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    目ざめよ! 1976 | 11月22日
    • には,“永遠にあなたのもの”とか“真実の愛”とか“恋人”といった独創的な文字が色鮮やかに描かれています。内側のダッシュボードに,“汝の神に会う備えをせよ”といった聖句の書かれていることもあります。これに,クロムメッキをして反射をよくした鏡や動物の角を5,6個飾りつけると,実用性と耐久性と民族芸術がうまく混じり合った魅惑的なジープニーが出来上がるのです。

      タガログ族地域とイロカノ族地域

      アン・ナヨン・フィリピノでわたしたちが乗ったジープニーは,まず,ルソン島中南部の米穀地帯にあるタガログ族地域を再現した村に,スピードを上げて向かいます。平たんで灌漑のゆきとどいた肥沃なこの土地では,順調にいくと,年に三回米の収穫を期待できます。

      ジープニーから降り立つと,絵に書いたような数軒の草葺き屋根の家に注意が引き付けられます。これらの家は脚柱に支えられ,地面から1.8㍍ほどのところに建てられています。この地域に多い雨は,米の成育には適していますが,同時によく洪水を引き起こします。家を高床式にしておけば,洪水の際も,家人は安全で家財をぬらさずにすみます。窓が大きく壁や床が羽根板造りになっているこうした家では,プライバシーがあまりありませんが,風通しは非常に優れています。

      階段を上って家の中に入ってみましょう。ひと足ごとに床が沈みます。しばらくの間は心配でしたが,わたしたちの重みぐらいでは竹の床は抜けないことが分かりました。家に入ると気付くことですが,米作に携わる農夫は年三回の農閑期を有効に用いています。パイナップルの葉の繊維から作った,透き通るような非常に上質のピーニャ布やバナナの繊維から作ったジュスィ布,手の込んだ刺しゅう,陶磁器,水牛の背の皮で作った皮細工品などが家の中に展示されています。フィリピン原産のナラ(アカラワン)と呼ばれる木で作ったテーブルやひつに水牛の骨を美しくはめ込んだものもあります。こうした手造りの製品は,多くの場合,世界各地の高級家具店の店頭に飾られます。このいわゆる“家内工業”は非常に広く普及しているため,フィリピンの主要産業の一つにまでなっています。

      小さな湖のほとりを通り,アヒルの騒々しい鳴き声を聞くと,リサール州の町パテロスの名物バルトのことを思い出します。バルトというのは,二週間ほど抱卵させて,ふ化する直前に調理したアヒルの卵のことです。おなかをすかせた通行人にバルトを売る露店が繁盛しています。お客は,アヒルの子を毛のついたままひと口に食べてこの料理を味わいます。大抵のフィリピン人はバルトをごちそうとみなしますが,外国人でこの味の分かる人はめったにいないようです。

      イロカノ族地域へ行く途中,300種に上ると言われるフィリピン・バナナの何種類かと,世界的に有名なマニラ麻の採れる,バナナとも類縁のアバカが目に入ります。マニラ市のすぐ北にある峡谷に,質朴で勤勉なイロカノ族が住んでいます。ここには,スペイン統治時代からの格式のあるがんじょうな家屋が今だに立っています。この公園でわたしたちが目にする大きな家屋は,イロカノ族の原住地から少しずつ運んできたものです。

      ビコル族地域

      標高2,438㍍のマヨン火山そのものがビコル族の居住地にそびえているように,同火山をかたどって造られた山もこの一帯にそびえています。マヨンは世界で最も形の整った円錐形の火山であると言われています。このマヨン火山は1814年に大爆発を起こし,カグサワと呼ばれる町全体が6㍍もの層を成す火山礫と溶岩に覆われてしまいました。この時,他の幾つかの町も壊滅し,幾千人もの人命が失われました。わずかに,固まった溶岩の間から突き出ている教会の尖塔がこの惨事を無言のうちに物語っています。「そうです,火山は今でも活動しています」と告げられました。マヨン火山が最後に爆発したのは1968年のことです。それ以降も,フィリピンにある50ほどの他の火山の多くと同様,蒸気を噴き上げています。

      台風の進路に当たるビコル族の居住地では,うなりを上げる強風がひんぱんに吹き荒れるため,原住民は,二つに割ったココナッツの実がひっくり返らない限り台風ではない,と冗談を言います。風は洪水よりも恐れられているため,家屋は瞬間最大風速55㍍の台風にも耐えられるよう,大地にしっかり固定されています。堅固なごく一部の建物だけを残して他のすべての家屋が嵐のために破壊されるような事態が生じても,生来陽気なフィリピン人は,入手可能なその土地の建築資材を用いてもう一度初めからやり直します。

      歩いているうちに,熱帯樹木の王者ココナッツの木に囲まれたビコル族の農園の中にいるかのような錯覚にとらわれました。フィリピン人の家庭にとって,ココヤシは豊かさの象徴とも言うべきもので,お金より価値があります。葉の中央部から伸びる葉脈は上質のほうきになりますし,樹幹は耐久力に富む橋や柱として用いられます。この樹幹は手ごろな導水管にもなります。根からは,大量のたき木が得られます。主婦は,半分に割ったココナッツの殻の上に足をのせ,それで硬材の床をこすることさえします。こうすると,床のつやが出るのです。殻は,調理道具やギター,彫り物,木炭,種々の上等な道具に利用されます。ココナッツの果肉からは,バターや石けん,やし油などが作られます。

      多くの農夫は,子供が生まれると,ココヤシの木を6本植えます。子供が学齢期に達するころには,ココヤシの木も実を結ぶようになり,それを売って子供の学費に当てることができます。木が十分に成長するころには,子供も若者となり,実を豊かに結ぶこれらのココヤシの木が彼らの人生の門出を祝福するものとなります。

      ビサヤ族地域

      フィリピン群島の中心部に,とても美しいビサヤ諸島があります。ここは製糖業が盛んで,島の住民はその恩恵に沿しています。フィリピン産の砂糖の75%はネグロス島を中心とするこの附近で産出されます。格子模様の通路を備えたスペイン風の家屋は,訪問者に過ぎ去った日々の生活様式をしのばせてくれます。

      人口密度の最も高いセブ島は,昔の生々しい歴史の中心舞台となってきたところです。1521年にポルトガル人の探険家フェルディナンド・マゼランは近くのホモンホン島に上陸しました。当初マゼランは,原住民から暖かく迎えられましたが,重税を課したため,しだいに原住民の反感を買うようになりました。セブ島の酋長ラプラプとマゼランの軍との間に戦いが生じ,マゼランはここで命を落としました。

      後日,セブ島に入植したスペイン人は,西洋の宗教をフィリピン人に伝えた功績をたたえて,マゼランを記念する大きな十字架像を建てました。やがて,迷信深い人々はこの十字架にいやしの力があると信じるようになりました。“奇跡”の十字架のかけらを得ようとする狂信的な人々から守るために,この十字架像をキオスクと呼ばれる寺院の中に収めざるをえませんでした。今日でも,その力を信じる人は,専門の踊り手にお金を払って,このキオスクの前で灯明をともし,踊りを舞ってもらいます。ビサヤ族地域にあるこの有名な像の複製がここナヨン・フィリピノにも展示されています。

      回教徒地域

      前方の魅惑的な村に見とれながら,村に通じる曲りくねった道を下りて行くとき,わたしたちは自分の足の疲れをすっかり忘れていました。他の地区の家屋がそれほど色彩に富んでいないのと対照的に,この村は色彩に富んでいて活気があるようです。5本の赤い尖塔を備えた白い回教寺院を取り囲むように,明るい色彩の凝った木の彫り物で飾られた家屋が並んでいます。中には水際から少し先の水面に立つ脚柱の上に建てられている家屋もあります。回教の教えによると,中央に立つ尖塔は回教の神アラーを表わし,四隅に立つ小さな尖塔は4人の従者を表わしています。各村の中央にある回教寺院では,毎日一定の時間を置いて青銅のどらが打ち鳴らされます。すべての村民は,それを聞くと,寺院の方角に向かって祈りを捧げます。

      スペイン人がフィリピンにやって来る何年も前に,アラブ人の布教師がミンダナオ島やパラワン島,スル島などに足を踏み入れ,多くの原住民を回教に改宗させました。現在のところ,これら回教徒はフィリピンの全人口の4%ほどにすぎませんが,彼らの習慣はフィリピン諸島に彩りを添えています。この土地の男性がかぶる,コピアと呼ばれる,ビロード製でターバン型の独特の帽子や,女性のはく,カンティオと呼ばれるゆったりとした長ズボンなどの展示物には目を奪われます。

      回教徒の中には,漁をしたり,真珠取りの仕事に携わったりしながら,生涯を水上で過ごす人もいます。水上家屋の中で生活し,食料品も定期的にやって来る小舟つまりバンカスの商人から求めます。各家屋はタタヤスと呼ばれる厚板の橋で結ばれており,互いに行き来でき便利です。

      しかし,ミンダナオのすべての村落が水上に作られているわけではありません。ここナヨンの飾り立てた家屋のように,乾いた地面の上にしっかりと建てられているものも少なくありません。軒のまわりの凝った彫り物は“魔よけ”の役を果たす,と回教徒は考えています。しかし,家の壁面から突き出ている,大きな蝶の羽のような色鮮やかな他の彫り物についてはどうですか。オリルと呼ばれるこうした彫り物は,地域社会の回教の支配者ダツーの優れた地位を象徴するものです。ダツーは,この家に“スルタン”つまり息子たちとともに住みます。近くに2棟の小さな家屋が建っており,そこにはダツーの妻たちが住んでいます。回教の教えによると,ダツーは,扶養できる範囲で,4人の正妻と4人のめかけまで持つことができます。8人の妻は,いわば“友好的な競争”関係の中で生活しなければなりません。

      回教徒の墓地も人目を引きます。それぞれの墓の上に,死者の生涯を象徴する物品が置かれています。例えば,漁師の墓の上には小舟が置かれていることでしょう。女性の墓には,しばしば鏡が置かれており,むなしさを示しています。

      山岳地域

      南部の大きな島ミンダナオ島から北部にあるルソン島の山岳地域にまで,わたしたちは旅をします。といっても,ここナヨン・フィリピノでは,少し歩くだけです。この地域の高山地帯には,強じんな体力を持つ部族民が生活しており,熱帯とは思えない涼しい山の気候と急勾配の山地の中で,世界七不思議の一つとも言われる,有名なバナウェの階段状水田を耕しています。幾百年も昔にここの住民は,ほとんど垂直に切り立つ山腹に,水田を一つずつ切り開くという多大の労力と忍耐を要する働きを,簡単な道具だけを使ってやってのけたのです。各段の水田には,一段一段水が滝状に落下する複雑な水路がめぐらされていて,給水される仕組になっています。全部の水路をつなぎ合わせると,その全長は中国の万里の長城の10倍に相当する2万2,530㌔に達します。それは,優に地球を半周する長さです。

      この地域の草葺き家屋は4本のがんじょうな脚柱の上に立っています。脚柱の上部にはそれぞれ大きな丸材が取り付けられていて,ネズミの侵入を防いでいます。家からはしごが下ろされていれば訪問者が歓迎されている証拠ですから,はしごを上っていくことができます。家の中で,火を起こし,料理を作り,家族が眠ります。日中の暑い間は,ほとんどを家の下で過ごし,織り物をしたり,木を彫ったりしています。中でも特に人気のあるのは,首狩りの横行していた時代を連想させる昔の戦士の仮面や水牛の彫り物です。

      子供は親もとに長くおかれないため,家はそれほど大きくありません。思春期に達すると,男子はアトスと呼ばれる男子の合宿所に,女子はウログと呼ばれる別の建物に移されます。やがて,試験結婚が取り決められることになりますが,二人の仲がうまくいかなかったり,子供が生まれなかったりすると,その結婚は破談になります。万事がうまくいった場合にのみ,結婚が正式に宣言されます。

      日も暮れかかり,ナヨン・フィリピノに別れを告げる時間になりました。わたしたちはフィリピン群島を一目で見られる所を見学しました。様々な珍しい展示物が走馬燈のように思い出されます。マニラの騒々しい都会の生活から,山岳地域の部族の生活に至るまで,フィリピン人の素朴ながらも魅惑的な生活に,強く心を引かれずにはおられません。

  • 日本の葬式の費用はかかり過ぎる?
    目ざめよ! 1976 | 11月22日
    • 日本の葬式の費用はかかり過ぎる?

      日本の「目ざめよ!」通信員

      ここ日本に住もうと,あるいは他のどこに住もうと,死はその犠牲者を選びません。

      また葬式を出す余裕のない人がいても,その人を待つ訳ではありません。多くの場合,死は不意に見舞い,遺族は費用のいかんにかかわらず,土地の葬式の習慣に従う以外にはほとんど選択の余地を与えられていないのが実情です。

      いま数分を費やしてここ日本における葬式の習慣と費用を一見してはいかがですか。もしあなたが日本の葬式に一度も参列したことのない人であれば,あなたの土地での習慣と比べることに興味を覚えるかもしれません。しかし日本の葬式について読むことは,別の面であなたの役にたつかと思われます。自分自身や家族の者の葬式についてあらかじめ考慮しておくのはまれな事です。それでも日本の葬式の多くにどれだけの事が関係しているかを知る時,あなたの土地ではどんな選択の余地があるかを前もって考えておくのは賢明であるという結論になるかもしれません。

      葬式の費用がどれだけ要るかは,家の格式や故人の社会的地位によって決まります。それは四万円に満たないこともあれば,何百万円に上ることもあります。ふつう葬儀屋は,どれだけの費用をかけるかについて提案するでしょう。日本では近所の人や他の人が参列し,その人々の目に葬式がどう映ったかは後々までも話題になります。それで故人の“盛大な葬送”については,周囲からの圧力が働いているのです。

      葬儀屋

      日本には昔からの風習が根強く残っている土地もあります。近隣の人が葬式の一切をとりしきるのもその一つです。しかし都会では一切の手はずを葬儀屋に任せるのが,だんだん普通になっています。葬儀屋は棺おけと霊柩車そして(仏教徒のために)祭壇を用意します。また葬儀を行なう場所,

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