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あなたは自分を役だてていますかものみの塔 1970 | 5月15日
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を維持するための仕事も時おり必要です。あなたはそういう仕事について何か知っていることはありませんか。こうしたら良いというような提案や援助はできませんか。会衆内の責任者たちは,あなたにそういうことができるのを知らないかもしれません。あなたはその人々に話されましたか。できるかぎりそういう仕事に加わりたい,と責任者たちに知らせるのはよいことでしょう。
またエホバの民の大会では,いろいろな奉仕が必要です。案内係,簡易食堂で働く自発奉仕者,清掃係,その他多くの仕事をする人々が必要です。あなたはこれらの部門のどこかで奉仕したことがありますか。あなたご自身その奉仕に参加されるならば霊的な,兄弟姉妹といっそう親しくなることができるでしょう。それと同時に,あなたの奉仕のために,すべての人が気持よく,便利に感ずるのです。
あなたはまた,会衆内の責任のある人たちが,会衆の仕事で大変忙しくしているのに気づいたことはありませんか。その人たちは雑誌や他の聖書文書を扱い,またいろいろな方法で会衆内の人々を助けていることでしょう。もしその人たちを手伝ってあげれば,彼らはもっと多くの事を成し遂げられるのではないだろうか,と考えたことはありませんか。男の人ならば,必要な時にはいつでも手伝いたいと監督に申し出ることができます。
心から喜んでする人は祝福される
主に関係したあらゆるよいわざに自らを役だてるとき,多くの喜びと満足が得られます。神の国の関心事を促進させる奉仕に心と手を忙しく用いて携わるならば,つまらないことや,まして悪事にかまっている時間などはありません。あなたが霊的兄弟姉妹との交わりのために行なう事柄はすべて純粋な愛のあらわれであり,これこそイエスが,わたしの弟子であることの明確なしるしである,と言われたものです。(ヨハネ 13:35)あなたが積極的に協力をしたため周囲の人々が楽しくしているのを見たり,あるいは,その人々が満足してエホバへの奉仕に励むのを見たりするならば,あなたはとても普通では味わえない幸福感を経験されるでしょう。(使行 20:35)またあなたの援助によって信仰を強められた人たちが,いまでは会衆内の若い人々を援助できる立場になっているのを見ることにも大きな喜びがあります。
また,あなたが積極的に奉仕されるならば,自分は完全な模範であるキリスト・イエスにならっているという自覚を持てます。キリストは生活を楽にする物を求めず,時には休息をさえ犠牲にして,天の父への奉仕に自分をささげられませんでしたか。(ヨハネ 4:5-34。マルコ 6:31-34)キリストは,父のみこころを行なっているということで十分満足できたのです。あなたも同じ満足を覚えることができます。
また,キリスト・イエスの使徒であったペテロやパウロなどに親近感がもてるのもすばらしいことです。使徒たちはみな,この古い事物の体制の野望や関心を捨てて,神の御子の同労者となることに喜びを見いだしました。彼らはあらゆる困難な情況のもとで,弱い者のささえとなり,苦しむ者の慰め手となって自らをささげ,熱心に働きました。あなたも神の会衆内で自らを役だてるとき,彼らと同じ思いを経験することができます。
そしてなかでも最大の報いは次の聖句に示されているものです。「神は不義に在さねば,汝らの勤労と,前に聖徒につかへ,今もなほこれに事へて御名のためにあらはしたる愛とを忘れ給ふことなし」― ヘブル 6:10。
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『すべての国の人々を弟子とする』ものみの塔 1970 | 5月15日
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『すべての国の人々を弟子とする』
エホバの証人の1970年度年鑑より
香港
人口: 4,000,000人
伝道者最高数: 225人
比率: 17,778人に1人
昨年,香港はかつてなかったほどの好景気に恵まれました。1967年の騒動からこのように急速に復興した事態をみて,これは香港が今までどおり,いつでも問題を克服する力のあることの証拠だと多くの人は見なしています。このため人々は偽りの安心感をいだき,自分たちの希望と信頼のすべてを物質に寄せています。しかし,香港のエホバの証人は違った考え方をしています。エホバの証人たちは時の緊急さと,御国のこの良いたよりを証として伝える必要に気づいているのです。昨奉仕年度中,兄弟たちの集会の出席はいままでにない熱心なものであり,宣教にも同様な熱心さで参加しました。そのため,円熟の度合いが明らかになり,宣教活動のほとんどあらゆる面で新最高数が得られました。
奉仕年度の終わる前に,「真理」の本の中国語版が届き,兄弟は大喜びでそれを受け取りました。すでにこの本を用いて,良い成果が得られています。簡潔で率直な書き方は正直な心の持ち主に訴える力があります。何度も旅行し,真理について14年間も知っていたひとりの中国人の主婦は「真理」の本を研究したとき,クリスチャンとしての自分の責任に気づきました。そこですぐに集会に出席しはじめ,宣教に参加し,エホバに献身しました。
ひとりの若い婦人は2冊の雑誌によって命へ通じる道を歩みはじめました。その婦人に雑誌を配布した宣教者は1週間後に再び訪問したところ,その婦人はすぐに聖書研究に応じました。3回目の研究の後,彼女は集会に出席するようにとの招きに答えました。そして,会衆のすべての集会に喜んで出席し,協会の他の出版物を読んだため,エホバとエホバの組織への感謝と愛の思いを急速につちかうことができました。この婦人は今では献身し,バプテスマを受けた伝道者であり,自ら聖書研究を司会してふたりの人を援助しています。
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読者からの質問ものみの塔 1970 | 5月15日
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読者からの質問
● 敵意をいだいている人に親切を示すのは,『そのような人の頭に炭火をかき集める』ことである,と箴言 25章21,22節(新)は述べています。これはどういう意味ですか。
箴言 25章21,22節は次のとおりです。「なんぢの仇もし飢ゑなばこれに糧をくらはせもし渇かばこれに水を飲ませよ なんぢかくするは火[“赤熱している石炭”,エレサレム聖書]をこれが首に積むなりエホバなんぢに報いたまふべし」。
敵意をいだいている人に善を行ないなさいというこのさとしは,聖書の中に何回も出ています。たとえば,モーセの律法は次のことを要求していました。「汝もし汝の敵の牛あるいはろばの迷ひさるにあはばかならずこれをひきてその人に帰すべし 汝もし汝をにくむ者のろばのその負の下にたふれふすを見ば慎みてこれを遺さるべからず必ずこれを助けてその負をとくべし」― 出エジプト 23:4,5。
イエスも同じ意味のことをわたしたちにさとしておられます。「汝らの仇を愛し,汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならんためなり」。使徒パウロも同じ気持ちでこうしるしました。「汝らを責むる者を祝し,これを祝してのふろな」― マタイ 5:44,45。ロマ 12:14。
しかし,箴言 25章22節の『火をこうべに積む』ということばは,21節に示されている親切心と矛盾するように思えますが,けっして矛盾していません。なぜなら,この聖句を書いた人が賢者であっただけでなく,彼はエホバの聖霊の援助と指示を受けて,神の霊感の力のもとにしるしたからです。それで,この聖句には意味があるはずです。
ここに用いられている比ゆ的な表現は,金属を溶解する古代の方法から取られていることにほぼまちがいありません。溶鉱炉では,熱した石炭床の上に原鉱を載せるだけでなく,原鉱の上に赤熱した石炭を積みました。原鉱の上に石炭を積むと,原鉱はやわらかくなって,金属と鉱滓の分離が容易になりました。それで,敵意をもつ人が何かに困り,援助を強く願っている時に,親切な行ないをされるならば,その人の心は和らぎ,良心のとがめと恥を感じ,かつ,その親切な行為により,彼の心にある良いものが引き出されるかもしれません。
敵意をいだく人の頭に燃えている石炭を積むなら,悪い結果ではなく良い結果がもたらされることは,使徒パウロがこの箴言を引用した直後に述べた次のことばから明白です。「悪に勝たるることなく,善をもて悪に勝て」― ロマ 12:20,21。
しかし,これらの比ゆ的な燃える石炭が敵意をもつ人の心を和げない場合はどうなりますか。「エホバなんぢに報いたまふべし」という箴言 25章22節の結びのことばから慰めと満足感が得られます。「赤熱した石炭」は敵意をいだく人を傷つける目的でのせられるのでも,その人が不快に感じるのをいじ悪く見つめるためでもないことは,この約束そのものから明らかです。高潔で正しいことを行なうなら,他人がそれを認める認めないにかかわらず,またそのことから直接あるいは直ちに益を受けるか受けないかに関係なく,エホバ神がそのことをご存じで,しかるべき時に報いてくださることを確信できます。わたしたちが仕え,喜ばせようとしている神は,そのようなかたではありませんか。
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