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    ものみの塔 1970 | 8月1日
    • エホバが要求される神聖さ

      神がご自分のしもべに聖なることを期待するのは無理な要求でしょうか。わたしたちのような普通の人間が神聖さの目標に到達して,その特質を保ち続けるのは可能でしょうか。もしそうならば,それは努力する価値がありますか。神聖な者とはいったいだれですか。神聖さとはなんですか。

      神聖さに相当する英語の“holy”また“holiness”は,物理的な意味での「明かるいこと,新しく,あるいは新鮮であること,よごれていないこと,清いこと」を表わす,ヘブル語動詞の語根から派生したことばの訳語です。しかし,聖書の中でこのことばは,おもに霊的また道徳的な意味で用いられています。したがって,神聖さということばには,神にささげられた,あるいは道徳的,霊的に清いという意味があります。さらに,神のために別にする,あるいは聖別すること,つまり神の奉仕のために別にされた状態を表わします。

      「神聖さはエホバに属す」

      エホバは「至聖きもの」であられ,神聖さにおいて他のすべてのものにまさります。(箴言 30:3)この神聖さという特質がエホバに属することを認めたイエス・キリストは,エホバに「聖なる父よ」と呼びかけられました。(ヨハネ 17:11)また,天にいる者たちも,「聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 万軍のエホバ」と宣言しながら,最高の神聖さ,または清さをエホバに帰しているさまが描かれています。―イザヤ 6:3。黙示 4:8。

      古代のイスラエルの民は再三再四,エホバが神聖なかたであることを思い起こされました。(レビ 11:44; 19:2)たとえば彼らは,大祭司の頭帽に取り付けられた輝く金板の上に,「神聖さはエホバに属す」と刻まれた文字を読むことができました。この金板は「献納の神聖な印」と呼ばれ,大祭司が特別に神聖な奉仕のために別にされて他からわかたれていたことを示すものでした。―出エジプト 28:36; 29:6,新。

      神の御名エホバは聖なるものであり,神聖なもの,また,すべてのけがれからわかたれたものとしてみなされるべきである,ということをイスラエル人は心に深く刻み付けていました。ある時,イスラエルの女シロミテのむすこが神の御名に災いを祈り求め,御名をけがしているのを人々が聞きました。その罪にはどんな刑が課されますか。

      この件に関して神みずからモーセに次のような指示を与えました。「すべてその神をのろふ者はその罰をかうむるべし エホバの名をけがす者はかならずころされん 全会衆かならず石をもてこれを撃べし 外国の人にても自己の国の人にてもエホバの名をけがすにおいてはころさるべし」― レビ 24:10-16。

      このように,神の聖なる御名に対する不そんな態度は,死の刑罰をもって報われました。したがって,エホバについて次のように語った詩篇作者のことばを心に留めるのは賢明なことです。「エホバの名は聖にしてあがむべきなり」。(詩 111:9)この点を認識していたイエス・キリストは,神に祈る方法をご自分の弟子たちに教えた際,「願くは,御名の崇められん〔神聖なものとせられん〕事を」,あるいはほかの翻訳によれば,「あなたの御名が清められますように」との願いをまず最初にささげるべきことを示されました。この祈りに和して,あなたは神とその御名に対して,ふさわしい敬意と尊敬を表わしますか。―マタイ 6:9,新世訳。

      神聖な物事

      エホバ神はすべての神聖の根源であられますから,エホバ神とその崇拝に関係するもの,あるいは対象物はなんであれ,その関係のゆえに神聖な物事となります。たとえば,エホバが制御しておられる活動力つまり霊は,常にエホバの目的を成し遂げます。それは清く,かつ聖なるものであり,神のとうとい用途のためにわかたれています。そのために「聖霊」または「潔き霊」と呼ばれるのです。―詩 51:11。ロマ 1:4。

      わたしたちがこの神聖な力を得て,生活できるというのはすばらしい特権ではありませんか。そうすることは可能なのです。なぜなら,イエスはこう言われたからです。「天の父は求むる者に聖霊を賜は(る)」。あなたは神に実際に聖霊を祈り求めますか。そうすることが求められているのです。―ルカ 11:13。

      それに加えて,聖書も神聖なものです。それは神の霊の導きの下に書きしるされたからです。それで,「聖書」あるいは「聖なる書」と呼ばれています。(ロマ 1:2。テモテ後 3:15)あなたは聖書をそのようなものとして扱っておられますか。聖書を読むとき,神の「聖なる書」にふさわしい尊敬と敬意とをもって,書かれている事柄を考慮されますか。

      ほかにも,エホバの奉仕のために聖別されたゆえに,神聖とされるものがあります。たとえば,イスラエル国民に対する神の律法の下では,最初に生まれた雄の牛・羊・やぎはエホバにとってみな神聖なものとされました。(民数 18:17-19)同様に,犠牲の壇・そそぎの油・特別の香・供えのパンその他,神の崇拝に深い関係を持つ物も,エホバの命によって神聖なものとされました。―出エジプト 29:37; 30:25,35,37。サムエル前 21:4。

      しかし,それらの物がそれ自体神聖さを備えており,お守りや物神としての価値があるという意味ではありませんでした。たとえば,神聖な物の中でも特に重要な契約の箱は,エリのふたりのよこしまなむすこがペリシテ人との戦いに持ち出した際,なんの守りにもなりませんでした。―サムエル前 4:3-11。

      エホバにとって神聖なものはすべて聖なるものであり,エホバのしもべであるイスラエル人は,それらを軽々しく考えたり,一般のつまり世俗の用に供してはなりませんでした。その一例として什一に関する律法があります。ある人が,たとえば,小麦の収穫の什一を別に取っておいたとします。ところが,家族のだれかが,それと知らず,その什一の幾らかを家庭用に,たとえば料理に使った場合,その人は神聖な物事に関する神の律法を破る罪を犯すことになりました。それはささいな事柄として,簡単に見過ごせましたか。

      それはとんでもないことでした。その人は,羊の群れの中から,傷のない雄羊を取って犠牲としてささげることに加えて,誤って使用したものの相当量に20%を加えて,聖所に償いをささげるよう神の律法によって要求されました。その結果,エホバに属する神聖な物事に対する深い,尊敬の念がはぐくまれました。(レビ 5:14-16)このことから,今日のわたしたちはエホバの奉仕に関連して用いられるものは,ふさわしい尊敬の念をもって扱わねばならないということを銘記すべきではありませんか。

      イエスと,クリスチャンの「聖なる者」たち

      エホバとの関係のゆえに,エホバの天使たちも神聖です。(マルコ 8:38。ルカ 9:26)しかし,それら天にいる者たちの長は,特別な意味で神に仕える聖なる者です。彼の神聖さは,ひとり子としてエホバによって創造されときに,御父から来たものです。(ヨハネ 1:1,14)後日,この者の人間としての,きたるべき誕生と,その名が「イエス」と呼ばれることとをマリヤに告げた天使ガブリエルは,「生れ出る子は聖なるもの」であるとマリヤに語りました。―ルカ 1:31,35,口語。

      イエス・キリストは天にいる間,神聖なかたであったばかりでなく犠牲の死に至るまでの地上の生がいにおいても,その神聖さを保持されました。(使行 3:14。ヘブル 7:26)その結果,地上の他の人々が神聖さを得,神に対してイエスが保たれたと同じ義の立場をかち得ることを,神は可能にされたのです。以前にはよこしまなわざのためにけがれていた者が神聖さをかち得ることについて,聖書はこう述べています。

      「汝らもとは悪しき業を行ひて神に遠ざかり,心にてその敵となりしが,今は神 キリストの肉のからだをもてその死により汝らをして己と和がしめ,潔くきずなく責むべき所なくして,己の前に立しめんとし給ふなり。汝らもし信仰に止り,これに基きて堅く立ち福音の望より移らずば,かくせらるることを得べし」― コロサイ 1:21-23。

      したがって,それらの人々の神聖さは,自分自身の功績のゆえにみずからのものとなるのではなく,イエス・キリストを通して彼らにもたらされるのです。(ロマ 3:23-26)彼らが神聖さを得るのは,キリストのあがないの犠牲に対する信仰の結果です。(ピリピ 3:9。ヨハネ第一 1:7)神は彼らのために直ちにイエスの犠牲の価値を適用し,彼らの罪のすべてを許し,次いで,ご自分の定めによって,彼らに人間としての完全さを帰されます。彼らは,エホバの油そそがれた者,イエス・キリストの霊的な兄弟となり,「聖なる者」,あるいは「聖徒」と呼ばれます。―ロマ 15:26。エペソ 1:1。ピリピ 4:21,新。これらの聖句を欽定訳と比べてごらんなさい。

      会衆の生きている成員を,「聖なる者」あるいは「聖徒」と述べている多くの聖句から明らかにされるように,ある人が「聖なる者」あるいは「聖徒」にされるのは,人間や組織によるのではありません。また,そのような人は死後はじめて「聖徒」にされるのでもありません。キリストとともになる共同相続者としての,神からの召しのゆえに「聖なる者」なのです。その人は地上にいる間,神の目に神聖であり,エホバ神とその御子が,神聖な天使たちとともに住まわれる霊的な領域で,天の命を得るという希望をいだいています。―ペテロ前 1:3,4。

      他の忠実な人々の神聖さ

      聖書では,他の人々も神聖な者として述べられています。キリスト教時代以前のイスラエル全国民は,神に選ばれ,聖別され特別な資産として独占的な契約関係に導きいれられていたために,神聖なものとみなされました。(出エジプト 19:5,6)ペテロが「神に望を置きたる潔き女たち」について語っているのはそのためです。(ペテロ前 3:5)それらの人々は,神の神聖な証人の間に数えられたゆえに神聖な者とみなされたのです。

      同様に,忠実なるクリスチャンからなる『大いなる群衆』が今日いますが,彼らは,天の命への「聖なる召し」を受ける,14万4,000人の「聖なる者」の中には含まれていません。(テモテ後 1:9)それにもかかわら,ず神の天の御国の統治の下で,とこしえの命を得ることを期待しているこの『大いなる群衆』は,「こ羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者」として描かれています。(黙示 7:3,4,9-15)これは神の前における彼らの立場,つまり義なる者としてみなされていることを表わしています。そしてこのゆえに,彼らは,急速に近づいている現代の邪悪な事物の体制の崩壊を無事に通過することができるのです。

      しかしながら,『大いなる群衆』は,天への希望を持つ人々とは違って,人間としての完全さを帰せられていないために,聖書は彼らを「聖なる者」とはみなしていません。そうではなく,彼らは人間としての実際の完全さと神聖さとを最終的にかち得ることを待ち望んでいます。

      神聖さを保持する

      神の前に立場を得る,油そそがれた「聖なる者」と『大いなる群衆』は,両者とも神の前に純粋で清い歩みを保たねばなりません。彼らは「信仰に止り,これに基きて堅く立ち」,受け入れた「福音の望より移ら」ないようにする必要があります。(コロサイ 1:23)それには,神の真理のみことば聖書を定期的に研究し,それを生活に当てはめることが必要です。(ペテロ前 1:22)彼らはまだ不完全であやまちを犯しがちなので,エホバの訓戒に応じなければなりません。

      聖さを守り通す上での訓戒の果たす役割について,使徒パウロは次のように説明しています。「我らの肉体の父は,我らを懲しめし者なるになほこれを敬へり,まして〔霊的な命〕の父に服ひて生くることをせざらんや。そは肉体の父は暫くの間その心のままに懲しむることをせしが,〔霊的な命〕の父は我らを益するために,その聖潔にあづからせんとて懲しめ給へばなり」。(ヘブル 12:9,10〔新〕)したがって,神の神聖さにあずかろうとするそれら「聖なる者」は,謙そんに神の訓戒を受けいれ,それに服さねばなりません。そして,神の前における立場を保持するため,『大いなる群衆』にも同様なことが必要です。

      クリスチャンは,「肉と霊とのけがれより全く己を潔め,神を畏れてその清潔を成就す」るようにとさとされています。(コリント後 7:1)あなたはそうしておられますか。肉体をけがしたり,そこなったりするようなことを常習にし,教理や道徳の面で聖書に反する言行に走るクリスチャンは,神聖な道から遠ざかっており,実際には神を愛しても恐れてもいないことを示しているのです。これはきわめて重大な事柄です。

      天の命への「聖なる召し」を受けた,油そそがれたクリスチャンは,エホバのための,生きた石から成る神聖な宮になります。彼らは「大なる祭司・潔き国人・神に属ける民」を構成します。(ペテロ前 2:5,9)では,宮級に属する一員が不品行を常習にするなら,どういうことになりますか。言うまでもなく,その人は神の宮をけがし,取りこわしていることになります。そして,神はこう言っておられます。「人もし神の宮をこぼたば神かれをこぼち給はん。それ神の宮は聖なり,汝らもまたかくのごとし」。(コリント前 3:17)そうです,エホバにとって神聖なものを誤用する者は,どんな人であろうと,神からの刑罰を受けます。

      ご自分の神聖な所有物が乱用されると,エホバはどのような態度を取られますか。それは,同様の罪を犯したバビロニア人にエホバが課した厳しい刑罰から明らかです。ベルシャザル王は,エホバの宮のものであった神聖な器皿を運び込ませ,酔いしれた,宴会の出席者たちに使用させて,それらを汚しました。その同じ夜,エホバは突然の破滅を彼らにこうむらせました。(ダニエル 5:1-4,22-31)このことは,エホバの「聖なる者」,すなわちイエス・キリストの霊的兄弟に愛をもって親切に接するようにとさとす,聖書の助言に今注意を払うことがいかにたいせつかを示すものです。―マタイ 25:40,45。

      ご自分の油そそがれた「聖なる者」および『大なる群衆』の成員が,両者とも純粋で清い道を歩み続けることを,エホバが期待しておられるのは明白です。そのような神聖な行状が,神のしもべすべてに要求されています。ですから,聖書の次の助言に従うよう努力するのは賢明なことです。「従順な子供として,かつて無知のゆえにいだいていた欲望にしたがって形造られるのをやめ,むしろあなたがたを召された聖なるかたにならい,あなたがた自身も自分のすべての行ないにおいて聖なるものとなりなさい」― ペテロ前 1:14,15,新。

  • 『すべての国の人々を弟子とする』
    ものみの塔 1970 | 8月1日
    • 『すべての国の人々を弟子とする』

      エホバの証人の1970年度年鑑より

      ジブラルタル

      人口: 24,680人

      伝道者最高数: 38人

      比率: 649人に1人

      聖書の教えの反対者と思われる,職場の同僚に証言すべきですか。昨年バプテスマを受けたひとりの兄弟の次のような経験は,その答えとなります。「わたしはエホバの証人と,証人のわざに反対していました。わたしの勤め先の同僚のひとりがエホバの証人になって,他の従業員の何人かと聖書の真理について話し合うようになり,その話を聞かないようにするには事務所を出る以外に道がなかったので,わたしはその話を聞いていました。そして,彼の教えに反対する効果的な反論を司祭から得たいと考えながら,いくつかの質問をしました。ところが,わたしの教会の司祭もわたしも,エホバの証人の教えをくつがえす有効な反論を持ち出すことができませんでした。しばらくして,この同僚はわたしに,ひとりのエホバの証人と数人の牧師がキリスト教の教義について討論した,ラジオ番組の録音を聞いてほしいと言いました。それを聞いて深い感銘を受けたわたしは,家庭聖書研究をしてもらいたいと申し出ました。このことは,とりわけわたしの家族に大問題を引き起こしました。一番の反対者はわたしの弟でした。わたしは弟に,強硬な立場を取る前に,問題を調べ,聖書がなんと述べているかを検討するように勧めました。弟は考え深い若者だったので,わたしの勧めに応じました。そして,今では,聖書研究をしており,すべての集会に出席し,野外奉仕に参加できるようになることを切望しています。わたしの妻は,ロンドンの国際大会でバプテスマを受ける計画を立てており,今では義理の父さえ聖書を学んでいます。

  • おぼえていますか
    ものみの塔 1970 | 8月1日
    • おぼえていますか

      あなたは最近の「ものみの塔」誌を注意深くお読みになりましたか。そうであれば,次の重要な点がおわかりになるでしょう。

      ● 神のみことばが人の心に植えられるためには,人は柔和でなければなりません。なぜですか。

      土にたとえられる,人の心と思いが誇りのために岩のように堅いなら,みことばを植えることはできない。―204ページ。a

      ● マタイ伝 24章21,22節(新)にしるされている「大かん難」の現代における成就は何を意味していますか。それはいつ起きることになっていますか。

      偽りの宗教の世界帝国(キリスト教世界をも含む)の滅びと,バビロン的な宗教を支持する政治的な同盟者に対する,ハルマゲドンにおける『全能の神の大いなる日の戦い』を意味する。この「大かん難」はまだ先のこと。―241ページ。

      ● イエス・キリストの処女降誕を信ずるのは不合理ではありません。なぜですか。

      聖書はそれを事実として述べており,またそれは,あがないその他の聖書の教えと調和している。女を設計し,子どもを産む能力を女に与えられた創造者が,聖霊によってひとりの女をみごもらせることも可能であると考えるのは理にかなっている。―304ページ。

      ● 箴言 21章2節には,「エホバは人の心をはかりたまふ」と書かれています。これは何を意味しますか。

      心は人の奥深くにあるものを表わす。エホバはわたしたちの外見だけでなく,心の状態をも見られる。―309,310ページ。

      ● 「知識」と「理解」はどのように異なりますか。

      知識とは,観察や経験また研究を通して得られる事実を知ることであり,理解とは,事実を,相互に関係をもつものとして把握することであり,物事の理由を見定めることを意味している。―333ページ。

      ● 若いクリスチャンが悪い事をひそかに行なうよう誘惑された場合,何を思い起こすのはよいことですか。

      神の目から隠れてひそかに行なえることは一つもないことを思い起こすべきである。―373ページ。

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