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神はどれほど積極的に配慮を示してこられたか目ざめよ! 1975 | 1月8日
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ことによってなされたすべての害を除くという神の不変の目的にかんする啓示,神のことばが今すぐにでも可能にする人々の生活の変化,神のことばが与える死者の復活の希望などに,最も明らかに見られます。
神がご配慮くださっていることは確かです。残る問題は,わたしたちは気にかけているか,ということです。自分はそうしている,とわたしたちは言うかもしれません。しかし実際に気にかけているかどうかは何によって証明されるでしょうか。
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あなたはどれほど配慮を払っていますか目ざめよ! 1975 | 1月8日
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あなたはどれほど配慮を払っていますか
あなたは自分の命に真の気づかいを示しておられますか。ご家族や隣人と平和で何の恐れもない生活を送ることに関心を払っておられますか。健康がいかにすばらしい祝福であるかを認識しておられますか。鳥や動物の世界など,この地上に見られる自然の美しさに喜びを感じておられますか。
こうした点に関心を払っておられるなら,それは神に似た特質の表われです。神は人間を『ご自分の像』に創造されたのであり,神のことば聖書は,神ご自身が命と平和と自由を大いに尊んでおられることを示しています。神は人間を,ちょうどご自身と同じように,美を認識し鑑賞する者として創造されました。―創世 1:27。伝道 3:11。
ここで次の質問が生じます。あなたはどれほど気づかいを示しておられますか。また,そうした気づかいが純粋なものであることを,どうしたら表わせますか。
今日,神は人類のことを気づかってはおられない,と非難する人がいます。しかし,そう言いながら,そうした人々自身は,自分の命を大切でないもののように扱っています。故意に体を酷使し,タバコや麻薬などで事実上体を徐々にむしばんでいます。飲食や性に過度にふけって自ら病気を招いています。また,スピード感やスリルを求めて,あるいは単なるあせりの気持ちから,必要のない危険を冒しています。しかも,それによって,他の人の命や健康をさえ危険にしているのです。
明らかに,多くの人がこうした状態に陥っているのは,生きることに真に価値を与える真実の希望や目標がないからです。そうした人々は,古代コリントのギリシャ人と同じように,「ただ食べたり飲んだりしよう。あしたは死ぬのだから」と言います。―コリント第一 15:32。
しかし,本当に命のことを気づかい,その価値を認識しているなら,聖書がわたしたちの前に置いている命の希望について進んで調べることでしょう。「忙しすぎる」とか,聖書にどんなことが書いてあるかを調べるだけの時間がないなどとは言わないはずです。また,現在全地に見られる「危険な」しるしを認め,それが聖書預言の成就であり,苦悩と腐敗に満ちる古い秩序がわたしたちの世代のうちに終わり,義の新秩序がそれに代わることを示しているという点を認めるでしょう。(マタイ 24:3,7,8,21,22,34。ルカ 21:25-33)わたしたちは,ルカ 21章34から36節にあるイエスの次の助言を決して軽く見たりはしません。
「しかし,食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。
他の人に対する誠実な関心
あなたは,他の人にどれほど気づかいを示しておられますか。他の人の苦しみをどれほど思いやり
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