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    ものみの塔 1954 | 11月15日
    • 希望の力

      『私たちはこの希望で救われた。しかし,見える希望は希望ではない。人があるものを見るとき,それを希望するであろうか?』― ロマ 8:24,新世。

      1 希望の誉は,誰のところに捧げるべきですか? その希望は,どのように力でありますか?

      ヱホバは永遠の生命の大いなる源であり,『希望を与える神』である故に,希望はヱホバなしでは宇宙に存在しません。(ロマ 15:13,新世)人類歴史の中で最も暗い時,つまりアダムとエバがその創造者に対して反逆し,その子孫に罪と死をもたらしたとき,ヱホバは希望の必要を見られ,そして恵みの御心からその希望を給与されました。その崇高な希望は,約6000年程前に初めて示されましたが,いまや正義を愛し正義を求める人々に対し,強いまた保護する力で今日充たされております。その力は,神の書かれた言葉を理解することによつて活動づけられるのですが,クリスチヤンをして敬虔な行をなさせ,試みをうけるときはクリスチヤンを維持し,そしてクリスチヤンを導いて狭い路に安全に従わせます。その狭い路こそ,ヱホバの新しい世において終ることのない生命に導くものです。

      2 世界の情勢は,なぜそんなにも希望が無いように見えますか?

      2 ヱホバが正当な希望を人類に与えておられるならば,今日の世界の情勢はなぜそんなにもひどく希望のないように見えるのですか? なぜならば,悪い者である悪魔サタンは,多くの人類を盲目にし,真の希望を見させないからです。この狡賢いものは,偽の希望を考え出し,全地の人々の上にその希望をおしつけました。悪魔は巧妙にも自らを『光の天使』に変身して諸国民を騙しています。それで,『全世界は悪いものの勢力の下にある。』(コリント後 11:14。ヨハネ第一書 5:19,新世。コリント後 4:4)その結果は? 人々の満ち溢れている世界は,空虚な,餓えた,そしてぼんやりした希望を持つているのです。一般普通の人に,その人の希望は何であるか尋ねてごらんなさい。その答えは殆ど大低,不確実なものか,またはぼんやりとしている希望を表すものです。ある人は,その希望は金を得ることだと言いますが,しかしそれらの人々はヱホバの与える希望を持つてはおりません。なぜならばそのような人は,最高の裁判主の目から見るとき,犯罪者であります。『我もし金をわが望となし,精金にむかいて汝わが頼みなりと言いしことあるか? 我もしわが富の大いなると,わが手に物を多く獲たるとを喜びしことあるか? これもまた裁判人に罪せらるべき悪事なり。我もし斯くなせし事あらば,上なる神に背きしなり。』― ヨブ 31:24,25,28。

      3 人間の制度に希望を置くことはなぜ安全ではないかを説明しなさい。また諸国民は,なぜ『よろこびと平和』に欠如しているかを説明しなさい。

      3 人間の約束や,また国家の制度に希望を置く者は,『私たちはこの希望で救われた』と確信を以つて言うことができません。本当に,そのような人は,救いの希望をどうして持つことができますか? 明日の安全な世界を立てるという人間の立派な約束は,みじめにも失敗しています。人々はヱホバの与えた希望を無視しているため,その信頼している対照物は蜘蛛の巣のようです。もし人々がそれに依存するならば,それは立ち忍のぶことができません。『実にすべての人は,みなその盛りの時だにもむなしからざるはし。』と言われているのですから,最も賢明な人間の制度といえども,救いの希望の保証人にはなり得ません。(詩 39:5。ヨブ 8:14,15)それですから,人間の建てることのできる最も良い家や,または制度にしても,救いの希望に対する基礎としては,ただ蜘蛛の巣でしかあり得ません。『汝は彼の願いを蛛巣のごとくに拭いさり給う。実に,すべての人は息のようである。』(詩 39:11,ア訳)牧師たちは,アイゼンハワー大統領を賞揚して,その就任式の際に呼ばれたように,『新しい希望の建築者』と呼び,また牧師たちは政治家たちと一緒になつて国際連合を人類唯一つの希望であると賞揚していますが,しかし,諸国家は『全きよろこびと平和』で満されていないというあからさまな事実は,やはり依然としてそのままです。なぜ? なぜならば,彼らは『希望を与える神』を知らないからです。キリスト,イエスの言葉を聞いてごらんなさい。『正義の父よ,世は本当にあなたを知つてはいない。』(ヨハネ 17:25,新世)真の希望の唯一つの源であるヱホバを知らないのですから,富と人間の約束に基くこの世の希望は,消えて衰亡してしまいます。

      4,5 (イ)世界の腐敗の状態に対して,人間が神を非難する時,何が間違つていますか?(ロ)ヱホバは,『希望に基いて』創造物を無益に従わせられましたが,それはどのような仕方でなされましたか?

      4 永続する正義の新しい世というヱホバの約束は,決して衰亡することはありません。(申命 7:9。イザヤ 66:22)この現在にいたるまで,『アダムにある者は皆死んでいる』という事実にもかかわらず,これは意気を高め,解放を与える希望です。(コリント前 15:22,新世)どのように解放の希望ですか? なぜならば,新しい世とは,『創造物それ自体が束縛の状態と腐敗から解放される』ということを意味するからです。(ロマ 8:21,新世)現在の世の束縛の状態と腐敗に対して,人々はしばしば烈しく神を非難いたします。その間違いのことは,正しい見透しを得るために,彼らは聖書を調べないということです。アダムとエバが,その死の宣告が遂行される前に,子たちを持つよう許されたのは,全くヱホバの恵みある御親切によるのでした。もしそうでなかつたならば,私たちは今日ここに生存していないでしよう! しかし,アダムの罪の結果,人間は不完全と死の中に生まれました。(ロマ 5:12)もちろん私たちはそのような仕方を願いませんでしたが,人間はどうしてもそうならざるを得ないのです。使徒はロマ書 8章20節(新世)でこのことをこう説明しています。『創造物は無益に従わせられたが,それ自体の意志によるのではなく,希望に基いてそれを服従させた方によるのである。』全能の神は,人間のために何かをすることができると希望して人間の創造を無益なものに服従させたとこれは意味しません。いいえ,神は決して希望しません! 神は知つておられます!『世の初めからその業すべては神に知られている。』(使行 15:18)ヱホバはその御業について完全な知識を持たれますから,希望を持つなどという余地を許しいれません。

      5 しかし,それにしても,ヱホバは『希望に基いて』人類をどのように無益なものに従わせましたか? アダムとエバを死に宣告する以前に,エデンの園で宣告されたことを話すことによつてでした。ヱホバ神は裁判者として,不忠実な掩うことをなすケルブ,すなわちサタン悪魔と知られるようになつた霊者に話しかけられました。『私はお前と女のあいだ,またお前の裔と女の裔のあいだに敵意を置く。彼はお前の頭をうち砕き,お前は彼の踵をうち砕くであろう。』(創世 3:15,新世)ここに,全人類に対する最高の希望は約言されました。最高の神からの約束であつて,悪しきことを紹介した残忍なる者,つまり『死を生ぜしめる手段を持つものである悪魔』は,救助者によつて砕かれてしまい,存在しなくなるというのです。(ヘブル 2:14,新世)ここに,新しい世の約束がなされました。その新しい世で,人間は腐敗の無益な束縛から栄光ある自由と生命に解放されるでしよう! ―イザヤ 65:17。

      6 ヱホバは,どの理由のためにその愛する子を地に遣しましたか?

      6 神の愛する子,すなわち大いなる救助者になるようヱホバの選んだ者が地に来たとき,新しい世の希望はただに蛇を砕くことを意味しただけではなく,また従順な人類が永遠の生命のために『この希望によつて』救われることをも意味するということが明白になりました。イエスはこう言いました。『私が来たのは,彼らが生命を持ち,十分豊かに持つためである。』(ヨハネ 10:10,新世)神がその独り子を与え,そして苦しみの杭で死ぬのを許したのは,完全な新しい世のためだつたのです。(ヨハネ 3:16)よみがえされたキリスト・イエスが,その贖いの犠牲の価値を天の父に捧げ,ヱホバによつてそれがうけいれられたとき,新しい世のために基礎は置かれました。今日ヱホバの新しい天と新しい地という救いの希望に心の底からの信頼を置いているものは,新しい世の社会です。彼らの希望は,偽ることのできない神の約束に基いており,その生活をする際は彼らを支え維持して推進させる力です。希望はなぜ力であるかをいま調べてみましよう。

      希望の力を分析す

      7 希望を定義しなさい。希望は,単なる欲求よりもどのように力強いものですか?

      7 省略のないウエブスター新国際辞典によると,希望の定義はこうです。『欲求するものを得ることができるとの期待がつき従う欲求』というのです。それで,希望は二つの要素で成り立つています。すなわち,(1)欲求,そして(2)その欲求が実現されるまたは成就されるという感情。それで,人は鋭い欲求を持つことができますが,しかし希望を欠きます。その背景で,欲求が達成されるという可能性が殆どないという場合に,その欲求は希望ではありません。本当に,欲求は引き寄せます。しかし,希望はそれ以上のことをします。希望は人を促進し,人を推し進めます。希望は努力をするよう強くすすめます。

      8 希望のためには,なぜ根拠が必要ですか?

      8 希望するものを信ずるためには,確信と信頼のために土台,または基礎となるかたい,動かない根拠が是非ともに必要です。なぜですか? その理由は,私たちは希望するものを見ないからです。『見える希望は希望ではない。人があるものを見るとき,それを希望するであろうか?』(ロマ 8:24,新世)ここで,『見る』という言葉は,人の希望が達成されたという考えを含んでいます,というのは,そのとき人の目は実現を見るからです。ヨブ記 7章7節にこう書かれています。『我目はふたたび幸いを見ることあらじ。』欄外の翻訳(英文)には,『見ること,すなわち楽しむ』とつけ加えられています。

      9,10 (イ)希望の力はいつも成功に導きますか? 説明しなさい。(ロ)掩うことをなすケルブの希望は,失望に導きますが,それはなぜ確かですか?

      9 希望は私たちの見ないものです。それで,その希望の根拠によつては,希望は成功に導くこともあれば,失敗に導くこともあります。希望の活動を起させる力は,必ずしも成功に導かないということを示すために,自ら悪魔サタンになつた掩うことをなすケルブの例をとつてみましよう。この力ある霊者は,生命を支配する野心に一身を委ねました。それには成功する可能性があると信じたために,その野心は彼の希望になりました。その掩うことをなすケルブを動かし,その野心に充ちた行為の計画を行わせたのは,実際に希望の力でした。彼はヱホバの宇宙主権に反逆して,叛逆者になり,巧妙にエバを惑して同じく変節者にならせました。

      10 しかし,反逆を行つてヱホバの聖なる制度から離れ去つたサタンの高ぶつた心は,最高のようになるというその甘い希望を成就することは決してありません。サタンの希望は,悪く間違つていました。最初に,その希望は犯罪の欲求でつくりあげられました。第2に,欲求が実現されるという感情は,ケルグの智恵を腐敗させた盲目の誇りで感動されたのです。(エゼキエル 28:17。テモテ前 3:6)誇りが感動するそのような希望は,ただ亡びに導くだけです。(シンゲン 16:18)サタンはすでに,その手下である悪鬼たちと共に,天の高さから地のところにまで追い落されています。まもなくこの世の見えざる支配者は,ハルマゲドンのときに亡ぼされるでしよう。そのとき,王であるキリスト・イエスは死と同じような無活動の底なき坑にサタンを追い落します。(ヨハネ 12:31; 14:30。黙示 12:7-9,12; 20:1-3)掩うことをなすケルブの場合は,健全な基礎のない希望は決して成功に導かないということを説明しており,またあるものに対する欲求は,そのものを得ようとする感情と共になるとき,実際どれ程に強いものであるかということを説明しております。

      エバの希望,なぜに欠点あるもの

      11 希望の力は,エバを押し進めて,禁ぜられた木を食べさせましたか? どうしてそれを知りますか?

      11 サタンは蛇を通してエバを誘い,次の欲求でエバをじらし,そして禁ぜられた木を食べさせました。『あなたは決して死なないであろう。それを喰べたその日にあなたの目は必らず開き,また必らず神のようになつて,善と悪とを知るようになると神は知つているからである。』(創世 3:4,5,新世)エバは神のような知慧を得るというこの約束を実際に信じ,希望を持つ程になりましたか? そうです,エバは希望をつくりあげる要素をみな持つていました。エバはつけ加えられる知慧に対して欲求を持ち,その知慧を得ることを心から期待しました。それで,エバの欲求ははらんで希望を生じさせ,そしてその希望の力はエバを押し進めさせました。しかし,それは成功にむかつてではなく,亡びにむかつたのです。(ヤコブ 1:14,15)エバはその欲求をはらみ,知慧を得ようと期待して罪をつくりだしましたが,そのことは聖書からも明瞭に分ります。『アダムは惑わされなかつたが,女は全く惑わされ,罪を犯すにいたつた。』(テモテ前 2:14,新世)エバ自身も,盲目的に蛇を信じたということを認めました。『蛇は私を惑したので,私は食べました。』― 創世 3:13,新世。

      12 エバの希望は,なぜに欠点のあるものでしたか?

      12 エバの希望は,なぜ彼女を死に導きましたか? なぜならば,彼女の希望には健全な基礎がなかつたからです。もし罪を犯したならば,欲求したものが得られると希望しました。罪が希望の根拠でした。罪は蛇の約束したものを産み出すと信ずることのできる根拠をエバは持つていなかつたのです。蛇は信頼することができて,誠実なものであると証明する証拠は,全然なかつたのです。そのような証拠は,どうしてあり得ましようか? 蛇の話した言葉は,エバの創造者とは真向うから反対しているものでした。エバの創造者は『あなたがそれから食べる日に,あなたは必らず死ぬであろう。』(創世 2:17,新世)と言いました。蛇は,ヱホバの述べた言葉が真実ではないとは証明しませんでしたし,また蛇自身の言葉は真実であるという証拠を確立したのでもありません。それですから,エバにはその信仰についての健全な基礎はなかつたのです。エバの基礎は軽信でした。そして,軽信に基く希望はただ,将来にはどうなるかということについて,証明されない他の人の言葉または意見をとりあげることなのです。それでは,何が非常な欠点でしたか? このことです,エバの希望は,聖書が『信仰』と呼んでいるものに基かなかつたということです。

      13 希望に対する信仰の関係は何ですか?

      13 『信仰とは何か? 信仰とは,見ることのできないものを確信させる私たちの希望に実を与えるものである。』(ヘブル 11:1,ノックス訳)ここで『実』と訳されている言葉は,土台の基礎,つまり他のものがその上に立つ基礎になるものを指し示します。それで,ウエマスの翻訳(第3版)は信仰を定義して,信仰とは『私たちが希望するものについて十分根拠のある確証』と言つています。それでは,『確証』とは何ですか? それはかたい信仰である確信ですか? それ以上のものです。『信仰』という見出しの下に,ハンク・ワグネルの新標準辞書はこう述べています。『確信は論議または証拠によつて確立される信仰である。確証は論議すること以上の信仰である。』それで,新世訳の翻訳の深い意味をたしかに理解することができます。『信仰とは,希望することがらについての確証された期待である。』エバは,その希望したことがらについて,『十分根拠のある確証』または『確証された期待』を決して持たなかつたのです。それで罪に根拠を置いたエバの希望は,死に終りました。エバの希望は欠点のあるものでしたが,それでも駆動させる力を持つていました。それならば,信仰に基く希望は,どれ程に力あるものでしよう!

      希望は助けに来る

      14,15 (イ)ヘブル書 11章は,何についての例ですか?(ロ)クリスチャン時代以前のヱホバの証者たちは,どんな希望を持ちましたか?

      14 信仰に基く希望は,非難することのできない永遠の神の約束を持つています。すなわち,もし人が終りまで忠実を保ち続けるならば,その人の希望することがらは絶対確かに実現されるということです。ヱホバの初期の証者たちのが持つたものは,そのように十分根拠のある希望でした。使徒は,ヘブル書 11章の中で,そのような証者たちの希望について書いております。しかし,この章は信仰を説明している章ではありませんか? そうです。しかしまた信仰に基いた希望,その希望についての例でもあります! クリスチヤン時代以前のヱホバの証者たちは,新しい世を待ち望みました。アブラハムについて聖書はこう言つています。『彼は真の基礎を持ち,その建て主と創造者が神である都を待つていた。』(ヘブル 11:10,新世)このことは,アブラハム,イサク,そしてヤコブが天的の希望に対して待ち望んだという意味ではありません。そうではなく,新しい天の支配をうける地上の生命によみがえるということを希望したものでした。それで彼らの希望についてパウロはこう書いています。

      15 『これらの者はみな約束の成就をうけなかつたが,信仰を持つて死んだ。彼らはその約束を遠くから望み見て喜び,地上では寄留者であり,一時的の住民であると公やけに言い表わした。………彼らはより良い場所を求めているが,それは天に所属する場所である。』(ヘブル 11:13,16,新世)これらの人々のその希望は,天に行くことではなくして,王であるキリストの天的支配のあいだ地上で生活することであると知つていましたが,モーセもその一人でした。モーセはそのような希望を持つていましたので,将来のものを待ち望むという心を培いました。苦しみの下にいるとき,希望はモーセを鼓舞しました。本当にモーセは『罪を一時的に楽しむよりは,神の民と共に虐待されることを選んだ。なぜならば,キリストの故にうけるそしりを,エジプトの宝より勝る富と考えたからである。モーセは報いのされることを熱心に望んでいた。』(ヘブル 11:25,26,新世)モーセには,ヱホバの栄光で充たされる地を『熱心に』待ち望む当然の理由があつたのです。全能の神はその御自身の存在に誓いをかけてモーセにこう約束されたからです。『私が生きているように,全世界はヱホバの栄光で充たされるであろう。』(民数紀略 14:21,新世)『モーセはそのような約束を決して忘れませんでした。モーセは,サラのように,『約束した方は誠実である』と見なしました。』― ヘブル 11:11,新世。ハバクク 2:14。

      16 希望が,彼らの生活の中でどのように力であつたかを示しなさい。

      16 『雲のように多くの証者』は確信の希望を持つていましたので,彼らは世の一部ではないと公やけに言い表わしました。このために迫害が加えられ,ある時には苦しみが加えられました。くるしみをうけて,彼らの忠実は破れましたか? いいえ,希望が助けに来て彼らを救いました。『他の人々は,ある贖い代による解放をうけいれなかつたので,くるしみをうけたが,それは彼らがより良いよみがえりをうけるためであつた。』(ヘブル 12:1; 11:35,新世)正しい基礎を持つ希望からなんと元気づける力が生ずるのでしよう!

      よみがえりの希望の力

      17 彼らはなぜに『約束の成就を得なかつた』のですか?

      17 それら初期の証者たちの希望から切り離すことのできない部分は,よみがえりでした。彼らは古い世には背を向けて見ず,天的の政府の支配をうけて,再び二度と死ぬことのない地上の生命によみがえされることを待ち望みました。彼らは終りにいたるまで忠実でしたが,『約束の成就をうけませんでした。』なぜ? なぜならば,『神は私たちに対してより良きものを先見せられた。それは,私たちからはなれては,彼らが全くされないためである。』(ヘブル 11:40,新世)使徒の言葉によると,クリスチヤン会衆,すなわち丁度14万4000人の忠実な信仰克服者に限定されているキリストの花嫁とはなれては,彼らは『全くされ』ません。(黙示 7:4; 14:1,3)『雲のように多い証者』は,キリスト・イエスから始まつたクリスチヤン会衆の成員ではないので,『第一のよみがえり』である天的生命と栄光のよみがえりを希望することはできません。しかし,昔の忠実な人たちは,『義者』のよみがえりをうけます。それは,地上での初期のよみがえりで,死からよみがえされ,そして結局にはキリスト・イエスによる神の御国を通して絶対の完全を得ます。―使行 24:15,新世。マタイ 22:32,33。

      18 (イ)『生ける希望』は何ですか? 誰が今日,その希望を持つていますか?(ロ)その者たち以外に,誰が救の希望を持ちますか? 彼らはその希望を誰に負つていますか?

      18 イエスの足跡に従う忠実なクリスチヤン会衆は天で永遠の生命を得ますが,使徒ペテロは,その永遠の生命の希望を『生ける希望』と呼んでいます。『私たちの主イエス・キリストの父なる神が讃められますように,神は,その大いなる恵みにより私たちを新たに生れさせて,生ける希望を持たせ,イエス・キリストを死人の中からよみがえらすことによつて朽ちず,汚れず,また衰えないものを相続するようにされた。』(ペテロ前 1:3,4,新世)それらクリスチヤンのうち,まだ僅かな残れる者だけが地上におります。それらの人たちの生ける希望は,1000年のあいだ王となり祭司となり,キリストと共に天で統治することです。(黙示 20:5,6)それらの者たちは,死ぬと直に霊者となつて生命によみがえされ,『目の瞬くまに一瞬に変化されます。』(コリント前 15:51,52,新世)しかし,救の希望は,善意者の『大いなる群集』の生活の中でも力であります。『誰も数えることのできない程の大いなる群集は,すべての国々,種族,国民,そして言語から来て,御座と小羊の前に立ち,白い衣服を身につけていた。そして,彼らは手に棕櫚の枝を持つていた。彼らは大声で叫びつづける「救いは,御座に座られる私たちの神と小羊とにある。」』(黙示 7:9,10,新世)これらの者は,主の『他の羊』であつて,楽園の地での永遠の生命という希望は,ヱホバとまた小羊であるキリスト・イエスに負うています。というのは『キリストは,彼に従うすべての人に対して永遠の救の責任となられた。』― ヘブル 5:9,新世。

      19-21 (イ)なぜによみがえりの希望の力は,今日是非とも必要になつていますか?(ロ)この世は,新しい世の社会の持つ忠実をどのように見ていますか?

      19 油注がれた残れる者とその善意者の仲間の生活内で,よみがえりの希望は,どうしてそんなに強い力なのですか? その理由は,悪魔の制度からくる迫害が,どんなに多かろうと,苦しみであろうと死であろうと,彼らの忠実を破ることができないからです。よみがえりの希望は,彼らを支え維持します。アベルから洗礼者ヨハネにいたるまでの初期の証者たちは,『あざけられ,むち打たれ,本当にそれ以上にしばりあげられ,投獄され』ても,その忠実を保ちました。それと同様に,そのような試錬が来るとしても新しい世の社会は忠実を守るでしよう。(ヘブル 11:36,新世)本当に,新しい世の社会は忠実を守ります。主は現在を予言して,『人々はあなた方をくるしみに渡し,殺すであろう。あなた方は私の名のためにすべての国民より憎まれるであろう。』と言いませんでしたか? ―マタイ 24:9,新世。

      20 第二次世界大戦のあいだ,ヒトラーの収容所に投獄された幾千というヱホバの証者は,その信仰を否認して解放を得ようとはしなかつたのです。信仰を否認して解放を得るならば,彼らは希望を失うということを意味します。新しい世の希望を持つている者は,共産主義者または『民主主義』の独裁者たちによつて投獄されたり,または苦しみを受けようとも,『ある贖い代でもつて解放を受けません。将来には,マゴグのゴグによる北の極からの攻撃をうけるのですから,ヱホバの証者はよみがえりの希望という支えの力が必要です。『その魂を見出す者はそれを失い,私のためにその魂を失う者は,見出すであろう。』(マタイ 10:39,新世)この世は,希望の力を理解せずまた経験もないので,新しい世の社会の持つ強くて屈しない忠実に多く驚いています。ある人は,ヱホバの証者について次のように書き,その驚きを表しました。

      21 『初めてヱホバの証者を研究し始めた時,幸運なことにアメリカの民事自由組合の一顧問から素晴らしい援助をうけることができた。その調査についての紹介の言葉として,その顧問は実際にこう言つたのである「その宗教的な確信のために,本当によろこんで死のうとする人を恐らく見たことはないであろう。事柄を行うときの我々のごまかしの仕方とか,また絶体の必然を取り扱うことなどがないように見える我々の心意からして,我々現代人は,人間の生命を与えるべき程のものは何もないと考える。しかし,証者たちと会うとき,その宗教的な信仰のためによろこんで迫害をうけ,そして殺されることをも辞さない人々と,恐らくは初めて会うことになる。」そのとき,私はそのことを十分に信じなかつたが,いまでは信じている。』この世は,ヱホバの証者の忠実になぜそんなにも驚いていますか? この世の人々は,なぜ曖昧な希望や,『絶対の必然を決して取り扱うことなどがないように見える心意』を持つのですか? なぜならば,この世は『希望を与える神』ヱホバを知らないからです。

      22 (イ)残れる者と『他の羊』の期待を述べなさい。(ロ)ハルマゲドン前に死が生じようと,希望は生残者たちにとつて,どのように力となりますか?

      22 ヱホバの御旨にしたがつて,油注がれた残れる者はハルマゲドンの後でもある期間のあいだ地上で奉仕し,そして他の羊は,ハルマゲドンでこの組織制度の終る時から,さらに新しい世で永遠の時にわたつて,ずつと死ぬことがなくヱホバに奉仕すると期待されております。しかし,ハルマゲドン前でも自然の原因やまたは忠実を守るために,死が生ずるでしよう。忠実な残れる者たちにとつて,死は天的の希望を直に得ることを意味します。他の羊にとつて,死は「生命のよみがえりに」出てくるまでの短い眠りを意味します。(ヨハネ 5:29,新世)どちらの場合にしても,よみがえりの希望の力は,この世によくある悲しみや,またヒステリーのような悲哀というものをなくしてしまいます。『兄弟たちよ,死んで眠つている者たちについて無知ではないようにと願う。それは,希望のない他の人々のように,あなた方が悲しまないためである。』(テサロニケ前 4:13,新世)それで,霊的な残れる者の善意者の仲間である『大いなる群集』は,ハルマゲドンの戦争を死ぬことなく生き抜けようと,またはハルマゲドンの後に死からよみがえされようと,完全な人間として神の完全な像と状に達するという約束を固く希望いたします。

      23 希望は是非必要なものですか? 説明しなさい。

      23 神の言葉の正確な知識を得,そして過去と現在における神と神の御業を十分知ることにより,信仰の上に正しく基礎づけられる希望は,本当に力であります! 希望は,生命の与え主,ヱホバに対する私たちの愛を富まします。希望は,苦しみの時に慰めを与えます。希望は,『人々が地上に来らんとする事柄を心配し予期するために気を失う』ときに,心の平和を与えます。(ルカ 21:26,新世)希望は,私たちに強くすすめて忠実を保たせます。希望は私たちの究極の救いをもたらすものです。『私たちはこの希望で救われた。』希望は是非必要なものです。私たちは,希望なしで,生活することはできません。もし生活できるならば,パウロはクリスチャンにとつて必要なものを基礎的な二つのもの,すなわち信仰と愛に減じたことでしよう。しかし,だめです! パウロは希望もまた欠くことのできない必要なものであると知つていました。『信仰・希望・愛・この三つが残る。』(コリント前 13:13,新世)使徒は信仰をひきのばして,希望の内容を信仰の中に含ませようとはしなかつたのです。使徒は,忍耐の試験が将来にあると知つており,希望は私たちをして忍耐せしめることのできる強い力であつて,『見えるものではなくして,見えないものに目を注がせる』ものであると知つていました。―コリント後 4:18,新世。

  • 希望による忍耐
    ものみの塔 1954 | 11月15日
    • 希望による忍耐

      『前にある希望をいだいて大いによろこびなさい。患難の下にあつても忍耐し祈りのうちに耐えなさい』― ロマ 12:12,新世。

      1 どんな気持を持つことによつて円熟したクリスチャンは未熟な伝道者と違うのですか? それで,希望の力から誰が利益を十分に得ますか?

      円熟したクリスチャンは前を見ます。円熟したクリスチャンは,現在の世の組織制度の先きを見,ヱホバの御意を行おうと努め,そしてその心は新しい世の生活に適応しております。円熟していないクリスチャンは,この世の組織制度の中で興味を感ずるものを多く見ます。そのようなクリスチャンは,まだ自分勝手な我儘の道を欲します。その心は,自分自身の利害に適応しています。永遠の生命という希望をつかむためには,円熟が必要です。それは,ヱホバの僕がその心を前にある希望にむかつてつねに向けることができるためです。それで,将来を抱括することによつて現在を抑制するという希望の驚くべき力を十分に用いることのできるのは円熟したクリスチャンです。希望は,私たちの生活を現在抑制することにより,私たちの意気を高める力となり,その力は忍耐を生ずるものです。『私たちが見ないものを希望するならば,忍耐してそれを待ち続ける。』― ロマ 8:25,新世。

      2 忍耐が何であるかを説明しなさい。また私たちはなぜ忍耐を必要とするかを説明しなさい。

      2 ヱホバの奴隷が持つ忍耐とは,次のような決意を意味します。すなわち環境がどんなものであつても,その者は神の言葉が正しく提供する希望を決して棄てないということです。別の言葉で言うならば,それは,私たちの信仰の船が決して破船せず,新しい世の港というその目的地に必らず達することを意味します。私たちが航海をするときに用いる海図,つまり聖書はこのように警告しています。『あなた方は忍耐をする必要がある。それは,あなた方が神の御意をなし得て後に,約束の成就をいただくためである。』(ヘブル 10:36,新世)私たちの希望を築きあげ,かたくする仕方を学ぶのは価値あることです。それは,信仰と愛とともに,この実を結ぶ円熟を産出すためです。『私たちは,信仰によるあなた方の業と,愛によるあなた方のつらい努力と,そして希望によるあなた方の忍耐を絶えず心に留めている。』― テサロニケ前 1:3,新世,脚註。

      3,4 (イ)どのようにして,希望は私たちの忍耐を助けますか?(ロ)希望はイエスを助けて,忍耐の試験を通らせたということを示しなさい。

      3 希望は,よろこびの基礎になります。本当に聖書にある命令は,私たちがよろこびで充たされることです。『前にある希望をいだいて大いによろこびなさい。』(ロマ 12:12,新世)よろこびは,私たちの希望から湧き出ます。そしてこのよろこびは,私たちの忍耐を産み出します。キリスト・イエスは,希望,よろこび,そして忍耐が互いにどのように働くかについて完全な例を与えました。イエスの希望は,彼の測ることのできない程の大きなよろこびの基礎となりました。イエスの希望? そうです,イエスは,はつきりした希望を持つていました。『父よ,世ができる前に,私がみそばで持つていた栄光でもつて,みそばで私に栄光を与えてください。』(ヨハネ 17:5,新世)しかし,キリストの希望は,彼が人間になる前の存在を得ようとすることよりも,もつと大きなものでした。というのは,彼の希望は『畠に隠されていた宝』すなわち神の宇宙的制度の領域内に隠されていた宝を買うことでした。その宝とは,つまりヱホバの首府制度の長のことでした。彼の希望は彼を押し進め,よろこびをもつて行わせました。『そのよろこびのために,彼は出かけて行つて,持つているものを売り,そしてその畠を買うのである。』― マタイ 13:44,新世。

      4 イエスがもし現在だけを見たのであるならば,彼の直面した苦しみの試錬を決して耐えられなかつたでしようし,忍耐の試験を首尾よく通ることもなかつたでしよう。しかし,彼の心は完全に円熟していました。彼は前にある希望を持つて非常によろこびました。その結果,彼のひどいくるしみは『瞬間的で軽い』ものでした。それと同じくキリスト・イエスの心持ちを持つ弟子たちのくるしみも『瞬間的で軽い』ものです。(コリント後 4:17。ピリピ 2:5,新世)キリストの希望はよろこびをもたらし,そしてそのよろこびは忍耐をもたらしたということについては疑いありません。『私たちの前に置かれている競争を,忍耐しつつ走ろうではないか?。信仰の指導者であり,完成者であるイエスをしつかりと見ながら走ろうではないか。彼は,その前に置かれていたよろこびのために苦しみの杭を耐えられたのである。』(ヘブル 12:1,2,新世)私たちは忍耐をする為に,その前にある希望に大いによろこんだというキリストの例を『しつかりと見』なければなりません。

      5 ヱホバの僕たちは,なぜよろこびながら試錬に耐えることができますか?

      5 使徒たちは,ひどい試錬に会つたときになんと心からよろこんだのでしよう!『彼らは使徒たちを呼び出して,鞭うち,イエスの名によつて語るのは相ならぬと申渡して放免した。使徒たちは,イエスの名のためにいやしめられるにふさわしい者とされたのをよろこびつつ議会から出て来た。』(使行 5:40,41,新世)使徒たちは,鞭うたれながら,どうしてその鞭打ちをよろこぶことができましたか? なぜならば,使徒たちはよろこびを出す希望を持つていたからでした。また,ひどい試錬を通過しましたので,よろこびを感ずる理由もありました。そして,試錬を通過することにより,忍耐を生み出しました。『私の兄弟たちよ,いろいろな試錬に会うとき,それをみなよろこびと考えなさい。あなた方が知つている通り,信仰が験されることによつて忍耐が生み出されるからである。』(ヤコブ 1:2,3,新世)ヱホバは希望の源である故に,またよろこびの源であります。『ヱホバのよろこびは,汝らの力なり。』(ネヘミヤ 8:10,ア標)私たちが『祈りのうちに耐えて』神の御霊を願い求める時には,御霊の果である喜びは,私たちに豊かに与えられます。神の御霊は,私たちの希望を富まします。

      私たちの希望を固くする

      6 どのような手段によつて,私たちは希望を建てますか?

      6 希望を建てるためには,知識と理解を必要とします。新しい世にふさわしい生活をするすべての人は,定期的な聖書研究を取り極め,毎日聖書を読むべきです。これによつて,私たちの希望を強める慰めがもたらされます。『以前に書かれたすべての事柄は,私たちを教育するために書かれたもので,私たちの忍耐とそして聖書から来る慰めによつて,私たちが希望を持つためである。』(ロマ 15:4,新世)『聖書からの慰め』の他に,私たちの希望をかたくする別のものがあります。それは忍耐です。希望は私たちの忍耐を生み出すとは,すでに言いました。それは真ですが,しかし忍耐も希望を産み出します。両方のものは,相互的な仕方で作用します。希望は忍耐を産み出し,そして忍耐は今度私たちの希望を建てます。

      7,8 (イ)試錬や苦難についての円熟の見方は何ですか?(ロ)ヱホバは,希望に基いて,どんな勝利の組み合わせを与えられていますか?

      7 それでは,ヱホバの忠実な民の上に来る迫害やくるしみは,益のない無価値なものですか? 全然そうではありません! むしろ,忍耐したあらゆる試錬は,私たちの希望を強め,そして私たちの希望をより確かなものにいたします。それですから,試錬が私たちに来るとき,『それをみなよろこびと考える』ことができるのです。あらゆる試錬は,どのように希望をかたくしますか? 忠実を守るときに,私たちは神をよろこばせているということが心から強く認識できます。この神をよろこばす状態こそ,私たちの希望を築き上げるものです。希望は,ある種の『連鎖反応』過程の結果としてかたくされます。

      8 『神の栄光にあづかる希望に,よろこび合おう。それだけではなく,苦しみにもよろこび合おう。なぜなら,苦しみは忍耐を産み出し,忍耐は今度神をよろこばす状態を産み出し,神をよろこばす状態は今度希望を産み出す。そして希望は失望に導かないと知つているからである。』(ロマ 5:2-5,新世)ヱホバはなんという勝利の組み合わせを与えられているのでしよう! 忠実が保たれるならば,苦難や投獄はただ希望を建てるだけです。そして,信仰に基いていて,霊的食物や忍耐でもつてつねに固くされる希望は,決して失望に導きません。ヱホバの証者は,将来にある希望によろこんでいて,ヱホバのハルマゲドンの勝利という勝利の感動とよろこびをすでに経験することができます。実際に,私たちはキリストによつてすでに導かれ,その勝利の列に入つているではありませんか? ―コリント後 2:14。

      9 悪魔は何をしようと努めていますか? しかし,私たちが忠実を守る時,彼の戦術はどのように悪魔の意向と反対に働きますか?

      9 新しい世の社会は,希望のない世界をその背後に残しました。(エペソ 2:12)『この世の組織制度の神』サタンは,希望を与えることができません。サタン自身にも希望が無いのです。(黙示 12:12)それですから,悪魔は新しい世の社会が持つている確かで力強い希望を羨んでいます。悪魔は,迫害という手段により,卑しい方法で私たちの希望を打ち砕こうと努めています。しかし,概して悪魔はみじめにも失敗しております。ヱホバの民が忠実を守る時,悪魔の戦略はつねに悪魔自身の意向に反対して働きます。苦難によつて,勝を得るものは私たちだからです。それは,良いたよりをさらに押し進めるばかりでなく,パウロが言いましたように,『初めのころを思い出させる。そのころ,あなた方は啓発された後に,苦しみの下に大きな戦を耐え忍んだのである,時には,そしられ,苦しめられて見せ物にされたこともあれば,また時にはそのような経験をした人々の仲間にされたこともある。』(ヘブル 10:32,33,新世)そうです,私たちは多くのものを得て,私たちの希望が立て起されますので,使徒パウロは,耐え忍んだくるしみを『思い出すように』と申しています。新しい世の社会にいるあなた方で,いまくるしみをうけている人は,この『一時的で軽い』くるしみが去つた後には,その試錬を振り回つて見て,益を受けたと感ずるでしよう。その試錬は,あなた方を神の心にかなうものとし,あなた方の希望をかたくいたしました。

      私たちの希望 ―『魂の錨』

      10 なぜ私たちは『強いはげましを得て,前にある希望をつかむ』ことができるのですか?

      10 はつきりとしない不確実な証拠に基く希望は,強いはげましを与えることは殆どないため,そのような希望では,悪魔の支配する世の怒りを刺戟させるような仕事を成し遂げることはできません。深く感謝すべきことに,私たちの希望はその約束が確かな方,または偽りを言わない方に依存しているということなのです!『人間は自分よりも大いなるものによつて誓いを立て,そしてその誓いはあらゆる論議を終らせるが,それは人間にとつて合法的な保証であるからである。これと同じく,神はその約束の相続者たちに神の目的が不変であることをより豊かに示されようとし,誓いをもつて立ち給うた。それは,偽ることのできない神の定められた二つの不変の事柄によつて,のがれてきた私たちが強いはげましを受け,前に置かれている希望をつかむためである。』その希望とは『永遠の生命の』希望です。(ヘブル 6:16-18。テトス 1:2,新世)私たちの希望を宇宙の大いにして,動かざる岩に錨を下ろすとき,なんという強いはげましを受けることができ,『前にある希望によろこぶ』ことができるのでしよう!(申命記 32:4)ヱホバは限りあるもので誓われていないということを記憶しなさい。限りあるものは,多分消滅し,その誓いの責務はなくなつてしまうことでしよう。しかし,ヱホバは,無限であつて,消滅しないもので誓われており,その誓いをもつて『合法的な保証』を与えられているのです。ヱホバは,宇宙で一番大いなる方,すなわち変ることのない御自身を指して誓われているのです! ―マラキ 3:6。

      11 パウロは,前にある希望をどのように説明していますか? なぜそうですか?

      11 私たちは,鋭い理解の心をもつて,前にある希望についてのパウロの次の言葉を読みます。『この希望は,私たちにとつて魂の錨であり,安全にして確かなものである。』使徒は,形容の言葉で希望を『魂の錨』と語つています。パウロは破船を3度経験しており,また錨の価値をたしかに知つていたのですから,その用法はパウロにとつてなんと全く自然なものだつたなのでしよう!(ヘブル 6:19,新世。コリント後 11:25)錨は海の底におろされて,嵐のあいだでも船を固定させ,船が海にまた流し出されたり,または岩にぶつからないようにするとパウロは知つていました。(使行 27:29)その錨がかたくおろされている船は,このように確信して嵐を乗り切ることができます。『魂の錨』― 私たちの希望についてなんと適切な表現なのでしよう。その希望によつて,迫害という最もひどい嵐にも,変らざる忠実を保つて耐え忍び,私たちの信仰については破船することはありません!

      12 いまは,私たちの信仰の船にとつて,なぜ嵐の時ですか? しかし何によつて,私たちの信仰は破船を免れることができますか?

      12 いまはあらしの時です。サタンの願うことは,私たちがサタンの『海』で溺死することです。この『海』は象徴の言葉であつて,神より離反し,罪の泥を泡立たせそしてサタンの見える制度を支持している落ちつかない人間の群のことです。そうです,これらの『水』は,いままでになく悩みをうけているものであつて,『いろいろの国民,群集,そして国家』のことです。(黙示 17:15,新世)悪魔は地に追い落されて以来この方,『海』を動揺させていることは明白です。そして,苦難の大波を撹き起して,信仰の私たちの船を沈ませようと死にもの狂いの努力をしています。私たちの希望は,私たちの信仰と離れずに結ばれており,そして信仰の破船を防いでおります。(テモテ前 1:19)強い信仰があるとき,『魂の希望』は失われません。それは,失望に導きません。

      13,14 私たちの信仰の船にくる大きな危険をどのように避けることができますか?

      13 たとえ丈夫な綱であつても,錨が強くないならば,船は海に吹き流されてしまい,当なく流れて災害をうけるでしよう。そのことはまた,私たちの霊的な支え,『魂の錨』にも言えることです。私たちは『錨』をしつかりとおろす一番良い地盤を持つています。―それはヱホバの約束です。しかし,私たちの『魂の錨』が弱いならば,良い地盤であつても,苦難のひどい嵐のあいだ信仰の船をしつかりと保つことはできません。それで,ここに注意の言葉があります。『ものみの塔』研究に出席して,そしてその集会中にうとうとと眠り,『一寸一眠りした位』は私たちの『魂の錨』を弱めはしないなどとは考えてなりません。大切な真理が説明される時に,眠つてしまうならば,その人の信仰の船は堅く造られてはおらずに,建てられません。その船は沈んでいます。それにまた,神の言葉の啓示された真理の武庫にあるすべての武器を使わないならば,その希望に結びついている信仰の船をどのように守ることができますか?『光の武器を身につけよう。』『あなた方の中にある布望について,その理由を求める人には,いつでも弁明できるようにしておきなさい。』― ロマ 13:12。ペテロ前 3:15,新世。

      14 また,神権的ないろいろの集会に出席しながら,気持ちは個人的な関心事,『この世の組織制度のわずらい事』に散漫となつていて,しかも私たちの希望を建てることができるなどと考えるべきではありません。(マルコ 4:19,新世)考えを勝手気儘にさせてはなりません。その心を抑制して,伝えられる音信に注意を集中するようにいたしなさい。眠たい心は良く注意を集中できません。心の眠気をとりさつて,目覚めていなさい。心は鈍くなり勝ちなものです。ヱホバの民の研究の時に,注意しないことが全くの危険であるならば,霊的御馳走に出席することを怠ける人々の希望については何が起りますか? こうです,彼らの『錨』は,保ちません。それらの人々は,自分自身の利害を求めて,遂にはこの世に流され戻つてしまいます。直すことのできないような破船すらすることでしよう。(ペテロ後 2:20)『それであるから,私たちが聞いた事柄に,普通以上の注意を払うことが必要なのである。それは私たちがおし流されないためである。』(ヘブル 2:1,新世)普通の注意は十分でないことを忘れてはなりません。私たちは,『聞いた事柄に』細心の注意を払うべきです。『それは,私たちがもはや幼児ではなく,人間の悪企みによるいろいろな教の嵐でここかしこと吹きまわされたり,もてあそばされたりすることがないためである。』― エペソ 4:14,新世。

      弱い『錨』は破船に導く

      15 今日信仰と希望を保つことは,なぜそんなにも重大なことですか?

      15 ハルマゲドンの後には,『海』はもはやありません。(黙示 21:1)しかし,悪鬼の撹乱する『海』が存在するかぎりは,私たちの信仰の船はあらゆる側から攻撃をうけると期待できます。今日戦争の時に,船は下から,潜水艦で攻撃をうけます。私たちの信仰の船を撃沈するために,サタンがあらゆる隠険な手段を用いるということは期待できることです。なぜならば,これは戦争だからです。『龍は女に怒りを持ち,そして女の裔の残つている人々,すなわち神の命令を守り,イエスについて証しの業をする人々に対し戦争をしようと出掛けて行つた。』(黙示 12:17,新世)肉の戦いではなくて,正しい種類の戦いをすることによつてのみ,私たちの信仰の船は悪魔の攻撃を斥けることができます。『信仰と良心を保ちつつ,正しい戦をなしとげなさい。あるものは,良心を捨てたため,信仰について破船をうけた。』― テモテ前 1:18,19,新世。

      16 『神からの全武具』のどの部分が,前にある希望ですか? それは,どのように保護をする力ですか?

      16 使徒は,希望が非常に力あるものであると知つて,希望はただに『魂の錨』であるばかりでなく,また兵士にとつて保護の冑であると語りました。『冑として,救の希望』をつけなさい。(テサロニケ前 5:8,新世)希望は,保護をする力です。それで,冑としてなぜそれをつけないのですか? 兵士の冑は頭を守り,ひいては心を守ります。クリスチャンの希望は,本当に『悪魔の手立てに反抗できるために神から与えられる全武器』の一部です。なぜならば,戦の命令は『救の冑を身につけよ』であるからです。(エペソ 6:11,17,新世)実際に,ヱホバは『救の冑』を着けられています。そしていまや命令はその忠実な証者たちにあてはまるのです。(イザヤ 59:17)私たちはどのように冑をつけますか? 前にある希望を考えたり,心を神権的な考えで充たし,『ヱホバの証者の年鑑』(英文)の中にある日々の聖句や註解を研究したり,また神権的な活動を討議したりすることによるのです。希望は,ある論題を供給して,深く考えさせます。そして,古い世の考え方から心を守ります。救いの希望を持つとき,私たちは常に先にあるものを考え続けます。それで『後ろにあるものを忘れます。』― ピリピ 3:13,新世。

      17 私たち自身の信仰の船が沈むということは,あり得ますか? どのように?

      17 私たちが背後のものを考えるときには,悪い種類の戦争をしており,そして私たちの希望を危うくするものです。信仰についての人間の『破船』はあり得ることですが,それはその冑を投げ捨ててしまい,そして前にある希望の代りにこの世の誘惑や贅沢によろこび始めるからです。その人は,『海』が罠に落しこむような商業上の追求や,人を誘惑する快楽の渦で一杯であるということを忘れます。使徒パウロの同労者デマスの例をとつてごらんなさい,デマスは真理に新しいわけではなかつたのです。使徒パウロが最初に投獄された時,デマスも彼と一緒だつたのです。(コロサイ 4:14)しかし,あることがデマスに生じました。彼はその『冑』を脱いで,もはや前のものを見つめようとする心を持ちませんでした。パウロはこう言つています『デマスはこの世の組織制度を愛したために,私を棄てた。』(テモテ後 4:10,新世)デマスは明らかに『破船』しました。なぜ? なぜならば,彼は前にある希望について考えるのを止め,古い世にある後ろの希望を育成したからでした。生活するのにただ必要なものだけを持つということは,『辛すぎる』とデマスは考えたに近いありません。生活をするのに『立派』なものが,強い誘惑になり,彼はその誘惑に打ち克つことができず,ついにそれが彼の希望になりました。背後のものについて希望したために,デマスは『破船』してしまいました。

      18 私たち信仰の船にとつて,一番大きな危険の一つは何であるとイエスは示しましたか? それで,パウロはどんな忠告を与えましたか?

      18 それで,背後のものを考えるという事に対して,私たちは十分良く注意すべきです! 前にある希望によろこぶと同時に,古い世の利害によろこぶことはできません。今日,『生活についてのいろいろな心配事』とイエスの言われたもの程,私たちの信仰の船を危うくさせるものはありません。(ルカ 21:34,新世,脚注)私たちの希望が本当に新しい世にあるならば,『生活についてのいろいろな心配事』でもつて,私たちの希望を覆してはなりません。贅沢の中にいたいと努めるならば,デマスのような路を取る結果になります。『それで,ただ衣食があれば,それで足れりとすべきである。』そして,もつと多くのものを求めようとする時は危いことと悟るべきです。『富もうと心に決めている人々は,誘惑や罠に陥り,また人を亡びに落してしまう無分別で,有害な欲望に陥る。』(テモテ前 6:8,9,新世)私たちが正しい種類の戦いを止める時,破船の危険は切迫します。『兵士として仕えている者は,生活の事に係り合うことをしない。それは,兵士として彼を徴召した者の心に適うためである。』― テモテ後 2:4,新世。

      『自分自身の利害』で希望を覆す

      19 使徒は,希望を覆すどんな性質をクリスチャンたちのあいだに見ましたか? このことは,今日の私たちに何を意味しますか?

      19 永遠の生命という貴重な希望は,私たち自身によつても,または私たちの自分勝手な道をしようと欲することによつて,ごくたやすく覆えされてしまいます。ソロモン王は,この危険を強調しました。(シンゲン 14:12; 16:25; 21:2)使徒の時代にあつても,それは円熟を妨げる障害でありました。真心から御国の福祉を第一に置いた人は,ごく僅かな人のみでした。パウロはこのことを認め,テモテについて話しをした時にこう述べました。『彼のような心持ちで,誠心誠意あなた方のことを心配している人は他にいない。他の人はみな自分自身の利害を求めて,キリスト・イエスの利害を求めない。』(ピリピ 2:20,21,新世)考えてごらんなさい! 当時パウロは,ローマにいたあるクリスチャンたちで,テモテを除いて他の全部の者は,自分の利害を求める傾向を持つており,キリスト・イエスの業を妨げたと知つていました。テモテがヱホバに献身した時,彼は自分自身の意志を全く棄てて,神の業を生涯の中で一番重要なものにいたしました。テモテは誠意を以つて,『我ここにあり。我をつかわし給え』と言いました。(イザヤ 6:8)パウロの時代でも,自己の利害を求める傾向は流行していたのですから,この世の利害や生活の『すばらしい』ことがらが,そんなにも多種多様に分れている今日,自己の利害を求める傾向が生ずるというのは全く当然でありましよう! 開拓者,僕たち,会衆の伝道者たち ― あなたは,あなた『自身の利害』についてはどういう態度ですか? その利害は,神権的に処理されて,キリスト・イエスの業を妨げませんか?『それで,御国を求め続けなさい。』― マタイ 6:33,新世。

      20,21 (イ)自分『自身の利害』は何を意味するかを説明しなさい。(ロ)自分『自身の利害』が破船に導くことはあり得ますか? 説明しなさい。

      20 誤解してはなりません。パウロが『自分自身の利害』と呼んでいるものは,完全に合法的な追求でありましよう。もし,聖書に反していないものであるならば,それらは『合法のもの』です。しかし,使徒が説明したように『すべてのものが,合法のものであつても,みなが徳を建てるのではない。』(コリント前 10:23,新世)もし注意を払わないで,『立派な』ものや,娯楽の興味あるもの(テレビジョン,ラヂオ,映画,その他)を願い求めるならば,私たちの希望はくつがえされます。それらのものが,徳を建てないことは,全く確かです。私たちは希望をかたくする必要があります。それは,イエスと同じく,希望が私たちの真の『よろこび』になるためです。いわゆる『道楽』というような他の多くの非神権的な興味が世に充ち溢れています。これらの『道楽』は快楽や,娯楽を与え,この世的な品物で利益を得るかもしれません。しかし,道楽は商業上の追求と同じように,人を容易に惑し,そしてその人の希望を覆してしまうのです。

      21 道楽は今日非常に多種のものがあり,静かな切手蒐集から元気な体操までひろがつています。例として,よくある『写真』の道楽を取つてみましよう。ある兄弟は,この道楽から多くのよろこびを得ます。その写真機でよろこびに溢れた神権的な大会や,個人的な経験を記録することができます。『自分自身の利害』によれば,この道楽のあらゆる面と即応して行くことが必要です。多くの雑誌を買つて読みます。間もなくして,この道楽についての本を読み始め,『合法的な』追求に多くの時間を費やしてしまいます。最近号の『写真』の雑誌に後れないようにするために,集会を欠席することがあるでしよう。この道楽についてもつと多くのことを学ぶために,真理外の人々と交際するのが必要であると感ずるかもしれません。この兄弟の『合法の』利害は,その希望を危く覆す点にまで行き過ぎてしまいました。もしその兄弟『自身の利害』が抑制されず,神権的に統禦されないならば,破船が生じるでしよう。

      22 (イ)パウロは,前にある希望の価値をどのように見ましたか?(ロ)希望を弱めるどんな危険が,自分『自身の利害』を求めることと結ばれていますか?

      22 パウロは,キリストへの希望を非常に高く価値あるものと考えたために,こう言うことができました。『私はすべてのものを失つたが,それらを屑のように見なす』(ピリピ 3:8,新世)私たちの希望が生活の中で強い力であるならば,『生活についてのいろいろな心配事』や道楽や,または『自身の利害』でもつて,私たちの救の希望を駄目にしてはなりません。『自分自身の利害を求めること』に関連している別の危険は,遅かれ早かれ,この世の人々と交るようになることです。この世の人は,真理に興味を持たず,また自分自身も希望を持つていないのですから,あなたの希望を建てることができません。この世の人は,あなたの有益な神権的な習慣やあなたの希望を覆してしまうでしよう。『前にある希望によろこぶ』人々,すなわち新しい世を心に考える人々と交りなさい。『惑わされてはならない。悪い交りは,有益な習慣をこわす。』― コリント前 15:33,新世。

      23 前方のものを見つめる心を養はねばなりませんが,それはどんな強い理由によりますか?

      23 安全な路は,前のことを見つめるという心を養うことです。希望は私たちを助けて,このことをさせます。実際に希望をかける多くのものがあり,また心を将来に向けさせるものは多くあります。油注がれた残れる者にとつては,天的な栄光,不滅性,そして新しい世の王,キリスト・イエスを『その真の御姿で』見つつ,彼と共に千年のあいだ王となり,祭司となり,審判人となつて統治するという崇高な特権があるのです!(ヨハネ第一書 3:2,3,新世。コリント前 15:53,54。黙示 20:4,6)他の羊にとつては,地上においての永遠の生命が与えられ,地を世界的楽園に変える仕事に参加し,産めよ殖えよの神命の全き成就に従事し,動物たちを支配し,そして死人の一般のよみがえりを目撃するのです!(創世記 9:1。ホセア 2:18。マルコ 10:30。ルカ 23:43。ヨハネ 5:28)そして,霊的残れる者と他の羊の両方に対する最高の希望は,ヱホバのすべての敵がみなすつかり亡ぼされて,ヱホバの栄光ある御名と御言葉が水遠にわたつて立証されるのを見ることです。(シシ記 5:31。ロマ 3:4)まことに,新しい世の社会の希望は,次のように約言されます。私たちが『今よりとこしえにヱホバにたよりて望みをいだく。』ということです。―詩 131:3。

      24 前にある希望をよろこぶことから,どんな有益な利益が来ますか?

      24 それで,救の冑をかぶりなさい。前にある希望によろこびなさい。あなたの希望について考えなさい。その希望は,真のものであり,重大なものであり,正義のもので,愛あるものです。(ピリピ 4:8,新世)前にある希望に多くよろこべば,よろこぶ程,私たちは希望の神ヱホバについて多く考えます。次のことは有益なものです。『ヱホバ耳をかたむけてこれを聴たまえり。またヱホバを畏るる者およびその名を記憶る者のためにヱホバの前に記念の書をかきしるせり。』― マラキ 3:16。

      希望の全き保証

      25 前にある希望が実現されるのに,何が必要ですか?

      25 私たちの希望は何時有効ですか? 私たちがその希望を公やけに言い表わすならば,その希望はいま有効なものです。業のない信仰は死んでいます。それで,言い表わされない希望は無効なものです。『人は口でもつて公やけに言い表わして救われるのである。』『ゆらぐことなく,私たちの希望を公やけにしつかりと言い表わそう。』(ロマ 10:10。ヘブル 10:23,新世)このようなわけで,ヱホバの御霊によつて支持され,そして公やけに言い表わすことによつて有効にされる希望は力であります。その希望は私たちを助けて前のことを考えさせ,前のことを準備して生活し,そして前にある希望のために働かせます。『私たちは,この目的のために一生県命働いており,努力しているのである。それは私たちが生ける神に希望を置いているからである。』(テモテ前 4:10,新世)私たちの骨折の仕事や,良いたよりを伝道しようとするひたすらな努力は,私たちの仕事は無益なものではなく,また私たちの希望は実現されるということを保証するものです。―コリント前 15:58。ヘブル 6:11,12。

      26 希望の力を簡約にまとめて述べなさい。その助けをうけて,私たちは何をすることができますか?

      26 それで,『魂の錨』に注意を払いなさい。それは,破船を防ぎます。我たちの希望は,忍耐を生じます。それはよろこびをもたらします。それは私たちを励まして『祈りをしつつ,耐え忍ば』せます。それは,私たちにヱホバの御名について考えさせます。それで,新しい世の社会の一部であるあなた方は,勝利を得た如く勝ち誇つて大いによろこびなさい。この世の希望は暗くても,あなた方の希望は明るいものです。この世の希望はくづれて行きますが,あなた方の希望は成就に近づいています。この世の希望は軽信に基いていますが,あなた方の希望は信仰に基いています。この世の希望は,失望に導きますが,あなた方の希望は成功に導きます。本当に,新しい世はそんなにも近づいていますので,天的のものにしろ,または地的なものにしろ,私たちの一番大切な希望は間もなく実現され,永遠の満足をもたらすでしよう。それですから,私たちの忍耐にひるむことなく,『健全な心と正義,そして敬虔な気持をもつてこの世の組織制度で生活することができ,そのあいだに幸福な希望と,そして大いなる神と私たちの救い主キリスト・イエスの栄光ある出現を待ち望む。』― テトス 2:12,13,新世。

  • あなたの記憶調べ
    ものみの塔 1954 | 11月15日
    • あなたの記憶調べ

      この号のものみの塔を読んであなたは次のことを憶えていますか。

      ☆ 国際条約は戦争を防止しないとどんな驚くべき例が証明していますか?(485頁,5節)

      ☆ 世界平和に対する確かな希望は何ですか?(486頁,4節)

      ☆☆ 世界の状勢は,なぜ全く希望の無いように見えるのですか?(488頁,2節

      ☆ 希望はどのように失敗に導きますか?(490頁,9節)

      ☆ 希望は健全な基礎を持つべきであるとエバの経験はどのよに示していますか?(490頁,12節)

      ☆ 真のクリスチャンのかたい忠実に対して,どんな驚きの言葉が言われましたか?(493頁,21節)

      ☆ クリスチャンにとって,迫害や試錬は,どのように価値あるものですか?(495頁,7節)

      ☆ どんなかたい基礎の上に,私たちの希望の錨を置くべきですか?(495頁,10節)

      ☆ 希望は冑のように心をどのように守りますか?(497頁,16節)

      ☆ 正しくて『合法の』追求は,どのように霊的な破船に導きますか?(498頁,21節)

  • 発表
    ものみの塔 1954 | 11月15日
    • 発表

      岐阜巡回大会

      岐阜市明徳町,明徳公民館,11月26-28日。公開講演『神は実際に関心を有するか?』― 11月28日,午后2時。できるならば,すべての人が出席するよう招待します。

      いま入手できます!

      『ハルマゲトンの後 ― 神の新しい世』『新しい世を信ずる基礎』『進化論対新しい世』『あなたは地上で幸福のうちに永遠に生きられますか?』― 4冊の最近の聖書冊子は60円の御寄附で入手できます。左記の発行所に通知して下さい。

      『ものみの塔』研究

      12月5日 希望の力

      12月12日 希望による忍耐

日本語出版物(1954-2026)
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