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  • 危険な誤信
    目ざめよ! 1971 | 1月22日
    • 実際のところ,浮き砂には水よりはるかに大きな浮揚力があります。ですから,水の中で浮くことができる人なら,当然,浮き砂でもそうすることができます。浮き砂に落ち込んで,からだがだんだん深く吸い込まれそうになるのは,あわててもがくからです。

      では,浮き砂に落ち込んだら,どうしますか。できるだけ冷静さを保ち,むだな動作は避けるべきです。水の中なら,浮かんで泳ぐでしょう。浮き砂の中では,直ちにあお向けになって,腕を広げることです。この姿勢を取れば沈みません。救助者がいない場合,かなり骨の折れることですが,一度に片足ずつゆっくりと引き抜き,次に,からだをころがしながら,堅い地面まで移動します。その間,何度もあお向けに“浮かんで”は,からだを休めます。

      宗教上の幾つかの誤信

      聖書の教えに関しては,数多くの誤信が何世紀にもわたって伝えられてきました。たとえば,聖書はこう述べています。「罪を犯せる魂は死ぬべし」。(エゼキエル 18:4,20)魂は不滅ではないことを,これ以上はっきり述べたことばがあるでしょうか。ところが,今日,たいていの人は,その正反対,つまり,思弁的な宗教の所産である,霊魂不滅という考えを好んでいます。人間は実際には死なないとするなら,いったい復活の必要がどこにありますか。しかし,聖書は明らかに復活について教えているのです。―ヨハネ 5:28,29。使行 24:15。

      イエスの誕生の日付に関する問題は,広く受け入れられている別の誤信を浮き彫りにするものです。それは12月25日である,と教会で教わりませんでしたか。J・フレーザー卿は自著,「金枝編」の中でこう書いています。「われわれのクリスマスの祝いは,古代の太陽の祭りにキリスト教の名を冠して継承したものにほかならない。なぜなら,3世紀の終わり,もしくは4世紀の初めごろ,それまで12月25日に異教徒が太陽にささげていた崇拝を,教会の権威者たちは自分たちの主にささげさせるのに都合よくするため,キリスト降誕祭の日付をそれと同じ日に勝手に改めたからである」。

      しかし,ともすれば,「イエスの誕生を祝うのでさえあれば,日付は問題ではない」という人がいますが,それにしても,そう主張する人は,数々の異教的特色を伴うそうした祝いを,イエスがご自分の追随者にご自身の誕生ではなく,その犠牲の死を記念するようにと命じられた事実にどのように調和させるかという問題をかかえています。―ルカ 22:19,20。

      12月25日の祝いに関しては,ほかにも種々の誤信が生まれました。贈り物を携えてやって来た博士たち,つまり占星術者たちは全部で3人だった,と多くの人は考えています。あなたも同じ考えですか。聖書はその数をしるしていません。また,それら占星術者たちは星に導かれて,まっすぐベツレヘムのイエスのもとに行った,と一般に考えられています。が,実際には,星に導かれて,エルサレムに,しかも,その赤子を殺したいと考えていた,ヘロデ王のもとに行ったのです。また,彼らがようやくベツレヘムに着いたときには,一般に信じられていることに反して,イエスはもはやかいばおけの中ではなく,とある家で生活していました。ご自分の聖書を開いて,マタイ伝 2章1-12節の記述を読んでごらんなさい。

      それは問題ですか

      以上のことからすれば,誤謬を信ずるのは重大な問題ではありませんか。“凍傷”や“浮き砂”に関する誤信は相当の危害,場合によっては死をさえもたらしかねない,といわねばなりません。

      しかし,聖書の述べることに反する,無責任で誤った宗教上の考えに固執すれば,さらに重大な危害を招きかねません。なぜですか。なぜなら,単に現在の命が脅やかされるにとどまらず,永遠の命が関係してくるからです。真理と永遠の命は密接に関連しているのです。―ヨハネ 17:3; 4:23,24。

      聖書は,明らかに神の「意志は,あらゆる種類の人が救われ,真理の知識に至ることである」と述べています。(テモテ前 2:4,新)一方,イエス・キリストの使徒であったパウロは,誠実でありながらも,誤導されていた人びとについて,こう言いました。「彼ら(は)神に対する熱心をいだいている…が,それは正確な知識に従っていない」。(ロマ 10:2,新)あらゆる誤信を自分の思いから一掃するのは確かに安全な道であると言わねばなりません。

  • 両親から受けた,聖書に基づく訓練に感謝する
    目ざめよ! 1971 | 1月22日
    • 両親から受けた,聖書に基づく訓練に感謝する

      ◆ アメリカ,インジアナ州のエルウッドに住むひとりの若いエホバの証人は,両親から受けた聖書教育に深く感謝し,その理由をこう述べました。

      「わたしが5歳の時,両親はわたしに聖書を教えはじめました。最初,その勉強はとても楽しいものでしたが,十代になって間もなく,わたしは反抗的な態度を示すようになりました。たとえば,王国会館での集会中,ほかの子どもといっしょにすわっては,天井を見上げたり,何かを書いて回したり,ささやいたりなどしました。でも,その時,わたしは両親のそばにすわらされました。また,両親は家族の聖書研究を決してやめませんでした。たとえ,わたしが家族の聖書研究の晩にほかの事をするようにしても,両親は必ず予定を組み直して,わたしたちの聖書研究を毎週行なうようにしたのです。

      「両親は,わたしに,聖書の基本的な真理を確固とした態度をもって,熱心に教えてくれました。やがて両親は,わたしが反抗的な態度を取らなくなり,エホバのご親切に感謝を表わすのを見るようになりました。現在,わたしは17歳ですが,できるだけ多くの時間を用いてエホバの良いたよりを伝道しています。わたしの願いは全時間伝道者として歩むことですが,これもひとえに,両親の忍耐と愛ある訓練のおかげです。

      「わたしは,自分が何年かのあいだ反抗的な態度を取ったことを,エホバ神に忘れていただきたいと祈っています。その間ずっと,わたしは,両親が正しいのだということを,自分自身の内奥でよく知っていました。ですから,お子さんをお持ちのかたすべてに,どんな事情があっても,特にお子さんの反抗期に際しては,子どもとともに家族の聖書研究をぜひお続けになるようお勧めいたします。反抗期こそ子どもが両親を最も必要とする時なのです。そうすれば,子どもが次のように言うのを親はいつの日か,耳にすることでしょう。『わたしといっしょに家族の聖書研究を欠かさずしてくださったことを,わたしはほんとうに感謝しています』」。

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