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  • 家庭では今日どんな事が起きているか
    目ざめよ! 1979 | 8月8日
    • 家庭では今日どんな事が起きているか

      お近くで,一番暴力沙汰の多い所はどこですか。その嘆かわしい特色を有するのは“家庭”かもしれない,と聞いて驚かれますか。

      ロサンゼルス・タイムズ紙はこう述べています。「夫婦げんかは今や,我が国の最も一般的で,極めて危険な暴力の表われとなっている。ほとんどの街区,行政区,町,郊外で,夫婦が蹴とばし合い,ひじ鉄砲をくらわせ,殴り合っている。……街路上での暴力は人目につきやすいが,家庭内で起きる暴力はより広範囲に及んでおり,しかも街路上での暴力と同じほど致命的である」。

      東洋,欧州,南米,そうです,世界中の無数の人々は,残念ながら,自分たちの家庭が激戦地と化している点を認めないわけにはゆきません。しかし,自分たちの経験とやや希望的な観測に基づいて,「家庭よりも素晴しい所はない」という,キケロのそれと同じほど古い心情を表わす人もいます。あるいは,「王であろうと小作人であろうと,家庭に和のある者が一番幸福」と語った,ドイツの詩人ゲーテの言葉に同意するかもしれません。

      とはいえ,今日実際に家庭で平和を見いだしている人はどれほどいるでしょうか。あなたはどうですか。近所の人の大多数はどうですか。職場の同僚や学友は? 実を言えば,家庭内暴力は,見過ごすことのできない,緊急な問題です。次に挙げる幾つかの報道はそのことを示しています。

      日本の新聞各紙は,残忍な仕打ちを受けた妻たちのための避難所の開設を報道し,「殴られた妻たちは,もはや泣き寝入りしなくてもよい」と述べています。

      アルコール中毒の夫に毎晩のように野球のバットで殴られた人を含め,骨折したり,打撲傷を負ったりした婦人たちを見て,東京にあるそのセンターの責任者はこう語りました。「日本の家庭におけるけんかの数は,戦後大いに増加した」。

      英国からも,同国および欧州の実状に関して,同様のニュースが寄せられています。英国下院の一委員会は,「多くの人にとって,家庭は極めて暴力的な場所となっている」と報告しています。その証拠に,英国婦人は新たに設立された避難所に大挙して押し寄せています。その一人にセイラがいます。まだ20代なのに,この女性は鼻を折られ,歯がほとんどなくなり,髪の毛もかなり失われた姿でやって来ました。その上,この女性の夫は,息子が泣くと言ってはその子を度々部屋の向こう側に投げ付けたので,その子は三歳にして話すのを恐れるようになってしまいました。

      これらは例外でしょうか。残念ながらそうではありません。米国の女性下院議員,バーバラ・ミカルスキィによると,米国の殺人事件全体の四分の一は家庭内で起こり,その半数は夫か妻の殺人です。「殴られる妻: 静かな危機」という本の著者の推定によれば,米国の主婦のうち2,800万人は配偶者から身体上の虐待を受けています。

      家庭内暴力というこの“ガン”の触手は,自分には全く及んでいないと言える人がいるでしょうか。当然のことながら,妻が殴られたり,子供が虐待されたり,夫がたたかれたりしている幾百万もの家族は,自分たちがその影響を受けていることを知っています。自分の愛する友人や親族のだれかが家庭でたたかれていれば,わたしたちも影響を受けていることになります。あざを作り,取り乱して職場に出て来るような人を雇っていたり,そのような人と一緒に働いていたりした場合はどうですか。それはわたしたちに,場合によっては経済面で,影響を及ぼすのではありませんか。また,家庭内暴力は,わたしたちの受ける警察や病院の救急室のサービスの質にどんな影響を及ぼしているでしょうか。場所によっては,警察官の職務の他のどんな分野よりも,家庭内暴力の仲裁に当たって殉職する警官が多いことをご存じでしたか。警官の勤務時間の多くは,夫婦げんかの呼び出しに応じることに取られているのが現状です。その時間は,普通なら一般の犯罪や暴力からわたしたちを守るために使われるはずの時間です。

      これほど多い家庭内暴力の原因はどこにありますか。家庭の崩壊を招く,離婚が根本的な解決策となりますか。暴力という“ガン”が自分の家庭で発生したら ― あるいはそのような傾向を少しでも察知したなら ― どうしたらよいでしょうか。聖書の助言は,人生の他の多くの諸問題に対処する上で功を奏してきましたが,この問題についてはどんな助けを差し伸べているでしょうか。続く一連の記事はその問題を取り上げています。家庭内暴力に関して施す手はあるとの励みになる確信を抱いて,この問題を検討してゆきましょう。

  • 実話 ― それは何を物語っているか
    目ざめよ! 1979 | 8月8日
    • 実話 ― それは何を物語っているか

      地方のうわさ話やタブロイド版の新聞は,家庭内の暴力の話をしばしば大きく取り上げます。そうするのは,そのような話に対する病的な関心が広く見られるからです。しかし,本誌が次に掲げる実話aを提示するのは全く別の理由によります。これらの記録を掲載したのは,それから教訓を得るためです。ですから,各々の事例の後に,思考を促す質問を挙げることにします。それらの質問についてじっくり考えてください。ここに挙げられている実例は,問題の責任が大抵の場合どこにあるかという点を理解するのに役立つでしょう。また,困難な事態を引き起こす弱点に警戒するよう促し,その問題を解決したり,家庭内暴力を回避したりする方法を識別するのに助けになるでしょう。これは聖書の次の格言と調和しています。「分別のある人は困難が来るのを見てそれを避けるが,考えのない人はそのまっただ中に歩んで行き,後でそのことを悔やむ」― 箴 22:3,「今日の英語聖書」。

      グロリアのあごから鎖骨にかけての見るも無惨な傷跡は,この24歳のニューヨークに住む婦人に会ってまず最初に目に付く事柄です。この婦人は六人きょうだいの一人として育ちました。父親は酒に酔うと,よく妻や娘たちを殴りました。その暴行から逃れるために,グロリアの母親は幾度も家を出ましたが,その度に戻ってきました。

      グロリアはヘロインに逃避の場を求めます。そして,次には家を離れ,やはり麻薬中毒者であるロバートと結婚するという挙に出ました。ロバートはグロリアを殴りましたが,幼いころの経験のせいで,グロリアにはそれが家庭生活のごくありふれた事柄にしか思えませんでした。妊娠すると,グロリアはヘロイン中毒を克服するための治療を求めます。その後,男の子が生まれますが,その子の泣き声は生活を一層難しくしました。グロリアは深酒をするようになったのです。結婚生活と育児から来るストレスの下に置かれて,グロリアは赤ん坊を虐待するようになります。子供を平手で打ったり,殴ったり,熱いアイロンで子供の足にやけどを負わせたりしました。一度などは,息子の両腕の骨を折ってしまったほどです。その子は,一歳になったばかりで,里子に出されました。

      ロバートの反応はと言えば,グロリアをもっと殴り,やがてはその下を去ることでした。その後間もなく,グロリアはアルバートと親しくなり,今度こそ本当の変化を期待していました。しかしアルバートは短気で,激怒するとグロリアを激しく打ちすえました。あるときけんかをして,アルバートがひどく殴りすぎたために,グロリアは肋骨を折って病院にかつぎ込まれる結果になりました。それに懲りて,二人は変化しましたか。とてもそうとは言えません。アルバートはグロリアを病院から連れて帰る際にまた腹を立て,どぶから一本のびんを拾い上げ,それを割り,それでグロリアののどを突き,先に述べたひどい傷跡を残したのです。

      この家族は,ソーシャルワーカーの援助を受けるようになり,グロリアは飲酒をやめ,家族のためにもっとバランスの取れた食事を供するよう努めています。アルバートは怒りを抑えるよう努めており,最近では妻を打たない日が幾週間も続くことがあります。

      自問してください: アルコールは問題のどれほどの部分を占めていただろうか。グロリアの子供のころの経験は,どんな影響を及ぼしただろうか。

      サラの結婚生活は,決して年とともに穏やかなものにはなりませんでした。夫の手による暴行は,そのひん度を増してゆきました。常用している精神安定剤を別にしても,最近サラの身に起きた事柄 ― 肋骨が二本折れたこと,歯が一本抜けたこと,打撲傷,裂傷,そして三度の入院 ― は,夫が以前にも増して簡単に腹を立てるようになっていることを物語っています。十代になる二人の息子たちもそのことに気付いています。

      ある日,サラの夫は,出勤前に,16歳の息子にガレージを掃除するよう言い付けました。昼食時になっても掃除はされておらず,その子は友だちと泳ぎに行くと言いました。サラはそれを聞いてぞっとしました。夫が自分に当たり散らすことが目に見えていたからです。「今日中にガレージを掃除しなくちゃだめよ」と息子に言ったとき,台所のいすの背に掛けたその指の先は青ざめていました。「放してくれよ」と息子は叫んで,自分の部屋へ向かって階段をかけ上がります。サラは息子の後を追ってかけ上がり,その腕をつかんで,「どこへも行かせませんよ,終わるまでは……」と言いかけますが,言い終わらないうちに息子は振り向き,母親の胸を勢いよく突きました。サラは手すりにつかまろうとしましたが,つかめずに,階段を下まで転がり落ちてしまいました。

      自問してください: 待つことが解決策になっただろうか。父親と息子の性分と行動にはどんな関係があるように思えるか。

      [カウンセラーあての手紙]「私は13歳で,自分のためだけでなく,四人の弟たちや妹たちのためにもこの手紙を書いています。弟や妹は,11歳,10歳,9歳,それに6歳です。お父さんとお母さんは毎晩欠かさずけんかをします。どなり声や叫び声や悪口やドアをバタンと閉める音,それに皿の投げ合いはもうたくさんです。お父さんは一生けんめい働いてくれる,りっぱな人です。お父さんがドアを開けて部屋に入ろうとするとすぐお母さんは不平不満をぶつけます。すると,お父さんが黙れ,と言って,戦いが始まります。けんかが終わると,お母さんは泣いて,お父さんは自分を愛していないと言います。でもそれは間違っています。お父さんはお母さんを大変愛しています。たとえ,愛していなかったとしても,それはお父さんのせいでしょうか。いつもがみがみ言われていたいと思う人がいるでしょうか。お父さんとお母さんの間がうまくゆくよう助けてください。私たちは家族が分かれることを望みませんが,こんな生活はあんまりです」。

      自問してください: 激しいけんかの責任はだれにあっただろうか。そのような激昂した騒ぎを未然に防ぐにはどうしたらよいだろうか。このような手紙を書くだけの理由を持つ子供たちを知っているだろうか。

      コニーは永年連れ添ってきた夫から,意識を失いそうになるまで殴打されてきました。必要な治療を受けるために病院へ行くのが余りにもきまり悪く思えたので,コニーは近くのテキサス州サンアントニオに開設された,殴られる婦人のための避難所へかけ込みました。争いを爆発させた相互の緊張や欲求不満には触れないで,コニーは自分が殴られた際の様子を話しました。

      夫が家へ帰って来ましたが,正体を失っていました。ぐでんぐでんに酔っ払って,ビールの臭いを漂わせていました。そのあと,感情的に対立した際,コニーは夫を平手打ちにしました。そんなことをしたのは,結婚以来初めてのことでした。コニーはその時のことをこう述懐しています。「それから,あの人は報復に出ました。そして,私が男性であるかのように私を殴り出し,おなかや首をぶったんです。そして,私が倒れると,今度は私を蹴飛ばしました」。それは残酷な暴行でした。

      自問してください: この場合,暴力行為の責めを負うべきなのはだれだっただろうか。どうしたらそのようなけんかを避けられただろうか。もし自分がコニーの立場にあったら,どうしていただろう。

      これらの例は,家庭内暴力の全貌を網羅するものではありませんが,問題の比較的よく見られる面の幾つかを示しています。また,各々の例の後に提起した質問は,家庭内暴力の内情を知るのにすでに役立ったかもしれません。続く記事の中で,これらの実話の中に含まれる幾つかの要素が取り上げられます。また,夫や妻や子供たちにかかわる暴行の原因と結果に,明確に焦点をしぼってみることにします。そうすれば,今日,非常に多くの人々の生活や家庭を破壊しているこの問題を解決したり,この広範に及ぶ悩みの種を未然に防いだりするのに役立つ助言を一層よく認識できるでしょう。

      [脚注]

      a 個々の人のプライバシーを守るために,人名は変えてあります。

  • たたかれる妻/たたかれる夫 ― その背後にあるのは何か
    目ざめよ! 1979 | 8月8日
    • たたかれる妻/たたかれる夫 ― その背後にあるのは何か

      家庭内暴力は日常茶飯事となっているため,その傷跡はわたしたちの目に触れるほどです。近所の人や職場の同僚を見回せば,色の濃い眼鏡やハイネックのセーターや厚化粧をもってしても隠しきれないあざやつめ跡など,夫婦げんかの結果に気付くかもしれません。そうすると,『あの人はどんな結婚生活をしているのだろう。結婚したときには愛し合っていたはずなのに,一体どうしたのだろう』と小首をかしげてしまいます。

      そうです,殴打の背後には何があるのでしょうか。自分の配偶者を殴るという罪を犯しているのはどちらの側ですか。それは主に夫のほうですか。家族内の暴力を引き起こす家庭環境はどのようなものですか。一般に,特定の外部からの影響が見られるでしょうか。具体的に,それについてどんな措置を取ることができますか。こうした問題を検討してみましょう。

      妻を殴るのはどんな種類の人か

      家庭内暴力というと,多くの人の脳裏にはある種の典型的なイメージが浮かびます。人々は大抵,“ブルーカラーの労働者”― 例えばトラックの運転手や土方や清掃員など ― で,近くの酒場に立ち寄り,ビールを“しこたま飲み”,夫婦げんかを覚悟で千鳥足で帰宅するような人を脳裏に描きます。前出のコニーとグロリアの場合に見られるように,そのような人は少なくありません。

      しかし,家族内の暴力がそのような人に限られているとお考えでしたら,それは誤りです。「知的報告」というコラムはこう述べています。「家庭内の暴力は,人種,階級,そして背景の別なくその影響を及ぼしている。それは広く行き渡っており,中流階級の上層部でも,下層階級と同じほどのひん度で起きている」。(パレード誌,1977年10月16日号,18ページ)「殴られる妻: 静かな危機」という本は次の点を指摘しています。

      「たたかれた婦人たちの同僚の話によると,その被害者の中には,医師,弁護士,大学教授,果ては僧職者などの夫人もいる。配偶者虐待に関するゲレス博士の調査によると,暴力行為の最も多い家族は,収入の最も多い家族である」― 7ページ。

      家族内の暴力があらゆる種類の家族をそこない得るのは,そして実際にそこなっているのはなぜでしょうか。ほとんどの社会学者の見過ごしている,根本的な理由があります。それを知っていれば,ご自分の家族について考えていようと,親しい友人や親族の家族について考えていようと,問題の根源を識別するのに役立ちます。

      家族生活を扱った最古の記録である聖書は,最初の人間の結婚生活が完全なものだったことを示しています。結婚当初,アダムとエバには罪がありませんでした。二人の考え,行動,そして感情は,正しく釣り合いの取れた状態にありました。そのような状態にあれば,二人は家庭内暴力の苦しみを味わわなかったはずです。そうではありませんか。ところが,時たつうちに二人は神にそむき,不完全になりました。その不従順の結果の一つとして,神は先を見通して,女にこう語られました。「あなたは夫を慕い求めるが,彼はあなたを支配するだろう」。(創世 3:16,新)そうです,ほとんどの女性は夫に対してそのような願望を抱くあまり,横柄で粗暴な男性をも進んで大目に見るほどです。また,エホバ神は,夫たちの多くが不完全さによって平衡を欠き,自分の頭の権を極端な仕方で行使し,妻を殴る暴君になることを予知されました。では,家族内の暴力のすべての事例に共通する要素は何ですか。それは人間の不完全さです。

      わたしたちすべては最初の夫婦の子孫であり,不完全な人間の性向を受け継いでいる,という点を認めるのは肝要なことです。(ローマ 5:12)ですから,家庭で暴力を振るうようになる邪悪な種は,貧富の差や学問のあるなしにかかわらず,わたしたちすべてのうちにあるのです。しかし,その種の発芽と開花を促すものは何ですか。欲求不満,アルコール,意思の疎通の欠如,嫉妬,疎外感,あるいは不安などは,暴力の種の発芽を促す水の中の養分のようなものです。こうした要素に関してどんな手を打てるか検討する前に,そのうちの幾つかの要素が今日,多くの家族内でどのように問題を引き起こしているかを見ることにしましょう。

      欲求不満の男性 ― 暴力を振るう男性?

      家庭内暴力のありふれたきっかけに注意を向けて,一人の医師はこう論評しています。「我々は妻を殴るという行為を,多大の欲求不満と緊張の見られる社会という背景に照らし合わせて見なければならないと思う。我々は,経済上の緊張と失業が深刻化する,異常な時代に住んでいる。こうした種類の圧力は,必然的に,家族にもいつの間にか影響を及ぼす」。

      これを日常の言葉に置き換えてみましょう。神経の張り詰めた主人が仕事から帰って来る場面を思い浮かべることができます。その主人は朝,出勤するときすでに疲れていたかもしれず,交通渋滞や地下鉄の騒音にうんざりしていたかもしれません。職場では,再三再四顧客や上司に責められました。しかし,そのうっぷんを内に秘めておかねばなりません。そして,やっと家へたどり着いたと思うと,子供は泣きわめいているし,妻は待ってましたとばかりにもっともらしい不平を並べ立てるといった具合です。さて,どんなことが起きるでしょうか。時には,欲求不満と緊張が高じて,暴力の形で爆発する場合もあります。職を失う恐れがあるので上司を殴り付けることはできませんし,交通渋滞をたたくわけにもゆきません。しかし,その妻子こそいい迷惑です。ある結婚問題相談家はこう述べています。「男は怒っても泣くべきではない。握りこぶしで壁をぶち抜くほうが男らしい。ただ,その壁が自分の妻になってしまうことがあるのだ」。

      夫の立場にある人であれば,そのような仕方で欲求不満をぶちまける自分の姿を思い浮かべることができますか。妻の立場にある人であれば,夫が極めて暴力的な反応を示す様を想像できますか。何か大きな争いがあって初めて暴力沙汰になるのですか。

      実際のところ,暴力沙汰を引き起こすきっかけそのものは,ごくささいな事柄かもしれません。例えば,夕食が時間通りに準備されていなかったり,妻が大学の課程を受けたいと言い出したり,性の営みを持ちたくないと言ったりすることです。緊張して,欲求不満の高じた夫は,そのような要素を自分の権威に対する挑戦とみなすかもしれません。そこで,怒りを爆発させて,暴力を振るうのです。

      箴言 14章29節(新)はこう述べています。「怒ることに遅い者は識別力に富む。しかし短気な者は愚かさを高めている」。自分の妻をたたいた男性の多くは,後になって,この格言の真実さを恥ずかしい思いをしながら悟りました。怒りにまかせて自分の妻子をたたき,積り積ったうっぷんを晴らしてしまうと,大抵,その後にもっと多くの問題が生じるものです。一度殴打してしまうと,大抵,それは二度目の殴打へつながります。それはダムの亀裂のようなもので,結婚生活を水浸しにしてしまう,粗暴行為という奔流にまで,容易に広がってゆきます。

      二人の法律学者は,虐待された妻やそうした問題を扱う役人をインタビューしました。その結論はどのようなものだったでしょうか。

      「妻をたたくことには,一度だけの不幸な怒りの爆発ではなく,慢性的様相を呈する傾向がある。二人が話し合った婦人の[95%]は,結婚して一年以内にもう殴られ,その暴行は年を経るにつれてひん度を増し,一層暴力的になる傾向が見られる。抑制されなければ,最終的には死という結果を招いたかもしれない。……多くの場合,怒りを燃え上がらせたのは,比較的にささいな問題だった。それは明らかに,より根深い憤りや以前からのうっぷんを爆発させるきっかけにすぎなかった」。

      結婚一年目は,新たな圧力がうっ積しやすいので,特に危険な時期です。夫婦双方が互いに相手に合わせようとすることに加え,夫のほうは今や経済上の負担が重くなるのを感じます。そして妻が妊娠すれば,それは夫への圧力を増大させますし,妻がある事柄に感動を覚え,それに掛かりきりになって夫にあまり注意を向けなくなると夫の怒りやねたみを引き起こすことになるのです。

      アルコール ― 原因?

      大抵の場合,アルコールがかかわりを持ってきます。一調査は次のような結論を出しています。「例えば,襲った者たちの六割は,その際に必ずといってよいほどアルコールを飲んでいた」。ワシントン特別区の緊急センターの所長によると,妻がたたかれる事件の八割にはアルコールがからんでいます。

      しかし,アルコールが本当に原因なのでしょうか。そうでない場合もありますが,多くの場合に,その答えは然りです。飲酒と妻をたたくこととの関連について,心理学者のレノール・ウォーカー博士はこう語っています。「それは言い訳として用いられるかもしれないが,直接の原因や影響力ではないようである」。しかし,聖書は鋭い洞察力をもってこう述べています。「ぶどう酒はあざけるもの,人を酔わせる飲料は荒々しく,それにより迷い行く者はだれも賢くない」。(箴 20:1,新)アルコールには自制心を失わせるきらいがあり,その結果,人がばか騒ぎをしたり,抑制力を失ったりするのを見てこられたのではありませんか。ですから,欲求不満を持つ夫や,妻に対して怒りを覚えた夫が酒を飲むようになると,その人は乱暴になりやすくなります。この問題を調査した後,リチャード・J・ゲレス博士はこう報告しています。

      「酒飲みは,酔っている期間を,自分の行動に対して責任を負わなくてもよい,“空白の時間”とみなしている。また,アルコールは言い訳になることもある。……家族内に問題はないが,悪いのは“魔の酒”である」。

      アルコール飲料の用い方に関して,ここに教訓が見いだされるでしょうか。

      意思の疎通か,げんこつか

      お分かりのとおり,肉体面の虐待に訴える配偶者は,大抵,意思の疎通に関して重大な弱点を持っているものです。そうした人々は,嫉妬心,孤独感,不安,そして恐れなどの強い感情をも含め,自分の感情を表わすのが苦手です。社会学者のシェロッド・ミラーは,「高度に話し言葉の発達した社会に住んでいるにもかかわらず,微妙な問題を互いに話し合う方法を学んだ者はほとんどいない」と述べています。

      これは特に男性の側の問題です。近隣婦人全米会議のジャン・ピーターソンはこう述べています。「家庭内暴力の主な原因は,身体的な手段による以外に,女性と意思の疎通を図れない男性の無能さにある」。

      しかし,男性が自分の感情を ― 怒りを爆発させたり,不敬な言葉を出したりせずに ― 制御された言葉で表現する方法を学べば,その家族に見られる実は,その人が暴力に訴えた場合よりもはるかによいものとなります。古代のソロモン王はこう語りました。「人は自分の口の実によって良いものを食べる。しかし不信行為をする者たちの魂は暴虐である」― 箴 13:2,新。

      一般に女性は自分の感情を言葉で言い表わす傾向が強く,それにたけていると考えられていますが,証拠の示すところによれば,妻たちの多くは意思の疎通の問題に一役買っています。家族問題カウンセラーのパウル・シェーナーによると,打ちたたかれる妻は,夫に「沈黙療法」を与え,「力の駆引きをしている」場合があります。その沈黙は下手な事を言ってはいけないという恐れから来ていると主張する妻たちもいますが,「それでも,男性はそれを力の戦術とみなす」とシェーナーは説明しています。シェーナーの結論はこうです。「この二人の人間は,非常に長い間,話し合っておらず,本当に意思を通わせていない」。結婚している人々は,自分の結婚生活において,意思の疎通は正常なものだろうか,と自問してみると良いでしょう。

      暴力を振るう女性?

      妻を殴る夫について聞くのは珍しくありませんが,妻にたたかれる夫は多いと思われますか。暴力に訴えて,家庭内暴力の問題を大きくしている妻は大勢いるのでしょうか。その通りなのです。

      社会学者のスーザン・ステインメッツはこう語っています。「報道されることの一番少ない犯罪は妻を殴ることではない。それは夫を殴ることである。……平手打ちをしたり,たたいたり,押したりするなど,ちょっとした実力行使をするという段になると,男女間の実質的な相異はないようである。たたかれる妻という現象の見られるのは,男性のほうが攻撃的だからではなく,ただ男性のほうが身体的にもっと力があるようであり,より大きな害を加えることができるからである」。

      夫がたたかれたという話をあまり耳にしない理由はここにあります。警察署へ行って(あるいは電話をかけ),がっちりした巡査部長に,「家内に殴られた」などと口に出せる夫はどれほどいるでしょうか。しかし,多くの妻たちはまさにそうした暴力を振るっているのです。夫は妻よりも小柄だったり,年を取っていたり,虚弱だったり,病気でさえあったりするかもしれません。また,たとえ自分を守るだけの力があったとしても,騎士道精神から,あるいは本気になってしまうと妻をひどく傷付けかねないという恐れから,自分を守ろうとしないのかもしれません。

      夫の暴力を声高に非難する妻の中には,自分の落ち度を見過ごしている人もいます。例えば,妻は夫が夫婦名儀の口座ではなく,夫名儀の口座に入金したことを知ります。その結果生じた言い争いの際に,妻は夫を平手打ちにします。数週間後,夫をののしったり,性関係を拒んだりして,今度は妻のほうが悪いように思え,夫は怒りにまかせて妻を殴ります。確かに,体にあざが残っているのは妻のほうかもしれません。しかし,双方とも暴力を振るったという罪があるのではありませんか。6ページに掲げられたコニーの例を思い起こすとよいでしょう。妻の暴力は,爆発を引き起こす火花のようなものとなることがあります。

      自分よりも力のある夫が,自分を虐待した場合に,妻はどのような反応を示すでしょうか。多くの場合に,深なべ,花びん,ナイフ,あるいはアイスピックなど,手近にある武器をつかんで,それを使いますが,それは悲劇的なことです。身長157㌢,体重50㌔のロクサン・ゲイの身に起きた事を考えてみましょう。1977年の新聞各紙によると,この婦人は夫が自分を荒々しくたたくと言っては,幾度も警察に電話を掛けました。その夫は,フィラデルフィア・イーグルズというフットボールのチームの守備側エンドを務める,身長195㌢,体重120㌔のブレンダ・ゲイでした。とうとう,けんかの最中に,この小柄な妻はナイフをつかみ,夫の首筋を刺してしまいました。警察はその夫が血の海の中で死んでいるのを見付けました。

      何ができるか

      たたかれる妻やたたかれる夫という問題の背後にある幾つかの点を今まで考慮してきました。不和の根源は人間の不完全さにあり,それは,暴力を振るうようになる傾向はだれにでもあるということを意味します。現代の生活でわたしたちの直面する数々の欲求不満のために,その可能性はまぎれもないものになります。嫉妬や憤りなど自分の感情を制御する能力に欠けることも,暴力行為へと人を走らせます。家庭内暴力は大抵,アルコールの影響の下で起こります。また,配偶者虐待の罪は,男女双方にあるということも見てきました。

      家庭内暴力の原因に関するそのような洞察も大切ですが,さらに多くの事柄が必要とされます。この問題は広く行き渡っているので,わたしたちは断固として,この問題を未然に防ぐか,解決するよう努めねばなりません。次のような質問を考えてはいかがでしょうか。腹が立ったときどのように行動したらよいだろうか。アルコール,金銭,あるいは自分の職業に対する自分の見方が関係しているだろうか。すでに家庭内に暴力が君臨している場合,離婚するのが最善の策だろうか。人の人格や反応を本当に変化させるのに,聖書は役立つだろうか。続く幾つかの記事は,そのような質問を扱っています。

      [10ページの囲み記事]

      「夫と妻にかかわる殺人事件のうち,52%は妻が被害者であり,残りの48%は夫が被害者であった」― FBI犯罪統計。

      [11ページの囲み記事]

      「夫を挑発する妻も確かにいる。必ずしもそうだとは言えないが,大抵の場合がそうであると思う。妻が繰り返し夫を殴り,夫がたまりかねて殴り返すというような夫婦を私は数多く見ている」― マーガリート・フォーゲル博士。

  • 暴力的風潮の中に置かれている子供たち
    目ざめよ! 1979 | 8月8日
    • 暴力的風潮の中に置かれている子供たち

      「毎年,650万人にも上る子供たちが,両親や家族の他の成員に傷付けられている。……毎年,幾千幾万もの子供たちは,医師の手当を必要とするほど,親にひどく打ちたたかれる。さらに70万人は衣食住を奪われ,6万ないし10万人は性的な暴行を受けている」―「US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート」誌,1979年1月15日号。

      子供に対する虐待は実に悲痛な問題です。場合によっては,子供の犠牲者たちは親が欲求不満や嫉妬や怒りを発散させる,ただの弱くて,手近な対象となっていることがあります。しかし,他の多くの場合,それは子供が確かに必要としているもの,つまり懲らしめを親が害になるほど極端に与えるという問題です。賢明で,愛のある,家庭生活の創始者はこう述べておられます。「望みのあるうちにあなたの子を打ち懲らしなさい」。「細棒と戒めが知恵を与える。放任された少年は自分の母に恥を来たらす」― 箴 19:18; 29:15,新。

      子供に対する虐待の問題を研究した際,心理学者のD・J・マデンは,「懲らしめを与え過ぎると子供は抑圧されていると感じ,寛大過ぎれば見捨てられたと感じやすい」ことを見いだしました。マデンはこう説明しています。「子供は親が決定を下すことを期待している。親が決定を下さないと,子供は親に依り頼んでもよいかどうか疑問に思う。そして,その子が大人になるとしつけの厳格な人になりかねない」。

      1976年11月8日号の「目ざめよ!」誌は,子供に必要な懲らしめを与えても,子供を強く殴打することがないようにするため親にできる事柄を含め,子供に対する虐待の問題を広範にわたって扱っていました。

      しかし,ここでは,夫や妻の暴力という風土で生活することから子供がどんな影響を受けるかに焦点を当てることにしましょう。そのような虐待行為を目にする子供たちはそれから重要な教訓を学び,その結果,大人になったときに妻や夫をたたかないようになるでしょうか。

      母親や父親が虐待されるのを子供が目にすると,その場面は記憶の中にしまい込まれます。後日,その子が大人になって腹を立てたとき,幼いころ目にした型に逆戻りするのは容易なことです。端的に言えば,暴力は暴力を生むのです。26歳になる,妻帯者のジョンの例を考えてみましょう。ジョンは,自分がその七年に及ぶ結婚生活の間に,妻をひんぱんに殴ったことをカウンセラーに打ち明けました。ジョンが子供のころ,家族内の暴力は日常茶飯事でした。父親は酒を飲んで,しばしばジョンの母親を襲い,ナイフを使うこともありました。自分の父親のことを思い起こしながら,ジョンはむせび泣いて,こう語りました。「私が中に入ると,父は私を壁にたたきつけたものです。私は自分の家ではそのようなことを決して起こすまいと言いました。おかしいと思われるでしょう」。また,5ページに掲げられたサラの夫と息子の事例を思い起こすとよいでしょう。

      そうです,研究の示すところによると,家庭内の暴力的風潮の中で育てられた子供たちは,大抵の場合,自らも暴力を振るうようになります。これは,聖書中の次の自明の言葉を,否定的な見地から裏書きしています。「少年をその道に従って訓練しなさい。年老いても,彼はそれからそれて行くことがないであろう」― 箴 22:6,新。

      「ザ・カナディアン」誌,1978年4月1日号の誌上に,エイリー・カス博士は次のように書いています。「家庭生活が不幸で,暴力的な場合,子供は自分が親になったとき,家族の成員として学んだ暴力の型を用いて問題を解決するようになる」。英国ロンドンに,たたかれる妻のための避難所を開設した人はこう述べています。「これらの男たちの生い立ちを見ると,子供のころ打ちたたかれたか,それを実際に見たことがあるかのいずれかである。……それで,暴力は一つの世代から次の世代へと伝えられて行く。それが普通になってしまう」。

      子供のころに家庭内暴力を見て,後日妻や夫や子供を虐待するようにならなかったとしても,それは悲劇的な代償を求めます。「身体的な虐待は受けなくても,暴力を振るう親の[いる]家庭で生活する子供を対象にしてノースカロライナ州で行なわれた調査によると,「その子供たちの37%に慢性的なうつ病が見られた。……別の40%は不安感にさいなまれており,25%は精神障害の治療を受けたことがあった」。

      それで,子供のいる家庭では,暴力の問題を解決するために,あるいはそれが家庭で起きないようにするために,はっきりした措置を取る十分の理由があることは明らかです。親がこの必要を無視して,子供たちが家庭内の暴力的風潮の中で生活することを余儀なくされるなら,その若者が情緒面での障害を受け,この恐ろしい苦難の種を次の世代に伝える可能性は極めて強いと言わねばなりません。

  • 警察や裁判所は解決策となるか
    目ざめよ! 1979 | 8月8日
    • 警察や裁判所は解決策となるか

      家庭内暴力が広く見られるのを知っていることと,それに巻き込まれないようにすることとは別問題です。その背後にある原因の幾つかを知ることと,家庭内暴力に対処したり,自分の家庭でそれを未然に防いだりする方法を知っていることも,やはり別問題です。

      暴力沙汰とは縁のない家庭で暮らしている人は,警察を呼べば解決するだろうとか,もし必要なら離婚すればよいと簡単に言うかもしれません。しかしそれほど簡単な問題なのでしょうか。

      虐待された妻(や夫)の多くは,それと知りつつ,配偶者の残虐行為に目をつぶって一緒に居ることを選びます。なぜでしょうか。ある人にとって,それは子供たちのためです。暴力沙汰はあっても,崩壊した家庭よりはましだと考えるのです。性のパートナー,つまり相手を失い,一人で生きてゆかねばならなくなるのを恐れる人もいます。次に起きるであろう報復に対する恐れにしばられている人も少なくありません。残忍な仕打ちを受けた妻たちの中には,夫に対する愛を捨てかね,夫は変化するだろうとの希望に力付けられている人もいます。また,自分で生計を立ててはゆけないという心配にとりつかれている人も大勢います。

      スーザンはその一例です。18歳の時に,アレックスと結婚しましたが,その後間もなく,アレックスの粗暴な面が表面に出てきました。スーザンはこう語っています。「あの人は私をこき使いました。アレックスは批判というものを受け入れることのできない人でした。特に飲んだときはだめです。それはほとんど毎晩のことです。あの人は,炊事,掃除,子供の世話,性の相手など,あの人の望む事柄を何であれ,あの人の望むときに行なうよう求めました。それは本当に刑務所の監房にいるような生活でした。……私が従わないと,あの人は私を殴って,傷付けたものです」。別れない理由ですか?「私は本当にあの人を愛していたのです。あの人が変わると思っていました。……後日,ようやく目が覚めて,あの人は決して変化しないということに気付いたときには,行く当てもなく,お金もありませんでした」。

      たたかれた妻が警察を呼ぶことは珍しくありません。しかし,警察が来たところで,普通警官にできるのはせいぜいその時の争いをやめさせることぐらいです。20分かそこらで,家庭の根本的な状況を変えることなどどうしてできるでしょう。妻の打つ次の手は,裁判所へ行って,保護命令か和合保証を取り付けることです。虐待された婦人の多くは,そうすると脅しはしますが,実行しません。しかし,実行すれば,暴力を振るう夫は,『今度殴り付けたら,刑務所行きになりかねない』と考えて,ためらうこともあるようです。

      そのような保護のための方法を試した後(あるいはそれを試さずに),配偶者にたたかれる人の中には裁判上の別居や離婚の申請を出す人もいます。オハイオ州クリーブランドで行なわれた調査によると,女性の36%は離婚を求める理由として身体上の虐待を挙げています。しかし,ニューヨーク市家庭裁判所の保護監察部長エイリーン・マック夫人は,暴力の絶えない結婚生活を送っている夫婦についてこう述べています。

      「もし人々を裁判所へ追い立てているなら,それはその人たちに対する親切な行為ではない。解決策は家庭を崩壊させることにではなく,当事者同士に問題の話し合いをさせることにある」。

      さらに,たたかれても,神の言葉は離婚をよしとしてはいないことを知っているクリスチャンの場合はどうですか。イエスは,聖書的に再婚の自由を当人に与える,離婚の唯一の根拠は配偶者の側の淫行(姦淫)である,と言われました。(マタイ 19:9。マラキ 2:10-16)また,使徒パウロは,未信者の配偶者を救うという希望を抱いてその下にとどまるようクリスチャンに勧めています。―コリント第一 7:12-16。

      この助言は,残忍な行為や非情な怒りを神がきっぱり非としておられることと照らし合わせて比較考量できるでしょう。詩篇 11篇5節(新)はこう述べています。「暴虐を愛する者を,彼の魂は必ず憎みます」。聖書は,闘争や激発的な怒りや口論を,人を神の王国から締め出す,「肉の業」と呼んでいます。―ガラテア 5:19-21。マタイ 5:22。

      それで,パウロが次のように記しているのは納得のゆくことです。「信者でない夫のいる女で,彼が妻とともに住むことを快く思っているなら,彼女は夫を去ってはなりません」。(コリント第一 7:13)妻たちはこう自問してきました。『夫が暴力を振るって自分の妻を虐待することは,夫が妻と共に住むのを「快く」思っている証拠だろうか』,と。そのような目に遭ったクリスチャンの中には,そうではない,との結論を出した人もいます。そして,聖書的に再婚の自由がないことを承知の上で,裁判上の別居や離婚に踏み切って保護を求めました。

      代案があるか

      前述の通り,配偶者に虐待された人の中には,その配偶者と別れないでいるやむを得ない理由があると考えている人がいます。特に幼い子供がいる場合に,暴力を振るう未信者の夫のいるクリスチャンの妻は,裁判上の別居や離婚を求めることをためらってきました。そうした妻たちは,命を与える聖書の真理を子供に教える機会を失わないようにすることに関心を抱いていました。ですから,家庭内暴力に対処する別の方法があるか,というもっともな質問が起こります。これは,夫婦双方が暴力に訴えてきた,どの結婚生活にも当てはまる質問です。変化をもたらし,暴力を克服することができますか。

  • 家庭内暴力にどう対処できるか
    目ざめよ! 1979 | 8月8日
    • 家庭内暴力にどう対処できるか

      家庭内暴力は,早急に注意を払うに値する,重大な問題であることをだれが否定するでしょうか。しかし,家族が暴力に悩まされている場合,実際のところどうしたらよいでしょうか。

      まず最初に,家庭内暴力と言うと,どんな感情を思い浮かべますか。怒りではありませんか。夫婦の一方が,残忍な行為や苦痛を与えることに喜びを見いだしているために暴力沙汰になるという結婚関係は比較的にまれです。むしろ,ほとんどの場合に,家庭内暴力は欲求不満,嫉妬,孤独感あるいは不安などによってもたらされるような,制御されない怒りの結果です。

      すでに理解したとおり,わたしたちすべては罪と不完全さを受け継いでいます。(ローマ 5:12)自分の感情を完全に制御できないことは,その痛ましい結果の一つです。ですから,わたしたちの中で,腹立ちまぎれに,後悔するような言動を取ったことのない人がいるでしょうか。聖書には,エホバ神のしもべがこの弱さを表わしてしまった話が数多く含まれています。―創世 34:1-31; 49:5-7。ヨナ 4:1,9。

      それでは,家族のような親密な間柄にあって,怒りが生じることは絶対にないと考えるべきでしょうか。率直に言って,そうではありません。家族内の他の不完全な成員が,正しい,思慮のある,あるいは愛のある行動を取らなかったために義憤を感じているに過ぎないにしても,怒りが表面に出ることはあるものです。(サムエル前 20:34。ヨブ 32:3と比較してください。)事実,聖書は現実的にもクリスチャンにこう助言しています。「憤っても,罪を犯してはなりません。あなたがたが怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい」― エフェソス 4:26。

      しかし,腹を立てた場合,“けんか腰”で,怒るに任せるべきでしょうか。そのようなことを読んだり,聞いたりすることがあるかもしれません。例えば,心理学者のジョージ・バッハはこう書いています。

      「夫婦間の口げんかは……極めて望ましい。一緒になって争う夫婦は,別れない夫婦である。もっとも,それには互いに正しいけんかの仕方をわきまえていることが条件になる」。―「親密な敵対者」。

      しかし,人生経験から見て,怒りのこもった言葉で憤りをぶちまけるのは本当に勧められることでしょうか。家庭社会学の教授,ミュレー・A・ストラウス博士の調査によると,そうではありません。同博士は次のような事柄を見いだしました。

      「夫婦間でけんか腰になるのは,家族の紛争に対処するのにほとんど役立たないばかりか,『幾百幾千万もの人々の生活に惨めな状態をもたらしかねない,危険な,簡略化の行き過ぎ』になる場合もある。……妻も夫も,厳しくて敵意のある言葉には,必ずと言ってよいほど,同じ調子で受け答えする」。

      それはさながら,制御されない核連鎖反応が,爆発にまでエスカレートするようなものです。ストラウス博士はこう結んでいます。

      「言葉の面で暴力に訴える夫婦は,結局,身体の面でも暴力に訴える可能性がはるかに多い。……また,口で配偶者を傷付けることから,相手の体を傷付けることへと進んでゆくのは増々容易になる,と博士は語っている」― マッコールズ誌,1975年10月号。

      ですから,どんな心理学上の学説がはやっているとしても,実際の人間の経験は,怒りを抑えるようにという,次の神の諭しに知恵があることを証明しています。「怒りに身をゆだねる者は口論を引き起こす。また激怒しやすい人は数々の違犯を招く」。「自分の霊に対して抑制力を持たない者は,破壊された,[防御用の]城壁のない都市のようだ」。「怒りを離れ,憤りを捨て去りなさい。激してはならない。ただ悪を行なうがために」。(箴 29:22; 25:28。詩 37:8,新)家庭で暴力を振るったことのある(あるいは振るいそうになったことのある)人は,怒りと自制に関する神の助言を研究し,それを誠実に当てはめることにより,自分と自分の家族に益をもたらすことができます。a

      「そのとおりです。でも,自分の妻(あるいは夫)に対して本当に腹が立った場合,一体どうしたらよいのですか」と多くの人は言うでしょう。実行可能な一つの事柄はこうです。60秒待ってみてはどうですか。そうです,実際に60(あるいはそれ以上)までゆっくりと数えるのです。うまく怒りを遅らせることができるなら,怒りを爆発させたり,誘発させたりすることが少なくなるでしょう。また,神の次の諭しについて考えてみるとよいでしょう。「口論の始まりは人が多くの水を放出するようなものだ。だから,いさかいが突如始まってしまう前に,去れ」。これは配偶者を見捨てるようにという意味ではありません。しかし,いらいらしたり,ことによっては腹が立ったりした場合に,ちょっと席を外して,冷静になるため少しの間別の部屋へ行くとか,近所を一回りするとかしてみたことがありますか。夫は特にそうしてみるとよいでしょう。自分の妻が物分かりが悪く,“気むずかしく”,あるいは自制心を失っているように見えても,わざとそうしているのでないかもしれないからです。それはきっと,一時的なホルモンの変化の表われで,自分の感情を抑えるのが難しくなっているのかもしれません。―箴 17:14; 19:11,新。

      一方,自分の配偶者がいら立ちや怒りの言葉をぶちまけるような場合にはどうしたらよいでしょうか。次の言葉には知恵があります。「答えは,柔和であれば,激怒を遠ざける」。(箴 15:1,新)この言葉は,6ページであの少年が語っていた事例の場合に役立ったのではありませんか。そうするのは確かに容易ではありません。しかし,家族内の暴力を招きかねない,あるいはすでにそうした結果を招いているような仕方で,憤りをもって答え応ずるよりも,柔らかな答えをするほうがどれほど優れており,どれほど実際的でしょう。興味深いことに,荒々しい受け答えが配偶者に同じような反応を引き起こすというストラウス博士の調査結果に言及した後,前に引用した記事はこう付け加えています。「優しくて,思いやりのある,愛のこもった言葉だけが,互いを融和させるような答えを生む」。

      実際に効果がある!

      聖書に基づく上記の提案は,家庭内暴力を解決する上での単なる机上の空論ではありません。これらの提案は数多くの場合に効果を上げてきました。例えば,オハイオ州シンシナティ市に住むトムは,粗暴な気質の人でした。この男の人にまつわる話はこうです。

      「私は腹を立てて,余りにも度々こぶしで壁をぶち抜いたので,とうとう壁の間柱のある箇所に印を付けたほどです。それは二度と自分の手を痛めないためでした」。週末に酔払うことはよくありました。あるとき,トムと彼の妻が酒の上で猛烈なけんかをした後,トムは神が助けになるかどうか調べてみることにしました。そしてしばらくの間,メソジスト教会に定期的に通ってみました。それから,ある日,トムが心から祈りをささげた後,家の外で働いていたトムのところへ二人のエホバの証人がやって来ました。しばらくの間,トムはエホバの証人と聖書を研究し,学んだ事を実行してみようとしました。妻はトムを嘲笑し,聖書文書を破ったりしたこともありました。しかし,トムは怒りや暴力でそれに答え応じたりはしませんでした。トムはこう説明しています。「真理は精神的に私を大きく変化させました。それがなかったなら妻に対してこれほど穏やかな態度を保ち,いつも優しくすることは決してなかったでしょう」。

      他の段階

      怒りに関する神の助言に従って努力することは,家庭内暴力の問題を克服するための積極的な一段階です。しかし,ほかにも別の段階があります。

      トムの事例や他の事例で見たとおり,多くの場合にアルコールが関係しています。飲酒が暴力を振るう直接の原因にならないとしても,そのお膳だてをする結果になる場合もあります。それは言わば,わずかな火の気でよく燃えるように,木を暖めているようなものです。

      ご自分の家庭が家族内の暴力でかき乱されてきたなら,アルコールの関係していたことがあるかどうか考えてみるとよいでしょう。聖書はアルコールを適度にたしなむことを非としてはいません。しかし,聖書はこう警告しています。「ぶどう酒はあざけるもの,人を酔わせる飲料は荒々しく,それにより迷い行く者はだれも賢くない」。(箴 20:1,新。詩 104:15。エフェソス 5:18)家族のだれかが飲酒のために道を踏みはずし,暴力に走るなら,それについて何か手を打つことができますし,手を打たなければなりません。家族を守り,身体的な危害や殺人を未然に防ぐことに対する愛ある関心から,いつ,どれほど飲むかに関してはっきりした制限を設けることを合意のうえで決められるでしょう。そして,その後の経験や“危機一髪”という出来事を通して,その制限が高すぎると分かれば,それを低くするのです。場合によっては,完全に禁酒することさえ必要かもしれません。しかし,そのほうが,家庭内暴力のうずに巻き込まれるよりもましではありませんか。

      闘いではなく,意思の疎通を

      すでに論じたとおり,家庭内暴力の背後にあるのは,大抵,欲求不満,嫉妬そして不安です。これらの感情をどのように処理できますか。良い解決策の一つは意思の疎通をもっと緊密にすることです。一社会学者は,こう結論しています。「ほとんどの夫婦は,互いの話に耳を傾けない。結果として,その多くはけんかをすることになる」。

      わたしたちはだれしも幾らかの欲求不満に直面します。次の例を考えてみましょう。一人の男の人は船乗りになって世界を見ることを夢に描いていましたが,結婚後,年老いた親を扶養しなければなりません。それでこの人は靴ひも工場で働くことになり,そこでは一箇所に束縛され,騒音に悩まされ,いばりくさった職長にいびられます。この人が欲求不満を抱いて帰宅することは決してないと思われますか。この人の奥さんは,静かな農場で三人のかわいい子供たちを育てることを心に描いていました。ところがまだ子種に恵まれず,その上,年老いた親族のそばにいるために都市で生活しなければなりません。では,この婦人のほうは欲求不満と無縁であると言えますか。―創世 30:1。サムエル前 1:4-11。

      しかし,夫婦が互いの行動そして感情に関する意思の疎通のパターンを築き上げてゆくなら,この体制における不完全な生活に付き物の欲求不満が,暴力という形で爆発するまでうっ積することはないと思われます。例えば,その仕事が難しいとはいえ,家族を扶養することに関する神のご意志を成し遂げるのに役立っているという事実を静かに話し合うなら,夫の欲求不満を和らげることになるでしょう。(テモテ第一 5:8)二人は互いを配偶者としていること,また年老いた親たちのために自分たちのしている良い働きを悟ることから慰めを得られるでしょう。また,海辺で休暇を過ごす計画を立てたり,一緒に魚釣りに行ったり,別の職を捜したりするかもしれません。同じほど重要なのは,夫が妻に自分の愛を改めて告げ,妻の思いやりや骨身惜しまない態度に感謝していることを重ねて述べることです。それは妻の欲求不満を解消するのに役立ちます。それを言うとき,夫が妻の体に手を回しているなら,それはなおのこと効き目があります。

      けんかになりそうなときにも,意思の疎通は有用です。例えば,この妻は夫が帰宅した瞬間に,夫のきげんが悪いとか,いつもと違って緊張しているとかいうことを察知します。以前に話し合っていた事柄を通して夫の置かれた立場を理解し,妻は慰めとなり,心を静めるような言葉を掛けることができるかもしれません。“爆弾”ではなく,人を落ち着かせ,ほっとさせるものを与えるのです。妻は優しく,『今日も職長さんが横車を押すようなことを言ったの?』とか,『車が混んでいたの?』と尋ねることができます。一方,大抵の夫には,ふさわしい時にふさわしい事を言えるようになるために,妻の気分や感情に対する感受性を鋭敏なものにする余地がまだだいぶあります。―箴言 25:11と比較してください。

      家庭内暴力の一因となっているのは,自分の感情にばかり目を留める傾向です。(フィリピ 2:4)妻は自分が何も言わないうちに,夫がその新しい髪型に気づいて,何か言ってくれることを期待します。ところが夫のほうは,帰宅すると,妻が交通渋滞について奇跡的にでも知っていて当然だと言わんばかりの態度を取ります。そうした事柄は,暴力に至る夫婦げんかの要素になりかねません。しかし,その時にもっと率直になるなら,助けになります。夫が,『今日みたいな日は家へ帰るとほっとするよ』と言うか,妻が,『今日髪を切ってパーマをかけたのよ』と言えます。配偶者があなたの気持ちを話題にするのを待つのではなく,自分からそれを話題にするのです。そのように心を打ち明けるような言葉で切り出せば,暴力沙汰にならないような話へと発展してゆくことでしょう。

      家族の財政状態についても話し合う必要があります。そうした問題が憤りや怒りの原因となるに任せるのではなく,それについて話し合うための時間を取るのです。ある調査員は,「妻が殴られる事例の28%が,金銭問題と関係があった」と指摘しています。暴力を伴うけんかの多くは特に,夫の稼ぎでは近所の人と財政面で同じ水準を保てないとか,自分の欲しい物を買えないということを,妻が夫に度々ほのめかすときに起こります。そうした事柄は夫に劣等感を抱かせ,自分は一家の稼ぎ手として十分のことをしていないと思わせるきらいがあります。家族がその収入と経済上の計画について話し合うのに役立つ優れた根本原理は,テモテ第一 6章6節から10節,17節から19節,およびマタイ 6章24節から34節にある霊感による助言です。これらの節を一緒に声を出して読んでから,夫婦は新しい家具や衣服やその他の品物を買うかどうかという問題を,詳細に至るまで検討してゆけるでしょう。

      穏やかな話し合いの時間は,嫉妬のような感情を話題にする最善の時でもあります。別の男性あるいは女性に対する嫉妬であれ,親族に対する世話に関するものであれ,果ては夫の仕事に対するものであれ,その対象を問いません。前述の調査によると,「[妻が殴られる事例の]35%は嫉妬と関係している」のです。箴言 6章34節とその文脈の示すところによれば,嫉妬心を抱かせる確かな根拠がある場合,怒りや報復したいという気持ちに駆られるのはごく普通のことです。しかし,家族内での暴力を伴うその同じ感情は,ほとんど,あるいは全く根拠のない嫉妬からも生じかねません。ですから,ひどい爆発が起きるまでボイラーの蒸気をためておくかのように,嫉妬をつのらせるがままにせず,夫婦間の穏やかな話し合いの際に,自分の気持ちを静かに(責めるような調子ではなく)言い表わすほうがよいでしょう。穏やかな話し合いにしておくには本当に大きな努力が求められますが,それによって互いの気持ちを理解し合う方向へと進歩が見られるなら,それは暴力を未然に防ぐ方向への大きな一歩となります。―箴 14:30; 27:4。

      自分の夫や妻と家族の問題や自分の感情について話し合うのが難しく,暴力沙汰になるようであれば,中立の立場を保ちながらも親身になってくれる,円熟して平衡の取れた人の助けを得ることを考えてみるとよいでしょう。「離婚しやすい家族における暴力」に関する研究を主宰した社会学者のジョン・E・オブライエンは次のように述べています。

      「初めのうち,そうした気がかりな感情の生じたときに,そのことを話題にして,話し合うのが最善である。夫婦が自分たちできっかけを作ることができなければ,仲介者になる人を見いださねばならない」。

      求められた場合,エホバの証人の奉仕者たちは,結婚生活上の問題を経験している聖書研究生のために,また会衆の成員のためにも,しばしば助けを差し伸べることができました。夫と妻の求めに応じて,クリスチャンの奉仕者は,自分たちの気持ちや問題を平静に話し合い,「物事を正(す)」のに有益な聖書の光に当ててそれを比較考量するようその夫婦を助けることができるかもしれません。―テモテ第二 3:16,17。

      どうして聖書に行き着くのか

      家庭内暴力に対処したり,それを未然に防いだりするための,最善かつ最も実際的な助言の多くが神の言葉からのものであることにお気づきでしょう。それも予期されることです。その著者は家族生活の創始者であられ,人類史を通して暴力的な家庭をも平和な家庭をも見てこられたからです。その方は,家庭内暴力という増大する問題に対処するのに最善の助言を聖書の中に含められました。

      例えば,聖書は,夫婦が自分たちを「一つの肉体」とみなすよう繰り返し強調しています。(創世 2:24。マルコ 10:8。エフェソス 5:31)夫婦がそこで神の言っておられる事柄の真意をくみ取るなら,その家庭で暴力沙汰の起きることはないでしょう。エフェソス 5章28,29節はこの点を詳細に論じ,こう述べています。「妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,またたいせつにします」。この言葉の真実さを認められるのではありませんか。自分の手に腹を立てるあまり,なべやハンマーを使ってそれを殴り付けたことがありますか。あるいは自分の首に対して怒りを覚えるあまり,自分の首を締めたことがありますか。

      またわたしたちは,難聴のような,自分の体の弱い点や異常な箇所に気づくと,そうしたところをかばうのではありませんか。その点は結婚生活にも当てはまります。ところが,大抵,夫婦げんかの根本にある考えは,『どうして君(あなた)はもっと私のようになれないのか。どうして私のような物の見方をし,私のやり方で物事を行なわないのか』というものです。当然のことながら,この考えはそのような言葉だけで言い表わされるわけではないかもしれません。こんな言い回しになることもあるでしょう。『どうして君は食卓を片付けないうちにテレビの前に座り込むのか』とか,『どうして汚れたくつ下を脱ぎっぱなしにして,洗たく物の中に入れておいてくださらなかったの』とかいった具合です。根本にある考えは同じです。しかし,夫婦が一体であるという神の見解に従う夫や妻は,配偶者を独自の特異な点や弱点のある者として一層快く受け入れ,配偶者が向上しようと努める間,そうした点を愛のうちに償わねばならないものとみなします。聖書は賢明にもこう述べています。「人の洞察力は確かに自分の怒りを遅らせる。違反を過ぎ越すことはその人の美である」― 箴 19:11,新。

      聖書を受け入れそれに従う夫婦はまた,定期的に一緒に祈ります。(ペテロ第一 4:7)夫婦が助けと憐れみを求めて謙そんに神に祈る際,身体的にも感情的にも親密であることはどれほど互いを強めるものとなるか考えてみるとよいでしょう。興味深いことに,家庭内暴力に関してニューヨークの心理学者,S・ダイダートはこう書いています。

      「私は大抵,結婚した晩に祈るよう夫婦に告げる。私が思うに,この習慣を身に着けてしまうと,その夫婦が暴力行為に走ることはずっと難しくなる」。

      聖書の原則を当てはめることに伴って,祈りがゾイーラとデービッドの生活の一部になりました。ペルーの原住民であるゾイーラの話は次のようなものです。

      「私たちの結婚生活は完全に破たんをきたしていました。デービッドは私を置いて,毎晩のように家を空け,あり金すべてを使ってしまい,生活必需品に事欠くことさえ度々ありました。そして,私はよく殴られ,妊娠中にも,目の回りに黒いあざができ,指を折られる始末でした。私はおなかの中の赤ちゃんを傷付けられてはいけないと思い,腹部をかばいました」。やがて,エホバの証人である,デービッドのおばさんがこの二人を訪ね,聖書研究を始めました。デービッドは自分のそれまでの行為の誤りを認めるようになり,そのことで,自分が変化しなければ神が地から悪を除かれるときにエホバの恵みを期待できないことに気付いて,涙を流したことさえありました。聖書を適用することにより,二人は自分の人格や生き方を変化させました。今や二人にとって,家庭内暴力は過去のものとなっています」。

      ですから,ニュース報道が,殴られる妻,たたかれる夫,そして子供に対する虐待など,家庭内暴力の広まりを強調し続けているとしても,それは必ずしも,解決できない,あるいは回避できない問題ではありません。その犠牲になって来た人や,自らそれに加わってきた人でも,神の完全な助言を当てはめるために措置を講ずることができます。そうすれば,あなたにとっても,家庭内暴力は過去のものとなるでしょう。

      [脚注]

      a 教訓となる例: 創世 4:3-8。サムエル前 20:30-33。エステル 1:10-20。補足となる賢明な助言: 箴 12:16; 16:32; 19:19; 22:24,25。コロサイ 3:8。ヤコブ 1:19,20。

      [15ページの囲み記事]

      「大人なら大人らしく,自分の意見が他の人の意見と異なる場合に,自分の感情を制し,成人した人に対してふさわしい言葉遣いをすることを学ばねばならない。暴力行為に訴え,互いに殴り付けるなら,叫び声を上げて物を投げるなら……子供のように行動していることになる。自分を激怒させるものに対して,盲目的かつ分別のない仕方で打ちかかっていることになる。このようなことをしてはならない。最後には,そのような行動は自分を滅ぼすだけである」― リベカ・リスウッド博士著,「幸福な結婚生活のための救急処置」。

      [18ページの囲み記事]

      「人の心の心配はそれを屈めさせるものである。しかし良い言葉はそれを歓ばせる」― 箴 12:25,新。

      [18ページの囲み記事]

      「いきりたつ者は口論を引き起こす。しかし怒ることに遅い者はいさかいを鎮める」― 箴 15:18,新。

  • 驚くべきイルカの習性
    目ざめよ! 1979 | 8月8日
    • 驚くべきイルカの習性

      象牙海岸の「目ざめよ!」通信員

      それは彼女の初めての子供になるはずでした。母親になろうとしている大勢の者たちと同じように,彼女も,お産の時期が近付くと,心配そうな様子で自分の母親を探しました。子供が産まれるときにその場にいて手助けをしてくれる“お母さん”がいるというのは,何とありがたいことでしょう。

      世界中の家庭で,母親たちは昔からそうした気持ちを抱いてきました。しかし,これからご紹介する家族は,人間の家族ではありません。その家族の成員はすべてイルカなのです。

      イルカははるか昔から人に知られていましたが,このような習性はほとんど知られていないようです。実際,イルカはギリシャの伝説の中でも顕著な存在です。有名なデルフィの神話は,アポロがその姿を借りたと言われるイルカ(ギリシャ語でデルフィス)にちなんで名付けられました。また,ある時期には,イルカは王族とさえ関係がありました。フランスの皇太子は,ドファン(イルカ)という名で知られていました。

      イルカのこっけいなしぐさや,おぼれかけた人を自ら助けようとすることなどに関する話が,この動物に対する興味を大いにそそったようです。しかしながら,太平洋上で撃墜された米軍機の飛行士の中には,イルカが差し伸べた救助をあまりありがたく思わなかった人たちもいました。イルカの救援隊は,その救命いかだを,日本領の島の方に押していったのです。

      とはいうものの,かなり最近になるまで,この驚嘆すべき水生動物に関しては,比較的わずかしか

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