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「希望を与えてくださる神」にあって喜ぶものみの塔 1980 | 4月1日
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あざやかな予告編が示されています。「彼の上に必ずエホバの霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊,計り事と力強さの霊,知識とエホバへの恐れの霊である。また,エホバを恐れることに彼の楽しみがある。そして,彼はその目に映る単なる見掛けによって裁くことなく,単にその耳で聞くところにしたがって戒めることもない。それで,彼は必ず義をもって低い境遇にある者たちを裁き,廉潔さをもって地の穏和な者たちのために戒めを与える」。そしてこの預言は,神の民が今日すでに享受している,地の野獣が飼いならされるかのような平和そのものの霊的パラダイスの情景を描いてから,「地は水がまさに海を覆っているように,必ずエホバについての知識で満ちる」と述べています。何と輝かしい希望なのでしょう。「エッサイの根」,つまり王座につき「もろもろの民のための合図として立ち上がる」イエスに物を尋ねようと,諸国民の大勢の者たちが向かうのは少しも不思議ではありません。―1節から10節,新。
19 わたしたちが,特に今,希望にあって喜ぶべきなのはなぜですか。
19 多事多難だった1914年以来,人類は「事物の体制の終結」の時に住んでいます。「人の子」はあらゆるみ使いを従えて到来し,栄光ある天のみくらに座しておられます。その方は,裁きのため,また「羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分け(る)」ため,諸国民を集め始められました。これは諸国民と「やぎ」にとっては絶望的な苦難の時ですが,羊のような従順な人にとっては『救出が近づいているゆえに,身をまっすぐに起こし,頭を上げる』べき時です。―マタイ 24:3-8; 25:31-34。ルカ 21:26-28。
20 何を行なう面で,わたしたちは今,希望を抱いて忍耐できますか。
20 しかし,希望が自分にとって現実のものとなるためには,忍耐が必要とされます。今の「終わりの日」はその終結に近づいているのですから,わたしたちは物事をイエスと同じように見なければなりません。パウロの諭しにあるとおりです。「忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなたがた互いの間に持たせてくださるように。それは,あなたがたが同じ思いになり,口をそろえて,わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえるためです」。(ローマ 15:5,6)では,「それから終わりが来る」との確信を持ち,王国のこの良いたよりを「あらゆる国民に対する証しのために」宣べ伝えつつ,今後も「同じ思いになり,口をそろえて」忍耐のうちに仕えてゆきたいものです。(マタイ 24:13,14)そうです,「希望を与えてくださる神」,わたしたちの主権者なる主エホバに,揺るぎない確信を置くことができますように。
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「生ける希望」によって鼓舞されるものみの塔 1980 | 4月1日
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「生ける希望」によって鼓舞される
「わたしたちはそのためにほねおって働き,また努力しているのです。わたしたちは生ける神に希望を託しているからです。神はあらゆる人,特に忠実な者の救い主です」― テモテ第一 4:10。
1 なぜ神の言葉はわたしたちを行動へと促すはずですか。
「喜ばしい言葉」と『書き記された真実の正確な言葉』は神の言葉である聖書の中にあります。(伝道 12:10,新)これらの言葉が喜ばしいのは,特に,それらがわたしたちに生ける希望を抱かせるものだからです。その希望とは,主権者なる主エホバがみ子イエス・キリストを通してご親切にも準備してくださった王国の取り決めのもとでの永遠の命の希望です。(ヨハネ 3:16。ローマ 15:12,13)召集者の言葉にあるように,「賢い者たちの言葉は牛追い棒のようであり」,聞き手を行動へと駆り立てます。このように,神の言葉の中にある知恵と希望の言葉は,神の義の王国の関心事に仕える面で骨身を惜しまず精力的に働くようわたしたちを動かします。―伝道 12:11,新。
2 信仰の人々は何を待ち望んできましたか。
2 エホバが楽園に関する約束をなさってからというもの,神に信仰を持つ人々はメシアなる胤が蛇の頭を砕く裁きの日をずっと待ち望んできました。(創世 3:15。ローマ 16:20)それはサタンの世が裁かれる日であり,キリストによるエホバの王国に希望を託す人すべてが救出されることによってその極に達します。―テモテ第二 4:1,18。ルカ 21:28。
保証された希望
3 (イ)これはなぜ保証された期待ですか。(ロ)わたしたちの希望を公に宣明するよう鼓舞して然るべきものは何ですか。
3 聖書のヘブライ書の11章には,手本とすべき信仰を示した男女のことが列記されています。それらの人々は「望んでいる事柄に対する保証された期待」を抱いていました。彼らにとってその希望は現実的なものであり,「その都市の建設者また作り主(が)神」である,「真の土台を持つ都市を待ち望(み)」つつ,その希望に基づいて行動しました。自分たちの生きている間に約束の成就を見たわけではありませんが,「彼らは……それをはるかに見て迎え入れ,自分たちがその土地ではよそからの者,また寄留者であることを公に言い表わしました」。(ヘブライ 11:1,10,13)今日,王国は近づいていますから,その希望はもはや「はるか」なものではありません。ですから,わたしたちの希望を公に宣明すべき一層強力な理由があります。―マタイ 24:14,33。
4 エノクは何について預言しましたか。このことは今のわたしたちとどんな関係がありますか。
4 「望んでいる事柄に対する保証された期待」を抱いていたこれら忠実な人々の中には,今のわたしたちと同様,神の裁きの時に生きていた人々がいました。エホバは彼らを用いて,悪人に警告を与えさせました。例えば大洪水前の時代にエノクは,道徳的に腐敗した人々について,次のような預言を行ないました。「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである」。(ユダ 14,15)この裁きは,ひどく不敬虔な今の世に対する神の裁きを予表するものでした。
5 信仰の業においてノアはどんな模範を残しましたか。
5 それに,不敬虔な世に対するエホバの裁きの執行を生き残ったノアも,「義の宣明者」でした。(ペテロ第二 2:5)ノアは信仰の業を行なうために力を尽くし,「自分の家の者たちを救うために箱船」を造りました。『そして,この信仰によって,彼は世を罪に定めました』。(ヘブライ 11:7)ノアは今日のわたしたちの優れた模範です。まもなく「神の義の裁き」が表明され,「神を知らない者」が「主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」。その裁きの執行が迫っているのですから,今はどの時代にも増して,エホバの義をこの地に宣べ伝えるべき時です。―テサロニケ第二 1:5-10。
6 (イ)どんな昔の裁きが,「大患難」の確実性を裏書きしていますか。(ロ)どうすればその裁きから逃れられますか。
6 神の王国に対する希望を『公に言い表わした』人々の中に,アブラハム,サラ,それにイサクとヤコブがいます。アブラハムはソドムとゴモラに対する神の裁きの執行された時代を生き残りました。ソドムに(おいのロトのような)義人がわずか十人しかいないとしても,この都市が滅びることがないようにとアブラハムは願ってやみませんでした。最後にエホバは,「わたしはその十人のゆえにそれを破滅に至らせることはしない」と言われました。今日のわたしたちも,アブラハムのように,多くの人々が差し迫っている「大患難」での滅びを免れることを願っているかもしれません。しかし不敬虔な世は,楽園が回復する前に地を清めるため,ソドムとゴモラ同様どうしても滅ぼされなければなりません。神の裁きに生き残る唯一の道は「世のものとならない」ことです。それはロトとその家族が火による滅びを前にしてソドムから逃れたことに相当します。そして世の事柄に逆戻りすることは悲惨な結果を招くことでしょう。「ロトの妻のことを思い出しなさい」― ルカ 17:26-32。創世 18:22-32; 19:15-26。マタイ 24:21。ヨハネ 15:19。
7 エゼキエルの特権に似たどんな特権を今わたしたちは持っていますか。そしてそれについて何をすべきですか。
7 ヘブライ 11章でパウロが「望んでいる事がらに対する保証された期待」を抱いていたと述べる「雲のような証人たち」の中には,「サムエルやほかの預言者たち」もいました。これらの人々はエホバの言葉を知らせる点で何という勇気を示したのでしょう。(ヘブライ 11:32; 12:1)そのうちの一人エゼキエルは,背教したエルサレムに対するエホバの裁きに関する預言をバビロンで行ないました。その裁きは西暦前607年に執行されました。エゼキエルの使命が重大なものであったことは,幾度もエゼキエルに与えられた「エホバの言葉」に如実に表わされています。それは次のようなものです。「『さて見張りの者についてであるが,剣が来るのを見ているのに,角笛を吹き鳴らさず,民は全然警告を受けず,剣が来て彼らから魂を取り去るなら,自らの咎のためにそれは必ず取り去られる。しかしその血の弁済をわたしは見張りの者の手に求める』。さあ人の子よ,さてあなたについてであるが,わたしはあなたをイスラエルの家に対する見張りの者とした。あなたは必ずわたしの口から言葉を聞き,彼らにわたしからの警告を与えねばならない」。(エゼキエル 33:6,7,新; 3:17-21)わたしたちは今日,「剣が来る」のを見ていますか。現在の諸国民の間の「苦難」がハルマゲドンという神の戦いにつながるのは必至だということを認識していますか。もしそうなら,『警告のラッパ』を吹き鳴らし,人間の唯一の希望である神の王国に通じる道を人々に示さなければなりません。エゼキエルがかつて行なったように,現在の裁きの日に警告の業に携わることは,何という特権なのでしょう!―マタイ 24:3-8,14; 25:31,32。啓示 16:13-16。
『信仰の完成者』
8 警告を与えることに関して,イエスはどんな立派な模範を残しましたか。
8 パウロは,大勢の「雲のような証人たち」― その多くはキリスト教時代以前に警告の音信を宣べ伝えた ― のことを説明してから,「わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエス」に注意を向けています。この神のみ子も,裁きの日の間,神の王国を勇敢にふれ告げましたが,その裁きの執行は西暦70年のエルサレムの崩壊と共に到来しました。パウロは別の裁きの日に住むわたしたちに,圧迫を受けているときにはイエスの模範を「いっしんに見つめ」,「深く考え(る)」よう勧めています。それはわたしたち自身が,「疲れて,[わたしたちの]魂が弱り果ててしまうことのないためです」。―ヘブライ 12:1-3。ヨハネ 12:31。
9,10 (イ)イエスはどんな食物を最も貴重なものとみなしましたか。(ロ)何に関し,イエスは弟子たちに指示を与えましたか。
9 神のみ子ご自身以上に,エホバの王国の関心事のために熱心に働いた人はいません。この点でみ子は天のみ父の模範に倣っています。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」,と述べておられるからです。王国奉仕はイエスにとって物質的な食事以上のものでした。というのは,「わたしの食物とは,わたしを遣わしたかたのご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです。……さあ,あなたがたに言いますが,目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています。すでに,刈る者は報酬を受け取って永遠の命に至る実を集めて(います)」とも述べられたからです。―ヨハネ 5:17; 4:34-36。
10 イエスが述べておられたのは,「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていた」人々を収穫することでした。そしてイエスは,村や町を巡って王国の希望について教えかつ宣べ伝えながら,この収穫の業のための型を残されました。同時にそれは警告の業でもありました。イエスは十二使徒を送り出されるときに次の指示を与えておられます。「どこでも,人があなたがたを迎え入れず,またあなたがたのことばを聴かない所では,その家またはその都市から出るさいに,あなたがたの足のちりを振り払いなさい。あなたがたに真実に言いますが,裁きの日には,その都市よりもソドムとゴモラの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 9:35-10:15。
それより大きな業
11 イエスは刑柱につけられる直前に,どんな異例なことを語られましたか。
11 イエスは刑柱につけられる前夜,業を行なう点でご自分がみ父と密接に結び付いていることを弟子たちに話してから,次のことをつけ加えられました。「きわめて真実にあなたがたに言いますが,わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかもそれより大きな業をするのです。わたしが父のもとに行くからです」。(ヨハネ 14:9-12)イエスはどんな業のことを言っておられたのでしょうか。どうしてこの業が,み父と結び付いて働かれた神のみ子自身が成し遂げた業より大きなものとなるのでしょうか。
12 この「大きな業」は何であるとイエスは示されましたか。
12 イエスは死と復活の何日か後にガリラヤで弟子たちに現われ,これら「大きな業」とは何であるかを示して次のように言われました。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなたがたとともにいるのです」。40日間イエスは神の王国について弟子たちに教え続け,それから昇天する間際には,「聖霊があなたがたの上に到来するときにあなたがたは力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と述べられました。―マタイ 28:16-20。使徒 1:3-8。
13 使徒時代にはどんな「徹底的な証し」が行なわれましたか。
13 このようにしてイエスは,地の隅々にまで達する,証しをし教える業のことを話されました。ペンテコステの日に弟子たちの上に聖霊が注がれてのち,宣べ伝える活動はエホバの祝福のもとに開始されました。その結果,使徒たちの活動の書の中にひんぱんに出て来るように,「徹底的な証し」が行なわれました。この業で率先した人の一人に使徒パウロがいます。パウロはエフェソスで,クリスチャン会衆の長老たちに向かって次のように語りましたが,それは順当なことでした。「わたしは,なんでも益になることをあなたがたに話し,また公にも家から家にもあなたがたを教えることを差し控えたりはしませんでした。むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです」― 使徒 20:20,21,24; 2:40; 10:42; 23:11; 28:23。
14 (イ)西暦70年以前に宣べ伝える業はどの程度広がっていましたか。(ロ)働き人たちは「敬神の専念」をどう見ていましたか。
14 西暦一世紀のこれらのクリスチャンは,人々に警告を発し,「良いたより」を教える業に着手しましたから,ユダヤ人たちはエルサレムに滅びが迫っていることを十分に知らされていました。その滅びはイエスの預言にたがわず,西暦70年,驚くほど突然にやって来ました。(マタイ 23:37,38; 24:15-22)その裁きの執行が近づきつつあった時に,使徒パウロは,「良いたより」の希望が「天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」と書くことができました。(コロサイ 1:23)確かに,この「徹底的な証し」は,結果として,イエスの成し遂げられたものより大きな「業」となりました。では働き人となったのはだれでしたか。それは敬神の専念を生活の中で最優先する謙遜な男女でした。そうした人々は使徒パウロと同じように,次のように語ることができました。『敬神の専念はすべての事に益があります』,「それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです。……わたしたちはそのためにほねおって働き,また努力しているのです。わたしたちは生ける神に希望を託しているからです。神はあらゆる人,特に,忠実な者の救い主です」。(テモテ第一 4:8-10)彼らがその裁きの日に「徹底的な証し」を行ない,「大きな業」に携わったことは,神の豊かな祝福を受けました。
現代の証人たち
15 エホバの証人の活動はキリスト教世界の宗教活動とどのように異なっていますか。
15 「諸国民の定められた時」が1914年に終了した時に始まった,不敬虔な世に対する最後の裁きの時代に,証人たちの大群衆は,全地を覆い尽くしてエホバのみ名と王国を知らせました。彼らが自分たちの希望について証しするその方法はキリスト教世界のひんしゅくを買いました。イエスとその使徒たちがユダヤ人の宗教指導者から白眼視されたのと同じです。(ルカ 21:24。ヨハネ 7:45-52。使徒 5:27-29)エホバの証人は,神学校を出た少数の選り抜きの僧職者たちに依り頼んで,説教壇やテレビやラジオで自分たちを代表させるようなことはしません。むしろ彼らは伝道者たちの集まりであり,200万人以上の勢力を持ち,個人個人のレベルで証しを行ないます。心に取り入れた「良いたより」の希望を,家から家で,そして公の場所で,また非公式に知らせています。(使徒 5:42; 20:20,21。ペテロ第一 3:15)彼らはこの世が裁きの日を迎えており,「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」に直面するという警告を,忠実に鳴り響かせています。―マタイ 24:21,22。
16 エホバは今日ご自分の業を行なうためにどんな種類の人々を選ばれましたか。
16 このようにエホバのクリスチャン証人は現代において,イエスが地上におられる時に行なわれた業よりも「大きな」,つまりより広範にわたる業を,神の霊の助けを得て成し遂げました。彼らはそのことを自分の手柄とはしません。幸いなことに,その一人一人は,パウロが次に述べるような種類の人々であることを喜んでいます。「兄弟たち,あなたがたが自分たちに対する神の召しについて見ていることですが,肉的に賢い者が多く
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