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クリスチャンは真実の中に生活すものみの塔 1954 | 12月15日
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御自身が光にいるように私たちが光の中に歩むならば,私たちは互いに交りを持ち,御子イエスの血はすべての罪から私たちを潔めてくださる。』(ヨハネ第一書 1:6,7,新世)つまり,真実実際のものでないことを主張するならば,私たちは嘘の生活をしているということになります。それは,アナニヤとサツピラの行つたことでした。イエスの時代の悪い宗教家たちも,そのようにいたしました。忠実を保たない者たちは,虚言者になります。悪い行動をする者は,実際にはキリスト・イエスを否定しています。『嘘言者は誰であるか? イエスのキリストであることを否定する者ではないか?』― ヨハネ第一書 2:22,新世。
27 ヱホバは,その真理の御言葉の中で多くの教えを私たちに与えられております。それで,私たちは新しい世の生命を得るように備えをすることができ,そしてヱホバのいましめを守ります。ヱホバは,キリストを通して恵み深い御準備をつくられ,最初の大きな嘘によつて私たちのところに来た不能力と罪を取り除かれます。私たちが神に正しく奉仕するならば,ヱホバが御子を通して与えられるいましめを守ります。神の僕クリスチャンと主張しながらも,いましめを守らない者たちは,実際には噓言者であつて,噓の生活をしている者たちです。『私たちがキリストのいましめを守り続けるならば,それによつてキリストを知つていると悟るのである。「彼を知つている」と言いながら,そのいましめを守らない者は,噓言者であつて,真実はその者の中にはない。』― ヨハネ第一書 2:3,4,新世。
良心
28 クリスチャンの良心は何ですか? それは,どのように正しい行いの導きになりますか?
28 ヱホバは人間に良心を与えられています。その良心は善いものか,または悪いものかでありましよう。使徒パウロは,テモテに手紙を送り,後の時代になつて,人々はその良心を焼金で烙かれると述べました。それらの者は,神の教えから離れ背く者たちです。それらの者たちの良心は,悪行をしても苦痛を感じません。しかし,クリスチャンは善い良心を持つべきです。自分は善を行つており,あらゆることにおいて真理に従つているという事実に確信を持つべきです。私たちの信仰を成功させるためには,ヱホバの御前で善い良心を持つことは必要です。『信仰と良心を保ちなさい。ある者は,良心を捨てたため,信仰について破船をこうむつた。』(テモテ前 1:19,新世)真理の知識を得るとき,私たちは悪い良心をすてさります。そして,ヱホバのなされる御準備を通して私たちは自らを清くいたします。『心はすすがれて悪い良心はなくなり,清い水で私たちの体は洗われたのであるから,信仰に全く確信を持ち,誠実な心をもつて近ずこう。』(ヘブル 10:22,新世)クリスチャンの良心は,神の御言葉から教えをうけるのですから,正しいことをするのに良い導きとなり,タルムッドのような法典をつくりあげるのは必要でありません。クリスチャンは,各自ヱホバの御言葉の助言を考慮すべきですが,それは何が正しいかを知るためであり,また答えようか答えまいか,どちらを選ぼうかという事態に直面する時,何をしなければならないかを決定するためです。
29 善い良心は,なぜ祝福ですか?
29 善を行い,真実を語らねばならないために,善に反対する迫害者やこの世の人々から私たちは多く苦しみをうけなければなりません。正しいことをすることにより,私たちは全能の神についての証言にあずかり,神の御名の立証に参加いたします。善い良心を持つことは気持良いものですが,噓を話して間違いの道を行い,悪い良心を持つことは苦しみです。真実を語るならば,その話しの条理を正しくしようなどということに心配する必要はありません。嘘を言う者は,いつもその痕跡をくらまさねばなりません。一生涯のあいだ中,嘘をごまかそうとして,どうしてはらはらする生活をするのですか? なぜいつも真実を語らないのですか? そして清い良心でする生活を楽しまないのですか? ヱホバの御前で良心に確信を持つている時,たとえ真実を語るために苦しみをうけようと,耐え忍ぶことはそう苦しいことではありません。正しいことを行い,善い良心を守るために,苦しみを受けるのは,特権であります。―ペテロ前 2:19,20。
30 心を清く保ち,ヱホバの制度に固く従うことにより,私たち自身と子供たちはどのように益を受けますか?
30 私たちの生活でするあらゆる事柄のうちで,私たちのしようと願う重要な事は,ヱホバをよろこばすということです。私たちは,神の御心にかなうことをしたいと欲します。それで,ヱホバの建てられた制度にかたく従い,そしてその御言葉が命ずることをなし遂げます。私たちはこの古い世の悪い影響を避け,またその環境から風紀を学んではなりません。ヱホバが私たちにさせようと望まれていることを,私たちは最善の力をもつてしなければなりません。心を真理で充たしなさい。そうすれば真理は語られます。(マタイ 12:34。ピリピ 4:8)ヱホバは私たちの心の深い奥底までも探り,私たちの動機を調べてそれが正しいか悪いかを見られるということは明白です。私たちが真実を語るならば,ヱホバの恵みを受けるということが期待できます。私たちの子供たちもまた,その両親の良い手本を見て,ヱホバの御前に真実を保ちますから,ヱホバの恵みをうけます。もちろん,子供たちの生涯の早い時に,真実を語るよう訓練することは大切です。
31 新しい世の社会の中で,なぜ真実と正しさが必要ですか?
31 本当に私たちは間違いをします。しかし,私たちはヱホバ神の御恵みと兄弟たちの愛に頼り,この終りの時にあつて,ヱホバ神が新しい社会に与えた仕事に対し全力をつくして働きます。今日一つの群の民だけが忠実を守り,そして神の御言葉の中にある真理と正義の原則を擁護しております。それらの民とは,新しい世の社会をつくりあげる者たちです。神の僕たちが汚れなくて,正しく,また清く,そして真実を語り,兄弟たちと正しく正真に交渉し,制度の平和と一致を守ることは,神の御前にあつて正しいことであり,また神の御心をよろこばすものです。ヱホバの神権制度と交る者の中に悪行を許してはなりません。お互いに正しく交渉しあい,新しい世の生活の仕方をいま学びなさい。そうすれば,新しい世が全く設立されて運営される時に,私たちはそこで生活することができます。―エペソ 4:15,16。
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香港からの報告ものみの塔 1954 | 12月15日
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香港からの報告
1954年度のヱホバの証者の年鑑より
伝道者 1951 30 1952 48 1953 66
香港で東と西が出会います。香港は,長年のあいだのニュー・ヨーク市とは違い,融合の地ではありません。しかし,ここには二つの違つた生活様式が見られます。エルサレムのイエスの時代には,ローマ人とユダヤ人の二つの制度がありましたが,この香港でも英国人と中国人の二つの制度があります。この両方の級の人々は,御国の証言を必要としています。協会の大きなよろこびは,多くの宣教者を香港に派遣することでした。宣教者は香港で非常に良い仕事をしており,もつと多くの宣教者は派遣されております。兄弟たちは,休日の使い方にとても良い模範を示しましたので,野外で奉仕する伝道者の最高数を得ています。この点について,支部の僕の語る言葉は興味深いものです。
ふりかえつて見る時に,ヱホバの証者の最大の奉仕努力は,東洋の休日でも西洋の休日でも,すべての休日を全く神のよろこびの奉仕に献げることによつてきたということが分ります,つまり,新しい最高数が得られたということなのです。
共産中国がぐるりと取りかこんでいるために,私たちの活動する地域は制限されていますが,その地勢は絵のように美しく,変化に富んだものです。それで,田舎の安らかな気分の漂う明るい緑の背景で私たちは仕事をすることができます。休日には,町から短い距離のあいだバスに乗つてでかけ,獅子岩といわれる険しい大山の下陰の路を歩き,小さな畠の中を巡つてあばら屋をみな訪れ,御国について語りました。ある時には,渡し舟に乗つて近くの島にある漁村を訪問しました。その村の通りといつても,それはほんの通路に過ぎず,汗臭い苦力の運搬人や,遊んでいる子供たち,眠つている犬,ぶらぶらジグザグに歩き廻つている豚などと共にその通路を分け合つて,使う始末でした。
最近に,4人の宣教者と36人の中国の兄弟はバスに乗つてでかけましたが,それは歌うたう戦士のバスになりました。そうです,歌うたう戦士でした。新世社会の大会から戻つてきた代表者たちは,多くの新しい歌を持つて来ませんでしたか? 港湾の丘を大速力で上り,証言しようと計画した近くの村に行つた時,私たちはこれらの歌を練習して興じました。正午までに村の下の部分を済ませ,それから丘を上つて仏教学校の壁の外にある竹藪に行きました。この日陰の場所で昼食を食べ,もつと多くの歌を歌いました。それで,好奇心に駆られた多くの人々が集まつて来ました。それから,厳粛な洗礼の問題が討議され,7人の新しい兄弟は立ち上り,献身についての聖書の質問の肯定の答えをいたしました。私たちのいたところの後ろには井戸があつて,ちようど聖書時代と同じように,水を汲みに来た人の幾人かは,すぐ立ち去らず,その話しを聞きました。洗礼をうける者たちが丘を下りて海辺に行つた後,残りの私たちは上にのぼり山の高いところにある家を伝道しました。
1年の中で最大の祝い,中国の新年は,2月に来ます。花火を仕掛けることについて,政府は禁止していましたが,その禁止が撤廃されてからは,昼も夜もボンボンと花火がうちあげられています。昔からの伝統によると,1年の初めに人は何をしなければならないかが命ぜられており,すべての人々はそれに従います。しかし,今年には増加した中国の証者は,この伝統を破り,この休日をも家から家への宣教に用いました。多くの兄弟は,この休日にも証言することができると知つたばかりではなく,また,人々は他の時よりもよく聞いて,文書をよろこんでうけ取るというのを知つて,驚きながらもよろこんでいました。
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