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中国,香港,澳門<マカオ>1975 エホバの証人の年鑑
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味わっています。朱明徳<チュー ジョン>兄弟はエホバの民のこの小さな会衆の中で円熟した人として引き続き指導の任に当たっています。
喜び,成長そして試練
香港では真理に関心のある人たちの大多数は若い人たちです。年配の世代の人たちのならわしは固まっていて,中国古来の伝統を捨てようものなら,死んでからひどい目に遭うのではなかろうかと恐れて,しきたりを変えようとはしないように見えます。余珍梅<ユー メーイ>という名の少女は13歳のころ,当時英語で行なわれていた集会に出席し始めました。英語はわかりませんでしたが,示された純粋の親しみ深い態度や愛に喜びを見いだしました。集会が中国語で行なわれるよう取決めが変わったとき,大いに喜んだのは言うまでもありません。この少女の在学中の経験は,香港の学生が相当の圧力を受けていること,またそのために在学中に真理から離れてゆく人が少なくないことを如実に示しています。
余珍梅<ユー メーイ>姉妹はこう述べています。「1961年中,私は最後の学年に備えて忙しく勉強しました。最後の学年には生徒はみな最後の試験のための準備で緊張します。加わる圧力や増える宿題のため,24時間の1日でさえ要求に答えるには不十分でした。より多くの教育,大学,より収入の多い仕事,親や先生の評判などの事柄すべてが絶えず私たちに重々しくのしかかってきました。私は自分の霊性が脅かされるのではなかろうかと思いました。しかし,励ましを分かち合い,奉仕を自分の生涯の仕事にするようにとの助言を得,また個人研究を行なったお蔭で,この物質主義社会からの圧力に対して勝利を得,それを克服するよう助けられました」。余姉妹は真理の知識を得るよう仲間の一学友を助けることにも尽力し,後日その学友は何年間か特別開拓者として奉仕しました。1962年11月,余姉妹は特別開拓者になり,今日では翻訳者としてベテルで引き続き全時間奉仕に携わっています。
1963年8月13-18日まで公会堂で開催された「永遠の福音」国際大会は大きな励ましを与えるものとなりました。香港の伝道者,開拓者そして宣教者222人は大会の準備のため勤勉に働き,その努力は報われました。その大会に海外から仲間のクリスチャンおよそ500人が訪れましたが,その訪問は,他の国を一度も訪ねたことのない土地の兄弟たちにとって認識を大いに深めるものとなりました。彼らは外国からの兄弟たちの示す愛や一致をじかに見て,エホバのすばらしい組織に対する見方を大いに広げることができました。彼らは熱意を新たにされて野外に戻り,翌年の記念式には459名もの人々が出席するのを見ました。
1964年の4月,最初の宣教者の一人“ビル”・カーニーが亡くなったため,香港の兄弟たちは悲しみに包まれました。カーニー兄弟は全部で合計12年間支部の監督として奉仕しました。彼は人々を愛し,どこで働こうとも,霊の実を示しました。同兄弟を知っている人は今なお彼のことを懐しく思い起こします。
香港の私たちの兄弟たちは,竹のカーテンの背後で投獄されている仲間の兄弟たちに対する愛ある関心をいつも表わしています。日々それらの兄弟たちのことを祈りの中で思い起こしています。1963年に中共から釈放されたハロルド・キングに会ったとき,兄弟たちは本当に深い喜びを表わしました。刑務所で4年半を過ごし,しかもなお強い信仰を抱いている兄弟たちのひとりに会えたのです。また,同兄弟を通して,なおも投獄されたままでいる中国人の兄弟たちの信仰についても学び知りました。次いで,1965年,スタンレー・ジョーンズは7年間の投獄生活の後釈放され,中国大陸にいる仲間の兄弟たちが忠実を保っていることについてさらに多くの良い知らせを兄弟たちにもたらしてくれました。中共では万事が沈滞気味で,けわしいものがありましたが,香港は物質面では大いに繁栄し,はなやかでした。ジョーンズ兄弟はその点に注意したので,兄弟たちは,物質主義のわなに捉えられて,永遠の命を得そこなわないようにすべきことを諭した同兄弟の時宜にかなった助言に感謝しました。
1966年,ギレアデ第41期生の宣教者7人のグループが新たに香港に派遣され,香港の兄弟たちは感謝の念を抱いて彼らを迎えました。その結果,官塘<クァントン>と呼ばれる工業地区で,それまでほとんど手のつけられていなかった区域の九龍<カウルーン>にもう一つの宣教者の家が開設されることになりました。当時,その地区全域には伝道者はひとりもおらず,人口は約22万5,000人もありましたから,宣教者は歓迎されました。初期の宣教者とは違って,それら新しい宣教者は任命された教官のもとで2か月間にわたる,協会の取り決めた中国語の講習を受けました。それで,比較的短期間に広東語の実用的な基礎知識を相当身につけました。
1967年初頭のこと,宣教者たちは一般の人々の態度が変化していることに気づきだしました。何事かが起ころうとしていました。1966年には連絡船の料金が5セント上がったことがもとで比較的小規模の暴動が生じましたが,そうした何か重大な事態が生じようとしていたのでしょうか。協会に寄せられたある月の報告の中でガナウェー兄弟はこう述べました。「当地の共産主義者は澳門での勝利のゆえに自信を得たように見えます。今やかつてなかったほどの,宗教に対する敵対的な態度が見られます。……当地では今や間もなく重大な事態が起ころうとしていることは明らかです」。
その後間もなく香港の至る所で暴動が起きました。共産勢力は人々を恐れさせて支持を得,政府に対する優勢な立場を得ようと試み,ある期間,所きらわず爆弾を仕掛ける手段に訴え,私たちが地域大会を開いていた建物の前にさえ爆弾が仕掛けられたりしました。そのために多くの市民が負傷し,それとは知らずに爆弾をいじって遊んで死んだり,かたわになったりした子供たちもいます。そのため住民は共産主義運動に反対するようになり,政権獲得は阻止されました。
それにしても,多くの住民は恐怖心に打たれ,香港を発つ船や飛行機は,幾百人もの一団の出国希望者により一斉に予約されました。暴動が起きる前,協会は集会の出席と個人研究を勧めていました。というのは,それが著しい弱点だったからです。その助言を心に留めなかった人たちは失敗しました。そのようなわけで,伝道者の人数は1967年の最高数261人から1968年には平均218人に減少しました。
1968年5月,ノア兄弟が香港を訪れて,「あなたがたは忘れてはなりません」と題する話をしたのは本当に事宜にかなったことでした。兄弟たちはその話に我を忘れて耳を傾けたので,ノア兄弟は,「私が聖句を引用するたびに,聴衆はみな頭を下げて懸命に聖句を見つける」様子に感銘を受けたと述べました。この訪問は,まさに兄弟たちの必要としていたもので,自分たちのわざを固守し,心を強くしてエホバに仕える確信と決意を兄弟たちの内に満たすものとなりました。わざは再び前進を見せ,それまでの14年来初めて会衆の伝道者の時間の平均は10時間を越え,1968年の記念式には558人が出席しました。
ノア兄弟の講演にさいし,出席していた関心のある一婦人,霍<フォク>夫人は見聞きした事柄に感動させられました。その婦人の経験は,本当に真理を捜し求める人はそれを見いだすということを示しています。彼女はこう述べます。「私が11歳のとき,私の父は広東で殺されました。その後の何年間かに私は多くの人が殺され,また人々が憎み合っているのを見たので,人生について真剣に考え始めました。そして,中国大陸から逃れることに決め,多くの困難の後,香港にひそかに入りました。香港ではもっとましな生活ができるだろうと考えていましたが,失望させられました。私が見たのは,競争,だまし合い,残忍な仕打ちばかりでしたので,人生の意義を疑うようになりました。自然界には調和が見られるのに,人間の生活は全くその逆なのです。それで,もし真理が存在するなら,答えを知りたい,真理を見いだしたいと思いました」。そして,哲学書を読み始めましたが,その欲求は満たされませんでした。
その後,エホバの証人がこの婦人を訪問しました。最初,彼女に訴えたのは真理というよりは,証人たちが人々に示す純粋の愛と関心でした。ノア兄弟の話を聞きに来たとき,彼女はこう言いました。「証人たちすべてが互いに暖かい親しい態度と愛を示し合っているのを見て私は驚きました。証人たちは喜びと信仰で満ち満ちていたので,証人たちは他の人々の持っていないものを持っているに違いないと私は思いました」。その結果,この婦人はいっそう熱心に研究を行ない,間もなく,それこそ自分が多年求めていた真理であることを確信しました。そして今では,自分のところに「人を遣わして宣べ伝えさせてくださったエホバの恩」を深く感じており,今やバプテスマを受けた熱心な伝道者として,できる時にはいつも一時開拓奉仕を行なっています。大勢の家族がおり,また主人の反対を受けながらもそうしています。最近,弟が中国大陸から逃れてきたので,真理を受け入れるよう助ける大きな期待を抱いていました。しかし,亡命者が一般にそうであるように,その弟は強硬な無神論者で,関心を持ってはいませんが,霍<フォク>姉妹はあきらめてはいません。
エホバの組織は香港にいるご自分の民の必要物を豊かに備えてきました。毎月2回発行されている中国語の「ものみの塔」誌のほか,1962年以来,毎月1回中国語の「目ざめよ!」誌が発行されています。「目ざめよ!」誌は人々によく受けるので,より大規模な証言を行なえるよう区域の人々の気持ちを和らげる上で大きな役割を果たしてきました。また,協会の比較的最近の書籍5冊と小冊子6冊をも中国語で入手できます。聖書研究の手引きがこのようによく揃っているので,ルーテル派の著名な一宣教師は,すべての教会の中でもエホバの証人は最善の中国語の出版物を持つ団体であると評しました。
「とこしえの命に導く真理」と題する本ほどに野外の兄弟たちに大きな影響を及ぼした本はこれまでに1冊もありませんでした。1969年にその本の最初の積荷が到着した当時,果たして土地の人たちがわずか6か月間真理を学んで行動を起こすことができるかどうか,いささかの疑問がありました。しかし,その簡潔,明解で,要を得た情報は大いに伝道者を助けただけでなく,新しいエホバの賛美者たちの,しっかりした忠節なグループを生み出すものとなりました。
さて,協会の支部事務所が九龍<カウルーン>,プリンス エドワード街312番地二階のもっと良い場所に移転したことをも付記しておきましょう。最初,協会は二階のアパートしか所有してはいませんでしたが,隣接するアパートの二階が空いたので,そこを買い取り,文書の倉庫や別の宣教者たちのための部屋の余裕が増えました。
1969年の「地に平和」大会もまた,香港の兄弟たちの心に長く記憶されるものとなりました。プログラムを通して提供された情報や演じられた劇,また13か国からの訪問者が出席し,さらに統治体の3人の成員,ノア,フランズ,スーター兄弟たちが出席したことは,この地の兄弟たちの士気をもう一度高めるものとなりました。また,エホバとその組織は,宣教者が故国に戻って大会に出席し,家族を訪ねられるよう宣教者を援助して親切を表わしたので,宣教者たちもエホバとその組織に感謝しました。彼らは新たな熱意を抱いて香港に戻り,任命地での仕事を続行しています。
1970年,協会はフィリピンの特別開拓者の隊伍から9人の熱心な若い姉妹たちを選んで,宣教者として香港で奉仕するよう割り当てました。姉妹たちはフィリピンの別の言語に対するように中国語に取り組み,またその積極的な態度のゆえにことのほか良い成果を上げました。しかしまた,新しい人たちが献身してバプテスマを受けるに至るのを見るまでに要する忍耐と辛抱強さをも学んできました。そのようにして,姉妹たちは,それぞれ20年また16年間辛抱強く任命地で奉仕してきたベス・ガナウェーやエリザベス・ジャービスなどの宣教者たちの模範に感謝しています。
励みになる,もう一つの特色は,中には健康や家族の問題その他の理由で宣教者のわざをやめねばならない人も出ましたが,その大半は香港に留まって,王国の忠実な伝道者として引き続き奉仕していることです。それらの人たちは依然香港を任命地と考えているので,土地の兄弟たちはそれゆえに彼らを愛しています。
香港では実際に苦闘することなしに真理に入る人はほとんどいないということも忘れるわけにはゆきません。官塘<クァントン>での最初の経験もこのことを良く例証しています。伏龍梁<フーロン リャング>はカトリックの一青年と研究を行ないました。教理にかかわる相当の「闘い」の後,青年はそれが真理であることを知り,行動を起こすことに決意しました。ところが,集会や野外奉仕に時間を費やすと,金儲けの妨げとなるのを見て取って両親は,あらゆる迫害を加え始めました。青年は集会後家に帰るのを恐れました。明け方近くまで両親は大声を上げたり,ののしったり,困らせたりもしました。弟や妹たちと話すことも禁じられました。時には父親は青年が集会に行くのを力づくでやめさせたり,肉を切る大包丁をかざして追いかけたりしたことさえありました。母親は数回王国会館までやって来て,大騒ぎをしました。ある日曜日の朝,彼はガラスを割る音で目を覚まし,よく見ると,母親がびんを割っていました。なぜですか。「あの王国会館に行って,宣教者を全部盲にしてやる!」と言うのでした。こうした反対が絶え間なく何か月か続き,遂に家に留まるのはあまりにも危険になりました。青年は一度両親に尋ねてみました。「お金のことがどうしてそんなに心配なのですか。愛ゆえに私を育ててくださったのではありませんか」。「そうじゃない,お金のためだ!」と二親は答えました。青年が家を出,ある兄弟の所に移った後でさえ,母親はなおも王国会館にやって来ては梁< リャン>兄弟を叩こうとしました。また,つばが涸れるまで息子の顔につばを吐きかけ,それから通行人に聞いてもらおうとしてわめき叫んで感情をぶちまけたりしたこともあります。その後バプテスマを受けた彼は,両親に真理を悪しざまに言わせないようにするため,給料の三分の二以上を二親に与えて,金銭面で自分の生活をかろうじて維持しています。それにもかかわらず,二親は折があると,今なお彼を困らせています。この兄弟が動ずることなく真理を擁護し,進歩し続けているのを見るのは何と喜ばしいことでしょう。
記録によれば,過去23年間に香港では427人,中国大陸では135人の人たちがそれぞれバプテスマを受けました。活発な奉仕をやめて,わき道にそれた人たちも少なくありません。中には別の国に去って,他の場所の中国人の間で良いわざを行なっている人たちもいます。それで,香港のエホバの証人の歴史は,宣教者や土地の兄弟たちが相当の苦労をしてきたことを示しています。その結果は土地の一姉妹の次の言葉によく要約されています。「過去何年ものわざを回顧して,協会がこの土地に派遣した宣教者たちの演じた重要な役割を私は高く評価いたします。私たちは私たちの霊的な福祉に対する宣教者の愛ある関心に動かされてエホバとの関係を理解できるようになったのだと言うことができます。宣教者たちは今もなお伝道者を強めることに貢献しています。宣教者の親しみ深い態度や笑顔,香港の生活水準に適応するその能力は,励みを与える源となっています。宣教者と伝道者たちの間には隔たりは少しもありません」。
1973奉仕年度は会衆の必要とするものを配慮する長老たちの任命をもって幸先の良い出発を見ました。円熟した長老たちによる援助の効果が薄れてしまわないようにするため,八つの会衆は数の面で六つに縮小されました。それはまさに必要な処置でした。今や兄弟たちはかつてないほど奉仕の務めに対する熱意を表わし始めました。1972年12月,伝道者の時間の平均は17.3時間になりました。突然雑誌の供給の不足する事態が生じたため,伝道者たちは雑誌の日には2冊の小冊子を提供することになりました。そのため,普通なら支部が2年間に供給する量の小冊子が,わずか3か月でなくなってしまいました。また,毎月それまでよりも多くの人々が一時開拓のわざに参加し始め,1973年1月には伝道者は270人の新最高数に達しました。
1973年の4月中,わざは上昇傾向を保ち続け,59人の伝道者が一時開拓者になりました。正規開拓者は6人で,特別開拓者と宣教者は合わせて28人でしたから,合計93人が開拓奉仕に参加しました。そうです,全伝道者のうち何と3人につき1人が4月には開拓者になったのです。次いで,記念式の出席者数は705人という新最高数を記録しました。
4月の巡回大会の折,「神の勝利」国際大会が1973年8月8-12日まで九龍<カウルーン>の葛量洪<グ ランサム>教育学院で催されるとの発表が行なわれました。奉仕の務めに携わる兄弟たちの熱心さは増し加わり,大会が近づくにつれて熱意は高まりました。王国会館での「ものみの塔」研究および奉仕会・宣教学校の出席者数はそれぞれ130%および120%に達し,会場は一杯になりました。兄弟たちは集会後ゆっくりと動かねばならず,大多数の人たちはそのまま留まって,クリスチャンの交わりを楽しみました。組織全体には暖かい見事な精神が行き渡りました。
「神の勝利」国際大会はあまりにも早く訪れました。5日間にわたって兄弟たちは霊的な豊かな宴の喜びにあずかり,他の多くの土地から訪れた300人余の兄弟たちとの暖かいクリスチャンの交わりを享受しました。それにしても,特に兄弟たちが感謝したのは,統治体の5人の成員が一緒に出席したことでした。それら統治体の兄弟たちに直接会ったり,その優れた話を聞いたり,謙遜さの面でのその立派な模範を見たりした香港の兄弟たちは,エホバとその組織にいっそう密接に近づくことになりました。
1973奉仕年度の成果と香港の兄弟たちが現在いだいている精神は,その大会の終わりに述べた支部の監督ガナウェー兄弟の閉会の言葉を通して把握できるでしょう。「今年は香港の人々に証言する点で最も感動的な年となりました」と述べた同兄弟は,続いて7月には伝道者がもう一度新最高数271人に達し,1973奉仕年度中35人がバプテスマを受けたことを聴衆に告げました。それにしても,非常な励みを与えたのは,同奉仕年度中伝道者の半数が一時開拓奉仕に携わったという事実でした。7月の終わりには野外の奉仕活動のすべての面で既に新最高数が得られたことを聞いて兄弟たちは歓喜しました。しかも,8月の報告は含まれてはいなかったのです!
エホバの証人はこの難しい畑にあって大いに活気を呈し,大いに活動しています。証言を行ない,弟子を作るわざに懸命に努力しています。彼らはエホバがわざの速度を速めておられることを理解でき,またエホバがさらに多くの羊のような人たちの心を開いて真理を学べるようにしてくださることを確信しています。今交わっている大勢の新しい人たちのうちには,さらに増加をもたらす相当の可能性があります。「竹のカーテン」の背後にいる私たちの愛する兄弟たちについては,私たちはエホバのみ前で祈りのうちに彼らのことを思い起こせます。たまに漏れてくる消息は,彼らがその地で忠誠を保っていることを知らせてくれます。「大患難」が始まる前に中国大陸でさらに証言が行なわれるかどうかの問題は,私たちの愛の神エホバに委ねる以外にありません。
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第1部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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第1部 ― ドイツ
ドイツは人類史に甚大な影響を及ぼしてきました。ドイツ国民は勤勉な働き手また権威に対する従順という点で評判を得ています。それらの特質はこの国の経済成長の主要な要素に数えられており,それゆえに今日,人口6,000万余の西ドイツは世界の工業大国の一つとなっており,地上のあらゆる場所で交易を行なっています。また,その繁栄する経済上の必要を満たすため,近年ギリシャ,ユーゴスラビア,イタリア,スペイン,ポルトガル,トルコその他の土地から300万人余の「移住労働者」を西ドイツに招く必要が生じました。
ドイツの影響はまた,他の点でも波及しました。最初の世界大戦中,1914
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