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小さな事柄も重大な問題ものみの塔 1968 | 12月15日
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個人はどうすべきですか。自分の誕生日であれ友人や親類または有名人のものであれ,どんな点でも誕生日の祝いにあずからないようにし,神の御心に努めて一致するよう心がけていることを示すべきです。神に喜ばれることを願うなら,すべての事に忠実であるようにならねばなりません。この原則を説明する別の例は結婚関係の忠実の問題です。つまり,夫婦のいずれも,大きな事柄だけでなく小さな事柄でも忠実でなければなりません。
小さな事柄に忠実な人は,大きな事柄にも忠実であるとイエスの述べられた原則の正しさは,古代バビロンにおけるダニエルの3人のヘブル人の友の経験により証明されています。モーセの律法の禁ずる食物を食べる問題に直面したとき,彼らは,自分たちが捕擄なので選択権はないと言いわけすることもできました。しかし,たとえ小さな事柄に見えても問題を真剣に取り扱った彼らは,なんと豊かに祝福されたのでしょう。ダニエルと3人の友は,王から与えられた食物を食べていた他の捕われ人すべてよりも健康と知恵の点ですぐれていました。その中にはおそらく,バビロンの神にささげられた食物も含まれていたことでしょう。それらの「小事」に忠実だったため,彼らは確かに心を強められ,王がドラの平野に立てた像を拝まねばならない大きな試練に直面した時でも,確固とした大胆な態度を勇敢に取ることができました。―ダニエル 1:3-21; 3:1-30。
それだけでなく,彼らが確固とした態度をとったからこそ,エホバ神のための偉大なあかしが行なわれました。このことは現代においてもあてはまります。エホバの証人の1968年度年鑑のブラジルからの報告には次のような経験が載せられています。「幼稚園に通うある男の子は,神のことばから見て正しくない事柄が幼稚園で行なわれる場合のことについて,母親から言い聞かせられていました。母親は先生にもそのような事柄について聖書から説明しておきました。ある日,子供を迎えに来た母親は,子供が信仰の立場を守ったので感心したということを先生から聞かされました。ひとりの子供が誕生日を祝うケーキを幼稚園に持ってきたのです。エホバの証人が誕生日を祝わない聖書的な理由を聞かされていた先生は,その男の子がどうするかと思って見ていました。すると他の子供が誕生日の歌を歌っているあいだ男の子は無言ですわっており,ケーキをすすめられた時には,ていねいにことわって自分の弁当を食べました。母親は,子供が問題を正しく理解していたことを誇らしく思いました。なぜなら,母親の言うようにその子はケーキが大好きだからです」。他の人にはたとえ小さな事柄と思えようとも,問題を真剣に取り扱って,忠実を保つことは,さらにきびしい信仰の試練に直面したときに,神に忠実を保つ助けとなります。
宗教上の祝い
ほかにも多くの国でごく普通になっている慣行もあります。ある種の祝いは本質的に宗教的な行事です。忠実なクリスチャンはそのような祝いにどう対処すべきですか。昔,エホバは御自分の民を取り巻く国々の宗教上の習慣について,「汝ら異邦人の途にならふなかれ」と彼らに命ぜられました。―エレミヤ 10:2。
クリスマスが異教に由来する祝いであることは今日,一般に認められています。クリスマス・ツリー,クリスマス前夜に炉にたく大薪,クリスマス装飾用のヤドリギそして12月25日という日付までもことごとく異教に由来することが明らかにされています。そして,復活祭の卵や復活祭のウサギについても同じことが言えます。a それでクリスマスや復活祭を祝うことは使徒パウロのことばにより禁じられているのです。「あなたがたはエホバの杯と悪鬼の杯とを飲むことはできない。『エホバの食卓』と悪鬼の食卓とにあずかることはできない」。「『それゆえに彼らの中から出て行き,離れ去りなさい』とエホバは言われる,『そして汚れたものに触れてはならない』。『そうすればわたしはあなたがたを受け入れよう』」― コリント前 10:21。コリント後 6:17,新世訳。
賢明なクリスチャンの親は,感情に負けて復活祭やクリスマスの事柄で妥協するようなことをしません。子供が,聖書の原則ゆえに人と異なって見えるのを恐れ,世の人と同じように事を運びたいと考えて,世に従おうという誘惑に陥ることのないように,クリスチャンの親は子供がまだ幼いうちにいましめを与えるべきです。クリスチャンはこの事物の体制にならうのでなく,心を入れ替えてひととなりを変えるようにさとされています。(ロマ 12:2)正しく育てられた子供は,自分が他の人と異なっているために人々が驚くのを見て,喜ぶことでしょう。(ペテロ前 4:3,4)それらの祝いの実体は,異教に由来する,神を汚すもので,単なる見せかけにすぎず,商業的な搾取を特徴とする行事であることを子供たちに教えるべきです。そうすれば,子供はそれらの祭りを祝う人々をうらやましく思うどころか気の毒に思うようになります。同時に両親は,単に『物わかりがよい』とか『良い仲間』と見なされたいばかりに妥協したり,あいさつ状を送ったり,クリスマスの飾り付けで部屋を飾ったりしないように用心しなければなりません。
特に商業に携わっているクリスチャンはだれでも経営上の損失をおそれて,直接偽りの宗教と関係のある,異教の祭日の飾り付けで店を飾ったり,それらの品物を仕入れたりしないように警戒しなければなりません。エホバに献身した証人はだれであれ,利益が目的であるいは他の動機で,これらの事柄に関して妥協すれば,背教の罪を犯すことになります。そして聖書にはっきり述べられているように,再び『悪鬼の食卓で食べる』ようになる人は「エホバの食卓」で引き続き食べることはできません。
祭日の催し物は,堕落した肉に訴えるように企てられているものですから,それらの催しに参加したいという誘惑にかられるかもしれません。クリスマスや復活祭に関する音楽や飾り付けは人間の感情に巧みに訴えるかもしれません。また,飲食や踊りをしたいほうだいできるパーティーはいずれも肉に訴えるものです。しかし罪の律法に従う道を選ぶのは死を意味することをクリスチャンは忘れてはなりません。なぜなら,「肉に居る者は神をよろこばすこと能はざるなり」とあるからです。―ロマ 8:8。
聖バレンタインデーのパーティや催しについても同じことが言えます。聖バレンタインデーは,その由来ゆえに避けるべき祝いです。これは,神ではなく人間の手で「聖徒」に祭られた,ローマ・カトリックの一人あるいはそれ以上の「聖徒」にちなんで名付けられた日であり,それに伴う行事は異教に由来します。それで,その起源については次のように述べられています。「古代ローマにおける2月のルーパーカス祭の行事の一つには,若い女の名前を書いた紙片のはいった箱から若い男が女の名前を運に任かせて取り出す行事があった。この異教の儀式が根絶不可能なことを悟った初期教会の指導者はその変形を図った」。b この祭りの真の目的は,人間や家畜の多産と穀物の豊作を祈願することにあったのです。
家族そろって健全な楽しいひと時を過ごしたり,愛する友に親愛の情をこめて贈り物やあいさつ状を送ったりすることにはもちろん一つも異議がありません。しかし,異教に由来することを自ら知りながら,そのならわしを他の人に勧めるような仕方でそれらのものを送るのでは,その行為は真実の愛を人に示していないことの表われにほかなりません。またその種の行ないは神に喜ばれません。しかし真のクリスチャンは神の御旨にかなうことを心から願っています。
他の祝祭
もちろん祝祭には宗教的な祝祭以外のものがあります。国家や一国の英雄をたたえるために催される祝祭もあります。エホバの証人はそのような祝祭をどう見なしますか。エホバの証人は,他の人々がしたいと思うことに干渉しようとは思いませんが,イエス・キリストが御自分の真の追随者は「世のものならず」と言われたことばをしっかり心にとめています。(ヨハネ 17:16)さらに世の事柄に関係して汚された人の崇拝は,清いものではなく,神に受け入れられないと聖書に述べられていることを知っています。(ヤコブ 1:27)どうしてそうなのですか。
なぜなら,イエスが示されたように,「この世の君」はエホバ神ではなく,神の敵対者であるサタン悪魔だからです。(ヨハネ 14:30)悪魔はイエスに,自分を崇拝したなら世のすべての国を与えると申し出ました。そして今日に至るまで,国々の上に強力な支配権を行使してきました。(マタイ 4:8-10)聖書の述べるこの事実が真実であることは,今日の地上の状態が証明しています。エホバの証人は聖書に書かれていることを信じます。ゆえに,古い事物の体制のいかなる部分であれ,それをほめたたえるような祝祭には参加しません。証人たちは,神の国がまもなくこの世のあらゆる国々を打ち砕き,そして永遠にわたって治めることを知っています。(ダニエル 2:44)また,永遠に生き続けたいと願っており,従順な人間に祝福をもたらす神の御準備に全幅の信頼を寄せています。
私たちは問題を避けることはできません。もしエホバ神の御旨にかないたいと願い,すべての心と魂と思いと力をこめて神を愛することに心を定めているなら,この事物の体制の祝祭を無害のものと見なすことはできません。私たちはそれらの祝祭を退けることの重大さを認識しなければなりません。忠実な初期クリスチャンは,偶像崇拝に少しでもかかわりのある行為であれば小さな事柄でも,たとえ命を捨てても断固として拒否しました。今日,エホバの御旨にかないたいと願う人は彼らの模範にならわねばなりません。その種の事柄に関しては,クリスチャンはいつも次の原則を心にとめましょう。「小事に忠なる者は大事にも忠なり。小事に不忠なる者は大事にも不忠なり」― ルカ 16:10。
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戻ってきた札入れものみの塔 1968 | 12月15日
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戻ってきた札入れ
◆ 昨年のこと,エホバの証人の「人々を弟子とする」地域大会の準備のため,大会の清掃部門の人々が最初にニューヨーク州ウチカ市のメモリアル公会堂にはいった時,62ドル(2万2320円)入った札入れを見つけました。それは大会の遺失物係りに渡されましたが,大会の終了するまで自分のものであると名のり出た人は一人もいませんでした。それで札入れは大会の監督に渡され,彼がその中を調査すると,身分証明書が見つかり電話番号もわかりました。
監督は落とし主を訪問したところ,彼が1年前の1966年7月1日,卒業式に出席した際に札入れを失ったことを知りました。
「札入れの中にお金がはいっていますか」という言葉が監督の受けた最初の質問でした。
「あなたはいくら入れておかれましたか」と彼は監督に問い返えされました。
「60ドルです」と彼は答えました。
今でも札入れの中に62ドルはいっていることを聞いた彼は,驚きのあまり言葉も出ませんでした。彼はエホバの証人の正直さに大そう感銘しました。
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