議文および決議を紹介した話の全文が1958年11月1日号の「ものみの塔」誌(日本語では1958年12月1日号)に掲載された結果,その情報は広範囲に伝えられました。

      そうした配布は効果がありましたか。まさに効果的でした。たとえば,ピーター・ドミュラは次のように書いています。「1959年の春にわたしはひとりの青年に会いました。彼は決議に心を動かされて真理を学ぶようになり,献身して,後には開拓奉仕を始めました」。また,C・ジェイムズ・ウッドワースはこう述べています。「エホバの献身してバプテスマを受けた証人として,ここオハイオ州クリーブランド市にある幾つかの会衆で現在活発に交わっている何人かの人々は,その決議を読んで聖書を学ぶ機会を捕え,大いなるバビロンから出るようになりました」。―啓示 18:4。

      エホバのしもべたちは,1963年の世界を一周する「永遠の福音」大会で,自分たちが神の王国の擁護者であり,他のいかなる政府も支持していないことを示す優れた機会を得ました。彼らはひとつの決議を熱心に採択したのです。その決議文は,彼らがエホバを宇宙のとこしえの至上者と認めていること,また,諸国家が行なってきたように,政治的な像である国際連合を偶像視して崇拝をささげることを拒絶することを明らかにしていました。そのような偶像崇拝を行なってきた諸国家は,目に見えない邪悪な霊者たちによってハルマゲドンに導かれています。(啓示 13:11-18; 16:14,16)一方,エホバの証人は,キリストのもとにある天使たちの助けと神の聖霊およびみことばの助けによって,神のメシアによる王国と裁きに関する「永遠の福音」をすべての人々に宣明することを決意していました。(啓示 14:6)その決議は,世界を一周する「永遠の福音」大会で45万4,977人によって採択された後,幾つかの全国大会でも採択されました。また,それは,66の言語で発行された1963年11月15日号の「ものみの塔」誌(日本語では1964年3月15日号)に載せられ,全世界に知らされました。

      「私たちすべてはなぜ決議に参加すべきか」と題する紹介の話のついたその概括的な決議文は,啓示 16章の七つの災厄すべてを含んでいました。したがって,1922年から1928年にかけて開かれた神の民の大会で提出された七つの連続した決議と関係資料の中で最初に明らかにされた幾つかの裁きの音信が含まれていました。ですから,そのひとつの包括的な決議によって,それ以前の幾つかの決議の採択に参加していなかった大ぜいの人々は,啓示 16章に預言的に述べられているエホバからの災厄が注がれることに自分たちが賛同し支持していることを公に言明したのです。また,エホバのしもべたちは,自分たちが神の王国の擁護者であり,他のいかなる政府もしくは政治的取決めも支持していないことをふたたび明白に示しました。

      1969年の「地に平和」大会では,「神との平和を妨げる敵に臨む最後の災い」と題する講演の中で啓示 8章から11章で述べられている七つの象徴的なラッパが鳴ることについての説明がありました。そのあと,創造者との平和は神のメシアによる王国によってのみもたらされることを強力に示した力強い宣言が行なわれました。エホバの民はその宣言を採択し,神の裁きがキリスト教世界に対するものであることを主張しました。彼らは,あらゆる政治的論争に対して完全に中立な立場を取ることを宣言し,また,自分たちが神の王国に全き信頼を置いていること,そして,終わりが来るまであらゆる国々に神の王国を弛まず宣べ伝えることを十分明らかにしました。

      1973年6月下旬から1974年1月にかけて世界の様々な土地で開かれた「神の勝利」国際大会でも,エホバのクリスチャン証人は自分たちが神の王国の擁護者であり,他のいかなる政府をも支持していないことを示しました。ミナに関するイエスの興味深いたとえ話が,大会の講演のひとつ,「地の新しい王のために富を得る」と題する話の中で取り上げられました。(ルカ 19:11-27)話に続いて講演者は宣言と決議を提出し,大会出席者たちは大きな声で賛同を表わして,それらを採択しました。そこで特に指摘されていたのは,2,520年に及ぶ異邦人の時は,西暦607年に地上のエルサレムが荒廃した時から始まり,西暦1914年にイエスがメシアなる王として即位した「天のエルサレム」の設立をもって満期となったということでした。(ヘブライ 12:22)人類世界はさし迫っている「大患難」についてさらに警告を受ける必要があることも示されました。(マタイ 24:21)エホバのクリスチャン証人は,引き続き神の勝利に信仰を置き,その警告を発し続け,病める人類の万能薬である神のメシアによる王国を宣明し続けることを決議しました。

      したがって,エホバのしもべたちが神の王国の擁護者であり他のいかなる政府も支持しないことは既成の事実です。彼らが世界にあまねく宣べ伝えているのは,その王国の良いたよりです。彼らは神のメシアによる王国に対する忠節を再三再四表明してきたのであり,今後も全地で表明し続けます。

      時宜にかなって与えられる霊的な食物

      エホバのクリスチャン証人は,神の王国の擁護者という立場をどのようにしてしっかりと保ってきたのでしょうか。また,他の人々が信仰を失っている時にどのようにして「堅く信仰に」立ってきましたか。(コリント第一 16:13)それが可能となったのは,エホバ神が「忠実で思慮深い奴隷」級を通し,時に応じて霊的な食物を豊かに備えてくださったからです。―マタイ 24:45-47。

      1960年代のことを例にとって考えてみましょう。当時,宗教的および社会的変化のあらしがアメリカ全土に吹いていました。キリスト教世界の僧職者の多くが聖書のいろいろな箇所を神話と見ることはいっそう普通になっていく時代でした。また,彼らは聖書の道徳規範を旧式であると考え,さらにある人々は,「神は死んでいる」と言っていました。

      1960年代が進むにつれて,社会的,心理学的,政治的および経済学的な要因のために,アメリカでは人種上の騒動,さらには暴力ざたまでが起きました。たとえば,いわゆる1964年の“長くて暑い夏”には,アメリカ南部全体に不穏な状態があり,ミシシッピー州で3人の市民権運動家が殺されました。北部の諸都市も影響を受け,暴徒にゆさぶられた都市も幾つかありました。1965年8月11日から16日にかけて起きたロサンゼルスの暴動だけでも,暴徒による闘争,略奪,焼打ちのために35人が死亡し,損害は金額にして2億㌦(約600億円)に上ったものと推定されています。

      そうした宗教的社会的混乱のあらしのさ中にあって,アメリカや他の国々のエホバの証人はエホバを信頼し,みことばを堅く守り続けました。一方,エホバは彼らが正しく導かれるように取り計らわれました。そのひとつに,エホバの証人は,1962年の「勇気ある奉仕者」地域大会で「『従いなさい』― だれに?」および「『上なる権威』に服従 ― なぜ?」と題する講演や関連した幾つかの話から大きな益を受けました。それら重要な情報は同年末に「ものみの塔」誌に掲載されました。(日本語では1962年11月15日号から12月15日号をご覧ください。)

      ローマ 13章に述べられている「上にある権威」もしくは「高位の権力」は,エホバの許しによって現在責任のある立場についているこの世の政治的権威であることが明らかにされました。今日の神のしもべたちすべてに対して,政治的な上にある権威に相対的に服従し,地上の政府の法律で神の律法に反しないものを軽視してはならないことが勧められました。―ローマ 13:1-7。使徒 5:29。

      L・E・ルーシュは,「エホバはこの世の政治支配者との関係に対するなんと賢明な指示をわたしたちに与えてくださったのでしょう」と感嘆しながら次のようにつけ加えました。「1964年に市民権の問題が沸騰激化し,街頭で暴動が起きたり,暴力的また無抵抗主義的な市民の不服従が見られることなど,わたしたちにどうして知り得たでしょうか。……行進や抗議,その時の社会問題に関係していた僧職者と同様の考え方をしていたかもしれません。まさに時をたがえず,1962年の夏の大会で,わたしたちは『時に応じて食物を』与えられました。(マタイ 24:45)……相対的な服従が明確に説明されました。わたしたちはエホバに対する自分たちの立場,またイエス・キリストの王国の支配によって除き去られるまで神が存在を許しておられる政治権威に対する自分たちの立場をそれによって守ることができました」。

      そうです,確かにエホバ神は霊的な食物を豊かに備えてこられました。比較的最近の数年間にものみの塔協会が発行した書籍を置いてある書だなをちょっとご覧ください! ダニエル書を扱った,1958年発行の「御心が地に成るように」があります。『その時,神の秘義は終了する』および「『大いなるバビロンは倒れた』神の王国は支配す」と題する本は啓示全体を節ごとに考察しています。1971年に発行された本,「『諸国民はわたしがエホバであることを知るであろう』― どのように?」ではエゼキエルの預言が扱われています。また,ハガイ書とゼカリヤ書に記されている回復に関する預言の成就は,「人類のために回復される楽園 ― それは神権政治によるもの!」と題する本の中で20世紀という有利な時点から考察されています。

      おとなばかりでなく子どもも豊かな霊的備えを与えられました。1958年に,さし絵が豊富で平易な文章の「失楽園から復楽園まで」と題する本が出版されました。1971年には192ページの「偉大な教え手に聞き従う」が発表されました。それは親が子どもといっしょに読むように編集された本で,「世代の断絶」を避けることにさらに貢献しました! また,この本はやさしい文章で書かれ,優れたさし絵がついているので,子どもたちに『自分たちのため』の本だと感じさせます。

      弟子を作ることに重点が置かれる

      エホバの民が入手できるクリスチャンの出版物の中には,彼らが良いたよりを宣べ伝え弟子を作るという使命を果たすのを助けるよう特に考えられたものが幾つかあります。(マタイ 24:14; 28:19,20)1946年に初版が出た「神を真とすべし」はそのひとつで,聖書の基本的な教理を扱った手引書でした。ついで1950年には,「これは永遠の生命を意味する」が出版され,聖書のより深い論題とクリスチャン生活に関する情報が与えられました。1965年に発行された「神が偽ることのできない事柄」と題する416ページの本もあります。この本は,聖書の基礎的な研究の手引きとして,王国宣明者たちに大いに活用されてきました。

      エホバのしもべは,宣べ伝え弟子を作るわざに必要なものを絶えず備えられています。C・W・バーバーは,1967年の地域大会を振り返りながら,彼が「革新的」と呼ぶものに触れて次のように語っています。「エホバの組織は新たな興奮と喜びをもたらすものを常に備えています。その時に備えられたのは,運動用の新しい種類の本,つまり『進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか』と題する布表紙の小型の本でした。……その本は1冊25㌣で提供されることになっていました。考え深い人なら同書に大きな関心を抱くことは,その発表当初から明らかでした」。

      王国宣明者はこの本を野外の奉仕で幾百万冊も配布しました。1968年の5月中は同書が教育者の手に渡るよう努力が払われ,優れた結果が得られました。マリー・ギッバードはこう語っています。「12歳の生徒からその本を受け取り,引き続き関心を高められた,ニューヨーク市ホワイト・プレインズの一教師は現在バプテスマを受けた証人になっています」。

      わざの前進に拍車をかけたもの!

      1968年にはもうひとつの注目すべき新しい事柄がありました。「すべての国の民に対する福音」地域大会を発表した「ものみの塔」誌は次のように述べていました。「金曜日には皆さんを喜ばせると同時に驚かせるものが用意されています。なぜなら,それは今後わたしたちが行なうわざに多大の影響を与えるからです」。

      エホバのしもべたちは強い好奇心を抱いていました。どんな新しい事柄があるのでしょうか。その答えは,「偽りの宗教のない世界にかんする『福音』」と題する力強い基調をなす話のあとに与えられました。その話が済むと,ポケット版で192ページの新しい聖書研究手引きが発表されたのです。「とこしえの命に導く真理」と題するその本は大きな喜びをもって迎えられました。この本の興味をそそる章の幾つかをあげると次のとおりです。「神とはだれですか」,「死んだ人はどこにいますか」,「神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか」,「今の邪悪な事物の体制の終わりの日」,「幸福な家庭生活を築く」,「真の崇拝 ― 生活の道」。この新しい出版物は常に研究生に考えさせます。

      しかし,大会の出席者を驚かせたのはそれだけではありませんでした。新しい「真理」の本は,6か月間の聖書研究プログラムで用いられることになっていたのです。この出版物は研究生に考えさせる方法を取っているので,ふつう研究生はその本を終えるまでに真理の側に立つか,あるいは反対するかどちらかの行動を取ります。エホバの証人は,得た知識に基づいて行動して明らかな霊的進歩を示さない人と何年も聖書研究をすることをもはやしません。

      時宜にかなった備え

      1960年から1965年にかけて,1年間にバプテスマを受けた人の数は6万人台でした。ところが,1966年に受浸者数は5万8,904人に減少しました。そうした事情のもとで,ある人が,わざは停滞しているだろうかと考えたのももっともなことでした。しかし,そうでないことは時が明らかにしました。

      1967奉仕年度には7万4,981人がバプテスマを受けました。これは上昇でしたから,楽観的な見方をする理由がふたたびできました。次いで1968年となり,「真理」の本と6か月間の聖書研究プログラムが発表されたのです。エドガー・C・ケネディは,「多くの人々は,(地上における人類生存の)6,000年が1975年に終わるという2年前の発表とそのこととが密接に関連していると考えました」と語っています。C・W・バーバーも同様に,1968年を「転換点」と呼びながら「時が短くて緊急なこと」に言及し,こう述べます。「どこでも兄弟たちは奮い立って,良いたよりを広めるこの『よりやさしい』方法に勢いよく取掛りました。伝道者の数は再び世界中で増加し始めました。耳を傾けた人々がわざを行なう者となり始めたのです。……小さいながらも強力なこの弟子を作るための道具を生み出す上にエホバの導きがあったことは確かです」。

      「とこしえの命に導く真理」の本の発行部数は驚異的な数に上っています。同書は現在91の言語で発行されていることをご存じでしたか。さらに,初版が出てから6年間に7,400万部印刷されました。この聖書研究の手引きは,大ぜいの人々が聖書の正確な知識を得て「命のことばをしっかりつか(む)」のを助けました。(フィリピ 2:16)エホバの証人による人々との聖書研究では,「真理」の本だけが使用されているわけではありません。しかし,現在彼らが全世界の人々の家庭で司会している135万1,404件の家庭聖書研究の大多数は,まちがいなく同書の優れた聖書関係資料に基づいて行なわれています。

      エホバの王国を告げ知らせる出版物の洪水

      今日,神のメシアによる王国の良いたよりは全地で宣べ伝えられています。そのわざで大きな役割を果たしているのは,事実上洪水のように出版されるエホバの王国を告げ知らせる文書類です。「ものみの塔」誌を例に取ってみると,かつて「シオンのものみの塔」と呼ばれた同誌の創刊号(1879年7月に出された)の発行部数は6,000部ほどにすぎませんでした。1975年現在,毎号の平均印刷数は,79の言語で約900万部に上ります。

      1879年以来,「ものみの塔」誌は名称や形式の点でいくらか変更されました。最初は「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」という名前でしたが,現在の表紙は,「ものみの塔エホバの王国を告げ知らせる」となっています。長年の間「ものみの塔」の表紙は白黒の印刷でしたが,1939年1月1日号から新たに色刷りの表紙が登場しました。当時の雑誌は現在のものよりページ数が少なく大版でした。エホバの証人の増し加わる神権政治大会で発表された,1950年8月15日号は,表紙のデザインが変わり,色彩に富んださし絵がついていて,ページ数も16ページから32ページに増えていました。「ものみの塔」誌は神権政治の拡大に貢献しましたか。確かに貢献しました。1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけてだけでも,28億3,604万1,443部の「ものみの塔」誌が発行されたことを知って,読者はきっと驚かれるでしょう。

      「ものみの塔」誌の姉妹誌である「目ざめよ!」は「黄金時代」誌と「慰め」誌に代わって発行されている雑誌です。「目ざめよ!」誌は,1946年8月22日号をもって創刊されて以来,神の義の新秩序がまさに今の世代に設立されるという確かな希望を示してきました。この雑誌も,王国を告げ知らせる洪水のようなおびただしい数の出版物のひとつです。1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけて,なんと26億75万1,501部の「目ざめよ!」誌(と「慰め」誌)が印刷されました!

      見過ごしてならないのは,エホバの王国を告げ知らせてきた大量の書籍です。その中には1973年に発行された「神の千年王国は近づいた」と題する本も含まれています。驚かれるかもしれませんが,1942奉仕年度から1974奉仕年度にかけて,ものみの塔協会は本部や全地の他の印刷施設を使って3億5,251万3,470冊の書籍を印刷しました。

      印刷施設の拡大

      このように,聖書文書は増加の一途をたどったため,アメリカにあるものみの塔協会の印刷施設ばかりか,世界各地にある協会の印刷施設をも絶えず拡張する必要が生じました。協会がニューヨーク市ブルックリンのアダムス・ストリート117番にある近代的な耐火建築の施された鉄筋コンクリートの建物に移ったのは1927年のことでした。約6,300平方㍍の床面積を持つその建物は非常にゆとりがあるように見えましたが,王国を宣べ伝え,弟子を作るわざの促進に伴い,協会の諸施設を拡張することが必要になりました。

      1946年8月8日,ノア兄弟は喜びを抱く国々の民の神権的大会の席上でその点に関して大きな処置を講じることを明らかにしました。ブルックリンの協会の印刷工場とベテル・ホームが拡張されることを聴衆に発表したのです。かくして,もとあった工場に隣接した土地家屋が購入され,中をからにしてから取り壊されました。新しい工場の基礎工事は1948年12月6日に始まり,建築は1949年1月に開始されました。増築されたその9階建てのコンクリートの建物が完成すると,工場の床面積はほぼ2倍の広さになりました。1950年までにアダムス・ストリート117番の協会の印刷工場は市の一区画全部を占めました。

      1954年中にものみの塔協会はペンシルバニア州ピッツバーグのビゲロー・ブルバード4,100番に新しい建物を完成しました。グラント・スーターによれば,「その建物は登録した事務所であるばかりかペンシルバニア法人の年次総会の中心施設であり,中には王国会館もあって」エホバの証人の幾つかの会衆が使用しています。1974年5月4日に至るまで長年のあいだ,王国宣教学校のひとつもそこで開かれました。

      1950年代の半ばまでに王国を宣べ伝えるわざは急速に拡大していました。それより数年前の1944年に,協会は「ものみの塔」と「慰め」(現在の「目ざめよ!」)誌を1,789万7,998部印刷しました。ところが,1954年の発行数は合計5,739万6,810部に上りました。ですから,ニューヨーク市ブルックリンの協会の諸施設を拡張することはどうしても必要だったのです。それで,1955年の春までに新しい工場の基礎工事が始まり,1956年には13階建ての工場が完成しました。「ワッチタワー・ビルディング」と呼ばれたサンズ・ストリート77番にあるこの建物は,陸橋で結ばれているアダムス・ストリート117番の工場よりも広く,1万7,280平方㍍の床面積を持っています。1958年に協会は隣りの区画にあった9階建ての工場を取得しました。そこはもっぱら倉庫に使われています。

      王国宣明者の数は1960年代の半ばまでに全世界で百万人を超えました。協会のブルックリン工場はまたもや手狭になったため,1966年から,それまでの工場に隣接した区画でもうひとつの大きな工場の建築工事が始められました。その11階建ての建物が1968年1月31日に献堂されたことにより,ものみの塔工場には約2万平方㍍の床面積が増えました。その時までに,協会のブルックリン工場の建物はそれぞれ陸橋でうまく連結され,市の4区画を占めていました。

      1969年の末には拡張の度は目ざましい伸びを見せました。その年の11月25日に,ニューヨークのものみの塔聖書冊子協会は,ブルックリンにある十の建物から成る巨大なスクイブ製薬工場を取得しました。これによって5万6,951平方㍍の床面積が,エホバの証人の本部施設に加えられたことになります。C・W・バーバーは数年前にスクイブ工場の建設工事の一部を見たことを思い出します。エホバの組織はちょうどそこの土地を手に入れようと努めたのですが,スクイブ会社がそこを取得することに成功しました。バーバー兄弟によれば,「その土地はひどい砂地だったので,スクイブは建物の支持層を見つけるのにたいへん苦労しました」。彼はこうつけ加えます。「彼らはとうとう外観の立派な一群の建物を建てました。わたしはかねがねそれらの建物が協会のものだったらどんなによいだろうと考えていました。そしたら,どうでしょう,そのとおりになったのです!」

      拡大を続けるベテル・ホーム

      ブルックリンにあるものみの塔協会の工場施設の拡大に伴い,ベテル・ホームをそれ相応に拡張する必要がありました。それで1950年に12階の建物が増築されました。しかし,本部職員は引き続き増加したため,1958年12月8日には,予定されたベテルの付属家屋の敷地にあった建物,すなわちブルックリンのコロンビア・ハイツの建物を取り壊す作業が始まりました。建設工事は1959年に始まり,ほどなくして増築部分である12階の建物が完成しました。献堂式は,その新しい建物にある美しい王国会館で1960年10月10日,月曜日の夜に,ベテル家族や建設工事に関係した兄弟たち合わせて630人の出席者を得て行なわれました。本部職員そのものも1950年の355人から1960年の607人に増加していました。

      ベテル・ホームのある場所,すなわちブルックリン・ハイツ地区は,1965年にニューヨーク市で初めて「歴史的地域」と命名されました。協会は12階建ての宿舎をもうひとつ建てたい意向でしたが,史跡委員会に協力して建築を制限しました。三つの古い建物の正面は保存され,7階建ての家がそれら三つの建物の背後に隠された形で建て接がれました。コロンビア・ハイツ119番にあるその新しい建物の献堂式は1969年5月2日に行なわれました。その隣りにある大きなアパートもエホバの証人が所有し,その大部分は本部職員の宿舎に使われています。ところで,1970奉仕年度の終わりまでに,ベテル家族(ブルックリンと協会の農場の正規奉仕者および一時的な奉仕者を含む)は1,449人に増えました。それに加えて,当時本部ではギレアデ学校の生徒70人が生活していましたから,その合計は1,519人になります。そのように多くの人々を収容する一助として,協会は近くにあるタワーズ・ホテルの三つの階を借り切りました。

      拡大は続く

      しかし,諸施設の発展はそこで止まりませんでした。グラント・スーターはこう語ります。「1964年に,協会は,ものみの塔ギレアデ聖書学校がかつて使用した建物を含む,(ニューヨーク州のサウス・ランシングの近くにある)王国農場の土地家屋の一部を最終的に売却する処置を取りました」。数年後にその売却は完了し,農場は縮小されました。

      一方,ニューヨーク法人のものみの塔聖書冊子協会の理事会はニューヨーク州パイン・ブッシュ付近の農場施設を取得しました。広さが約327万6,440平方㍍のもとの農場は1963年に入手され,ものみの塔農場として知られるようになりました。そこには1968年に立派な宿泊施設が完成しました。やがてその付近でもうひとつの農場が取得されました。現在ふたつのものみの塔農場の広さは約6.86平方㌔に及びます。

      ものみの塔農場では,協会の本部職員の食料となる野菜,くだ物,肉,酪農製品が生産されています。さらに,第一農場にはふたつの工場があって,第一工場には毎時1万2,500冊の雑誌を印刷することのできる輪転機が4台あります。第二工場には紙の倉庫や他の多くの設備のほかに14台の輪転機を設置できる十分の広さがあります。そこではすでに6台の輪転機が作動していますから,ふたつの工場にある輪転機は合計10台になります。完成のあかつきには,ふたつの工場の床面積は約3万6,000平方㍍になります。1974年10月までに,正規および一時的な働き人を合わせて460名を超す人々がものみの塔農場で奉仕していました。

      ものみの塔協会はアメリカにある協会の印刷施設を拡張しただけではありません。拡大は世界中で合言葉となってきました。現在エホバの証人の印刷工場がある国はオーストラリア,ブラジル,カナダ,英国,フィンランド,フランス,ドイツ,ガーナ,日本,ナイジェリア,フィリピン諸島,南アフリカ,スウェーデンおよびスイスです。実のところ,エホバの民は全世界に37の印刷所を有しています。そして1955年から現在までに,彼らが世界各地に持つ大型の輪転機の数は9台から64台に増加しました。確かに,増大の一途をたどる聖書文書の需要を満たすのに,印刷施設は役に立ちます。

      世界中でこのような拡大が見られたのはなぜですか。エホバの組織内でしかるべき決定をする責任を持つ人々が,聖書の知識を得るよう人々を助けることに関心を持っているからです。あなたもそれを目指しておられますか。あなたがエホバのクリスチャン証人であれば,そうであるに違いありません。本部の職員たちも同様の願いを抱いています。そうであるからこそ,彼らは聖書文書の生産に勤勉に従事してきました。彼らが力を合わせた結果,1974奉仕年度中にアメリカだけで,小冊子1,387万4,957冊,聖書および書籍4,518万9,920冊,冊子2億6,138万7,772冊が生産されたほか,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が合わせて2億6,850万9,382冊印刷されました。

      こうした神権的な拡大のすべてに対する誉れはだれに帰されるべきですか。これは単なる人間の計画や誠実な努力の結果ではありません。誉れは,物事を成長させる神に帰されるべきです。神こそは,王国の良いたよりを宣べ伝える人々の努力を栄えさせた方です。―コリント第一 3:5-7。

      神の指導を受けた1世紀の跡をしるす

      チャールズ・テイズ・ラッセルと数人の仲間が祈りを込めたまじめな聖書研究の集まりを開くようになってから,1970年までに,1世紀が経過しました。その全期間を通して,エホバのしもべは霊的な啓発と神の導きを享受してきました。80代のエディス・R・ブレニスンは,その年月の相当期間エホバの組織と交わってきました。彼女は1970年の「善意の人々」地域大会のひとつに出席して深く感動しました。ブレニスン姉妹は次のように書いています。「ボストンで開かれた1970年の大会に出席して,フェンウェイ・パークのあの大ぜいの群衆を目にした時,わたしは1902年にボストンのパーク・スクウェアにおける最初の1日大会に出席し,ラッセル兄弟の講演を聞いたことを思い出しました。それはほんとうに少数の集まりに過ぎませんでした。ついでですが,わたしが初めてマクミラン兄弟にお会いしたのはその大会です。68年後にボストンにおける大会会場の席にすわり,自分のまわりにあのような大ぜいのエホバの証人を目にした時のわたしの感慨は言い表わすことができません。ほんの少数しかいなかった昔におけると同様の聖霊,エホバに対する熱意と愛がわたしたちの心にあふれていました」。

      その大会で司会者が行なった開会の話は,「100年におよぶ神の指導」と題するものでした。「その話から,1870年代の組織のこと,その小さな始まりや過去100年間の信じられないほどの成長など,組織についてそれまで読んでいたことを振り返ることができました」とマーガレット・グリーンは回顧しています。―ゼカリヤ 4:10と比較してください。

      神の指導に服する

      エホバのしもべは神の導きに服し続けることを決意していました。彼らは,1971年に開かれた5日間にわたる「神のお名前」地域大会でそのことの明らかな証拠を示しました。その大会はエホバというお名前を賞揚し,そのお名前によって代表される神の諸原則に従うことに関する教育を施しました。とりわけ,現代のクリスチャン会衆がより神権的に整えられることに関する情報が与えられました。

      しかし,1971年の地域大会で明らかにされた幾つかの組織上の発達を考える前に,過去を振り返るのはよいことです。非常に注目すべきことが1930年代の末と1940年代の初めに起きました。最初に30年ほど前にさかのぼりましょう。

      「成年に達した神権政治」

      1944年9月30日から10月2日までの3日間はエホバの民にとって非常に重要でした。エホバの証人の神権政治大会とものみの塔聖書冊子協会の年次総会に出席するため,大ぜいのエホバの証人がペンシルバニア州のピッツバーグに参集しました。大会の興味深いプログラムの中には,T・J・サリバンによる「最終的なわざのための神権組織」,F・W・フランズの「活躍する神権組織」およびN・H・ノアによる「今日の神権的路線」と題するそれぞれの講演がありました。それらの講演の主題は同年の年次総会で取り扱われる業務の重要性を強調しました。したがって,何千人もの人々は1944年10月2日,月曜日に開かれるものみの塔の業務総会に出席するためピッツバーグにとどまりました。

      「わたしがバン・アンバーグ兄弟とお会いしてことばを交わしたのはその時が最後でした。彼はわたしを見て開口一番,『ペレ兄弟,神権政治は成年に達しましたよ』と言われました」とW・L・ペレは語ります。ところで,協会のその高齢の会計秘書はなぜそのようなことを言ったのでしょうか。それは,その機会に見られた幾つかの進展によります。

      最も重要だったのは,ものみの塔協会の定款を6か所修正する決議が通過したことでした。第一修正条項決議は,協会の目的を敷衍して,前途の世界的大規模なわざを正しく取り扱えるようにすることを提案したものでした。とりわけ,その修正条項は神の名前エホバを同定款に挿入するものとなりました。第三修正条項は,協会の会員としての資格を協会に対する金銭的寄付額に基づいて付与することを定めた従来の定款の規定を全く廃しました。それが実施されると同時に,協会の会員は500人以下に限られることになり,会員はすべてエホバに対する活発な奉仕に基づいて選ばれることになりました。「ものみの塔」誌1944年11月1日号はこう述べました。「この修正条項は国の法律が許すかぎりにおいて定款を神権的取決めに近づける効果をもつものとなるであろう」。六つの修正条項決議(第二,三,五,七,八そして十条に関する)はみな採択されました。

      エホバの民は当時それに気づいてはいませんでしたが,彼らが1944年に組織に関して行なった事柄は明らかに聖書的な意味を持っていました。ダニエルの預言は,2,300の「夕と朝」つまりその日数だけ,象徴的な「小き角」(英米二重世界強国)がイエスの地上にいる油そそがれた追随者によって代表される「聖なる場所」を踏みにじることを予告していました。(ダニエル 8:9-14)それは第二次世界大戦中に起きました。

      予告された2,300日の始まりには,「組織」と題する2部からなる記事が「ものみの塔」誌(1938年6月1日号と6月15日号)に掲げられました。第一部ではこう述べられていました。「エホバの組織は決して民主主義的なものではありません。エホバは至高のかたであり,その政府もしくは組織は全く神権的なものです」。第二部には,エホバの証人の諸会衆が採択した決議,すなわちすべての会衆の役員を務めるしもべたちは上から下までみな神権的に任命されるべきことを要求した決議が載せられました。

      1938年6月1日から計算した場合,2,300日の終わりは1944年10月8日でした。また,1938年6月15日から計算した場合,それは1944年10月22日でした。その期間の終わりに際し,1944年9月30日から10月2日にかけてペンシルバニア州ピッツバーグで開かれた大会と年次総会で,組織に関する講演や調整が行なわれ,神権組織のことが再び強調されました。また,神権組織に関する記事が,1944年の「ものみの塔」誌(英文)の10月15日号(「最終的なわざのために組織される」)と11月1日号(「活躍する神権組織」と「今日の神権的路線」)に載せられました。したがって,試練の時となった2,300日が終了するころ,彼らはキリストによるエホバの神権政府を支持する点で以前にもまして強力な者であることを示しました。予告されたとおり,「聖なる場所」はその時「その正当な状態に回復され」たのです。―ダニエル 8:14,改訂標準訳。日本語の「ものみの塔」誌1972年3月1日号,135-152ページをご覧ください。

      使徒的な会衆の機構

      さて,1971年の「神のお名前」地域大会に話を戻しましょう。特に重要だったのは,初期のクリスチャン会衆の統治体の取決めを扱った幾つかのプログラムでした。

      近年,エホバの証人の統治体は,聖書にかなった使徒的な会衆の機構に関する研究を行なってきました。そして,今日いくつかの調整をしなければならないことが明るみに出ました。近代においてそれまでの何年間,ひとりの円熟したクリスチャン男子が会衆のしもべ,もしくは主宰監督として奉仕し,任命された「しもべたち」がその人を補佐していましたが,使徒たちは各会衆を長老たちの一団によって管理しました。(使徒 20:17-28。テモテ第一 4:14)さらに,西暦1世紀に会衆の長老たちの一団には明らかに交替制が敷かれていました。したがって,会衆にふたり以上の長老がいる場合,長老たちの一団の司会者が毎年交替するのはふさわしいと考えられました。

      長老と奉仕のしもべを選出する

      エホバの証人の統治体は,「長老たちの一団」と奉仕のしもべたちの選出に関して益となる手紙を各会衆に送りました。1971年12月1日付のその手紙によれば,会衆内のバプテスマを受けた20歳以上の男子全員が対象とされました。(エズラ 3:8をご覧ください)長老たちと奉仕のしもべたちに関する討議に参加した兄弟たちは,1971年11月15日号の「ものみの塔」誌(日本語では1972年2月15日号)に掲載された,「民主主義政体と共産主義のまっただ中における神権組織」,「神権組織内の任命された役員たち」,「交替制の司会者職をもつ『長老たちの一団』」と題するそれぞれの記事を研究して十分に下調べを行ないました。加えて,「ものみの塔」誌1972年1月1日号(日本語では同年4月1日号)の,「あなたがたの間で賢くて理解があるのはだれですか」および「神の羊の群れを牧すべく任命された長老たち」と題する記事の注意深い研究も行なわれました。さらに,兄弟たちは,時間の許す範囲で,「聖書理解の助け」という出版物の「年長者」,「監督」および「奉仕者」の項を読みました。

      会衆の委員と資格のある他の兄弟たちの会合では祈りがささげられました。彼らは,なかでも,神のみことばのテモテ第一 3:1-10,12,13; テトス 1:5-9およびペテロ第一 5:1-5に述べられている,長老たちと奉仕のしもべたちの資格を読んで検討しました。R・D・カントウェルはこう語ります。「初めてほんとうの意味で自分を直視したという人は少なくありませんでした。そして,自分自身と他の人々を評価する点でエホバの前に正直でなければならないということを全員が強く感じました。数名の人が資格を失わなければなりませんでした。この取決めは正直さと謙そんさを明らかにしました。組織に関する聖書の原則についての理解がこれほど深まらなければ,そのように明らかになることはなかったでしょう」。(とはいえ,その時より何十年も前でさえ,聖書の諸要求が,会衆の責任をになう人々を決める根拠とされていました。「エホバの証人のための神権組織に関する助言」〔英文〕の19ページ,および「親密一致の伝道」〔英文〕の26ページをご覧ください。)

      会衆の兄弟たちの資格が分析された後,最終的に推薦状が統治体に送られました。1972年8月1日が過ぎると,監督と奉仕のしもべの任命状がそれぞれの会衆に送られるようになりました。

      神の支配権を認識する

      エホバの民はこうした組織上の取決めの完全な履行を心待ちにする一方,アメリカ,カナダ,英国諸島のエホバの民は,6月下旬から8月末の間にそれぞれの土地で開かれた,1972年の「神の支配権」地域大会に出席しました。その大会で,神の支配権に主要な注意が向けられました。

      大会で発表された重要な出版物のひとつは,「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」と題する192ページの本でした。同書はとりわけ,クリスチャン会衆の機構上なされた幾つかの改善の要点を述べていました。「組織」の本と大会のプログラムが相まって,そうした再組織の実際的な側面が幾つか指摘され,またそれらを実施する方法が実演によって示されました。

      その地域大会では,「神の支配権 ― 全人類に唯一の希望を与えるもの」と題する講演が行なわれるなど,神の支配権を認めることが強調されました。出席者たちは,とこしえの命を得るためには個人としてエホバの支配権を認めなければならないことを認識しました。とはいえ,新しい「組織」の本および様々の特筆すべき大会プログラムは,会衆として神の支配権を認めることの重要性を強調していました。

      統治体は手本を示す

      ところで,これから時計を1971年9月13日,月曜日の朝に戻すことにしましょう。7時,ものみの塔協会の本部職員は,ブルックリン・ベテル・ホームの幾つかの場所にある食堂の各人の席に着いています。これから,朝食に先立っていつも行なわれる日々の聖句の討議が始まるのです。協会の会長が本部にいる時には,通常彼が日々の聖句の討議を司会するのがそれまでのしきたりでした。きょうノア兄弟はベテルにいますが,食卓の上座にいません。かわりに,協会の副会長F・W・フランズはその討議の司会をしています。どうしたのでしょうか。エホバの証人の統治体は,朝の日々の聖句の討議と月曜日の夜に行なわれるベテル家族の「ものみの塔」研究の司会を統治体の成員が毎週交替で行なう取決めを設けたのです。

      こうして,ブルックリンのベテルでは,神の民の諸会衆全体でそれが実施される1年前に交替制が行なわれるようになりました。しかし,それだけにとどまらず,別の取決めも設けられました。1971年9月6日にエホバの証人の統治体が採択した決議によれば,統治体の司会者はアルファベット順に毎年交替することになりました。したがって,F・W・フランズは1971年10月1日から1年間統治体の司会者になりました。適切にも,統治体は組織上の新しい取決めを実施する手本を示しました。

      「これは神が行なわれることです」

      長老と奉仕のしもべたちを定めた組織上の新しい取決めについて,ロジャー・モルガンは考え深げに,「これは神が行なわれることです」と言いました。その結果として及ぶ数々の益を考えたなら,他の人もそれに同意するに違いありません。最初の交替は1972年9月から実施されるようになり,10月1日までにほとんどの会衆は事情の調整を終えました。多くの場合,以前会衆のしもべの補佐をしていた人が主宰監督になり,それまでの会衆のしもべは神権宣教学校の監督となるという具合に責任が移行されました。それは,クリスチャンたちがエホバの支配権,ご自分の民の会衆に対するエホバの物事のやり方を認めていることの証拠でした。会衆の長老たちは毎年それぞれの立場を交替します。彼らは,自分たちに割り当てられた神の羊を牧するには互いに協力しなければならないことと会衆の霊的福祉とを念頭に置きつつ,一団となって働きます。―ペテロ第一 5:2。

      組織上の新しい取決めの益はたくさんあります。たとえば,エドガー・C・ケネディは,「万一会衆が統治体としばらくの間切り離された場合」,その取決めによって「団結をいっそう強めることができる」と感じています。また,グレース・A・エステプは,「これがエホバの組織の著しい前進であることは間違いありません。また,それは,神が今の事物の体制の後に来る時代に対する十分の備えをご自分の民に施しておられることを示しています」と語ります。「ものみの塔」誌は,1972年の地域大会の報告の中で次のように述べましたが,それには十分の理由がありました。「確かにエホバは,集めたご自分の民が組織として,神の支配権の下にハルマゲドンを切り抜け,神の新秩序にはいれるような状態に彼らを導いておられます」。

      「神の勝利」国際大会

      エホバのクリスチャン証人たちは,彼らが神の指導に服し,神の支配権に喜んで従う証拠を十二分に示してきました。1973年6月末から1974年1月にかけて開かれた,世界を一周する国際大会は,彼らが神の勝利を待ちわびていることを明らかに示すものでした。世界的な催しとして,だいたい5日間にわたる多くの大会が,アメリカ,カナダ,ヨーロッパ,アジア,中南米,南太平洋およびアフリカの各地で開かれました。神の民の大ぜいの人々は遠方の国々に旅行し,行った先々で霊的に築き上げる大会のプログラムを外国の仲間の信者とともに楽しみました。多くの場合,催しが行なわれたのは日中だけでしたから,出席者は早く宿舎へ帰ることができましたし,夜出歩くのが賢明でない地域での夜間の通行も避けられました。夜の時間は,たいてい,大会で見聞きした顕著な事柄を思い返すことに当てられました。

      この大会における数々の特筆すべき優れたプログラムの中に,「エホバの日の臨在をしっかりと思いに留めなさい」と題する興味をそそる講演がありました。その講演は,クリスチャンがエホバの日を思いの中でおくらせるべきでないことをなんと力強く示したのでしょう! 悪化する世界情勢,長老たちと奉仕のしもべたちの取決めを含む神権組織上の諸発展,そして,「大群衆」を構成する人々が流れのように速い勢いで集まってきていることは,エホバの日が近いことを示しています。(ペテロ第二 3:11-13。啓示 7:9)その示唆に富む講演に続いて,「真の平和と安全 ― どこから得られるか」と題する192ページの本が発表され,大いに喜ばれました。

      大会で発表された出版物の中には,「新世界訳聖書総合語句索引」(英文)と416ページの「神の千年王国は近づいた」という本が含まれていました。実に心を慰められたのは,「神の勝利 ― 苦悩する人類にそれが意味するもの」と題する公開講演でした。大胆にも,神の勝利をもってエホバがご自分を立証されるハルマゲドンの宇宙戦争にもっぱら注意が向けられました。「人の住む全地の王たち」は汚れた霊感の表現に駆り立てられて,全地の支配権をめぐる神との戦いに集められています。(啓示 16:13-16)したがって,人はその論争のいずれか一方の側を取らねばなりません。王の王であるイエスの側にいる人々だけが救われます。その人々だけが神の勝利の目撃証人となって,勝利の祝いに加わります。

      1973年の6月と7月中にアメリカ全土の19か所で開かれた「神の勝利」国際大会で,1万5,851名の人々が水によるバプテスマを受けてエホバ神への献身を象徴しました。それらの大会に合計66万5,945人が参集して,エホバがご自分の民のために備えられた豊かな霊的祝福を享受しました。全世界では140の大会が開催され,合計259万4,305人が出席し,8万1,830名がバプテスマを受けました。勝利者であられる神に感謝をささげる十分のいわれがあるではありませんか!

      特別なわざが増加に拍車をかける

      ところが,「神の勝利」国際大会にはもうひとつの非常に重要なことがありました。それより数か月前に,大会のプログラムは王国を宣べ伝え,弟子を作るわざにかなりの力点を置いている,ということが「ものみの塔」誌上で述べられました。それにはさらにこう書かれていました。「特別なわざについての説明と実演があります。全世界のエホバの証人の全会衆は,大会後の定められた期間中そのわざにあずかります」。この特別なわざとは何でしたか。

      その答えは,「武力衝突によらないで世に対する勝利を得る」という基調をなす話が終わった後に与えられました。その時,「人類にとって時は尽きようとしていますか」と題する4ページの冊子,「王国ニュース」第16号が発表されたのです。12歳以上で,それを配布することに関心のあるすべての聴衆に,その冊子が8部ずつ無料で与えられました。9月21日から30日までの10日間が同冊子の配布期間である,と講演者は発表しました。戸別に人々を訪問してそれらを直接手渡し,家の人が留守の場合は戸の下に置いてきます。ものみの塔協会はその冊子をひとりの伝道者につき100枚の割合で各会衆に送ることになっていました。すべての家庭に1枚ずつ配られることが望まれました。そうすれば,何百万部もの冊子の無料配布が確実に達成できます。エホバの民は王国を宣明するためのその特別なわざを将来行なうことに大きな喜びを抱きました。

      こうして,他の土地におけると同様,アメリカでもエホバの証人は1973年9月末の10日間に「王国ニュース」第16号を何百万枚も配布しました。また,同年の12月22日から31日にかけてふたたび「王国ニュース」の大々的な配布に携わりました。このたびは,「宗教は神と人を裏切ってきましたか」という質問を投げかけ,その答えを示した第17号でした。1974年5月3日から12日までは,「神による政府 ― あなたはそれを支持していますか。あるいはそれに反対していますか」という非常に重大な質問を取り上げた「王国ニュース」第18号を携えて再び区域を網らしました。

      神のみことばの真理を知っている多くの人々は,「王国ニュース」の配布に参加して他の人々と良いたよりを分かつよう心を動かされてきました。1973年の9月中に(アラスカとハワイを除く)アメリカでは,なんと51万2,738人の王国伝道者がこのわざに参加しました。そして,報告によれば,「王国ニュース」第16号が4,332万48枚配布されました。12月には,そのちょうど1年前に野外奉仕に携わった伝道者数より10万3,112名も多い,合計52万5,007人という驚くほど大ぜいの人々が,「王国ニュース」第17号を配布しました。さらに,1974年5月には,53万9,262人の働き人が野外奉仕に携わったのです!

      幾つかの経験は,「王国ニュース」の配布が弟子を作るわざを確かに促進したことを示しています。たとえば,ふたりの伝道者はある紳士に1枚の「王国ニュース」を手渡して立ち去りましたが,あとからその人に呼び止められました。彼の家に引き返すと,その夫人に迎えられました。彼女は「とこしえの命に導く真理」という本をごみ箱でみつけて持っていました。そして,その本が述べていることが成就しているのを知って,ずっと眠られませんでした。それで聖書研究が始まり,婦人はクリスチャンの集会に定期的に出席するようになって,後に「王国ニュース」の配布に参加し,バプテスマを受ける計画をするところまで進歩しました。

      長い髪をし,たばこを吸ったり麻薬を飲んでロックンロールの楽団で演奏をしていたふたりの実の兄弟は,1枚の「王国ニュース」によって関心を呼び起こされました。まもなく,そのふたりは,冊子を配布した証人と聖書を学んでいました。髪を切り,たばこや麻薬をやめ急速な霊的進歩を遂げました。そして,1枚の「王国ニュース」を受け取ってからわずか3か月で野外奉仕に携わり,「王国ニュース」の次の号を他の人々に配布しました。ふたりとも1973年の12月にバプテスマを受け,その後まもなく一時開拓奉仕のわざを楽しみました。

      「大群衆」を集める

      使徒ヨハネは,すべての国民と部族と民と国語の中から来た「大群衆」が神のみ座の前に立ち,神の神殿で昼も夜も神聖な奉仕をささげているのを見ました。(啓示 7:9,15)地的な希望を持つそれらの人々は,イエス・キリストの油そそがれた追随者たちが神から与えられた,王国の良いたよりを宣明するというわざを行なって彼らを助けてきました。その結果,幾千幾万もの人々が流れのように「エホバの家の山」につくのを見るのはなんと感動的なことでしょう!―イザヤ 2:2-4。

      「エホバの家」の中庭に集まったそれらの人々はエホバ神に献身し,そのことを水のバプテスマによって象徴しました。1958年7月30日のこと,ニューヨーク市で,「神の御心に従うバプテスマ」という話に続いて7,136名の人々が浸礼を受けました。それは西暦33年のペンテコステ以来の出来事でした。(使徒 2:41)1958年に行なわれたそのバプテスマは確かに世間の人々が無視することのできない事柄でした。その証拠に,H・L・フィルブリクは最近このように書きました。「大ぜいの人々がバプテスマを受けている場面の,とても良い写真が新聞に載りました。……新聞の読者はだれも,もはやエホバの証人を小さな『宗派』であると見なすことはできないと感じざるを得ませんでした。真理は進行していたのです!」

      エホバの民は単なる数に関心を払ってきたのではありません。たいせつなのは,バプテスマ希望者が自分たちの行なっている事柄を理解していることです。ですから,1967年に「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する本が発表された時には大いに喜ばれました。その本の7ページから40ページには,円熟した兄弟たちがバプテスマを希望している人々と討議するための,聖書に関する80の質問が載っていました。アール・E・ネウェル兄弟と姉妹は次のように述べました。「会衆の委員の援助で80の質問を学ぶと,彼らは献身とバプテスマが一生涯歩むべき道であり,それに伴う責任を軽く見るべきではないことを認識しました」。もっと最近になって(1972年)出版された「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」という本にも,バプテスマを受けることを考えている人々と討議するための聖書に関する質問が載っています。会衆のいろいろな長老たちは,各人とのそうした討議を司会するので,バプテスマを考慮している人々は,聖書に関する自分の考えを言い表わし,エホバ神との関係をよく考える機会が与えられます。このような取決めは真の弟子を作ることに貢献しました。

      弟子を作り,バプテスマを施すことがどのように増加したかを少し考えてみましょう。1968年にバプテスマを受けた人は8万2,842人でした。1969年から1973年にかけて79万2,019人がバプテスマを受けました。「大群衆」を集める努力は引き続き熱心に続けられ,毎年何万人もの人々がバプテスマを受けています。1974奉仕年度だけでも,実に29万7,872名の人々が浸礼を受け,エホバ神への献身を象徴しました。エホバの賛美となるこのすばらしい集めるわざにあずかれるのは,神の民にとってなんと心の躍ることでしょう! 今日,神の王国の良いたよりを伝道するエホバのクリスチャン証人は二百万人を上回ります。

      「ずっと見張っていなさい」

      イエス・キリストは,弟子たちを,自分が外国旅行から帰るのを見張っているようにと主人から命令された戸口番になぞらえ,邪悪な事物の体制に対して裁きを執行するためにご自分が到来するのを油断なく見張っていなければならないことをご自分の追随者たちに強調されました。イエスは賢明にも,「ずっと見張っていなさい」と忠告されました。―マルコ 13:32-37。

      「神の目的」地域大会は,エホバのクリスチャン証人が緊迫感を抱き,霊的にしっかりと見張る態度を取るのに大いに貢献しました。1974年6月から8月にかけて,アメリカ全国,カナダおよび英国諸島で85に上るそうした大会が開催されました。それらの集まりを通して,神の民は自分たちが時の流れのどの時点に生活しているかを認識するよう間違いなく助けられました。

      三つの感動的な聖書劇は強力な教訓を与えるものでした。出席者たちは,エジプトの束縛から逃れて荒野をさまよっているイスラエル人に注目しつつ,信仰の欠如に対して警戒する必要を劇を通してはっきり学びました。もうひとつの劇は列王紀略上 13章に基づいたもので,神の権威に耳を傾けないとどんな危険があるかを示していました。さらに,使徒パウロの生涯とクリスチャンとしての彼の数々の業績を描いた劇はなんと心を打つものだったでしょう。その劇を見た人々は,エホバ神への崇拝と奉仕に対する新たな熱意に満たされました。

      物質主義,悪霊の影響,また偽りの宗教に食い物にされることといった事柄に対してどのように身を守れますか。答えは,「エホバに堅く結び付いた信仰と希望によって保護される」と題する感動的な講演の中で与えられました。その話に続いて,「今ある命がすべてですか」という192ページの新しい本が発表されました。この本は偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンに強烈な打撃を与え,さらに,今の命がすべてではないことを信じる十分な理由を読者に提供しています。これは,神の義の新秩序における命と復活というすばらしい希望に対する信仰を築く本です。

      イエス・キリストの油そそがれた追随者たちと,地的な希望を持つ彼らの仲間は,神の目的に貢献したいと願っています。彼らは,神の目的が失敗しないことを知っており,その確信は,大会で発表されたもうひとつの本の題名,すなわち「人間の益のために今や勝ち誇る,神の『とこしえの目的』」とその内容に具体的に表わされました。神の目的に信頼を置くべき確実な理由は確かにいくつもあるのです。それらの理由が特に明らかにされたのは,大会の最高潮となった,「人間の計画は失敗しているが,神の目的は成し遂げられる」と題する公開講演においてでした。アメリカで開催された69の「神の目的」地域大会に参集した89万1,819名の人々は,その講演や他の重要な情報に心を躍らせました。

      他の土地のエホバの証人たちと同様,アメリカのエホバの証人は,人間がよろめく世界を安定させる努力を引き続き行なうことを知っています。しかし,人間の諸計画がいかに壮大であろうと,また,それらが成功すると人間がどれほど力説しようとも,エホバの民は神の目的だけが勝ち誇ることを知っており,神のみことばと王国を宣明するというすばらしい特権をエホバに感謝しています。

      意味深いことに,イザヤの預言は,「すえの日に」エホバの家の山が山々の項を越えて堅く立ち,多くの人々がそこへ流れのように集まることを述べています。(イザヤ 2:2-4)わたしたちは今や「すえの日」にいるのです! 増加の一途をたどる「大群衆」の群がる様を見る時,わたしたちは時の緊急性を感じざるを得ません。今は,どこにいようと,エホバのしもべたちが自己満足に陥ったり,無頓着になったり,無活動になるべき時ではありません。彼らにはなすべきわざがあるのです!

      わたしたちが時の流れのどの時点にいるかを考えてもご覧なさい! そのことの重要性は,1966年当時にわたしたちの思いに深く印象付けられました。その時,神の民は「神の自由の子となってうける永遠の生命」という興味深い本を受け取りました。大多数の人がすぐに目を留めたのはその本に出ている年表で,それは1975年を「人類生存の第6の1,000年の日の終わり(初秋において)」としていました。

      それによって確かに幾つかの疑問が生じました。それは,大いなるバビロンが1975年までに没すという意味ですか。その時までにハルマゲドンが終わってサタンが縛られるのですか。ものみの塔協会の副会長F・W・フランズは,メリーランド州のバルチモアで開かれた「神の自由の子たち」地域大会で類似の質問を幾つか提起した後に,『それはあり得ることです』と述べました。ところが,彼は次のような要旨のことばを付け加えました。『しかし,わたしたちはそう言っているのではありません。神にとってどんなことも可能です。しかし,わたしたちはそう語ってはいません。それで,みなさんは,今から1975年の間に起きようとしている事柄をはっきり話すようなことがあってはなりません。みなさん,ただ重要なのはこのこと,すなわち時が短いということです。時は尽きようとしています。そのことに疑問の余地はありません』。フランズ兄弟はとりわけ次のように勧めました。「時間を最大限活用し,機会のある間にエホバへのあらゆるりっぱなわざを一生懸命行ないましょう」。

      その時から数年がたちましたが,それは宣べ伝えるわざの緊急性が強まったということにすぎません。エホバのしもべたちは,ある特定の年まで自分たちの命を神に捧げたのではないことを知っています。彼らは永遠にわたって神に献身した民なのです! 今日,人類世界全体はわざを行なうべき神の畑であり,しかもそのわざは緊急です。エホバの民は,神とともに働く者として,その畑で神の目的や救いのための数々の備えを知らせるというなんとすばらしい特権を享受しているのでしょう! それら献身したクリスチャンたちは,エホバ神の過分のご親切に対し深い感謝の念を抱いて,「神とともに働」きつつ自分たちの活動を断固推し進めます。―コリント第一 3:9。コリント第二 5:18–6:2。

      神の聖霊の助けを得て,アメリカのエホバのクリスチャン証人たちは,全地にいる仲間の崇拝者とともに引き続き天のみ父に忠実に仕えて行きます。わたしたちすべてがエホバに対してゆるぐことのない忠節を表わしますように。終わりは近づいていますから,油断することなく,活動的でありますように。わたしたちは「ずっと見張って」いなければなりません。今は霊的に寝坊している時ではないのです! 失敗し得ずまた今後も失敗することのない,すばらしく比類のない目的を持たれる神たる方に,十分に目覚めて勤勉かつ忠実に奉仕すべき時です。

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