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    ものみの塔 1957 | 4月15日
    • もてなしの道

      『聖なる者たちと,その必要物に応じて,物を分ち合いなさい。もてなしの道に従いなさい。』― ロマ 12:13,新世。

      1 誰がもてなしを始められましたか。その方は,どのようにその模範を置かれていますか。

      ヱホバ神はもてなしを始められた御方です。その始めから,ヱホバ神は御造りになつたすべてのものに,豊かに与えられました。ヱホバが,吝であるとか,吝嗇であるとか,物惜しみするとか,けちけちするようなことは,決してありません。ヱホバは,『私たちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる。』ヱホバが,冷い心を持たれるとか,不気嫌であるとか,意地悪であるとか,親しい気持を持たない,などということは決してありません。ヱホバは『恩を知らぬ者にも悪人にもなさけ深いからである。』ヱホバは,物惜しみせず豊かに分ける際に,偏頗な行をせず,『悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも,雨を降らして下さるからである。』ヱホバは,つきることのない御自分の富を,造られたものといつでも分ち合うことができます。それで,ヱホバはもてなしの模範を示されています。―テモテ前 6:17。ルカ 6:35。マタイ 5:45,新口。

      2 もてなす,とはどういう意味ですか。

      2 いつたい,もてなしとは何ですか。それは,どの位に広い範囲のものですか。最近の辞書は,もてなしをこう定義しています,『友人や見知らぬ人に,歓迎,食物,庇護の場所,そして親切な取り扱いを施すこと,またはその施しを好むこと。』もてなしをするとは,他の人々を歓迎して,他の人々をなおざりにすることではありません。もてなしとは,冷やかさを示すのでなく,暖かさを示すことです。きびしくしないで,親切であること。隔てを設けず,親しい気持になること。ことさらに遠ざからず,近づき易いこと。突飛ではなく,忍耐強いこと。無分別ではなく,思慮深いこと。不用意ではなく,準備をすること。吝嗇でなく,気前よく施すこと。貯えることでなく,分け合うこと。自分自身のことだけに関心を持たず,他の人々の必要物に関心を持つことです。もてなしは,まつたく愛の大きな表われです。もてなしは『あなた方の愛の純真さをため』すものです。―コリント後 8:8,新口。

      3,4 昔には,誰がもてなしの道に従いましたか。

      3 古代のイスラエルの国民は,ヱホバより与えられた,もてなしの道に従いました。イスラエル内の見知らぬ人,すなわち一時的な寄留者をも含めて,すべての人々は,この道の益を受けました。モーセを通して与えられた神の律法は,ヱホバを愛する見知らぬ人々をないがしろにせず,もてなしなさい,と明白に命じていました,『なんじの神ヱホバは,神の神,主の主,大いにしてかつ権能ある畏るべき神にましまし人を偏り視ず,また賄賂を受けず。孤児と寡婦のために審判を行い,また旅客を愛してこれに食物と衣服を与えたもう。なんじら旅客を愛すべし。そは汝らもエジプトの国に旅客たりし事あればなり。』― 申命 10:17-19。

      4 モーセの時以前でも,ヱホバの民はもてなしの道に従う重要性を知つていました。彼らは,偏頗のないもてなしをして,全く物惜しみしなかつたのです。それですから,2000年後のキリストの一使徒は,彼らのことを引合に出して,次のようにクリスチャンたちに命じました,『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして,ある人々は,気づかないで御使たちをもてなした。』ちよつと,考えてごらんなさい! 神の昔の僕たちの或る人々は,いつも親しい心を持ち,気持よく歓迎し,そしてもてなしの道に従つたため,御使たちをもてなすという胸のときめくような素晴らしい経験をしたのでした。―ヘブル 13:2,新口。

      もてなし ― 富ましむる道

      5 アブラハムのもてなしは,どのように彼を富ましましたか。

      5 それで,もてなしの道は,それに従う人々を富まします。たとえば,アブラハムの場合があります。或る日,アブラハムは,マムレの木蔭の天幕の入口に坐つていました。それは日の暑いときでした。突然,3人の見知らぬ者が現われたのに,彼ははつと気づきました。アブラハムは,その3人を走り出迎えました。そして,身を地にかがめたのです。3人は御使であるとアブラハムが知つていたから,身を地にかがめたのではありません。彼は,後日にはヘテの子孫にも身をかがめています。(創世 23:7,12)それから,アブラハムは足を洗うための水を3人のところに持ちきたらせ,更に木の下で休憩するように,と請いました。『我一口のパンを取り来らん。なんじら心を慰めよ』とアブラハムは願いました。御使たちは,『汝が言えるごとく為せ』と答えています。ところが,実際には,アブラハムは『牛酪と牛乳と犢』をも持ち来たりました。アブラハムのもてなしの故に,御使たちは,彼とその妻サラは長いあいだ約束されていた子を持つであろうと,いうすばらしい言葉を告げるに至りました。後日,ロトとマノアは,気づかずに御使たちをもてなし,豊かな祝福を頂きました。―創世 18:1-15; 19:1-22。シシ 13:2-24。

      6 イエスの日に,もてなしの気持を持つ人々はどんな祝福を受けましたか。

      6 イエスの時でも,もてなしの道に従つた者は,実に多くの祝福を受けたのです。善意者がイエスや,その弟子,または使徒たちを自分の家に迎え入れたとき,その善意者は非常に大きな霊的な報を頂きました。神の子をもてなす,ということを考えるだけでも,言葉で言いつくせない感激です。マルタの妹であるマリヤのことを考えてごらんなさい。彼女は,そのもてなしの故に,『主の足もとにすわつて』祝福された霊的な真理を頂きました。(ルカ 10:38-42,新口)ザアカイと,その物惜しみしないもてなしを,考えてごらんなさい。イエスは,ザアカイのもてなしの気持を認めました。そのザアカイの気持は,イエスを一目見るために木の上にのぼつたという一幅の美しい絵のような状態になつて示されたのです。それで,イエスは言われました,『ザアカイよ,急いで下りてきなさい。今日,あなたの家に泊まることにしているから。』ザアカイは,もてなしの気持を持つていたおかげで真理が得られました。イエスの復活を受けられた日の夕方,エマオに向つて旅行していた二人の弟子たちのことを考えてごらんなさい。人間の形に現れたイエスは,その二人に近づかれました。しかし,二人は,イエスであることを見分けることができなかつたのです。その後の会話の中で,イエスは二人に聖書を説きあかしました,『彼らは行こうとしていた村に近づいたが,イエスがなお先へ進み行かれる様子であつた。そこで,しいて引き止めて言つた,「私たちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になつており,日もはや傾いています。」イエスは,彼らと共に泊まるために,家にはいられた。いつしよに食卓につかれたとき,パンを取り,祝福してさき,彼らに渡しておられるうちに,彼らの目が開けて,それがイエスであることが分つた。すると,み姿が見えなくなつた。』この二人は,知らずに,復活した神の子をもてなした,と知つたとき,どんなに大よろこびしたことでしよう! もし,この二人が常日頃にもてなしの道に従つていなかつたなら,そのようなよろこびを得なかつたでしよう。―ルカ 19:1-9; 24:13-32,新口。

      7 今日,兄弟たちにもてなしをすることから,どんな類似の益を受けますか。

      7 今日でも,もてなしの道に従うことは,豊かな富をもたらすものです。兄弟たちに,もてなしを示すとき,私たちは極めて実際的な方で益を受けます。つまり,霊的に励まされるのです。この世の人々と話をしても,御国の業に私たちが励まされるようなことはありません。しかし,兄弟たちと神権的な話をすると,私たちは御国の業に励まされます。巡回の僕をもてなしたり,開拓者に食事をすすめる家族は,霊的に富んだ話から必らず益を受け,そして心が高められるでしよう。

      8 善意者は,ヱホバの証者にもてなしをすることにより,どうしてその報を失いませんか。それでは,もてなしは何のしるしですか。

      8 真理に入つていない人々であつても,ヱホバの証者に,もてなしの態度を示す人々は,富むでしよう。イエスは,そうなると言われました,『私の弟子であるという名のゆえに,この小さい者(イエスの弟子たち)のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は,よく言つておくが,決してその報いからもれることはない。』イエスの約束は,誰でも,もてなしの行をするだけで,ハルマゲドンを通り抜けることができるという意味ではありません。むしろ,ヱホバの証者にもてなしの気持を示す人々は,それにふさわしい報いである,霊的な啓発を受ける,とイエスの約束は意味しているのです。私たちが誰であるかを知つて,人々が私たちにたいして,物質的になんのわだかまりをも持たないなら,それらの人々は,だいたい霊的にも同じく受け入れるものなのです。大会中の時のように,時折り人々はヱホバの証者を招待して,自分の家に無料で泊らせることがあります ― それは私たちがヱホバの証者である,という理由からなのです。私たちは,今度はそれらの人々に,霊的な祝福を豊かに与えます。もしそれらの人々は,心が正しいなら,真理にみちびかれて,永遠の生命を受けることができるようになります。それで,この世の人々が私たちにもてなしをすることはザアカイが木に上つたと同じように,その人の心が正義を愛しており,真理をすぐに受け入れる,ことを示すしるしです。―マタイ 10:42,新口。

      見知らぬ人へのもてなし

      9 なぜ,私たちは見知らぬ人々に,親切やもてなしを忘れてはなりませんか。

      9 しかし,見知らぬ人々に対する親切や,もてなしを忘れてはならない,という使徒のいましめについては,どうですか。見知らぬ人々に親切をするきわめて大切な理由があるのです。すなわち,それによつて見知らぬ人々は,ずつと容易に真理を得ることができます。イエスは,見知らぬ人々のために5000人分の無料の食事を備えませんでしたか。イエスのもてなしは,良いたよりを更にひろめることに関連してなされたのです。それですから,今日でも良いたよりを更にひろめる手段として,もてなしをすることができます。

      10,11 どのような方法で,私たちは見知らぬ人々に,もてなしの気持を示すことができますか。どんな益がその後に続きますか。

      10 たくさんの方法で私たちは,もてなしをしたり,親切にすることができます。兄弟たちは,時々,正義を愛していると信ぜられる人々を,自分の家の食事に招待します。それから,その機会を利用して,聖書を開きます。工場や,お店,その他で働いている従業員や,仲間の者たちで,ヱホバの証者の示すこのもてなしから益を受けた人の数は少くありません。

      11 何時どんな時でも,あなたのなす親切な行は見知らぬ人に感銘を与えます。あなたは,普通の人と違う,とその人は知ります。あなたの親しい心づかいと,心の底からの親切は,この世のとげとげしさや,冷やかさ,とは全くちがうものです。ちよつとした親切な行は,大きな結果をもたらします。たとえば,汽車に乗つているときに,兄弟が年寄の人,もしくは婦人を手助けして,荷物を荷棚に上げることは,親切の行です。話が始まりますが,それは証言に変ります。見知らぬ人に,わざわざ道を教えてあげるなら,その人は深い感銘を受けていつまでも忘れないでしよう。もし,その見知らぬ人にいくらかの御国の文書を渡すなら,その人は,あなたの親切に心を打たれたため,恐らく多大の関心を寄せてその文書を読むことでしよう。それで,あなたの親切によつて,御国の音信を更にひろめる道がしばしば開かれるのです。もし,あなたが親切でなく,もてなしをしなかつたなら,そのような道は決して開かれなかつたでしよう。

      12,13 (イ)隣人のなすべきもてなしの重要性を示すために,イエスはどんな譬話を話しましたか。(ロ)牧師と対照するとき,ヱホバの証者は『半殺しの』隣人を,どのようにもてなしましたか。

      12 ヱホバの証者は,親切ともてなしの行をします。それですから,ヱホバの証者はイエスの譬話の中に出てくる善きサマリヤ人のようです,『ある人がエルサレムからエリコに下つて行く途中,強盗どもが彼を襲い,その着物をはぎ取り,傷を負わせ,半殺しにしたまま,逃げ去つた。すると,たまたま,ひとりの祭司がその道を下つてきたが,この人を見ると,向う側を通つて行つた。同様にレビ人もこの場所にさしかかつてきたが,彼を見ると,向う側を通つて行つた。ところが,あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり,彼を見て気の毒に思い,近寄つてきてその傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり,自分の家畜に乗せ,宿屋に連れて行つて介抱した。翌日,デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し,「この人を見てやつて下さい。費用がよけいにかかつたら,帰りがけに,私が支払います。」と言つた』― ルカ 10:30-35,新口。

      13 現在の人々は『半殺し』の状態です。その状態については,サタンの獣のごとき組織制度が,その責任を負つているのです。政治的な強盗,商業的な強盗,そして宗教的な強盗は,人類からものをかすめ取り,人類に傷を負わせました。キリスト教国は,口先ではキリスト教の宗教であると言つていますが,しかし昔のユダのように,住むには危険な場所です『その頭は病まざる所なく,その心はつかれはてたり。足のうらより頭にいたるまで全きところなく,ただ傷と打傷と腫物とのみなり。しかして,これを合すものなく,包むものなく,また油にて和ぐるものもなし。』このような『半殺し』の人々に,誰が隣人のなすべきもてなしを示しましたか。牧師ではありません! カトリック,新教徒,ユダヤ教の指導者たちは,人々の『半殺し』の霊的な状態に気づいています。そして,説教壇や新聞紙上で,しばしばそのことについて論じます。だが,彼らは人々から遠ざかつて,隔てをつくり,いやしをなす霊的な助けを施そうとはしません。それで,ユダヤ人の祭司やレビ人のなしたように,道の向う側を通り過ぎました。しかし,ヱホバの証者は,善きサマリヤ人のように,霊的に半殺しの人々をわざわざ助けました。ヱホバの証者は,霊的なオリブ油と葡萄酒,そしていやしをなす神の言葉の真理でもつて,実体的なエルサレムの中の『もろもろの憎むべき事のために歎き悲しむ』人々の傷をほうたいしました。―イザヤ 1:5,6。エゼキエル 9:4。

      14 霊的なもてなしを施すために,どんな種類の準備が大切ですか。

      14 オリブ油と葡萄酒でもつて傷をほうたいしてもらいたい,と望んでいる『半殺し』の見知らぬ人が,何処にいるかは,分りません。しかし,サマリヤ人が充分のオリブ油と葡萄酒を携行していて,非常事態に備えていたごとく,今日のヱホバの証者は,神の言葉の充分のオリブ油と葡萄酒を持つていて,いつも備えをしていなければなりません。ところが,ときどき兄弟たちは充分の『オリブ油と葡萄酒』を持たずに,野外奉仕に出かけます。それですから,丁度『半殺し』の見知らぬ人に会う時には,文書がひとつも無い始末です。或る兄弟たちは,旅行に出かけるときに,『オリブ油と葡萄酒』を極くすこしだけ持つて行くか,あるいはすこしも持つて行きません。霊的に半殺しである,と示す見知らぬ人に会うなら,どうすることができますか。旅行中の時は限られているのですから,その時その場で用いられる『オリブ油と葡萄酒』の持ち合わせがないなら,霊的な傷にほうたいすることはたいへん難しいものです。兄弟たちは,自分の家庭に,一番新しいいろいろの種類の御国の文書を用意していない時があります。見知らぬ人が戸口に来るとき,進化論や,三位一体や,霊媒術などで受けた傷を癒すオリブ油や葡萄酒がありますか。それで,思慮深くありなさい。準備をしなさい。汽車に乗つているときも,船やバスに乗つているときでも,歩いているときも自動車を運転しているときも,又は家に居る時も,何時でもこのオリブ油と葡萄酒を持つていなさい。そうすれば,「盗まれて打たれた」見知らぬ人が見出されるときには,何時でも,又どの場所でも,もてなす準備ができています。

      15,16 (イ)サマリヤ人が,『自分の家畜』を用いて,見知らぬ人を宿屋に連れて来たことは,ヱホバの証者のどんなもてなしの行に対応するものですか。(ロ)会衆内の僕たちは,どんな性質を持たねばなりませんか。なぜ?

      15 善いサマリヤ人は,オリブ油と葡萄酒を使う以上のことをしました。自分の家畜に乗せて,宿屋までその人を運び,もつと良い手当を受けさせたのです。それで,ヱホバの証者は,よろこんで自分の自動車で善意のある見知らぬ人を御国会館に案内します。見知らぬ人は,御国会館で気持良く受け入れられ,やさしく世話を受けます。昔の宿屋の主人は,もてなしをすることでしばしば有名でした。それで,会衆内の僕たちは,宿屋にあつたような,もてなしの気持を表わさればなりません。もてなしの気持は,全く大切なものです。それですから,もてなしの気持を持たぬ人は,僕に任命される資格がありません。使徒は,テモテ前書 3章2節(新世)で,監督たる者は『見知らぬ人を愛する者』でなければならぬ,又は脚註の述べているように,『もてなしをする』者でなければならない,と説明しています。

      16 ヱホバの証者の会衆に,この世には無い暖かさを与えるものは何ですか。それは,御国会館ですか。いいえ,たとえ御国会館がその国内でいちばん美しく,また一番新しいものであつても,その中の会衆は氷のごとく一番冷やかなものになるでしよう。会衆を暖くせしめるものは,もてなしの道に従うすべての兄弟たち,特に僕たちなのです。

      17 御国会館で,兄弟たちは,どのようにもてなしを表わすことができますか。

      17 僕たち,歓迎の空気があなた方の御国会館に充ちていますか。初めての人は,楽なくつろいだ気分になりますか。初めての人に会館を案内して,報告表とか,大会の写真とか,その他のものを説明しますか。公開集会の始まる時よりもずつと前に御国会館を開場して,初めての人を外で待たせる,などいうことが決してありませんか。兄弟たちは,初めての人と歌の本や『ものみの塔』をいやな態度をすこしも見せずに,いつしよに見ますか。見知らぬ人であろうと兄弟であろうと,僕たちがすべての人を歓迎する会衆では,非常な暖かさが充ちます。兄弟たちは,集会の終つた後でも御国会館を去りたくないでしよう。

      18,19 (イ)僕たちが,もてなしの道に従うのを忘れると,何が起りますか。(ロ)紹介をされなくても,口重の兄弟たちは,どのように初めての人にたやすく近づくことができますか。

      18 しかし,時折りに,兄弟たちは,もてなしの道を忘れることがあります。すると,会衆全部がもてなしの道を忘れます。何が起りますか。御国会館には,宿屋に充ちるような暖い空気がなくなつて,鉄道の駅のような空気が充ちます。それがどんなものか御存知ですか。鉄道の駅に行つても,誰一人としてあなたに注意を払いません。誰一人としてあなたに話しかけません。人々のそばに行つても,誰もあなたのことを見ないし,全然気にもかけません。人々の傍に席を取ります。でも,人々は読みものから顔を上げることさえもしないのです。かりに人々が顔を上げたときに,あなたが微笑みかけても,人々は微笑みを返しません。駅とは,坐つて待つところだけの場所です。待つ時間が過ぎて,駅から出るときには,いつでも,うれしく感じます。これが鉄道の駅です。さて,僕たちが,もし御国会館にそのような鉄道の駅の空気を充させて,― そして初めての人が入つて来るなら,何が生じますか。

      19 その初めての人は,次のような独り言を言うでしよう,「もてなしなんか,ほとんどない。みなさんは,街頭で私が話かけたり,私の家に来る時には親切だ。だが,みなさんの中に行つてみると,私のことにすこしの注意をも示さない。おそらく,私の来るのを望んでいないのだ。もう来ない方が良いかも知れぬ。」ほんとうに,そのようなことは起り得るのです。起つたことがあるのです。あなたの会衆内に,そのようなことを起してはなりません。初めての人を歓迎するように気を配りなさい。或る兄弟たちが,生まれつき口重の方ならば,次のようにお尋ねするなら,初めての方にも容易に近づくことができます,『講演は如何でしたか。』又は『私たちの集会は,他の宗教制度の集会とは,ちがつてはいませんか。』もちろん,誰でも知つているもの ― 天候 ― のことを語ることに,なんのためらいをする必要もないでしよう。初めての人も,御国会館に一度行つてからは,もう初めての人ではなくなるはずです。あたかも兄弟であるように,その人を暖く受け入れなければなりません。『キリストも私たちを受けいれて下さつたように,あなたがたも互に受け』いれなさい。―ロマ 15:7,新口。

      20 『もてなしの道に従う』とは,どういう意味ですか。

      20 それで,私たちは使徒の命じた言葉,『もてなしの道に従いなさい。』を是非とも行わなければなりません。もてなしの道に『従う』ことは,もてなしをしたい,という気持を抱くこと以上のことを意味します。それは,もてなしを実際にすること,その道を追い求めること,気を配つて親切を行い,あらゆる機会を用いて『オリブ油と葡萄酒』を見知らぬ人の霊的な傷に注ぐことを意味します。しかし,豊かにせしめるこのもてなしの道は,見知らぬ人々のためだけのもの,と決して考えないで下さい。私たちの親切ともてなしによつて,兄弟愛を持つていることをも確かに示すことができるからです。『兄弟愛については,今さら書きおくる必要はない。あなた方は,互に愛し合うように神に直接教えられており,……しかし,兄弟たちよ。あなた方に勧める。ますます,そうしてほしい。』兄弟たちにたいして,もてなしの道に従うことにより,本当に『聖なる者たちと,その必要物に応じて』物を分ち合うことにより,私たちの愛を『ますます』示すことができます。―ロマ 12:13。テサロニケ前 4:9,10,新口。

  • 他の人々と物を分ち合う
    ものみの塔 1957 | 4月15日
    • 他の人々と物を分ち合う

      1 この世の人のもてなしと,クリスチャンのもてなしの違いを説明しなさい。

      クリスチャンのもてなしは,愛を表わし示します。この世の人のもてなしは,誇りを表わし示します。この二つのあいだには,非常に大きな相違があります。片方は,愛と親切の気持からなされます。他方は,誇りと利己主義の気持からなされます。この世の人々は,『見られるために人の前で』もてなしをします。そして,しばしば,お返しを心持ちにします。「あなたの御馳走に私を相伴にしてくれるなら,あなたに御馳走をふるまいましよう」というのが,実のないこの世のもてなしの中心の考えです。しかし,クリスチャンは,何とちがつているのでしよう! クリスチャンは,他の人々と物を分ち合いますが,それは誇りのためでもなければ,お返しを求めるからでもありません。それは,神と人に対する深い愛からなされるのです。それで,この世の人々は,持物のある人に分け与えますが,クリスチャンは,隣人にせよ,兄弟にせよ,その人を考えて分け与えます。生命を持つすべての人が,このもてなしのクリスチャンの道に従つて,天にいる御父のようになる時は,間近い中に来るでしよう。―マタイ 6:1,新口。

      2,3 (イ)人が真理を受けるときに,どんな感情が表われますか。(ロ)山羊とは反対に,羊はどの程度まで,王の兄弟たちの音信に答え応じましたか。

      2 正しい心の人は,ヱホバの豊かな霊的な御準備を頂いてから,他の人々にも,もてなしをして,物質を分ち合いたい,という気持に駆られます ― その最後の結果はみな,良いたよりを他の人々と分ち合うことになるためです。王と物を分ち合つたのは,イエスの譬話に出て来る羊ではありませんでしたか。王は羊に向つて,こう語られました,『あなた方は,私が空腹のときに食べさせ,かわいていたときに飲ませ,旅人であつたときに宿を貸し,裸であつたときに着せ,病気のときに見舞い,獄にいたときに尋ねてくれた。』天的な王に対して,羊はどうしてこのすべてのことをすることができましたか。イエスは,こう言われました,『あなたがたによく言つておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,私にしたのである。』― マタイ 25:35,36,40,新口。

      3 譬話の成就されている,この終の時に,そのことはなんと真実なのでしよう! 良いたよりを伝道するために,王の兄弟である油そそがれた残れる者は,迫害や苦難を耐え忍んできました。誰が彼らの助けに来ましたか。山羊ですか。そのようなことは決してありません。山羊は,一切分け与えようとはしません。王の兄弟たちに同情したり,時間を共にすることをも拒絶します。仮に王がこの地上に居られたとしても,彼らは王を手助けしたり援助したりするのを拒むでしよう。同様に,王の霊的な兄弟たちに対しても,手助けや援助を拒むのです。しかし,自分にもたらされた霊的な富に感謝している羊は,キリストの弟子の残れる者に,もてなしをし援助をする,だけでなく,更にその兄弟なる王に心からの忠節をつくすのです。王の兄弟たちに助けと,援助がなされる故に,王は羊たちにこう言います,『私の父に祝福された人たちよ,さあ,世の初めからあなた方のために用意されている御国を受けつぎなさい。』― マタイ 25:34,新口。

      4-6 悪魔の組織制度がまだ続いているあいだ,私たちは神の真の愛を持つていることを,どのように示すことができますか。

      4 他の者たち,特に真のクリスチャンたちと物を分ち合うことは,明らかに王の是認とすすめを受けるものです。御国の良いたよりの伝道は未だ終つていません。それで,残れる者にせよ,他の羊の者にせよ,御国の業を行つている人々を助けて,物を分ち合う機会はまだあるのです。『だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか。』― ガラテヤ 6:10,新口。

      5 兄弟たちにたいして善を行うことのなかには,物質を分ち合うことも含まれているのです。それは,まつたく明白なことです。使徒ヨハネは,真の愛を説明したときに,次の言葉を述べました,『世の富を持つていながら,兄弟が困つているのを見て,あわれみの心を閉じる者には,どうして神の愛が,彼のうちにあろうか。子たちよ,私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく,行いと真実とをもつて愛し合うではないか。』― ヨハネ第一書 3:17,18,新口。

      6 愛とは舌先の言葉以上のものです。それですから,愛の積極的な表現である,もてなしも,舌先の言葉以上のものです。『なんじの手,善をなす力あらば,これを為すべき者に為さざることなかれ。もしなんじに物あらば,汝の隣にむかい,「去りて又きたれ,明日われ汝に与えん」というなかれ。』そのわけで,真の愛を持つ人は,援助が求められるときに,物を分ち合います。何時までも持物を大事にして,ひとつも分ち合えないとか,或は分ち合うにしても,ほんの少しだけとか,遅すぎるなどということをしません。私たちは未だ悪魔の世にいます。それで,怠けたわけでもなく,又過ちをしたわけでもありませんが,兄弟たちは時折り非常に困るときがあります。その原因は,暴風雨とか,洪水とか,火事とか,事故とか,病気とか,或は迫害かも知れません。自分の兄弟がそのように困つているのを見ながら,そして援助をすることができるのに,援助をさしひかえるなら,『どうして神の愛が,彼のうちにあろうか。』― シンゲン 3:27,28。

      『その必要物に応じて』物を分ち合う

      7 物を分け与えることについての聖書的な見地は何ですか。そのいましめにしたがうため,私たちは何に打ち克たねばなりませんか。

      7 正しい時に,正しい量のものを他の人々と分ち合うために,私たちは,忘れ易くて思い遣りがなくなる,という人間の性向に打ち克たねばなりません。どの人も,自分のすることだけに専念するため,ややもすると,他の人の必要物に対しては注意を向けず,気にかけません。それで,クリスチャンたちは,次のようにいましめられています,『おのおの,自分のことばかりでなく,他人のことも考えなさい。』『聖なる者たちと,その必要物に応じて,物を分ち合いなさい。』『惜しみなく施し,人に分け与えることをよろこび』『善を行うことと施しをすることを,忘れてはいけない。』― ピリピ 2:4。ロマ 12:13。テモテ前 6:18。ヘブル 13:16,新口と新世。

      8 私たちは『その必要物に応じて』,特に誰と分ち合うことができますか。これは,なぜ依怙贔屓ではありませんか。

      8 或る兄弟たちは,良いたよりの伝道に全時間を捧げているため,他の人々よりもずつと困ることがあるでしよう。これらの人々の必要物を充す機会は,しばしばあるものです。このことは,依怙贔屓ではありません。それは,聖書的な規則であつて,私たちのためにテモテ前書 5章17,18節(新世)にこう記録されています,『正しく指導している古い者たちは,二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。』又は,脚註の述べているごとく,『二倍の報い』を受けるにふさわしい者です。特に誰が,この『二倍の報い』を受けるにふさわしいものですか。『特に語ることと教えるために労している者たち。聖書は「穀物をこなしている牛に,くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である。」と言つている。』みなさんは,労している人が誰であるかを知つています。誰であるかは,容易に知ることができます。これらの人々に個人的な関心を持ち,そして『その必要物に応じて』また私たちの資力に応じて,物を分ち合うことは正しいことであつて神のよろこびを得るものです。巡回の僕や地域の僕や,宣教者や,開拓者,そしてその他に,良いたよりを『語ることと教えるために労している者たち』に,そのような『二倍の』もてなしをすることは,依怙贔屓ではありません。それは神の御意です。

      9,10 (イ)会衆に手紙を書き送つた際に,使徒は正しく指導している人々や,良いたよりの伝道に労している人々について何と述べましたか。(ロ)第1世紀のクリスチャンと同じく,今日の私たちにはどんな特権が開かれていますか。

      9 特定な者たちは,その働きの故に,物惜しみしない理解のあるもてなしをして,受け入れなさい,と使徒はしばしばすすめました『ケンクレヤにある会衆の奉仕者,私たちの姉妹フイベを,あなたがたに推薦する。どうか,聖徒たるにふさわしく,主にあつて彼女を迎え,そして,彼女があなた方にしてもらいたいことがあれば,何事でも,助けてあげて欲しい。彼女は多くの人の援助者であり,また私自身の援助者でもあつた。』ケンクレヤ会衆の『奉仕者』であつたフイベは,実に良く働いた人で,しばしば他の人々に物を分ち合いました。使徒自身にも物を分ち合つたのです。パウロはそのことを知つていました。それで,彼女が他の者たちを受け入れた仕方で,『聖徒たるにふさわしく』ローマの兄弟たちによつて受け入れてもらいたい,とパウロはすすめています。―ロマ 16:1,2,新世。

      10 第1世紀のクリスチャン統治体が,特別の僕たちを会衆に派遣して,その霊的な必要物を給したとき,僕たちをもてなすことは,当該の兄弟たちの特権でした。今日でも,同じです。統治体は,会衆を霊的に助けるため巡回の僕や地域の僕,そしてベテルの兄弟たちのような特別な僕を派遣します。これらの特別な僕たちを『聖徒たるにふさわしく』受け入れて,『その必要物に応じて』これらの僕に物を分ち合うことは,会衆の特権であります。

      11 (イ)『その必要物に応じて』ものを分ち合うとは,どういう意味ですか。(ロ)ものを分ち合うとき,神の恩恵を実際に得るものは,何ですか。

      11 クリチャンのもてなしは,『その必要物に応じて』なされますから,それは物惜しみしないものであつても,しかし適度のものです。気持良く分け与えることができても,それには無理のないようになすべきです。(テトス 3:2)『適度』でありなさい。物惜しみしない,ということは聖書の規則です。しかし,分を過ぎることは,聖書の規則ではありません。たとえ一時的であつても,自分を貧しくすべきではありません。時折り,兄弟たちは,自分の出すものが特別のものでなく『肥えた犢』でない,と感じて,他の人々と物を分ち合わないことがあります。そのような人は,悪い態度を示しています。自分の給するものは,普通の食物だから,という理由で,兄弟は特別な僕の接待をさし控えるべきではありません。神の子は,もてなしをされたときに,普通の食物では良くない,と感じられたでしようか。奇蹟的にも5000人に備えられた食事は,『肥えた犢』のものでなく,パンと魚でした。イエスは,神の力によつて,富めるローマ人の食べるような豪華な食事を備えることができました。しかしイエスは,『その必要物に応じて』彼らに食物を与えられたのです。それですから,実際のところよりも良い状態を示さねばならぬ,と感じてはなりません。そのように感ずることは,もてなしの道に従うことでなく,誇の道に従うことです。物惜しみしないクリスチャンの気持も,良いたよりのために険約せねばならぬ気持と釣合ねばなりません。そうすれば,私たちの物惜しみしない気持が度を越すということもなく,私たちの経済がけちけちすることもありません。物を分ち合うとき,神の重んぜられることは,何を分ち合うかではなく,なぜ分ち合うか,ということです『もし心から願つてそうするなら,持たないところによらず,持つているところによつて,神に受けいれられるのである。』― テモテ前 3:2。コリント後 8:12,新口。

      12 (イ)ものを受け取るクリスチャンの仕方を説明しなさい。(ロ)抑制を受けない利己主義には,どんな危険がありますか。

      12 与えるときには分別を持たねばならないように,受けるときも分別を持たねばなりません。『聖なる者にふさわしく』与えるのですから,同じように,受けるべきです。提供されたものを受けいれる際には,分別を持ちなさい。例えば,他の人と食物を相伴するように招待されたなら,適度の振舞をなして,利己的にしてはなりません。5人が食事を一緒にするとき食卓上に,肉が5片しかないなら,たとえ沢山食べたいと思つても,肉の1片だけを取ることが,親切な事柄であり,無私の事柄であります。ヱホバは,利己的な人々を憎みます。貪欲な人々は,ひとりも神の御国を相続しないでしよう。(コリント前 6:10)忘れてはなりません。キリストの千年統治の終には,利己主義が表われることによつて数多くの人々が悪魔の運命に加わつてしまうでしよう。今から,あらゆる形式の利己主義を根絶やしにし始めなさい。いまそのことで進歩しておけばおく程,最終の試験が来るときに私たちには具合が良いでしよう。それで,与えることには,気を配つた親切と考え深さが必要のように,受けることにも同じものが必要なのです。

      『不平を言わずに』物を分ち分う

      13 神に重んぜられるもてなしは,どのように与えられねばなりませんか。

      13 利己的な気持を抱かない人は,物惜しみせずに与えます。『各目は惜しむ心からでなく,また,しいられてでもなく,自ら心で決めたとおりにすべきである。神はよろこんで施す人を愛して下さるのである。』物惜しみせずに施すことについて,諭すなどということは無用なものに見えます。しかし,ペテロが次の言葉を述べることは必要でした,『不平を言わずに,互にもてなし合いなさい。』― コリント後 9:7。ペテロ前 4:9,新口。

      14 (イ)なぜ,或る人々は不平を言いながら与えますか。(ロ)もてなしの悪用者を,どのように見出すことができますか。彼らには,どんな聖書的な規則を適用すべきですか。

      14 初期のクリスチャンたちの中の或る者は,もてなしをしたときに不平を言つたのでしよう。それらの人々は,利己的で,物惜しみであり,吝嗇だつたかもしれません。或は,もてなしを悪用していた者のために,ひどい目に会わされて,『気むずかしく』なつてしまつたのかもしれません。テサロニケの或る人々は,『ただいたずらに動きまわつて』『働かない』のでした。これらの人々の中の或る者は,兄弟たちのもてなしに頼つて生活した居候だつたかもしれません。彼らは,いろいろの家庭に行つて,兄弟たちに厄介をかけていました。とにかく,パウロは次の規則を置くことは賢明である。と見て取りました,『働こうとしない者は,食べることもしてはならない。』この聖書的な原則を適用することによつて,兄弟はもてなしをするのは危険であるなどと感じなくてもすみます。なぜですか。なぜなら,もし見分けようとするなら,もてなしの悪用者を見つけ出すことができます。居候は,霊の思を持つておらず,その話は誠実な神権的なものでありません。霊の思の不足していることは,直ぐに認めることができます。しかし,何よりも先ず,絶対の徴候があるのです。熱心に働く人は,自分自身の必要物を得るためと,良いたよりを伝道するのに忙しいため,人のものを斑して取る時間はありません。居候は,熱心に働かないから,人のものを斑す時間があるのです。それですから,もてなしをするにふさわしい者か,どうかを知るのは容易なことです。これらの人々には,私たちは『不平を言わず』に分ち合うべきです。―コリント後 9:7。テサロニケ後 3:10,11,新口。

      15 使徒ヨハネは,その愛している友ガイオに,どんな賞め言葉とはげましを与えましたか。

      15 聖書の中には,もてなしを大きな特権と見なして,『不平を言わずに』与えた人が多くいます。使徒ヨハネは,ガイオに宛てて,次の言葉を書きました,『愛する者よ。あなたが,兄弟たち,しかも旅先にある者につくしていることは,忠実なわざである。彼らは,諸会衆で,あなたの愛についてあかしをした。これらの人々を,神にふさわしいように送り出して欲しい。彼らは神の御名のために旅立つた者であつて,諸国民からは一銭も受けていない。それだから,私たちは,真理のための同労者となるように,こういう人々を受け入れてもてなさねばならない。』ガイオは労している者にもてなしを示しました。そして,ガイオのすばらしい気持のことを聞いたヨハネは『忠実なわざをしている』とガイオを賞めています。そして,更に『神にふさわしいように』兄弟たちを受け入れつづけるようにと,ヨハネはガイオにすすめています。―ヨハネ第三書 5:8,新世。

      16-18 (イ)ルデヤは,どんな人でしたか。なぜ,私たちはルデヤのようでなければなりませんか。(ロ)使徒パウロは,もてなしをどのように見なしましたか。なぜ私たちは,パウロのようでなければなりませんか。

      16 正しい気持を示した別の人は,ルデヤです。パウロは,マケドニヤのピリピで彼女に会いました。ルデヤは真理を受け入れて,洗礼<バプテスマ>を受けました。『この婦人もその家族もバプテスマを受けたが,その時,彼女は「もし私をヱホバに忠実な者とお思いでしたら,私の家に来て泊まつて下さい」と懇望し,しいて私たちをつれて行つた。』― 使行 16:15,新世。

      17 ルデヤは,ほんとうにもてなしの道に従いました。パウロも正しい気持を示しました。ルデヤは,これらのヱホバの僕たちをもてなすのは大きな特権である,と考えました。パウロは,それを切望したわけではありません。ルデヤには,パウロを泊めねばならぬ義務がある,と思わせるような行は,パウロのしなかつたものです。パウロは,『そうするのを期待している』『私にそうせねばならぬ』というような態度を決して見せませんでした。彼は,食事のことや泊まる所については,一言も述べなかつたのです。ルデヤの方でその申し出をしたのです。ルデヤはなんと気が利いていたのでしよう! パウロには,食物も必要だし,夜には眠るところも必要だ,とルデヤは知つていました。たとえその人がどんなに裕福であろうとも,人の負担になることは,パウロの望むところでありませんでした。それで,ルデヤが強いてすすめてから後になつて,パウロはその申出を受けたのです。ルカの記録した言葉 ―『しいて私たちをつれて行つた』― は,ルデヤが非常に思いやりのある,暖い心持の婦人なることを示しています。ルデヤのようでありなさい。

      18 私たちはまた,パウロのようでもなければなりません。人は,使徒に対して義務を負つている,などの感じを,パウロは決して起させなかつたのです。それですから,もてなしは当然になされるべきものだ,などと思つてはなりません。兄弟たちは,あなたに,もてなしをする義務がある,などと決して考えてはなりません。たとえば,兄弟が自分の自動車に,あなたを同乗させて集会に連れて行つてくれるなら,今後はその兄弟は毎週そうすべきだ,などと考えてはなりません。利己的でない正しい態度は,こうです,「人に迷惑をかけるよりは,集会所まで歩いて行こう。もし,兄弟が親切にも自動車で私を集会所まで連れて行つて呉れるなら,その暖い親切に対してヱホバに感謝しよう。兄弟が二度としてくれなくても,私は気を悪くしない。」この無私の態度を保つことにより,与える兄弟は,その分け与えるものが『しぶりながらではなく,心をこめ』たもの,と感ずるでしよう。―コリント後 9:5,新口。

      努力をする

      19 もてなしをしようとする努力をなすとき,私たちは何を心に留めねばなりませんか。

      19 他の人々に物を分け合いたい,と望むならば,その努力をしなければなりません。この努力は,人に当惑を与えるものであつてはならず,しかも容易に受け入れられるものでなければなりません。それですから,友なる同労者を食事に誘うなら,『私たちといつしよに食事をしたいですか』と言う代りに,『いらつしやい,私たちといつしよに食事をして下さい。』と言いなさい。もしその気なら,積極的に言いなさい。人に負担をかけまいとした使徒パウロの態度を考えてみるとき,『私たちといつしょに食事をしたいですか』というような質問にたいして,彼がどう答えるかは,察しがつくことでしよう。ルデヤは,積極的に招待して,「しいて彼をつれて行つた」ということまでもしたのです。

      20,21 (イ)品物を分け合うために,特別の努力をした人々の聖書の例を述べなさい。(ロ)それらの人々のもてなしは,心を打つたどんな反応を起しましたか。

      20 努力をするためには,時折り,非常な骨折が必要になります。パウロは,テモテに手紙を書き送つたとき,オネシポロがわざわざ獄にいたパウロを訪問し,そしてパウロに飲食物を持つてきた,と述べました。『どうか,主が,オネシポロの家にあわれみをたれて下さるように。彼はたびたび,私を慰めてくれ,また私の鎖を恥とも思わないで,ローマに着いたときには,熱心に私を捜しまわつた未,尋ね出してくれたのである。』ローマのような大都市では,パウロを見つけ出すために「熱心に捜しまわす」ことが必要でした。しかし,オネシポロはその努力をしました。彼は,獄につながれていた使徒に飲食物をもつてきました。しかも,一度とか二度ではなく,『たびたび』のことだつたのです。このもてなしは,パウロの心を深く動かしたため,彼は『どうか,主がかの日に,ヱホバからのあわれみを彼に賜わるように』と叫びました。―テモテ後 1:16-18,新世。

      21 もてなしをするために努力をした別の人は,シュネムの婦人でした。この婦人は,エリシァがヱホバに仕えているのを知りました。エリシャが通る度に,この婦人はわざわざエリシャを家の内に招じ入れて,飲食物をすすめたのです。或日のこと,それ以上のことができる,とこの婦人は思いました。それで,夫に向つてこう告げたのです,『視よ,このつねにわれらを過る人は,我これを見るに神の聖き人なり。請う小き室を石垣の上につくり,そこに寝床と机と腰掛と燭台を彼のために備えん。彼われらに至るときは,そこに入るべしと。』ある日,エリシャはこの小さな室に休んでいて,その婦人に,この御親切にお報いしたい,と告げました。婦人は,何も求めませんでした。しかし,エリシャは従僕からの知らせによつて,このシュネムの婦人には子供がなく,しかも夫はかなり年老いていることを知りました。それで,この婦人に子供が与えられることは,極めて大きな祝福だろう,とエリシァは悟つたのです。予言者は,その婦人を呼んで,翌年に男の子をはらむだろう,と告げました。この婦人は,なんと祝福されたのでしよう! かねてからの一番の希望は実現されました ― それも,ヱホバの僕のひとりを,自分の家に同居させるようにしたからです。―列王紀略下 4:9,10。

      22-25 (イ)何が『よろこんで分け与える』ことのできない原因になりますか。(ロ)使徒パウロが困つたとき,誰が『よろこんで分け与え』ましたか,そして誰がしませんでしたか。(ハ)マケドニヤ会衆の扶助を受けたパウロは,なぜマケドニヤ会衆を『かすめた』と言つたのですか。

      22 兄弟たちは,十分裕福でありながら,シュネム人やオネシポロのように,気を利かして思い遣りを示すとか,『よろこんで分け与える』ことをしないことがあります。そのわけは,兄弟たちが吝嗇だからですか。むしろ,考えを全くめぐらさないか,或は円熟の不足によるようです。このことについて,パウロの奉仕を初めて受けたコリント人のことを想い起します。パウロは,時間極めの仕事をしていましたが,それでも生活に困りました。ところが,コリント人たちは『よろこんで分け与え』なかつたのです。彼らは,パウロに品物を分ち与えるなどの努力をしませんでした。コリント人を去つてから後になつて,パウロは何一つ求めずにコリント人に奉仕した事実を述べるべきである,と感じました。

      23 『あなた方を高めるために自分を低くして,神の良いたよりを価なしにあなた方に宣べ伝えたことが,罪になるのだろうか。私は他の諸会衆をかすめて扶助を受け,あなた方に奉仕した。あなた方のところにいて貧乏をした時にも,だれにも負担をかけたことはなかつた。私の欠乏は,マケドニヤから来た兄弟が豊かに補つてくれたからだ。』― コリント後 11:7-9,新世。

      24 その言葉を読んで,私たちは考えねばなりません。コリント人たちは,考えなかつたのです。パウロは,1年以上ものあいだコリント人に奉仕しました。しかし,彼らは「パウロの必要物に応じて」彼に物を分ち合おうとしなかつたのです。パウロが困つたときに,マケドニヤから来た兄弟たちがパウロの必要を充しました。しかも豊かになしたのです。パウロは,コリント人に奉仕するため,他の会衆を『かすめて』扶助を受けた,と峻烈な言葉を述べています。その言葉から,使徒が深い感動を受けていた,ことが分るのです。なぜそうですか。パウロは自分自身に感動していたのではありません。『私は,どんな境遇にあつても,足ることを学んだ。私は貧に処する道を知つており』― ピリピ 4:11,12,新口。

      25 要点はこうです,コリントの兄弟たちは明らかに裕福で,物を分ち合うことができたのです。全くのところ,コリントの富は有名なものであつて,世間の周知の事柄でした。ところが,マケドニヤの会衆は,貧しかつたのです。非常に貧しかつたために,パウロは,その『極度の貧しさ』は『あふれ出て惜しみなく施す富となつた』と語りました。この極度の貧しさにもかかわらず,マケドニヤの人々は物を分つ特権に与りたい,と願い求めたのです。自分たちの力以上にしたことは,たびたびでした。更に,マケドニヤの会衆は,自分たちの区域内で良いたよりをひろめるためには,極貧に甘んじながら,富んでいることで有名な都市にいたパウロを扶助したのです。コリント人は,援助することができたはずです。しかし,パウロは,良いたよりがいつも無料の贈物であるようにと欲して,コリント人に援助をお願いしませんでした。そして,コリント人は一度もパウロを援助しよう,と申し出なかつたのです。―コリント後 8:1-4,新口。

      26 今日のクリスチャン会衆はどのように『マケドニヤ』の分け合いの気持を示すことができますか。

      26 なんという対照なのでしよう! コリント人たちは,考えが足らず,また円熱していなかつたために,物を分ち合うことを考えませんでしたが,一方,考え深くて円熟したマケドニヤ人たちは,自分たちのでき得る以上に物を分ち合つたのです。今日のクリスチャン会衆は,マケドニヤ人のごとく考え深く,また気を配つて物を分ち合うべきです。自動車を持つている或る兄弟たちは,わざわざ善意者を自動車に乗せて,集会に伴つて来ます。それは善いことです。ところが,自動車を持つていながら,自分の兄弟たちを乗せるのを忘れる人がいます。兄弟たちが,病弱な人や年寄の人,あるいはずつと遠いところに住む人を,自分の自動車に乗せて行くことは,なんとすばらしいでしよう! 分け合う気持の欠けている或る人々は,こんな風に言うでしよう,「集会が終つてから,あの年寄の姉妹を町外れの家まで自動車で送るなら,半時間を損してしまう。」たしかに,物を分け合うために,あなたのいくらかの時間は取られるでしよう。しかし,兄弟たちを助けるために,わざわざのことをなして,すこしの時間を取るからといつて,その時間は損のものにはなりません。『善を行うことと施しをすることとを,忘れてはいけない。神はこのようないけにえを喜ばれる。』― ヘブル 13:16,新口。

      27 他の者にものを分け与えることについて,私たちはどんな質問を自問すべきですか。

      27 いま,次の事柄を自問してごらんなさい,私は他の人々と物を分ち合うだろうか。私は,そうすることができるか。私は,努力をして兄弟たちに親切を示すだろうか。それらの質問を良く考えなさい。あなたには自動車があり,そして集会の終つた後に雨が降つているなら,自分一人だけで自動車に乗つて行く前に,誰か一緒に乗る方はいませんか,と特別に尋ねるだけの親切を示しますか。食事をして,食物の余りが出るとき,開拓者にそれを差し上げようと考えますか。余分の衣服があるなら,困つている兄弟に,使用して頂けますかと尋ねますか。あるいは,他の人々に物を分ち合うことを忘れますか。キリストの使徒は,『忘れてはいけない。』と言いました。

      28 会衆の僕は,何に気を配るべきですか。

      28 もし,あなたが会衆の僕で,隣の会衆の兄弟を招待して講演してもらうなら,その兄弟のもてなしについては,何の考慮も払いませんか。それとも,兄弟たちにもてなしをなす特権を告げますか。たとえ貧乏であつても,マケドニヤの兄弟たちが,訪問した奉仕者を,お腹の空いたままで帰らせる,などと想像できますか。

      すべてのことは良いたよりのため

      29 (イ)兄弟たちは,良いたよりのために私たちと物を分け合いますが,私たちのどんな義務は,無くなりませんか。(ロ)愛と同じように,感謝を,どのように言葉と行の両方で表わすことができますか。

      29 兄弟たちが,私たちの必要物に応じて,私たちにもてなしを示すとき,それは高尚な意味で,良いたよりのためにするのです。私たちは,そのことを知つています。このことを知つているからとて,感謝の念を持たなくても済むというわけではありません。実際のところ,私たちはますます感謝の念を持つように気をつけるべきです。兄弟たちがあなたと物を分けるとき,感謝の言葉を言うのを忘れてはなりません。この『終の日』には,人々は『恩を知らぬ者』になる,と予言されていました。そして,人々は実際にそうです。(テモテ後 3:1,2,新口)しかし,新しい世の社会に入つている人々は,感謝の念を失つてはなりません。時々,私たちは言葉だけでなく行でもつて感謝を示すことができます。それですから,開拓者のように収入のごく僅かな人の自動車に同乗するときは,ガソリンと油代に適当な額の寄附をすることは,感謝の気持を表わし示すものです。小さな,ごく僅かな恩恵に対して感謝を示すなら,それは人の心を測るのであつて,品物を測つているのではない,つまりその人を重んずるのであつて,その人の持物を重んずるのでない,ということを表わし示すのです。どうぞ,そのことを忘れないで下さい。それで,感謝の念を持つことによつて,私たちは心を見られる天の父のようになることができるのです。

      30 良いたよりのために他の者と物を分ち合うことから,どんな祝福が得られますか。

      30 本当に,良いたよりのためになされるもてなしは,豊かな祝福を生じます。人間にたいする感謝の気持を起させるだけでなく,先ず神にたいする感謝の気持を起させるからです。神にたいする感謝の念が多くなればなる程,私たちの心は広くなり,霊的な識別は富んできます。パウロはこう語りました,『あなた方はすべてのことに豊かになつて,惜しみなく施し,その施しは私たちの手によつて行われ,神に感謝するに至るのである。なぜなら,この援助の働きは,聖徒たちの欠乏を補うだけではなく,神にたいする多くの感謝によつてますます豊かになるからである。』与えるときも,受けるときも,もてなしは,かくして,もてなしの気持を兄弟たちの心に入れられた御方,すなわち恵の神なるヱホバに対する私たちの愛を深めます。―コリント後 9:11,12,新口。

      31 なぜ,物質を分け合うことは,真のクリスチャンの主要な目的でありませんか。真のクリスチャンの主なる関心は何ですか。

      31 良いたよりのために物質をよろこんで分け合うなら,その良いたよりそのものを分け合ことをなおざりにするなどということは,考えられないことです! ところが,神の求めて居られることは,私たちが親切であつて,物質の面で善行をすることだ,と考える人は多くいるのです。しかし,実際には,神の御国の良いたよりを他の者に分ち合うことによつて,『自分自身とあなたの教を聞く者たち』とを救うのです。物質ならよろこんで分け合うが,霊的なものを分け与えることを渋る人の愛は,どこか欠点があるもので,充分なものではありません。なぜなら,それらの人々は真実にキリストに従つていないからです。(マタイ 19:21)それで,体の欠乏を補うだけでは,充分でありません。『たといまた,私が自分の全財産を人に施しても……もし(生命を与える霊的な事柄を分け合ことによつてキリストに従う程の)愛がなければ,いつさいは無益である。』もし真実に神と私たちの隣人を愛するなら,良いたよりをひろめるために,他の者に物質を分け合うことをも含めて,あらゆる事をなすでしよう。そして,使徒と共になつて次の言葉を確証づけるでしよう,『福音のために,私はどんな事でもする。私も共に福音にあずかるためである。』― テモテ前 4:16。コリント前 13:3; 9:23,新口。

      32,33 どんなことから,もてなしの気持と,よろこんで分け合おうとする心は生じますか。しかし,それはどんな結果になりますか。それで,私たちは誰のようでなければなりませんか。

      32 もてなしと,分け合う気持は,なんと富ましめるものでしよう! 見知らぬ人々にもてなしを示すことにより,『私たちは,……親切によつて,神の奉仕者として自分をすすめる。』兄弟たちと物を分ち合うことにより,私たちは愛と感謝を示し,良いたよりをひろめることに働きます。まつたく,『あなた方はすべてのことに豊かになつて,惜しみなく施し。』そのひとつに,あなたは,より大きな幸を得ます,『受けるよりは与える方が,さいわいである。』あなたは言葉で言いつくせない心の中のよろこびを得ます。あなたは,自分自身にたいする他の人の愛を豊まします。なかんずく,「神に対する多くの感謝」を起させることにより,ヱホバにたいする愛を豊まします。ほんとうに,与えることは,それを行う者たちを豊まします。ソロモンは,次のように述べました。『ほどこし散らして反りて増すものあり,与うべきを吝みて反りて貧しきに至る者あり。施しを好むものは肥え。』それで,もてなしと分け合うことは,他の人々の欠乏に気づくことからなされるのですが,しかしその結果はそれをなす人々の生活を豊ますことになります。―コリント後 6:4-6; 9:11。使行 20:35,新口。シンゲン 11:24,25。

      33 欠如にくるしむわけがありますか。すべてのことに豊んでは如何ですか。『惜しみなく施し,人に分け与えることをよろこび』『不平を言わずに,互にもてなし合いなさい。』(テモテ前 6:18。ペテロ前 4:9,新口)見知らぬ人を歓待して,御使をもてなしたアブラハムのようでありなさい。もてなしを大きな特権と見なしたルデヤのようでありなさい。親切であつたため使徒の心を広く開いたオネシポロのようでありなさい。もてなしをわざわざして,そのおかげで息子を授かつたシュネムの婦人のようでありなさい。極度の貧乏でありながらも,気を配つて考え深く,他の人に物を分け合つたマケドニヤの人のようでありなさい。ほんとうに,あなた方の天の父のようでありなさい。もてなしの道に従いなさい!

      [152ページの図版]

      私たちの姉妹フイベをあなたがたに推薦する……

  • 病人からの健康な言葉
    ものみの塔 1957 | 4月15日
    • 病人からの健康な言葉

      体の健康は良くないため,あなたは制束を受けていますか。『私のこの状態では,ヱホバに何をすることができるか。ヱホバを公けに讃える,などはどうしてでき得ようか。』と言いたい誘惑を感じますか。身体が悪いことは『肉体のトゲ』になつて,真の崇拝者たちの集会に出られなくなりますか。もしそうなら,自分の『肉体のトゲ』に対するパウロの態度を憶い起して下さい。『私が弱い時にこそ,私は強いからである。』どのように? ヱホバはパウロにこう告げています『私の力は,弱いところに完全にあらわれる。』― コリント後 12:7-10,新口。

      体が病気でも,霊的に病気であるわけでなく,また体が束縛されていても,心が束縛されるわけではありません。体が病気でも,その心は光り輝く冬の雪のように輝いている人は多いのです。そして,それらの人々は,『キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもつて』自分たちの聞いた『健全な言葉を模範にし』ています。―テモテ後 1:13,新口,

      しかし,病人は,どうすることによつて他のクリスチャンと心を交流して学ぶことができますか。また善意者たちの心と交流して教えたり,讚美を与えたりすることができますか。

      33年以上ものあいだ,関節炎のため病床に臥し,体の自由が利かず,身体上では役に立たない者で,しかも全くの盲である人の答を考えてごらんなさい。

      その人は,こう言つています,『私は定期的な伝道者であるのによろこんでいます。時折りの偶然の伝道をするだけでなく,他の人の援助により,私は口で言つて手紙を書かせています。そして,手紙といつしよに冊子や,雑誌やパンフレットを送つています。それだけでなく,約1年のあいだ私は,家から一つ通り向うの奉仕中心地における聖書研究に出席する,というよろこびの特権を頂いています。4年前に,私の家と私の姉および義理の兄の家とのあいだに私の必要を充たすために家族通信設備がつくられたことによつて,そのことができるようになつたのです。この設備を用いるおかげで,私は研究に『出席する』ことができます。いつも全部のことを聞くわけではありませんが,十分の事を聞き,それは豊かな祝福になります。また,私に言われる質問を答える,といううれしい特権もあります。』

      さて,あなたについては如何ですか。恐らくあなたの場合は,これと同じではないでしよう。考えを表わすと,あなたのよろこびは増します。

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