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    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第1章

      聖霊の超人間的な源

      1 男と女が最初に相会した時,そのエデンの園に聖霊が働いていたと言えるのはなぜですか。

      男と女が最初に相会した時,その二人はある種の力を感じました。互いを引き寄せる力です。二人はすぐ,互いに対して愛を持つようになりました。裸であり,衣をまとっていなかったとはいえ,この最初の人間男女は聖なる者でした。つまり,体も思いも心も,明るく,清く,純潔,また完全でした。そのゆえに,二人は何ら当惑を感じず,また自分たちの創造者なる神との間に何ら妨げのない関係を持つことができました。両人はその創造者なる神に対し,清く聖なる場所においてその子供としての関係を楽しむことができました。それは清純な楽しみの場所であり,エデンの園すなわち楽しみのパラダイスと呼ぶにふさわしい所でした。その周囲にあって二人に影響を与えるすべての物は,健全かつ優良でした。聖なる霊,すなわち神の聖なる活動力がその所の隅々に働いていたのです。

      2 聖霊の源はどのような意味で超人間的な存在でしたか。

      2 その男と女,すなわちわたしたちの最初の地的な親は人間でした。つまり,地上のものであり,この地上に見いだされる物から成っていました。しかし,神なるその創造者についてはどうでしたか。その方は当然,人間を超越した存在であったはずです。創造者は天的実在者として,人間より無限に高い地位にありました。また,理知ある者という点でも人間より高い地位にありました。簡単に言うと,創造者は人間より優れた成り立ちを有していました。創造者が人間の目に見えないのはそのためであり,人間の視覚はその有効範囲に限りがあるのです。こうして,最初の人間男女は,自分たちの創造者,命の与え主,自分たちの天の父を見ることはできませんでした。その超人間的,天的,不可視的存在のゆえに,創造者は,わたしたちが今日「霊」と呼ぶべきものでした。また,その被造物なる人間と同じく独立した人格的存在者ですから,創造者のことは,『霊者』と呼ぶこともできます。極めて際立った意味で創造者は霊であり,また聖なる霊の見えない源でもあられます。創造者ご自身聖なる方であられるからです。

      3 創世記 1章1節はだれの活動について述べるものですか。

      3 わたしたちの地球とその周囲をなす天が存在する以前から,この霊者なる方は存在し,活動しておられました。人間の始まる以前にまでさかのぼって歴史的記述を提出している聖なる書は,次の明確な言葉をもってその記述を始めています。「初めに神は天と地を創造された」― 創世記 1章1節。

      4,5 神はどこか地上の特定の場所にある人間製の建物などで崇拝すべきものでないのはなぜですか。

      4 このように創造を行なう神は,自らの創造した天より高い存在であり,そのゆえに地上の人間より一層高い地位にあります。こうして神は本質において,あるいはその成り立ちにおいて霊であられます。人間の創造より幾千年も後のこと,真のキリスト教の創設者となった方は,まさにその点に注意を促しました。古代サマリアのゲリジム山のふもとにあったある井戸の傍らで,彼はサマリア人の女にこう語りました。「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければならない」。(ヨハネの福音書 4章24節)この真の神は,地上のどこか特定の場所にある人間製の宗教建築物の中で崇拝されねばならないわけではありません。中東のエルサレムについても同じです。上記の言葉が語られてまだ20年もたたないころ,キリスト教の一使徒はアテネ市の最高法廷に立ちました。その市には,人々の崇拝する多くの神々や女神にささげられた沢山の神殿がありました。彼はこう述べました。

      5 「世界とその中のすべてのものを作られた神,このかたは実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられるからです。そして,ひとりの人からすべての国の人を作って地の全面に住まわせ(ました)」― 使徒 17:24-27。

      6 エルサレムに最初の神殿を建てた人は,神の崇拝に関してその点を知っていたことをどのように示しましたか。

      6 これに先立つ一千年以上前,人間と地球を超越した霊者なる真の神に関するこの事実は,中東のエルサレムに最初に神殿を建てたことで知られるその建築者によっても認められていました。神の名のために自分が建てたその神殿を献納するにあたり,時のエルサレムの王は,神への祈りの中でこう述べました。「それにしても,神は果たして地の上に住まれるでしょうか。ご覧ください,天も,天の天も,あなたをお入れすることはできません。まして,私の建てたこの家などなおさらです!」―列王上 8:27。

      あらゆるエネルギーの源なる神

      7 どのような意味で「天の天」も神を収め入れることができませんか。

      7 上述の言葉を語った人,つまりダビデ王の息子ソロモンは,紀元前の時代の最も知恵ある自然科学者でもありました。天の天といえども,自分がそのために神殿を建てた神を収め入れることはできないと述べた彼は,科学上の真理を語っていたのです。わたしたちの住む地球は宇宙の微小な部分であり,科学者たちはその宇宙の果てに達することはできず,今日の最も強力な望遠鏡をもってしてもその果てを見ることはできません。しかし,いまだその広さを測り得ない宇宙でさえ真の神を収め入れることはできません。それは神の働きを制限したり限定したりすることはできないのです。現在の宇宙にすでに存在するもの,見えるものであれ見えないものであれ,真の神はそのすべてを凌がしています。それを越えて進み,さらに別のものを創造して宇宙を拡大し,その今日の境界の外へ,限りない空間の中へと広げてゆくことができるのです。これは何を意味していますか。

      8 創造者の神としての地位はどれほど続きますか。創造者にとって不可能な事がないのはなぜですか。

      8 つまり,神は時間にも空間にも拘束されない,ということです。その過去の命は無限にわたっています。その将来の生命も限りがありません。この無限の存在者に対して,クリスチャン時代以前の際立った立法者モーセはこう述べました。「実に定めのない時から定めのない時に至るまであなたは神です」。(詩 90:2)この神は無窮に生き,現存する宇宙を越えて産出と創造を続け,それを拡大してゆかれます。これは,この方があらゆるエネルギーの底知れぬ蓄えを有しておられることを示しています。宇宙のすべての物は,この方からのエネルギーの微小部分を集め固めたものであると言えます。それが集められて大小の物体をなしています。20世紀の科学者アルバート・アインシュタインはこれに関する次の公式を発見しました。すなわち,エネルギーは質量に光速の二乗を掛けたものに相当します(E=mc2)。ゆえに,あらゆるエネルギーの源なるこの方にとって不可能な事がないのも不思議はありません。

      9,10 神が星の軍勢を「その数を数えて」引き出し,その一つも「欠ける」ことがないというのはどういうことですか。

      9 例えば,この方がご自身についてなされるほとんど信じ難いまでの主張について考えてください。わたしたちの目を上げて夜空を見,そこにきらめく星をながめるようにと誘いつつこう言われます。「あなたがたの目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか。それらの軍勢を実に数によって引き出している者であり,彼はそのすべてを実に名で呼ぶのである。あふれる動的勢力[動的エネルギー,新世訳字義]のゆえに,また彼は力に勢いが満ちているゆえに,それらの一つとして欠けてはいない」― イザヤ 40:26。

      10 今日の天文学者は,その最も透過力のある望遠鏡をもって自分たちの視界内にようやく移し得る星の数を推計するにすぎません。天と地の創造者の場合はそうではありません。「(彼は)星の数を数えておられ,それらすべてをその名で呼ばれる」。(詩 147:4)創造者は天の星のすべてを大規模な軍隊になぞらえています。そして,この軍隊にどれほどのものが入っているかを知っておられます。しかも,この軍隊の各成員の名をも知っておられるのです。記憶している名前によって順にその点呼を行なうこともできます。その点呼を行なう時,この星軍の一員といえどもそれに答えないことはありません。各員は呼ばれる自分の名に答え,自分の持ち分に関して言い開きをします。創造者はその各員がそれぞれの創造された目的を遂行しているのを見届けます。その一つとして欠けることはありません。

      11 創造者が衰えたり,宇宙を古び衰えさせたりすることがないのはなぜですか。

      11 神の持たれる「あふれる動的勢力」はまさに計り知れません。それは尽きることがないのです。太陽は水素爆弾の爆発に似た原子核反応の炉となっていますが,わたしたちのこの太陽に組み込まれたエネルギーについて考えるだけでも,わたしたちはただ驚嘆させられます。そして,わたしたちの太陽より大きなものを数多く含む幾十幾百億という星について考えるとき,この星を散りばめた天に表明される,神からの動的エネルギーの流れについて多少とも概念を得ます。この神の力が衰えたり,尽きたりすることはないのです。その事にふさわしく,次の言葉が語られています。「彼は疲れた者に力を与えており,動的勢力のない者に対しては十分に偉力を富ませてくださる」。(イザヤ 40:29)神は,わたしたちのこの拡大する宇宙が古びたり衰えたりすることを許しません。それは永久にとどまって,その創造された目的どおりになります。星を観察した古代のある人は詩的な表現の中でこう述べました。「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業を語り告げる。日は日に次いで言語をほとばしりいだし,夜は夜に次いで知識を示す」― 詩 19:1,2。

      12 人が神を無視したり,神に対する責任を言い逃れたりする正当な理由がないのはなぜですか。

      12 神が人の目に見えないというのは,わたしたちにとって幸いなことです。しかしそれでも,神はご自分の存在についてわたしたちに十分の証拠を与えておられ,人類世界は,神の存在また神に対する人間の責任について,これを否定したり無視したりする言い訳はできません。一聖書記述者はこう書きました。「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言いわけができません。彼らは,神を知りながらそれを神としてたたえ(ないのです)」。(ローマ 1:20,21)すべての証拠を前にして,人は,神は存在しないとか,「神は死んでいる」などと言いおおすことはできません。神は依然生き,あらゆる躍動するエネルギーを持ち,その明言された目的を遂行するための完全な記憶を備えておられます。その目的は今や6,000年にわたって言明され,また宣明されてきました。これはわたしたちにとってまことに喜ばしいことではありませんか。

      13 動的エネルギーに加えて,神はさらにどんなものの源ですか。なぜ?

      13 現代の科学者たちは神が今日働くあらゆるエネルギーの源であることを否定するとしても,わたしたちはそれと同じ見方を取りません。わたしたちは,神がある別のもの,科学者たちがそれについて何も知らず,そのゆえに否定するあるものの源でもあることを知っています。それは何ですか。それは「霊」です。そして,神が霊の源であるというのはいかにももっともなことではありませんか。イエス・キリストが19世紀前に指摘したとおり,「神は霊であられる」のです。―ヨハネ 4:24。

      14 「聖霊」とは何ですか。それを与えるのはだれですか。

      14 神から,見えない活動力が出ます。神はそれをもってご自分の意志を遂行します。それは,人がその強力な個性によって他の人に及ぼすただの感化力のようなものではありません。それは活動する力であり,聖なる神,すなわち絶対的な意味で清くかつ義にかなった神から発せられるものです。神は聖なる物事の遂行のためにそれを送り出します。ゆえに,それを「聖霊」と呼ぶのは当を得ています。記された神の言葉の中でそのように呼ばれています。イエス・キリスト自ら,神が聖なる霊の源であることを認めていました。その証拠として,イエスは父親である人々に対してこう語りました。「あなたがたが,邪悪な者でありながら,自分の子どもに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです」― ルカ 11:13。

      15 わたしたちはダビデ王と同じようにどんな霊が自分に働くことを願いますか。

      15 キリストの先祖で王統に属したある人も,神が聖なる霊の源であることを認めていました。その事は,その人が自分の悪行を神の前に言い表わしてゆるしを請い求めた際にはっきり示されました。こう語りました。「あなたのみ顔の前からわたしを捨て去らないでください。そしてあなたの聖霊を,ああ,わたしから取り去らないでください」。(詩 51:11)このダビデ王にとって,聖霊が与えられなくなるというのは,その源である方との関係を断たれるという意味でした。その事の結果は極めて深刻かつ惨めなものとなります。今日のわたしたちも,神が存在し,聖霊の源であられるとの信仰を抱き,かつそれを求めるなら,神はそれを得られるようにしてくださるのです。わたしたちは,その力が自分に作用することを願うではありませんか。わたしたちがそうした願いを抱くなら,神はわたしたちを通して多くの善を成し遂げ,はなはだ聖ならざるこの世にあってわたしたちを聖なる者として保ってくださるのです。

      一つの力であり,人格的なものではない

      16 「霊」と訳されるヘブライ語が極めて表現力に富むものであることはどのように示されていますか。

      16 記された神の言葉なる聖書の中で,神から出るこの見えない活動力を表わすために選ばれた用語は非常に適切であり,それがどのようなものであるかをよく表現しています。聖書の巻頭の書の中で,それはルーアハと呼ばれています。その聖書の最初の書の最古のギリシャ語訳は,それをプニューマと呼びました。ヘブライ語ルーアハには行為また運動の概念が含まれているので,英語の翻訳者たちは,それを,「突風,呼吸,微風,大あらし,風,活動力」,また「霊」などの意味に訳出しました。このヘブライ語がどのような背景で用いられているかを見ることによって,それを「霊」と訳すべきか,あるいは他の語が当てられるべきかが判断されます。

      17 「アメリカ訳」は創世記 1章2節で「神の霊」という言葉の代わりにどのような語を用い,ルーアハについてどんなことを示していますか。

      17 例を挙げると,ルーアハという言葉は聖書の第二番目の節の中に最初に出て来ます。それは別の言語にどのように訳出されるべきでしょうか。英語世界で広く用いられている欽定訳聖書の中で,創世記 1章1,2節はこうなっています。「初めに神は天と地を創造された。地は形がなく,空漠としていた。神の霊が水の表を動いていた」。一方,1939年シカゴ大学版権取得の「アメリカ訳」ではこうなっています。「神が天と地を創造し始めた時,地は荒涼たる所で,闇が深みを覆い,あらしのような風が水の表に吹き荒れていた」。この所では,「霊」という言葉の代わりに「風」という語が用いられ,「神の霊」という言葉は「あらしのような風」と訳出されています。こうして,上記のアメリカ訳は,ルーアハという言葉に,見えないながら運動もしくは作用するものという意味のあることを示しています。

      18 「新世界訳聖書」は,人格的存在としての「霊」が水の上を動いていたのではないことをどのように示していますか。

      18 ルーアハとは活動する見えない力であるという点に注目して,「新世界訳聖書」は創世記 1章1,2節を次のように訳出しています。「初めに神は天と地を創造された。さて,地は形がなく,荒漠としていて,闇が水の深みの表面にあった。そして,神の活動力が水の表面をくまなく動いていた」。こうしてこの翻訳は,先の「アメリカ訳」と同じように,人格的存在としての「霊」が地球全体を覆った水の上を見えない形で動いていたのではないことをはっきり示しています。まだ光を受けていないその水の表面をくまなく動いていたのは,神の非人格的な活動力であったのです。

      19 神の霊すなわち神の活動力が水の上をいたずらに動いていたのかどうかについて何と言えますか。

      19 この神からの見えない活動力が一体どのような形で表明されていたのかについて,わたしたちには分かりません。その初めの記録の中に詳述されていないのです。しかし,神の活動力がただいたずらに,何ら実際的効果もなく動いていたのでないことは確かです。それは,当時地球が包まれ,太陽からの光が地表全面を覆った水の深みの表に達することを阻んでいた宇宙塵の雲を除き去るために働いていたかもしれません。a

      20 神はどのようにご自身の目的を進めて,わたしたちの地的な先祖が「昼」の光によって物を見ることができるようにされましたか。

      20 いずれにしても,どれ程の期間かは述べられていないながら,神の活動力がこうして水の深みの表を右に左に動いたその後に,神からの次の命令が出されました。「それから神は,『光が生じるように』と言われた。すると,光が生じた。その後,神は光を良しとご覧になった。そして神は,光と闇との間を分けられた。そして神は光を昼と呼ぶことにし,闇のほうは夜と呼ばれた。それから,晩になり,朝になった。最初の日である」。(創世 1:3-5)こうして,神の神聖さにふさわしく,その活動力すなわち霊は,良い方向へ,良い目的にそって作用したのです。それは『聖なる霊』となりました。それによって神はご自身の目的を進め,わたしたちの最初の先祖が「昼」の光によって物を見るようにされました。

      21 神がご自分の聖霊を働かせてこられたその仕方を見るとき,どうしてわたしたちは詩篇 143篇10節の記述者と同じ感情を抱きますか。

      21 神の活動力について述べられているその最初の場合から,神はそれを人間の益のために用いてこられました。この点を認識する時,わたしたちはこの聖霊の天の源である方に引き寄せられます。幾千年にもわたるその働きに関する聖書の記録は,神がそれを常に聖なる方法で用いてこられたことを示しています。それは神の義なる目的に資してきました。わたしたちは,全能の神からのこの見えない活動力に逆らうことなど決して願うべきではありません。むしろ,次のように述べた聖書記述者と同様の感情を抱くべきです。「わたしにあなたのご意志を行なうことを教えてください。あなたはわたしの神です。あなたの霊は善いものです。それがわたしを廉潔の地に導き入れてくれますように」― 詩 143:10。

  • 見えない天の領域で活動する聖霊
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第2章

      見えない天の領域で活動する聖霊

      1 聖霊が見えない天の領域でどのように働いてきたかを知ることはわたしたちにとってなぜ大切ですか。

      見える物質的領域,すなわち人間が知る限りの宇宙において神の聖霊がどのように作用しているか,人はこの点に一層の興味を覚えるかもしれません。しかし実際には,見えない天の領域で起きている事柄のほうが人間の物事に大きな影響を与えてきたのです。近い将来,わたしたちの世代のうちに聖霊がどのように活動するかも,見えない領域で起きる事柄と結び付いており,人間にとって非常に重要な問題となっています。ゆえにわたしたちは,現在わたしたちに重要な関係を持つ事柄において聖霊がどのように働くかを理解することを願うべきです。

      2 詩篇 104篇29,30節は,人類が見えない天の領域に依存していることをどのように示していますか。

      2 現代的な考えを持つ人々は認めようとしないかもしれませんが,人類は実際のところ見えない天の領域に依存しています。仮に創造者なる神が地上のわたしたちからその顔をそむけ,わたしたちにとって言わば「死んだ」ものになるとすれば,わたしたちはどうなるでしょうか。聖書の詩篇作者は神に向かって述べた次の言葉の中でその点を正しく言い表わしました。「あなたがみ顔を覆い隠されると,彼らはかき乱されます。あなたが彼らの霊を取り去られると,彼らは息絶え,その塵へと戻ります。あなたがご自分の霊を送り出されると,彼らは創造されます。そしてあなたは地の表を新たにされます」。(詩 104:29,30)したがって,人間にとって主要な研究対象は人間そのものではなく,創造者なる神であるはずです。見えない天の領域に関して神が何事かを啓示してくださる限り,それはわたしたちの考察に値する重要な事柄となります。

      3 神は天においてただ独りで住み,適合する環境をなにも有していないと考えるのは,なぜ近視眼的,また道理に添わないことですか。

      3 『神は霊である』という点を常に覚えていましょう。(ヨハネ 4:24)したがって,神は霊の領域に住んでおられます。ただ独りで,適合する環境を持たずにですか。そうではありません。神が創造し得るのはわたしたちに見える物質界のものだけで,見えない天の領域の事物は創造していないと考えるとすれば,それは近視眼的,また道理に添わないことでしょう。そうした高い領域の事物は,わたしたち人間を含む物質的創造物より高度の成り立ちを備えているはずです。

      4 見えない天の領域が光を得るのにわたしたちの太陽に頼っていないのはなぜですか。

      4 神がこの物質界に置いた,美しく驚嘆すべきあらゆる事物を見るわたしたちは,神が霊の領域で創造された,壮大で栄光ある様々な事物についてただ想像するだけで畏怖の念に満たされます。そこでは,光を得るのに,わたしたちの太陽に依存するようなことはありません。そのところに夜はありません。光を発するもろもろの太陽の創造者自ら,天的な太陽,光の源となられるのです。文字通りにも,比喩的にも,また倫理的な意味でも,次の言葉は真実です。「神は光であり,神と共にはいかなるやみもありえません」。(ヨハネ第一 1:5)聖書筆記者ヨハネによる上記の言葉よりずっと以前に,詩篇作者は,創造者が昼の陽光のごとくに好ましく,慕わしいものであるとしてこう記しました。「エホバ神は太陽また盾であり,恵みと栄光を与えてくださいます。エホバご自身,とがなく歩んでいる者たちから善いものを何一つ差し控えられません」― 詩 84:11。

      5 神は見えない天の領域でご自分のもとにどんな者たちを有しておられますか。それらの者たちは人間とどんな点で異なっていますか。

      5 神はご自分のもと,見えない霊の領域に,霊的な成り立ちを持つ理知ある者たちを有しておられます。そのように考えるのは道理にかなう事ですが,それだけでなく,聖書そのものがそのことをはっきり証ししています。神はそれらの者と直接の接触を持つことができます。神はそれらの者をご覧になりますが,それらの者たちもまた同じように神を見ることができます。より高度の超人間的な成り立ちを有していますから,彼らはただ神を見るだけで溶けたり,分解したり,滅び尽きたりすることはありません。彼らは神と直接の接触を持つことができ,神のおられるその所で神に仕えるのです。(ルカ 1:19)神が次のように言われたのは,み使いに対してではなく,人間に対してなのです。「あなたは,わたしの顔を見ることはできない。人は,わたしを見てなお生きていることはできないからである」。(出エジプト 33:20)神はご自分の預言者モーセに対してさえこう言われたのです。

      6 啓示 4章11節によると,神に同伴するそれらの霊者はどのようにしてそこに存在するようになりましたか。

      6 神に同伴するそれらの霊者はどのようにしてそこにいるようになったのですか。では,最初の人間夫婦はどのようにしてこの地上にいるようになりましたか。わたしたちは,天で神を崇拝する様を聖書筆記者ヨハネが幻の中で見た者たちの言葉をその答えとします。その言葉を引用すると次のとおりです。「わたしたちの主また神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるに値しています。あなたはすべてのものを創造されたからです。あなたのご意志によってそれらは存在し,創造されました」― 啓示 4:11,アメリカ訳。

      7,8 復活の日イエスは霊が何を持っていないことを語られましたか。イエスは自分を現わした時の体をどうされましたか。

      7 神は最初の人間夫婦を血肉の者として造りました。これに先だって,神はご自分の天の同伴者たちを霊の者,人間に勝る成り立ちを有する者として造りました。イエス・キリストは自分が死から復活した日に,この点を明らかにする言葉を語りました。彼はエルサレムのとある錠を下ろした部屋にいた弟子たちの前に姿を現わしました。これを行なうため,イエスは自分を物質化し,死んだ時と同じような体で現われたのですが,弟子たちは,霊を見ているのだと考えました。その時イエスは彼らに何と言いましたか。こうです。「霊には,あなたがたがわたしに見るような肉や骨はないのです」― ルカ 24:36-39。

      8 復活したイエスは,それら驚き惑う弟子たちと言葉を交わした後そこから姿を消しました。その身に着けた人間の体を非物質化もしくは分解したのです。その体とそれに伴った衣服を霊の領域に携えて行ったのではありません。そのようにすることが可能であったとすれば,天の霊者は,少なくとも栄光を受けたイエス・キリストは,肉と骨を有しているということになります。―コリント第一 15:50。

      9 神はご自分の天の同伴者たちを初めからどのようななりたちのものとして創造されましたか。

      9 これらのすべてを念頭に置いて,主なる神はご自分の天の仲間たちを初めから霊のものとして造りました。肉と血と骨を有した被造物の人間をこの地球から移し,見えない天の領域で自分のもとに共にいさせるようにしたのではありません。神が天においてどのような者たちを直接に創造したかを述べるものとして,クリスチャン使徒のパウロはこう書きました。「彼は自分の使いたちを霊とし,自分の公僕たちを火の炎とする」。(ヘブライ 1:7)ここで使徒パウロは,エホバ神が「ご自分の使いたちを霊,ご自分の奉仕者たちを焼き尽くす火とされる」という,詩篇作者ダビデの言葉を引用しています。(詩 104:4)こうして,記された神の言葉そのものが証しするとおり,神は人間だけでなく霊の被造物をも創造する力を有しておられます。

      10 創世記 1章26節は,霊者の創造が人間の創造に先立ったことをどのように示していますか。

      10 霊の被造物の創造は,人間の創造に先だってなされました。聖書の最初の章の中に明らかにされた神ご自身の言葉がそのことを示しています。そこにこう記されています。「次いで神は,『わたしたちの像に,わたしたちの様に似せて人を造ろう。そして彼らは,海の魚と,天の飛ぶ生き物と,家畜と,全地と,地の上を動いているあらゆる動く生き物を服従させるように』と言われた」。(創世 1:26)「わたしたちの像に,わたしたちの様に似せて人を造ろう」と言われた時,神は二位もしくは三位一体の神であるかのごとく自分自身に語り掛けていたのではありません。少なくとも他の一人の天的存在者,自分とは別個の者に語り掛け,地的被造物としての人間を産み出す業に加わるようその霊者に誘い掛けていたのです。

      11 ヨブ記 38章1-7節は,人間の創造の時,神のもとに他に複数の者がいたことをどのように示していますか。

      11 しかし,人間男女の創造のさい神と共にいた霊者はただ一人だけではありませんでした。地球さえまだ創造されない時に神の創造した霊者たちがいたのです。その点に注意を促されたのはヨブという,ウヅの地の忠実な人でした。神はその者にこう語りました。「わたしが地の基を据えたその時,あなたはどこにいたのか。悟りを知り得ているというのであればわたしに告げよ。知っているというのであれば,だれがその寸法を定め,……だれがその隅石を据えたか。その時,明けの星は共に喜び叫び,神の子らは皆称賛の叫びを上げた」。(ヨブ 38:1-7)神が人間男女を創造したのは創造の第六日目の終わりでしたが,上述の事はそれより幾千幾万年も前に起きました。(創世 1:27-31)したがって,それら喜びあふれた「神の子ら」は,最初に人間として地上にいて,後に神のおられる天に移された被造物ではありません。それらは,その存在の始めから神の霊の被造物でした。神は地の住民を取って天に移住させるということをされたのではありません。

      12 存在や力の程度という点で見ると,人間とみ使いはどのように異なりますか。

      12 それら神のような「神の子ら」は人間より勝っています。ゆえに詩篇作者ダビデは,神が天よりも高い存在であることを認めた後,さらにこう述べました。「死にゆく人間はいかなるものなので,あなたはこれを思いに留められるのですか。また,地に住む人の子はいかなるものなので,これを顧みられるのですか。あなたはまた,人を神のような者たちより少し低く造(られました)」。(詩 8:4,5)ここで言う「神のような者たち」とはだれのことですか。み使いたちです。聖書の一記述者は,詩篇 8篇5節を当てはめつつ,ヘブライ 2章6-9節で,「あなたは彼をみ使いたちより少し低い者とされました」と記したからです。したがって,存在また力の程度について言うと,人間はそれら「神の子ら」,それら天のみ使いたちよりも常に低い地位にあります。

      天の霊者たちの集会

      13 天での集会に関する最初の記録はどこに見られますか。それにおいて座長となったのはだれですか。

      13 それら「神の子ら」の集会が時おり催され,至高の神が彼らに対して座長となります。神はこの事を記されたみ言葉の中で明らかにしておられます。そのような天の集会に関する最初の記録はヨブ記の初めの二つの章の中に見いだされます。ヨブの生涯の早い時期のことについてこうあります。「真の神の子らが入って来てエホバの前に立つ日となり,サタンさえ来て彼らの中に入った。その時エホバはサタンに言われた,『あなたはどこから来たか』。これに対しサタンはエホバに答えて言った,『地を行き巡り,そこを歩き回って来ました』」。その何節か後,次の章の中で,エホバとその天の子らとの集会の模様がもう一度伝えられており,この時にも,サタンと呼ばれるさきの霊者がその機会を私的に利用しています。(ヨブ 1:6,7; 2:1,2)これらの集会は,わたしたちの目には見えないものながら,はっきりした目的を持つものであり,全能の神はそこでの秩序を保ちます。そこに出席する者は皆,自分がどこで何をしてきたかについて神に答えねばなりません。サタンという名は,それがエホバ神に対する際立った反抗者であることを示していますが,この者さえ敬意を示さねばなりません。

      14 ヘブライ 12章22-24節では,天でのどんな集会のことが述べられていますか。

      14 天にいる「神の[霊の]子ら」のそうした集会については,ヘブライ 12章22-24節の中にさらにこう記されています。「あなたがた[ヘブライ人のクリスチャンたち]は,シオンの山,生ける神の都市なる天のエルサレム,幾万ものみ使いたち,すなわちその全体集会……に近づいた」。これら幾万ものみ使いたちは皆,その天の父への忠実を守って,サタンの例に倣うことを拒み,天にある神の大きな家族をなしています。

      15 パウロはそのような天の家族についてエフェソス 3章14,15節の中でどのように述べていますか。その成員は互いに対してどんな関係にありますか。

      15 聖書筆記者パウロはこの天の家族について述べています。エホバ神を自分たちの天の父と認めるクリスチャンに手紙を書いた際,パウロはこう記しました。「このゆえに,わたしは父に対し,すなわち,天と地のあらゆる家族がその名を負うかたに対してひざをかがめます」。(エフェソス 3:14,15)家族はすべてその名を父に負っており,その名の品位と誉れにふさわしく生きなければなりません。ただ一人の父を共に有しているのですから,それら天にいる「神の子ら」はすべて兄弟の関係にあります。

      16 西暦前10世紀の後半,預言者ミカヤは天でのどんな集会の模様を幻で見ましたか。

      16 西暦前十世紀の後半にも天での集会が催されました。イスラエル人の預言者ミカヤはその幻を見ました。ミカヤはそれについて描写しつつ,同盟した二人の王,アハブとエホシャファトにこう語りました。「エホバの言葉を聞きなさい。わたしは確かに,エホバがみ座に座り,天の全軍がその傍らに,その右左に立っているのを見ました。それからエホバは言われました,『だれがアハブを欺いて彼を上って行かせ,ラモト・ギレアデで倒れさせるか』。すると,こちらの者はこのように言いだし,そちらの者はそのように言っていました。ついに,ひとりの霊が出て来て,エホバの前に立ち,『この私が彼を欺きます』と言いました」― 列王上 22:19-21。

      17 その時神の傍らにあった軍勢はどんな者たちで成っていましたか。

      17 邪悪な王アハブを欺いて戦いで自滅させるための良い策を提議したみ使いが「ひとりの霊」と呼ばれている点に注意してください。この事は,神の右と左にいたその「軍」の全員が同様に霊たち,すなわち理知を持つ霊の被造物であることを示しています。彼らはわたしたち人間とは異なっているのです。

      18,19 この20世紀に予定された,天でのどんな公判の模様をダニエルは幻で見ましたか。

      18 わたしたち今日の人間は,この20世紀に天で公判が催されるようずっと以前から定められていたことに気付いていますか。その事に関する奇跡的な幻が預言者ダニエルに与えられました。それは,今から2,500年以上も前,ダニエルがバビロンで捕囚となっていた時のことでした。彼はその幻を描写してこう記します。

      19 『我夜のまぼろしのうちに見しに その後第四の獣いでたりしが これは畏ろしく猛く大いに強く……我みつつありしに遂に座を置きならぶるありて日の老いたる者座を占めたり……彼に仕ふる者は千々 彼の前に侍る者は万々 審判すなはち始まりて書を開けり……我また夜のまぼろしのうちにみてありけるに 人の子のごとき者雲に乗りて来たり 日の老いたる者のもとに到りたればすなはちその前に導きけるに これに権と栄えと国とを賜ひて諸民諸族諸音をしてこれにつかへしむ その権は永遠の権にして移りさらず またその国はほろぶることなし』― ダニエル 7:7-14,文語。

      20 ダニエルの幻の中で「人の子」として高い誉れを付されているのは神の天の子たちのどの者ですか。

      20 このダニエルの幻の中に「人の子」のような者として出て来る者がいますが,天にいる神の霊の子らの中でこれほどに高い誉れを与えられている者がほかにいるでしょうか。いません。では,これは一体だれでしょうか。詩篇作者はそれを明らかにしています。詩篇 89篇26,27節でこう述べています。「彼自らわたしに呼ばわる,『あなたはわたしの父,わたしの神,またわたしの救いの岩です』と。また,わたし自身彼を初子として置くであろう。地のもろもろの王の至高者として」。神はダビデ王に対しその王統による永遠の王国の契約を結ばれましたが,エホバのこの言葉はそのダビデを指すものではありません。また,ダビデの王位継承者であるソロモンを指すのでもありません。これらの王はいずれもその父の初子ではありませんでした。(詩 89:28-37。サムエル後 7:4-17)後の種々の事実は,エホバがここで天におけるご自身の「初子」に預言的な形で言及しておられたことを示しています。それは,エホバ神が人間を創造する以前から定めのない時にわたって神と共にいた特別の子を指しています。

      21 啓示 3章14節によると,神は「初子」を生み出した時天に妻を有しておられましたか。

      21 その時神は天に妻など持っていなかったのにどうして「初子」を持てたのか,と問う人がいるかもしれません。その問いに対する答えとして,その「初子」であることを示した者自らこう語ります。聖書の最後の本,「啓示」の3章14節で彼はこう言います。「アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこう言う」。この言葉を語ったのは,復活して栄光を受けた主イエス・キリストです。彼は「忠実で真実な証人」であり,偽りを語ることはありません。彼は自ら,自分が「神による創造の初め」であると述べています。したがって,その最初の者を創造する以前に神が妻を有していたというようなことはありません。

      22 イエスは創造物の一つでしたが,神のことを自分の何と呼びましたか。

      22 イエスは『創造された』ものであり,母親を通して生まれた者ではありませんでしたが,それでも神のことを終始自分の父と呼んでいます。(啓示 3:21; 14:1)また彼は,その父のことを自分の神であるともしています。啓示 3章12節で彼はこう言います。「征服する者 ― わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱と(する)。……そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市……(の)名をその者の上に書く」。この言葉は,その復活の日に,空になった墓の近くで彼がマリア・マグダレネに語った事とも一致しています。「わたしの兄弟たちのところに行き,『わたしは,わたしの父またあなたがたの父のもとへ,わたしの神またあなたがたの神のもとへ上る』と言いなさい」。(ヨハネ 20:17)これは西暦33年ニサン16日のことであり,その三日前,彼は自分が付けられた苦しみの杭の上で,「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになりましたか」と叫んでいます。そして,その最期の時に,彼は,「父よ,わたしの霊をみ手に託します」と叫びました。―マタイ 27:46。マルコ 15:34。ルカ 23:46。詩 22:1; 31:5。

      独り子

      23 神の「独り子」として,イエス・キリストは神の創造物の中にあってどのような地位にありますか。

      23 ユダヤ人の支配者ニコデモに対する言葉の中で,イエス・キリストは自らのことをどのように述べていますか。こうです。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされ(ました)」。(ヨハネ 3:16)自分を神の「独り子」と呼んだイエスは,自分が神の「初子」であることを示していました。神の直接の創造,他のだれも参与することなく無から有を造り出すことは,この「初子」なる「独り子」をもって始まりかつ終わりました。イエスが自らのことを「神による創造の初め」と呼んでいるだけではありません。使徒パウロも同様の呼び方をして,「彼は見えない神の像であり,全創造物の初子です」と述べています。(コロサイ 1:15)したがって,神が「全創造物の初子」を創造したその後に存在するようになったものは皆他の創造物であり,その他のすべてのものの創造にあたり,神はご自分の「独り子」をお用いになりました。

      24 コロサイ 1章15,16節およびヨハネ 1章1-3節によると,他のすべてのものは神によりだれをもって創造されましたか。

      24 この考えを裏付けるものとして,使徒パウロはまず「全創造物の初子」について述べ,さらにこう語ります。「なぜなら,他のすべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも……彼によって創造されたからです」。(コロサイ 1:16)こうして今,わたしたちはヨハネ 1章1-3節にある,使徒ヨハネの次の言葉を理解することができます。「初めにことば[ギリシャ語,ロゴス]がおり,ことば[ロゴス]は神とともにおり,ことば[ロゴス]は神であった。この者は初めに神とともにいた。すべてのものは彼を通して存在するようになり,彼を離れて存在するようになったものは一つもない」。聖書の最後の本もヨハネによって書かれましたが,その中でもヨハネは,栄光を受けたイエス・キリストが,ことばなる神ではなく,「神のことば」という称号を担っていることを次のように示しています。「その称えられる名は神のことば[ロゴス]である」― 啓示 19:13。

      25 なぜまたどのような点でロゴスには「卓越性」がありましたか。

      25 「神による創造の初め」と呼ばれる者に対しては,神の「初子」,「独り子」としての尊厳と権利とが授けられました。「初子」として,この者には,後に来る「神の子ら」すべてに対する卓越性がありました。(コロサイ 1:18)その中には,天と地における他のすべてのものを存在に至らせるにあたって天の父のみ業に加わったことも含まれています。

      26 ロゴスによって存在するようになった霊の被造物がロゴスの子と呼ばれないのはなぜですか。

      26 それらほとんど無数の「神の子ら」を生み出すためにことばすなわちロゴスが用いられていた時,その父なる神からの聖霊は,彼の上にあり,彼を通して強力に働いていたに違いありません。それは彼と共にあり,また彼のために活動していました。その聖霊の働く様は,後に彼が地上の完全な人間となって奇跡的ないやしを行なった時と相通ずるものがあったでしょう。彼は,神の霊によって悪霊たちを追い出している,と語りました。(ルカ 11:20。マタイ 12:28)エホバ神の霊は天においてロゴスを通して同じように働いていましたから,そのロゴスを通して存在に至った「神の子」たちは,ロゴスではなく,エホバ神を自分たちの創造者また父とみなしました。それらはロゴスの子らとは呼ばれていません。「真の神の子ら」と呼ばれているのです。―ヨブ 1:6; 2:1; 38:7。

      27 人間の創造の際神はだれに語り掛けておられましたか。神がそのように提議されるのはなぜふさわしいことでしたか。

      27 こうして今明らかな点として,創造の第六日に「わたしたちの像に,わたしたちの様に似せて人を造ろう」と言われた時,神はご自分の「初子」,「ご自分の独り子」に語っておられたのです。(創世 1:26-31)神は,ケルブやセラフを含む天のみ使いたちの創造を思い立った際にも,このみ子に同じようにして語り掛けておられたかもしれません。エホバ神は至高者また万物の創造者であり,何を存在させるかを決定する者でした。み使いたちはこの創造者の子となるのです。その父となる者として,エホバは,天の霊の子らをいつさらに多く持つかについて,自分の意志を行使されました。エホバの霊がここにおける唯一の活動力であり,それによってさらに新たなものが存在するようになったのです。

      28 放逐されたアダムとエバは園の入り口のところにどんな「神の子」たちを見ましたか。そこに置かれた絶えず回転する剣を動かしていたものは何ですか。

      28 やがて,「神の子」なるケルブたちがエデンの園の入り口のところに見られるようになりました。これはなぜでしたか。最初の人間夫婦アダムとエバが神に反逆して,そのパラダイスの住みかから追い出されたためです。そのために,ケルブたちが園の入り口に置かれることになりました。その二人の罪人がその中に戻って死の刑罰に反するような行為に出ることを阻むためです。(創世 3:24)アダムとエバが見たものは物質化したケルブたちでした。「絶えず回りつづける剣」が園の入り口に置かれていましたが,それは明らかに神の聖霊によって動き続けていました。聖なる状態を離れた人間たちをそこに入らせないようにするためでした。

      29 イザヤは幻の中でどんな神の子たちを見ましたか。後にエゼキエルはどんな神の子たちを見ましたか。

      29 西暦前8世紀,預言者イザヤは「神の子」なるセラフたちを幻の中で見ました。それらセラフたちは神殿でエホバ神に仕えているところでした。(イザヤ 6:1-7)その次の世紀,バビロンにいた預言者エゼキエルは一つの幻を与えられ,その中で「神の子」であるケルブたちの姿を見ました。―エゼキエル 1:1-25; 9:3; 10:1-20; 11:22。

      30,31 神が使者として送り出す時ケルブたちが非常に速く飛ぶことを何が示していますか。彼らはどんな政府と結びついていますか。

      30 ケルブは「生き物」であり,神が使者として送り出す時には非常に速く飛ぶようです。ですから,助けを求める神への訴えに答えて,「彼はケルブに乗って飛び,霊者の翼に乗って突進して来られ(た)」と記されています。―詩 18:10。

      31 明らかに霊の領域においては,短時間のうちに膨大な距離を進まねばなりません。エルサレムのヒゼキヤ王は国家的な危機に臨んで神殿に行きましたが,長大な距離も彼に対する迅速な助けを阻むものとはなりませんでした。ヒゼキヤはこう祈りました。「万軍のエホバよ,ケルブたちの上に座しておられるイスラエルの神よ。ただあなたのみが,地のすべての王国の真の神です」。(イザヤ 37:14-37)ケルブたちはエホバ神に服しています。エホバはその上に座しておられるかのようです。また,ケルブたちはエホバの王国と結び付いています。それは,全人類が最も深刻な危機にひんしている時に,その速やかな救済をもたらすものです。この非常に幸いな事実と一致しているのは,預言的な意味の詩にある次の出だしの言葉です。「エホバ自ら王となられた。もろもろの民はかき立てられよ。彼はケルブたちの上に座しておられる。地はわななけ」。(詩 99:1; また 80:1)エホバがケルブたちに対して上位の立場にあることは,預言者モーセが命じられて造った契約の箱においてもよく示されていました。―ヘブライ 9:5。

      32 ケルブに対するエホバの地位はモーセのこしらえた黄金の箱においてどのように示されましたか。

      32 この黄金の箱もしくは櫃は神聖な品物を入れておくために用いられました。それには覆いがあり,その上には二つの黄金のケルブの像が翼を広げて,憐れみの座もしくはなだめの座を覆う形で置いてありました。この箱が幕屋もしくは神殿の至聖所に据えられると,奇跡的な光(シェキナの光)がケルブの翼の上方に現われました。(出エジプト 25:10-22。列王下 19:15)こうして,エホバがケルブの上方に座を占めてそこから指示を与えておられることが表示されました。モーセはこの点での自分の経験を次のように記しています。「さて,モーセが神と話すため会見の天幕の中に入ると,そのとき彼はいつも,証しの櫃の上にあるその覆いの上方,二つのケルブの間から彼と語る声を聞くのであった。こうして彼に語られたのである」― 民数 7:89。

      見えない活動の場所

      33 天は今日全地でなされている以上の活動の場所であると言えるのはなぜですか。

      33 天はのらくらと安逸に過ごし,のんびり動く雲の端に腰掛けて足をぶらつかせるような所ではありません。あらゆる存在領域において最も活動的な方,あらゆる躍動的エネルギーの中心的源である方がそこにいるのです。その方の聖霊は活動的な力として,見ることのできない天の全域に浸透しています。その領域に住んでエホバに仕えている者たちの活動は,わたしたちの地球の全域で今日なされているすべての活動をはるかに凌がしているに違いありません。宇宙の主権者エホバ神への奉仕においては,この地上で普通に可能な距離また地球から月までよりはるかに長大な距離を渡り行かねばなりません。この比較的小さな惑星である地球の物事に配慮を払うこと以外になさねばならない仕事が無数にあります。わたしたちの限られた視力では見えないからといって,そのゆえに天での活動に対して盲目になってしまうことはありませんように。それを信仰の目によって見るための根拠はことごとく備わっているのです。―ヘブライ 11:1,27。

      34,35 詩篇作者ダビデは天のみ使いたちのたち勝った能力を認めていることをどのように言い表わしていますか。わたしたち人間は彼らからどのような教訓を得ますか。

      34 主なる神の目的に添って,その天の子たちも極めて活動的な生活を送っています。彼らはわたしたち人間がするよりはるかに多くの事を成し遂げ得るのです。彼らはわたしたち人間を超越した存在です。その力の程は,わたしたちには計り知れません。聖書の歴史によれば,彼らは,聖霊の助けの下に,今日の科学も説明し得ないほどの事を行なってきました。

      35 ダビデは彼らの超人間的な能力を認めました。彼らの働きに目を向けてダビデはこう語りました。「エホバを賛美せよ,ああ,あなたがたその使いたちよ。強い力を持ち,そのみ言葉を行なう者たち。み言葉の声に聞き従うことにより。エホバを賛美せよ,その軍勢を成すあなたがたすべての者よ。あなたがたその奉仕者たち,そのご意志を行なう者たちよ」。(詩 103:20,21)エホバのご意志を行なうにあたって,それら天のみ使いたちの軍勢は地上の人間の倣うべき優れた手本を示しています。それら強大な力を持つ超人間の被造物が,自分たちの創造者に仕えることを,自分たちの持つ資格から見て小さな事とはしていません。であれば,この地上に住む,薄弱短命のわたしたち人間は,どうしてうぬぼれと自尊を強くし,エホバ神に反逆し,エホバに何の責任も感じないまでになってよいでしょうか。むしろわたしたちはエホバ神をほめたたえるべきなのです。

      36 聖霊は全天にわたってどのように表明されますか。そこでの一致が破られることがないのはなぜですか。

      36 神の独り子,またケルブとセラフとすべてのみ使いたちが唯一の生ける真の神に愛のうちに仕える時,神から出る聖霊は全天にわたって表明されることになります。神の霊がこれら忠節な者たちすべてに分け与えられることによってそこに産み出されるものは,エフェソス 4章3節の表現で言えば,『結合のきずなである平和のうちに守られる霊の一致』です。彼らは皆,至高の神エホバの下に協力し合っています。その多彩な務めにそれぞれ一致して携わることによって,彼らはまさにエホバへの崇拝を捧げているのです。そうした,奉仕と崇拝の面での一致は,悪霊たちといえどもこれを破ることはできません。

      37 神を崇拝し神に仕える面で天において率先しているのはだれですか。その事に対する認識は啓示 5章11-14節のヨハネの幻の中でどのように示されていますか。

      37 神に対するそうした不動の奉仕と崇拝を捧げる面で率先しているのは,エホバの「初子」,その「独り子」です。この者は,かつてこの地上においては,犠牲の子羊となって仕えることもいといませんでした。そして,そうした自己犠牲の行為に対して,わたしたちクリスチャンに劣らぬ認識を言い表わしているのは,忠実な天の衆群です。その点を確証するものとして,使徒ヨハネは天の光景に関する一つの幻を与えられました。それは,今,この20世紀に成就を見るものです。次のとおりです。

      「それから,わたしが見ると,み座と生き物と長老たちの回りにいる多くの使いたちの声が聞こえた。彼らの数は数万の数万倍,数千の数千倍であり,大声でこう言った。『ほふられた子羊は,力と富と知恵と強さと誉れと栄光と祝福を受けるにふさわしいかたです』。そして,天と地と地の下と海の上とにいるあらゆる被造物,およびそこにあるすべてのものがこう言うのが聞こえた。『み座にすわっておられるかたと子羊とに,祝福と誉れと栄光と偉力がかぎりなく永久にあらんことを』。すると,四つの生き物は『アーメン』と言い,長老たちはひれ伏して崇拝した」― 啓示 5:11-14。

      38 そうした幻を見るわたしたちはどんな選択をするべきですか。どうすればわたしたちも聖霊の恵みにあずかることができますか。

      38 今地上に,そう,この地表にいて,まだ「地の下」の埋葬の場所に入っていないわたしたちについてはどうですか。わたしたちにはなすべき選択があります。数万の数万倍を数える聖なるみ使いたちに加わって子羊にも似た神のみ子に当然の誉れを帰し,かつ座に座っておられる方なるエホバ神に心からの献身をすることによって,この預言的な幻の成就に自らあずかりますか。自らの意志でこの道を選ぶなら,栄光に輝く天の衆群と同じく,わたしたちもまた,あらゆる完全な贈り物の与え主なるエホバ神からの聖霊の恵みに浴することになります。―ヤコブ 1:17。

  • 現在の古い秩序の背後にある霊
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第3章

      現在の古い秩序の背後にある霊

      1 現在の古い事物の秩序に浸透してきた霊に関してどんな疑問がありますか。どんな結論を下さねばなりませんか。

      現在の事物の秩序は古くなっています。幾千年もの年月がたっています。その幾千年もの間,一つの霊が人間の事物の秩序に浸透してきました。それは聖なる霊でしたか。歴史の事実に全く目をつぶって,エホバ神からの聖霊が人間社会全般にわたってその営みもしくは生活様式を動かす見えない力となってきたと論ずる人はいないでしょう。この古い事物の秩序をずっと支え,それを動かしてきたのが聖霊であったなら,その結果は,今日の世界の実情とは大きく掛け離れていたことでしょう。

      2 (イ)この古い秩序と共に進む人々はどのような法律によって規制を受けることが必要ですか。(ロ)「肉の業」とは何ですか。「霊の実」には何がありますか。

      2 エホバ神からの聖霊が人々の生活に働く場合,それはその事をはっきり示す実を生み出します。実を生み出すための時間は十分にあったはずであり,生み出された実から判断しても,この古い秩序は神の聖霊の導きの下にはない,と言えます。この古い秩序と共に進む人類の大部分は,自分が,犯罪を意図する人々を対象として設けられた法律,ゆえに悪行を抑制することを定めた法律によって規制される必要のある者であることを示しています。1,900年前,そのような特色を持つ法典の下から抜け出た一人の人がいました。その人は自分の手紙の中で,さらに勝った誘いの力が必要なこと,そうです,現在の古い秩序とは異なることを願うなら,より強い力がわたしたちの生活に働く必要のあることを示しました。わたしたちには霊,道徳の面でこの古い世界秩序にはるかに勝り,人間社会のどんな立法者より優れた方から来る見えない活動力が必要なのです。その手紙の筆者は,わたしたちを正しく活動させることのできる聖なる力を指摘してこう述べました。

      「霊によって歩んでゆきなさい。そうすれば,肉の欲望を遂げることは決してありません。肉はその欲望において霊に逆らい,霊は肉に逆らうからです。これらは互いに対立しており,それゆえにあなたがたは,自分のしたいと思うそのことを行なえないのです。さらに,霊に導かれているのであれば,あなたがたは律法のもとにはいないのです。

      「さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,不品行,偶像崇拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がらです。こうした事がらについてわたしはあなたがたにあらかじめ警告しましたが,今また警告しておきます。そのような事がらをならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。

      「一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です。このようなものを非とする律法はありません」― ガラテア 5:16-23。また,テモテ第一 1:8-11もご覧ください。

      3 神の王国に伴う祝福を受け継ぐことを願う人々はどのような業を習わしにしませんか。

      3 全く対照的な事柄が挙げられているではありませんか。神の霊の実を生み出している人であれば,「肉の業」と呼ばれるものを習わしにしてはいないはずです。その人々は神の王国に伴う数々の祝福を受け継ぐことを誠実に願い見て,それを待望するのです。

      4 古い秩序の失態をわたしたちが指摘しなくてもよいのはなぜですか。その古い秩序が神の王国を受け継ぐように人々を助け得ないのはどうしてですか。

      4 しかし,現在の古い秩序についてはどうでしょうか。わたしたちがその失態をあえて指摘するには及びません。その事は,その新聞報道,各種の雑誌の記事,警察の記録,犯罪の増加による全般的不安,精神障害や恐ろしい性病のための費用のかさむ多くの病院,政治的緊張,および高まる世界的核戦争の脅威などによって既になされています。この古い秩序がいかに「肉の業」に満ちているかについては,さらに無数の証拠を挙げることができます。この古い秩序は,人々が「神の王国を受け継ぐ」ように助けることはありません。それは神の王国と何のかかわりもないのです。それは神からの聖霊に浸されても,またそれに動かされても支えられてもいません。それは決して聖なる所とはなっていません。そのうちのキリスト教世界と呼ばれる部分についても同じです。

      5,6 創造者の霊に反する事柄を行なおうとする,肉の生来の欲を神に帰することができないのはなぜですか。

      5 この古い秩序のどの部分についても,神の霊がその背部の力となっていないのはどうしてですか。人の肉体が神の霊に逆らう業を生来欲するというような事態はどうして始まったのですか。人間はそのスタートにおいてはそうでなかったはずです。その時,人の肉体は創造者の霊のもとに動かされていました。神は,新たに創造した肉体に,よくないもの,ご自身に反するものを付与されるはずは決してありません。神は悪の源ではないのです。預言者モーセは,義のための戦士として,人間の肉体に宿るよこしまな傾向に対する責任がエホバ神に帰すべきものではないことを明らかにしました。彼はこう述べました。「そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神であり,不正なところは少しもない。義にして方正であられる。彼らは自ら破滅を招く行ないをした。彼らはその子供ではなく,その欠陥は彼ら自らのもの」― 申命 32:4,5。

      6 人類の今持つ欠陥は神に帰せられるものではありません。神は最初の人間を完全なもの,神の創造の力の誉れとなるものとして創造しました。神には何の欠陥もありません。その独り子との協力のもとに,神は最初の人間を『その像に,その様に似せて』造りました。最初の人間アダムは神の完全性を反映する像であり,真にその像であるために,アダムは完全でなければなりませんでした。―創世 1:26-28; 2:7,8。

      7 アダムがエデンにいた時,神を幸福に感じさせるものとして天と地の間にどんな状態が存在していましたか。

      7 エデンのパラダイスの園において,最初の人間は神の聖霊のもとに歩みました。彼は時おり神との会話をしました。人間の目には見えないながらアダムに感知し得る方法で神はその美しいエデンの園の中を歩かれました。神と人との間には一致がありました。その時,天の事物と地上の事物との間には調和がありました。なぜ? 神の霊が全面的に働いていたからです。このすべてはエホバ神を幸福にしました。エホバは「幸福な神」です。―テモテ第一 1:11。

      8 わたしたちが今日地上に完全な事物の秩序を持っていないのはどんな罪の結果ですか。その罪を犯したのはだれですか。

      8 ここに,完全な事物の秩序,古びたり過ぎ去ったりすることのない事物の秩序が発展してゆくための基がありました。しかし今日,わたしたちのもとに,清く,義にかなった,完全な事物の秩序は存在していません。これはなぜですか。それは,聖霊に対する罪が生じたからです。それはだれが犯したものですか。イエス・キリストは,神の真理を告げる自分を殺そうとしていた人々に話した際に,それがだれであるかを明らかにしました。それら殺人を図る者たちに対してイエスはこう語りました。「あなたがたは,あなたがたの父,悪魔からの者であり,自分の父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理のうちにかたく立ちませんでした。真実さが彼のうちになかったからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であり,偽りの父だからです」― ヨハネ 8:44。

      9 罪を習わしにする者の霊的な父はだれですか。なぜ?

      9 聖霊に対して最初に罪を犯した者については,イエスの弟子のヨハネもそれがだれであるかを明らかにしています。ヨハネはこう書きました。「罪を行ないつづける者は悪魔から出ています。悪魔は初めから罪を犯してきたからです」。(ヨハネ第一 3:8)罪を習わしにする者は,それを始めた者を自分の霊的な父とすることになるのです。

      10 最初の偽り者はどのようにして自ら悪魔となりましたか。

      10 全創造物のうちのこの最初の偽り者はこうして悪魔と呼ばれていますが,これは,その者の偽りが神に対するものであったことを示しています。悪魔(デビル)という名には中傷者という意味があるからです。彼は真理を離れ,自らのうちに偽りの性向を育てました。神がアダムに告げたことを中傷的に反ばくしつつ,悪魔はアダムの妻エバに対し,禁じられた木の実を食べてもその刑罰は死ではないと論じました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその日にあなたがたの目が必ず開け,あなたがたが必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。(創世 3:1-5)この偽り者は自ら中傷者,悪魔となりました。それはことに神に関してでした。

      11 アダムとエバに罪を犯させて神の言葉の実施を阻むため悪魔はどのようにたくらんだと考えられますか。

      11 神の中傷者となったこの者は,禁じられた善悪の知識の木の実を食べてもアダムとエバは決して死ぬことはない,と保証することはできませんでした。彼の言葉は神の言葉ほど強力ではありませんでした。(ヘブライ 4:12。創世 2:16,17)しかし悪魔は,エホバ神を当惑的な事態に立たせることができると考えたのでしょう。ことに,神からの宣告が下される以前に,罪を犯したアダムとエバに「命の木」からも食べさせることができれば,神がその二人を死に処するのは一貫しないこととなるからです。―創世 2:9; 3:22,23。

      12 悪魔はどのようにして人殺しとなりましたか。彼の前途には何が控えていますか。

      12 こうした策動にもかかわらず,悪魔は結局のところ偽り者であることが明示されました。そのえじきとなった者たちは人間なる魂として確かに死んだからです。裁き主なるエホバ神は二人に死刑を宣告し,両人をエデンのパラダイスの園から追い出して「命の木」に近づけないようにしました。(創世 3:17-24)愛のない態度で最初の男とその妻の死を誘発したことによって悪魔は「人殺し」となりました。このために彼も死に処せられるべきものとなりました。キリスト教の基となった方の述べた次の定めが当てはまるのです。「だれでも,わたしを信じるこれら小さな者の一人に罪を犯させる者,その者にとっては,大きな臼石を首に掛けられて海に投げ込まれたならそのほうがよい」。(マルコ 9:42,米国改訂標準訳)まさにそのとおりです。人殺しである悪魔の前途には永遠の滅びが控えています。

      13 エホバは悪魔を何になぞらえましたか。死に処される以前にこの者は何を生み出すことを許されましたか。

      13 悪魔がそのような終わりに至ることは,すべてのものの裁き主なるエホバが彼を蛇になぞらえたことによって示されました。それは,女エバを欺き,神の命令に逆らって禁じられた実を食べさせるために用いられた動物でした。その蛇によって象徴される者に向けてエホバはこう言われました。「この事を行なったゆえに,おまえは,すべての家畜および野のすべての野獣の中で呪われたものである。おまえは腹ばいになって進み,塵が命の日の限りおまえの食らうものとなろう。そしてわたしは,おまえと女との間,またおまえの胤と彼女の胤との間に敵意を置く。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」。(創世 3:14,15)こうして悪魔は神の呪いを受けた者となりました。そして,この呪われた者を死に処することは全く神にかかっています。しかし,その事は,呪いを受けた蛇が「胤」を,すなわち比ゆ的もしくは霊的な意味で子孫を持つ機会を得るまでは起きません。霊なる者として,悪魔は人間の場合のように本然的な生殖力を持ちません。

      14 腹ばいになってはい回るということは大いなる蛇悪魔について何を表わしていましたか。その卑しめられた状態に後にだれが加わりましたか。

      14 エホバは悪魔を,腹ばいになって進み,塵や土ぼこりにまみれた物を食べる蛇になぞらえました。こうして神は,呪いを受けたサタンが今や投げ落とされた,低く卑しめられた状態を表わされたのです。それは最も低い地位でしたから,タルタロスと呼ばれるようになった所に例えられました。この所にいた悪魔にはやがて他の霊たちが加わりました。父としての神を捨て,悪魔を父とするようになった霊たちです。それらの霊たちは彼の「胤」になりました。

      15 罪を犯して大いなる蛇に加わったみ使いたちについてペテロとユダは何と述べていますか。

      15 この初めからの蛇の霊的な胤について,クリスチャン使徒ペテロはこう書きました。「神(は),罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡された」。(ペテロ第二 2:4)キリストの弟子ユダもまた,蛇の「胤」となったそのみ使いたちについてこう書きました。「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居どころを捨てた使いたちを,大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密なやみのもとに留め置いておられます」― ユダ 6。

      16 エバを欺いて罪を犯させる際悪魔が単独で行動していたのはなぜですか。どのような理由から,彼はケルブの一人であったとも考えられていますか。

      16 悪魔がアダムの妻エバをだまして,その天の父なる神への反逆に至らせた時,その大いなる蛇の「胤」はまだ存在しませんでした。悪魔は単独で行動していたのです。彼は,み使いの仲間,アダムとエバの子孫を支配する点で自分と地位を張り合うような者を持とうとはしませんでした。彼は全人類に対する専一的な支配を手中に収めようとしたのです。神の組織内で彼が初めにどのような地位にあったかについて,わたしたちは正確には知りません。聖書研究者の多くは,古代ティルスの王に関するエゼキエル書 28章11-19節の預言が悪魔サタンにも当てはまるものと理解してきました。つまり,自ら悪魔となった者は,元々は,天の「神の子」なる「ケルブ」の一人であったことになります。そうであるとすれば,彼が大いなる蛇として卑しめられたその卑しめの程度は一層大きいことになります。

      17 どのような意味で反逆したみ使いたちはタルタロスの闇を悪魔と分け合っていますか。

      17 神に反逆して蛇の「胤」となった他のみ使いたちもまた,それぞれ呪われた蛇のごとくにしてタルタロスの闇を彼と分け合っています。彼らはもはや,神の恵みや助言という形での光を有していません。その反逆の際に神はご自分の聖霊を彼らから取り去ったのです。

      18 (イ)悪魔とその使いたちにとってどうしてその前途は全くの暗黒ですか。(ロ)今や提出された秘義とは何でしたか。

      18 大いなる蛇およびその「胤」となったみ使いたちにとって,その前途は全くの暗黒です。神の裁きの日が彼らの前にあります。彼らは『頭を砕かれる』ことになるのです。神はご自分の「女」の「胤」を用いてその砕くことを行ないます。(創世 3:15)その加えられる傷は単なる頭皮の傷ではありません。それは頭を打ち砕くことであり,大いなる蛇とその「胤」の死をもたらします。この点で誤解の余地はありません。ローマ 16章20節で,キリストの弟子たちにあててこう書かれています。「平和を与えてくださる神は,まもなくサタンをあなたがたの足の下に砕かれるでしょう」。ゆえに,サタンとその「胤」を成す者たちが神の「女」の「胤」に敵対するのも不思議はありません。神がご自分の「女」の「胤」に言及したことによって,天と地において一つの秘義が提出されました。今や全宇宙的な興味を集めることになったその秘義もしくは神聖な奥義とは,すなわち,この女の胤とはだれかという点です。

      地上における蛇の「胤」

      19 クリスチャンが人類の初子であるカインとは逆の道を取るように諭されているのはなぜですか。

      19 なぞとなった神の「女」の「胤」は,エバの最初の息子,エバがカインと名付けた者ではありません。カインは全人類の初子でしたが,それは,約束の「胤」となる権利を彼に与えるものとはなりませんでした。その上,カインのかかとは大いなる蛇悪魔によって打ち砕かれたことはありません。だれかの頭を砕いたかどうかについて言えば,カインは神を恐れかしこむ自分の弟アベルを殺害しています。それは頭を強打することによってなされたかもしれません。神に祝福されて神の聖霊を受けたのではなく,むしろ彼は聖書の中で『呪い』を受けた第二の者となりました。象徴的な蛇すなわち悪魔がその最初の者です。(創世 3:14; 4:11)こうしてカインは自ら,大いなる蛇悪魔の地上における「胤」の一部となりました。偽りを語り,人を殺りくする点で悪魔に倣ったのです。彼は,見ることのできた自分の兄弟も,見ることのできない神をも愛しませんでした。キリストに従う者たちはカインとは逆の道を取るようにと訓戒されています。次のとおりです。

      「互いに愛し合(いなさい)。カインのようであってはなりません。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を殺りくしました。なんのために殺りくしたのですか。自分の業が邪悪で,自分の兄弟の業が義にかなっていたからです」。(ヨハネ第一 3:11,12)「惨めなことです。彼らはカインの道にはい(って)……しまったからです」― ユダ 11。

      20,21 カインはどのような罪を犯す点で悪魔に見倣いましたか。それはカインに対してどんなものの表明があったためですか。

      20 カインは,神の聖霊に対して罪を犯すという点で悪魔に,自分の霊的な父である「邪悪な者」に見倣いました。これは,アダムとエバの最初の子であったカインが聖霊を受けたことがあるという意味ではありません。彼の地的な二親は,意識的に神のおきてを破ったことによって聖霊を失っていたのです。しかし,カインは聖霊の働きを見てはいました。いつ,どこででしたか。

      21 それは,カインが自分の農耕からの捧げ物を神に差し出した時でした。弟アベルのほうは自分の羊の群れの中から,ほふった動物を犠牲として神に差し出しました。これら二人の兄弟が差し出したものは共に神に受け入れられましたか。創世記 4章4-7節はこう述べています。「さて,エホバはアベルとその捧げ物を好意をもってご覧になったが,カインとその捧げ物のほうは少しも好意をもってご覧にならなかった。すると,カインは非常な怒りに燃え,その顔色は沈んだ。それに対してエホバはカインにこう言われた。『なぜあなたは怒りに燃えているのか。なぜあなたの顔色は沈んでいるのか。善い事を行なうようになれば高められるのではないか。しかし,善い事を行なうようにならないなら,罪が入り口のところにうずくまっており,それが慕い求めているのはあなたである。あなたはそれを制するだろうか』」。

      22 カインは聖霊がどのように表明されるのを見ましたか。

      22 もちろん,神はこの時カインとアベルに現われたわけではありません。アベルとその犠牲の捧げ物をどのように好意をもってご覧になったかについては告げられていません。しかし,その事の見える証拠が何かあったに違いありません。それは神の聖霊の働きです。カインはそれを見ましたが,神からの言葉は受けませんでした。それで彼は大きな怒りに燃え,その顔を伏せました。彼は神に受け入れられない捧げ物をしていたのであり,神からの聖霊の見える働きを前にしながら,謙遜な悔い改めをもってそれに応じようとはしませんでした。

      23 聖霊に対するカインの罪はどのような形をとりましたか。それはなぜでしたか。

      23 明らかにカインは正しい事を行なってはいませんでした。見えない所から来た神の声が彼に事態を説明しました。高慢すぎて謙遜になることのできなかったカインは,悔い改めて善を行なおうとはしませんでした。罪がその戸口にあるかのごとくにうずくまり,そのえじきにしようと彼を慕い求めていたのです。神の聖霊が何を示そうとも,彼はその罪を制しようとはしませんでした。自分の顔を上げようとはせず,神の是認を得た者に対してたくらみをなしてこれを殺しました。こうして彼は聖霊に対して罪を犯したのです。

      24 悪魔となった者がかつて聖霊を受け,また聖霊の働きを見たことがあるかどうかについて何と言えますか。

      24 これは神の不興となり,カインの上に神からの呪いをもたらしました。しかしそれは大いなる蛇悪魔を喜ばせたのです。今や悪魔は自分の地上の子,その霊的な父そっくりに行動する者を得たからです。悪魔自ら聖霊に対して罪を犯していました。悪魔となった者は,神ご自身を見ただけでなく,天の領域に関し,また地球およびその上の人間の創造に関連して聖霊の働きをことごとく見ていました。(ヨブ 38:7)利己的な誘惑から全く離れていた間,彼自身も自らの天的な父の霊をある程度受けていました。その聖霊によって自分が何をなし得たかを彼は知っていました。また,『過分の親切の霊』が神からアダムとエバに対して表明され,地上のパラダイスで完全な人間としての生活を楽しむための必要な備えをさせるのも見ていました。それにもかかわらず,この天の「神の子」は何を行ないましたか。―ヘブライ 10:29。

      25 この「神の子」は聖霊に対する罪の行為をどのように進めましたか。こうして彼は自らを何にしましたか。

      25 彼は『過分の親切の霊』を誤り伝えました。それは神の側の利己心に根ざすものであるとエバに告げたのです。また,善悪の知識の木から食べることを禁じたのは,人間が善悪正邪の決定を神から独立して行なえるようになることを神が恐れたためである,とも論じました。こうして,簡明な事実を意図して故意にゆがめ,偽りをもってエバを欺いて罪を犯させた時,この霊の「神の子」は,聖霊に対する罪,赦されることのない罪を犯したのです。彼は,地とそこの住民たる人間に対して主権を行使できるという利己的な野望に誘われ,その主権を現実に得ようと行動しました。そのとき彼は神の聖霊を失いました。その生活にあった神の霊の実はしおれ,死に絶えました。彼は自らを悪魔とし,ただ滅びに値する者としたのです。―ヘブライ 12:29; 6:7,8。

      26 悪魔はどのようにして「悪霊たちの支配者」になりましたか。心霊術を習わしにする者が神の王国にあずかる分を持たないのはなぜですか。

      26 こうして聖霊に対して最初に罪を犯した者は自らを悪霊としました。「神の子ら」なるみ使いで後に神への反逆に加わった者たちも,悪魔と同じく悪霊となりました。これら後に悪霊となった者たちは大いなる蛇の「胤」となり,こうして悪魔は「悪霊たちの支配者」となり,ベエルゼブブと呼ばれるようになりました。(マタイ 12:24-27)これらが悪霊崇拝の推進者であり,人々を生ける唯一まことの神エホバへの崇拝からそらせようとしています。彼らはいわゆる「汚れた霊たち」です。(マタイ 10:1,8; 12:43-45)これら悪霊たちの影響下にある心霊術を習わしにするなら,それによって霊的な汚れを身に持つことになり,神から見て汚れた者とされます。心霊術の習わしは堕落した肉の業の一つであり,人が神の王国およびそれに伴う祝福にあずかることを全く阻みます。汚れた霊たちは神の聖霊に逆らっており,神は汚れた霊たちとかかわりを持つ者を非とされます。―申命 18:9-14。ガラテア 5:19,20。啓示 9:20,21; 21:8。

      それはどんな「霊」か

      27 なぜ今わたしたちは現在の古い秩序の背後にあるのがどのような霊かを判断できるはずですか。

      27 上記の点を知るのはわたしたちにとって極めて肝要です。それによってわたしたちは人類がかかえる現状の理由を理解できます。わたしたちは今日,この20世紀にいます。それは,人間的な観点からする限り極めて明るい展望に満ちた世紀でした。聖書に基づく時の計算によると,わたしたちは,自己本位になった「神の子」がエホバの宇宙主権に反逆し,アダムとエバをも神への不従順に導き入れた時以来ほとんど六千年を経過しています。それら人間の反逆者二人がエデンのパラダイスから出された後,人間たちから成る新しい秩序が地上に始まりました。それはその創造者なる神がこの地球上に意図したのとは異なるものでした。それで今,わたしたちは,今日の古い秩序の背後にあるのがどのような霊かを判断できるはずです。

      28 古い秩序の背後にある霊と言う場合,わたしたちはその「霊」という語によって何を表わしていますか。

      28 ここで「霊」と言う場合,わたしたちは,見えない活動力,人間社会全般を動かし,それを刺激し,活気付け,鼓舞している力を指しています。それは人々の生き方に影響を与えています。それは人々を同じ一定の方向に動かします。こうして人々一般は,ほとんど無意識に,それについて殊更に考えることなく,ほぼ一様な生活を営んでいます。人々はほとんど本能的に行動し,定めの道に従って一定の型の生活を送ろうとする内的な衝動に動かされています。個人の性格的な差などから来る多少の違いがあるかもしれませんが,それでも生活とその目指すところとには共通の面があり,現在の事物の体制下にある人間社会の特色を示しています。

      29,30 (イ)この古い秩序の見えない支配者はだれですか。その者は単独でその支配を行なってきましたか。(ロ)その見えない支配の影響はどのようなものでしたか。

      29 今日の古い事物の秩序の背後にあるその種の霊は,この事物の秩序を制圧し,その支配を握ってきた見えない超人間の者たちによって大きく影響されてきました。その全秩序を掌握する主要な者がだれであるかについて疑問はありません。この古い秩序の第五千年期に至っても,イエス・キリストは,悪魔サタンが「この世の支配者」であることを言明しています。イエスはその者と何の友好的な関係も持ちませんでした。地上の人間として生きた最後の夜,イエス・キリストは使徒たちにこう語りました。「世の支配者が来ようとしてい(ます)。そして,彼はわたしに対して何の力もありません」。(ヨハネ 12:31; 14:30; 16:11)人類に見えない支配を及ぼすという点で悪魔サタンは単独ではありません。サタンには悪霊の使いたちがいます。サタンに連なって,彼を自分の主権者とする者たちです。これら悪霊の勢力すべてが人間社会の現在の古い秩序の物事に力を及ぼしてきました。

      30 これら超人間の支配者たちの影響は有害なものでした。その点を裏書きするものとして,使徒ヨハネの記した預言の言葉があります。それは,当時としては将来のことであった,悪霊たちを聖なる天から放逐することに関するものです。啓示 12章7-12節に記されるその預言は次のとおりです。

      「また,天で戦争が起こった。ミカエルとその使いたちが龍と戦った。龍とその使いたちも戦ったが,優勢になれず,彼らのための場所ももはや天に見いだされなかった。こうして,大いなる龍,すなわち,初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者は投げ落とされた。彼は地に投げ落とされ,その使いたちもともに投げ落とされた。……『地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである』」。

      31 啓示 13章4節によると,「龍」なるサタンは人の住む全地をどのような誤った崇拝に導き入れてきましたか。

      31 欺く者である悪魔サタンが人の住む全地を惑わして行なわせている事の一つは,彼自身に対する崇拝です。誠実ではあっても欺かれている人々は,この事を聞いて衝撃を受けるかもしれません。しかし,啓示 13章4節は,この世の政治に関与する人々に関してこう述べています。「彼らは,野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し,また……野獣を崇拝した」。

      32 「この事物の体制の神」がだれであるかは,良いたよりの光に対するその者のどんな行動から明らかになりますか。

      32 この点では使徒パウロの言葉もあります。人類世界が知ってか知らずかして崇拝している主要な者が悪魔であることをそれも示しています。パウロはこう述べました。「そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールがかけられているとすれば,それは滅びゆく者たちの間においてベールがかけられているのであり,その者たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」。(コリント第二 4:3,4)この事物の体制には「神」があります。その者が神の地位にあること,この世に対して支配権を行使していることは,現在の古い事物の秩序の背後にある霊に当然影響を与えているはずです。

      33 わたしたちすべてはこの「事物の体制の神」が人類史の始めに行なった事柄から生来どのように影響を受けてきましたか。

      33 人間の歴史が始まってまもなく,今日「この事物の体制の神」となっている者が,わたしたちの最初の先祖の堕落を誘いました。アダムとエバは圧迫に屈して創造者に不従順の道をとったのです。これはわたしたちが生まれる以前のことでした。わたしたちすべてはその事の悪影響を被ったのです。ローマ 5章12節で使徒パウロは真実に即してこう記しています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」。わたしたちは生来受け継いだ不完全さ,罪の傾向,また道徳的腐敗などのために,神から死の定めの下に置かれた者となりました。わたしたちは死んでいるも同然の者となったのです。神の前にあってわたしたちは生きた者ではありませんでした。

      34,35 どうしてその時わたしたちは神に対して死んだも同然になりましたか。わたしたちのうちに何が働いていたと述べられていますか。

      34 したがって,当然の事ながら,わたしたちは神の怒りの子,「憤りの子ども」でした。わたしたちは「神に属する命から疎外されて」いました。(エフェソス 4:18)コロサイ 1章21節もこう述べています。「[あなたがたは]思いが邪悪な業に向けられていたためにかつては疎外され,また敵となっていた」。こうした事態のため,またその時エホバ神がわたしたちのうちに働いていなかったためです。では,だれ,もしくは何が働いていたのですか。

      35 その問いに答えているのはエフェソス 2章1-5節です。転向してきたクリスチャンにあてて書かれたその言葉はこう述べています。「あなたがたは犯罪と罪とのために死んでいた。この世の道に従っていた時あなたがたはそれらの中で過ごし,大気を統御する支配者,反逆的な者たちの中に働いている霊に従っていた。わたしたちすべても過去にはそれらのうちにあり,肉欲の生活をし,自分の肉の欲と自分の考えとに全く支配されていた。そのためわたしたちは世の残りの部分と同じく生まれながらに神の怒りの下にあった。しかし神は大いなる愛をもってわたしたちを愛してくださり,そのあわれみをもって寛大にしてくださった。わたしたちが自分の罪のために死んでいたその時に」― エルサレム聖書。アメリカ訳。

      36 ある聖書翻訳者によると,エフェソス 2章2節の言う「霊」とは何ですか。それはだれの支配の下にあるものですか。

      36 「反逆的な者たちの中に働いている霊」とはだれのことですか。それは,エホバ神に反逆したすべての者のうちその元の反逆者,すなわち,「初めからのへび」なる悪魔です。しかし,ここでわたしたちは次の点を述べねばなりません。すなわち,エフェソス 2章2節の「霊」という言葉について,ある聖書翻訳者たちは,これが非人格的なものを指すと見ています。見えない活動力,「大気を統御する支配者」の制御下にあり,エホバ神に不従順な者たちのうちに働いているものを指すと見るのです。一例として,ヤングの翻訳でエフェソス 2章2節はこうなっています。「あなたがたはそれらの中にあって,かつては,この世の時代に従い,大気の権威の支配者,不従順な子らのうちに今働いている霊を支配する者に従って歩んでいた」。(ロザハム訳もご覧ください。)そのような非人格的な「霊」であるとすれば,それは「大気」を用いる邪悪な者の支配下にあることでしょう。それは,「この世の事物の体制にしたがい」,神に従わないで行動する人々を鼓舞しているはずです。

      37,38 ヨハネ第一 2章15-17節は,現在の古い秩序の背後にある霊の表われについてどのように示していますか。

      37 現在の古い事物の秩序の背後にある霊はどのようなものか,それはどのようなかたちで表わされるかについて,わたしたちはどこでさらにはっきりした概念を得られるでしょうか。次にわたしたちは使徒ヨハネの記したものを読みましょう。ここで述べている世の霊についてクリスチャンに警告しつつ,彼はこう書きます。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです」― ヨハネ第一 2:15-17。

      38 それで,古い秩序の霊は世俗的な人をして,その目に魅力的な事物を慕わせ,その肉に心地よいものを求めさせます。そして,当然の事ながら,そのような欲求は利己的な行動に至ります。目と堕落した肉とを喜ばせるものを利己的な態度で非常に多く渇望するので,そうした人々は多くのものをため,それがその人の資力となり,生活を楽しむためのものとなります。物を所有する誇りのために彼らは自分の資力を見せびらかし,それを他の人々に印象づけることを好みます。それはまた,そうした物を持たない人々をして自分もそれを持ちたいとの願いを抱かせます。

      39 一世紀のユダヤ人はどのようにして神の霊を受けることを拒みましたか。ローマ 1章26-32節によると,自らの道を進むままにされた彼らはどのような結果になりましたか。

      39 西暦一世紀,当時の世界的な事物の秩序の背後にあった霊に浸ることを好んだユダヤ人たちがいました。ヘロデ王の建てた神殿は依然としてその首都に立っており,それらの人々は預言者モーセを通して与えられた法典に通じていました。彼らは,その当時人の住む全地で告げ知らされていた純粋なキリスト教の中に表わされていた神の霊を受けようとはしませんでした。そのためエホバ神は彼らにその好みの道を行かせ,背教した昔のイスラエルに対すると同じようにあしらわれました。それはその人々にとってどんな結果になりましたか。ローマ 1章26-32節の中で,使徒パウロはその点をこう伝えています。

      「このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,そして同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事がらを行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです。そして,ちょうど彼らが神についての正確な知識を身につけることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不穏当な事がらを行なうにまかされました。彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,ねたみ・殺人・闘争・欺瞞・悪念に満ち,ささやく者,陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,有害な事がらを考え出す者,親に不従順な者であり,理解力がなく,合意したことに不実で,自然の情愛を持たず,あわれみのない者であったからです。こうした事をならわしにする者は死に価するという,神の義なる定めをはっきり知りながら,彼らはそれを行ないつづけるだけでなく,それをならわしにする者たちに同意を与えているのです」。

      40,41 キリスト教が広まるにつれて古い秩序の背後にあった霊は取って代わられましたか。パウロはテモテ第二 3章1-12節で何を予告しましたか。

      40 一世紀のその使徒時代には真のクリスチャン信仰が宣揚されていました。では,キリスト教が広まるにつれて神の聖霊が古い事物の秩序の背後にあった霊に取って代わったのではありませんか。ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝によってキリスト教世界が四世紀に確立した以後には特にそう言えるのではありませんか。その時,道徳的に清く,宗教的には聖なる新しい霊が,進展してゆく人間社会に吹き込まれたのではありませんか。いいえ,囚縛された使徒パウロが西暦65年ごろに書き記した事柄から見るとそうではありません。彼の最後の手紙,長年の仲間であったテモテにあてたものの中で彼はこう予告していました。

      41 「終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人びとは自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,裏切る者,片意地な者,誇りのために思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬神の専念という形をとりながらその力において実質のない者となるからです。……実際,キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受けます」― テモテ第二 3:1-5,12。

      42 わたしたちが古い秩序の支援者の背後にある霊を持つことを望まないのはなぜですか。

      42 ここに挙げられた数々の点は,この古い事物の秩序を支持する人類集団一般を動かしている霊をよく反映しています。わたしたちの生活を導き,推進する力としてわたしたちが欲しているのはそのような霊ですか。いいえ。古い秩序の支援者たちが今日刈り取っているその霊の実から判断するなら,決してそうは望まないはずです。わたしたちは誠実な気持ちからそれとは異なった霊を欲します。より勝った事物の秩序のために活動している霊です。すなわち,わたしたちは残る唯一の霊である聖霊を持たなければなりません。

  • 古代の人々に働いた聖霊
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第4章

      古代の人々に働いた聖霊

      1 聖霊などは存在しないと論ずる人々に対して聖書そのものがその反証となることを述べなさい。

      今日の唯物論的な人々は,聖霊などというものは存在しないと論ずるかもしれませんが,そのような論議は無益です。それが古代の人々に働いた結果としてできた物が,今日でも全世界にわたりわたしたちの手もとに存在するからです。その聖霊の働きの結果は,それを破壊しようとする人間や諸国家の度重なる努力にもかかわらず生き延びてきました。それは何ですか。不滅の書である聖書です。人間と悪霊たちからの激しい妨害にもかかわらず,この聖なる書は,あらゆる書物の中で最も広く頒布されてきました。この書を擁護するためには自分の命をも賭する人々がいるのです。

      2 聖書は,それを書くためにだれが用いられたかという点では他の本と異なりません。どうしてそう言えますか。

      2 聖書は他のすべての本と明確に異なっています。なぜ? それがわたしたち人類家族に属するただの人間によって書かれたという点ではありません。聖書がただの人間の手以外のものによって書かれたとはだれも唱えていません。しかし,それを書いたのはどのような人々でしたか。そこに書き記した事柄はその人自身から出ていましたか。この点が問題です。

      3-5 (イ)それがどのように書かれたかについて聖書そのものが何と述べていますか。(ロ)ペテロはペテロ第二 1章15-21節でこの点をどのように確証していますか。

      3 聖書を構成する66冊の小さな本が人の手によって書き記されたものであるということは,聖書そのものが述べています。それを書いたのがどのような人々であったかも聖書が示しています。聖書はまた,それらの人々を動かして書き記させた見えない力が何であったかも示しています。それらの人々が書き記した時,その背後には霊がありました。それは悪魔サタンに帰せられる霊ではありません。彼は終始,人の住む全地を惑わすことに躍起となってきたのです。聖書を書き記すことの背後にあった霊は,現在の古い事物秩序の背後にあるのと同じ霊ではありません。どのような人がそれを書き記したか,またその人々を動かして書かせたのがどんな霊かについては,真のキリスト教のための殉教者となった使徒ペテロの簡潔な言葉にまず注目しましょう。

      4 「それで,わたしは,[殉教のために]自分の去ったのち,あなたがた自身でこれらのことを話し合えるよう,時あるごとに力をつくして励むつもりでもいます。そうです,わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなたがたに知らせたのは,巧みに考え出された作り話によったのではなく,彼の荘厳さの目撃者となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者,わたし自らこの者を是認した』ということばが荘厳な栄光によって彼にもたらされた時,彼は父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼とともに聖なる山にいた時,このことばが天からもたらされるのを聞きました。

      5 「したがって,わたしたちにとって預言のことばはいっそう確かなものになりました。そしてあなたがたが,夜があけて明けの明星が上るまで,暗い所に輝くともしびのように,心の中でそれに注意を向けているのはよいことです。なぜなら,あなたがたはまずこのことを知っているからです。つまり,聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないということです。預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです」― ペテロ第二 1:15-21。

      6 キリストの変ぼうについて述べるペテロの言葉にはどんな裏付けがありますか。彼の二通の手紙はなぜ霊感の書となりましたか。

      6 ペテロ自身,「聖霊に導かれつつ」神によって書きかつ語った人の一人となりました。そのゆえにペテロは,自分および使徒のヤコブとヨハネが目撃者として見聞きした事柄について忠実に証ししました。それはイエス・キリストがパレスチナのある高大な山で彼らの前で変ぼうした時の事です。エルサレム城外で暴虐の死に処せられる数か月前に起きたイエス・キリストのこの変ぼうについては,キリストの他の三人の弟子が記録を残しています。(マタイ 17:1-9。マルコ 9:2-9。ルカ 9:28-36)こうしてペテロの証言は信頼できる人々からの裏付けを得ています。聖書の中では,ペテロの名を付された二つの手紙が彼によって,つまりただの人間によって書かれています。しかし,そのゆえに彼の手紙はただの人間的な作品であるという意味ではありません。ペテロの手紙はその背後に聖霊がありました。つまりそれは,聖霊の源であるエホバ神の霊感を受けたものでした。

      7 ペテロ第二 3章15,16節で,ペテロはパウロの書き記したものを霊感の聖書の中に位置づけていることをどのように示していますか。

      7 ペテロはその第二の手紙の中で使徒パウロの書いたものに触れ,それを霊感による聖書の一部として位置づけています。ペテロはこう述べました。「わたしたちの主のしんぼうを救いと考えなさい。それはわたしたちの愛する兄弟パウロも,自分に与えられた知恵にしたがってあなたがたに書いたとおりであり,彼はそのすべての手紙の中でしているように,これらのことについて述べているのです。しかし,彼の手紙の中には理解しにくいところもあって,教えを受けていない不安定な者たちは,聖書の残りの部分についてもしているように,これを曲解して自らの滅びを招いています」。(ペテロ第二 3:15,16)今日,ただの人間(パウロ)がそれらの手紙を書いたのであり,それらは人間の考えから出たものにすぎない,と論ずる批判者たちがいます。そのような批判者たちは聖書を曲解しており,『自らの滅びを招く』ことになります。

      8 神によって語りかつ書き記した人々の書いた聖書についてパウロはテモテ第二 3章16,17節で何と述べていますか。

      8 神によって書きかつ語った人々の記した聖書について,使徒パウロは次のことを述べました。「聖書全体は神の霊感を受けた[字義,神が息を吹き込んだ(セオプネウストス)]ものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力をそなえ,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」― テモテ第二 3:16,17,王国行間逐語訳。

      9 それらの聖書を引くことによりパウロはキリスト教の基について何を論証することができましたか。

      9 パウロ自身そのように十分に能力をそなえた「神の人」の一人でした。彼は昔に書かれたヘブライ語聖典に十分に通じていました。それら以前に記された霊感の聖書を引くことにより,パウロは真のキリスト教の基が神によって備えられたものであることを論証することができました。―使徒 17:3。

      10 それがどのようになされるかを人は知らないのに,聖書の預言が今日まで成就を続けてきたのはなぜですか。

      10 聖書に含まれる預言がこの20世紀に至るまで成就を続けていることには理由があります。それらの預言は,世界情勢がどのように進展するかについて私的な解釈を試みた人々のただの予想ではないのです。聖書の預言は神から出ているのであり,それが神に献身した人々を通して与えられたのです。人間はそれがどのようになされるかを必ずしも知りませんが,神がその預言を実現させます。ペテロはその点を指摘しました。エルサレムの神殿にいた一群のユダヤ人にこう語りました。「こうして神は,すべての預言者の口を通してあらかじめ発表された事がら,すなわち,ご自分のキリストが苦しみを受けるということを成就されたのです。……実に,天はこのかたを,神が昔のご自分の聖なる預言者たちの口を通して語られたすべての事がらの回復の時まで,そのうちにとどめておかなければなりません」。(使徒 3:18-21)預言者を通して語っても,神は偽ることのない方であり,その神の預言を聖書は記録しているのです。

      11 ペテロはエルサレムにいた弟子120人の会衆に話した際,神の預言が必ず成就することをどのように強調しましたか。

      11 聖書の預言は神から,その聖霊によって来ています。そのゆえに,それは必ず実現します。ペテロはその事についても述べました。エルサレムにいたキリストの弟子120人ほどの会衆に対し,彼はこう語りました。「皆さん,兄弟たち,聖句の成就することが必要でした。それは,聖霊がダビデの口によりユダについてあらかじめ語ったものですが,この者はイエスを捕縛した者たちの手引きとなりました」― 使徒 1:15,16。

      12 ペテロおよび他の弟子たちは共に祈りをした際,ダビデの記した詩篇 2篇1節が必ず成就することをどのように示しましたか。

      12 後にペテロは仲間の弟子たちの捧げた祈りに共に加わりましたが,その祈りはダビデによる別の預言がいかに実現したかに注目していました。使徒 4章24,25節は次のように記しています。「彼らは思いを一つにし,神に向かい声を上げてこう言った。『主権者なる主よ,あなたは,天と地と海とその中のすべてのものを作られたかたであり,また,聖霊を通じ,あなたのしもべ,わたしたちの父祖ダビデの口によって言われました,「なぜ諸国民は騒ぎ立ち,もろもろの民はむなしい事がらを思いめぐらしたのか」』」。(詩 2:1)こうして,第一世紀のクリスチャンたちは,ヘブライ語聖書が,古代の人々に働いた神の聖霊の所産であることを悟っていました。

      13 (イ)サムエル後書 23章1-3節によると,ヘブライ語聖書のうち油をそそがれたダビデが書き記した部分の功はだれに帰せられますか。(ロ)ダビデによる預言を成就させたものは何でしたか。

      13 ここで詩篇作者ダビデの名がはっきり挙げられていますから,わたしたちは次の点を問いましょう。ダビデは神聖なヘブライ語聖書の一部となった事柄を語ったり書いたりする事についてどのように感じていたでしょうか。ダビデの書き記したものは特別の価値と意義のあるものとして今日まで保たれてきましたが,ダビデ自身はその書に対する功を自分のものとはしていません。その証拠として,この全イスラエルの油そそがれた王に関する記録が,サムエル後書 23章1-3節の中に次のとおり残されています。「そして,これらはダビデの最後の言葉である。『エッサイの子ダビデの述べた言葉,高く上げられた強健な者の述べた言葉,ヤコブの神の油そそがれた者,イスラエルの調べの快いもの。わたしによって語ったのはエホバの霊であり,その言葉はわたしの舌にあった。イスラエルの神は言われた,わたしにイスラエルの岩なる方は語られた』」。したがって,ダビデによる預言を真実に至らせたものは,彼の長期的先見や物事に対する解釈の能力ではありませんでした。ダビデに働いた神の霊,また神が事態を動かされたことが,事の展開にあずかっていたのです。

      14 ダビデだけでなく,イザヤやエレミヤも,聖書のうち自分の記録した部分が自分の考えによるものではないことをどのように示していますか。

      14 聖書のうち自分がその記録にあずかった部分がもともと自分の創意によるものではないことを言い表わしているのは独りダビデだけではありません。その霊感の書が聖書中に保存されている他の預言者たちも,自分に臨んだものがエホバ神の言葉であることを正直に認めています。例えば,イザヤはその大きな預言書を次の言葉で始めています。「アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ,ヨタム,アハズそしてヒゼキヤの日にユダおよびエルサレムに関して見た幻。聞け,天よ,耳を向けよ。ああ地よ。エホバ自らこう語られたからである」。(イザヤ 1:1,2)エレミヤはその大預言書を次のように始めています。「ベニヤミンの地のアナトトにおける祭司の一人であったヒルキアの子なるエレミヤの言葉。その者に,ユダの王なる,アモンの子ヨシアの日,その治世の十三年目に,エホバの言葉が臨んだ」― エレミヤ 1:1,2。

      聖霊の働きによる昔の勇敢な行為

      15 聖書の記述の背後にあった聖霊は強力な軍事指導者の剣より強力なことをどのように示してきましたか。

      15 聖なる書という形で聖霊が生み出したものを何びとも鼻であしらうようなことをすべきではありません。聖書筆記者たちの手中にあって神の聖霊によって動かされたペンは,シーザー,ナポレオン,ヒトラーなどの剣よりはるかに強力であることを実証しています。事実,聖霊は,ペンとインクで書き記すよりはるかに壮観な事柄を成し遂げてきました。古代の人々が,見えない全能の神からのこの強大な力によって数々の勇敢な行為を成し遂げたことが記録に残されています。

      16,17 (イ)モーセが杖を紅海の上に差し伸べた時,躍動するエネルギーがどこから出て海の水を二つに分けましたか。(ロ)イザヤ 63章11-14節はその正しい答えをさらにどのように示していますか。

      16 一例として,聖書の初めの五つの本を記したモーセの場合を取り上げましょう。西暦前1513年,彼は紅海の西岸に立ちました。そして,その右手にあった杖を海上に向けて差し伸べました。ご覧なさい,海の水は二つに分かれ,イスラエル人は追撃して来るエジプト人が追い付く前にそこを渡りおおせたのです。モーセから出た何らかの強大な力がそのような奇跡を生じさせたのですか。そのようなことはあり得ません。預言者のモーセからではなく,あらゆる動的エネルギーの天の源なる方から,その何ものも抗し難い力,イスラエル人の大きな危険からの脱出を阻んでいた水の障壁をも真っ二つに裂く力が出たのです。(出エジプト 14:21から15:21)ゆえに今日,エホバの民が鍛練を受けて何かの難儀を迎える場合,エホバの古代の事跡を思い返して次のように問うのがよいでしょう。

      17 『かれらとその群の牧者[モーセとアロン]とを海より携へあげし者はいづこにありや 彼らのなかに聖霊をおきしものはいづこにありや 栄光のかひなをモーセの右にゆかしめ 彼らのまへに[海の]水をさきて自らとこしへの名をつくり 彼らをみちびきて馬の野をはしるがごとくつまづかで淵をすぎしめたりし者はいづこにありや 谷にくだる家畜のごとくにエホバの霊かれらをいこはせたまへり 主よなんぢはかくおのれの民をみちびきて栄光の名をつくりたまへり』― イザヤ 63:11-14,文語。

      18 同じ神はこの20世紀においてもご自身のためどのように『美しい名』を立てられますか。

      18 イザヤの預言書から引用した上記の言葉は,モーセの民が古代エジプトにおける奴隷状態から救い出された時のことを述べています。その時,すなわち西暦前1513年の春,神は自ら不朽の名,たぐいなく美しい名を立てられました。しかし今,この20世紀において,この同じ神が再び『ご自身のために美しい名を』立てる時が到来しています。紅海で行なわれたような,しかしそれよりはるかに壮大な救いを施されるのです。その時神の名エホバを「美しい」ものと見るすべての人はまことに幸福です。

      19 ヘブライ 11章29節に示される点ですが,モーセのどんな資質のとおりに物事は起きましたか。

      19 ゆえに,わたしたちは,エホバの聖なる活動力に伴う強大なエネルギーを決して軽く見ることのないように致しましょう。今日それは3,500年前のその時と全く同じほどに強力なのです。預言者モーセはそれの持つ力を見くびることはありませんでした。彼は,奇跡をなすその霊の源としての神に信仰を抱いていました。モーセの抱いたその信仰のとおりに物事は起きたのです。「信仰によって,彼らは乾いた陸地を行くかのようにして紅海を通りました。しかし,あえてそこに乗り出したエジプト人たちはのみ込まれました」。(ヘブライ 11:29)こうして,神は信仰を働かせる者に必ず報いられる,ということが実証されました。(ヘブライ 11:6)民数記 11章16,17,24-29節の記録もご覧ください。忠実なモーセと霊に関する事が述べられています。

      20,21 (イ)古代に神への信仰を示した人々は皆ある程度の聖霊を持っていたといえるのはなぜですか。(ロ)ヘブライ 11章4-7節には信仰の人としてどの三人が挙げられていますか。その人たちについてどのように述べられていますか。

      20 信仰は「霊の実」の一つです。ガラテア 5章22,23節はその点を示しています。神への信仰を示している人は多少なりとも神の霊を受けていることになります。古代の信仰の男女の名が,その一部ながら,ヘブライ 11章に挙げられています。それらの人々は『わたしたちを囲む,大ぜいの,雲のような証人たち』の一部をなしています。(ヘブライ 12:1)そこに名を挙げられている証人たちとして,最も古くは,エホバ神の最初の証人とされる人,つまり,アダムとエバの息子でカインの弟にあたるアベルがいます。そして,西暦前2370年から2369年にわたった全地球的な大洪水よりも前のその時代には,ほかにもエホバの証し人となった人々がいました。ヘブライ 11章4-7節の中には,大洪水以前に至高の神の証し人となった人たちのうち三人の名が挙げられています。こう記されています。

      21 「信仰によって,アベルはカインよりさらに価値のある犠牲を神にささげ,その信仰によって義なる者と証しされました。神が彼の供え物について証しされたのです。またそれによって,彼は死んだとはいえなお語っているのです。信仰によって,エノクは死を見ないように移され,神が彼を移されたので,彼はどこにも見いだされなくなりました。彼は,移される前に,神をじゅうぶんに喜ばせたと証しされたのです。そして,信仰がなければ,神をじゅうぶんに喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならないからです。信仰によって,ノアは,まだ見ていない事がらについて神の警告を与えられたのち,敬神の恐れを示し,自分の家の者たちを救うために箱船を造りました。そして,この信仰によって,彼は世を罪に定め,信仰による義の相続人となりました」。

      22 それら三人のそれぞれがある程度の聖霊を受けていたことはどんな事実から明らかですか。

      22 アベル,エノク,ノアの三人が特に名を挙げられています。信仰を働かす面で際立っていたからです。しかし,ほかにも,ノアの妻,三人の息子,三人の嫁たちがいました。それらもノアと共に箱船に入って全地球的な大洪水を生き延びました。(ペテロ第一 3:19,20)アベルはある程度の聖霊を受けていたに違いありません。彼はその実の一つである信仰を有していました。ヤレドの子のエノクもある程度の聖霊を受けていたはずです。ユダ書 14,15節に照らしてみると,神は,人の口から発せられた記録に残る最初の預言を,エノクを用いて語られたからです。(創世 5:18-24)ノアもまたエホバの預言者として用いられました。彼は「義の宣明者」でした。(ペテロ第二 2:5。創世 9:24-29)不敬虔な人々の世にあってノアは注目すべき勇敢な行ないをしました。だれがこの点を否定できるでしょうか。しかし,彼はその勇気ある行為を自らの力によって行なったのではありません。彼の背後には神の聖なる活動力がありました。

      23,24 (イ)ノアの箱船が建造されていた間神のどんな資質が示されていましたか。(ロ)創世記 6章1-3節によると,神はどんな決意をされましたか。なぜ?

      23 ノアの時代,神の霊は人類全般に対しても活動していました。箱船が建造されたその時代は,『神のしんぼう』の時代でもありました。(ペテロ第一 3:20)神は大いなる自制と堪忍を働かせておられました。それは,道ならぬ人々が,箱船の建造の進むのを見,ノアが『義を宣明する』のを聞いて,その歩みを悔い改めるための時となりました。しかし,神の霊の活動にだれが応じたでしょうか。ただノアとその妻,その息子たちセム,ハム,ヤペテとその三人の妻たちだけでした。神は,人類のために定めなく特別の努力を続けて,言わば彼らとの奮闘を限りなく続けるということは意図されませんでした。創世記 6章1-3節は,神が何を決意されたか,また神がその決意をされた時の地上の状態について明らかにしています。

      24 「さて,人が地の表に殖え始めて,彼らに娘たちが生まれると,その時,真の神の子たちが,人の娘たちに,それらが器量の良いのに目を留めるようになった。そして彼らは,自分たちのために妻を,すなわち,すべて自分の選ぶ者をめとるようになった。その後エホバはこう言われた。『わたしの霊が人に対して定めなく働くことはない。彼はやはり肉であるから。したがってその日数は百二十年となる』」。

      25 定めの時が尽きると,神は人類に新たな出発を与えるため何を行なうことを定めましたか。

      25 化肉した「真の神の子たち」と「人の娘たち」との間の異種交婚,それはいかにも非道なことでした。そのような事態が定めなく続くことは許されません。それが神の決定でした。それで,あと120年の間だけ,神はそれまでと同じように,しんぼうしてご自分の霊を人類に対して働かせられます。その時が尽きると,大々的変化がもたらされます。長く働かせてこられたその自己抑制は終わります。化肉した霊の使いたちと肉の女たちとの交婚は,山々の頂をも埋める全地球的大洪水によって終わります。耐水の巨大な箱船によって水の上に浮いたノアとその家族は,清く,汚されていない人間の一族としてその大変動を無事に通過し,人類に再出発を与えることになります。その不敬虔な人々の世界が神の霊を悩ませ,憂えさせることはもはや許されません。神は当然の処罰を免れさせないのです。―エフェソス 4:30; イザヤ 63:10; ヘブライ 10:29参照。

      26,27 (イ)ノアが箱船を建造して八世紀以上後神はどんな建造の計画を支援されましたか。(ロ)ノアの箱船は神聖な幕屋およびその中庭とどのように比較できますか。

      26 こうして,交雑種の人間ではなく,神を恐れて洪水を生き残った人々によって,神は人間家族に,義にかなった新たな出発を与えました。この目的のために神はノアの行なった建造の仕事に後ろだてを与えたのです。それより八世紀以上後,神は重要な意味を持つ別の建造の計画を支援されました。シナイ山で預言者モーセに与えた法典の中で,神は神聖な幕屋の造営を求めたのです。

      27 この聖なる会見の天幕において,モーセの民の十二部族,イスラエル国民は定期的に神と会見し,その祭司たちは国民全体のために罪を贖う犠牲を捧げる奉仕に携わることになりました。この幕屋とその囲い込まれた中庭の造営は,ノアの箱船ほどに大規模な作業ではありませんでした。ノアの箱船は巨大なものであり幕屋の中庭であればそれを九つも容することができたでしょう。箱船の三つの階のそれぞれに中庭三つずつです。ノアの箱船の建造にはかなりの工学的技術が求められました。神はそれをノアとその三人の息子たちに授けることができました。イスラエルの幕屋の場合には美術的な技巧が求められました。

      28 神が幕屋の造営をご自身の霊で支援されたことは出エジプト記 31章1-6節からどのように明らかですか。

      28 イスラエルの崇拝のための幕屋の造営を命じた神は,その造営の作業に後ろだてをお与えになりました。どのように? その答えとして出エジプト記 31章1-6節を開き,その部分が神の活動力についてどのように述べているかに注目しましょう。

      「エホバは引き続きモーセに語ってこう言われた。『見なさい,わたしはここに,ユダ族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名を挙げて呼ぶ。そして,知恵と悟りと知識とあらゆる技芸において神の霊を彼に満たす。これは,仕組みを考案するため,金・銀・銅の細工をなすため,また石の業においてそれをはめ込むため,木の業においてあらゆる製品を作るためである。そしてわたしは,見よ,彼のもとに,ダン族のアヒサマクの子であるオホリアブを置く。また,心の賢いすべての者の心に知恵を置き,わたしがあなたに命じたすべてのものをその者たちがまさしく作るようにする」。

      ここに示されるとおり,職工の長ベツァルエルは神の霊に満たされていました。

      29,30 (イ)神からのどんなものの働きによって幕屋の工事は良い時期に完成しましたか。(ロ)ベツァルエルとオホリアブは自分たちの業に神の是認が表明されるのをいつ,どのようにして見ましたか。

      29 あらゆる動的エネルギーの源からのこうした強力な力が働き人たちの背後にありましたから,神聖な幕屋およびそのすべての備品類の造作はまさしく完遂されました。陰暦のその年の終わりまでに,すべての物は組み立ての用意が整い,幕屋は設立の用意ができました。出エジプト記 38章22,23節は胸の躍るようなその完成の模様を記してこう述べています。「そして,ユダ族のフルの子であるウリの子ベツァルエルが,エホバがモーセに命じられたすべての事を行なった。また,彼と共にいたのは,ダン族のアヒサマクの子オホリアブで,青糸・赤紫に染めた羊毛・えんじむし緋色の素材・上等の亜麻を扱う職人,刺しゅう師,また織物師であった」。ベツァルエルとオホリアブにとって,新しい陰暦年の初日(西暦前1512年ニサン1日)は,まことに満ち足りた日であったでしょう。その日,「会見の天幕なる幕屋」がエホバの命令どおりに立てられ,ベツァルエルとオホリアブは奇跡的な光景を目にしたのです。

      30 「雲が会見の天幕を覆うようになり,エホバの栄光が幕屋を満たした」。ベツァルエルとオホリアブの二人にとって,これは,彼らが立派に業を果たし,エホバがそれを是認しておられるという証拠でした。エホバの霊が彼らを通して働いたのです。―出エジプト 40:1-34。

      31,32 (イ)その幕屋はどれだけの期間神の目的のために用いられましたか。(ロ)ソロモンの神殿の工事およびその完成を聖霊が支援したことはどのような事から明らかですか。

      31 会見の天幕としてのこの幕屋は485年のあいだ持続してその目的を果たしました。その後,西暦前1027年にソロモン王がエルサレムに神殿を完成し,それを神の崇拝のために献納しました。

      32 ダビデの子ソロモンによるこの神殿の造営も神の聖霊による後ろだてを受けました。ダビデはこの新しい建造物の設計図とも言うべきものを霊感によって与えられたのです。歴代志略上 28章11-19節が述べるとおりです。『ダビデ言ひけらく この工事の式様は皆ことごとくエホバのその手を我が上にくだして我を教へて書かせたまひしものなりと』。(文語)この壮麗な神殿がエルサレムのモリア山上に落成した時,エホバはご自分に対する崇拝のためのその新しい建物に対する是認を表明されました。『雲そのいへすなはちエホバのいへにみてり 祭司は雲のゆえをもて立ちてつとめをなすことを得ざりき エホバの栄光神のいへにみちたればなり』― 歴代下 5:13,14,文語。

      33 ゆえに,神への清い崇拝の背後には何がありますか。

      33 ゆえに,わたしたちは一つの肝要な点を確信していましょう。すなわち,エホバへの純粋な崇拝の背後には聖霊があるのです。それは,唯一のまことの神への清い崇拝を実践し,それを擁護する人々を支えて強力に活動します。その事の例は,特別に選ばれた裁き人たちが,約束の地に入ったイスラエルを治めた時代にも示されました。

      裁き人が治めた時代におけるその目ざましい活動

      34 聖霊は裁き人オテニエルを通してどのように働きましたか。

      34 清い崇拝から離れたイスラエル人は,そのために圧制的なシリアの王の勢力下に置かれるようになりました。『ここにイスラエルのひとびとエホバによばはりしかば エホバはイスラエルのひとびとのためにひとりの救者を起こしてこれを救はしめたまふ すなはちカレブのをとうとケナズの子オテニエルこれなり』。どのような事が起きましたか。『エホバの霊オテニエルにのぞみたれば彼イスラエルを治め戦ひに出づ エホバ メソポタミヤの王クシャンリシャタイムをその手にわたしたまひたればオテニエルの手クシャンリシャタイムに勝つことを得たり かくて国は四十年のあひだ太平なりき』― 士師 3:9-11,文語。

      35 裁き人ギデオンの場合,聖霊はどのように働きましたか。

      35 やがて事態は再び厳しくなり,イスラエルの人々はエホバに呼ばわって,別の裁き人を起こし,ご自分の民イスラエルを救出してくださるようにと求めました。『ここにミデアン人アマレク人および東方の民相集まりて河をわたりエズレルの谷に陣を取りしが エホバの霊ギデオンに臨みてギデオンらっぱを吹きたればアビエゼル人集まりてこれに従う』。(士師 6:33,34,文語)この信仰の人を用いてエホバはご自分の民に目ざましい勝利をお与えになりました。それは後に聖書の歴史の中でも言及されるほどの勝利でした。―イザヤ 9:4-6; 10:26。詩 83:9-12。ヘブライ 11:32,33。

      36 裁き人エフタを通して聖霊は何を成し遂げましたか。

      36 エホバからの聖なる活動力が信仰の人々のために幾度も働きました。エホバはその人々を用いて後代に伝わるようなみ業をなされたのです。抑圧されたイスラエル人が侵略的なアンモン人と相会して戦わねばならなかった時のことです。『ここにエホバの霊エフタに臨みしかば エフタすなはちギレアデおよびマナセをとほり……アンモンの人々に向かふ』。(文語)エホバの賛美となるような勝利を切に請い求めた裁き人エフタは,自分にとっては大きな犠牲となった誓約をしました。こうしてエホバはアンモン人を打ち懲らすためにエフタを用いました。―士師 11:29から12:7まで。

      37 イスラエル人をペリシテ人の手から救うためにエホバはだれを起こしましたか。その救いは何によりましたか。

      37 幾年も後,ペリシテ人がイスラエル人に対して特に抑圧的な態度を取るようになりました。そのため神は,サムソンという並外れの人物の誕生を図られました。それは,『ペリシテ人の手よりイスラエルをすく(ふ)』べき人です。その目的のために神の活動力が彼を支えました。『エホバの霊ゾラとエシタオルのあひだなるマハネダンにて始めて感動す』。(文語)ゆえに,かつて地上に存在したいかなる人間にも勝る強大な力を発揮したサムソンも,自らの肉体的な力でそれをなしたのではありません。―士師 13:5,25。

      38 ほえたける獅子と出会った時サムソンは何をしましたか。なぞ解きに関してペリシテ人が不公正な振舞いをした時,彼はその事態にどのように処しましたか。

      38 ある時サムソンは独りで歩いていました。突如『わかき獅子』が彼の前に飛び出し,『ほえたけりて彼に向かひ』ました。素手のサムソンはどのように行動したでしょうか。『エホバの霊彼にのぞみたれば こ山羊を裂くがごとくにこれを裂きたりしが手には何の武器も持たざりき』。そのしばらく後,ペリシテ人はあるなぞの件で彼をだまし,彼に大きな出費を負わせようとしました。これは逆にペリシテ人が災いを被る結果になりました。再度,『ここにエホバの霊サムソンに臨みしかばサムソン,[ペリシテの]アシケロンに下りてかしこの者三十人を殺し その物を奪ひかのなぞを解きし者どもにその衣服を与へ(たり)』。―士師 14:5-19,文語。

      39 イスラエル人がサムソンを新しいロープで縛ってペリシテ人に引き渡した時どんな事がありましたか。

      39 新しいロープさえサムソンにとっては強じんなものではありませんでした。悪意を抱くペリシテ人の手に渡されて縛られた時のことです。『エホバの霊彼にのぞみたればその腕にかかれるなは火にやけたる麻のごとくになりて手のいましめ解けはなれたり サムソンすなはちろ馬のあたらしきあぎと骨ひとつを見出し手をのべてこれを取り そをもて一千人を殺(せり)』― 士師 15:11-15,文語。

      40,41 サムソンがイスラエルの裁き人として仕えた期間より死の際に殺したペリシテ人のほうが多いのはどんな出来事によりますか。

      40 偽りの神ダゴンの崇拝者であったペリシテ人に対して神がサムソンを通して行なった最大の事跡は,その最後のものでした。それは神の霊が弱り衰えたりはしないことを示すものです。

      41 デリラという女によって売り渡され,復しゅうに燃えるペリシテ人の手でめくらにされたサムソンは,ペリシテのガザにあったダゴンの神殿の二本の柱の間に立ちました。その中心的な場所で『サムソンすなはちその家のよりてたつところのふたつの中柱のひとつを右の手ひとつを左の手にかゝへて身をこれによせたりしが サムソン我はペリシテ人とともに死なんといひて力をきはめて身をかがめたれば 家はそのなかに居る群伯とすべての民のうへに倒れたり かくサムソンが死ぬるときに殺せしものは生けるときに殺せし者よりもおほかりき』― 士師 16:23-30,文語。

      42 ヘブライ 11章32-34節の中でサムソンの名はどんな人々と共に挙げられていますか。

      42 サムソンは,神からの霊の実である神への信仰を抱いた古代の人々の中に数えられています。「このうえ何を言いましょうか」。ヘブライ書の筆者はその第11章でこう問い掛け,自らこう答えます。「さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。彼らは信仰により,王国を闘いで打ち破り,義を成し遂げ,約束を得,ししの口をふさぎ,火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強力な者とされ,戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させました」― ヘブライ 11:32-34。

      エホバの油そそがれた者

      43 サムエルがベツレヘムでダビデに油をそそいだすぐ後ダビデにはどんな変化が起きましたか。

      43 ヘブライ書の筆者が挙げる顕著な名は,ベツレヘムのエッサイの子ダビデです。まだ十代の羊飼いの少年であった時,ダビデは預言者サムエルによって油をそそがれました。やがてイスラエル全十二部族の王となるためです。こうして油をそそがれた直後にどのような事がありましたか。「エホバの霊がその日以降ダビデの上に働き始めた。後にサムエルは立ってラマへ去って行った。そして,エホバの霊が[その時治めていた王]サウルから離れ(た)」。(サムエル前 16:13,14)やがて,不忠実な王サウルは絶望のあまり霊媒に頼りました。死者との交信ができるようにと望んだのです。そのしばらく後,彼はペリシテ人との戦いで死にました。

      44 サウル王の討死の後,神はダビデをどのように扱われましたか。

      44 ダビデのほうは,サムエルによりそのためにあらかじめ油をそそがれていた王の地位に就きました。彼が揺らぐことなく崇拝した神は彼に力を与えて,数々の功業を立てさせました。約束の地全体を従えるまでになったのです。それだけではありません。神は彼に霊感を与えて預言を語りかつ書き記させました。彼は真の預言者の一人となったのです。ゆえにこそ,「聖句の成就することが必要でした。それは,聖霊がダビデの口により……あらかじめ語ったものです」と述べられています。―使徒 1:16; 4:24,25。

      45 信仰によるそうしたすべての功業に関し,その賛美はだれに帰せられますか。ゼカリヤ 4章6節にある神の言葉のしるしとしてゼルバベルと大祭司ヨシュアはどんな祝いにあずかりましたか。

      45 それら古代の人々のなした数々の並外れた功業について,そのすべての賛美は,尽きざる動的エネルギーの源なる神に帰せられねばなりません。そうした功業の中には,霊感によるヘブライ語聖書39冊,創世記からマラキ書までを記録することも含まれています。ゼカリヤの預言書の中では,総督ゼルバベルに対して激励の言葉が与えられています。ゼルバベルはエルサレムに神殿を再建する任務を与えられていました。それは西暦前607年,バビロニア人の手で破壊されたままになっていたのです。その神殿再建者に与えられたのは次の言葉です。『万軍のエホバのたまふ これは権勢によらず能力によらず 我が霊によるなり』。(ゼカリヤ 4:6,文語)軍事力その他の物理的な力より強力なものによって支えられた総督ゼルバベル,およびその同労者であった大祭司ヨシュアは,敵の反対を物ともせずに作業を進め,こうして西暦前515年,エルサレムにおけるエホバの神殿再建の完成を祝う特権にあずかりました。

      この時代における功業の曙光

      46 どのような点でそれら聖霊による人間の功業には単なる忠実以上の意味がありますか。

      46 ゼルバベルに対する激励の言葉は,西暦紀元の500年以上も前に霊感によって与えられたものです。それでもそれは,預言者ゼカリヤの時代と同じく今日のわたしたちにとっても極めて意味のある言葉です。なぜ? なぜなら,わたしたちは,エホバ神が超人間的な動的エネルギーの源であることを信じているからです。全能の神が古代の人々に聖霊を働かせて行なわせた数々の勇気ある信仰の業には,単なる史実以上の意味があります。それは,メシアすなわち神の油そそがれた者の到来からわたしたちの世代にまでわたって神が行なわれる数々の功業の曙光でもありました。

      47,48 (イ)到来を予告されたメシアはその誕生においてどのような特別のいきさつをを持つ人によって紹介されましたか。(ロ)メシアの前駆者はその母の胎以来どんなものによって満たされますか。その人は何を行ないますか。

      47 到来を予告されたメシアは,1,900年前,ある意味で同じく異例な誕生のいきさつを持つ別の人によって紹介されました。その人の誕生はその父と母の普通の生殖力によるものではありませんでした。その時,その二人は子供を生む年齢をずっと過ぎていたのです。二人の生殖力をよみがえらせることが必要でした。彼らの独り子を生むためです。その父である祭司ゼカリヤはその息子をヨハネと名付けることになります。

      48 その大いに待望された息子の誕生を告げるにあたり,み使いガブリエルは神殿でゼカリヤにこう述べました。「彼は,まさにその母の胎にいる時から聖霊に満たされます。そして,イスラエルの子らの多くの者をその神エホバに立ち返らせるでしょう。また,彼はエリヤの霊と力をもってそのみまえを行きます。それは,父の心を子どもに,また不従順な者を義人の実際的な知恵に立ち返らせるため,準備のできた民をエホバのみまえにととのえるためです」― ルカ 1:5-17。マラキ 4:5,6と比較。

      49 それで,真のメシアは自らを紹介するのですか。それともだれか他の者によって紹介を受けるのですか。どのように?

      49 真のメシアはこのような前駆者によって紹介されます。それは,自らメシアと称し,イスラエル国民に自分を宣伝し,自らについてふれ回って大勢の追随者を寄せ集めようとするような野心的人物ではありません。(イザヤ 42:2-4)むしろ,その者は,神によって遣わされ,神からの後ろだてを持つ人により,メシアを待ち望む人々の前に正式に紹介されるのです。―イザヤ 40:3-5。ヨハネ 1:6,7。

      50 ヨエル 2章28-32節はメシアの到来後に何が起きると述べていましたか。

      50 メシアの到来後には,ヨエル 2章28-32節にある目ざましい預言が成就することになっていました。『その後われわが霊をすべての人に注がん 汝らのむすこむすめは預言せん 汝らの老いたる人は夢を見 汝らのわかき人はまぼろしを見ん その日我またわが霊を僕しもめに注がん また天と地にしるしをあらはさん すなはち血あり火あり煙の柱あるべし エホバの畏るべき大いなる日の来たらんさきに日は暗く月は血に変はらん すべてエホバの名をよぶ者は救はるべし そはエホバののたまひしごとくシオンの山とエルサレムとに救はれし者あるべければなり そののこれる者[生き残った者,新]のうちにエホバの召したまへるものあらん』。(文語)

      51 (イ)ヨエルの預言から見て今どんな点を尋ねるのがよいですか。(ロ)なぜ人は今エホバの名を呼び求めるべきですか。

      51 さて,わたしたちはここで尋ねます。エホバがあらゆるたぐいの肉なる者の上に注ぐと約束したもの,それを受けるのはだれでしょうか。その注ぎ出されるものによって動かされてそれらの人々は預言をするのです。その人々の預言の業は時宜を得たものとなります。『エホバの畏るべき大いなる日』の到来に先立ち,それを予告するからです。そうした預言の業に注意を払う人々は救われた者たちの中に入ることでしょう。その人々は「生き残った者」たちの中に入るでしょう。この時代西暦1914年以来のあらゆる状況から判断するなら,わたしたちの前途にある『エホバの日』は,まさに『畏るべき大いなる日』となります。『救はれる』者となることを願いますか。それを願うなら,わたしたちは『エホバの名をよぶ』ことが求められます。ご自分の霊をもって新秩序を来たらせる方の名を呼び求めることが必要です。

  • 聖霊と力をもって油そそがれた最初の者
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第5章

      聖霊と力をもって油そそがれた最初の者

      1,2 (イ)約束のメシアはだれにより,また何をもって油そそぎを受けますか。(ロ)その者はイザヤのどんな預言を引いて自分に当てはめますか。

      古代イスラエルの王や祭司たちは公式の油をその頭に注がれてその職に任ぜられました。約束のメシアもまたそのようにして油そそぎを受けるのですか。そうではありません。真のメシア,それは,神が「聖霊と力をもって」油をそそぐ者です。(使徒 10:38)それは,イザヤ 61章1-3節の預言的な言葉を引いて自分に当てはめることのできる人であるはずです。

      2 『主エホバの霊われに臨めり こはエホバわれにあぶらをそそぎて貧しきものに福音をのべ伝ふることをゆだね 我をつかはして心の傷める者をいやし とらはれびとにゆるしをつげいましめられたるものに解き放ちをつげ エホバのめぐみの年とわれらの神の刑罰の日とを告げしめ またすべてかなしむものをなぐさめ 灰にかへ冠をたまひてシオンの中のかなしむ者にあたへ 悲しみにかへて歓喜のあぶらを与へ うれひの心にかへて賛美の衣をあたへしめたまふなり かれらは義の樹エホバの植えたまふ者 その栄光をあらはす者ととなへられん』。(文語)

      3 神の霊が働いた古代の人々が約束のメシアでなかったのはなぜですか。

      3 これ以前の人々も,神の霊に包まれ,その働きを受け,あるいはそれに満たされたことがありました。しかし,聖霊によって油そそぎを受けたことはありません。したがって,それらの人のいずれかが待望のメシアとなったことはありません。バプテスマを施す人ヨハネについて,み使いガブリエルはその父である祭司ゼカリヤに,「彼は,まさにその母の胎にいる時から聖霊に満たされます」と言っていましたが,このヨハネについてさえ上記のことが言えました。―ルカ 1:15。

      4 バプテスマを施す人ヨハネは,その母の胎にいる時から聖霊に満たされていたにもかかわらず,キリストに関してどんなことを告白しましたか。

      4 祭司やレビ人たちがエルサレムからヨハネのもとに遣わされてきました。その行なっている業から見て,ヨハネが公式にどのような者であるかを,ヨハネ自身に言わせるためでした。ヨハネはどのように応じましたか。「彼は告白して拒まず,『わたしはキリストではありません』と告白した。そこで彼らはこう尋ねた。『ではなんですか。あなたはエリヤですか』。すると彼は言った,『そうではありません』。『あなたはかの預言者ですか』。すると彼は,『いいえ!』と答えた。それで彼らはこう言った。『あなたはだれですか。わたしたちを遣わした者たちに答えのできるようにしてください。あなたは自分についてなんと言いますか』。彼は言った,『わたしは,預言者イザヤが言ったとおり,「エホバの道をまっすぐにせよ」と荒野で叫ぶ者の声です』」― ヨハネ 1:19-23。イザヤ 40:3。マラキ 4:5,6。申命 18:15-19。

      5,6 (イ)キリストに関して何を行なわせるために神はヨハネを遣わしましたか。(ロ)ヨハネは真のメシアすなわちキリストと自分とをどのように対比しましたか。

      5 こうしてヨハネは,自らは聖霊で満たされた人でしたが,神の霊で油そそぎを受ける約束の者であることは否定しました。彼は偽キリストになろうとはしませんでした。真のキリストすなわちメシアの前駆者にすぎないことをはっきり言い表わしたのです。事実,真のキリストすなわち真のメシアに水のバプテスマを施させるため,神はこの人を遣わしたのです。―ヨハネ 1:29-34。

      6 この点に関するヨハネの正直さをさらに証しするものとしてルカ 3章15-17節の記録があります。「さて,民は待ち設けており,またすべての者がヨハネに関し,『あるいは彼がキリストではなかろうか』と心の中で考えをめぐらしていたので,ヨハネはすべての者にこう言って,その答えを与えた。『わたしは,あなたがたに水でバプテスマを施します。しかし,わたしより強いかたが来られます。わたしはそのかたのサンダルの締めひもをほどくにも価しません。そのかたはあなたがたに聖霊と火でバプテスマを施すでしょう。穀物を簸るシャベルがその手にあり,それは自分の脱穀場をすっかりきれいにし,小麦を自分の倉の中に集めるためです。しかし,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うでしょう』」。

      7 火でバプテスマを施されるより霊でバプテスマを施されるほうが願わしいのはなぜですか。

      7 メシアはバプテスマを受けまた神の霊で油そそぎを受けるだけではありません。自らも他の人々に聖霊でバプテスマを施すのです。ヨハネの言葉はこの点をも明らかにしています。火でバプテスマを施されるよりは,聖霊でバプテスマを施されるほうがずっとよいでしょう。火でバプテスマを施されるとすれば,燃え尽きるまでは消されることのない火で燃やされる無価値なもみがらのごとくに滅ぼし絶やされることになるからです。―マタイ 3:7-12。

      8 そのころ人々がメシアの出現を待ち設けていたのはなぜですか。なぜその事は切迫した問題でしたか。

      8 『民が待ち設けて』いたのは意外なことではありません。メシアの出現する時が来ているということを,人々は聖書から算出していたのでしょう。そのゆえに,バプテスマを施すヨハネがあるいは約束のメシアではなかろうかと考えたのです。(ダニエル 9:24-27)メシアすなわちキリストに関する事は時間的に切迫した問題でした。メシアを派遣する神はその時を定めなく引き延ばすのではありません。メシアを遣わすことを思い定め,その決定を実施するための時をあらかじめ指定しておられました。神はぐずぐずといたずらに事を延ばしたりはされません。み言葉の中に示した時の定めを守られるのです。

      9 ガラテア 4章4,5節は,神がいたずらに事を引き延ばす方でないことをどのように示していますか。

      9 ガラテア 4章4,5節はこう述べます。「時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て律法のもとに置かれ,こうして彼が律法のもとにある者たちを買い取って釈放し,わたしたちが養子とされることになったのです」。

      10 神は定めの時にみ子をどこから遣わしましたか。どんな国籍の女から生まれさせましたか。

      10 上記の言葉の筆者である使徒パウロには,神の物事の取決めにおける時と時節について論ずべき多くの事がありました。彼は,神のみ子がユダヤ人を買い取って釈放する者であることを述べています。このゆえにみ子は彼らのメシア,キリストとなるのです。神はこの者をどこから遣わしましたか。ほかならぬ天から,この「独り子」が遠い昔に神に創造されて以来いたその所からです。彼は「律法のもとに」生まれました。それは,ユダヤ人,イスラエル人,モーセが仲介者となったエホバとの律法契約を結んだ国民の一員として生まれるという意味でした。したがって,神の子を産み出すその女もまたユダヤ人,モーセの律法の下にある者でなければなりませんでした。―ガラテア 3:19-25。

      11 神のみ子とその女の居所の違いから,み子がメシアとなるためにはどんな事が必要でしたか。

      11 奇跡が起こらねばなりませんでした。それはただ全能の神のみが行ない得る事柄です。神の「初子」なるみ子,「ことば」もしくはロゴスは強大な霊者として天にいました。一方,その女,メシアとなる者を産み出す者はこの地上にいました。み子がそのままの者としてこのユダヤ婦人の胎内に入ることはできません。では,どうするのでしょうか。み子は「神の形」でいた自分が備えていた一切のものを無にしなければなりませんでした。自分の命を見えない天からその女の胎内に移し入れてもらうことが必要でした。こうして彼は「人のようなさま」の者として生まれるのです。これは,この神のみ子にとって大いに謙遜になることを意味しました。(フィリピ 2:5-8)しかし,み子はみ父に対する愛,また天の父の目的に仕えることのために,それを喜んで行なおうとしていました。

      12 神が選び取られたのはどんな「女」でしたか。メシアがその女の「初子」であるべきだったのはなぜですか。

      12 天の父はこの奇跡をどのようにして行なわれましたか。どんな手段で? それには一人の「女」が関係していました。多くのイスラエル婦人,特にユダ族の婦人たちは,約束のメシアの母となることを望み見ていたことでしょう。しかし,メシアの母となるかどうかは自ら選択できる事柄ではありません。メシアの天の父こそ,この点で選択力を行使し得る唯一の方でした。そしてそれを行なわれました。神が選び取られたのは未婚の「おとめ」でした。(イザヤ 7:14)もしそれが既に結婚して子供を持ったことのある女であれば,その父や種々の相続権などに関して疑問も起きたことでしょう。ゆえに,神の選び取られた「おとめ」は,もとより「処女」でした。(マタイ 1:22,23)神の「初子」が血肉の完全な人間として生まれてくるわけですが,この点でもその女の「初子」であることが必要でした。―コロサイ 1:15。ヨハネ 3:16,17。

      13 神は二度目の使いとしてガブリエルをだれのもとに遣わしましたか。ガブリエルはどのようにして彼女に見える姿で現われましたか。

      13 選ばれる女はエッサイの子なるダビデ王の子孫であることも必要でした。ダビデ王に対してそのような関係の者であれば,その女は自分の初子に,「ヤコブ(イスラエル)の家」の十二部族を治めるダビデの王国に対する生得的な権利を得させることができます。適切にも,その選ばれた女は,「ダビデの都市」,すなわちユダ州のベツレヘムの生まれでした。(ルカ 2:11)しかし,神の大いなる恵みを受けることが知らされた時,その女はガリラヤのナザレの町に住んでいました。その六か月ほど前,神はみ使いガブリエルを遣わして,祭司ゼカリヤに,一人の息子,ヨハネと名付けるべき者の誕生を告げておられました。そして適切にも,神は今,同じガブリエルを,メシア,すなわちヨハネが世に紹介するはずの者の母となる女のもとに遣わされたのです。それはユダヤ人の処女で,マリアという者でした。ダビデの王統を引くヘリという人の娘でした。ガブリエルは化肉し,人間の形を取ってマリアに現われました。そのあいさつの言葉はマリアにとって驚きとなりました。どうしてこの突然の訪問者は,エホバが自分と共にいる,と述べるのでしょうか。どうしてこの自分と?

      14 神がなぜ彼女と共におられるのだろうかとの疑問の説明にあたってガブリエルはマリアに何と語りましたか。

      14 それは,エホバが彼女を選んで,栄光ある王としてのメシアの母とならせることにされたからです。ゆえにガブリエルは言いました,「マリアよ,恐れてはなりません。あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:26-33。

      15 み使いは,マリアの上に何が働くと述べましたか。それはどんな結果をもたらしますか。

      15 未婚の「おとめ」,「処女」である者にどうしてそのような事が起きるのでしょうか。それがマリアの問いでした。わたしたちの問いでもあったことでしょう。ゆえに今,マリアに対して何が働くのかに注目しましょう。「み使いは答えて言った,『聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます』」― ルカ 1:34,35。

      16 (イ)マリアから生まれる者はなぜ「聖なる」者となりますか。(ロ)マリアはガブリエルにどのように答えることもできましたか。しかし,実際にはどうしましたか。

      16 「聖霊」が働くのです。それによって「聖なる」者が誕生します。それは処女による誕生です。神にとってこれはなし難い奇跡ではありません。み使いガブリエルは次のように述べてマリアへの言葉を結びます。「神にとっては,どんな布告も不可能なことではないのです」。(ルカ 1:37)このすべてに対してマリアはどのように応じましたか。彼女は次のように言うこともできました。『でも,ご覧ください。わたくしはすでに,ダビデ王家に属する,ヤコブの子の大工ヨセフと婚約しております。わたくしは彼の子供たちの母となる務めを負っております。ヨセフとの約束を破ることはできません。どうかわたくしをご容赦ください』。こうして確かに複雑な事情もあるように思われました。しかし神もそのすべてを知っておられました。ゆえにマリアは信仰のうちにガブリエルにこう答えました。「ご覧ください,エホバの奴隷女でございます! あなたの布告どおりのことがわたしの身になりますように」― ルカ 1:38。

      17 天にいた神の「初子」に今どんな事が起きましたか。マリアの婚約者ヨセフは何をするように告げられましたか。

      17 全能の神の奇跡によるマリアの妊娠が今や起きることになりました。突然,地上のマリアには全く知られない形で,神の「初子」が天から姿を消しました。その生命力は処女マリアの体内に移し入れられたのです。ゆえにこう記されています。「その母マリアがヨセフと婚約中であった時,ふたりが結ばれる前に,彼女が聖霊によって妊娠していることがわかった。しかし,その夫ヨセフは義にかなった人であり,また彼女をさらし者にすることを望まなかったので,ひそかに離婚しようとした。しかし,彼がこれらのことをよく考えたのち,見よ,エホバの使いが夢の中で彼に現われて,こう言った。『ダビデの子ヨセフよ,あなたの妻マリアを家に迎えることを恐れてはならない。彼女のうちに宿されているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。あなたはその名をイエスとしなければならない。彼は自分の民をその罪から救うからである』」― マタイ 1:18-21。

      18 実際のところイエスはだれの子でしたか。その名に預言的な意味のあったことを述べなさい。

      18 イエスという名には預言的な意味がありました。それはエホシュアの短縮形で,エホシュアとは「エホバは救い」という意味です。適切にも,この名を持つその者は「自分の民をその罪から救う」ことになっていました。ガブリエルの述べたとおり,その者はヨセフの子となるのではなく,「神の子」となるのです。

      19 マリアの子イエスが神の新しい子でなかったのはなぜですか。彼が「神の化身」でも「神なる人」でもなかったのはなぜですか。

      19 奇跡によるマリアの初子は神の新しい子となるのではありません。実際のところ,すでに永年存在していた神の子であり,その生命が,マリアを人間としての母とする形で天から地に移されたのです。ゆえに当然の事として,キリスト教世界の多くの宗教家のように彼を「神の化身」と呼ぶことはできません。これは霊感の聖書の中に見いだされない表現です。天において神の「初子」は「ことば」(もしくはロゴス)という称号を有していました。ゆえに,ヨハネ 1章14節はこう記しています。「こうして,ことばは肉体となってわたしたちの間に宿り,わたしたちはその栄光,父の独り子が持つような栄光を目にしたのである」。また,キリスト教世界の牧師が彼を「神なる人」と呼ぶのは誤りです。テモテ第一 2章5,6節の中で彼は「人間キリスト・イエス」と呼ばれています。彼は,至高の神であると唱えたことはなく,またそう唱えることはできませんでした。―ヨハネ 20:31。ルカ 1:32。

      だれにより,何をもって油そそがれたか

      20 マリアの初子はどこで生まれましたか。なぜそこで?

      20 異教ローマ帝国の皇帝カエサル・アウグスツスの治世に,イエスはユダのベツレヘムで生まれ,ミカ 5章2節の預言を成就しました。それは西暦紀元前2年の初秋でした。ヨセフとマリアが登録のためベツレヘムにいた時のことです。「彼女は自分の子,初子を産み,これを布の帯でくるんで,飼い葉おけの中に横たえた。泊まり部屋に彼らの場所はなかったからである」― ルカ 2:7。

      21 イエスの誕生の夜,地上においてその目撃証人とされたのはだれですか。どのように?

      21 メシアとなるべき者がついに到来しました! 胸の躍るような知らせです。栄光ある神の使いがそれを羊飼いたちに知らせました。その羊飼いたちは自分の羊の群れの番をして夜にベツレヘム近くの野にいたのです。「み使いは彼らに言った,『恐れてはなりません。見よ,わたしはあなたがたに,民のすべてに大きな喜びとなる良いたよりを伝えているのです。きょう,ダビデの都市で,あなたがたに救い主,主なるキリストが生まれたからです』」。生まれたばかりでベツレヘムのある飼い葉おけの中にいたイエスは気付いていませんでしたが,その時の事についてこう記されています。「突然,大ぜいの天軍がそのみ使いとともになり,神を賛美してこう言った。『上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人びとの間にあるように』」。次いでその知らせを受けた羊飼いたちは飼い葉おけの中の赤子を探しに行ってそれを見つけ,こうしてその重大な夜にイエス誕生の目撃証人になるという報いを得ました。―ルカ 2:8-20。

      22 イエスが,み使いの述べた「主なるキリスト」になったのはいつでしたか。どのように?

      22 イエスが実際に「主なるキリスト」となったのはいつでしたか。生まれて八日目,割礼を受けた時ではありません。その日には油をそそがれませんでした。それがなされたのは30歳の時です。イエスはバプテスマを施すヨハネのところに行きました。その時ヨハネはヨルダン川でバプテスマを施していました。イエスは,自分に公式の油をそそいでイスラエル全十二部族のメシアなる王とすることをヨハネに求めたのではありません。ヨハネの公の活動の間多くのユダヤ人がしていたと同じように水のバプテスマを求めたのです。「さて,民がみなバプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった。そして,祈っておられると,天が開け,聖霊がはとのような形をとって彼の上に下り,また天から声があった。『あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した』」― ルカ 3:21-23。

      23 バプテスマを施す人ヨハネはイエスがキリストとなった時の事についてどのように証ししましたか。

      23 後に,預言者ヨハネはこの出来事について自分の弟子たちに証しをし,こう語りました。「わたしも彼を知りませんでしたが,水でバプテスマを施すべくわたしを遣わしたそのかたが,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,それがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました。そしてわたしはそれを見たので,このかたこそ神の子であると証ししたのです」― ヨハネ 1:33,34。

      24 アンデレは自分の兄弟にだれを見つけたと言いましたか。ナタナエルはイエスについてどんなことを認めましたか。

      24 イエスがヨルダン川でバプテスマを受けておよそ40日後,ヨハネは自分の弟子二人を呼んでイエスに注意を向けさせました。その二人はイエスの後に着いて行き,イエスによる聖書の教えを受け入れました。自分たちの見いだした驚嘆すべきもののため喜びに圧倒されたその一人,アンデレは,自分の兄弟ペテロを見つけてこう言いました。『「わたしたちはメシアを見つけた」(メシアとは,訳せば,キリストという意味である)』。そのしばらく後,ナタナエルという人がイエスのもとに連れて来られました。イエスの話すことを聴いた後,ナタナエルはイエスに言いました,「ラビ,あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。これは事実上,油をそそがれたイエスがメシア,キリストであるということの,ナタナエルによる確証です。―ヨハネ 1:35-49。

      霊的なメシアまたキリスト

      25 ヨハネのバプテスマは罪人を対象とするものであったのにイエスがヨハネからバプテスマを受けたのはなぜですか。

      25 地上のイエスは純然たる人間なる神の子で,悔い改めるべき罪は何一つありませんでした。ではどうして,罪のゆるしのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた人の手で浸礼を受けたのですか。それは詩篇 40篇6-8節の預言を成就するためでした。イエスが受けた水のバプテスマは,「神よ,あなたのご意志を行なうために」と述べて自らを捧げることの象徴でした。そのご意志は以後イエスに示されてゆくのです。(ヘブライ 10:5-10)その神のご意志は,メシアすなわちキリストとしてどのように行動すべきかを彼に示すものとなります。

      26 天から聞こえた神の言葉が述べたことはイエスの生涯においてどんな変化となりましたか。それはイエスにとってもなぜ必要なことでしたか。

      26 イエスがバプテスマの水から上がった時,神の声が天から聞こえました。「これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した」。(マタイ 3:17)これはイエスの生涯における変化となりました。どのように? 神は今,この30歳のイエスをご自身の霊的な子という関係に入れたのです。神の宣言はそのことを意味していました。こうして,神のこの子が天に戻る道が開かれました。これはイエスにとっても必要なことでした。イエス自ら後にユダヤ人の支配者ニコデモに説明したとおりです。「再び生まれなければ,だれも神の王国を見ることはできません。……水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできないのです。肉から生まれたものは肉であり,霊から生まれたものは霊です。わたしがあなたに,あなたがたは再び生まれなければならないと言ったからといって,驚いてはなりません」― ヨハネ 3:3-7。

      27 み子に関する神の天からの発表はイエスに関してどんなことを示しましたか。マリアに対するイエスの関係は今やどのように変わりましたか。

      27 天からの宣言によって,エホバ神は,天の神の王国に入る見込みを持つ霊的な子を生み出したことを発表されました。肉なるものの母であったマリアは,この霊的な神の子の母ではありません。以後イエスが彼女を自分の「母」と呼んだ記録はありません。これに応じて,イエスは「神から生まれたかた」で,自分の弟子,追随者たちを見守ると語られています。その例として,ヨハネ第一 5章18節はこう述べています。「神から生まれた子がこれを守る。悪しき者がこれに触れることはない」。(エルサレム聖書)「これを安全に守るのは神の子であり,悪しき者がこれに触れることはない」。(新英語聖書)ゆえに,その地上の母マリアに対するイエスの関係は変わりました。以来イエスは霊的な物事に一身を捧げ,マリアの町ナザレで大工の職に戻ることはありませんでした。

      28 こうして油をそそがれたイエスはどのようなメシアとなりましたか。どこから治めますか。

      28 神の霊的な子,そのような子として生み出された者の上に神の聖霊が下り,その者をメシアすなわちキリストとして油そそぎを得させました。この者はただの血肉の人間のメシアより強大な者となります。霊的なメシアとなり,やがて天の神の王国にあって治めるのです。このメシアが天に上る時,「その父ダビデの座」も天まで高められることになります。そして,彼が「王としてヤコブの家を永久に支配する」のは天の王座からです。―ルカ 1:32,33。

      29 油そそがれた者としてイエスはどんな称号を自分の名に付されることができましたか。彼は何をもって油そそぎを受けましたか。

      29 ヨルダン川で神の聖霊をもって油そそぎを受けた後,イエスは自分の名にメシアもしくはキリストという称号を付して呼ばれることができるようになりました。正式な意味でイエス・メシアもしくはイエス・キリストとなったのです。その数か月後,イエスがガリラヤへ戻る途中のこと,一人のサマリア人の女がイエスに言いました,「わたしは,メシアが,キリストと呼ばれるかたがおいでになることを知っています。そのかたが到来されるときには,すべてのことをはっきりと告げ知らせてくださるのです」。これに対しイエスは静かに答えました,「あなたに話しているこのわたしがそれです」。(ヨハネ 4:25,26)メシアすなわちキリストとしてイエスは油をそそがれた者となりました。公式の油をその頭に注がれることによってではありません。ただ神だけが霊的な子としてのイエスの上に注ぐことのできたものをもってです。それは何でしたか。使徒ペテロがこう答えます。『神は聖霊と力をもって彼に油をそそがれました。彼は善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました』― 使徒 10:38。

      30 ダビデの場合と同じように,油そそぎを受けたすぐ後イエスはどのようにその影響を受けましたか。イエスが聖霊を失わなかったのはなぜですか。

      30 ここでわたしたちはダビデの場合を思い出します。この羊飼いの少年が預言者サムエルの手で実際の油をそそがれた後,神の活動力がその上に働くようになり,彼は数々の際立った事柄を行ないました。イエスが天から神によって油そそがれた後もこれと似ています。ルカ 4章1,2節はこう証言しています。「さて,イエスは聖霊に満ちて,ヨルダンから去って行かれた。そして,霊によって荒野をあちらこちらと導かれて四十日におよび,その間悪魔の誘惑を受けた」。マルコ 1章12節はこう述べます。「すぐ,霊が彼をかり立てて荒野に行かせた」。幸いにも,荒野における悪魔からの試みの下でも忠実を保ったため,イエスは聖霊を失いませんでした。メシアすなわちキリストとしての地位を離れることはありませんでした。イエスは自分の水のバプテスマが象徴したものに忠実であったのです。

      31 ヨハネの投獄の後,イエスはどんな力の下にガリラヤに戻りましたか。そこで何をしましたか。

      31 西暦30年,イエスの前駆者であったバプテスマを施す人ヨハネが,ガリラヤ四分領の太守ヘロデ・アンテパスによって投獄されました。それでイエスはユダヤを離れ,サマリアを通ってガリラヤに帰りました。ここでイエスは,人々がメシアすなわちキリストを見分けるための聖句を自分に当てはめました。(マタイ 4:12-17)「それからイエスは霊の力に動かされてガリラヤに帰られた。すると,彼の評判は周囲の全地方にあまねく広まった。また,彼は人びとの会堂で教えはじめ,すべての人から敬われた」。(ルカ 4:14,15)神からの油そそぎが民に聖書を教えるイエスを助けるものとなりました。

      32 ナザレの会堂でイエスはイザヤのどんな預言を朗読しましたか。それについてどのように注解しましたか。

      32 郷土の町ナザレの会堂でイエスは,自分が神によって油をそそがれたことが,メシアに関するイザヤ 61章1-3節の預言の成就であることを指摘しました。この事についてはルカ 4章16-21節にこう記されています。

      「そしてイエスはナザレに来られた。そこは彼の育てられた所である。そして,安息日ごとの自分の習慣どおり会堂に入り,ついで,朗読のために立ち上がられた。そこで預言者イザヤの巻き物が彼に手渡された。彼は巻き物を開き,こう書いてある所を見いだされた。『エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそぎ,捕われ人に釈放を,盲人に視力の回復を宣べ伝え,打ちひしがれた者を解き放して去らせ,エホバの受け入れられる年を宣べ伝えさせるために,わたしを遣わしてくださったからである』。そうして彼は巻き物を巻き,それを付き添いの者に返して,腰を下ろされた。すると,会堂にいたすべての人の目がじっと彼に注がれた。その時,彼はこう言い始められた。『あなたがたがいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています』」。

      33 イエスが宣明すべく使命を受けた「良いたより」とは何に関するものでしたか。それを宣明するため彼はどこにまで遣わされましたか。

      33 イザヤの預言はエホバの油そそがれた者の歩みをいかにも美しく予告していました。エホバの活動力,彼がそれをもって油そそぎを受けたものが大いなる恵みのもとに彼を通して働くのです。地上でメシアとして奉仕した残りの三年の間,彼は終始愛をもって神からのこの預言的な使命を遂行しました。貧しい人々に彼の宣明した「良いたより」とは,神のメシア王国に関する音信でした。霊的に飢えた群衆,彼を引き留めようとした人々に対して,彼はこう言いました。「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」― ルカ 4:43。

      34 イエスが町から村へと宣べ伝えて行った時だれがそれに伴いましたか。

      34 後の記録はさらにこう述べています。「その後まもなく,イエスは,都市から都市,村から村へと旅をされ,神の王国の良いたよりを宣べ伝えまた宣明された。そして十二人[の使徒]は彼といっしょにおり,邪悪な霊たちや病気を除いてもらった女たち,七つの悪霊が出て来た,マグダレネと呼ばれるマリア,ヘロデ家の管理人クーザの妻ヨハンナ,そしてスザンナおよびほかの多くの女たち,これらの者が自分の持ち物の中から彼らに奉仕をしていた」― ルカ 8:1-3。

      35 イエスは福音宣明の活動をどのように拡大しましたか。

      35 イエス自身が神の王国の良いたよりをふれ告げただけではありません。同様の伝道の業のために自分の弟子たちをも派遣したのです。イエスの下で一年以上訓練を受けた後,十二人の弟子は王国をふれ告げるため自分たちだけで遣わされました。ルカ 9章1,2節はこう記しています。「それから,イエスは十二人を呼び集め,すべての悪霊を制し,さまざまな病気を治す力と権威をお与えになった。そして,神の王国を宣べ伝え,かつ病気をいやさせるために彼らを遣わし(た)」。その次の年,イエスは福音宣明の隊伍にさらに70人を加えました。「こののち,主はほかの七十人を指名し,行こうとしておられるすべての都市と場所へ,自分に先だってふたりずつお遣わしになった。そのさい,彼らにこう言いはじめられた。『……また,どこであれ,あなたがたが都市に入り,人びとがあなたがたを迎えてくれるところでは,あなたがたの前に出される物を食べ,そこにいる病気の者たちを治し,「神の王国はあなたがたの近くに来ました」と告げてゆきなさい』」― ルカ 10:1-9。

      36 それら福音宣明者たちが支配権力者たちの前で証言する時その背後には何がありますか。この時代においても王国伝道の業が何者も抗し難い力を帯びているのはなぜですか。

      36 油そそがれたイエスが伝道の業を行なった時,その背後には神の活動力がありました。その力はまた,イエスが遣わしたこれら福音宣明者たちの背後にもありました。彼らが支配権力者たちの前に呼ばれる時にも,その力が彼らを見捨てることはありません。イエスは言いました,「どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなたがたに与えられるからです。話すのはただあなたがたではなく,あなたがたの父の霊が,あなたがたによって話すのです」。(マタイ 10:18-20。ルカ 12:11,12)このことは,現在の「事物の体制の終結」の時に神の王国の良いたよりを宣べ伝える人々にも当てはまります。(マタイ 24:3,9-14)今やメシア・イエスの手中にあって天に確立されたメシア王国の伝道の業の背後にはこの霊の働きがあります。そのゆえにこそ,その業は人間の力では抗し難い勢いをもって進んできたのです。―マルコ 13:10-13。

      37 宗教上の反対に面してもイエスのいやしの力が弱まったりしないことを,ルカ 5章17-26節に記される例がどのように示していますか。

      37 イエスが油をそそがれたのは,人間によったのではなく,その天の父によりました。ゆえに,「(彼は)善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました。神がともにおられたからです」と記されています。(使徒 10:38)宗教指導者たちからの悪意の反対も,彼に働いて奇跡を行なわせていた力を弱めることはありませんでした。その良い例についてこう記されています。「そうしたある日のことであったが,イエスは教えておられ,ガリラヤとユダヤのすべての村およびエルサレムから出て来たパリサイ人や律法の教師たちもそこに座っていた。そして,彼がいやしを行なうようにエホバの力がそこにあった」。それら宗教家たちの敵対的な態度にもかかわらず,イエスは体の麻ひした無力な人をいやしました。深い感銘を受けた人々は,「きょうは不思議な事を見たものだ」と言いました。―ルカ 5:17-26。

      38 イエスは自分の行なう奇跡の誉れをだれに帰しましたか。偽りをもって自分をとがめる者たちに対しイエスはどんな罪の警告をしましたか。

      38 こうしたいやしの奇跡について,イエスはその誉れをその当然帰せられるべき方に帰しました。それゆえ,悪魔サタンを「悪霊どもの支配者ベエルゼブブ」と呼び,イエスはこの悪魔と手を結んでいるのだととがめ立てした人々に対し,イエスは,『わたしが悪霊たちを追い出すのは神の霊による』とはっきり答えました。さらにイエスはそれら反対する人々にこう警告しました。「霊に対する冒とくはゆるされません。……聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです。この事物の体制においても,また来たるべき体制においてもです」。それら反対者たちは,明らかに神の聖霊の働きによる奇跡であった事柄を悪意を抱いて悪魔の働きに帰したことによって,そのゆるされざる罪を犯していました。―マタイ 12:24-32。

      『霊によって神の子』と呼ばれる

      39 ユダヤ人一般の考えとは異なり,彼らの持っていたヘブライ語聖書はメシアの経験する事柄に関してあらかじめどんなことを告げていましたか。

      39 イエスの時代,メシアがどのような人物として現われるか,またそのためにどのような歩みが定められているかに関して誤った見解が広がっていました。イエスに敵対した人々は,自分たちの持つヘブライ語聖書の中に,メシアが神の意志のもとにまず死に至るまでの苦しみを忍ばねばならないと書かれていることに気付きませんでした。神の「女」の「胤」の主要な者としてメシアの「かかと」は『砕かれ』ることになっていたのです。(創世 3:15)この点でヘブライ語聖書中の預言が成就した後,使徒ペテロは,エルサレムの神殿に集まったユダヤ人の群衆にその事実を指摘してこう語りました。「こうして神は,すべての預言者の口を通してあらかじめ発表された事がら,すなわち,ご自分のキリストが苦しみを受けるということを成就されたのです」― 使徒 3:18。

      40 イエスはメシアが苦しみを受けて死なねばならないことを知っていましたが,使徒たちに対するどんな言葉によってそれを示しましたか。

      40 イエスはヘブライ語聖書に基づいて,メシアが苦しみを受けて死なねばならないことを知っていました。使徒たちはイエスがメシアであることは知っていましたが,イエスが辱めの死を忍ばねばならないことについて告げられた時,それは彼らにとって意外な驚きとなりました。使徒ペテロがそのような考えに異議を唱えた時,イエスはペテロにこう言いました。「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えをいだいているからです」。イエスの前駆を勤めたバプテストのヨハネはその敵対者たちの手にかかってほしいままの苦しみを浴びせられましたが,その時イエスは,「このように,人の子も彼らの手で苦しみを受けるように定められている」と語りました。―マタイ 16:21-23; 17:12,13。

      41 西暦第一世紀,キリストの弟子たちの会衆はキリストの死に方のゆえにどのようにみなされていましたか。

      41 最後にイエスは,神に対する冒とく者,またローマ帝国に対する騒乱扇動者のごとくに扱われて死に処せられました。この事は,イエスを約束のメシアとして受け入れるという点では,ユダヤ人にも異邦人にも大きなつまずきとなりました。25年以上も後,ローマに在住していたユダヤ人は,イエスの弟子たちに対する自分たちの態度を表明して,投獄されていた使徒パウロにこう言いました。『実際この派について,いたるところで反対が唱えられていることは,わたしたちの知るところです』― 使徒 28:22。

      42 使徒パウロがしたように,クリスチャンはメシアについて聖書からどんな点を論証することが必要でしたか。

      42 イエスがエルサレムの外で苦しみの杭に掛けられて死んだこと,これはイエスが聖書の約束したメシアであることを疑わせるものではありません。その事実こそイエスが真のメシア,神のキリストであることを裏書きするものなのです。クリスチャンはその点を論証することが必要でした。マケドニアのテサロニケで会堂に入った使徒パウロの例を見ることにしましょう。「パウロは自分の習慣どおり彼らのところにはいり,三つの安息日にわたって彼らと聖書から論じ,キリストが苦しみを受け,そして死人の中からよみがえることが必要であったことを説明したり,関連した事がらを挙げて証明したりして,『わたしがあなたがたに広めているこのイエス,これがキリストです』と言った」。(使徒 17:1-3)幾年も後,使徒パウロは囚人としてローマ知事フェストおよびそれを訪ねていたアグリッパ王の前に立ちました。自分の主張を述べるためです。自分の弁明の最高潮としてパウロはこう語りました。

      「わたしは神からの助けを得てきましたので,この日に至るまで,小なる者にも大なる者にも証しを続けています。しかし,預言者たちそしてまたモーセが起こるであろうと述べた事がら以外には,何も語っておりません。すなわち,キリストが苦しみを受け,また死人の中から復活させられる最初の者として,この民にも諸国民にも光を広めるであろうということです」― 使徒 26:22,23。

      43 パウロは神のどんな奇跡の証人となりましたか。これがなぜ神の最大の奇跡であるかをペテロはどのように示していますか。

      43 フェストとアグリッパの前で大胆に言明したとおり,パウロはイエスの復活の証人でした。(使徒 26:12-18)また,コリント第一 15章3-8節で,パウロは,自分の転向以前に「五百人以上の兄弟」がイエスの死からの復活の目撃証人となったことを証言しています。イエス・キリストが死んで三日目に復活したこと,これは神の最大の奇跡でした。神にはそれを成し遂げる動的エネルギーがありました。なぜこれは大切な点でしたか。使徒ペテロはその理由を説明してこう記しています。「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。この状態でまた,彼は獄にある霊たちのもとに行って宣べ伝えました」― ペテロ第一 3:18,19。

      44 ペテロによると,イエスはどのようなものとして生かされましたか。

      44 ペテロの言葉はどういう意味ですか。次の点です。すなわち,全能の神は,イエスを人間として復活させたのではなく,霊者として,朽ちることなく,死に冒されることのない不滅の霊者としてよみがえらせたのです。

      45,46 (イ)ヨルダン川で神の霊が下った後,イエスはどのような者と宣言されましたか。(ロ)死からの復活により,イエスは何によって神の子と宣言されましたか。

      45 イエスの肉体は神が処理する犠牲として死のうちにまかれました。そのゆえにイエスは,「霊の体」を持つ栄光ある者として天の命へのよみがえりを与えられ,不滅性を付与されて二度と死ぬことのない者とされました。(コリント第一 15:42-54)それ以前,イエスの水のバプテスマの日に,エホバ神はご自分の聖霊によって彼を子として生み出し,以後天の相続物への見込みを持つ霊的な神の子としました。イエスを子としたことの証しとして,神は天から言葉を出され,油そそぎを受けたイエスが神の愛する者,是認された霊的な子であることを発表されました。(マタイ 3:13-17)しかし,イエスが死から復活した日,神は,イエスが神の霊の子として完全に生まれたことを宣言されました。そのゆえにパウロはこう書いています。

      46 『その良いたよりは,神がご自分の預言者たちを通じて聖なる書の中にあらかじめ約束されたもので,神のみ子に関するものです。そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活によって神の子と力づよく宣言されたかたです。(そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストです)』― ローマ 1:1-4。

      47 エフェソス 1章19-21節でパウロはイエスを復活させた神の奇跡の壮大さについてどのように述べていますか。

      47 エホバがイエス・キリストを復活させて不滅の霊としたこと,これはまさしく驚くべき奇跡であり,使徒パウロはその点をさらに証ししてこう書いています。「それは神の強大な力の働きにしたがってであり,神はキリストの場合,その働きをもって彼を死人の中からよみがえらせ,天の場所においてご自分の右に座らせたのです。すなわち,あらゆる政府と権威と力と主権,また称えられるあらゆる名のはるか上にであり,単にこの事物の体制においてだけでなく,きたるべき体制においてもです」― エフェソス 1:19-21。フィリピ 2:5-11。ペテロ第一 3:21,22。

      48 創世記 3章15節が言う「女」とはだれのことでしたか。イエスを復活させることにより,神はどんな傷をいやしましたか。

      48 イエス・キリストのこのすばらしい復活を成し遂げることによって,天の医師なるエホバは,大いなる蛇悪魔サタンが自分の邪悪な地上の組織を用いて「女」の「胤」の「かかと」に加えた傷をいやしました。(創世 3:15)神のこの秘義における「女」とは,罪人となったエバでも,ユダヤ人の処女マリアでもありません。それは,聖なる霊の被造物から成る,神の妻のような天の組織です。その組織が,この地上における約束のメシアとしての奉仕のために神の独り子を備えたのです。―ガラテア 4:25,26と比較。

      49,50 神の「女」の「胤」の主要な者は今やどんな事を行なう立場にありますか。その者を通して来るどんなものにわたしたちは歓呼しますか。

      49 神の「女」の「胤」の主要な者たるイエスは,今や大いなる蛇悪魔サタンの頭を砕き,彼とその「胤」なるすべての者を打ち砕く立場にいます。もはやわたしたちは,ユダヤ人であれ異邦人であれ,真のメシアが肉体でこの地上に来るのを待つ必要はありません。彼は確かに来て,西暦第一世紀にその地上での役割を全うしました。(ヨハネ第一 4:2。ヨハネ第二 7)今彼は天での栄光をもってその報いを受けています。彼は今,霊的なメシアまたキリストとなっています。地上の人間のメシアまたキリストであった時よりはるかに多くの事をなし得る立場にあります。

      50 すべての栄光はエホバ神,そのみ子イエスに「聖霊と力をもって」油をそそぎ,貴いメシアとならせた方に帰せられます。一切の歓呼は,栄光を受けた霊的メシア,神のキリストを通して全人類に及ぶことが約束された壮大なる永遠の祝福に向けられますように。―使徒 10:38。創世 22:18。

  • 王国宣明のために油をそそがれた会衆
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第6章

      王国宣明のために油をそそがれた会衆

      1 二千年前,世界の救いに関してどんな問いがありましたか。

      今日のわたしたちの前には世界的に重要な意味を持つ数々の問いがあります。それらは,二千年ほど前に中東に住んでいたなら恐らくわたしたちが直面したであろう問題と関係のある問いです。その当時,それは世界的な重要性を持つ問題となっていました。それは,世界の救い手,メシアをめぐる問題であったからです。今や彼が初めて登場すべき時が到来していました。ゆえに,関心を持つ人々は彼の現われを待ち設けていました。彼が登場する時,人類の全世界から歓呼をもって迎えられるでしょうか。あるいは,その時代に定められた使命を遂行する時,人々はむしろそれに失望するのでしょうか。その者こそメシア,聖書が予告したそのとおりを行なう者であることをはっきり認め,自分の指導者としてそれに従うのはだれでしょうか。彼につまずくことなく,正しく近づいて行くのはだれでしょうか。そして今日,世を救うメシアのもとに引き寄せられているのはだれでしょうか。どのようにそうしていますか。

      2 (イ)神の「女」の「胤」の主要な者はどんな役割を果たすことになっていましたか。(ロ)女の「胤」を構成する他の者たちとはだれですか。その者たちはだれによって教えを受けますか。

      2 今日の安全な導きのために幾つかの点を銘記しておきましょう。すなわち,真のメシアとは,予告された神の「女」の「胤」の主要な者となるべき者です。そして,大いなる蛇である悪魔サタンによって『そのかかとを砕かれる』者です。「女」すなわちその「胤」の母となるのは,聖なる霊の被造物すなわち「真の神の子ら」なるみ使いたちで成る天の組織で,神の妻のような地位にあります。その女の約束された「胤」とは,すなわちその女の子たちで成っており,そのうちの主要な者がメシアで,他の者たちはメシアの霊的な追随者たちです。これら女の「胤」の残りの構成員たちについてはイザヤ 54章13節の次の言葉があります。それはその象徴的な「女」にあてて語られたものです。『なんぢの子らはみなエホバに教へをうけなんぢの子らのやすきは大いならん』。(文語)その「子ら」が女の天の夫なるエホバ,「胤」の父にあたる方から教えを受けるというのはいかにも適切です。―イザヤ 54:5。

      3 イエスはイザヤ 54章13節の「子ら」という言葉をだれに当てはめましたか。今それらの者たちは見えない教え手によってどのように教えられていますか。

      3 女の「胤」の主要な者であるイエス・キリストは,その女にあてられたイザヤ 54章13節の言葉を自分の時代の物事に当てはめました。どのようにですか。メシアとしてのイエスに近づかず,そのゆえに彼に対してつぶやきを抱いていたユダヤ人に対してイエスはこう語りました。「わたしを遣わしたかたである父が引き寄せてくださらないかぎり,だれもわたしのもとに来ることはできません。そしてわたしは,終わりの日にその者を復活させるのです。預言者たちの中に,『そして彼らはみなエホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者はみなわたしのもとに来ます」。(ヨハネ 6:44,45)もちろんエホバは,わたしたちのだれに対しても,見える形で教え手となってはおられません。それでも,霊感による教科書というべきものを備えてくださいました。それで,その教科書により,またご自分の聖霊の働きによって,メシアなる「胤」およびそれを産み出す「女」に関する事をわたしたちに教えておられます。こうしてエホバは,「胤」の主要な者なるメシアのもとに,それを構成する他の者たちを引き寄せて,一つの会衆とされました。

      4 イエスの宣教活動の第三年目までに,イエスの使徒たちは,イエスがどのような者であるかについて一般の民とは異なるどんな見解を持つようになっていましたか。

      4 イエスの公の活動の第三年目に入っていたその時までに,ユダヤ人は,奇跡を行なうこの人物が神の目的の中でどのような地位を占める者かについて,ある程度の判断に至っているべきでした。そのうちどれほどの人が,メシアに関し『エホバによって教えられ』ていることを示していたでしょうか。イエスがこの点について使徒たちに尋ねたのは適切なことでした。

      「イエスは彼らに質問して,こう言われた。『群衆はわたしのことをだれだと言っていますか』。彼らは答えて言った,『バプテストのヨハネ,しかしほかの者はエリヤ,さらにほかの者は,古代の預言者のひとりがよみがえったのだと言っています。するとイエスは彼らに言われた,『だが,あなたがたは,わたしのことをだれだと言いますか』。ペテロは答えて言った,『神のキリストです』。するとイエスは彼らにきびしいことばで語り,このことをだれにも話さないようにと指示され,またこう言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを経,年長者・祭司長・書士たちに退けられ,かつ殺され,三日目によみがえらされるのです』」― ルカ 9:18-22。マルコ 8:27-32と比較。

      5 マタイ 16章16-19節によると,ペテロの答えに応じてイエスはペテロに何と言いましたか。

      5 使徒マタイによる記述はこの時の事をさらに詳しくこう述べています。「シモン・ペテロが答えて言った,『あなたはキリスト,生ける神の子です』。イエスはそれにこたえて言われた,『ヨナの子シモンよ,あなたは幸福です。肉と血があなたにこれを啓示したのではなく,天におられるわたしの父がそうなさったからです。また,あなたに言いますが,あなたはペテロであり,この岩塊の上にわたしは自分の会衆を建てます。ハデスの門はそれに打ち勝たないでしょう。わたしはあなたに天の王国の鍵を与えます。なんでもあなたが地上で縛るものは天において縛られたものであり,なんでもあなたが地上で解くものは天において解かれたものです』」― マタイ 16:16-19。

      6 「岩塊」に関するイエスの言葉をペテロが誤って解釈しなかったことを何が示していますか。パウロはだれがその「岩塊」であると述べましたか。

      6 ペテロに対するこのほめ言葉からも明らかな点として,ペテロはエホバに教えられ,エホバから学んだ者の一人となっていました。それによって彼はイエスのもとに引き寄せられ,メシアもしくはキリストと認めてそのもとに来ていたのです。ペテロの名には「石」もしくは「一片の岩」という意味があります。しかしそれは,ペテロが,イエスがその上に自分の会衆を建てる「岩塊」であるという意味ではありません。「あなたはキリスト,生ける神の子です」というペテロの告白,その告白が「岩塊」であるというのでもありません。「岩塊」とはイエス自身を指していました。ペテロはイエスの言葉を誤って解釈することはありませんでした。ペテロ第一 2章4-10節に示されるとおり,ペテロは自分が「岩塊」(ギリシャ語ペトラ)であるなどとは唱えていません。さらに,使徒パウロも次のように書いています。ペテロは,パウロの記した物も霊感による聖書の一部であることを認めているのです。「……[荒野のイスラエル人]はいつも,自分たちについて来た霊的な岩塊から飲んだのです。その岩塊はキリストを表わしていました」― コリント第一 10:4。ペテロ第二 3:15,16。

      7,8 (イ)使徒たちはメシアの王国に関してどんな誤った考えを抱きましたか。(ロ)天の王国の「鍵」はだれに与えられますか。しかし,会衆はだれの上に建てられますか。

      7 イエスは王国について話しましたが,その時使徒たちは,エルサレムを都とするような王国について考えていました。エルサレムはダビデ王が統治の座とした所です。使徒たちは,イエスがメシアとしてエルサレムに自分の政府を立て,ダビデ王の後継者となることを期待していました。そのように考えていた証拠として,彼らは死から復活した後のイエスにこう尋ねています。「主よ,あなたはいまこの時に,イスラエルに王国を回復されるのですか」。(使徒 1:6)西暦33年のペンテコステの祭りより前のその時,使徒たちは,よみがえったキリストの王国が超人間的なもので,地上のイスラエル国よりはるかに大きな範囲を治めることを理解していませんでした。それゆえに,イエスがキリストであることをペテロが告白した後,イエスが「天の王国」について語ったのは当を得たことでした。

      8 その天の王国の「鍵」を,イエスはペテロに与えると言われました。(マタイ 16:19)しかし,会衆そのものは,イエス・キリストにより,王なる「岩塊」の上,メシアなる王の上に建てられます。そして,「ハデスの門」は土台となるその「岩塊」に打ち勝たず,イエス・キリストは三日目に墓からよみがえりを受けますが,「ハデスの門」はメシアのもとにある会衆にも打ち勝つことがありません。それもまた死からよみがえるのです。

      会衆に対する見えない助け手

      9 キリストの追随者たちは集められて何を構成しますか。しかしまた,彼らは古代イスラエルの場合と同じく同時に何をも成しますか。

      9 キリストの使徒たちとは異なり,イスラエル国民一般は,エホバの目的の中でイエスの占める地位に関して依然混迷のうちにとどまっていました。そのため,イエスをメシアすなわちキリストとして受け入れた個々のイスラエル人は集められて一つの新しい国民を構成することになりました。この国民はまた,古代のイスラエルの場合と同じく一つの会衆でもあります。メシアなる王およびその王国を宣明する人々の会衆となるのです。

      10 ペテロ第一 2章8-10節でペテロはその目ざましい事実をどのように指摘していますか。広く宣明されるべき「卓越性」の中にはどんな事が含まれていますか。

      10 『エホバによって教えられた』者の一人である使徒ペテロはこの目ざましい事実を学び取っていました。彼が仲間の信者たちに最後に書き送った事柄の中には次の点が含まれていました。「彼ら[不信のイスラエル人]はまさにそうした結末に定められてもいました。しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」。(ペテロ第一 2:8-10)その驚嘆すべき方の「卓越性」の中には,メシアとしてのみ子を退けた人々のあらゆる敵対活動の中でメシアに関するご自身の目的を遂行してゆく神の能力も含まれています。その「特別な所有物となる民」には,メシアの王国に関してエホバに賛美を帰する務めがあるのです。―イザヤ 43:21。

      11,12 イエスが弟子たちに「助け手」を送ることを約束したのはなぜですか。イエスはその助け手について何と述べましたか。

      11 新しい「聖なる国民」は,敵意に満ちる世界にあって,このような務めをただ自分の力でやり遂げることはできません。イエスはそのことを知っていましたから,敵の手で捕縛されて忠実な使徒たちから取り去られる前に次のことを話されました。「わたしはあなたがたを取り残されたままにはしておきません。……しかし,父がわたしの名において遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなたがたにすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事がらを思い起こさせるでしょう」。またこう言われました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わす助け手,すなわち父から来る真理の霊が到来するとき,その者がわたしについて証しするでしょう。そして今度はかわってあなたがたが証しをするのです。あなたがたはわたしのはじめた時からともにいるからです」。―ヨハネ 14:18,26; 15:26,27。

      12 イエスはさらにこう言われました。「わたしが去って行かなければ,助け手は決してあなたがたのもとに来ないからです。でも去って行けば,わたしは彼をあなたがたに遣わします。……その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなたがたを真理の全体へと案内するでしょう。彼は自分の思いつきで話すのではなく,すべて自分が聞く事がらを話し,きたらんとする事がらをあなたがたに告げ知らせるからです。その者はわたしの栄光をあらわすでしょう。彼はわたしのものから受けて,それをあなたがたに告げ知らせるからです。父が持っておられるものはみなわたしのものです。そのためわたしは,彼はわたしのものから受けて,それをあなたがたに告げ知らせると言ったのです」― ヨハネ 16:7,13-15。

      「助け手」なる聖霊の到来

      13 約束された「助け手」はだれの名において分け与えられますか。まただれの名を信じる者に?

      13 イエス・キリストが使徒たちにこの約束をするより500年足らず前,エルサレムにいた総督ネヘミヤはイスラエル人に対する神の取り計らいに関して次の祈りの言葉を記しました。『汝は年ひさしく彼らをゆるしおき 汝の預言者たちによりて汝の霊をもて彼らを戒めたまひ(たり)』。(ネヘミヤ 9:30)そして今,メシアなるイエスがその弟子たちから身体的に離れている間,その同じエホバ神の霊が弟子たちの助けに送り出されるのです。それはただイエスの名においてのみ彼らに分け与えられます。また,そのイエスが真のメシアの名であることを信ずる人々にのみ分け与えられます。では,それが最初に分け与えられたのはいつでしたか。

      14,15 (イ)イエスは復活後四十日間の最高潮として,ヨハネのバプテスマとは異なるどんなものを約束しましたか。(ロ)この約束されたバプテスマに関してどんな問いがありますか。

      14 イエスが死から復活したのは西暦33年ニサン16日,日曜日でしたが,その後40日の間,彼はこの地上に,ただし目に見えない形でとどまっていました。時折,彼は昔の聖なるみ使いたちがしたと同じように化肉して人間の形を取り,自分が確かに死からよみがえったが今は霊となっているという証拠を自分の弟子たちに示しました。そのようにして弟子たちに現われた時にも,彼は「神の王国に関する事がらを話(し)」続けました。(使徒 1:1-3)使徒の中にはかつてバプテスト・ヨハネの弟子であった者たちがいました。次いでその四十日目,昇天の日に,イエス・キリストは弟子たちに次の言葉を述べて,その期待を大いに高まらせました。「ヨハネはたしかに水でバプテスマを施しましたが,あなたがたはこれから幾日もたたないうちに聖霊でもってバプテスマを施され(ます)」。(使徒 1:4,5)悔い改めたユダヤ人に対するヨハネのバプテスマは,モーセを通して与えられた神の律法に対して犯した罪の悔い改めを象徴するものでした。

      15 そのような水のバプテスマはある種の安ど感を与え,また良心を安んじさせたことでしょう。では,イエスの弟子たちが「聖霊でもってバプテスマを施される(それに浸される)」時,それはどのようなものをもたらすでしょうか。それは彼らに活力を与えるはずです。神の聖霊は,神の聖なる見えない活動力だからです。―マタイ 3:11。

      16 使徒 1章6-8節のイエスの言葉によると,聖霊は活力を与えて弟子たちに何を行なわせますか。

      16 それが到来する時,神の聖霊はそれを受ける人々に活力を与えて何を行なわせるのでしょうか。昇天のすぐ前,イエスは弟子たちにこう言われました。「聖霊があなたがたの上に到来するときにあなたがたは力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。(使徒 1:6-8)この言葉の中にわたしたちの問いの答えがあります。すなわち,聖霊はそれを受ける人々に活力を与えて,イエスがメシア,キリストであるという証しを全世界に行なわせるのです。

      17 イエスの復活から50日目,どんな状況の下で弟子たちに対するイエスの約束は実現しましたか。

      17 こうしてイエスは天に昇ります。十日たちます。そして,イエスの復活から数えて五十日目になりました。エルサレムではユダヤ人の七週の祭りもしくはペンテコステ(「50番目」の日という意味)の祭りが進行しています。その朝早くおよそ120名の弟子たちが一つ所に集まっていました。祭り気分の神殿にではなく,とある階上の間で何かを待っています。「突然,激しい風が吹きつけるような物音が天から起こり,彼らの座っている家全体を満たした。そして,さながら火のような舌が彼らに見えるようになってそこここに配られ彼らおのおのの上に一つずつとどまり,彼らはみな聖霊に満たされ,霊が語らせるままに異なった国語で話し始めたのである」― 使徒 2:1-4。

      18,19 ペテロが説明したとおり,そのペンテコステの日にどんな預言が成就し始めましたか。その預言が語られてからどれほど後のことでしたか。

      18 こうしてついに,それが語られてから800年以上も後に,ヨエル 2章28-32節の預言がその成就を見はじめました。驚いたユダヤ人たちは集まってきてその現象にただ見とれました。中には,弟子たちは酒に酔っているのだと唱える者もいました。しかし使徒ペテロは大胆にこう話しました。

      19 「それどころか,これは預言者ヨエルを通して言われた事がらです。『神は言われる,「そして終わりの日に,わたしは自分の霊をあらゆるたぐいの肉なるものの上に注ぎ出し,あなたがたの息子や娘は預言し,あなたがたの若者は幻を見,老人は夢を見るであろう。そして,わたしの男奴隷の上にも,女奴隷の上にも,わたしはその日に自分の霊を注ぎ出し,彼らは預言するであろう。またわたしは,上は天に異兆を,下は地にしるしを,血と火と煙の霧とを与える。エホバの大いなるきわだった日の到来する前に,太陽はやみに,月は血に変わるであろう。そして,エホバの名を呼び求める者はみな救われるであろう」』」― 使徒 2:16-21。

      20 そこでどんなバプテスマが起きましたか。そのバプテスマを施すために用いられた者をペテロはどのように明らかにしましたか。

      20 聖霊によるバプテスマが起きたのです。イエスの約束したとおりでした。霊が『注ぎ出される』と述べられていますが,それがバプテスマもしくは浸礼のための流体のようなものであるという事と一致しています。神はさきに,バプテスマを施す人ヨハネにイエスに関するしるしを与えました。「その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である」ことを示すためでした。(ヨハネ 1:33)その事にたがわず,使徒ペテロは,栄光を受けたイエス・キリストが神の代理者としてそれら最初のクリスチャンたちの上に聖霊を注ぎ出している,という点を明らかにしました。ペンテコステを祝っていたそれらユダヤ人に対してペテロはさらにこう語りました。「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です。それで,彼は神の右に高められ,約束の聖霊を父から受けたので,この,あなたがたの見聞きするものを注ぎ出されたのです」― 使徒 2:32,33。

      21 栄光を受けたイエスが注ぎ出したものを人々が見聞きしたとペテロが述べたのはどうしてでしたか。

      21 彼らは聖霊の働きを見聞きしたのです。火でできたような舌が弟子たちの頭上にとどまるのを見,弟子たちが奇跡的に語る異国の言葉を聞いたからです。

      22 水のバプテスマの後イエスに起きた事柄に対応するものとして,弟子たちにはその時ほかにどんな事が起きていましたか。

      22 しかしながら,そのペンテコステの日には,聖霊をもってイエスの弟子たちにバプテスマを施す以上の事がなされていました。彼らに聖霊をもって油をそそぐこともなされていたのです。イエスは水のバプテスマの後聖霊をもって油そそぎを受け,それによってキリストすなわち油そそがれた者となりましたが,その弟子たちの場合も同じです。バプテスマを受けたその同じものをもって油そそぎを受けたのです。

      23 また,パウロがコリント第二 1章21,22節で説明するとおり,弟子たちは何をもって証印を押されましたか。

      23 さらに,彼らはその霊によって証印を押されてもいました。それは来たるべき霊的相続物のしるしでした。使徒パウロは古代ギリシャ,コリントにあったクリスチャン会衆にあててこう述べています。「あなたがたとわたしたちがキリストに属することを保証してくださるかた,そしてわたしたちに油そそいでくださったかたは神です。神はまたわたしたちにご自分の証印を押し,きたるべきものの印,つまり霊をわたしたちの心の中に与えてくださったのです」― コリント第二 1:21,22。

      24 使徒ヨハネは油そそぎに関し,ヨハネ第一 2章20,27節の中で後に何と書きましたか。

      24 使徒ヨハネは,聖霊が注ぎ出されたそのペンテコステの日にその場にいたゆえに,起きた事柄の意味を理解していました。それで彼は仲間の信者たちにこう書いています。「あなたがたには聖なるかたからのそそぎの油があります。あなたがたはみな知識を持っています。そして,あなたがたについていえば,彼から受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっており,だれかに教えてもらう必要はありません。むしろ,彼からのそそぎ油がすべてのことについてあなたがたを教えており,またそれが真実であって偽りでないように,そしてそれがあなたがたを教えたとおりに,引き続き彼と結ばれていなさい」― ヨハネ第一 2:20,27。

      聖霊により子として生み出す

      25 バプテスマを受けたクリスチャンが天の相続物を望み見るためには,聖霊のどのような働きを経ることが必要ですか。

      25 この神の活動力の働きにはもう一つの注目すべき面があります。イエスは次のように述べてその点を示しました。「水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできない」。(ヨハネ 3:3,5)天の相続物を望み見るクリスチャンは,水のバプテスマを受けてその主イエスに倣わねばなりません。こうしてその人はエホバ神に対する自分の献身を表わします。その献身は神の意志を行なうためです。(マタイ 28:19,20)しかし,その人の上には聖霊の働きもなければなりません。なぜ? 使徒パウロがコリント第一 15章50節で述べるとおり,「肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことは(ない)」からです。

      26 油そそぎについて記した後,使徒ヨハネは油そそがれた者と神との間のどんな関係について述べていますか。

      26 神の天の王国に入る者となるために,弟子たちは「再び生まれ」,こうして神の霊的な子とされねばなりません。イエス自身の場合と同じように,聖霊をもって油そそがれるのは神の霊的な子です。油をそそがれた使徒ヨハネが,油をそそぐことについて語った後に,ヨハネ第一 3章1-3節でさらに次のように述べているのはそうした理由によります。

      「父がわたしたちにどのような愛を示して,わたしたちが神の子どもと呼ばれるようにしてくださったかをご覧なさい。そして,わたしたちはそのとおりのものなのです。ですから,世はわたしたちのことを知りません。世は彼を知るようになっていないからです。愛する者たちよ,今やわたしたちは神の子どもです。しかし,わたしたちがどのようになるかはまだ明らかにされていません。彼が現わされる時にわたしたちが彼のようになることは知っています。彼のあるがままを見るからです。そして,すべてこの希望を彼に置いている者は,そのかたが浄いように,自らを浄くします」。

      27 クリスチャンが『再び生まれる』ことにおいて人間の親が何ら関与しないことは,ヨハネ 1章11-13節にどのように示されていますか。

      27 人が『再び生まれる』ことに関して人間の親は何らあずかるところがありません。人は自分自らの確信に基づいてイエスをメシアとして受け入れ,天のメシア王国の王となるべく神によって油そそがれた者と認めてこれに付き従わねばなりません。その後,そのようなキリストの追随者を聖霊によって生み出して子とするかどうかは神の意志にかかっています。人間の親ではなく,神が天への子供を生み出すのです。使徒ヨハネはその点を述べています。ヨハネの言葉は次のとおりです。「彼」,つまり19世紀前ユダヤ国民のもとに来たイエス・キリスト「は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。しかし,彼を迎え入れた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子どもとなる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から生まれたのである」。(ヨハネ 1:11-13)神が父となって生み出してくださることによってそれらの者は神の霊的な子となります。神はそれらの者を母親の胎を通して生み出すのではありません。

      「新しい創造物」

      28 神の霊的な子をもうけることを決定するのはだれですか。どのような意味でそれらの者は「被造物の初穂」ですか。

      28 人間の親は自分たちが血肉の子供を持つことについて自ら決定するのではありませんか。そうです。同じように神もだれを生み出して,天的な相続物を受け継ぐ霊的な子とするかを自ら決定されます。「父は自らそう意図されたので,わたしたちを真理のことばによって生み出し,わたしたちがある意味で被造物の初穂となるようにされました」。弟子ヤコブは,自分が「各地に散っている十二部族」と呼ぶクリスチャンたちにあててこのように書いています。(ヤコブ 1:1,18)農作の場合,「初穂」は新しい作物の中から取り出され,聖なる物,当然神に帰せられる物として神に献じられます。では,霊的な意味での初穂とはだれのことでしょうか。天の父がそのご意志のもとに,「真理のことば」によって生み出す人々です。神はそれらの人々を人間家族の中から取り出して,天の王国を構成する者たちとします。

      29 ペテロ第一 1章3,4節はクリスチャンが天の王国に入るに必要な事をどのように示していますか。

      29 その同じ初穂クラスにあてて,クリスチャン使徒ペテロはこう書きました。「あなたがたは,朽ちる種ではなく,朽ちることのない,再生する種により,生ける,いつまでも存在される神のことばを通して新しい誕生を与えられた」。(ペテロ第一 1:23)「新しい誕生」もしくは『再び生まれる』こと,これはクリスチャンが最終的に天の王国に入るために必要な段階です。そのためにペテロはこう書きました。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられんことを。神はその大いなるあわれみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新しい誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなたがたのために天に取って置かれているもので(す)」― ペテロ第一 1:3,4。ヨハネ第一 3:9も参照。

      30,31 (イ)神の「養子とされ(た)」者たちは神に向かってどのように叫びますか。(ロ)そのように養子とされた者たちはどのような契約に入り,どのような国民を構成しますか。

      30 ローマのガラテア州にいて,神に対しその「養子とされ(た)」クリスチャンたちにあてて,使徒パウロはこう書きました。「では,あなたがたは子なのですから,神はご自分のみ子の霊をわたしたちの心の中に送ってくださり,それが,『アバ,父よ!』と叫ぶのです。ですから,もはや奴隷ではなくて子です。そして,子であれば,神による相続人でもあります」― ガラテア 4:5-7。

      31 パウロもその一人でしたが,クリスチャンとなったユダヤ人はもはや,預言者モーセが仲介となった律法契約に隷属する身ではありません。彼らは今神の霊的な子であり,モーセより偉大な預言者であるイエス・キリストの仲介による「新しい契約」に入れられていました。その新しい契約は,古いモーセの律法契約が生み出し得なかったもの,すなわち「祭司たちの王国,聖なる国民」を生み出します。(出エジプト 19:5,6。ヘブライ 8:6-13。テモテ第一 2:5,6)こうして,新しい契約に入っている「聖なる国民」は霊的イスラエルとなります。それは内面においてユダヤ人もしくはイスラエル人であるクリスチャンたちによって構成されます。それらは外面の肉にではなく,その心に割礼を受けた人々です。ローマ 2章28,29節はその事を述べています。

      32 コリント第二 5章16-18節によると,わたしたちはどんなクリスチャンをも,キリストをさえもはや肉によって知ることはしませんが,これはなぜですか。

      32 神の霊的な子らに関するこれらの新たな特色すべてを見るとき,使徒パウロが「新しい創造物」について述べる事柄はわたしたちの驚きとなるでしょうか。そうではありません。むしろそれは極めて当然の事と言えます。イエス・キリストは死からよみがえらされて,天における神の霊的な子となったという事実に基づいて,使徒パウロはこう述べています。「したがって,わたしたちは今後,[クリスチャンの]だれをも肉によって知ることはありません。たとえ,キリストを肉によって知ってきたとしても,今はもう決してそのような知り方はしません。したがって,キリストと結ばれている人がいれば,その人は新しい創造物です。古い事物は過ぎ去りました。見よ,新しい事物が存在しているのです。しかし,すべてのものは神から出て(います)」― コリント第二 5:16-18。

      33 天の王国に入るために肉の割礼が必要ですか。でなければ何が必要ですか。

      33 このすべてから言える点ですが,族長アブラハムの血筋上の子孫もしくは生来のユダヤ人として肉の割礼を受けることは,メシアすなわちキリストを通して救いを得るための要求ではありません。天に行くことを期している人たちの場合,本当に必要な事は何でしょうか。霊感を受けた使徒パウロは次の簡明な言葉でそれに答えます。「割礼も無割礼も重要ではなく,ただ新しく創造されることが重要なのです。そして,この行動の規準にしたがって整然と歩むすべての人,その人たちの上に,そうです神のイスラエルの上に,平和とあわれみとがありますように」。(ガラテア 6:15,16)この「神のイスラエル」全体が「新しい創造物」です。

      34 とこしえの救いに肉の割礼が必要かどうかの論争の解決のためにアンティオキア会衆は何を行ないましたか。

      34 今日,肉の割礼を受けた人々の中には,クリスチャンとなったユダヤ人で霊感を受けた使徒でもあったパウロのこの言葉に抵抗する人たちがいるかもしれません。しかし,イエス・キリストの死と復活と昇天の後16年たった時代にも,とこしえの救いのために肉の割礼が必要であると論じる人々がいました。シリアのアンティオキアの場合がそうでした。そこは,キリストの弟子たちが初めてクリスチャンと呼ばれるようになった所です。(使徒 11:26)その問題はどうなったでしょうか。アンティオキア会衆はパウロとその宣教仲間のバルナバおよび他の幾人かを「この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに」上らせることにしました。(使徒 15:1,2)こうしてエルサレム会衆の使徒や長老たちの会議が催されました。非ユダヤ人でキリストを信じる者が外面的な肉の割礼を受けるべきか否かを決定するためです。

      35 エルサレム会議の発した布告に聖霊はどのように関与していましたか。その布告は何を定めていましたか。

      35 多くの討議がなされ,その問題と関係のある証拠が提出された後,弟子ヤコブはアモス 9章11,12節の適切な言葉を引き合いに出しました。それは神の聖霊によって霊感された言葉であり,また聖霊の導きの下に既に成就の始まっているものでした。明らかにそれは神の聖霊の導きであり,諸国民の中からエホバのみ名のために取り出された異邦人の信者に肉における外面の割礼は必要のないことを示していました。神の聖霊はこの決定的な聖句をヤコブの思いの中によみがえらせ,エルサレム会議の出す決定文の中に重要な点が含められるよう彼の提案事項を導いたに違いありません。同会議による布告は次のとおりです。

      「聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認め(ました)。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行から身を避けていることです。これらのものから注意深く離れていれば,あなたがたは栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。(使徒 15:3-29; 21:25)

      こうして,クリスチャンが天の相続物を得るために必要なものは,外面の肉の割礼ではなく,「新しく創造されること」である,という点が明らかにされました。

      36 その油そそぎのゆえに,霊によって生み出された会衆にはどんな使命を果たす務めがありますか。それに関してエホバは彼らに何を教えておられますか。

      36 その一世紀当時,クリスチャンの信者たちはエルサレム会議のその決定を喜びました。今日のわたしたちもまた,霊感によるその同じ決定を喜ぶことができます。聖書に基づいてわたしたちは次の点を理解しています。すなわち,霊によって生み出されて子とされたクリスチャンたちの会衆は「新しい創造物」であり,その会衆の首長たるイエス・キリストと同じくエホバの霊をもって油そそぎを受けています。ゆえに今,その油そそぎが彼らに任ずること,すなわち『柔和な者たちに良いたよりを告げる』ことはその会衆の持つ務めです。イエス・キリスト自身はこの務めからそれることなく,その追随者すべてに対する模範を残しました。(イザヤ 61:1-3)神の霊的な子として,彼らは「良いたより」として何を告げるべきかをエホバから教えられています。(イザヤ 54:13)エホバはそのみ子イエス・キリストの忠実の手本と言葉とによって,神のメシア王国に関する良いたよりこそ,至る所で告げ知らせるべき救命のたよりであることをクリスチャン会衆に教えておられます。

  • 「新しい創造物」は活動を開始する
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第7章

      「新しい創造物」は活動を開始する

      1,2 (イ)人間男女の創造よりも,二千年足らず前になされたどんな創造の方がすばらしい事でしたか。(ロ)ルカ 24章46-48節,使徒 1章8節にあるイエスの言葉によると,「新しい創造物」に対する油そそぎにはどんな目的がありましたか。

      六千年ほど前になされた最初の人間男女の創造はまことにすばらしい事でした。(創世 1:26-28)しかし,二千年ほど前の「新しい創造物」の誕生はそれに勝ってすばらしく,全人類にとって一層の意味を含んでいました。その誕生がなされたのは西暦33年のペンテコステの日であり,キリストの弟子たちから成る会衆の誕生と時を同じくしていました。それら弟子たちは皆,神のメシア王国の宣明のため神の聖霊をもって油そそぎを受けた人々です。

      2 歴史的なペンテコステの日より二週間足らず前,復活したイエス・キリストは弟子たちにこう言われました。

      「こう書いてあります。すなわち,キリストは苦しみを受け,三日目に死人の中からよみがえり,その名によって罪のゆるしのための悔い改めがあらゆる国民の中で宣べ伝えられる ― エルサレムから始めて,あなたがたはこれらの事の証人となるのです」。(ルカ 24:46-48)「聖霊があなたがたの上に到来するときにあなたがたは力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」― 使徒 1:8。

      3 そのための区域の割当てはどれほど大きなものでしたか。弟子たちはいつ,またどこから証しの業を始めましたか。

      3 証しのための区域の割当てとしてこれより大きなものがあり得ますか。それは全地球を包含するものでした。この区域の隅々にメシアに関する証しを至らせるのです。それには時間が必要です。そうです,粘り強さと勇気ある努力とが求められます。それでも,ペンテコステの日に約束の聖霊が下るやすぐ,彼らは他の者たちに対する証し人としての活動をまずエルサレムから開始しました。

      4 そのペンテコステの日,ヨエル 2章28,29節が予告したとおりに物事が始まったことを述べなさい。

      4 物事はヨエル 2章28,29節が予告したとおりになりました。霊に満たされた弟子たちは預言を始め,奇跡によって異国の言語をさえ語ったのです。ペンテコステの祭りのためエルサレムに来ていた幾千ものユダヤ人は集い来てその光景を目撃しました。彼らは,キリストの弟子たちのまだ小さな会衆が『神の壮大な事がらについて自分たちの国語で話す』のを聞いたのです。―使徒 2:11。

      5 そのペンテコステの日,ペテロは二つある「天の王国の鍵」の最初のものをどのように使いましたか。

      5 その出来事の意味を説明するため,使徒ペテロは,問い尋ねる群衆に率先して語りかけ,二つある「天の王国の鍵」の最初のものを使いました。(マタイ 16:19)彼はイエスがメシアであることを証ししました。ユダヤ人の指導者によって退けられ殺されたイエスが三日目に復活し,今や神の右に栄化されているのです。良心を刺されたユダヤ人たちは言いました。「皆さん,兄弟たち,わたしたちはどうしたらよいのですか」。それに対するペテロの答えはこうです。「悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりびとりは,罪のゆるしのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。[ヨエル 2:28,29の]この約束はあなたがたとあなたがたの子どもたち,また遠く離れたすべての人,わたしたちの神エホバがそのもとに召される人すべてに対するものなのです」― 使徒 2:14-39。

      6 悔い改めてバプテスマを受けたユダヤ人の身に何が起きましたか。彼らは何から救われましたか。

      6 イエスをメシアすなわちキリストとして受け入れた人々は従順な態度で水のバプテスマを受けました。こうして,その日一日だけでおよそ三千の魂が加えられました。栄光を受けたイエス・キリストは彼らに聖霊をもってバプテスマを施し,彼らは神の霊的な子たちとして新たに生まれた者となりました。また,モーセの律法契約の下から,イエス・キリストを仲介とする新しい契約の下に移されました。こうして彼らは,「この曲がった世代から救われなさい」というペテロの切なる忠言に従ったのです。これによって彼らは,西暦70年,チツス将軍旗下のローマ攻囲軍の手でエルサレムが壊滅を被った際,その時の火によるバプテスマを免れることになりました。―使徒 2:40。ルカ 3:16,17。

      7 油そそがれた者たちはどのような面でイエス・キリストに見倣うべきでしたか。イエスの予告したその業を行なうことによって信じる人々にどんな道が開けましたか。

      7 ペンテコステのその日以降,聖霊による油そそぎは,イエスをメシアとして信じるさらに多くの人々の上に続いて起こりました。それは今何を行なうためでしたか。油そそがれた者として,彼らはイエス・キリストの手本に従う務めがありました。ヨルダン川で油そそぎを受けた後イエスは何を行ないましたか。全土を回って神の王国を宣べ伝えたのです。(マタイ 4:12-17)そして,神の王国の伝道はイエスの死をもって終わるのではありません。エルサレムにおけるその殉教の数日前,イエスはローマ人による同市の壊滅を予告しましたが,同時に,その国民的な災厄の前にも,『王国のこの良いたよりが,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられる』ことを語られました。(マタイ 24:14-22)ペンテコステが到来し,弟子たちに対する聖霊による油そそぎが起きるや,油そそがれた者たちは時を移さず業に着手したのです。この王国伝道の業は,信じる人々が天の王国においてイエス・キリストと共同の相続者となるための道を開きました。

      8 王国の伝道はどのようにしてサマリア人に向けられましたか。どんな結果がありましたか。

      8 激しい迫害が始まりました。弟子たちはエルサレムから散らされました。しかし,こうして会衆が散らされたことは王国宣明の拡大につながったにすぎません。予告のとおり,証しの業はサマリア州にまで広げられました。エルサレムから追い立てられた弟子フィリポはサマリア人に注意を向けたのです。「神の王国とイエス・キリストの名についての良いたよりを宣明していたフィリポのことばを信じた時,彼らはついで,男も女もバプテスマを受けた」。後に,ペテロとヨハネがサマリアを訪れた時に,既にバプテスマを受けていたサマリア人はそれらの使徒たちを通して聖霊を受けました。―使徒 8:1-17。

      9 (イ)ユダヤ人の間で思いがけぬどんな転向が起きましたか。(ロ)ペテロは二つある「天の王国の鍵」の二番目をどのように使いましたか。

      9 次いで突然の事,不思議中の不思議が起きました。迫害者たちのリーダーがクリスチャンとなったのです。タルソスのサウロがキリスト教に転向しました。そして,メシアなるイエスの手中にあって,神の王国を宣明する者の先鋒となったのです。(使徒 9:1-30)彼の以前の名サウロは外され,使徒パウロとして知られるようになりました。その際立った転向の後,別種の注目すべき転向がありました。無割礼の異邦人つまり非ユダヤ人からの最初の転向です。それは,聖霊の導きの下に使徒ペテロが「天の王国の鍵」の二つ目を用いた際に起きました。(マタイ 16:19)ペテロがそれを行なったのはカエサレアにおいて,イタリア人の百卒長コルネリオの家で伝道した時です。使徒 10章44-48節にこう記されています。

      「ペテロがまだこれらのことについて話しているうちに,聖霊がみことばを聞いているすべての者の上に下った。そして,割礼のある人びとで,ペテロといっしょに来ていた忠実な者たちは驚嘆した。無償の賜物である聖霊が諸国の人びとの上にも注ぎ出されていたからである。彼らがいろいろな国語で話し,神をほめたたえているのを聞いたのである。これに応じてペテロは言った,『わたしたちと同じように聖霊を受けたこの人びとに,だれか水を禁じてバプテスマを受けさせないようにできるでしょうか』。そうして,イエス・キリストの名においてバプテスマを受けることを彼らに命じた」。

      10,11 (イ)コルネリオの家を始まりとして,王国伝道の業はどこへ広められましたか。だれの益のために?(ロ)異邦人世界への先達となったのはペテロでしたが,パウロはなぜまたどのように彼をしのぐようになりましたか。

      10 異邦人の百卒長コルネリオの家を始まりとして,良いたよりの伝道は「地の最も遠い所にまで」広がることになりました。それは異邦人の益のためであり,同時に生来のユダヤ人の益ともなることでした。

      11 異邦人世界への道を開くという点ではペテロが先達となりましたが,その当時無割礼の異邦人に神の言葉を宣べ伝えるという面では使徒パウロが他のすべてをしのぐ者となりました。彼は自ら「[異邦]諸国民への使徒」ととなえることを恥じませんでした。彼はそれを小さな事とは見ませんでした。その自分の奉仕の務めを栄光あるものとみなし,それに熱心に携わりました。―ローマ 11:13。

      12 伝道のためパウロはどんな遠い所にまで行こうとしましたか。しかし,その方面へはどこまで行きましたか。そこで何をしましたか。

      12 パウロは良いたよりをスペインにまで携えて行くことを願いました。しかし,イタリアのローマにおける拘留中の事が彼に関する最後の消息です。その最初の捕縛およびローマで自ら借り受けた家に拘留されていた時のパウロについてこう記されています。「こうして彼は,自分の借りた家にまる二年とどまり,そのもとに来る者をみな親切に迎え,妨げられることなく,全くはばかりのないことばで人びとに神の王国を宣べ伝え,また主イエス・キリストに関することを教えるのであった」― 使徒 28:30,31。ローマ 15:24,28。

      西暦70年以前に全創造物に及んだ証し

      13 弟子たちがその油そそぎにふさわしく行動したため,パウロはすでに西暦60-61年ごろコロサイのクリスチャンにあてて何と書くことができましたか。

      13 使徒パウロおよび他の使徒たちに倣ってメシア王国の良いたよりを宣べ伝えたクリスチャンは大勢いました。「新しい創造物」として霊によって生み出された人々の会衆はそうした伝道の業をなすべく油そそがれていました。(イザヤ 61:1-3。コリント第二 1:21,22)彼らは熱心であり,地上で最良のたよりをあたう限り多くの人々に広めてゆきました。したがって,西暦60-61年ごろ,ローマ人がエルサレムとその壮麗なる神殿を壊滅させた西暦70年より幾年か前に,使徒パウロが,ローマにおけるその拘留中の家から,小アジア,コロサイのクリスチャンにあて,当時すでに「その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられた……わたくしパウロは,この良いたよりの奉仕者とな(った)」と書き送ったのも不思議ではありません。―コロサイ 1:23。

      14 その第一世紀の会衆が成し遂げたことは今日のだれにとって手本となりますか。その人々にも今日どんな務めがありますか。

      14 キリストの油そそがれた弟子たちの会衆が第一世紀に神のメシア王国を広く宣明して全創造物に及んだということ,これはこの20世紀における油そそがれた人々の会衆にとって価値ある手本となります。この霊によって生み出された人々の会衆は,神の「新しい創造物」として,「大患難」がこの全世界を打つ前,そして,偽善的なキリスト教世界がこの邪悪な事物の体制の残りの部分すべてと共に火のバプテスマによる滅びを被る以前に,設立された神の王国に関する全世界的な証しを終えねばなりません。―マタイ 24:14-22。マルコ 13:10。

      子であることに関する霊の証し

      15 パウロは霊の証しに関してローマの会衆に何と書きましたか。今日,天に行くことを予期する人々に関してどんな疑問が起きますか。

      15 第一世紀の場合,クリスチャンの聖書筆記者およびその仲間の弟子たちは,神との関係また神に対する自分たちの責任に関して何の疑念も抱いていませんでした。彼らは,自分たちが神の霊的な子であるとの確信を持ち,天的な相続物を望み見ていました。それで,使徒パウロは,実際にローマに赴く以前から,次の確信の言葉をその地の会衆にあててはっきりと書き送ることができました。『あなたがたは,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。霊そのものが,わたしたちの霊とともに,わたしたちが神の子どもであることを証ししています。さて,子どもであるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人です。ただし,ともに栄光を受けるため,ともに苦しむならばです」。(ローマ 8:15-17)今日,天に行くことを予期すると述べる人々で,神の霊および自分自身の霊によるそのような証しを有しているのはだれでしょうか。

      16 神の霊と一世紀のクリスチャン会衆の霊との間にはどんな相互作用がありましたか。

      16 神の霊は,クリスチャンを自任していても神の相続人そしてイエス・キリストの共同の相続人ではない人々にそのような証しは行なわないはずです。どのような行為にもその反応というものがあります。その反応は呼応的な場合と,そうでない場合,反発的な場合とがあります。ローマ 8章15-17節の中で,使徒パウロは呼応的な反応について述べています。神の霊と,神の真の霊的な子自身の持つ霊との調和的な相互作用について述べているのです。では,神の霊は,「新しい創造物」とされた一世紀のクリスチャン会衆の各成員の霊と共にどのように証しをしたのでしょうか。

      17 (イ)一世紀の会衆は神の霊感を受けた僕たちを通して来る神の霊の証しに逆らいましたか。(ロ)それでテサロニケの会衆はパウロの伝えた音信をどのようにみなしましたか。

      17 神の霊が,わたしたちのクリスチャンとしての身分,神との結び付き,またわたしたちに対する神からの備えに関して証しをする場合,わたしたちはその霊に応じ,それに逆らうべきではありません。第一世紀のクリスチャンの場合,霊感を受けた使徒やキリストの弟子たちからの手紙が,自分がバプテスマを受けて所属する会衆に対して読まれると,彼らは,神の物事の取決めにおける自分たちの立場,務め,将来に対する希望に関してその手紙が自分たちに述べる事柄をそのとおり受け入れました。彼らは,それら権威ある使徒や弟子たちに神の霊が働き,神の霊がそれらの人間を器として働きかつ物事を書き記させたことを認めていました。第一世紀,マケドニアのテサロニケにあったクリスチャン会衆にあてられた使徒パウロの手紙がその事実を証ししています。彼らはパウロの記した次の言葉の真実さを知っていました。「わたしたちから聞いて神のことばを受けた時,あなたがたはそれを,人間のことばとしてではなく,事実どおり神のことばとして受け入れ(ました)。それはまたあなたがた信ずる者の中で働いています」― テサロニケ第一 2:13。

      18 一貫した事として,それらテサロニケのクリスチャンはパウロの書き記した言葉をもどのように受け入れたはずですか。パウロの言葉によると,神が彼らを選んだのはなぜですか。

      18 それで,一貫した事として,これらの信者はパウロの書いた言葉をも「神のことば」として受け入れたはずです。この手紙の中で,パウロは,テサロニケの信者たちにあて,神の「選び」について書きました。彼らはなぜ『選ばれた』のですか。「わたしたちの宣べ伝える良いたよりは,ただことばだけでなく,力と聖霊と強い確信をも伴ってあなたがたのところにもたらされたからです。それについては,あなたがたに対し,またあなたがたのために,わたしたちがどのような者となったか,あなたがたが知るとおりです。そして,多くの患難のもとで聖霊の喜びをいだきながらみことばを受け入れたことを見れば,あなたがたはわたしたちに,そして主に見倣う者となったのです」― テサロニケ第一 1:4-6。

      19 使徒たちを通して霊の賜物が分け与えられましたが,それは,それを与えられた人にとって神とのどんな関係を示したはずですか。

      19 彼らは,クリスチャン時代以前の選びの民に対し神が聖霊によって語られたことを知っていました。同様に,その第一世紀の時代においても,神はその同じ活動力により,霊感の下にあったイエス・キリストの使徒たちを通して語ることができるばずでした。さらに神は,聖霊の様々な賜物をバプテスマを受けた信者たちに伝達するためその同じ使徒たちを用いておられました。そうした賜物を与えられることは,それを与えられた人にとって,神の霊的な子供とされていることを示したはずです。―使徒 8:15-18; 19:2-6。

      20 聖霊は,クリスチャンの聖書筆記者たちの手紙を通して一世紀の会衆になされた証しにより,神に対する彼らの関係が特殊なものであることをどのように示しましたか。

      20 それらの使徒また聖書を筆記した他のクリスチャン奉仕者たちは,バプテスマを受けた信者たちの前に,地的な希望,すなわち,とこしえの父ととなえられるイエス・キリストの子供となってパラダイスの地上で永久に生きる希望を差し伸べていましたか。そうではありません。自分たちが宣べ伝え,書き送った人々の前に,その時代における希望,神の子供として生み出され,エホバの子となる希望を差し伸べていました。(イザヤ 9:6,7)霊感によるクリスチャンの文書の中で,その時代の弟子たちは,天の王国への召しを受けており,自分たちの希望は上なるイエス・キリストと共同の相続人となることである,との得心を与えられていました。(コロサイ 1:13。コリント第一 1:26-31。ペテロ第二 1:10,11)彼らの前に置かれているものはただ一つでした。どちらであろうかと迷うことはありませんでした。こうして聖霊は,それら一世紀の弟子たちに,神の子供,神の相続人であるとの証しをしていました。それはまた,それらの弟子たちが栄光を受けたイエス・キリストと共同の相続人であることを意味していました。

      21 そのような一世紀のクリスチャン自身の霊は,神の霊による証しにどのように応じましたか。それは彼らにどんな影響をもたらしましたか。

      21 彼らの内的衝動,彼ら自身の霊もまた,神の聖霊による証しに呼応しました。天の父の霊は,その霊的な子供また相続人として彼らを強めかつ励ましていました。神は彼らの中に,その地上の父親に対する子という意識よりも,天の父に対する子,霊的な子という意識を植え込まれました。

      22 (イ)クリスチャンとなったユダヤ人はもはやどんな契約の下にどのような状態でいるとは感じませんでしたか。(ロ)神の霊に答え応じ,クリスチャン自身の霊は,その人を動かして,神の霊的な子であることをどのように示させましたか。

      22 クリスチャンとなったユダヤ人もしくはイスラエル人は,古いモーセの律法契約に隷属する身分であるとはもはや感じず,もはやメシアを待ってはいませんでした。自分たちが新しい契約にしたがって崇拝する神に対してその霊的な子であることを知り,またそのように感じていました。彼ら自らの霊,その心から発する衝動的な力が彼らをして神の霊の働きに答え応じさせていました。彼らは,自然的な発露として,神に対し,「アバ,父よ!」と叫びました。霊的な子に対するその父のおきてを彼らは自分に適用しました。天の父が子に割り当てた仕事を彼らは喜び勇んで手がけました。霊的な子に対する父の天的な約束を彼らは受け入れ,その実現の際それにあずかる者となるために励み努めました。父がその子たちの前に置いた天的な希望を彼らは奉じ,その希望のもとに彼らは生きる闘いをしました。彼らはこの世の浴びせる虐待を進んで忍びました。

      23 どんな希望のゆえに,彼らは進んでキリストと共に苦しみを忍び,イエスの死と同じ様で死のうとしていましたか。

      23 彼らは,イエス・キリストと「ともに苦しむならば」,また共に神の子として栄光を与えられることを知っていました。(ローマ 8:17)そのゆえに彼らは,自らの天的な希望に従って生きるゆえの苦しみを喜んで忍びました。神の子イエス・キリストの復活の様にあずかるためにはその死の様にも倣わねばならない,という事実を受け入れたのです。―ローマ 6:5-8。

      24 (イ)彼らの霊は神の霊と共になり,どのような事実を一致して証言しましたか。(ロ)彼らの祈りと生活はどんな希望と一致していましたか。どのような事態に至るまで?

      24 こうして,一世紀に神の霊的な子となった人々の自らの霊は,神の聖霊と共になり,その者たちが新たな誕生によって今や神の子供であり,天に定め置かれた相続物を望み見る者であることを一致して証言しました。その事に応じて,彼ら自らの霊はその生活において推進の力となり,その祈りを天の父に調和させ,父の霊による証しと完全に一致したものとならせました。彼らは自分たちの天的な相続物に関連した聖句を神への祈りの中に組み入れました。そうした祈りは天の相続物を受け継ぐという彼らの希望をいよいよ明るいものとしました。そうして彼らは,自分の祈りと希望に一致して生き,考え,語り,行動しました。その祈りは彼らを強めて試練と迫害に耐えさせました。神の是認を受けた立場を得るためです。そして彼らは,その是認を受けた立場が,失望に至ることのない希望を一層強くするものであることを知っていました。自分たちの天的な希望を実現するためには「忠実であることを死に至るまでも」示さねばならないことを知っていました。―ローマ 5:3-5。啓示 2:10。

      25 上述の事は,特に1935年の春以来,献身してバプテスマを受けたクリスチャンが神との関係を判断する上でどのように助けとなるはずですか。

      25 このすべては,今日の献身してバプテスマを受けたクリスチャンにとって,自分が神の霊的な子供また相続人であり,天の王国においてイエス・キリストと共同の相続人となるものであるかどうか,神の霊が自分自身の霊と共にそのような証しをしているかどうかを判断する助けとなるはずです。このことは特に1935年の春以来問題となってきました。なぜその時から? その時,啓示 7章9-17節に描かれる「大群衆」が,『再び生まれる』必要のない地的なクラスであることが説明されたからです。その「大群衆」の前には,世界に迫り来る「大患難」を生き残り,それを出て神の義の新秩序に入り,イエス・キリストおよび14万4,000人のその共同相続者が構成する天の王国の下で地上のパラダイスを楽しむ見込みが明らかにされました。(ルカ 23:43)その王国に従順な者となり,最終的な試みの下でエホバ神の宇宙主権に対する献身を実証することによって,それらの人々はその肉体のままこの地上から死ぬことのない者となります。これらの人々は,りっぱな羊飼いイエス・キリストがヨハネ 10章16節で語った「ほかの羊」に属しています。

      取りなしをする聖霊

      26 ローマ 8章23-27節によると,聖霊は『聖なる者たち』のために他のどんな機能を果たしますか。

      26 この聖なる活動力は神の霊的な子供たちに対してその証しをするだけでなく,さらにもう一つの役割をも果たします。使徒パウロはローマの会衆にあてた手紙の中で聖霊のその機能に注意を引いています。パウロの述べるとおり,その会衆は『聖なる者となるために召された人たち』から成っており,それらの人々は「実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人」です。(ローマ 1:7; 8:16,17)パウロはこう書いています。

      「それだけではありません。霊という初穂を持つわたしたち自身も,そうです,わたしたち自身が,自らのうちでうめきつつ,養子縁組を,すなわち,贖いによって自分の体から解き放されることをせつに待っているのです。わたしたちはこの希望のもとに救われたからです。しかし,見えている希望は希望ではありません。というのは,その事がらが見えるとき,人はそれに対して希望を抱くでしょうか。しかし,見ていないものに希望を抱くのであれば,わたしたちは忍耐してそれを待ちつづけるのです。

      「同じように,霊もまたわたしたちの弱さのために助けに加わります。祈るべきときに何を祈り求めればよいのかをわたしたちは知りませんが,霊そのものが音声とならないうめきをもってわたしたちのために願い出てくれるからです。でも,心を探るかたは,霊の意図するところが何かを知っておられます。それは神にしたがいつつ聖なる者たちのために願い出ているからです」― ローマ 8:23-27。

      27 どのような事情の下でクリスチャンは聖霊による願い出を必要としますか。

      27 この点に関連して箴言 13章12節の言葉は非常に適切です。「延ばされる期待は心を病ませる」。うめきを抱くこの人間世界において,神の霊的な子供とされたクリスチャンたちは,不完全な人間の体から解き放されること,また自分たちの天的な相続物を受け継ぐことを望み見ています。時には,苦しい事情の下で何を祈り求めてよいのか正確に分からず,神への祈りの中で自分をどのように言い表わすべきかが問題となる場合もあります。取りなしをするものとしての神の聖霊に願い出てもらう必要があるのはこの時です。

      28,29 (イ)ヘブライ語聖書の筆記者の場合,語ったり書いたりすることをいわば聖霊が行なっていたと言えるのはなぜですか。(ロ)ヘブライ語聖書の筆記者たちはその感情や弱さの面でクリスチャン会衆の成員とどのように比べられますか。

      28 使徒パウロは,「わたしたち自身」すなわちパウロおよび神の霊によって生み出されたそのクリスチャン兄弟たちは,「霊という初穂」を持っている,と述べています。(ローマ 8:23)パウロはここで,神からの見えない聖なる活動力を持つことを意味しています。この活動力は人々に霊感を与えて語らせ,またその語ったことを書き記させました。それは霊そのものが語りまた書き記しているかのようでした。その点についてこう記されています。「聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないということです。預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです」。(ペテロ第二 1:20,21)パウロがキリスト教の擁護のために引用した霊感のヘブライ語聖書を書き記したのはただの人間でした。それらはクリスチャン会衆を構成した人々と同様の感情を持ち,同じ肉体的弱さを持つ人々でした。ゆえにわたしたちはそれらの人々に身近なものを感じます。

      29 「わたしたちも,あなたがたと同じ弱さを持つ人間です」。これは使徒パウロとその宣教仲間のバルナバが述べた言葉です。二人を超人的なもの,人間の形で現われた神々と誤って考えた,異教徒の偶像崇拝者たちにそう語りました。―使徒 14:15。

      30 (イ)聖書の筆記は実際のところどのような力の表現ですか。そのゆえにどのような益がありますか。(ロ)聖書中の人物が直面した事態や状況は人間的な助け以上を要するどんな範囲に及んでいましたか。

      30 霊感の下に書き記された聖書は,実際のところ神の聖霊の表現であると言えます。そのゆえにそれら霊感の書は,「教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益」であり,それは,「神の人が十分な能力をそなえ,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるため」です。(テモテ第二 3:16,17)その『有益な』書の中には神への数多くの祈りも含められていました。それは聖書の筆記者自身によるものもありますが,エホバ神に献身した他の人々によるものもありました。それらの祈りが神に捧げられたその状況は様々でした。わたしたちと共通の人間的弱さを持つそれらの人々も,自分の遭遇した特殊な事情や種々の脅威のために様々な圧力を感じました。彼らの窮迫した事態はいろいろに異なり,それは今日でも真のクリスチャンが直面するものと相通ずるところがありました。それは人間的な助け以上のものが必要な場合となります。そのような場合,わたしたちはどのように祈ったらよいでしょうか。

      31,32 (イ)クリスチャンは祈りに関してどれほど戸惑うことがありますか。(ロ)そのような時,聖書の筆記に霊感を与えた霊はどのようにしてクリスチャンのために願い出るものとなりますか。神はどのように理解し,またどのように答えを与えられますか。

      31 自分の無力さと困惑のあまり,「わたしたち自身が,自らのうちでうめ(く)」ことになるでしょう。(ローマ 8:23)どのように神に祈りや請願を捧げたらよいか,自分たちの天の助け主に向かってどのように言葉と文句をまとめたらよいかが分からないのです。それでも神は,わたしたちの事情を理解してくださり,わたしたちが誠実に何を望んでいるかを正確に見きわめてくださるのです。

      32 わたしたちが自分で祈りをよく組み立てられないような場合でも,祈りはわたしたちのため既にまとめられているのです。どこに? 神の聖霊による霊感を受け,預言的な記述に富む聖書の中です。神はみ言葉の中に記録された数々の祈りに十分に通じておられます。また,その「意図するところ」を知っておられます。その場にかなった祈りを捧げたいと願うわたしたちに適切なものを知っておられます。こうして神は,それら記録された適切な祈りを,うめきを抱くクリスチャン自らが捧げたもののようにみなしてくださるのです。その祈りは窮迫したクリスチャン自身が発したものではなくても,神は,聖霊がその人と共に願い出て,聖書にある霊感の祈りにそって祈っているかのように聞き届けてくださいます。記録されている昔の祈りに聖書時代に答えを与えたと同様の方法で答えを与えてくださるでしょう。

      33 それで霊はわたしたちの弱さのためどのように助けに加わりますか。それはどのような良いものをもたらしますか。

      33 神への願い出がなされる際のその元の祈りの記録にあたっては聖霊による霊感がありましたから,霊が「神にしたがいつつ聖なる者たちのために願い出ている」と言うことができます。こうして「霊もまたわたしたちの弱さのために助けに加わ(る)」のです。(ローマ 8:26,27)神はご自分の聖霊が取りなしの働きをするそうした願い出に対して必ず答え応じられます。

      34 聖書に記録される祈りの言葉の中にわたしたちはどのようなものを見つけますか。わたしたちの「音声とならないうめき」はどうしてむだになりませんか。

      34 ゆえに,詩篇また聖書の他の部分に記録される霊感の祈りを調べるクリスチャンが,自分の抱いた感情をそっくり言い表わす祈り,また自分個人のためあるいはクリスチャン会衆全体のため神に求めたいと思った事柄をそのとおりに述べる祈りを見つけたとしても不思議はありません。そのような時,聖霊の鼓舞のもとに自分の思いをかくも適確に言い表わす祈りを見つけて,人は心の底から感動を覚えるのです。その人の「音声とならないうめき」はむだでなく,誤解されても無視されてもいませんでした。こうしてその人は,聖霊の霊感によって記された聖書の中から,「霊」が自分のため神の前に願い出てくれた整然たる言葉を知るのです。そして,使徒パウロがさらに述べる次の確信の言葉に強められるのです。「さて,わたしたちは,神を愛する者たち……の益のために,神がそのすべてのみ業をともに働かせておられることを知っています」― ローマ 8:28。

      35,36 (イ)神がご自分を愛する者たちのためそのすべてのみ業を共に働かせる時,どのような力が強力に作用しますか。(ロ)「新しい創造物」のためにどのような解き放ちが近づいていますか。これはまた,うめきを持つ人類にとって何を意味していますか。

      35 神を愛する者たちのとこしえの益のために神のすべての業が共に働いていますが,そこに力強く作用しているのは神の聖霊です。この,神からの聖なる活動力,それはまことに壮大な備えではありませんか。霊感の聖書を通して力強く表明される神の霊は,異教徒の使うどんな祈り車よりも,またキリスト教世界の牧師が編集し,特定の時や場合や人のために読む祈りの文句を集めた祈祷書などよりはるかに強力な働きをします。

      36 古い創造物としての今日の人類一般はこの霊を有していません。この20世紀に人類はかつてなくうめいており,古い事物の体制下での腐朽への束縛から何らかの形で解き放されることを求めています。しかし,神の「新しい創造物」は19世紀前に登場してその活動を開始しました。それは,活力を与える神の聖霊の下になされました。その聖霊は西暦33年のペンテコステの祭りの日以来注ぎ出されるようになりました。神の「新しい創造物」,霊によって生み出されたクリスチャンの会衆を打ち砕こうとする古い人間創造物一般からの努力は空しく終わりました。今日,その「新しい創造物」は,朽ちゆく地上の体から解き放される時を迎えようとしています。その栄光ある解き放ちが近いということ,それは人類全体にとっても非常に良いものを意味しています。うめきを抱く人類の救出も近いことを意味しているからです。神の聖霊が推進する義の新秩序が今や近いことを示しているのです。

  • 『神からの命の霊が彼らに入る』
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第8章

      『神からの命の霊が彼らに入る』

      1 マタイ 28章18-20節のイエスの言葉によると,神の聖霊のどんな面での特別の働きはまもなく終わりますか。

      神の聖霊の特殊な働きがこれまで1,900年にわたって続いてきましたが,それはまもなく終わろうとしています。それが終わる時,メシア・イエスの弟子を作る業も共に終わります。復活した神の子は,ローマ,ガリラヤ州のある山で使徒たちに話した際,その事に触れてこう言われました。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなたがたとともにいるのです」― マタイ 28:18-20。

      2 栄光を受けたイエス・キリストだけでなく,ほかのどんなものが「事物の体制の終結」の時まで弟子たちと共にありますか。

      2 あらゆる国民の中からキリストの弟子となるすべての人に聖霊の名においてバプテスマを施すことが命じられましたが,使徒たちはその聖霊についてよく知っていました。その主イエスに親しく接した間に,彼らは,王国の伝道また教えたり奇跡を行なったりする際に聖霊がイエスを通して強大な働きをするのを見てきたのです。(使徒 10:38)西暦33年ニサン14日,彼らと過ごした最後の過ぎ越しの晩に,イエスは彼らの慰めのためにこう語りました。「わたしは父にお願いし,父は別の助け手を与えて,それがあなたがたのもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊であり,世はそれを受けることができません」。(ヨハネ 14:16,17)したがって,復活して栄光を受けたイエス・キリストが「事物の体制の終結の時まで」弟子たちと共にいるだけでなく,活動する助け手として聖霊もまたその時まで彼らと共にあることになったのです。それは彼らのもとに「永久に」とどまるからです。

      3,4 (イ)イエス・キリストが今日までいつの日もキリスト教世界と共におられたかどうかが問われるのはなぜですか。(ロ)イエスは,クリスチャンととなえる人と共に聖霊があるかどうかについて何がその決定要素になると言われましたか。

      3 これは今日のわたしたちにとって興味のある点です。わたしたちは今「事物の体制の終結」の時期にいます。(マタイ 24:3)1914年の第一次世界大戦ぼっ発以来,全世界ならびにキリストの弟子たちの間での出来事の展開は,マタイ 24章3節から25章46節にあるイエスの預言の成就となっています。(マルコ 13:3-37; ルカ 21:7-36も参照)イエス・キリストは天と地における「すべての権威」を行使しつつ,今日まで「いつの日も」弟子たちと共におられました。約束の「助け手」である聖霊もまた彼らと共にありました。しかし今日,キリストの弟子すなわちクリスチャンと唱える人々は多くいます。公表される最近の数字によると,キリスト教世界には九億以上の教会員がいます。では,キリストが共にいる証拠をキリスト教世界に求めるべきでしょうか。聖霊はそこに働いてきましたか。

      4 この場合,単にクリスチャンを自任する人々の数で答えが決まるのでしょうか。そうではありません。イエスは,敬神の行為こそその決定要素となることを述べました。

      「あなたがたはその実によって彼らを見分けるでしょう。……りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうに,あなたがたはその実によってそれらの人びとを見分けるでしょう。

      「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです」― マタイ 7:16-21。

      5 今日のキリスト教世界は「霊の実」で満ちていますか。それとも「肉の業」が満ちていますか。

      5 西暦四世紀,バプテスマを受けていない異教のローマ皇帝コンスタンティヌス大帝の下に設立されて以来のキリスト教世界の実はりっぱなものではありません。「霊の実」を培う機会は1,600年ほどもあったのに,その宗教組織は「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制」などに満ちてはいません。むしろ,「肉の業」がキリスト教世界の特色となっています。―ガラテア 5:19-23。

      6,7 どんな点でキリスト教世界はラオデキアの会衆と似ていますか。キリスト教世界は悔い改めてその会衆に対するイエスの忠告を聞き入れましたか。

      6 大勢の教会員をかかえるとされる今日のキリスト教世界は,ある意味で「ラオデキアの会衆」と似ています。啓示 3章14-18節の中で,栄光を受けたイエス・キリストはその会衆に対してこう語りました。

      「わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは冷たくも熱くもない。わたしは,あなたが冷たいか熱いかのどちらかであってくれればと思う。このように,あなたがなまぬるく,熱くも冷たくもないので,わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは,『わたしは富んでおり,富を作ったのだから,何一つ必要なものはない』と言いながら,自分が惨めで,哀れで,貧しく,盲目で,裸であることを知らない。だから,わたしはあなたが,富んだ者となるために火で精錬された金を,また,身にまとってあなたの裸の恥が現われないようにするために白い外衣を,そして見えるようになるため自分の目に塗る目薬をわたしから買うように勧める」。

      7 キリスト教世界は悔い改めて,キリストによるこの忠告を聞き入れましたか。キリスト教世界が二つの世界大戦に積極的に関与したこと,宗教上の少数者を迫害したこと,その物質主義,道徳の乱れ,政治に関与して現在の古い事物の秩序を支配し持続させようとしていること,これらすべて,また他の多くのことは,上の問いに否定の答えをします。

      8 栄光を受けたイエスがキリスト教世界を口から吐き出さざるを得ないのは,そして今日の業に用いないのはなぜですか。

      8 この「事物の体制の終結」の時に,イエス・キリストは,キリスト教世界を口から『吐き出す』以外にはありませんでした。霊的に見る場合,キリスト教世界には,さわやかな冷たさも,刺激となる熱さもありませんでした。イエスが自分のためにそれを飲むことはできませんでした。妥協を続けながらクリスチャンととなえ,その一方でこの世の友また手先となっているゆえに,キリスト教世界は『なまぬるい』状態にあります。統治する王イエス・キリストはこれを忍ぶことができません。それを,自分の父なる神の敵対者とみなすのです。(ヤコブ 4:4)そして,父に敵する者との交わりを一切持ちません。キリスト教世界はイエスと共に霊的なパラダイスに入ってはいません。ゆえに,この時代にイエスの真の弟子が行なうべきものとして予告した業にこれを用いることはできません。―マタイ 24:14。

      9 宗教の名におけるその活動によってキリスト教世界は自らを国際的な憎しみの的としましたか。むしろキリスト教世界はそうした憎しみをだれに向かわせましたか。

      9 キリスト教世界はその活動と業を宗教の名において行なってきました。そうした活動のためにキリスト教世界は「わたし[キリスト]の名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」となってきましたか。(マタイ 24:9)それどころか,他の者をそのような憎しみの的とならせることにおいて率先してきたのです。だれを? 現代の歴史がその点を明らかにしています。第一次世界大戦中,一群の国際的な聖書研究者たちがいて,霊感の聖書から,1914年,すなわち第一次世界大戦の始まった年こそ,「異邦人の時」の終わった年であることを示していました。(ルカ 21:24,欽定訳)イエス・キリストは今や天で神の右にあって王として統治を始めています。キリスト教を標ぼうすると否とを問わず,設立されたこのイエス・キリストの王国に逆らうなら,どんな国も滅びを被ることになります。キリスト教世界と共に滅びることを免れたいと思う人は皆,名目だけのキリスト教から,キリスト教世界の諸教会から出ることが必要です。それら良心的な聖書の研究者はこのような大胆な教えを伝えましたが,それは彼らに対して全世界的な憎しみをもたらすものとなりました。

      10 第一次世界大戦の間,キリスト教世界は宗教上のどんな少数者をまっ殺しようとしましたか。どんな手段で?

      10 憎しみを受けたこの宗教上の少数者は,国際聖書研究者として知られるクリスチャンたちから成っていました。彼らはその聖書研究および公報活動にあたって,ものみの塔聖書冊子協会の出版物を用いました。その本部事務所はニューヨーク市ブルックリンにあります。しかし第一次世界大戦の間,キリスト教世界はこれらの聖書研究者たちに攻撃の火の手を集中しました。彼らを根絶することをねらったのです。キリスト教世界の僧職者たちは彼らに対して偽りの告訴をし,この世の政治,司法上の要素に力を働かせて,彼らに対する抑圧処置を取らせました。

      11 どんな事のために,ものみの塔聖書冊子協会は難しい事態に入れられましたか。

      11 ものみの塔聖書冊子協会の出版物に対する禁令がその後に続きました。多くの土地でそれら聖書研究者たちを排撃する立法措置が取られました。この誤り伝えられた少数者,平和を好む人々に対して,愛国主義に熱狂する暴徒がけしかけられました。1918年の春には,ブルックリンの同協会本部に連なる主だった人々が,偽りの訴状の下に連邦刑務所に送り込まれました。

      12 キリスト教世界が証しの業を永久的にまっ殺したかどうかについて啓示 11章7-12節は何を示していますか。

      12 ものみの塔聖書冊子協会の会長と会計秘書および他の六人の中心的な働き人が今や重罪人のごとくに刑務所に送られて,なき者とされたのです。キリスト教世界は,イエス・キリストの手中に設立された神の王国に対する忠実な証人たちの組織を今や死に絶やしたと感じました。しかし,本当に致命的な打撃が加えられたのですか。しばらくの間,王国の証人たちの体は全く死んでいるように見えました。しかし,彼らの活動は永久的に断たれたのですか。啓示 11章7-12節の象徴的な言葉がそれに答えます,

      「そして,彼らが自分たちの証しを終えた時,底知れぬ深みから上る野獣が彼らと戦い,彼らを征服して殺すであろう。そして,彼らの遺体は,霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市の大通りに置かれるであろう。彼らの主もそこで杭につけられたのである。そして,もろもろの民・部族・国語・国民から来た者たちは三日半の間その遺体を見るが,遺体を墓の中に横たえることを許さない。また,地に住む者たちは彼らのことで喜びまた楽しみ,互いに贈り物を交すであろう。これらふたりの預言者は地に住む者たちを責め苦に遭わせたからである。

      「それから三日半ののち,神からの命の霊が彼らに入り,彼らは自分の足で立ち上がった。そのため,大いなる恐れが彼らを見ている者たちに臨んだ。そして彼らは,天から出る大きな声が,『ここに上って来なさい』と自分たちに言うのを聞いた。それで彼らは,雲のうちにあって天へ上って行き,敵たちは彼らを見た」。

      13 キリスト教世界の観点からする場合,証人たちの組織の前途はどう見えましたか。しかし,どんな力が見落とされていましたか。

      13 しばらくの間,それは三日半とも言える期間でしたが,聖書の預言をふれ告げ,設立された神の王国について証しするこれらの人々の組織は公の恥辱にさらされていました。聖書の真理の伝道によって責め苦を感じていた人々は王国の証人たちに対する抑圧を喜びました。キリスト教世界の観点からする場合,証人たちの組織は『死んで』いました。しかし,神の霊が殺され,死に処せられていましたか。杭に付けられたイエス・キリストの体が足掛け三日のあいだ墓に横たわっていた時,それは死んではいませんでした。同様に,その1,900年後,王国の証し人たちの組織が相対的な意味で「三日半」死んで横たわっていた後にも,それは『死んで』はいませんでした。

      14 マタイ 24章14節の成就のために何が必要でしたか。1919年の春に何が起きましたか。

      14 「事物の体制の終結」の時期に入って第五年目を迎えていました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。マタイ 24章14節にあるイエスのこの予言は依然成就されねばなりません。キリスト教世界は世界大戦の血に汚れており,その預言の成就に参与できるまでに身を整えても清くなってもいませんでした。ではどうすべきでしたか。全能の神の霊の活動することが必要でした。それは確かに活動しました。血の罪を持つキリスト教世界のためにではなく,『死んだ』ように見える王国証人のためです。啓示 11章11節の描写のとおり,「神からの命の霊が彼らに入り,彼らは自分の足で立ち上がった」のです。戦後第一年の1919年の春が,彼らにとってその生き返りの時となりました。

      15 だれが釈放と共に業に就きましたか。マタイ 24章14節に新たにどんな注意が向けられましたか。

      15 意外なことに,1919年の三月末,ものみの塔聖書冊子協会の役員およびその仲間の捕われた人たちは保釈され,元の活動に復帰しました。マタイ 24章14節のイエスの預言に新たな注意が向けられました。「ものみの塔」1920年7月1日号,199,200ページに,この点に関する注目すべき注解が載せられました。予告された世界的な伝道の業,それはそれまで19世紀間の「福音時代」になされた来たるべき王国に関する伝道ではありません。それはすでに設立されている王国に関する伝道です。したがって,それは1914年以後の時代に全世界的な広報活動としてなされるべきものなのです。

      16 その新たな啓示は証人たちにどんな影響を与えましたか。1919年の活動の頂点となったものは何ですか。

      16 「真理の霊」によるこの新たな啓示は,証人たちによる王国伝道に新たな生命を吹き込むものとなりました。生き返りの年である1919年の活動の頂点として,戦後における王国証人たちの最初の全体大会が,米国オハイオ州シーダー・ポイントで八日間にわたって開かれました。米国およびカナダから幾千もの人がこれに出席しました。ものみの塔聖書冊子協会の会長は,戦時の偽りの告訴についてすでに無罪を言い渡されており,前途にある新たな王国の業について発表しました。7,000人の聴衆に対して彼は公開講演をしました。

      17 証人たちが死の状態から高められたことについて敵対者が恐れを抱いたのはどんな理由によりますか。

      17 設立された神の王国について証しする人々の意外な蘇生を見て,その王国に敵対する人々,とりわけキリスト教世界には大きな恐れが臨みました。敵する者たちがわずかな残りの者にすぎなかった当時の王国証人に恐れを抱いたのであれば,後には一層大きな恐れを抱くはずでした。それら証人たちは,キリストの弟子たちが以前のどの時にも持たなかったほど世界的に際立った地位を与えられたのです。彼らはその高い際立った地位に呼び招かれましたが,それはあたかも天からの大きな声が,「ここに上って来なさい」と彼らに呼び掛けているかのようでした。

      18 1922年,証人たちは世界的に注目を浴びる業からしり込みしないことをどのように示しましたか。

      18 王国宣明の業,それが彼らを天にまで高めるかのようにして社会的に際立った地位を持たせるものとなりましたが,彼らはこの業に入ることをためらいませんでした。活力を得させる神の霊に鼓舞されて,彼らはこの業に恐れなく乗り出したのです。1922年,オハイオ州シーダー・ポイントで開かれた二度目の全体大会の折に熱意は高まりました。その時,ものみの塔協会の会長は基調講演をし,その最高潮として,「王とその王国を宣伝せよ,宣伝せよ,宣伝せよ!」と高らかに述べました。大会に出席していた幾千もの人々は,王国伝道の完遂を促すこの強力な呼び声を,とどろくような拍手をもって迎えました。

      全世界に王国の証しをすべき時

      19 証人たちの生き返りに関する記述の後,ヨハネが啓示 11章15-18節で記した事柄はなぜ適切ですか。

      19 1919年,「神からの命の霊」が抑圧されていた証人たちの中に入ったのは,そのような全世界的な王国伝道のためでした。したがって,使徒ヨハネが,高められた二人の証人に関する記述のすぐ後に次の記述を続けているのはいかにも適切です。

      「また,第七の使いがラッパを吹いた。すると,大きな声が天で起きて言った,『世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配するであろう』。

      「すると,神の前で自分の座にすわっている二十四人の長老がひれ伏し,神を崇拝して言った,『いまおられかつておられたかた,全能者なるエホバ神よ,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の偉大な力を執り,王として支配を始められたからです。しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたの名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にもその報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定めの時が到来しました』」― 啓示 11:15-18。

      20 (イ)その大声の発表はただ天にのみ知らされるべき事柄でしたか。(ロ)イエスの預言から見て,今やどんな人々が必要でしたか。

      20 「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配するであろう」。大声でふれ告げられたこの発表は,エホバの油そそがれた証人たちによってこの地上においても同じようにふれ告げられるべきものでした。異邦人の時の終わった1914年,エホバは世に対するご自身の王権を執られたのです。これはただ天にのみ知らされるべきニュースではありませんでした。それは人類の全世界に関係のある事でした。人類はそれを聞くべきでした。しかし,宣べ伝える者,ふれ告げる者なくしてどうしてそれを聞くのでしょうか。イエスは,この事物の体制の終わりが到来する前にそれが全地で宣べ伝えられることを預言しました。イエスの油そそがれた弟子たちの残りの者こそ,1919年のその霊的な再生以来,その伝道のための割当てを受けた人々だったのです。―マタイ 24:14。マルコ 13:10。ローマ 10:14,15。イザヤ 32:15も参照。

      21 キリストの油そそがれた弟子たちが王国を宣べ伝えることをキリスト教世界がせん越とみなすとしても,それはなぜ当たりませんか。彼らの場合,ゼカリヤ 4章6節が真実なのはなぜですか。

      21 イエス・キリストの油そそがれた弟子たちの残りの者,その人々が代理者とされてその伝道の業のために遣わされています。(イザヤ 61:1-3)キリスト教世界は,この王国伝道を行なうのはせん越であるとして彼らを非難するかもしれません。しかし,そうであれば,どうしてキリスト教世界自身がその伝道を行なわないのでしょうか。実際にはそれを行なっていません。むしろ,世の政治に関与し,非クリスチャン的な国際連合に祝福を与えています。キリスト教世界の幾億という教会員と比べるとき,残りの者はあまりにもわずかです。そのゆえにこそ,油そそがれた残りの者たちの場合に,ゼカリヤ 4章6節のエホバの言葉が真実となるのです。『これは権勢によらず 能力によらず 我が霊によるなり』。(文語)

      22 なされている王国の業から判断しても,ヨエル 2章28,29節が成就しているのはだれですか。

      22 エホバは終わりの日に聖霊を注ぎ出すことを預言しましたが,その聖霊はまだ働きを終えていません。残りの者たちはその霊の名においてキリストの弟子にバプテスマを施すことを続けているからです。(マタイ 28:19,20。ヨエル 2:28,29。使徒 2:14-21)神があらゆる肉なる者の上にご自分の霊を注ぎ出すことに関しその発表された目的は,それを受けた人たちが預言することでした。キリストの油そそがれた弟子たちの残りの者は,神の王国を支持する証しとしてあらゆる国民に対するその預言の業を行なっており,事実がそれを裏付けています。このことからも,彼らこそ神の霊がその上に注ぎ出された人々である,と言えます。その霊が彼らのなす世界的な伝道の背後にあるのです。この点をどうして疑うべきでしょうか。

      23 その後12年のそうした預言の業の間だれに対する証しがなされましたか。それはなぜ必要でしたか。

      23 神の王国に関してそのような預言の業を12年間行なった結果,油そそがれた残りの者たちは,注がれた霊の天的な源であるエホバ神に関して一層よく知るようになりました。彼らはエホバ神に関する証しを増し加え,そのみ名こそ最も重要な名であることを至る所で知らせてきました。彼らは自らをエホバの証し人とし,「み名のための民」として生きることを思い定めました。(イザヤ 43:10-12。使徒 15:14)こうしてエホバ神またそのメシアなるイエスについて証しすることの重要性および時間的適切性を軽く見ることのないようにしましょう。ヨエル 2章28-32節の預言にしたがい,『エホバの大いなる畏るべき日』の前にそれはなされねばならないのです。必要な知識を与えられていなければ,人々はその「日」に救いをあおいでだれの名を呼ぶべきかが分からないのです。ヨエル 2章32節は,『すべてエホバの名をよぶ者は救はるべし』と述べています。エホバに対する証しがなされねばならないのです。

      24 1931年,油そそがれた残りの者は自らのどのような新しい呼び名を採用しましたか。どうしてこれは単なる素振りではありませんでしたか。

      24 したがって,1931年7月26日,日曜日,米国オハイオ州コロンバスで開かれた,国際聖書研究者協会の国際大会において,幾千人もの大会出席者たちが心を込めて決議を採択し,自分たちが意味ある聖書的な名で呼ばれるべきことを定めたのは決して単なる偶然ではありませんでした。それら大会出席者たちが決議によって採用したのは,「エホバの証人」という名です。コロンバスでの国際大会におけるこうした行動の後,国際聖書研究者協会に連なる全地の諸会衆は同様の決議を採択しました。こうして彼らは,自分たちがエホバの証人であることを宣言しました。これは,霊的イスラエル人の油そそがれた残りの者たちにとって,決して単なる素振りではありませんでした。その名に伴う責任を遂行し,自らのこの新しい呼び名にふさわしく行動したのです。

      25 蘇生した王国の証人たちは神の名に関してどのように際立った地位に高められましたか。またイザヤ 43章10-12節の務めを受け入れることに関してはどうでしたか。

      25 論を待たない点として,「神からの命の霊」は油そそがれた残りの者に入り,神はすべての敵の見るところで彼らを際立った地位に呼び招きました。彼らはそれらの敵対者たちを恐れることなく,「ここに上って来なさい」という神からの招きに答え応じました。(啓示 11:11,12)彼らは,神の名,最も聖なる名を担うことを恥とはしませんでした。その名に基づき家から家,都市から都市に行なう彼らの伝道と預言の業は,全地にわたりその名を大いなるものとして高めました。こうしてここに,宇宙で最も偉大な名のための現代の戦士が登場したのです。残念な事に,古代のイスラエル国民は,イザヤ 43章10-12節がまず彼らに対して語ったその預言のとおりにはなりませんでした。「エホバは仰せられる,『あなたがたはわたしの証人たちである。実に,わたしの選んだわたしの僕である。……あなたがたの中に外の神はいなかった。それゆえ,あなたがたはわたしの証人である』とエホバは仰せられる。『そしてわたしは神である』と」。そのため,霊的イスラエル人の今日の残りの者たちが,エホバの証人としての務めを喜んで受け入れたのです。

      26 蘇生した残りの者は小アジア,サルデスの会衆によって例示されたどんな霊的状態に陥ることを望みませんか。

      26 「神からの命の霊」によって蘇生した今,霊的イスラエル人の残りの者は,古代小アジアのサルデス会衆によって例示されたような状態に陥るようなことを望みません。イエス・キリストはその会衆に対してこう語りました。

      「神の七つの霊と,七つの星を持つ者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは生きているとの名を持ってはいるが,実際には死んでいるのである。油断なく見張っていなさい。いまにも死ぬ状態にあった残りのものを強めなさい。わたしは,あなたの行ないがわたしの神の前で十分になされたのを見ていないからである。それゆえ,あなたがどのように受けてきたか,またどのように聞いたかを思いにとどめ,それを守りつづけ,そして悔い改めなさい。あなたが目ざめないなら,必ずわたしは盗人のごとくに来る。そしてあなたは,わたしがどの時刻にあなたのもとに来るかを全く知らないであろう」― 啓示 3:1-3。

      27 霊的イスラエル人の油そそがれた残りの者は啓示 2章5節のイエスの言葉に注意を払ってどんな特権を失わないようにしますか。

      27 この宗教的に暗黒化した世界にあって,霊的イスラエル人の残りの者は,光を輝かすものとなり,神の名と人類の救いのための神の目的に光を当てることを願っています。集合的に霊的な燭台として仕える特権を失うことのないように注意しているのです。彼らは古代エフェソスの会衆にあてられた,栄光を受けたイエスの言葉に注意を払っています。

      「悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めないならばである」― 啓示 2:5。

      「大群衆」がみ名を呼び求める

      28 第二次世界大戦の間,底知れぬ深みから上った野獣が霊的イスラエル人の残りの者に再度戦いをしかけたのに,第一次世界大戦当時の経験を繰り返さなかったのはなぜですか。

      28 1939年から45年にかけて,第二次世界大戦が人類世界に荒れ狂いました。しかし,霊的に再生し,1931年以来エホバの証人として知られるようになった霊的イスラエルの残りの者たちは,第一次世界大戦当時の経験をもう一度繰り返しましたか。『底知れぬ深みから上る野獣』が再度残りの者たちと戦った第二次世界大戦中には,最悪の宗教的迫害がもたらされましたが,それでも記録は上記の問いに,否! と答えています。暴力的な迫害も,油そそがれた残りの者たちの行なう王国に関する証しの業を死に至らせることはできませんでした。彼らは終始,天の命の与え主からの「霊に満たされ」ていました。(エフェソス 5:18)王国に関する証しの業を,必要とあらば地下にもぐってでも続けることによって,彼らは霊的に生き続けました。軍国主義的な政府の下にあって,設立されたエホバの王国の良いたよりの伝道を禁じられるような場合でも,彼らは伝道の使命を忠実に遂行できるようエホバに勇気を祈り求めました。

      29 使徒 4章31節に記される場合と同様これらの事は残りの者にとってどんな結果になりましたか。

      29 その結果はかつてのエルサレム会衆のようでした。使徒たちは時の宗教上の権威者たちから,キリストについての伝道をやめるようにと命じられたのです。それでも,「彼らはひとり残らず聖霊に満たされ,神のことばを大胆に語(った)」のです。(使徒 4:31)同様に,今日においても,残りの者たちは聖霊に満たされていることを示し,「神のことばを大胆に」,そして力強く語り続けています。それゆえに,残りの者たちの「燭台」はその場所から取り去られてはいません。

      30 (イ)油そそがれた残りの者は神のみ名に関して何を行なっていますか。(ロ)啓示 6章14-17節を見て,エホバの日に『救はれる』のは残りの者だけだろうかと問うのはなぜもっともですか。

      30 油そそがれた残りの者は自ら『エホバの名を呼び求め』,かつまたそれを全世界にふれ告げています。しかし今日,近づき来る『エホバの大いなる畏るべき日』に『救はれる』ことを期待しているのは彼らだけですか。(ヨエル 2:31,32)これは,残りの者の中に数えられていない多くの人々が知りたいと思っている点です。その『畏るべき日』に関して啓示 6章14-17節はこう述べているのです。

      「また,巻き上げられてゆく巻き物のように天[人々の上に高くそびえる諸政府]が去ってゆき,すべての山と島がその場所から取り除かれた。そして,地の王たち,高位の者たち,軍司令官たち,富んだ者,強い者,すべての奴隷また自由人は,ほら穴や山の岩塊の間に身を隠した。そして山と岩塊とにこう言いつづける。『わたしたちの上に倒れかかれ。そしてみ座にすわっておられるかたの顔から,また子羊の憤りからわたしたちを隠してくれ。彼らの憤りの大いなる日が来たからだ。だれが立ちえようか』」。

      31 (イ)上記の聖句に描写される人々の,エホバの日に救われるかどうかの問いに対する答えは何ですか。(ロ)地の王たちやそのともがらに加わって地的な保護を求めることをしないのはだれですか。

      31 その「大いなる日」には彼らのうちのだれも是認を受けて生き長らえる者はありません。これが,上記の聖句中に描写される人々,救いを求めてエホバの名を呼び求めることをしない人々の問いに対する答えです。彼らに滅びをもたらす象徴的な暴風のことは,啓示の次の章,7章1-3節の中に述べられています。その記述の後に,「生ける神の証印」をもってその額に証印を押される14万4,000人の神の奴隷たちのことが述べられています。それらはイスラエル人とされています。神の子羊の殺りくを是認したような生来の肉のイスラエル人ではなく,子羊イエスがメシアであることを認めてそれに付き従う霊的イスラエル人です。(啓示 7:4-8; 14:1-5)これらの光景のすぐ後にわたしたちの前に展開するのはどんな幻ですか。地の王たちやそのともがらに加わらず,神とその子羊の憤りから身を隠そうとして人間的政府の山々や岩塊に救いを求めることをしない,数を定め得ない非常に多くの人々です。それらの人々は神の憤りを恐れません。

      32 この「大群衆」はだれに救いを帰していますか。それは彼ら自身にとってどんな益になっていますか。

      32 啓示 7章9-17節を読み,この数知れぬ「群衆」が「大患難から出て来る」と述べられている点に注目してください。

      「見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります』。

      「……『白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか』……『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。

      33 この「大群衆」は先に述べられた14万4,000人の霊的イスラエル人とどんな点で異なっていますか。なぜ彼らは神の霊的な神殿で仕えるにふさわしい者となっていますか。

      33 この数知れぬ「大群衆」は,数を限定されている14万4,000人の霊的イスラエル人の一部ではありません。彼らは「生ける神の証印」をもってその額に証印を押されてはいません。神の子羊と共に天のシオンの山に立っているとも述べられてはいません。彼らは「神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」とも述べられていません。国籍について言えば,14万4,000人が霊的なイスラエル人であるのに比べ,彼らは異邦人,あらゆる国民から来た人々です。それでも,彼らはエホバ神を知り,エホバを宇宙の王座に座する者,宇宙の主権者と認めるようになりました。また,ほふられた神の子羊を知り,それがだれであるかを言い表わしています。その血の持つ清めの力に信仰を働かせ,こうしてみ座にある神の前で清い姿を得ようとしています。このようにして清められた彼らは,霊的な神殿の地上の中庭に立って夜昼神に神聖な奉仕を捧げています。

      34 「大群衆」はどの「羊」から成っていますか。前途の命という面で彼らはどんな希望を抱いていますか。

      34 彼らが共通に抱いているのはどんな希望ですか。それは天への希望ではありません。啓示 7章17節は彼らを羊になぞらえており,子羊イエスがその牧者となっています。イエスが彼らを導く「命の水の泉」とは,約束された地上のパラダイスでの完全な人間の生命のための神の備えをわき出させる「泉」です。彼らは,りっぱな羊飼いイエスがそのために自分の人間としての魂をなげうった比ゆ的な「羊」たちの一部です。バプテスマを施す人ヨハネが「戸口番」として西暦29年に戸口を開いた「羊の囲い」について述べた後,イエスはさらにこう語りました。「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」。(ヨハネ 10:3,16)したがって,啓示 7章9-17節の述べる「大群衆」とは,今日生きていて,りっぱな羊飼いイエス・キリストに一心に従う「ほかの羊」たちから成っています。

      35 「大群衆」はだれと共に,「ひとりの羊飼い」の下にある「一つの群れ」となりますか。

      35 では,この「大群衆」はだれと共に,「ひとりの羊飼い」の下にある「一つの群れ」となるのですか。他方の「囲い」にいる「羊」,すなわち「小さな群れ」なる霊的イスラエル人の残りの者たちとです。(ルカ 12:32。ペテロ第一 2:25)「大群衆」はイエス・キリストが霊的イスラエルのために仲介役をした新しい契約に入っていません。しかしイエスは彼らを油そそがれた残りの者たちと共にならせ,一つのおりにいる「一つの群れ」のようにならせるのです。りっぱな羊飼いはいつからその事を行なってきましたか。

      36,37 (イ)「ほかの羊」を集める業はどんな出来事と共に始まりましたか。(ロ)その大きな喜びとして彼らの前にどんな見込みが置かれましたか。

      36 1935年以来です。その年の五月末,エホバのクリスチャン証人の大会が米国ワシントン特別区で五日間にわたって開かれていました。その大会には,油そそがれた残りの者と交わりつつ,「大患難」を生き残って,死を見ずに,地上のパラダイスを伴う神の新秩序に入ることに関心を抱く人々が特別に招待されていました。それらは天に行くことは志向しない人々でした。パラダイスとなる地上での永遠の命こそ彼らの心の願いと調和するところでした。

      37 ワシントン大会における彼らの喜びは大きなものとなりました。ものみの塔聖書冊子協会の会長は,欽定訳に基づいて,啓示 7章9-17節に述べられる「大いなる群衆」について論じました。同会長は,その「群衆」が霊的なもしくは霊によって生み出されたクラスではないことを明らかにしました。これらは,天においてみ使いのような性質を帯び,14万4,000人のキリストの共同相続者を補佐する者たちではありません。それは明確に地的なクラスであり,キリストの王国の下にパラダイスとなる地上における終わりのない完全な人間の命の希望を持つ人々です。今,りっぱな羊飼いイエス・キリストの下に,エホバ神はこの「群衆」を集め,油そそがれた残りの者と共にならせて活動的な奉仕の業に就かせようとしておられたのです。

      38 「大群衆」に属する人々の自らの霊は前に置かれた希望にどのように呼応しましたか。以来,神を求めるすべての人の前に特にどんな希望が差し伸べられてきましたか。

      38 ワシントン大会に出席していた幾百人もの人々の心は,キリストと共同の相続人になるという見込みに感応してはいませんでした。しかし今,啓示 7章9-17節に含まれる地的な希望が明確にされて,彼らの「霊」,彼らの内にある反応的な力は,心からの感応となってみなぎり出て来たのです。彼らは割れるような拍手をもってその希望を迎え入れました。後に,他の幾千もの人々が「大いなる群衆」に関するその論議を「ものみの塔」誌の中で読み,その人々の「霊」もまた同じように答え応じたのです。以来,神を探求する全地のすべての人の前に,「大いなる群衆」としての希望が特に差し伸べられてきました。そして,幾十万もの人々が神のみ子の名においてバプテスマを受け,そうした晴朗なる希望の実現を待つ者となりました。

      39 献身してバプテスマを受けた「ほかの羊」が聖霊を受けているかどうかが問われるのは,彼らと油そそがれた残りの者との間のどんな違いのためですか。

      39 もちろん,これら「大群衆」に属する献身してバプテスマを受けた「ほかの羊」は,天に相続物を持つ神の霊的な子として生み出されてはいません。彼らは霊的なイスラエル人ではありません。新しい契約に入れられておらず,神に属する「祭司たちの王国,聖なる国民」となる機会は得ていないのです。(出エジプト 19:5,6)彼らは,その天の相続物に対する前もってのしるしとして神の霊による証印を受けてはいません。天の王国でキリストと共同の相続者になる者として神の霊による油そそぎを受けてもいません。(イザヤ 61:1-3。ヨハネ第一 2:20,27。コリント第二 1:21,22)しかしそれでも,彼らは聖霊を与えられていないでしょうか。

      40 神に献身している地上の人間が聖霊の働きを受けるために神の霊によって生み出された者とならねばならないかどうかについて聖書のどんな例がありますか。

      40 圧倒的な事実が答えます。彼らは確かにそれを与えられています。特に1935年以来,「大群衆」は,霊によって生み出された,油そそがれた残りの者と共に働いてきました。そして,神の霊の働きを受けているとの十分の証拠を示しています。地上の人間は,霊によって生み出されて神の子とされなければ神の活動力の働きを受けられないわけではありません。預言者モーセの場合,また裁き人のオテニエル,ギデオン,サムソン,またダビデ王やバプテストのヨハネの場合を見てください。そうです,クリスチャン時代以前のすべての預言者たち,エホバの霊による霊感を受けて創世記からマラキ書に至る聖書の各本を筆記した人々の例を見てください。それら古代の人々の前に天への希望は置かれていませんでした。それでもエホバ神はご自分の霊をその人々の上に臨ませました。彼らのエホバに対する献身のゆえ,また彼らが神への奉仕のために自らを愛の動機で捧げていたからです。神は彼らをご自分の活動力で包みました。ご自分の聖霊を彼らに満たしました。それは彼らに働いたのです。

      41 今日油そそがれた残りの者を構成するのは数の点でわずかですが,神は王国を宣べ伝えて弟子を作る業を全世界でどのように進めてこられましたか。

      41 今日,聖霊による油そそぎを受けた霊的イスラエル人の残りの者はどれほどいますか。年ごとの主の夕食式の際に表象物のパンとぶどう酒にあずかる人の数で言えば,それは現在約一万人ほどです。しかし,バプテスマを受けたクリスチャンで,その霊がパラダイスとなるこの地上での永遠の命の希望に答え応じる人々の数は二百万を超えています。それゆえ,全世界に王国を宣べ伝えて弟子を作る仕事の主要な部分を果たしているのはだれでしょうか。(マタイ 24:14; 28:19,20)高齢化する油そそがれた残りの者は,数も非常に少なく,業の大きな部分を担うことはできません。それゆえ,神の霊は「ほかの羊」の「大群衆」の上にも強力に働き,油そそがれた残りの者との提携の下に,クリスチャン史上例のない世界的な証しの業を行なわせてきました。

      42,43 (イ)メシア王国を全世界に宣明する業について,それに携わる人々はその功をだれに帰していますか。(ロ)どのような聖句に基づいて彼らはみ使いによる導きのあったことを確信していますか。

      42 王国の福音を宣明する声は今や全地の210の土地や島々に響きわたっています。そして,世界に広がる霊的パラダイスの中では,活動的な王国宣明者たちの会衆3万8,000以上がにぎわいを呈しています。a

      43 神の王国およびその下での新秩序について遠くまで,まさに地の最も遠い所にまで宣明するこの業には,その宣明に携わる人々の多大の労苦が求められました。しかもそのすべては無償でなされました。(マタイ 10:8)しかし,それらの王国宣明者であるエホバのクリスチャン証人たちは,この壮大な業の功を自らに帰してはいません。彼らは,自分たちが神のみ手にある器にすぎないことを認めています。この予定された業を果たす勇気と力を神の霊に帰しているのです。また,神の是認される業を推進する際にみ使いの支えと導きを受けてきたことをも認めています。天のみ使いは「公の奉仕のための霊[たち]であり,救いを受け継ごうとしている者たちに仕えるために遣わされた者なので(ある)」という,ヘブライ 1章14節の言葉を信じているのです。また,わたしたちの住むこの特別の時,「事物の体制の終結」の時に関して,イエスはこうも言われました。「彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」― マタイ 24:3,30,31。

      44 (イ)天のみ使いがそのように用いられることはなぜ不思議ではありませんか。(ロ)真のクリスチャンとまがいのクリスチャンとを分けるため,またほかの羊の「大群衆」を集めるためにだれによる見えない助けが予告されていましたか。

      44 この事に何か不思議がありますか。何の不思議もありません。昔,クリスチャン時代以前にも,エホバ神の忠実な崇拝者たちのため,天のみ使いたちがその援助と指導に当たったのです。(創世 32:1,2,24-30。出エジプト 14:19,20。列王下 6:15-17。イザヤ 37:36。詩 34:7)今は神の王国の真の相続者を集め,それらをキリスト教世界のまがいのクリスチャンから分けるべき時です。そのゆえに,マタイ 13章39-43,49,50節,また啓示 14章6節が示すとおり,この危機の時にある油そそがれた残りの者にはみ使いの助けがあります。王なるキリストの下にあるみ使いたちは,油そそがれた弟子たちの残りの者,「その選ばれた者たち」を集める業において見えない指導の役を果たしているのです。またイエスは,その指令下にあるみ使いたちを,油そそがれた残りの者よりはるかに大きな群衆,すなわち「ほかの羊」の「大群衆」を集めるためにも用いています。―マタイ 25:31-46。ヨハネ 10:16。

      比ゆ的な復活

      45,46 (イ)エゼキエル書 37章1-14節に予示された神の驚嘆すべき奇跡から見る場合,どうしてだれも小さきことの日をいやしめることはできませんか。(ロ)流刑のイスラエル人が自らの地に再び定着するために,エホバは彼らの内に何を置かれましたか。

      45 それゆえ,だれにせよ『小さき事の日をいやしむる』ことができるでしょうか。(ゼカリヤ 4:10)1919年,「神からの命の霊」が彼らの中に,すなわち死んだように見えた油そそがれた残りの者たちの中に入った時,驚嘆すべき一連の物事のその発端が置かれていたのです。(啓示 11:11)それは,全能の神の手によってなされた,現代の復活の奇跡でした。しかし,その類例となるものが預言者エゼキエルの見た幻の中に描かれていました。彼は,ある低地の中に乾いてばらばらになったイスラエル人の骨が満ちているのを幻で見ました。次いでそれらイスラエル人の死がいはそれぞれに整えられましたが,それは依然死体のままでした。その時,エゼキエルは神の命令に従ってそれらについて預言を行ないました。するとどうなりましたか。『気息これに入りて皆生き その足に立ち はなはだ多くの群衆となれり』。―エゼキエル 37:1-10,文語。

      46 エゼキエルのこの幻は,その時バビロンで呻吟していた神の選びの民の上に成就するのですか。この回復の幻が必ず成就することを彼らに保証するため,エホバはエゼキエルに霊感を与えてこう言わせました。『我わが霊を汝らのうちにおきて汝らを生かしめ 汝らをその地に安んぜしめん 汝らすなはち我エホバがこれを言ひ これをなしたることを知るにいたるべし』。―エゼキエル 37:11-14,文語。イザヤ 32:15-18と比較。

      47 (イ)油そそがれた残りの者を立ち直らせた時,神はどんな目的でご自分の霊を彼らの上に置かれましたか。(ロ)こうして再度活発にされたことはローマ 8章11節の言葉とどのように調和していますか。

      47 この20世紀において,油そそがれた残りの者は,1918年の第一次世界大戦終了の後,霊的に生き返って,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンへの捕われから解き放されました。それは,彼らの王国奉仕を再開するためでした。その目的のために,エホバは彼らを地上におけるその正しい地位,神の是認を受けた関係に立ち返らせました。エホバは彼らの上にご自分の霊を置き,王国奉仕において自由に行動させ,はばかりなく語らせました。「エホバの霊のある所には自由があります」。(コリント第二 3:17)以来,こうして解放された残りの者は王への奉仕において全く活動的な状態を保ってきました。後には,羊のようなその同労者の「大群衆」も同じ事を行なってきました。その背後にあったのはエホバの聖なる活動力です。ローマ 8章11節はその点を銘記させてこう述べます。「イエスを死人の中からよみがえらせたかたの霊があなたがたのうちに宿っているのなら,キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたそのかたは,あなたがたのうちに住むご自分の霊によって,あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるのです」。

      48 一致している残りの者と「大群衆」のもとにはどんな力が共にありますか。

      48 したがって,残りの者と「大群衆」は一致のうちに前進を続けなさい。来たるべき神の新秩序の背後にある,何者も抗し難い力があなたと共にあるのです。(ゼカリヤ 4:6)「王国のこの良いたより」を引き続き宣べ伝えるとき,それはあなたに一層の苦難と非難をもたらすかもしれません。しかし,エホバ神とそのキリストのためにそれを忍ぶなら,それは最大の誉れとなるのです。忘れないでください,「キリストの名のために非難されるなら,あなたがたは幸いです。栄光の霊,すなわち神の霊があなたがたの上にとどまっているからです」。(ペテロ第一 4:14)神の王国の敵対者から非難を浴びせられるとしても,それは神からの否認のしるしではありません。あなたがそれに耐え忍ぶこと,それはあなたが神の霊を受けている証拠となるのです。神の霊がとどまっているということ,それはあなたの栄光であり,恥辱ではありません。それはあなたの尊厳であり,あなたをキリストに似た者とならせます。またそれは,あなたが来たるべき神の新秩序での栄光ある奉仕にふさわしいことを実証するのです。ゆえに,自分を幸いな者,大いに恵まれた者と見ることを決して忘れてはなりません。

      [脚注]

      a 「エホバの証人の1976年の年鑑」24-31ページをご覧ください。

  • 聖霊によって支えられる新秩序
    聖霊 ― 来たるべき新秩序の背後にある力
    • 第9章

      聖霊によって支えられる新秩序

      1 伝道之書 1章9節は真実であるとしても,聖霊の後ろだてを得た来たるべき秩序はどうして真に新しいものと言えますか。

      聖霊によって支えられる来たるべき秩序について論ずる場合,わたしたちはまさに,「これを見よ,新しいものだ」と言うことができます。賢王ソロモンといえども,自分の述べた,「日の下に何も新しいものはない」という言葉をこれに当てはめることはできません。(伝道 1:9,10)ソロモンの言葉は,人間男女の生活,また人間の立てる政府の興隆や没落に関しては,今日まで真実となってきました。しかし,天地の創造者がまもなくもたらす事物の秩序について言えば,それは全く新しいもの,人間の歴史全体を通じてかつて経験したことのないものとなります。

      2 聖霊が,約束された新秩序の背後の力となるのはどうして当然期待すべき事ですか。

      2 聖霊は来たるべき新秩序の背後の力となります。どうしてそうならないことがあるでしょうか。それは聖書の筆記にあたってその背後にあった力であり,その霊感の書は,難儀に満ちた人類世界に対する平和な新秩序のたよりでみなぎっているのです。それがこの世代のうちについにもたらされた時,その喜びに入るすべての人は,「これは全く新しいもの!」と歓喜して叫ぶでしょう。全能の神エホバは人類に対する自分の約束に真実なことを実証されます。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」― 啓示 21:5。

      3 (イ)啓示の書が述べる新しい事物にはどんなものがありますか。(ロ)なぜ神の新秩序は継ぎはぎ細工のようなものではありませんか。

      3 聖書の巻末の書である「ヨハネへの啓示」は,「新しい名」「新しい歌」「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」など,数々の新しい事物について述べています。(啓示 2:17; 3:12; 5:9; 14:3; 21:1,2)これらは考えたり語ったりするだけでも楽しいものです。そして,人類のために定め置かれている新しい事物の特徴について認識する時,人は「エホバに新しい歌を歌え」と言わずにはいられないでしょう。(詩 96:1; 98:1; 144:9; 149:1)エホバのもたらす新秩序は継ぎはぎ細工のようなものではありません。人類のこれまでの古い秩序を繕い,古い秩序をできるだけ残して多少の新しい仕上げを施しただけのもの,こうして人間の古い秩序を基にしたものなどではないのです。そのようなものは決してうまくゆきません。イエス・キリストはこう言われました。

      「新しい外衣から継ぎ切れを切って古い外衣に縫いつける人はだれもいません。もしそうするなら,新しい継ぎ切れはちぎれてしまいますし,また新しい衣からの継ぎ切れは古いものに合いません。また,新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はだれもいません。もしそうするなら,新しいぶどう酒は皮袋を破裂させ,それはこぼれ出て,皮袋はだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れねばならないのです」― ルカ 5:36-38。

      4 昔の再建されたエルサレムが新秩序において何の役も果たさないのはなぜですか。

      4 この例えにふさわしく,神が人類のために予告された事柄は全く新しいものとなります。中東の古いエルサレム市はそこにおいて何の役も演じません。西暦70年,神はご自身の裁きを執行してイエス時代のエルサレムを滅びに至らせました。それ以後に建て直されたエルサレムは,神の命令によるものでも,神の是認を受けた民の手によるものでもありません。(ヨハネ 4:21)新しいエルサレムが重要な意味を持つものとなったのです。それは,この地上,古いエルサレム市の上に建てられるものではありません。新しいエルサレムは天のものです。わたしたちのなすべきことは,啓示 21章9節から22章3節にある,それに関する記述を調べることです。そうすれば,その大きさや特色のゆえに,それが決して古いエルサレムの地に収まらないものであることが分かるでしょう。霊感による記述の中で,新しいエルサレムは,「子羊の妻である花嫁」と呼ばれています。

      5 新しいエルサレムはどんな者になぞらえられていますか。これはゼカリヤ書 9章9節の言葉とどのように一致しますか。

      5 使徒ヨハネはこう述べます。「また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た」。(啓示 21:2)ここにあるとおり,新しいエルサレムは,女,花嫁,妻になぞらえられていますが,同じように古いエルサレムもまた女になぞらえられていました。例えば,西暦33年ニサン9日(3月27日),イエスは,指名を受けた王が戴冠式に臨むかのごとくにしてエルサレム市に乗り進みましたが,その時ゼカリヤ書 9章9節の次の預言が成就しました。『シオンのむすめよ大いに喜べ エルサレムのむすめよ呼ばはれ みよ汝の王汝に来たる 彼は……ろばに乗る すなはちめろばの子なる駒に乗るなり』(文語)。―マタイ 21:4,5。

      6 新しいエルサレムはその麗しさにおいて古いエルサレムとどのように比べられますか。それはどのような意味で,天から,神のもとから下って来ますか。

      6 古代の地上のエルサレムは『美麗の極み 全地のよろこびととなへたりし邑』と呼ばれていました。(哀歌 2:15,文語。詩 48:1,2; 50:2)しかし,美と栄光という点になると,それは天の新しいエルサレムとは比較になりません。この栄光ある新しい都市は,「天から,神のもとから」下って来ます。どのような意味で? この新しい統治機関は神に由来し,その力と権威を天から地に及ぼすからです。それは人類のとこしえの益のためです。―啓示 21:2。

      7 どのような意味で聖なる都市新しいエルサレムは「子羊の妻である花嫁」となりますか。

      7 どのような意味でこの聖なる都市は「子羊の妻である花嫁」ですか。それは,キリストの油そそがれた弟子,すなわちメシア王国におけるイエスの共同相続者たちの会衆から成っているからです。(エフェソス 5:25-27。コリント第二 11:2。啓示 19:7,8; 22:17)その各人について栄光を受けたイエスはこう語りました。「わたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名をその者の上に書く」。(啓示 3:12)その「花嫁」を構成するのは霊的なイスラエル人,新しい契約に入れられた人々で,その数は14万4,000人です。イエス・キリストは自らを土台の「岩塊」として彼らをその上に組み立て,イエスの十二使徒は補助の土台石となります。―マタイ 16:18。啓示 7:4-8; 14:1-5; 21:14。

      8 キリストの14万4,000人の共同相続者はどのような意味で,全く新しい統治者の集合体となりますか。

      8 天の花婿イエス・キリストと共同の相続者となる14万4,000人,その中に,世の政治家は一人も入っていません。キリスト教世界を統治した政治・宗教上の王たちすら含まれていません。それは他と異なる天の統治者たちの集合体であり,全く新しいものです。もはや人間の性質を持たず,「神の性質」にあずかる者たちです。彼らは「新しい創造物」です。(ペテロ第二 1:4。コリント第二 5:17)彼らは,地上の弟子が天の王国に入るための要求にかないました。彼らは「再び生まれ」,「水と霊から生まれ」,「血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から生まれた」者です。(ヨハネ 1:12,13; 3:3,5)ローマ 6章5,8節で,霊によって生み出されたキリストの弟子たちは次の言葉を読みます。「彼の死と同じ様になって彼と結ばれたのであれば,わたしたちは必ず,彼の復活と同じ様にもなってやはり彼と結ばれる(の)です。さらに,キリストとともに死んだのであれば,彼とともに生きるであろうことをもわたしたちは信じています」。

      9 14万4,000人の共同相続者がキリストと結ばれて同じ様になるそのキリストの復活とはどのようなものでしたか。

      9 「彼の復活と同じ様」とはどういうことですか。では,キリストはどのような復活を受けましたか。ペテロ第一 3章18節にこう記されています。「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです」。

      10 (イ)地上のみ子イエスのために神が肉体を『備えた』ことの目的は何でしたか。(ロ)罪に関して肉体の死に処されたイエスが再び生きるためにはどのような復活を受けねばなりませんでしたか。

      10 ご自身のみ子を罪ある肉の様で遣わすことによって,神はみ子を低くならせ,「み使いたちより少し低い者」とされました。(ローマ 8:3。ヘブライ 2:7-9。詩 8:5)しかし神は,ご自分の独り子が永久に血肉の被造物,天のみ使いより劣る者としてとどまることを意図してはおられませんでした。肉体の死に至るまでの忠実さに対して彼にみ使いたちに勝る栄光を付与することを意図しておられたのです。神は奇跡によって地上のイエスに完全な人間の体を「備え」ましたが,イエスはその体を一度限りの犠牲として神に捧げました。それは人類が食するパンのごとくにして与えられたのです。イエスはこう述べました。「わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。(ヘブライ 10:1-10。ヨハネ 6:51)それで,「肉において死に渡され」たイエスが再び命に戻るとすれば,「霊において生かされ」る,すなわち,天的な神の霊の子とされることが必要でした。

      11 霊によって生み出されたキリストの弟子たちが彼の復活と同じ様になるため,その人々は何において「生かされ」ねばなりませんか。この事はコリント第一 15章42-54節とどのように調和しますか。

      11 イエス・キリストと同じく,その霊によって生み出された弟子たちも,「忠実であることを」肉体の「死に至るまでも」示さねばなりません。(啓示 2:10)イエスと結ばれて「彼の復活と同じ様」になるために,彼らはまたイエスと同じように「霊において生かされ」て,霊の被造物とされることが必要です。コリント第一 15章42-54節に,彼らの受ける復活についてこう記されています。

      「朽ちるさまでまかれ,朽ちないさまでよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊の体もあります。まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダムは命を与える霊になったのです。とはいえ,最初のものは霊のものではなく,物質のものであり,そののちに霊のものとなります。最初の人は地から出て塵で造られており,第二の人は天から出ています。塵で造られた者たちは塵で造られた者のようであり,天的な者たちは天的な者のようです。そして,わたしたちは,塵で造られた者の像を帯びてきたように,また天的な者の像を帯びるのです。

      「また,兄弟たち,わたしはこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません。ご覧なさい,わたしはあなたがたに神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな死の眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです。朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,朽ちるものが不朽を着け,また死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久にのみ込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります」。

      新しい復活

      12 (イ)14万4,000人の復活はキリストの復活と同じになりますが,これはキリストがどのような復活を受けたことを示しますか。(ロ)どうしてこれは新しい復活ですか。これが「第一の復活」であるのはなぜですか。

      12 「霊の体」でのそのような不朽と不滅性を得る復活,それが,ローマ 6章5節が「彼の復活と同じ様」と呼ぶものです。つまり,イエス・キリスト自身そのような復活を受けました。朽ちて死すべき,そしてみ使いより低い肉の体での生命への復活ではなく,霊的な体,そして「命を与える霊」となる復活です。(コリント第一 15:45)こうしてわたしたちは,復活したイエスが,天に上るまでの四十日の間,弟子たちに自分の姿を見せるために,物質の衣を着けた人間の体に化肉しなければならなかった理由が分かります。これはまさしく新しい復活であり,人間の目に見えないものです。それは来たるべき人類一般の復活に先立ってなされます。それはまた,重要性において第一の復活です。ゆえにそれは「第一の復活」と呼ばれます。それはまた,使徒パウロが「早い復活」と呼ぶものです。キリストの14万4,000人の共同相続者がそれにあずかります。(フィリピ 3:11)それらの人々のことが啓示 20章4-6節にこう記されています。

      「彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した。……これは第一の復活である。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」。

      13 その第一の復活によって人類の益のためにどのような統治機構が備えられますか。それはペテロ第二 3章13節の中で何と述べられていますか。

      13 こうして,「子羊の妻である花嫁」を構成する者たちは,その花婿イエス・キリストと同種の復活を経験します。そうした復活によって何がもたらされるかが理解できるようになってきましたか。それによって,全人類の益のために働く,不滅不朽の支配者たちの集合体が整えられるのです。地上の人間の支配者で不滅性を有した者はかつていません。(テモテ第一 6:15,16)イエス・キリストおよび14万4,000人のその仲間の王また祭司たちは,人類がその存在した6,000年の期間に所有した地上のいかなる政府よりも上に立つものとなります。それは神が人類に与える,最良最高の政府です。それは,悪魔サタンと配下の悪霊たちに繰られてきた一切の人間の政府に取って代わります。神はそれを用いてご自分の新秩序をこの地上に招来させます。それが新しい統治機構としての「天」となります。―ペテロ第二 3:13。

      14 (イ)人類の上にある現在の古い「天」はどうならねばなりませんか。(ロ)どうして新しい政府は実際の意味で「天」となりますか。

      14 人間のこしらえた統治機構なる「天」は,その見えない支援者なる悪魔サタン,すなわち「この世の支配者」もろとも消え去らねばなりません。(ヨハネ 12:31)それらは「大患難」における滅びに近づいています。その「大患難」はハルマゲドンにおいて最大の破壊力を振るいます。その時,「全能者なる神の大いなる日の戦争」は,天と地の主権者なるエホバの最終的勝利をもって終わります。(啓示 16:14-16; 19:11-21。ダニエル 2:44)新しい統治機構たる「天」は競合する者なく力と管理権を行使することになります。それはまさに天のものです。単に比ゆ的な意味だけでなく,実際の意味で,「神の性質」にあずかって不朽不滅性を持つ霊の支配者たちから成るからです。(ペテロ第二 1:4)使徒ヨハネが幻で見たものを現実に自分の目で見る時わたしたちは何と幸いなのでしょう。ヨハネの描写には人の心を魅するものがあります。

      「それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすでに過ぎ去っており,海はもはやない。また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下ってくるのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。それとともに,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:1-4。

      霊はダビデの系統の王を支える

      15,16 (イ)ダビデおよびその系譜上のイスラエルの王たちにとってその系統上の源となったのはだれですか。(ロ)どうしてその系統上の源は切り株また根のようになりましたか。その系統は目指す人物としてだれに至りましたか。

      15 後に,ヨハネへの幻の中で,天の花婿イエス・キリストはこう語りました。「わたしはダビデの根また子孫であり,輝く明けの星である」。(啓示 22:16)ダビデ王の父はベツレヘムのエッサイであり,ユダ族の人でした。したがって,イエスはダビデを通してエッサイの子孫でした。また,エッサイは,ダビデ王およびその系譜上のイスラエルの王たちの系統上の源となっていました。

      16 ダビデの王国はその基と根をダビデの父エッサイに置く一本の樹木のようでした。西暦前607年,エルサレムの壊滅およびその王のバビロンへの連行の際,その王国としての樹木は切り断たれました。以後ダビデの王国がエルサレムに復興したことはありません。後に残ったのは,根を張った切り株のようなものでした。それはダビデの父エッサイに当たります。エッサイは子孫の中にイスラエルを治める王のいない者として残りました。しかし,その切り株と根の中にはまだ活力がありました。ダビデ王を経たエッサイの系統は依然続いていたからです。そうしてそれはメシア・イエスにおいて目指す人物に到達しました。

      17 (イ)イエス・キリストはエッサイに源を置く王国をどのように再生させましたか。(ロ)その王国が現実の力を得たのはいつですか。ダビデを通じたエッサイの子孫である王に活力を与えているのはどんな力ですか。

      17 ユダヤ人の処女マリアを通してベツレヘムで生まれることにより,イエスは,エッサイの切り株から出る「小枝」,エッサイの根から出る「芽」のようになりました。そのような者として,イエスは,イスラエル歴代の王の父たるエッサイに基を置く王国を再生させることができました。エホバ神がイエスに聖霊をもって油そそいだ時,この象徴的な「小枝」もしくは「芽」はダビデ王国のための指名を受けた王となりました。1914年,異邦人の時が終わった際,神は彼を天において王として即位させました。彼の活動についてイザヤ 11章1-5節はこう述べています。

      「そしてエッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から出る芽は実り豊かになる。そして彼の上に必ずエホバの霊がとどまる。知恵と理解の霊,計り事と強大さの霊,知識とエホバを恐れる霊である。また,エホバを恐れることに彼の楽しみがある。

      「さらに,彼は自分の目に映る単なる外見で裁きを行なうことなく,単に自分の耳で聞く事柄に従って戒めることもない。そして必ず義をもって低い境遇にある者たちを裁き,廉潔さをもって地の穏和な者たちのために戒めを与える。また,必ず自分の口の杖をもって地を打ち,自分のくちびるの霊をもって邪悪な者を死に至らせる。こうして義は必ずその腰の帯となり,忠実は腰部の帯となる」。

      18 (イ)「小枝」はどのようにその口の杖をもって地を打ちますか。(ロ)彼はくちびるの霊をもってどのように邪悪な者を死に至らせますか。

      18 来たるべき「大患難」の時,『エッサイの切り株から出る小枝』はまさに「自分の口の杖をもって地を打ち」ます。その口から出る王者としての命令がさながら杖のごとくになり,地上にある人類の社会機構,古い事物の秩序を打ち砕くのです。その命令は強力かつ緊急であり,行動を促さないではおきません。それは彼のくちびるから送り出され,執ように逆らう地上の敵に対して致命的な効果をもたらします。

      19 神の霊に支えられた王は,柔和でへりくだった人々を邪悪な者たちの抑圧からどのように永久に救出しますか。

      19 邪悪な敵に対しその刑執行の権威をもって語るこのことは,王の口から突き出る「鋭くて長い剣」として描かれるものとも対応します。それによって『諸国民を打ち,彼は,鉄の杖で[諸国民]を牧する』のです。(啓示 19:11-15)こうすることによって,メシアなる王は,エホバの霊に支えられつつ,地上の穏和でへりくだった者たちを救出します。また,14万4,000人の仲間の王たちと共に治める時には,邪悪な抑圧者たちが地上で再度権力を得ることを許さないのです。

      20 イザヤ 11章10-12節の中にだれの再び集められることが予告されていますか。彼らは何の中に集められ,どんな状態になりますか。

      20 異邦人の時の終わった1914年における天での即位以来,エッサイの根から出た象徴的な「小枝」は,イザヤの預言,その第11章の残りの部分の成就のためにも働いてきました。彼は,油そそがれた共同相続者の残りの者が第一次世界大戦中および大戦後の迫害のために散らされていたのを再び全世界から集めました。そうして彼らを霊的パラダイスの中に携え入れました。そこで彼らは神との調和と一致を楽しみ,「霊の実」を豊かに生み出しています。(ガラテア 5:22,23)世の獣的な面は全く閉め出されています。(イザヤ 11:6-9)イザヤは霊的イスラエルが再度集められることとその復興とを先見してこう述べました。

      「そしてその日には,もろもろの民のための合図として立ち上がるエッサイの根が起こる。彼に実にもろもろの国民は物を尋ねようとして向かい,その憩いの場は必ず栄光あるものとなる。

      「そしてその日に必ずエホバは,アッシリアから,エジプトから,パトロスから,クシュから,エラムから,シヌアルから,ハマトから,海の島々から残るご自分の民の残りの者を得るために,再びみ手を,二度目に差し伸べられる。また必ず諸国民のために合図を上げ,イスラエルの離散した者たちを集め,ユダの散らされた者たちを地の四方の果てから寄せ集められる」― イザヤ 11:10-12。

      21 エッサイの根から出る「芽」はこのところで何と述べられていますか。彼は諸国民に対してどのような点で「合図」となりましたか。

      21 このところで,エッサイの根から出た象徴的な「芽」は,エッサイの「根」そのものとして述べられています。異邦人の時の終わった1914年,このメシアなる王は,王の力を持つ者として高められました。世界中に広く語り告げられた彼は一つの「合図」となりました。散らされていた霊的イスラエルの残りの者すべてが,その統治する王を見て集まって来るのです。これら再び集められてその地位に復した者たちは,以来自分たちの油そそぎに伴う務めを遂行し,メシアなる王とその王国とを全人類の前に際立たせてきました。

      22 諸国民の中から来た多くの人々は今だれに頼って物事を問い尋ねていますか。そうした問いにだれが答え,どんな結果がもたらされていますか。

      22 あらゆる国民の中から来た幾十万もの人々が,合図ともなったメシアなる王に頼り,物事を問い尋ねています。彼らは,栄光を受けたイエス・キリストがまさしくエホバの約束されたメシアであることを知って満足しています。油そそがれた残りの者は,その問い尋ねる事柄への答えを携えて彼らを助けてきました。彼らは歓呼してエホバのメシア王国の側に集まり,それを全人類の唯一の希望として迎え入れています。彼らは既に「大群衆」をなしていますが,「大患難」の時までにその数が最終的にどれほどになるかは知られていません。―啓示 7:9-17。

      「新しい地」

      23 エホバは新しい天と新しい地をどれほど堅く据えますか。民を新秩序の中に携え入れるためにどれほどの行動が求められますか。

      23 地に深く根を下ろしたこの邪悪な古い秩序は滅びに去り行かねばなりません。エホバは今,栄光ある新秩序のためにすべてのものを整えておられます。既に,新たな統治機構としての「天」を『植え』られました。それはエホバの宇宙的組織に堅く根ざしたものであり,人も悪霊もこれを抜き取ることはできません。また,その開始される「新しい地」を強固な基盤の上に置かれるので,何物もこれをぐらつかせたりよろめかせたりして破滅に至らせることはできません。この新しい秩序の中に霊的イスラエルの残りの者と「大群衆」とを携え入れるのです。そのためには,モーセの時代に紅海で行なったと同じほどの事を行なわねばならないでしょう。その時,水をかき立て,巻き返らせて,解放されたご自分の民のための通路を作られたのです。イザヤ 51章15,16節の中でエホバはこう言われます。

      「わたしエホバは,あなたの神,海をかき立ててその波を荒れ狂わせる者。万軍のエホバがその名である。そしてわたしはわたしの言葉をあなたの口の中に入れ,わたしの手の影で必ずあなたを覆うであろう。それはもろもろの天を植えて地の基を据え,シオンに『あなたはわたしの民である』と言うためである」。

      24 エホバはだれの口にみ言葉を置きましたか。それらの者をみ手の影で覆われたのはなぜですか。

      24 敵対者によってその道に置かれたいかなる障害物もエホバにとっては乗り越え難いものではありません。エホバはシナイ山で仲介者のモーセによりご自分の選びの民の口にみ言葉を置き,以後み手の影に保護して彼らを約束の地に導き入れましたが,霊的イスラエルの残りの者に対してもそれと同じように行なわれました。そのみ言葉また時代の音信を霊的な残りの者の口の中に置かれました。それを全世界の前ではっきりと言い表わすためであり,彼ら自身の救いのため,また聞いて答え応じる人々の救いのためです。「ほかの羊」の「大群衆」は自分の聞いた事柄に快く答え応じ,神の言葉を自らの口に置きました。そのすべてはエホバのクリスチャン証人となり,そのゆえにエホバはこの世にある彼らをみ手の影に保護しておられます。

      25 (イ)エホバはこうして保護した残りの者を何の構成員としますか。そして,彼らについて何を認めますか。(ロ)神は保護した「大群衆」を何にならせますか。彼らはだれの民とされますか。

      25 エホバはこうした処置において一つの目的を持っておられます。その目的は,忠実な残りの者を王イエス・キリストの共同相続者とし,新しい統治機構なる「天」の構成員に加えることです。「ほかの羊」の「大群衆」については,エホバはこれを,「新しい地」,新秩序における新しい地上社会の最初の構成員とされます。霊的イスラエルの忠実な残りの者を来たるべき「大患難」の際に生き長らえさせることによって,エホバは,『天のシオンの山,天のエルサレムに近づいた』これらの霊的イスラエル人に対して,「あなたはわたしの民」と言われます。(ヘブライ 12:22。イザヤ 51:16)また,保護を与える「神の天幕」もまた,生き残る「大群衆」のもとにあるようになります。そして,啓示 21章3節が述べるとおり,「彼らはその民となる」のです。

      26 新秩序にどんな霊は存在しませんか。やがてそれに入る人々は今何に満たされますか。

      26 全地を包含する新秩序,聖霊はそこに働き,そのところに行き渡ります。その時までに,エホバは,人々を汚すもの,「不従順の子らのうちにいま働いている霊」を一掃します。また,それら「不従順の子ら」も「大患難」の際に滅び,悪魔サタンと配下の悪霊たちは底知れぬ深みに入れられています。(エフェソス 2:2。啓示 20:1-3)それで,来たるべき「大患難」を生き残る希望を抱く人々は,いま新秩序に備え,神からの『霊に満たされる』ことに努めています。―エフェソス 5:18。

      27 新秩序においては今日の進んだ医学も比較にならないどんな事が起きますか。

      27 ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」の後,そしてサタンと配下の悪霊が「底知れぬ深み」に閉じ込められた後の地上がどうなるかについては,わたしたちはただ想像を試みるのみです。その時聖霊の働きは妨げられることなく全地に及びます。わたしたちは,1,900年前,イエス・キリストとその使徒の時代に,聖霊が地上で驚くべき様で働いたのを知っています。まさに驚嘆すべき奇跡が起き,その恩恵にあずかった人々にとって言い知れぬ喜びとなりました。今日の進んだ医術も,その時聖霊によって起きた即座のいやしと比べるものを持ちません。死人の復活さえありました。また,それに勝るものとして,エホバのメシア王国の良いたよりを宣明しかつ教えることによる霊的ないやしもなされました。死をもたらす因襲的な偽りの宗教の束縛下にあった人々が自由を得たのです。

      新秩序に伴う数々の見込み

      28 生き残る残りの者は地上で新秩序の活動にどのように加わりますか。どんな事があるまで?

      28 クリスチャン会衆が設立された時代になされたそれらの奇跡はまことに驚嘆すべきものでした。しかしそれは,聖霊によりエホバの新秩序でなされる事柄をあらかじめ示すものにすぎませんでした。大患難を生き残る残りの者は新秩序が発足する時の胸の躍るような活動に加わることが予想されます。しかし,彼らがどれほどの期間共にいるかは今のところ聖書からは分かりません。彼らには待望する「結婚」があります。子羊が全員そろった花嫁会衆と行なう天での結婚です。これが実現する時,彼らは地上場面を離れ,幸いなる「第一の復活」の報いを受けます。ゆえに彼らは死に至るまで忠実であることを示さねばなりません。

      29 「大群衆」は花嫁クラスの復活を見ますか。だれの復活を見ますか。

      29 花嫁級の復活は,大患難を生き残る「大群衆」,地上に復興するパラダイスで永久に生きる希望を持つ人々の目には見えません。しかし,「大群衆」が見ることのできる地上の復活があります。それは神がキリストによって地上に人間をよみがえらせる「時」になされます。

      30 死人の中から贖われた人の場合,その人の復活が永遠の命に至るか有罪の裁きに至るかは何にかかっていますか。

      30 イエス・キリスト自身その時を待っています。世界の裁きの日について話した際イエスはそのことについて予告しました。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことをならわしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」。(ヨハネ 5:27-29)イエス・キリストの贖いの犠牲によって復活を受ける人の場合,その復活がパラダイスとなる地上での永遠の命に至るか,あるいは遂に裁きに至りそれによって永遠の滅びに定められるかは,キリストの王国の下での彼らの歩みに全くかかっています。その時行き渡っている聖霊の働きに応じ,それを自分の生活を導く力とする人々はパラダイスでのとこしえの命を得ることになります。その時明瞭に働いている聖霊に逆らう人々は,聖霊に対する罪の刑罰としてとこしえの死を被ることになります。

      31 王イエス・キリストは自分が死んだ日にしたどんな約束を依然覚えていますか。この事が起きる「時」はいつ訪れますか。

      31 天の王イエス・キリストは,西暦33年ニサン14日のあの暗い日,カルバリにおいて自分の傍らで死んだあの同情心のある悪行者に対する自分の約束を忘れていません。もちろん,杭に掛けられたその悪行者は今死んでおり,何も覚えてはいません。(伝道 9:5,10)しかし,栄光を受けたイエス・キリストは同情心を示したその人に対する自分の次の言葉を覚えているのです。「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」。(ルカ 23:39-43)ここでパラダイスのことが述べられている点から見て,イエスが記念の墓にいるその悪行者に自分の声を聞かせる「時」は,地上におけるパラダイスの復興が相当進んで,復活してくるその悪行者が地上におけるその変化に気付けるようになるまでは訪れないと思われます。イエス・キリストを通して神から来る聖霊の働きに自分の生活を合わせることによって,その悪行者は自分の復活を,全地に広がるパラダイスでのとこしえの命に至るものとすることができます。

      32 死人の中から地上の命に迎え入れられる人々の中には,聖書が「雲」になぞらえるどんな人たちがいますか。

      32 その時地上にいるわたしたちは,買い戻されたわたしたちの親族や友人だけでなく,古代の忠実な人々をも死人の中から迎えます。それは,エホバの証し人であり,聖霊によって動かされていた人々です。その中には,バプテストのヨハネからエホバのための最初の殉教者となったアベルに至るまでの,「大ぜいの,雲のような証人たち」が含まれています。(ヘブライ 11:2–12:1)それらの人々は新秩序において重要な役割を果たすことになるでしょう。

      33 その「雲」に属する人々には,他の人々と並んでどんな職務上の地位が与えられますか。それらの人々は中継者としてどんな連絡のために仕えますか。

      33 王イエス・キリストは,これらの人々の中から,自分が「君として全地に任命する」者たちを選び取ります。(詩 45:16)その時には,その人々よりも先に「君」とされている者たちが地上にいるはずです。だれでしょうか。「大患難」を生き残る「大群衆」の中から,新秩序がスタートした時に「君」として任命された人々です。(啓示 7:9-17。イザヤ 32:1,2)しかし,『君たち』は皆,「新しい天」,すなわちイエス・キリストおよび14万4,000人のイエス・キリストの共同相続者でなる新しい天の政府の,見える地上の代表者となります。これら『君たち』が,見えない王国と,買い戻された人類でなる見える地上の社会である「新しい地」との間の連絡のための中継者となることは疑いありません。a

      34 新秩序において,イエス・キリストは「強大な神,とこしえの父,平和の君」の称号に伴う役割をどのように果たしますか。

      34 新しい秩序は地の四隅に至るまでかき乱されることのない平和の保たれるところとなります。それは,その天的な父から,「驚くべき助言者,強大な神,とこしえの父,平和の君」の称号を付せられた者の統治下に置かれ,「あまねく行き渡るその君としての支配と平和に終わりはない」のです。(イザヤ 9:6,7)彼はある意味で「とこしえの父」となります。その「君としての支配」は父親によるようなものとなり,子供のようになって従順に服するすべての者に命を与えるからです。彼はある意味で強大な神ともなります。神のような審判者となるからです。しかし,地上でその恩恵に浴する人々から崇拝を受ける者とはなりません。―詩 82:1-6。ヨハネ 1:1; 10:33-36。

      35 その時,ただだれだけが神として崇拝を受けますか。

      35 その時にも,崇拝されるべき者はエホバだけです。その新秩序についてこう記されています。「見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださ(る)」。(啓示 21:3,4)悪魔サタンは「この事物の体制の神」ではあっても,新秩序の神とはなりません。(コリント第二 4:4)悪魔崇拝や悪霊崇拝は廃除されます。ただエホバだけが唯一の神として崇拝されるのです。

      36 どんな実が新秩序を豊かにしますか。しかし,キリストの千年統治の終わりにだれが姿を現わしますか。

      36 聖霊が新秩序全体に浸透します。(詩 139:7-10)地上のパラダイスはその霊の「実」である,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制などの豊かなところとなります。(ガラテア 5:22,23)そうした霊的に実り豊かな状態がキリストの千年統治の終わりに至るまで栄えます。しかし,その後どうなるのですか。サタンと配下の悪霊たちが底知れぬ深みから出て来ます。彼らは「しばらくのあいだ」解き放されるのです。彼らは欺きにより,再び全地を「不従順の子らのうちにいま働いている霊」によって支配しようとします。行き渡っている神の聖霊を前にして彼らはどこまで成功するでしょうか。―啓示 20:3。

      37 (イ)新秩序においてサタンと配下の悪霊はその時行き渡る聖霊に対してどの程度の侵害をなしますか。(ロ)エホバの正しさはどのように永久に立証されますか。

      37 元の状態に戻った人類のうちの幾らかの者を誘って,聖霊に対する許されることのない罪を犯させるだけです。こうしてそれらの者は,命の霊の天的な源なるエホバ神から自らを断つことになります。それは彼らにとって永遠の死,「第二の死」となります。しかし,その美しいパラダイスの住みかにいる人類の大多数についてはどうですか。彼らの場合聖霊が輝かしい勝利を収めます。聖霊の永遠の愛のうちに彼らはサタンの誘惑と欺きを退けます。全宇宙の正当な主権者である,彼らの神エホバへの不動の忠節を守るのです。こうして彼らが忠実を守ってこの最終的な試みを通過することは,エホバの永遠の立証に寄与するものとなります。それは,幾時代にもわたって激しく続けられてきた論争に最終的な決着をつけます。それは,エホバの被造物が宇宙の主権者としてのエホバに捧げる愛の忠誠をめぐる論争です。サタンの不実な訴えは議論の余地なく否定され,エホバの真実さが徹底的に立証されます。(ローマ 3:4)こうして,サタンに許された「しばらくのあいだ」は終わります。その時,彼とその「胤」の全員は,エデンにおけるエホバの約束どおり,打ち砕かれて存在を断たれます。(創世 3:15。啓示 20:7-15)「ハレルヤ!」の叫びが上がるでしょう。

      38 そうした時にも終始聖霊に満たされている人々の前途はどのようにとこしえにわたって幸福なものとなりますか。

      38 わたしたち自身はそこにいて,あらゆる悪が天と地からとこしえに滅ぼし去られるのを目撃し,その後の将来に向かって生き続ける者となりますか。わたしたちの主イエス・キリストの神また父なる方への破れることのない献身のうちに終始常に聖霊に満たされているすべての人にとって,その終わりのない将来はまことに幸いなものとなります。とこしえの命を受けるにふさわしいとみなされる彼らは,絶えざる善と,喜びあふれた生活のための尽きざる備えをたたえたパラダイスの中で,人間としての完全さのうちに不断の若さをおう歌します。彼らは常に聖霊に調和して生きることを願います。それは終始,神の誉れとなるそうした新秩序を推進する力となってきたのです。わたしたちはその新秩序にふさわしいことを実証できますように。そうした心からの願いに動かされるわたしたちの不断の祈りは,敵対する世界に囲まれながら神に捧げた,詩篇作者ダビデの次の祈りと和するものでありますように。

      「わたしの敵から救い出してください,ああエホバよ。あなたのもとにわたしは覆いを携えました。わたしにあなたのご意志を行なうことを教えてください。あなたはわたしの神だからです。あなたの霊は善いものです。それがわたしを廉潔の土地に導き入れてくれますように」― 詩 143:9,10。

      39 結びに,今なお神の霊と調和して生きることを願う人々に対して,わたしたちは何と言いますか。

      39 こうして今,聖化の力を持つ神の聖霊と一致して生きることを依然願うすべての人々に対して,わたしたちは,結びに,真心を込めてこう語ります。「主イエス・キリストの過分のご親切と神の愛,ならびに聖霊にあずかることが,あなたがたすべてにありますように」― コリント第二 13:14。

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