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創造物の希望 ― その実現を待ち望むものみの塔 1980 | 7月1日
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創造物の希望 ― その実現を待ち望む
「希望……すなわち,創造物みずからも腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つようになることです」― ローマ 8:20,21。
1,2 わたしたちは,創造物である人間全体のために「空頼み」している世の人々とどのように異なっていますか。
人類の希望には根拠がないように思えます。そう考える人は少なくありません。
2 しかし一方,「空頼み」をしている人々もいます。実現を期待する根拠が全くないのに希望を持ちつづけています。しかし,わたしたちは,実現を期待できる確実な根拠のある輝かしい希望を持つ者たちです。この点でわたしたちは古代のある人物に似ています。
3 この点でわたしたちはだれに似ていますか。その古代の族長の,正しい根拠に基づいた希望はどのように実現しましたか。
3 その人物とは,アブラハムという名前の東洋人で,初めは,現在イラクと呼ばれているところに住んでいました。しかし彼は,自分の前に置かれた一つの希望を信じ,シナイ半島の北部にあるベエルシバという町の近くに移りました。アブラハムの場合,自分から幾つかの国民が出て来るという希望は,彼の妻サラが息子を生むということと不可分の関係にありました。アブラハムは高齢ですでに99歳,妻サラは89歳でした。普通ならば,このように非常な高齢で,息子が生まれるという希望はとても持てませんでした。しかしアブラハムは,約束をたがえることの決してない方,すなわち彼の神エホバから約束を与えられていました。ではアブラハムはどうしたでしょうか。神から与えられた希望をしっかりと保ちました。聖書には次のような歴史的記述があります。「達しがたい希望ではありましたが,それでも希望をよりどころとして彼は信仰をいだきました。それは,『あなたの胤はそのようであろう』と[神が]言われたところにしたがって,彼が多くの国の人びとの父となるためでした」。(ローマ 4:18)アブラハムの希望はむなしくなりませんでした。妻サラによって奇跡的に息子イサクを得たからです。こうしてイサクが誕生した結果,多くの国の人びとが生まれました。
4 (イ)すべての人間は何と切り離せない関係にありますか。これは現在生きている人々だけでなく,どのくらい昔の人々にまで関係がありますか。(ロ)地上の住みかを独りで歩き回っていたときの最初の人間についてどんな疑問が生じますか。
4 今日,すべての人間は,神から与えられた希望と切り離せない関係にあります。この希望は,現在の地上の住民だけでなく,地上の最初の人間アダムの直系の子孫にまでさかのぼる人間すべてと関係があります。エホバのみ業は優れたもので,この最初の人間は,心身共に全く完全なものとして存在するようになり,地上の完全な住みか,エデンの園に置かれました。その園には,完全な人間が幸福な生活をつづけていくのに必要なものがすべて備わっていました。人間の創造者である天の父は,人間の友となり,目に見えないところから人間に定期的に話しかけられました。それにエデンの園のアダムの周囲には陸上動物や鳥や魚などがたくさんいたので,寂しくなることはありませんでした。それにしても,アダムの天の父はなぜアダムをこの快適なパラダイスに置かれたのでしょうか。独りで歩き回る森林監督者または園丁となるためでしょうか。またアダムはいつまで生き,命の与え主のみ手から来るこの豊かな恵みを楽しむことになっていたでしょうか。
5 それらの疑問に対する答えはだれにかかっていましたか。そしてどんな適切な助言を完全なアダムは心に留めておくことができましたか。
5 そのことは全く自分次第であるということを理解する力をアダムは与えられていました。アダムの記憶力は完全でしたから,天の父から与えられた次の助言を忘れることはできませんでした。「園のどの木からでも,あなたは満足のゆくように食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから取って食べてはならない。それから取って食べる日に,あなたは必ず死ぬからである」― 創世 2:16,17,新。
6 神のそのご命令は人類にどんな道を開きましたか。アダムの子孫はどのように出現することになっていましたか。
6 神のこのご命令は,永遠に生きる道をアダムのために開きました。もしそれがアダムに対する神のご意志であるならばです。そのあとの記録が示しているように,アダムは実際930年生きました。しかし彼は無限に生きつづけようと思えばできたのです。わたしたちは今日,次々と死んで行きますが,そうなるようにしてしまったのはアダムでした。だれでも知っている通り,最初の人間は子孫をもうけました。そうでなければ,わたしたちは今日存在しなかったでしょう。といっても,ある種の植物の場合のように,今日の科学実験者たちが無性のクローニングと呼ぶ人間的でない方法でその子孫をもうけたのではありません。鳥類や陸生動物の場合のように,神はアダムのために彼と対をなす女性,つまり妻を創造されました。アダムのわき腹からあばら骨を一本取って彼女の創造をお始めになりました。最初の男と女を結婚させるに当たり,神は,パラダイスの地上で永久に生きる希望をふたりの前に置かれました。そしてふたりを祝福し,子孫をもうけて全地を満たすようにと言われました。彼らのパラダイスも全地に拡大されます。―創世 2:18-24; 1:26-28。
7 アダムとエバにとって,人間の事柄がどんな状態になることは思いもよらないことでしたか。人間の事柄がそういう経過をたどった責めをへびに負わせるべきでないのはなぜですか。
7 その時,全人類の前途の見通しは非常に希望に満ちたものでした。アダムとエバには,今日のわたしたちに臨んでいるような身体的,道徳的,社会的状況ゆえに,自分たちの子孫が『ともにうめき,ともに苦痛をいだく』ことなど思いもよらないことでした。命令に背いて善悪を知る木の実を食べることそれ自体はささいなことに思えたかもしれませんが,今日の状態をもたらしたものはそれでした。まだ子供が生まれていなかったときに,まずエバが,次いでアダムがそれを食べてふたりは罪を犯し,神から与えられた希望を粉々に打ち砕いてしまいました。何らかの方法で神が介入してくださらなかったなら,今日のわたしたちに希望は全くなかったでしょう。エデンのへびが問題に関係してきたのは事実です。しかし,すべてをそのへびのせいにすることはできません。聖書は,へびの背後に,へびを操る目に見えない霊者がいたことを指し示しています。それは何者だったのでしょうか。それは,アダムとエバがエホバ神を希望としないように妨げることを決意した一人の天のみ使いでした。
8 エバは欺かれて何をしましたか。今日わたしたちが元のエデンの園に住んでいないのはなぜですか。
8 その反逆的な陰謀家はへびを通して語り,エバを欺いて神のようになろうとさせました。そういう者になったエバは,自分で選んだ希望をふくらませました。それまでは夫のアダムが彼女に対する神の預言者でした。アダムは神の代弁者として行動し,禁断の木の実を食べてはいけないという神の命令のことをエバに伝えていました。しかし,禁断の木の実を食べることによって女神になることを目標としてからは,へびの預言者として行動し,その美しい声で自分の不法行為に加わるようアダムを誘惑しました。アダムはついに,神に恥辱をもたらすような理由で,偽女預言者である「妻の声に従い」ました。(創世 3:17,新)それでエホバ神は,不忠実な預言者アダムに正当な判決,つまり死を宣告されました。アダムの妻エバもその宣告下に入りました。今や死んだも同然になったふたりは,エデンの園から追い出され,未墾の地で残りの日々をなんとかして生きてゆかねばならなくなりました。アダムとエバの生殖器官の中にいてまだ生まれていなかったわたしたちも皆,ふたりと一緒に追い出されたのです。
9 アダムに対する神の命令に示されていた希望とは異なる希望が,意識的に罪を犯したその二人の人間に差し伸べられましたか。そしてわたしたち子孫に関しては,この事態はどうなりましたか。
9 この最初の律法違反者であるアダムとエバには,アダムに対する神のご命令の中に明示されていたものと異なる見通しは何も与えられませんでした。彼らは神から与えられた最初の希望を捨て去ったので,当然,何の希望も与えられませんでした。しかし事態は,彼らの子孫である責任のないわたしたちすべてにとっても希望のないままに放置されたのでしょうか。幸せなことに,わたしたちの場合はそうではありません。
神からの希望が差し伸べられる
10 エデンで最初に刑を言い渡されたのはだれですか。その者は何と呼ばれるようになりましたか。その者は予告された戦いでどうなりますか。
10 希望の言葉は,アダムとエバに個人的に語られたのではありません。彼らはそれをもれ聞いたにすぎません。わたしたちの希望の根拠となる事柄を含む神の言葉は,反逆した霊者に語られました。この霊者はへびを巧みに用いてエバを欺き,自分に仕える腕のよい女預言者にならせた者で,悪魔サタンという烙印を押されました。この者は,エデンにいたへびを用い,人を欺く目的でずるいことやごまかしを始めたので,「初めからのへび」とも呼ばれました。(啓示 12:9; 20:2)自らを神とし,神に背いて女に最初のうそを言ったこの霊者は,エデンで神から判決を言い渡された最初の者でした。神はその霊者にご自分ののろいを置くことを発表され,次いで戦いを予告されますが,それによると「初めからのへび」と彼に組するものはその戦いで敗北を喫します。
11 「初めからのへび」に下された判決の内容から,アダムとエバの子孫に関する希望はどのようにくみ取れますか。
11 「初めからのへび」に対して神は,「そしてわたしは,おまえと女との間,またおまえの胤と彼女の胤との間に敵意を置く。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」と言われました。(創世 3:14,15,新)このことは,「初めからのへび」とその子孫が滅び去ることを意味しました。しかし,神がお下しになったこの判決は,アダムとエバの後々の子孫が希望を持てる何らかの根拠を提供しますか。直接には提供していません。言外の意味を推し量らなければそれはわかりません。
12 サタンに対する神の言葉で,どんな「女」が登場しますか。イエス・キリストの母マリアがその「女」に該当しないのはなぜですか。
12 さて,ここで女が問題に関係してきます。この女はだれでしょうか。彼女は「初めからのへび」とその子孫に対して敵意と憎しみを示す者でなければなりません。「初めからのへび」の偽女預言者となったエバはこれに該当しません。彼女はエホバ神がうそつきだと言われてそれを信じました。イエス・キリストの母親マリアでさえも当てはまりません。このユダヤ人の乙女が,アブラハムの子孫としてユダヤの律法の下に生まれるまでには4,000年が経過します。彼女の初子イエスは,地上で33年半生活したにすぎません。奇跡的に授けられたこの息子に対して「初めからのへび」がカルバリで加えた仕打ちを見たとき,イエスの地上の母親はすでに生涯の大半を過ごしていました。したがって彼女自身が「初めからのへび」に対して敵意を示し得たのは,生涯の中でわずか二,三十年にすぎないことになります。
13 その「女」は,だれまたは何であるとしか考えられませんか。象徴的なへびとその子孫に対して自分がどんな立場に置かれたことを彼女は喜びましたか。
13 道理から言って,神の預言の中で言及されている女は,神がエデンで「初めからのへび」に話されたときに生きていてその話を聞いていたことでしょう。その象徴的な「女」は,エバの死後もずっと長く,つまり神がその「女」に約束の「胤」を産み出させる定めの時まで生きたことでしょう。それはエバの死から3,000年余り後のことになります。ですから,この象徴的な「女」は神ご自身の「女」,つまり「初めからのへび」の反逆に加わろうとしなかった聖なる霊者たちの,神に属する天の組織以外のものではあり得ません。彼らは神とその忠実な宇宙組織の婚姻関係を尊重し,神と離婚して「初めからのへび」と結婚する組織に加わるようなことはしませんでした。彼らは神が自分たちと「初めからのへび」の組織的「胤」との間に敵意を置かれたことを,非常に喜びました。
14 (イ)神の「女」は何を期待できるようになりましたか。それと共に女性は後ほどどんな経験をすることになりましたか。(ロ)わたしたちは生まれながらにして神の子どもという関係にありますか。それでも人類にはどんな希望が与えられていますか。
14 そのとき神は,エデンで,ご自身の妻のような天的組織の前に母としての見込みを置かれました。そのときから彼女はその「胤」の母となる希望を抱くことができました。その「胤」の父親となるのは夫であるエホバ神です。神の「女」にとってこの希望の実現は,4,000年間待つだけの価値のあるものでした。キリストの使徒ヨハネが啓示 12章1-5節で述べている幻の中の象徴的な女の場合のように,彼女はこのことのためにはどんな産みの苦しみをも辞さない覚悟でした。母親になるということは,成人した女性すべての正常な願いです。ですから,神の天の組織である「女」に母親となる希望が与えられても不思議ではありません。罪人となったアダムの妻エバが,エホバのあわれみによりエデンの外で母親となることを許される前に,神の「女」に母親となる希望が与えられたのは適切でした。しかし,神が罪深いエバに言われたことは祝福ではありませんでした。「わたしはあなたの妊娠の苦痛を大いに増す。あなたは産みの苦しみのうちに子を産む」。(創世 3:16,新。1:28と対照的)「女」の「胤」に関する神の預言についての情報を子孫に伝える点で,アダムは神の預言者として行動しませんでした。また妻のエバも神の女預言者として行動しませんでした。アダムとエバが創世記 3章15節に記録されている神の約束を信じていたかどうかにかかわらず,神は彼らの子孫にその約束を希望の根拠とさせることを意図しておられました。アダムは「神の子」として創造されましたが,不完全で罪に染まっているわたしたち子孫は,エホバ神の子として生まれて来たのではありません。(ルカ 3:38)それで当然のことながら,神の聖霊がわたしたち自身の人間の霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証しすることはありません。それにしても,わたしたちが神の子たちの家族に戻れるなんらかの希望があるのでしょうか。確かにあります。
15 今日,40億以上のわたしたち人間が依然として地上に生きているという事実は,人類の問題に関して何を示唆するものですか。
15 もしわたしたちに望みがないとすれば,神がアダムとエバに,非常に多くのわたしたち子孫ができることを許されたのはなぜでしょうか。彼らの子孫は現在までに優に100代を超えています。今日まで,病気や自然死のほかに,たくさんの戦争その他の大災害がありましたが,それでも現在42億余の人間が生きており,西暦2000年までには地球上の人間は60億になるものと予測されています。これはすべて空しいことだったのでしょうか。決してそうではありません。
16 (イ)人間自身は無力であるために,創造物の希望の実現はだれの実行能力にかかっていますか。(ロ)地上におけるだれの誕生と生涯は,人類の歴史に転換期を画しましたか。
16 もちろん人間は,“自力で向上する”ことはできません。しかし,望みがないように見えるにもかかわらず,創造物としての人間の状態には望みがあります。それは,人間自身に何かできるからではありません。この望みの基はすべて,神がその確かな約束に従ってすでに行なわれたこと,またこれから行なわれることにあります。神がアダムとエバから70余世代の人々が生まれることを許されたので,天におられた神の子が人間イエス・キリストとして生まれることが可能になりました。神のこのみ子は地上で,全人類の益となる神のご意志を遂行されました。このことは人類の歴史に一転換期を画しました。
自由の希望を持つ,「虚無に服させられた」創造物としての人間
17 ローマ 8章19-24節の中で,使徒パウロは人類が自らの空しい努力に服させられていることについてどのように書いていますか。また創造物がうめきつつ何を待っていることについて述べていますか。
17 イエス・キリストが地上での歩みを終えて天に昇られてから約23年後,キリストの使徒パウロは,イタリアはローマの会衆にあてて次のように書き送りました。「創造物[人間]はせつなる期待をいだいて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させたかたによるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物みずからも腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つようになることです。わたしたちが知るとおり,創造物すべては今に至るまでともにうめき,ともに苦痛をいだいているのです。それだけではありません。霊という初穂を持つわたしたち自身も,そうです,わたしたち自身が,自らのうちでうめきつつ,養子縁組を,すなわち,贖いによって自分の体から解き放されることをせつに待っているのです。わたしたちはこの希望のもとに救われたからです」― ローマ 8:19-24。
18 (イ)すべての人間を虚無に服させたのはだれですか。なぜそう言えますか。(ロ)人間の制度は今日わたしたちをどこに導きましたか。間もなく起ころうとしている事柄は,うめいている創造物が「せつなる期待」を抱いている事柄と同じですか。
18 創造物としての人間を虚無に,あるいはざ折に服させた方は神です。わたしたちは自分の意志で生まれて来たのではないので,自分の意志でそれに服したのではありません。神はアダムとエバには死を宣告されましたが,わたしたちが生まれてくることは神のご意志でした。(創世 3:16-24; 5:1-4)しかしわたしたちは,アダムとエバが「神の子ども」としてエデンの園で最初に持っていたような「栄光ある自由」を持って生まれたわけではありません。わたしたちは「腐朽への奴隷状態」のうちに生まれ,アダムの子孫全部に言い渡された死の宣告下にあります。(ローマ 5:12)そういうわけで人間は自分自身を救うことができませんでした。自らを救おうとする努力はいずれもきまって失敗とざ折に終わりました。人間のつくった政府のすべての努力はわたしたちをどこへ導いたでしょうか。向上心に燃える人類がもうけた社会・経済・金融・医療・科学などに関する制度は,今までわたしたちをどこに導いてきたでしょうか。人間は皆いまだに精神的に,肉体的に,また道徳的にも堕落したままの状態にあります。その上に現在では,海から飛び出したり,空から落下したりする大陸間弾道弾による核戦争は,すべての人間を突如滅ぼしてしまうことを意味するもののように見えます。これは,うめきつつある創造物の「せつなる期待」と言えるでしょうか。
19 神はどんな目的で堕落した人間を虚無とざ折に服させましたか。しかしどんな希望に基づいてそれをされましたか。
19 しかし,人間の創造者ご自身は虚無やざ折に服してはおられません。堕落した人類は創造者の目的をざ折させることはできません。したがって創造者ご自身がわたしたちの希望なのです。それで創造者は,わたしたちが自分自身にではなく創造者に信頼を置くことを望んでおられます。創造者は人間全体を人間の無力さに服させました。それはわたしたち人間が自分自身に希望を置く根拠を持たないようにするためでした。希望の唯一の源としての創造者は人類を虚無に服させましたが,そのことは希望に基づいていました。ローマ 8章20,21節には,「それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物みずからも腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つようになることです」とあります。
20 (イ)いわゆる「自由世界」は,「神の子どもの栄光ある自由」を享受していますか。(ロ)「創造物はせつなる期待をいだいて」何が表わし示されるのを待っていますか。
20 今日,ある政治イデオロギーを持つ支配者たちは,自分たちの世界を,対立する支配権の下にある国民とは対照的な「自由世界」として区別しています。しかし,相いれない政治グループがどんな主張をしようと,「神の子どもの栄光ある自由」を持つグループは一つもありません。神によってエデンで創造された時にアダムとエバが有していた関係に人類を戻すという希望を差し伸べているのは,主イエス・キリストの父なる神だけです。しかしこの回復は,神の側の将来の活動に待たねばなりません。これが何であるかは,「創造物はせつなる期待をいだいて神の子たちの表わし示されることを待っているのです」という使徒の言葉からわかります。(ローマ 8:19)ローマ 8章15-17節にこの言葉を記した使徒パウロは,自らをそれら「神の子たち」の中に加えています。
21 それら「神の子たち」の中の主要な方はだれですか。彼の「かかと」の傷はどのようにいやされましたか。ヘブライ 2章14,15節によると,それにはどんな目的がありましたか。
21 その特別の「神の子たち」は,創世記 3章15節に記されている,エデンにおける神の預言の中で語られている神の「女」の胤です。神の天的組織のその「胤」の中の主要な方はイエス・キリストです。神はこのイエス・キリストのかかとを「初めからのへび」が砕くのを許されたのです。それは西暦33年にイエスが刑柱上で死なれたときでした。しかし神は,その忠実なみ子を死後三日目に復活させて,かかとの傷をいやされました。人の子としてではなく,神の天の霊的子として復活されたので,イエスは神の天の「女」に再び迎え入れられました。このイエスは,ヘブライ 2章14,15節にあるように,「死をもたらす手だてを持つ者,すなわち悪魔を無に帰せしめる」のです。「それは,死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべてを解放するため」です。
22 神の「女」の「胤」の従属的成員はだれですか。
22 神の複合の「女」の「胤」の従属的成員は,イエス・キリストの弟子たち,すなわち神の霊によって生み出されて霊的「神の子たち」になり,彼らの長兄である天におられるイエス・キリストの共同相続者となる人々です。
23 ペテロ第一 1章3,4節によると,神は「胤」の従属的成員をどんな希望に生み出されましたか。その希望は,それから大分たった現在でも依然として効力がありますか。
23 使徒ペテロは,彼らが持つ天的希望を「生ける」希望として語り,彼らに対して次のように書いています。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられんことを。神はその大いなるあわれみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新しい誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です。それはあなたがたのために天に取って置かれているもので(す)」。(ペテロ第一 1:3,4)彼らのこの希望は今日も依然として『生きています』。まだ地上にいる残りの者たちに対してその実現が遅れているように思えるからといって,それは死んでしまったわけではありません。残りの者たちは,この希望が間もなく,彼らの父なる神エホバのお定めになった時に実現することを期待しています。使徒パウロは,ローマにあった,霊によって生み出された会衆あてに,「平和を与えてくださる神は,まもなくサタンをあなたがたの足の下に砕かれるでしょう」と書き,わたしたちに創世記 3章15節を思い起こさせています。―ローマ 16:20。
24 その「神の子たち」が表わし示されるのを切に期待しているのはだれですか。このことは,どんな出来事があったのちに生じますか。
24 近い将来に,神の主要な子イエス・キリストと共にこれらの「神の子たち」が「表わし示される」こと,これを「創造物[である人間]はせつなる期待をいだいて」ひたすら待っているのです。しかしその前に,天の父エホバ神が,ご自分の霊的子たちとその忠節な仲間たちに患難をもたらす反対者や迫害者たちの上に,近く「大患難」を解き放たれることをわたしたちは予期しています。―啓示 7:14,15。テサロニケ第二 1:6-10。
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わたしたちのすばらしい希望が確実に実現する理由ものみの塔 1980 | 7月1日
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わたしたちのすばらしい希望が確実に実現する理由
「神を愛する者たち……の益のために,神がそのすべてのみ業をともに働かせておられる」― ローマ 8:28。
1 この20世紀に,うめく創造物の成員の中で,何を知らされる人々の数が増えていますか。何十年かたった後の現在の彼らの希望はどんな状態にありますか。なぜですか。
20世紀になって,創造物である人間がますます多く,「神の子たちの表わし示される」ときが近づいていることを知らされるようになりました。今その人々は,間もなく何が起こるかを知っています。創造物である人間は,今に至るまであらゆる種類の『うめきや苦しみ』に服させられて来ましたが,それにもかかわらず,そのことを知らされ期待を抱いている人々は希望を得て喜んでいます。この「大群衆」が形成されはじめてから何十年か経過したにもかかわらず,彼らの希望もやはり生きています。それは「命の木」のように彼らの心の中で生きています。それというのも,その希望が,聖書に記されている神の約束に基づいているからです。―箴 13:12。啓示 7:9; 21:5。ローマ 8:19-22。
2 (イ)「大群衆」はエホバのどんな正当な地位が立証されることを祈り求めますか。(ロ)「あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るとき,彼らはどんな事が行なわれるのを祈り求めていますか。それはいつ果たされますか。
2 彼らは何よりもまず,創造者エホバの宇宙主権の正当性が早く立証されることを望んでいます。エホバがその創造物である全宇宙に対して主権を行使されるのは当然であることを,彼らは認識しています。したがって,「初めからのへび」,つまりエホバの主権を不当に評価して偽り伝え,人間という創造物の大半をその主権に背かせた悪魔サタンに,断固反対します。彼らはエホバに対して主の祈りを捧げ,「あなたのお名前が神聖なものとされますように」と言います。(マタイ 6:9,10)こうして,エホバご自身がご自分の名前を神聖なものとされることを祈り求めます。エホバは,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で頂点に達する「大患難」のときに,この祈りに答えられるでしょう。次いで「初めからのへび」とその「胤」である悪霊たちがすべて縛られ,底知れぬ深みに投げ込まれるでしょう。―エゼキエル 36:23; 38:16,23; 39:27。啓示 16:14,16; 20:1,2。
3 啓示 7章9,10節によると,希望に満ちた人々の「大群衆」は生き残ってどんな出来事を目撃しますか。
3 しかし,希望に満ちた人々の「大群衆」は生き残り,エホバの宇宙主権が立証され,エホバのみ名が神聖なものとされるのを,まのあたりに見るでしょう。ですから啓示 7章9,10節には極めて適切に,その後彼らが,正しさを立証された神のその王座と自己犠牲の精神に富むみ子イエス・キリストとの前に立ち,感謝を込めて,「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と言うことが,預言的に描写されています。
4 「大群衆」は,世の人々が持つような恐れを持たないので,世の権力者の前で,柔和な気持ちと深い敬意をもって何を行ないますか。
4 その「大群衆」は,「大患難」ぼっ発前の,世界が恐怖に身をすくませている今日のような状態の中にあっても,世の人々が恐れることを恐れません。彼らは勇気をもって,使徒ペテロの次の言葉に従います。「あなたがたの心の中でキリストを主として神聖なものとし,あなたがたのうちにある希望の理由を問う人のだれにも,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし柔和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」― ペテロ第一 3:15。
5 大群衆はマタイ 24章14節にあるイエスの預言の成就にどのようにあずかっていますか。マタイ 28章19,20節にあるイエスの命令に対して彼らはどんな態度を取りますか。
5 大群衆は,自分たちが持つ希望を,接触し得るすべての人に私心を捨てて分かち与えています。そのようにして,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」というイエスの預言の成就に参加しています。彼らがイエスの次の命令に従うことは,かつてない急務となっています。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし……彼らにバプテスマを施し……教えなさい」― マタイ 24:14; 28:19,20。
6 なぜわたしたちは,過去幾世紀もの間同じ希望を抱いていた昔のクリスチャンたちよりもずっと恵まれているのですか。
6 わたしたちが持っているような聖書に基づいた希望を持つ人はほかにいません。わたしたちが他の人々と分け合うことができるものは,最もすばらしいものです。わたしたちの希望は宝であって,大いに喜びとすべきものです。「希望によって喜びなさい」とわたしたちは告げられています。(ローマ 12:12)この希望が近く実現することをわたしたちは確信をもって期待することができます。忍耐強くその実現を待つことがむだに終わることはありません。昔のクリスチャンたちは,わたしたちが間もなくその実現を見ようとしている事柄を,楽しみにして待っていたに過ぎません。その希望のすばらしい成就を実際に経験するであろうわたしたちは,本当に恵まれています。
神のみ業は必ず益をもたらすように共に働く
7,8 (イ)わたしたちは無理な事柄の実現を期待しているのではありません。それはなぜですか。(ロ)この点に関してわたしたちは使徒パウロのように,ローマ 8章28-30節に説明されているどんなことを知っていますか。
7 もし神の言葉の中に書き記されている事柄であるならば,わたしたちは無理な事柄の実現を望んでいることにはなりません。聖書に書かれている事柄で神に不可能なことは何もないからです。神は全能であられるので,その輝かしい約束を果たせないということはあり得ません。わたしたちが神を愛し,従順によってその愛を証明するならば,神は必ずその良い約束をすべて輝かしい現実としてくださいます。西暦一世紀の使徒パウロと同じく,わたしたちはそのことを知っています。西暦56年ごろに書かれたローマ 8章28-30節の中で,パウロはこう断言しています。
8 「さて,わたしたちは,神を愛する者たち,つまりご自身の目的にしたがってお召しになった者たちの益のために,神がそのすべてのみ業をともに働かせておられることを知っています。a ご自分が最初に認めた者たちを,神はまた,み子の像にかたどったものとするようにあらかじめ定められたからです。それは,み子が多くの兄弟たちの中で初子となるためでした。さらに,神があらかじめ定めた者たちは,またお召しになった者たちでもあります。そして,お召しになった者たちは,ご自分が義と宣した者たちでもあります。最後に,神が義と宣した者たちは,栄光をお与えになった者たちでもあるのです」。
9 ジェームズ王欽定訳や幾つかの現代語の翻訳聖書では,ローマ 8章28節がどのように訳出されていますか。しかし,他の現代語聖書は新世界訳とどのように似ていますか。
9 ジェームズ王欽定訳聖書のローマ 8章28節は,「また神を愛する彼ら,神の目的に従って召された彼らに対して,すべての事柄が益となるように働くことを,わたしたちは知っている」となっています。この節がこれと同じような表現になっている現代語訳聖書はかなりあります。しかしバイイングトン訳の現代英語聖書では,「また神を愛する者たち,神の目的にかなって召された者たちに対し,神は益を図ってすべての協力をお与えになることをわたしたちは知っている」となっています。またロザハム訳のエンファサイズドバイブルでは,「わたしたちはさらに,神を愛する者たちに対し,神はすべての事柄を益となるよう共に働かせられることを知っている」となっています。ラティの訳した新約聖書は次の通りです。「神を愛する彼らのために,神はすべての事柄を益となるよう共に働かせられる」。―ショーンフィールド訳,信頼できる新約聖書,338ページ,2節も参照。
10,11 (イ)召された者の益のために神が共に働かせる業とは何ですか。(ロ)ローマ 8章28節に述べられている「すべての事柄」に,どんな個人的な行動を含めるべきではありませんか。
10 ローマ 8章28-30節に述べられている事柄はすべて神のなされる業で,人間の業ではありません。それは,神を愛する召された者たちの益のために神が共に働かせる神の業である,と記されています。神は彼らを王国に召され,そして彼らがそれを得ることを望んでおられるからです。しかし,バプテスマを受けたクリスチャンで天の王国を受け継ぐと主張するだれかが,天への召しにふさわしくない行為をするとすれば,神がそのような行動をその違反者の益となるように働かせられるということは期待できません。また,その行動が自動的にその人の益となるように働くことも期待できません。例えば,自分はクリスチャンであると公言する,天に召されている人が,レクリエーションのスポーツに熱を入れ過ぎて足の骨を折るとか足首をくじくとかした場合,神はそのけがをそのスポーツマンの益となるように働かせるのでしょうか。あるいは,召しを受けているクリスチャンが,少し弱くなって心が間違った方向に傾いているときに,好奇心から,あるいはほかの男たちが売春婦との不道徳な行ないに誘い込まれるのを見ようとして売春街を通り,自分自身が売春婦の誘惑の犠牲になって淫行に陥るとすれば,その経験をその罪人の益のために神が働かせることを期待できるでしょうか。そのようにして神を試すことは,益となるように働きますか。
11 そうした身体のけがや道徳上の悪がどんな結果に終わるかはすべて,当人がその不賢明な行ないの成り行きにどう対応するかにかかっています。その人はそういう苦い経験からある教訓を学ぶかもしれません。しかし,教訓を学べば,とりわけ神はその問題においてあわれみを示される可能性もあるのであるから,その事柄全体が神のみ業の一つとなる,と言えるでしょうか。もちろん言えません。そのようなことは,ローマ 8章28節の中でパウロが述べている「すべての事柄」に含めるべきではありません。
12 ローマ 8章29,30節に詳述されている神のみ業はすべて,どんな性質のものですか。パウロはそれらをどんな順序で述べていますか。
12 次の29,30節を読み,そこに詳述されている神のみ業に注目すると,あらかじめ定められ,召されたクリスチャンに対して働く神のみ業はすべて,例外なく良いものであることがわかります。また神のみ業は,神が物事を扱われる際のどの段階においても,王国相続者の益のために共に働きます。パウロはその段階を逆の順序で述べ,次のように書いています。「ご自分が最初に認めた者たちを,神はまた,み子の像にかたどったものとするようにあらかじめ定められたからです。それは,み子が多くの兄弟たちの中で初子となるためでした。さらに,神があらかじめ定めた者たちは,またお召しになった者たちでもあります。そして,お召しになった者たちは,ご自分が義と宣した者たちでもあります。最後に,神が義と宣した者たちは,栄光をお与えになった者たちでもあるのです」。
13 (イ)神は義と宣せられる人々に栄光を与えることをいつ行なわれますか。(ロ)人々を義と宣することはどんな根拠に基づいて行なわれますか。
13 神は栄光を与えることをいつ行なわれるのでしょうか。それは神が,今ご自身の右に高められているご自身の初子に関するすばらしい知識を,恵まれた者たちにお与えになるときです。そのようにして神は,天の栄光に至る道に彼らを置かれます。これは神の最初のみ業で,次に神は彼らを義と宣せられます。ただしこれは,彼らが全く無条件で自らを神に差し出す,つまり神に献身するほどまでに,栄光を受けられたキリストに信仰を抱くときに初めて行なわれる事柄です。
14 (イ)人はどんな方法により,神が「お召しになった」人々の中に数えられるようになりますか。(ロ)人はどのように,神に属する「あらかじめ定められた」人々の中に入れられますか。
14 次に神は,栄光を受けたみ子の,献身しバプテスマを受けた弟子を,『ご自分の愛するみ子の王国へと移す』ためにどんな方法でお召しになりますか。(コロサイ 1:13)神はその弟子をご自身の霊で生み出し,神の霊によって生み出された子とされるのです。そうすれば神は,天の王国の一員となるよう,そういう霊的子たちを召すもしくは招くことができ,天の王国は,最後に天における霊的命に復活する人々だけが享受することになります。(コリント第一 15:43-50)神は次のことをあらかじめお定めになりました。それは一団の兄弟,それも同じ神性を有し,初子であるイエス・キリストの像にかたどられた者である兄弟たちを,み子と交わらせるということでした。したがって,霊によって生み出された神の子どもは,召された後は,あらかじめ定められたクラスの一員となり,その中にあって,地上での死を迎えるまで忠実さを証明しなければなりません。神はこのクラスをあらかじめ定められましたが,そのクラスに入る特定の人を名指しで定められたことはありませんでした。神があらかじめお定めになったのは,キリストの天の兄弟の数は14万4,000人となるということでした。これに関連して個人の名前は一つも挙げられていません。―啓示 14:1-3。
15 神はいつ,どのようにして,あらかじめ定められた者たちを「最初に認め」られましたか。
15 ローマ 8章29,30節の中で使徒パウロが指摘しているところによると,神はご自分が栄光を,あるいは誉れと威厳をお与えになる,また義と宣し,召し,そしてあらかじめお定めになるクリスチャンのクラスを「最初に認め」られました。ずっと昔エデンの園で,ご自身の「女」の「胤」と,その「胤」が行なう勝利の偉業とについて預言をされたときに行なわれたのがすなわちそれでした。(創世 3:15,新)したがって,その「胤」が出現する何千年も前からその必要を認め,またその胤の特別の任務を認めていた最初の方は神でした。そのときから神は,その「胤」を生み出すご自身の責任を「最初に認め」られました。それでこのことは神のプログラムにおいて第一の事柄となりました。それゆえに神は,ご自分が「最初に認め」る価値があるとお考えになった事柄を,み子であるイエス・キリストというその「胤」と,このみ子の,霊によって生み出される忠実な弟子たちとを生み出すときまで,ずっとみ心に留めておられたのです。その「胤」の出現までの長い期間神はその胤をずっと予知しておられ,特別の好意をもってそれを認めておられたのです。
16 (イ)ローマ 8章28-30節に述べられている「すべてのみ業」の一つ一つは,どのようにその分を果たしますか。(ロ)それで,神が「ご自身の目的にしたがってお召しになった」者たちすべてにとって何が確実ですか。
16 したがって,ローマ 8章28-30節に詳述されている「業」は始めから終わりまでだれの業ですか。それらは神の「業」です。神は何事においても首尾一貫しておられ,矛盾が少しもないので,『神を愛する者たちの益のために,そのすべてのみ業をともに働かせておられる』のです。「そのすべてのみ業」の中の一つと言えども,神の他のすべての目的あるみ業からはずれていたり,一致していなかったりすることはありません。それらのみ業は秩序整然と進行し,一つの業は他の業につながってゆき,またその業のための準備となります。神の目的は壮大です。しかも神はそれを首尾よく達成する方法を正確にご存じなのです。ですから,神が「ご自身の目的にしたがってお召しになった者たち」は,神が決して失敗されないことを確信できます。常に忠実で骨身惜しまず神に協力するならば,彼らが天の王国においてイエス・キリストと働きを共にすることにより,神の目的の達成にあずかることは間違いありません。
予知されていたもう一つのクラス
17 召された者,あらかじめ定められていた者たちに関して,神は愛情に満ちたどんな目的を持っておられましたか。それはいつからのことですか。
17 神は,ご自身が「最初に認め」,お召しになった者たちによって果たされる愛情深い目的を有しておられます。この目的は,アダムの創造から2,083年後,すなわち西暦前1943年に明示されました。そのとき神は忠実な族長アブラハムに,「地の諸族は皆,あなたによって確かに自らを祝福するであろう」と言われました。ですからこの祝福は世界を包含し,アブラハムの「胤」を通して与えられることになっていました。(創世 12:1-3; 22:17,18,新)このあらかじめ定められた「胤」は,イエス・キリストと彼に属する14万4,000人の『召された』弟子たちで構成されます。(啓示 7:1-8; 14:1-3。ガラテア 3:16,29)神がアブラハムにお与えになった簡潔な約束は,神が「胤」のクラスを予知しておられたことを物語っていました。しかし彼らの明確な人数は示されませんでした。その数字を挙げているのは聖書巻末の本だけです。
18 キリスト以前の古い時代に,神は何を予表するために,あるいは預言的に例示するために,人や人々の集団をお用いになりましたか。
18 キリスト以前の古い時代に,アブラハムの生来の子孫を友として待遇した人や人々の集団がありました。神はそれらの人々を,まだ地上にいる『召された』者たちのわずかな残りの者の味方となり,仲間となる現代の人々の予型,もしくは預言的な例としてお用いになりました。
19 啓示 7章9-14節には,キリストの『召された』弟子たちの残りの者と交わる活動的な仲間たちが,どのように描写されていますか。近い将来に,どんな特権が彼らのものとなるはずですか。
19 西暦96年ごろに,キリストの使徒ヨハネが書いた聖書巻末の書には,『召された』者の残りの者たちと交わる活動的な仲間たちが,数えつくすことのできない「大群衆」として予告され,描かれています。この「大群衆」の成員は,来たるべき「大患難」,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」を生き残り,イエス・キリストと彼に属する14万4,000人の『召された』者たちの千年統治を受ける清められた地の新秩序に入ります。啓示 7章9-14節に記述されているこの「大群衆」についての預言的描写に関しては,1935年に,口頭や印刷物によって説明が行なわれました。―啓示 16:14,16。
20 1935年以来,大群衆を指し示す幾つの予型や預言が,ものみの塔協会の出版物の中で説明されましたか。彼らの希望は類のないものですが,実現することは確実です。それはなぜですか。
20 それ以後45年間に,ハルマゲドン生存者の「大群衆」を表わす,少なくとも42の予型もしくはそれの預言的描写が,ものみの塔協会の出版物の中で説明されました。(1955年発行の「ハルマゲドンを生き残って神の新しい世へ」〔英文〕,367,368ページを参照。)それらの予型や預言はすべて,神が,この予知されていた「大群衆」に対して,ひたすら良い事だけを意図されていたことを物語っています。それは,大群衆も神を愛しているからです。彼らの中には,神に対する揺るぎのない愛を進んで示し,殉教をさえ辞さなかった者たちが少なくありません。確かに,「大群衆」の前に置かれている希望は創造物としての人間の大多数には差し伸べられていないものです。彼らの希望は類のないすばらしいものですが,それでも確信を抱いて,その希望が早く実現することを楽しみにして待っています。彼らのこの生きた希望が失望に終わることはありません。希望を与える神は忠実であられるからです。彼らに対する神の次の約束は,信頼に値し,必ず成就するものです。「み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」― 啓示 7:15-17。
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