-
同性愛 ― 聖書の見方は道理にかなっていますかものみの塔 1974 | 11月15日
-
-
同性愛 ― 聖書の見方は道理にかなっていますか
あなたは同性愛者ですか。もしそうであれば,あなたは自分が非常に不公平な差別をつけられているような,また自分が個人的な問題と考えている事がら,つまり性の相手の選択にかんして,不当な苦痛を味わわされていると感じているかもしれません。あなたの意見では,同性愛に対する世間の見方は非常に狭いものかもしれません。
しかし,『もろ刃のつるぎ』という古いことわざがあります。それで人は,他の人びとに見られるのと同じ偏見を自分も持たないように注意する必要があります。あなたは聖書が同性愛の問題にかんしてなんと述べているか,時間をかけて調べたことがおありでしょうか。それとも,考慮するに足らずとして,いわば投げ捨てたでしょうか。たとえばヘンリー・フェレン「神父」は,「USカトリック」誌の中で,同性愛に反対する意見は,「別の時代と文化を対象にして書かれた二,三の聖句のまちがった解釈に基づくものである」と述べています。デンマーク,アウグステンボルクのルーテル福音教会の牧師,グンター・ハインツも同じようなことを言っています。「この問題にかんする聖書の見解は,今日のわれわれに対してはなんの効力も持ち得ない」。またユダヤ教の教師,フィリップ・ホロウィッツは,オハイオ州のクリーブランドで最近次のように語りました。「現代の同性愛者は,自分の行為が不道徳と考えられていることに憤慨するであろう」。
しかし,この人たちはなぜ聖書に背を向けるのでしょうか。彼らの言うことにもう一度注意してください。聖書は「別の時代」を対象にしたもので,「現代」的でない,「今日のわれわれ」には向かない,聖書は時代遅れで,この問題を扱うさいには使えない,と考えられているのです。しかしそうでしょうか。真理と神の是認を得ることとに関心のある公平な心の持ち主は,進んでその答えを調べてみることでしょう。
聖書が非常に古い本であることは事実です。しかし古いこと自体は,同性愛のような個人的な道徳問題の導きとしての資格を奪うものではありません。実際にはその逆です。聖書の古さは,道徳上の導きとしての聖書の価値をいっそう高めます。なぜそう言えますか。
ひとつには,人びとは今も昔と本質的には同じだからです。どんな時代に住もうと,人びとが肉体や感情に必要としたものは基本的には同じでした。もし神のことば聖書が,人間の生活の導きとなるべきものであるなら,それが長い歴史を持つことは,当然理解できることではないでしょうか。確かにそうです。したがって聖書の古さは聖書に有利な立場を与える要素であり,同性愛について聖書が述べていることに重みを加えるものです。
同性愛が及ぼす影響
聖書は同性愛行為に対してむとんちゃくではありません。このことについては数回,明確に言及されています。たとえば,J・B・フィリップスの訳した「現代英語の新約聖書」のローマ人への書 1章26,27節には次のように書かれています。
「それゆえに神は彼らを恥ずべき情欲に渡された。彼らのなかの女は正常な性行為を異常で不自然なものに代えた。同様に男も女との自然な性交を退けて互いに情欲を燃やした」。
しかし非常に重要なことは,聖書がこのあとで同性愛の影響を正確に詳述していることです。
「男と男がこれらの恥ずべきひどいことを行なったので,当然,性倒錯の結果を彼ら自身の性格に受けた」。
聖書のこの診断は本当に正確ですか。同性愛者たちはその言動によって,しかり,と答えます。同性愛「結婚」は不安定である,性の相手を無差別に捜す,同性愛行為をひそかに続けている間は表面を飾って自分を偽る,ということなどを彼らは指摘します。「ひとりで年を取ることの恐ろしさ」を語るのは,同性愛者の敵ではなくて同性愛者自身です。同性愛者の将来には希望がないので,そのことは彼らを「冷笑的,絶望的にし,自殺に追いやることさえある」と,同性愛者のウィリアム・キャロールは言っています。そうです,同性愛者自身が,同性愛生活の「結果を彼ら自身の性格に受ける」ことを認めるのです。
したがって聖書は,この習慣から生まれる結果を正確に描写しているわけです。しかし,そのような望ましくない特徴を「彼ら自身の性格に受ける」のはなぜでしょうか。それは「異常で不自然な」ことを行なうからだ,と使徒パウロは言います。同性愛支持者に言わせると,ある事がらを「自然」または「不自然」とするものは完全に主観であり,各個人が自分で決めなければならない問題です。しかし実際にそうでしょうか。男性と女性が対をなし異性であることは,事実上すべての人びとに明白ではありませんか。両性の性器が「合う」ようにつくられていることは明らかではありませんか。
一方,ふたりの女性同性愛者の性的結合は自然なものに思えますか。相手を満足させるためには,片方の女性は多くの場合男性の性器に代わるなんらかの人工的代用物を使わねばなりません。また男性の同性愛者のことを考えてごらんなさい。二人とも男性であることを主張するかもしれませんが,一人はある意味で女性の役割をしなければならないのではありませんか。男性の同性愛者の場合も女性の同性愛者の場合も,異性が「自然に」提供するものの代用物をなんとかして提供しなければなりません。このことはどれほど道理にかなっていますか。聖書は同性愛行為を正しく,「異常で不自然な」もの,としています。
したがって聖書はこの習慣がもたらす結果を正確に描写し,そうした結果が現われる理由をわたしたちに知らせているわけです。またそのことと一致して聖書はその後この習慣をはっきり有罪としてはいませんか。それは道理にかなっています。
ですからコリント第一 6章9,10節には,「まちがってはいけない。淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,または同性に対してゆがんだ性欲を感ずる者はいずれも……神の王国を所有することはない」と書かれています。(新英語聖書)あるいは,「生きた聖書」の中でこの節が解説されているように,「同性愛者が神の王国にあずかることはありません」。
聖書的に言えば,問題は非常に明白ではありませんか。同性愛がまちがいであることを聖書ははっきり示しています。そしてこの習慣の悪影響を示すだけにとどまらず,そうした悪影響を生み出すものをも正しく非として首尾一貫しています。
しかし,同性愛者たちの間では,同性愛に反対を唱えたのはもともと使徒パウロであって,イエス・キリストではなかった,という論が流行しています。この主張はどれほど有効でしょうか。
イエスと同性愛
まず,そのように主張する人びとは,聖書がパウロのことばを『聖書』の一部として言及し,ゆえに「物事を正」すのに有益であると述べている事実を無視しています。(テモテ第二 3:15-17。ペテロ第二 3:15,16)しかしイエスのことばを真剣に調べてみるならば,イエスもたしかに同性愛に反対されたということがわかります。
改訂標準訳(RSV)によるとイエスは,マタイ 19章9節に記録されているように,「不貞以外の理由で妻を離婚し別にめとる者は姦淫を行なう」と言われました。イエスのことばを記述するにさいしてマタイがここで用いている,「不貞」に相当するギリシャ語は,ポルネイアです。ポルネイアは,「許されない性交に自分の身を渡す」という意味の動詞と関係があります。
これらのことばにどんなことが含まれているかを理解する一番良い方法は,他のところでこれらのことばがどのように使われているかを知ることです。聖書のユダの手紙の7節は,ある古代都市の罪を述べていますが,そのさいにこれに似たことばが出てきます。「ソドム,ゴモラおよび同様に不道徳に[ポルネウオの強意の語形]ふるまって,不自然な肉欲にふけった周りの町々は,永遠の火の刑罰を受けて一つの例となった」。(RSV)ソドムとゴモラはどんな形の『不道徳』すなわちポルネイアを行なったために有罪とされたのでしょうか。その答えは,聖書の創世記 19章4,5節(新)の次の叙述から分かります。
「ソドムの男たちは,少年から老人にいたるまでみな一団となって,その家を取り囲んだ。そしてロトに叫んで言った。『今夜おまえのところへ来た男たちはどこにいるか。われわれが彼らと交接できるように彼らをここへ連れてこい』」。
ソドムとゴモラのその男たちは同性愛者でした。事実,『二人の男性間の性交』という特別の意味を持つ英語の「ソドミー」は,ソドムの町の名から来ています。聖書は彼らの罪をポルネイアと呼びました。ポルネイアは道徳的に非常にまちがった行為ですから,結婚のきずなを断つ根拠となるということをイエスは言われました。
また,イエスはユダヤ人で,モーセの律法の下で生活しておられたことも忘れてはなりません。イエスのポルネイアの用法には,『モーセの律法が禁じていた性交すべて』が含まれているようである,とエドワード・ロビンソン編「新約聖書の希英辞典」は述べています。その律法が命じている事がらの中には,『女と寝るように男と寝てはならない。それは憎悪すべき事である』という命令も含まれています。(レビ 18:22,「モーセの律法,モーセの五書」,アメリカ・ユダヤ教出版協会発行)イエスがお用いになったポルネイアという語が,神のこの命令を包含していたことは明らかです。
また,モーセの律法が与えられる以前でさえ,神は同性愛を非とされていたということに注目すべきです。前述のソドムとゴモラにかんする記録はこの事実を証明しています。それらの町は,モーセの律法が制定される400年以上前に神により滅ぼされました。イエスはそのことをご存じでした。―ルカ 17:28,29,32。
したがってイエスが,同性愛のような『不貞』な習慣をすべて実際に非とされたことは疑問の余地がありません。理性的に考えれば分かるように,この問題にかんしても聖書は首尾一貫しています。パウロのことばは,神のみ子の権威によって支持されています。
しかし,聖書によると,同性愛者にはどんな道が開かれていますか。有罪を宣告されているだけで,神の恵みを受けられない,いわば永久に捨てられた者ですか。それは道理にかなったこととは思えません。では調べてみましょう。
-
-
同性愛者はその生活を改めることができますかものみの塔 1974 | 11月15日
-
-
同性愛者はその生活を改めることができますか
聖書が明白に同性愛を悪としていることは事実です。しかし聖書の神エホバは,人類の弱さに対して思いやりをお持ちです。エホバは愛の神です。ですから,当人が神のご意志に添うよう勤勉に努力するかぎり,全く救いがたい者として捨て去るようなことはだれに対してもなさいません。
同性愛者が神の是認を得るためには,その生活を改めなければならないことを聖書は示しています。しかし,その変化が可能なことも聖書は示しています。使徒パウロは,同性愛者だったある人びとについて述べたあと,コリント第一 6章11節で,「あなたがたの中にはそのような人たちもいました。しかし,あなたがたは洗われて清くなったのです」と言っています。彼らは生活を改めたのです。
ところが,多くの同性愛者は,自分たちにはそれはできないことだ,と主張します。それは,聖書はまちがっている,と言うのと同じです。「どうにも仕方がない。わたしは生まれつきの同性愛者なのだ」と断言する人たちもいます。あるいは,育ちのせいで同性愛者になったのだと言う人もあるかもしれません。人が異性愛を捨てて同性愛に心を向けるには,いろいろな社会的,感情的原因があることは疑えません。また同性愛の根本原因は分かっていないかもしれません。しかし,だれも,そういう宿命のもとにあるかのように,『どうにも仕方がない』と言うべきではありません。なぜでしょうか。
それはたくさんの資料が,聖書の述べることと一致しているからです。つまり同性愛者は生活を改めることができるということです。いつまでも同性愛者でいることを強いるのは,ほかならぬ本人自身です。それはあまりにも強い言い方だと思えますか。では証拠を検討してみましょう。
彼らが生活を改めない理由
この問題にかんする記事を読んだり,同性愛者たちと話すとき,人は,同性愛者は同性愛者であることを望んでいる,という事実を発見します。1972年5月14日のミネアポリス・トリビューン紙に,同性愛運動にかなり同情的な記事がのりました。記者の意見に注目してください。
「このすべての背後に無言の恐怖のあるのが感じ取られる。それは,ゲイをまともな人間に変えることができるように思わせるなんらかの要素が研究によって発見されるかもしれない,という恐怖である。彼らはそれは望まないだろう。彼らはゲイであることを楽しんでいるのである。まともな人間にはなりたくないのである。
「ゲイハウスの事務所でマイク・マックコンネルとともに調整者をつとめているレナ・ハーディンはこのように言う。『まじめな人間であることのただ一つの利点は,もはや人と変わらないということである。その人間に対する他の人びとの考えや考慮は変わるだろう。そして,実を言うと,それはそれほど価値のあるものではない。わたしはやはり今のままでありたい』」。
『生まれつきの同性愛者』であるとか,『家庭が貧しかったから』といった訴えがなされていないのに注目してください。これに関係している人たちは,「わたしはやはり今のままでありたい」とはっきり言っています。
考えが変わる
自ら選んで同性愛者になるのですから,冒されているのはその人の考えです。そしてその考えがそういう性を選ぶように働きかけるのです。道理にかなったこととして,聖書も,これが問題の根底にあることを認めています。パウロは,同性愛者について,「神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不穏当な事がらを行なうにまかされました」と書いています。(ローマ 1:26-28)そのような人たちは心からまちがった考え方をするようになり,ゆがんだ欲望を育てました。―マタイ 15:18-20。
この点にかんして聖書が述べていることは,同性愛者たちが明らかにした事実と一致します。たとえばあるアメリカ人は,彼の推理が同性愛的見方に引き入れられた過程を説明しています。「同性愛は,長期間にわたる非常に複雑な調整の所産である。……[同性愛者]は故意に洗脳されるのである ―『わたしはゲイである。そしてそれを誇りにしている。わたしは美しい』。これは逆療法である」。
同性愛問題の核心はこの考えです。同性愛者のように考えることをやめ,同性愛者の欲望を捨てて初めて人は同性愛者であるのをやめることができます。聖書は,コリント第一 6章11節の中で,そのように考えを変えることが可能であることを示しています。ではなぜもっと多くの人が考え方を変えないのでしょうか。
ロング・アイランド(ニューヨーク)・プレスの訪問記者は,以前同性愛者だった人にこの同じ質問をしました。その人は次のように答えました。
「第一に,転向は不可能だという考えが広まっている。第二に,多数の不幸な同性愛者は,高価な治療を受けるだけの資力がない。第三に,露顕することが心配で多くの人がしりごみしている」。
多くの精神医学者やその他の人びとは,転向はできないという印象を与えてきましたが,この人の経験はそれが可能なことを示しています。彼はほかに6人がやはり転向したことを認めています。
そのような調整が容易でないことは認められます。なぜなら,思考の型が特定の方向に発達しているばかりでなく,肉体も異常なものを渇望するようになっているからです。推理の型が調整されて全く自然なものにもどってゆくように,生活様式も全体が自然なものにもどらなければなりません。新しい生活様式が徐々に古いものに取って代わらなければなりません。
ある同性愛者の転向
最後にニューヨーク市に住みついた,男性同性愛者であったひとりの俳優は,自分がどのように転向したかを語りました。この人は徹底した同性愛者でした。その180度の大転換と,そのために払った努力とについて,彼は次のように説明しました。
「わたしは8歳のときから同性愛者でした。23歳までには完全に,疑問の余地なく,肉欲のとりこになっていました。そして多くの同性愛者と同じように,世間ずれした人たちをまねて,自分は“ゲイ”なんだと言って,自分の良心を慰め,ゆゆしい不道徳をカモフラージしていました。しかし,簡単に言ってしまえばわたしは変質者だったのです。わたしは今でも,あらゆる性欲倒錯に繰り返しふけった相手の男を少なくとも150人は思い出せます。同性愛的傾向を持っているかもしれない人を興奮させたり,彼らに“火をつけ”たりするつもりでこう言うのではありません。これはわたしがどこまで堕落していたかを示す例にすぎません。実際のところ,ゲイの世界の標準では,わたしは中程度の同性愛者と考えられていたでしょう。というのは,わたしが不道徳の相手にした男は1日に3人以下だったからです。
「わたしは,自分の同性愛行為がまちがいであることをひそかに知っていました。そして,数年前になりますが,エホバの証人のある集会に招かれて行ったとき,同性愛はまちがいであるというこの確信はいよいよ強くなりはじめました。それに加えて,エホバの証人から聞いたことはわたしの心にかないました。楽園の地上で永遠に生きるという考えは,わたしの心に強く訴えるものがありました。それは人の心を非常に楽しくし,非常な安心感を与えるものでした。わたしはかねてから,なぜ世界はこのような状態にあるのだろう,なぜこんなにも憎しみや貪欲や利己主義がはびこっているのだろう,将来にはどんな希望があるのだろう,と考えていました。エホバの証人はその答えを与えてくれました。しかしそれでもすぐには同性愛者の生活をやめませんでした。わたしはそれを非常に楽しんでいたので,やめるのが非常にむずかしいことは分かっていました。それに,テレビ・ショウのテープ録音を含め俳優業をまだ続けていました。収入はたくさんありました。それもたやすくあきらめることはできませんでした。
「しかし1969年のこと,ニューヨーク市内で仕事をしていたわたしは,ヤンキー野球場で開かれたエホバの証人の『地に平和』大会に出席しました。閉会のことばが話されたとき,わたしは本当に現実に直面させられました。話し手が,エホバの証人でない人びとに向かってこのように話しかけたのです。『みなさんは神の新秩序にはいりたいという気持ちをお持ちです。ではわたしたちと歩みをともにし,その新秩序で命を得るのはいかがですか』。このことばの真実さは胸にこたえました。わたしは確かに命を望んでいました。エホバの民も愛していました。その瞬間からわたしは生活を改めはじめました。それは,エホバに仕えて生きるか,あるいはいつまでも『ゲイ』の生活を続けて死ぬかの問題でした。
「そのとき以来わたしは同性愛行為をきっぱりとやめました,と言えばたいへんりっぱに聞こえるでしょう。しかし,不幸なことに,そう言えばうそになります。その後わたしはまた逆もどりしました。が,あきらめませんでした。わたしは自分のしたことに嫌悪を感じ,二度と繰り返すまいと,いっそう固く決意しました。わたしが行なった戦いを理解できる人はおそらくいないでしょう。『肉』が性的満足を叫び求めるので,昼といわず夜といわずひどい苦しみに襲われます。そのうちにわたしは戦いに勝ちました。しかし自分の力で勝ったのではありません。わたしは絶えず祈りのうちにエホバに近づいて助けを求めました。エホバは本当に助けてくださいました。しかしわたしは祈りに一致して行動しました。
「出演契約を全部解消することは,生活を楽しくするいろいろな物質や,俳優としてしばしば大衆の前に出るのを断念することを意味しましたが,わたしはそれを実行しました。芸能界のふんいきが真のキリスト教を実践する,あるいは品行を正しく保つ助けにはとてもならないことにわたしは気づきました。やがてわたしはすべての同性愛行為から完全に離れ,エホバの証人たちに受け入れられてバプテスマを受けました。
「そのうちにわたしはりっぱなクリスチャン婦人と結婚しました。わたしたちはエホバのすばらしい結婚の取決めの中で,真の幸福と満足を享受しています。またわたしは,エホバの証人の会衆の一つで,奉仕のしもべとして奉仕しています。しかし,とりわけ大きな喜びとなっているのは,今自分が清い良心を持っていることと,全能の神に喜ばれる生活をしているということを自覚していることです」。
挑戦に応じて生活を改めなさい
この人は挑戦に応じて生活を改めました。そしてのちほど,性的自制力の弱い人にとって正しいことと聖書が勧めていること,つまり正式の結婚をしました。(コリント第一 7:1,2,9)しかしどの同性愛者も,結婚そのものが自分の問題を解決すると考えるべきではありません。結婚していても同性とひそかに関係をつづける「両性愛者」がいます。「両性愛者」はやはり同性愛者であって,その行ないを改める必要があります。
同様に,結婚している,あるいは独身の男性が,他の男たちと実際の肉体的接触をやめたので,自分はもう同性愛者ではない,とカウンセラーに言うことがあります。しかし彼らは自分自身を正直に公平に調べてみるべきです。新ブリタニカ百科事典は,同性愛者を,「空想にせよ,現実にせよ,同性との性関係を習慣的に好む人」と定義しています。したがって,他の男性に対する欲望を絶えず感じる男性は,心の中ではやはり同性愛者です。(マタイ 5:27,28とくらべてください。)その人が実際に望んでいるものはそれです。その人はまだ,考え方を高めるよう努力しなければなりません。―フィリピ 4:8,9。
しかし,前述の経験の中でも指摘されたように,だれも自分の力で生活を完全に改め,クリスチャンの生活ができるようになると考えるべきではありません。エホバ神に助けを求めなければなりません。エホバは,だれであろうと道徳的に清い生活をすることを心から望む人を助けるために,ご自分の証人のクリスチャン会衆をお与えになったのです。彼らは,誠実な人ならばだれにでも無料で聖書の教えていることを教え,そういう人たちが調整を行なうのに必要な助けを個人的に与えます。
神はまた,自分の生活を清くすることを望んでいる人びとに聖霊をお与えになります。同性愛のような,身にしみついた習慣を克服するための戦いにおいて,一時的に逆もどりすることがあるとしても,もしその人が正しいことをするよう真剣な努力をつづけるなら,神の聖霊がその人を支えることを神は保証しておられます。そのような人は,イスラエルの王であった罪人ダビデのように,エホバは自分の祈りを聞いてくださるという確信をもって,次のように祈ることができます。「なんじヒソプをもて我をきよめたまえ さらばわれ浄まらん 我をあらいたまえ さらばわれ雪よりも白からん ねがわくは聖顔をわがすべての罪よりそむけ わがすべての不義をけしたまえ ああ神よわがために清き心をつくりわがうちになおき霊をあらたにおこしたまえ われを聖前よりすてたまうなかれ 汝のきよき霊をわれより取りたまうなかれ」― 詩 51:7,9-11。
考え方を変えるよう努力するとき,その人は分別を示し,自分の生き方に,ある実際的な調整を加えることを願うようになるでしょう。たとえば,事情に応じて職を変えるとか,別の場所に住居を移すとかするでしょう。また,動作や話し方や歩き方ばかりでなく,服装や身づくろいにも調整を加えるほうが有利であることを知るでしょう。―詩 119:66。
ある人たちの場合は,その人の過去の性質上,次のようなことも考えられます。つまり同性愛が感情や肉体や社会生活に及ぼした影響がすべて拭い去られるまでには何年もかかり,ひょっとすると,この事物の体制内では完全には拭い去られないかもしれないということです。しかし戦いをやめるべきではありません。時々,進歩が遅いように思えても,エホバの霊に頼ることを決してやめないでください。そのうちに良い結果が生まれます。
それで,同性愛の問題をもつ人びとの前に置かれている本当の質問は,『聖書の見方は道理にかなっているか』という質問ではありません。聖書の見方がきわめて道理にかなったものであることはまちがいありません。彼らの前にあるのはむしろ,わたしは本当に生活を改めることを望んでいるか,そしてその挑戦に応ずるか,という力強い質問です。
-