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    ものみの塔 1955 | 7月1日
    • 家族社会内の神権的な行為

      『妻たちよ,夫に従いなさい。それは主にある者にふさわしいことである。夫たちよ,妻を愛しなさい。つらくあたつてはならない。子供たちよ,なにごとにも両親に従いなさい。これは主によろこばれるものである。父たちよ,いじけさせないために,自分の子供をじらしてはならない。』― コロサイ 3:18-21新世。

      1 家族社会を管理するヱホバの取り極めは何ですか? アダムは,どのように失敗しましたか?

      ヱホバ神は家族社会の創始者です。ヱホバ神は地をつくり,人をつくつて地に住まわせ,人のひとりでいるのを善しと見られず,援助者として女を創造し,ふたりにその子孫を産みだす力を与え,そして子供を産み,殖えて地に充てよという命令をあたえました。アダムが家族の人になり,妻と子供を持ち,そしてその家族社会をあらそいや反対から安全に守らせることは,ヱホバの御意でした。家族内の一致と調和を保つために,アダムには首の地位が与えられました。しかし,家族の首になつたアダムは,みじめな失敗をいたしました。エバは彼の権威を無視し,それにアダムは彼女の欺かれていることを取消そうとしなかつたのです。エバは罪の道に入り,アダムはその道に従いました。アダムは自分の過ちについて妻に非難を浴びせましたが,有罪の重荷は,アダム自身の肩に重く置かれました。アダムは家族の首としての義務を果さず,また彼の妻は従順な行をしませんでした。その長男は,殺人者になりました。アダムは,自分自身の家族社会が,反逆,罪,反訴,死によつてこわれるのを許しました。

      2 この面について,家族は今日どのように失敗していますか?

      2 今日にいたるまで,家族社会は同じ仕方,および同じ理由のためにこわされてきています。男も女も,家族の規則についてのヱホバの述べられた行為からは,全然ちがう行為をなし,夫も妻も各々の責任と義務をまつたく果しておりません。夫は自分の首の地位を濫用し,妻はそれに反抗し,子供は父の頭の地位を無視しており,いままでにない青少年犯罪の濫行を勝手気ままに行つています。結婚相談者が増加しても,家族の問題,青少年犯罪,そして離婚はそれ以上に早く増加しています。家族はヱホバの神権的な助言を棄てて,人間の智恵を播いて,その無益さを刈り取つています。この世は,うぬぼれの気持を持つて賢明であると感じます。しかし,その実はこの世の智恵の愚かさを笑つてはいないでしようか? ただひとつの救の手段は,家族社会の中で神権的な行為をすることです。

      3 結婚と一つになるということについて,どんな崇高な模範がありますか?

      3 家族各人の持つべき義務と責務を正しい面から見るため,崇高な模範を深く考えて下さい。最初,ヱホバ神は結婚を象徴的に用いられ,御自身とその宇宙制度とのあいだの親密な関係を示され,御自身をその女のごとき制度の夫として語つておられます。また,結婚の象徴はキリストとその教会のあいだの密接な関係を示すのに用いられており,キリストは花婿で,教会は彼の花嫁となり,結婚は天で行われます。(イザヤ 54:5。コリント後 11:2。黙示 19:7)エデンで男と女は『一つの肉』であると言われたことを想い起します。同じことは,今日の人間の結婚配偶者についても言われます。同様に,ヱホバおよびその宇宙制度の長なる者,キリスト・イエスのあいだは一つであります。また,キリストおよび,その花嫁である教会は,一つのものと言われています。といつても,ヱホバとキリストが神秘な異教の三位一体の言う意味で一つなのではありません。そのことは,聖書の明白に示すところです。そして,キリストと教会級が文字通りに一つになるのではありません。ふたりの人である男と女が,文字通りにひとりにならないのと丁度同じであります。これらの場合で,文字通りに器官が一つになつているものはありません。そのすべてのものは,目標,目的,目的地,願望,そして努力という点で一つになつています。―マタイ 19:4-6。ヨハネ 14:10; 17:21-23。

      4 家族の頭は,なぜ必要ですか? それは誰ですか?

      4 ふたり又はそれ以上の者が共通の努力を行つて一致するとき,制度,つまり一致した者たちの力に理智ある指示を与える,ある種の頭の地位がなければなりません。人間の事柄の場合,考えを集め合わせるとか,あるいはこれからの行動を考えるようなとき,ふたつの頭はひとつの頭よりも良いことでしよう。しかし,最後の決定をするときには,ひとつの頭に力が与えられて,どちらかを決定しなければなりません。頭の無い連合は,正しい指示の力に不足し,また畸形の二つの頭の連合は,争の危険をひき起し,遂には分裂を生じます。みな次の事実に直面しましよう。つまり,あらゆる者の頭であるヱホバを別にして,どの人も頭を持つているということです。コリント前書 11章3節(新世)には,こう書かれています。『すべての人の頭は,キリストであるということを知つていてもらいたい。女の頭は男であり,キリストの頭は神である。』この取り極めは,創造された人間のつくつたものではなく,宇宙の創造者の律法です。その律法に従うことは,ヱホバに従うことです。その律法を拒絶することは,ヱホバに反逆することです。神権的な女と子供たちは,男を家の頭として認めます。

      夫に課せられるつらい義務

      5,6 どんな例は,夫のつらい義務をしめしますか?

      5 女の多くが家族の頭の地位に参加する,又は奪う傾向の強い国々では,男が頭の地位につき,女はそれに従うという神の要求に対して,大反対が起ります。それは女に差別をつけるものであり,押しつけのもので,女にはとうてい堪えることのできない程の難しい重荷であると見なされています。しかし注意深く考えてみると,重い荷を持ち,より重い責任を負つて果さねばならないのは夫であるということが分ります。夫は,宇宙制度の頭および夫であるヱホバ神の欠点のない模範に従うよう努めねばなりません。ヱホバ神はただに万物を創造されただけではなく,その後には,律法と行為の規則を設立されて万物を導き,そしてその存続に必要とするものを供給されています。ヱホバ御自身の道および行為でも,彼はいつも正義の原則に従い,かつ公正,智恵,忍耐,慈悲,憐れみ,そしてなかでも,愛をまつたくすばらしく示しつつその頭の地位の責任を果します。地上の私たちをはげますものとして,聖書にこう書かれています。『ヱホバはわれらのつくられし状をしり,われらの塵なることを思いたまえばなり。』― 詩 103:14。

      6 御自分の宇宙制度に対してヱホバは頭としての責任を卓越した仕方で行い,人間の夫はそれを模範とすべきですが,また教会級に対するキリストの支配をも模範とすべきであります。イエスはその体の成員の福祉のために働き,教えたり,伝道したり,そして文字通りの実際の食物よりもはるかに重要で大切な霊的な食料を供給することに御自身を犠牲にしませんでしたか? 彼の忍耐と寛容は模範ではありませんか? 地上の弟子たちに接した態度は恵み深く,弟子たちの肉の弱さに対する思い遣りは,あわれみ深いものではありませんでしたか? ヱホバへの忠実を守るために苦しみの迫害と苦痛を耐え,かくして弟子たちの従う確かな模範になりませんでしたか? そして遂に自分の花嫁であり妻である教会級のために,その生命をすら棄てたではありませんか? その教会に対するキリストの頭の地位は,考え深い準備,温和な関心,賢明な理解,絶えざるゆるし,保護の注意,そして御自分の生命を棄てたことで最高潮に達し,人間でこれ以上大きな愛を持つことのできない愛というものを本当にすばらしく表し示しています。―ヨハネ 15:13。

      7 正しい頭の地位に,多くのどんな責務がつきますか?

      7 人間の夫は,頭の地位についてのこれらの神の型および天的の模範に注視し,そして,そのような完全な神権的な行為を自分の家族社会にも行うよう努めるべきであります。夫は食物,衣服,そして家を備えて,妻を扶養しなければなりません。しかし,夫の義務はこれら基礎的な身体の必要品を充たすこと以上であります。人間は家畜に対しても,それだけのことはします。夫は妻に精神的の幸福を与え,妻の霊的な福祉を考慮し,そして自分自身に対するのと同じだけの愛を妻に示さねばなりません。夫は妻の感情の状態と変動を忘れてはならず,『知識にしたがつて同じく妻とともに生活しなさい。そして,弱い器,女性として妻を尊びなさい。』(ペテロ前 3:7,新世)夫は賢明な決定をつくつて妻との一致した努力に正しい指示を与え,その決定に対する責任を負い,かつ後に生ずるいかなる結果にも対応すべきです。夫は努めていつも正しい原則に従い,忍耐と寛容を働かし,憐れみとゆるしを持ち,思いやりと理解を示し,そしてあらゆるものにまして,宇宙制度に対してヱホバの示した愛,およびクリスチャンの教会制度に対してキリストの示した愛の型にならう愛を保ち行わねばなりません。夫への高い要求に適うことは,正しい頭の地位に服従するよりも,はるかに難しいことではありませんか? 分別を持つ婦人で,そのような頭の地位に服従することを反対する人はいるでしようか?

      妻の服従の型

      8 結婚の配偶者は何を忘れてはなりませんか?

      8 婦人の読者のある方は,そのような頭にはよろこんで服従するが,しかしそのような頭の地位を行使する男子はいるでしようかと答えるかもしれません。たしかに,男でこの高い標準を完全に行い果せる人はひとりもいません。だが,妻がこれを用いて服従を拒絶する理由にするまえに,まず妻自身,はたしてヱホバの割り当てる役目を完全に行つているかどうかを反省いたしなさい。ヱホバも忘れておられないように,結婚の配偶者は,人間が塵よりできているということを忘れてはなりません。そして,人間の弱さには,憐れみの心から思い遣りを持つべきです。おたがい同志ひどい非難を浴びせる前,結婚配偶者は次のイエスの言葉を良く考えるべきです。『裁くのを止めなさい。あなた方が裁かれないためである。あなた方の裁く裁きであなた方は裁かれ,あなた方の測る測り方で,あなた方は測られる。兄弟の目の中の藁を見ても,なぜ自分の目の中にある梁を考えないのか。また「あなたの目から藁を取らして下さい」とどうして兄弟に言えようか。見なさい,梁はあなた方自身の目にあるではないか。偽善者よ,まず自分自身の目から梁を取りなさい。そうすれば,兄弟の目からどのように藁を取りさるかをもはつきりと見るであろう。』― マタイ 7:1-5,新世。

      9,10 妻は服従についてのどんな模範を持つていますか? 妻は誰を模倣してはなりませんか?

      9 ヱホバの宇宙制度の長は,その制度の大いなる夫と頭に従うことを,つらいいやな事と考えません。キリスト・イエスは,ヱホバの御意をよろこんで行います。あるとき,神の業をすることは自分の生命を保つための大切な食物と同じであると言われました。(詩 40:8。ヘブル 10:7。ヨハネ 4:34)彼はヱホバに深い愛を持つて献身したために,迫害や死をも耐え忍んで神への忠実を証明し,神の御名と御言葉の立証に大きな貢献をいたしました。それはヱホバの頭の地位にイエスが全く服従したことをすばらしく示したものでしたが,イエスはどんな場合でもこの服従に大きなよろこびを見出しました。どんな時でも,それは苦しいいやな仕事ではなかつたのです。それに,イエスはヱホバから頭の地位を取ろうとか,またはヱホバと同等になつて頭の地位に加ろうなどということは決して求めなかつたのです。『キリスト・イエスにもあつたと同じ心持ちをあなた方のうちに保ちなさい。キリストは神の像であられたが,神と等しくなるとの考えを固執しないで,かえつて自らを空しくし,僕の形をとられ,人間の様をなして生まれ給うた。そして自らを卑くして,人の像をもつて現れ,死にいたるまで,苦難の刑柱の死にいたるまで従順であられた。』― ピリピ 2:5-8,新世。

      10 クリスチャンの妻はこのキリストの心持ちを持つべきであつて,夫との同権同等を要求し,しばしば夫の上に立つ支配力を叫び求めるこの世の多くの妻の態度を取つてはなりません。真実にクリスチャンである妻は,神によりその夫に与えられている家族の頭の地位の一部や全部を,取るなどという非神権的なことを考えることさえしないでしよう。結婚の取り極めは,人の定めたものではなく,ヱホバ御自身の定められたものと認め,クリスチャンの妻はその取極めに服従します。取極めに反逆することは,人に反逆するのではなく,ヱホバ御自身に反逆することです。エデンの掩うことをなすケルブは,我がままになり,ヱホバの頭の地位のために,拘束されて圧迫をうけたと感じ,反逆の行をして,そして悪魔サタンという悪名を持つようになつたことを記憶して下さい。自分の夫に服従しない妻は,サタンを模倣しているのであつて,キリストを模倣しているのではありません。

      11 妻たちにとつて,どんな附加的な模範がありますか? 彼らは誰の道を避けますか?

      11 また妻たちの別の模範として,頭であるキリスト・イエスに対する教会級の従順があります。キリストの花嫁の成員は,イエスの足跡に従い,イエスのする業に協力するため自分の意志を棄てました。イエスの御意と一致して,彼らは伝道する責務を果しますが,そのためその肉に或る程度の迫害と苦しみをうけるようになります。しかし,キリストの愛ある頭の地位の下で奉仕するよろこびは,肉のくるしみを全く吹き飛ばしてしまうものです。そのような正しい頭の地位に従うことは,難しいことでも品位を落すことでもありません。しかし,幾世紀にも亘つて,わがままで,かつ傲慢な人は,それは難しくて品位を落すものと考え,この終りの日にいて彼らはキリストの頭の地位を認めずに離れさり,自ら『悪い奴隷』級をつくりました。キリストに従うことによつて,真実のよろこびを見出すのは『忠実にして慧い奴隷』級です。その『悪い奴隷』がキリストの頭の支配から離れさるとき,大きな幸福を意味する自由を得ますか? いいえ,その者はヱホバの取極めから外れ,偽善者の友になります。『そこで彼は泣き悲しみ,歯がみするであろう。』(マタイ 24:45-51,新世)自分の夫に服従しないクリスチャンの妻は,『悪い奴隷』を模倣しているのであつて『忠実で慧い奴隷』を模倣しているのではありません。そして偽りの自由を得るためにヱホバの取極めから外れ出ることは,真の幸福と満足をもたらさず,むしろ感情の蹉跌と霊的な有罪の意識をもたらすものです。

      夫および妻に対する実際的な助言

      12 聖書の助言は実際的でないという現代人の主張は,何により偽りと証明されていますか?

      12 イエスは次のように言われました。『どの良い木も良い実を結ぶが,腐つた木は悪い実を結ぶ。良い木は悪い実を結ぶことができず,腐つた木は良い実を結ぶことができない。』同じことは,助言にもあてはまります。良い助言に従うとき,良い結果が得られますが,腐つた助言は悪い終に導きます。現在の多くの人の傾向は,聖書の助言を実際的なものではないと考えて聖書を排斥し,結婚についての助言を現代の権威に求めています。しかし,離婚と青少年犯罪が氾濫していることは,現代の助言がぜんぜん実際的でないことを証明するまつたくの証拠であります。これと対照して,聖書が尊重され,その助言が守られるとき,離婚はずつと少くなり,青少年犯罪は減少します。それで,聖書の助言は実際的でないという非難を浴せる人々は,事実によつて,自分自身の顔に非難を投げかえしています! ―マタイ 7:17,18,新世。

      13 夫と妻のあいだの関係は,どんなものでなければなりませんか?

      13 聖書は,夫と妻とのあいだの関係を述べています。『妻は主に服従するごとく,夫に服従しなさい。夫よ,キリストが会衆を愛してそのために御自身を捧げられたごとく,妻を愛しつづけなさい。夫は自分の体のごとく妻を愛すべきである。妻を愛する者は,自分自身を愛する。自分自身の体を憎んだ者はひとりもおらず,キリストが会衆になしたとおなじく,自分の体を養い大事にする。なお,私たちはキリストの体の成員である。「それで,人はその父母を離れて妻につき,二人は一つの肉になる。」おのおのみな自分自身を愛するように,妻を愛しなさい。また妻は夫に深い尊敬の気持を持つべきである。』― エペソ 5:22,25,28-31,33,新世。

      14 妻の深い尊敬を得るにふさわしくなるため,夫は何をしなければなりませんか?

      14 夫は妻の深い尊敬を得たいと望むならば,頭としての義務を果さねばなりません。頭としての,義務を果さずに頭であるという大権を主張するならば,その人は尊大にかまえる名目だけの頭のように見えます。頭の地位を行使することは,ただ指導をして最終の決定の言葉を言うこと以上のものを含みます。それは健全な知識と良い理解,および難しい事態と面するときに穏やかで忍耐強く,そして理性を持つ節制を必要とします。クリスチャンの妻にとつて,家族の責任や宣教の特権に不注意でなおざりにする夫,大食いのようにがつがつ物を食べ,やたら勝手にアルコール飲料を飲む夫,話しをするときに軽卒か,粗雑かまた猥褻な夫,あるいは他の婦人にははなはだ愛想良くても,妻に注意や思い遣りをほとんど払わない夫を尊敬することはむづかしいものです。夫が浅薄なものであるなら,妻の深い尊敬を得るなどは,とうてい期待することのできないものです。妻は,道徳,肉体,経済,または神権的な理由で服従するでしようが,夫の立派な行の故に妻が愛と深い尊敬を持つて服従するならば,その服従は妻にとつてはるかに易しいものとなり,夫はより多くの満足を得るものです。

      15 妻が服従を拒絶するとき,どんな結果が生じますか?

      15 また一方,服従しない妻を真実に愛し,大切にし,そして守ることは夫にとつて極めて難しいものです。妻は独立していることにより,夫は必要でないと述べているからです。夫に正しく属する地位を妻は盗み,奪つています。自分と一つにならないばかりか,自分に手向い,かつ協力をしないでむしろ争うような妻を,どうして自分自身の肉として愛すことができるでしよか? 感謝の心を持たない競争者に,わざわざ物を豊かに供給する理由があるでしようか? 夫は先に立つ積極的な気持ちを失い,けんかをしないために,妻に好き勝手なことをさせるでしよう。妻は家政を握るかもしれませんが,夫の愛を失います。女は男の地位を奪い取り,夫はそれを許したことにより,ふたりともヱホバの御旨にかないません。夫が妻の我がまま勝手を許すならば,妻は夫への深い尊敬を失い,夫は自尊心を失います。そして妻にたいする夫の愛は,無念の気持ちに変ります。男女平等についての現代の空論がまつたくなくなつた後,夫が正しい頭である家庭内だけに満足と深いよろこびが存在するという事実は,依然として残ります。女が家庭を管理すると,男および神の両方の目から見て,女は家庭を亡します。

      16 たんなる料理人や掃除婦ということ以上に,妻には自分の仕事を変化に富まし,よろこびに充たすどんな義務がありますか?

      16 そうすると,女は家族の事柄に何も言つてはならないということですか? そうではありません。聖書はそのような見方を取りません。婦人は『家政を』します。妻が正しく家政を行つているかぎり,夫は妻の思う通りに行わせるべきです。多くの妻は,家族の経済の多額のお金を取扱い,資金の予算を立てたり,すべての者の益のために金銭を賢明に用いたり,また将来の必要に備えて貯金をします。家政をするなかには,家の装飾や,家の美化のために買物をし,良く運営するために設備をすることをも含むものです。家の中には,家族がおり,才能のある妻は良く努力を払つて家族全員の益を図り,みなが栄養ある食事を取つて,またきちんとした身なりをしているか,そして住む家がきれいで気持良いかどうかに注意をはらいます。妻は料理人とか清掃婦以上のものです。そして,家政をする際には良い実務婦人になつて,夫や子供たちの福祉に気をつけねばなりません。そして最後に,妻は子供たちの幼い,発育期間のあいだ子供たちと多くの時間いつしよにいて,その発育に非常に強い影響を及ぼすものです。妻は子供を助けて正しい道に歩ませ,善い習慣と原則,そしてなかでも,ヱホバの真理を教えることができます。若い生命を形づくつて,良い出発を始めさせるのは,最も重い責任の一つであり,かつ最大のよろこびのひとつであります。夫にとつて頭の地位の要求にかなうことは難しいものですが,それとおなじく,妻が家政をする要求に適うことはやさしいものではありません。妻が自分の仕事を良く行うとき,社会の人から讃められ,その夫はヱホバの祝福をうけます。―テモテ前 5:14,新世。シンゲン 18:22; 19:14; 31:10-31。

      17 男は何時決定をつくらねばなりませんか? 女はどのように答え応ずべきですか?

      17 夫と妻の両方は,それぞれの義務と責任を持つており,各自は割り当てられた荷を負うべきです。といつても,家族の福祉は夫と妻の両方の義務に依存している故に,夫婦は互の計画を論じ得ないということでありません。お互いに協力して,努力を合わせ,一組になつていつしよに働き,その荷を分け合うべきです。ふたりは,時によろこんで妥協し,そして譲歩すべきです。しかし,家族の事柄で同意が得られず,明確な決定がつくられて,ある行動が決められねばならないとき,男はその決定をしなければなりません。これは全く正しいことです。その結果が善にしろ悪にしろ,その責任を取る者は夫であります。その決定が悪いものであるならば,夫はその結果の収拾をつぐなわねばならず,経済的な損失やそれに関連するあらゆることがらを補償します。夫が決定をつくつて妻がそれに同意しない時でも,妻は口を尖らかしてぶつぶつ言い,『わたしの言つた通りではありませんか!』と馬鹿にした言葉を言えるために,夫の決定の失敗を希望し,そして協力をさし控えるべきではありません。むしろ,妻は神権的に行うべきです。つまり,家族の善のために計画が成功するようよろこんで協力するべきであります。

      両親と子供たち

      18 どの助言は,両親と子供の関係を定めていますか?

      18 ヱホバは家族社会内の子供たちを見すごしません。両親は子供を監督しますが,しかし虐げたり,じらしてはなりません。神の御言葉は,両方に適用する次のいましめを与えています。『子供たちよ,主にあるあなた方の両親に従いなさい。それは正義のことである。「あなたの父親と母親を尊びなさい。」これは第一のいましめであり,そして「あなた方に良いことであり,地上で長生きをする」という約束をもつものである。あなた方,父たちよ,自分の子供をいらいらさせてはならない。ヱホバの懲しめと権威ある助言に従つて子供を育てなさい。』献身している両親を持つ子供たちは地上で長生きをし,新しい世で永遠に生きたいならば両親の述べる『ヱホバの懲しめと権威ある助言』に注意を払わねばなりません。両親よ,しつかりとして,かつ愛のある仕方でこの懲しめと助言を与えなさい。いらいらさせたり,じらしたりする仕方で与えてはなりません。―エペソ 6:1-4,新世。

      19 青少年は大人をどう見るべきですか? 大人は子供たちをどう見るべきですか?

      19 むかしの青少年は,年を取つたものに尊敬の気持ちを持ちましたが,この苦しい時および広範囲な青少年犯罪の終の時代では,一般の青少年は尊敬を侮蔑に取り替えたように見えます。そして,老人をずつと時代遅れの旧弊な人のように見下します。しかし,長い年月研究し,かつ経験を重ねることにより,年を経るにつれて智恵と判断の円熟力が得られるということを神権的な青少年は忘れません。エリシヤの時代の悪い子供たちのようではありません。その子供たちは,神の予言者を年取つた『禿頭』と嘲笑して,馬鹿にし,ついには悲しい結果に会つたのです。神権的な青少年は次の聖句を憶えています。『老たる者の中には智恵あり,生命長き者の中には悟りあり。』(ヨブ 12:12。列王紀略下 2:23,24)また一方,両親は子供を重荷のように見ず,機さえあれば遠のけてしまおうなどと考えてはなりません。また子供は人に見られるもので,話をするものではないなどと考えてはなりません。子供たちは,話をする者になるよう育てられ,ヱホバ神の讚美を語るよう教えられるべきです。ヱホバは子供たちをも御自分の奉仕に加らせ,制度の取極めを通して宣教学校のような会衆の事柄に子供たちを入れさせるようにし,かつ両親に命じ,絶えず注意を払つて,子供たちに聖書の真理を教えるようにと述べておられます。両親は,自宅や,集会や,御国奉仕で子供たちの世話を見ますが,他の者は時折り両親を助けるでしよう。大人は,ヱホバが地上の子供たちを取り扱う仕方と同じ仕方で青少年を取り扱い,また青少年は,御旨にかなう人が天的父に捧げるのと同じように,うやうやしい従順を献身した大人に示すべきであります。

      20 どんな一般的な助言が与えられていますか?

      20 家族の各員は,おたがいに尊敬して,見下すことをしてはならず,ある程度の尊厳を認め合うべきです。矯正することが必要なとき,矯正を受けても感謝の気持を抱かせる仕方で矯正しなさい。友人の前や,一般公共の前で,露骨に叱られたいと思いますか? 自分の結婚配偶者にそんなことをしてはなりません。小さなこまかな過ちについて,とやかく言われてじらされたいですか? そのような具合で,自分の子供をじらしてはなりません。両親の方々,自分の子供を矯正するとき,その矯正はいつも一致していますか,それとも矛盾する矯正をしますか? それぞれの気質,変化する気分,動揺している気持の状態を酌量いたしなさい。感情の嵐が吹き出ていると思えるとき,忍耐と節制を思い出しなさい。けんかを止める時は,けんかの始まる前です。その方が易しいものです。何時止めるかを知る代りに,始めないということを充分良く知りなさい。夫はいやなことでもこまかいことなら見過すべきであり,妻は不平の気持を高じて,小言を言つてはなりません。小言を言う妻は,助け手というよりも,むしろ妨げをする者であり,そして聖書は,意地の悪い言葉をたえずぶつぶつ言う事を雨漏にたとえています。『妻の相争うは雨漏のたえぬにひとし。』『相争う女は,雨ふる日に絶えずある雨漏のごとし。これを制うる者は風をおさうるがごとく,右の手に油をつかむがごとし。』分別の心を持つて論理正しく,矛盾することなく一致して,まつたく温順であり,すぐに人のあやまちを許し,そして物事が良くなされたときは,いつでも褒めなさい。―シンゲン 19:13; 27:15,16。

      21,22 規則よりも,どんな導きの方が良いものですか? そして特にどんな導きですか?

      21 簡単に言えば,愛と憐みを示しなさい。自分の事をあまり過大視せず,機智<ユーモア>を働かしなさい。そうすれば針小を棒大にするのを防ぐばかりでなく,棒大を針小にすることができます。多くの規則はつくられましよう。しかし,すべての場合に適用する充分の規則をつくるならば,おびただしい程多くの法典集<タルムード>をつくりあげるでしよう。それは私たちの目的ではなく,又必要のものでありません。それは失敗します。法典集<タルムード>のような規則をつくつて,それに従うことは必要でなく,むしろ導きとなる原則を反復して教える必要があります。家族の一致という場合ですと,主としてひとつの原則,すなわち愛の原則が必要です。自分自身を愛すように他の者を愛しなさい。自分自身に対するように他の人にも親切と思い遣りを持ちなさい。自分自身になすごとく,他の人の弱さをも快く見逃しなさい。私たちの多くの過失や罪は,他の人にとつて堪え難くなり,また他の人の過失や罪も私たちにとつて堪え難くなります。しかし,『愛は多くの罪を覆う』と聖書は言つています。罪や欠点がたとえおびただしく多くても,愛はそれをおおい,そしてうらみをいだきません。自分の罪をかくすため,自分自身に愛を持つように,人々の罪をおおうため他の人にそのような愛を持ちますか? そのような愛は,あなたの家庭に存在していますか? ―ペテロ前 4:8,新世。

      22 あなたの愛が,次の形容の言葉に匹敵するかどうかを見てごらんなさい。『愛は耐え忍び,感謝の心である。愛はしつとせず,誇らず高ぶらない。不作法をせず,自分の利益を求めない。怒ることがない。愛はうらみをいだかない。不義をよろこばず,真理によろこぶ。愛はすべてのものを堪え,すべてのことを信じ,すべてのことを希望し,すべてのことに堪える。愛は失敗しない。』本当に,その種類の愛にもとづく結婚は,失敗しないでしよう! もちろん,配偶者の両方は不完全である故に,多くの面で不十分なところもありましようが,この種類の愛によつて直すことのできない破れはありません! ―コリント前 13:4-8,新世。

      23 何が一致をもたらす愛の力を示しますか?

      23 あらゆるものにまして,ヱホバへの共通の愛は,家族を一致させるものです。その愛は,いまでも多くの国,人種,皮膚の色,言語,違つた社会,そして文化の背景から来た幾十万という人々を一致させています。このことをなすその驚くべき力に,この古い世は唖然としています。しかも,この古い世の政治陰謀や血塗みれの戦争の歴史は,みすぼらしい失敗を明瞭に語るものです。それで,人員も僅かで,その違いも少い家族を一致させる方が,はるかに易しいことではないでしようか? まつたくそうです。それで,ヱホバへの愛が多くの国や人種から来た幾十万という人を一致させるならば,この創造者に対する共通の愛によつて,家族社会を分裂しない状態に保つことは難しいものでありません。その愛により,多くの国の幾万という家族は分裂しておらず,さらに神の御言葉を討議したり,いつしよに研究し,群になつて会衆の集会に出席し,また野外奉仕で互いに崇拝することにより,家族の群をかたく結びつけています。ヱホバに献身することは,かたい一致と調和のうちに彼らを結合します。家族社会内の神権的な行為は,家族を分裂させません。なお,その行為は,すべての人のために,次のごとく概略されています。

      24,25 コロサイ書 3章13-21,23,24節より,どのような助言をうけますか?

      24 『たがいに忍びあい,もし互に責むべきことがあるならば,許し合いなさい。ヱホバもあなた方をおゆるしになつたのであるから,あなた方もゆるし合いなさい。これらのものの他に愛を身につけなさい。愛は一致の完全な絆である。また,キリストの平和が,あなた方の心を支配するようにしなさい。あなた方が一つの体に召されたのは,実にこのためである。感謝しなさい。キリストの言葉を,ゆたかにあなた方の中に宿らし,全き智恵にならせなさい。たがいに教えて励まし合い,詩と讃美を神にささげなさい。心の中に感謝しつつ,霊の歌をヱホバに歌いなさい。あなた方のするすべて,言葉でも仕事でも,すべてのものを主イエスの名によつて行いなさい。そして,彼を通して父なる神に感謝しなさい。妻たちよ,夫に従いなさい。それは主にある者にふさわしいことである。夫たちよ,妻を愛しなさい。つらくあたつてはならない。子供たちよ,なにごとにも両親に従いなさい。これは主によろこばれるものである。父たちよ,いじけさせないために,自分の子供をじらしてはならない。何をするにも,人にではなく,ヱホバに仕えるよう心から働きなさい。相続の正しい報いをいただくのはヱホバからであると,あなた方は知つているからである。あなた方は主キリストの奴隷である。』―コロサイ 3:13-21,23,24,新世。

      25 それで,寛容,平和,愛,霊的なこと,服従,従順,そして忍耐についてのこの実際的な助言を家族社会の内で適用しなさい。それでも,時折り難しくなるとき ― 実際にそうなるのであるが ― 心をこめてヱホバに仕えてなすごとくそれを行いなさい。ヱホバに仕えてなすごとく行つて,たとえ家族が感謝の気持ちを持たなくても,あなたはヱホバから報いをうけるでしよう。

  • 分裂した家庭内の神権的な行動
    ものみの塔 1955 | 7月1日
    • 分裂した家庭内の神権的な行動

      『地に平和を与えるため,私が来たと思うか。全くそうではない。あなた方に言うが,むしろ分裂をもたらすためである。これから後,一家の内の五人は分裂し,三人は二人に,二人は三人に対立するであろう。一家は分裂し,父は子に,子は父に,母は娘に,娘は母に,しゆとめは嫁に,嫁はしゆとめに対立するであろう。ほんとうに,自分の家の者が敵になるであろう。』― ルカ 12:51-53。マタイ 10:36,新世。

      1 家族社会内の神権的な行為が難しくなるのは,何時ですか?

      家族の全員がヱホバに献身しているとき,神権的な行為は可能です。家族は男の頭の地位と両親の権威を認め,しかもそれは愛の中に行使されているのです。家族そろつて研究したり集会に出席したり,野外で奉仕したり,また家の義務を分担します。しかし,家族の全員がヱホバの原則に従うヱホバの証者でないならば,どういうことになるでしようか?

      2 夫が真理に入つていて妻が真理に入つていないならば,妻に対する夫の責任は何ですか? 夫はイエスのどんな助言を適用することができますか?

      2 夫がヱホバの証者で,妻がそうでないときは,どうでしようか? といつて,家の頭である夫の責任が変るわけではありません。夫は食物,衣服,そして家を供給すべきです。それの外に,夫として自分の妻を愛さねばならず,妻の伴侶となり,妻が慰めを得るように注意を払い,そして機会ある毎に妻を助けて真理を知らせます。イエスが自分の使徒たちを伝道に遣したとき,家の人に音信を強制してはならず,かえつて真理が拒絶されたときは語るのを止めなさいと告げました。それに,『蛇のごとく注意深く,鳩のごとく罪無き者』でなければならなかつたのです。(マタイ 10:16,新世)この助言は,家庭内でもあてはまります。真理を人に強制してはなりません。時機の良いとき,巧みに真理を伝えなさい。真理は,自分の配偶者をうち叩く棍棒ではありません。真理は,力づくや,ひつきりなしに打ち叩いて,押しつけるものではありません。そのように混棒で打ち叩く仕方を用いることをせず,むしろ振舞による無言の伝道で巧みに真理を播きなさい。そしてあなたのクリスチャン行為によって真理を推薦して下さい。

      3-5 ペテロ前書 3章1-5節には何が書かれており,その適用は何ですか?

      3 この振舞による無言の伝道は,夫が真理に入つていない妻にたいして,特にすすめられています。『同じように,あなた方妻たちよ,夫に従順でありなさい。たとえ御言葉に従わない夫であつても,あなた方のうやうやしい貞節な行を見て,妻たちの行により,言葉によらず,救に入れられるためである。髪を編み,金の飾りをつけ,衣服を装うという外面の飾りではなく,心の内のかくれた人,すなわち静かで温和な霊の朽ちないものを飾りとしなさい。これこそ神の御前に尊いものである。むかし,神に希望をおいた聖なる女たちも,このように身を飾り,自分の夫に従つたのである。』― ペテロ前 3:1-5,新世。

      4 夫が真理に入つておらず,『御言葉に従わなく』ても,ヱホバに献身した妻は,その夫に従わねばなりません。前述の聖句によると,妻は不信者の夫を言葉によらず救に入れ,また髪を編まず,飾りをつけず,衣服を装わないと述べられていますが,しかしそれは妻が真理を決して話してはならないとか,髪をこざつぱりと梳つて整えてはならないとか,宝石類を用いてはならない,ということではありません。ましてや,衣服を着てはならないということではありません。むしろ,この力ある表現により,大切な強調がどこに置かれているかを示しているのです。つまり,最も重要な飾りは,静かで温和な霊,貞節な行,夫にたいする深い尊敬であります。外見よりも大切なものは,『心の内のかくれた人』すなわち内部にある心の内の人柄であります。その人柄はどんな種類の者ですか,どんな動機がありますか,どんな気質または霊がありますか? この心の内のかくれた人は,行により表わされます。その貞節な行と,うやうやしい行状は妻の良い粧いであります。(ロマ 7:22。コリント後 4:16。テモテ前 2:9,10,新世)むかしの聖なる女たちもこのように身を飾りましたが,しかし,又宝石や立派な衣服をも用いたのです。ヱホバは時々,女の象徴を用いて,御自分の民に言及し,ヱホバ御自身豊かな衣裳や,高価な宝石で,そのような女を飾りました。(創世 24:22,53。出エジプト 3:22; 35:22。エステル 5:1。イザヤ 61:10。エゼキエル 16:10-14)それで,この聖句の意味を,狭い文字通りのことがらに限定せず,むしろそれは大切な強調がどこにあるかを強く示していると認めるべきです。

      5 ヱホバに献身した妻は,そのクリスチャン行為によつて,真理からうける良い影響を示します。そうすれば,無言の中に不信者の夫を救に入れることができるか,あるいは言葉以上の影響を持つことができます。夫は,言葉があまり多いため,当惑する場合があります。もちろん,妻は機会のある度に,真理を説明し,集会に出席したり奉仕に行く理由を話します。しかし,強く言い過ぎるとか,あるいは巧みさの欠くようなことをしません。妻は,家をきれいにしたり,良い食事を準備したり,子供たちの面倒を見たり,また伴侶として夫のためにいくらかの時間を費すという妻の義務を行うのに,特に注意を払います。その証言の業は,自分の妻の義務となるべくぶつからない時になされるよう計画を立てます。

      6 結婚配偶者が真理に入つていないとき,それは別居の理由になりますか? 何時分れることができますか? しかし,どんな制限をうけますか?

      6 結婚の配偶者が真理に入つていないということは,別居の理由になりません。『ある兄弟に信じない妻があつても,もしその妻が同棲したいというのであるならば,夫は妻から分れてはならない。もしある女が不信者の夫をもつていて,自分と同棲していたいというのであるならば,女は夫から分れてはならない。』不信者の配偶者も,あなたの良い行を見たり,巧みな証言を聞いて,遂には真理を受け入れ信ずるかもしれません。『妻よ,自分の夫を救えるとどうして分るか。夫よ,自分の妻を救えるとどうして分るか。』しかし,不信者が分れたいと望むならば,信者はそれを妨げようとはせず,『分れるままに』します。時に不信者が堪え切れない程の事をしても,なお信者といつしよにいることがあります。あまり難しくなり,信者は続けていることができなくなり,分れることにきめます。夫はひどい腕力を妻にふるうか,物質面で支持しないかもしれません。あるいは,妻は夫の神権的な奉仕に反対するか,夫の霊的な福利を危うくし,その永遠の生命の見込みを得られないようにするかもしれません。自分の結婚はそのようであると,信者がきめるならば,分れることはできます。しかし,ヱホバの御前で結婚の解かれる唯一つの道は,姦淫または死である故に,たとえ合法の離婚が得られるにしても,信者は再婚する自由を持つていません。『妻が分れるならば,ひとりでいるか,夫と和解するかしなさい。夫は妻から分れてはならない。』しかし,夫が分れるときにも妻の場合と同様の拘束をうけるのです。―コリント前 7:12,13,16,15,11。マタイ 19:9。マルコ 10:11,12。ロマ 7:2,3,新世。

      7 両親は真理に入つていない子供たちに何をしますか?

      7 家庭内の分裂は,しばしば,両親と子供たちのあいだにあります。両親がヱホバの献身した僕であつて,子供たちがそうでないならば,両親は忍耐しつつ,また巧みに行って,子供たちを教えるよう努めます。両親は子供にも理解できる仕方で真理を教えねばならず,また会衆の集会に子供を連れてこなければなりません。多くの近代家庭では逆にこそなつているものの,両親は今でも子供たちを自分の手の下におき監督する責任を持つているのです。もし,家族の頭がこのことをすることができないならば,その者はクリスチャン会衆の特別な僕になる資格の無い者と考えられます。会衆内の僕たちが,愛の心をもつて,巧みに自分の義務を果すように,両親も愛と巧みさで和らぎつつも,断乎としてその両親の権威を行使すべきです。片親だけが真理に入つているならば,できるかぎり子供たちを教え,子供たちの救を希望しなければなりません。―テモテ前 3:4,5。コリント前 7:14。

      8 両親が真理に入つていないとき,子供たちはどんな行をしますか?

      8 子供たちが真理をうけ入れても,両親がうけ入れない場合,事態はもつと難しいものとなります。子供たちは両親の監督の下におり,イエスのように両親に従わねばなりません。と同時に,子供の時のイエスの如く,ヱホバへの奉仕を忘れてはなりません。子供たちは是非努めて,真理を両親に説明し,また研究し奉仕しなければならぬと感ずる義務を示し,そしてさらに大切なことは,改善された行と協力により,真理の及ぼした良い変化を示すよう努めます。このようにして,両親を納得させることができるかもしれません。子供が,真理に円熟している成人の証者を家につれて来て,新しい世の希望についてもつと良く十分に証言させることを両親は許すかもしれません。―ルカ 2:48,49,51。

      9 どんな助言に注意を払うことは,分裂した家庭内で特に重要ですか?

      9 分裂している家で生活するとき,舌を巧みに用いることは,特に重要です。神からの助言はこうです。『いつも塩で味をつけられたやさしい言葉で話しなさい。そうすれば,ひとりびとりに対してどう答えるべきかを知ることができる。』外部の人にこの聖句を適用するならば,ましてや家族社会の内にいる人に適用されます。悪い言葉を含めて,『悪に悪を返してはなりません。』恐つた声で返答することは,家族内の不信者の者にとつて別段気にかけることになりませんが,ヱホバを愛する者は『争や自己本位の気持で行わず,謙虚な心を持ち,他の人は自分よりもすぐれていると考えなさい。又自分自身の利害だけに気をつけないで,他人の利害にも気をつけなさい。』怒つたり,声高になるのを止め,悪口を言うよりは言われる方が良いと認めなさい。『怒つたままで,日が暮れるようなことがあつてはならない。腐つた悪い言葉を口から出してはならない。必要があるならば,話す言葉はみな徳を高めるものであり,聞く者に益を与えるものにしなさい。すべての悪意,怒り,憤り,さわぎ,そしり,またいつさいの悪口をすてさりなさい。』― コロサイ 4:6。ロマ 12:17。ピリピ 2:3,4。エペソ 4:26,29,31,新世。

      10 妥協と譲歩は何処で終らねばなりませんか? 家族の人を救に入れようとする私たちのすべての努力が失敗しても,なぜ不当に失意落胆すべきではありませんか?

      10 分裂した家にいる信者は,平和を保つために,多くの譲歩をして,おそらくは不信者を救に入れることができるかもしれません。しかし,これ以上妥協してはならない一点があります。つまり,ヱホバへの忠実が危くされるときです。研究,集会の出席,そして奉仕が切りつめられようと,けつして止めてはなりません。多くの点で譲歩しますが,しかし忠実を譲歩することは,生命自体をふくめてすべてのものを譲歩することになります。家族の者といよいよ最後という場になるとき,『人よりも神に従わねばなりません。』それは,つらい試錬でありましよう。ペテロは次のように書きました。『愛する者たちよ,あなた方を試みるために降りかかる火のような試錬をなにか見知らぬことが起つたかのように驚きあやしんではならない。』敵が自分の家庭社会にいて,愛する者の言う悪口を耐えねばならぬことは,まつたく火のような試錬であります。しかし,それを驚きあやしんではなりません。イエス自身も,次のような警告の言葉を言われませんでしたか?『地に平和を与えるため,私が来たと思うか。全くそうではない。あなた方に言うが,むしろ分裂をもたらすためである。これから後,一家の内の五人は分裂し,三人は二人に,二人は三人に対立するであろう。一家は分裂し,父は子に,子は父に,母は娘に,娘は母に,しゆうとめは嫁に,嫁はしゆうとめに対立するであろう。ほんとうに,自分の家の者が敵になるであろう。』それで,家の中の不信者を救に入れようとするすべての努力が失敗しようとも,それで失意落胆すべきではなりません。それはイエスの言葉を成就しているものです。聖書の言葉に,豹は斑点を変えることができないと言われていますが,それと同じく山羊が羊に変ることはあり得ませんし,また羊が山羊のような行をすることもあり得ません。羊のごとき行をしつづけなさい。―使行 5:29。ペテロ前 4:12。ルカ 12:51-53。マタイ 10:36,新世。

      家庭の戦線で忠実を保つ模範

      11 ひとりの少女は,どのように家族の反対に会いましたか? その結果はどんなものでしたか?

      11 自分の家に敵がいるという幾千という実例の中のわずか二つの実例を聞いてごらんなさい。16歳の少女は自宅で訪問をうけました。いくたびか再訪問がなされ,ついに聖書研究が始まりました。家族の反対は増加し,最後に両親は,少女が新しい宗教を断念するか,それとも家を出るかどちらかであるときめつけました。少女は真理を止めるのを断り,両親は衣服を取る時間すらも与えずに,その子を家から追い出しました。その子が他の証者たちといつしよに生活するようになつたとき,父母はますます怒り,未成年者裁判所の判事のところに行き,青少年犯罪という非難をその少女にかけました。その裁判のときに,両親は少女に反対不利の証言をし,少女と制度に対して偽りの非難を多く述べました。両親に歩があるように見えましたが,ヱホバは勝利を与えられ,少女を両親の監視から自由にしました。今日,彼女は証者と結婚し,子供たちを育てて証者にしています。しかし,これが全部ではないのです。両親のとつた残酷な不人情な仕打は,少女の弟を,ヱホバの証者として真理の側に立たせる結果になりました。その子は家から追い出されて,孤児院に入れられました。成長して自由を得てから,その孤児院を去り,証言を行い,全時間奉仕者になり,いまではブルックリン・ベテルで全時間奉仕しています。

      12,13 一青年はどんな試錬に直面しましたか? どのように彼はその試錬に耐えましたか? 最後の結果は,どういうことになりましたか?

      12 真理を研究していた一青年になされた信仰の試錬を考えてごらんなさい。全家族は彼に反対しました。文書を読んで,真理を語つたとき,父も,母も,兄弟も,姉妹も,みな気が狂つたと言いました。彼はついに家の者に向い真理を語るのを止め,始終の戦を避けました。その地の御国会館で行われる集会に始めて出席した後,父親は最後のものすごい努力を払い,真理との交りを破ろうとしました。家族会議が開かれ,この憎まれて,けいべつされている新しい宗教,その真理を止めるようにと要求されました。その青年は,家族の圧迫に対して孤立し,両親の面前で,真理を読むのを止めなければ,ヱホバの証者との交りをも止めないと,きつぱり言いました。青年がこれを言ったとき,州警察官であつた父親は口径・45インチの自動ピストルを引き抜いて,青年の両眼のあいだに押しつけ,『お前がこの宗教を止めるか,俺がお前の脳を打ち抜くかだ!』とどなりました。息子はヱホバに信頼しつつ,こう言いました。『けつして私は止めません。引金をひく勇気があるなら,ためらわずにひいて下さい!』 父には,その勇気がなく,拳銃袋にピストルをぶち入れて,呪いながら部屋から出て行きました。

      13 青年は後に洗礼をうけ,伝道者になり,それから会衆内の僕になり,いまではベテルにいます。しかし,試験はそれで終つたわけではありません。全時間奉仕に入つたとき,妻は青年から去り,夫が心をこめ,精神をこめ,魂をこめ,力をつくしてヱホバに奉仕するという理由で,離婚の訴訟を起しました。妻から神を呪つて死ねと言われても,それを拒絶し,死ぬまで忠実を保つと言つたのは,なにも昔のヨブひとりだけではないのです!(ヨブ 2:9; 27:5)その間,母親は息子の行に強い感動をうけ,夫から離婚されて何の扶養もうけなくても,ヱホバの側に立つて,開拓者の業をなし,忠実な奉仕をして死にました。息子はいまでもベテルで奉仕しています。

      14,15 どのように忠実を立派に守ることにたいして,私たちはよろこび誇りますか? しかし,信仰のためのどんな他の戦を忘れてはなりませんか?

      14 鉄のカーテンの背後や,労働天幕や,収容所の天幕にいる忠実な証者たちが,寒さ空腹,そして苦難をうけ,発砲する軍隊に直面するという試錬をしばしば聞きます。その試練を聞いて私たちは身震いし,その忠実に驚嘆し,そのかたい立場と,すべてのことにも耐え忍ぶひるまない熱心によろこびます。ヱホバの立証のために捧げる彼らの非常な貢献に,よろこび誇るとともに,加えられる多くの苦しみや死にもかかわらず勇気を持ち続けるようにと私たちは祈ります。また,鉄のカーテンの背後や独裁政府の下にいる者で,そのような事に苦しむという危険の外に,その他の仕方でひどい試錬をうけている他の者たちをも忘れてはなりません。家庭が分裂していて,気持の上で絶えず戦が行われ,神経の戦や緊張の戦が止まずになされ,政府に知らされたり,裏切られたりする危険にいる人々についてはどうでしようか。そのような生活は楽なものでしようか? 配偶者を愛しても,その者が自分の意に逆い,ヱホバに反対して亡びにむかつて行くのを見るのは,まつたくつらいことでありませんか? 子供が両親に反対して,言葉に言えない心痛をもたらすことがあるかもしれません。愛する者の加える傷の痛みは,いちばんつらい堪えがたいものです。

      15 体の苦難を耐えることは易しくありませんが,同様に心の苦悶を耐えることも易しくありません。発砲する軍隊に直面することはつらいものですが,同様に,年年歳歳,いつも小言を言われ,自分の家で嘲笑されて,毎日悪口の弾幕をこうむり,そしてヱホバに奉仕するため,家族社会から離れることも,やはりつらいものです。多くの場合,刑務所や収容所天幕から出ることよりも家族社会から容易に出ることができます。しかし,ある者が真理にいて他の者が真理におらず,一日24時間の信仰のための戦が絶えず行われる家庭の冷い戦争を忘れてはなりません。それで,幾年にも亘つてなされるそのような人の忍耐強い防守を忘れてはなりません。多分目立つようなものでないにしても,これらの試錬や迫害はひじようにつらいものであります。自分の家にいる愛する者の使う短刀は人の心を貫くいちばん鋭いものであります。だが,それでも,ヱホバへ献身した僕を忠実な奉仕から転向させることはできません!

      16 真理の側に立つた故に,家族を失つた者たちにどんな慰めがありますか?

      16 前に出ている二つの例のように,真理のために家族を失つた人が,読者の中にいるでしようか? あなたはその例の中の人のようですか? 自分は家族を失つたと思いますか? もしそうであるならば,あなたと一致してヱホバの奉仕にはげむ新世社会の新しい兄弟,新しい姉妹を見てごらんなさい。そのとき,自分はイエスの次の約束を成就していると強く悟ります。『私のため,および良いたよりのため,家,兄弟,姉妹,母,父,子供を棄てた者は,かならずその百倍をうけるであろう。すなわち,今この時代では家,兄弟,姉妹,母,子供,そして田畑を迫害とともに受け,来るべき組織制度では永遠の生命をうける。』(マルコ 10:29,30,新世)しかもあなたの得た兄弟,姉妹は,あなたの会衆にいる数十人または幾百人の者たちだけではないのです。全地には,幾十万という兄弟姉妹がおり,手を開き,戸を開き,そして,なかんずく,心を開いてあなたをよろこんで迎えられます。しかも,この神権的な大家族社会は,小言を言われたり,つまらないことを大騒ぎしたり,戦つたり,反逆したり,あるいは不敬虔のために破れることはありません。それはヱホバ神とその王キリスト・イエスの下に一致している家族であり,その中にいるすべての者は,このよろこびに溢れる家族社会の中にいて神権的な行為を永遠に保とうと熱心に努めているからです! ヱホバが私たちを助けて,いつもそうできますように!

  • 牧師は教区民を叱る
    ものみの塔 1955 | 7月1日
    • 牧師は教区民を叱る

      フランスのある工場で働くひとりのヱホバの証者は,証者ということのため,職工長から絶えず馬鹿にされていました。ある日,その教区の牧師は工場を訪問しました。職工長は,すぐさま牧師に呼びかけ,馬鹿にした態度で『異教のヱホバの証者があなたの前に立つていますよ』と言いました。しかし,牧師はこう答えました。『それは間違いです。ヱホバの証者は異教でありません。彼らは私たちのようにクリスチャンであり,ヱホバは神の御名です。彼らは強い信仰を持つているのであつて,ヱホバの証者を馬鹿にしてはいけません。』職工長は茫然とし,すぐにその場を去りました。牧師は若い証者に向きなおり,こう囁きました『私が伝道すると,労働者は私を信じない。金を得るために伝道していると彼らは言う。しかし,あなたは彼らに話すことができる。あなたは同じように労働者であり,彼らはあなたの言葉を聞く。』ついでですが,その日以来,職工長は,その証者を馬鹿にしなくなりました。

  • 知識は神より来る
    ものみの塔 1955 | 7月1日
    • 知識は神より来る

      英国教の一司祭が,英国ルトンで行われたヱホバの証者,地域大会の効果を少くしようと努めたとき,地方の新聞は司祭の手紙とヱホバの証者の返答を出版しました。その後公共から寄せられた手紙の中に,次のようなものがあり,その一部はこう書かれていました『私はこの多くの人々の持つ高い理智に特に心をひかれた。その規律と制度を尊敬すべきである。このことからも,制度化された教会は,人々への義務という点で失敗していると証明されないであろうか?』 証者の持ついかなる知識も,各人の誉に帰するものではなく,丁度人々がイエスの教える力に驚かれた際に語られたイエスの言葉のごとく,証者はこう言います『私の教えるものは,自分のものではなく,私を遣わされた方のものである。』(ヨハネ 7:16,新世)言い伝えに従う者たちは,その知識に欠如していたため,1世紀の真の崇拝者たちと甚しい対照を示したのでした。同じことは今日でもあてはまります。

  • 子をその道に従いて教えよ
    ものみの塔 1955 | 7月1日
    • 子をその道に従いて教えよ

      ニュー・ジーランドの子供たちのあいだでは,不道徳が多く行われており,その状態は非常に悪いため政府は特別調査委員会を設立しました。10歳台の子供が3人,二つのむごい殺人事件に最近関係していました。それで,ヱホバの懲めと権威を持つ助言をうけて育てられた子供たちの敬虔な振舞を聞くことは,まつたく気持良いものです。学校を卒業すればすぐに全時間開拓者奉仕に入ろうと望んでいるひとりの若い姉妹は,証言する多くの機会を得て心からよろこんでいます。その通学している高等学校内の多くの人々は,その姉妹によつてヱホバの制度に尊敬を払うようになりました。1学期の終りには宗教に関して取つた姉妹の立場,その外見,振舞,そして良心的なことについて,いろいろな先生は讃辞を述べました。授業時間の切れ目の休みの時とか,また午休みのあいだなど,学校内のすべての先生はその姉妹について話し合う程の関心を持つています。それで,ヱホバの証者は人々に知られて来ます。校長の言葉によると,いままでの中でその子供だけが宗教について利潑な話をし,しかも年の割には,学校内で一番広い一般知識を持つているということでした。その姉妹によつて証言をうけた先生は,他の先生方にその語つた言葉を述べました。友達の生徒が示した嘲笑や敵意にも挫けないその子のクリスチャン行為について一人の先生は話をしました。

      割当ての話を準備するとき,この姉妹は『目覚めよ!』から資料を集め,大抵『優秀』の評を取ります。科学の先生は読書用に『新しい世を信ずる基礎』をもらいました。別の先生とは,『進化論』の冊子から進化論が論ぜられ,話を詰めていつたとき,学校の教科書は時代おくれで正しくないものである,しかし文部省からの供給である故に使用しなければならないということが告白されました。最近,3分間の話が取極められ,各生徒はそれぞれ自分の題を選びました。この若い姉妹は,『あらゆる時の最も売れ行きのよい本聖書』について話をしました。そして,学校の級長につぐ,最高の賞を得ました。この話は500人の生徒の前でなされ,善い証言でありました。休暇開拓者奉仕,他の神権的な活動,学校の義務,そして家庭の雑務のため,この幸福な若い姉妹には,古い世の組織制度に属する不道徳な行にひきずりこまれる時間はありません。(1955年度のヱホバの証者の年鑑より)

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