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エホバの家に対する熱心ものみの塔 1979 | 10月15日
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を示しました。会堂で,市場で,川の土手で ― ユダヤ人や他の人たちがいて話ができるならどこでも ― パウロは証しをしました。エフェソスでは学校の講堂で二年間,新しい「弟子たち」に毎日話をしました。(使徒 16:13; 18:4; 19:9)そして後日彼は,エフェソスの会衆の長老になった人々にこう言いました。「アジア地区に足を踏み入れた最初の日から……なんでも益になることをあなたがたに話し,また公にも家から家にもあなたがたを教えることを差し控えたりはしませんでした。むしろ……徹底的に証しをしたのです」。だれに対して? 最後に長老になった人たちだけにですか。そうではありません。パウロはさらに,「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に」証しをしたと述べています。ですから,悔い改めや信仰などの初歩の教えを知る必要のあった新しい人々も,パウロがエフェソスに来て最初の日から始めた『公の,また家から家の』宣教奉仕で教えた人々の中に含まれていました。―使徒 20:18-21; 18:19; 19:1-7。ヘブライ 6:1と比較してください。
17 (イ)いろいろな聖書の翻訳が,ギリシャ語のカト オイクースを「家から家に」と訳出していますが,そのように訳した根拠はどこにありますか。(ロ)パウロの言う『徹底的な証し』は,クリスチャンの行なう証しにどんなことが含まれることを示していますか。
17 この「家から家に」という句はギリシャ語,カト オイクースの訳です。他にも訳し方はありますが,多くの有名な翻訳聖書にこの表現,すなわち「家から家に」が用いられています。b それはギリシャ語の前置詞カタに「配分」の意味があるからです。(ルカ 8:1 ―「都市から都市」,「村から村」,また使徒 15:21 ―「どの都市にも」― に見られるカタの同様の用法と比較してください。)したがって,パウロの『徹底的な証し』が家々に次々と配分された,と言えるかもしれません。聖書学者のA・T・ロバートソン博士は,使徒 20章20節に関して次のような意見を述べています。
「家々(に従い)で。この最も偉大な伝道師が家から家に伝道し,それを単なる社交的な訪問に終わらせなかったということは,注目に値する」。
パウロが「徹底的に証しをした」ように,クリスチャンは今日も,霊的なものを求める傾向のある人々を探し,その人々の家を重ねて訪問し,関心を持つ人々と一緒に勉強します。その後,必要があれば,忠実な監督たちが訪問してその人々を導きます。c
18 パウロとその仲間が家から家に宣べ伝え教えることを差し控えなかったのはなぜですか。
18 パウロや当時の他のクリスチャンたちが,家から家に宣べ伝え教えることを『差し控えるべきでなかった』理由は十分にありました。当時は危険な時でした。ユダヤ教の事物の体制の滅びは急速に近づいていました。ローマの皇帝は偶像崇拝を奨励していました。ですから,「神々への恐れの念を厚くいだいて」いた人々は,「世界とその中のすべてのものを作られた神」,すなわち「どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを」当時「人類に告げて」おられた神を求めることが,緊急に必要でした。―使徒 17:22-31。
19 (イ)家から家への証言も,他の証言活動と同じく今日極めて緊急に必要とされているのはなぜですか。(ロ)「引き続き信仰にとどまる」ことに熱心であるならば,どんな結果になりますか。
19 戸別訪問,非公式の証言,再訪問,定期的な家庭聖書研究などによる『徹底的な証し』は,今日においても急を要します。使徒パウロの時代と同じく,「良いたより」が「天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」ことは事実です。しかし「大患難」の前にさらに徹底した努力を払う必要があります。使徒パウロがコロサイのクリスチャンたちに告げたように,わたしたちはみな,「引き続き信仰にとどまり,土台の上に堅く立って揺らぐことなく……良いたよりの希望からそらされないでいる」ことが必要です。―コロサイ 1:23。マタイ 24:21。
20 魂をこめて家から家へ宣べ伝えることは,今日どのように保護となりますか。
20 ローマ帝国の全盛期におけると同じように,今日でも世の圧力は,クリスチャンたちを不敬虔な人々のいわゆるレクリエーションや不道徳な行ないという快楽にふけらせることをねらいとしています。彼らは,「神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者」―「永遠の滅びという司法上の処罰を」まさに受けようとしている者たちです。(テサロニケ第二 1:6-9)わたしたちの保護は,パウロや当時の他の熱心なクリスチャンすべてと同じように働くことに,また「主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持」つことに,「人にではなくエホバに対するように魂をこめて」働くことにあります。(コリント第一 15:58。コロサイ 3:23)一世紀の会衆の使徒パウロや他の人々が残した手本に従って,公にそして「家から家に」働くことや,他の人々が「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰」について学ぶように『徹底的な証し』をすることには,大きな満足と喜びがあるのです。(使徒 20:20,21)こうして奉仕するときにわたしたちは,『エホバの崇拝の家に対する熱心がわたしを食いつす』という,わたしたちの主人について言われた言葉が,わたしたちにも常にあてはまることを願ってやみません。―ヨハネ 2:17。
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不法の世にあって宣べ伝えるものみの塔 1979 | 10月15日
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不法の世にあって宣べ伝える
「また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。しかし終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:12-14。
1 今日,世界では不法がどの程度はびこっていますか。(テモテ第二 3:1-5)
今日の不法の増加ぶりはどうでしょう。世界の多くの場所で,法と秩序をべっ視する傾向ははなはだしく,いわば大洪水の域に達しようとしています。ほとんどの大都市で犯罪が横行し,町を歩くのももはや安全ではなくなりました。近年になって多数の政府が革命で転覆し,国によっては,内部における造反と外部からの脅威に対して一分のすきもなく武装しているところもあります。共産主義の世界にさえ,ナショナリズムが社会主義的“一致”に優先するため,種々の困難があります。
2 不法はキリスト教世界の多くの教派にどのように浸透しましたか。
2 キリスト教世界はどうでしょうか。今の時代に関するイエスの預言通り,『不法の増加』はキリスト教世界の多くの教派に破壊的な影響を与えました。法と秩序を正しく重んずることを奨励する聖書を,今多くの人は「時代遅れ」と考えています。何事にも甘い現代社会に迎合して,不道徳や同性愛,不正行為などを大目に見,そうすることによって多数のまがいのクリスチャン,「神の王国を受け継がない」クリスチャンを生み出している教会は数知れません。―マタイ 24:12。コリント第一 6:9,10。
3 不法の者はどのようにしてクリスチャン会衆に入り込もうとしましたか。そのような人々についてイエスは何と言っておられますか。
3 不法の者たちは,わたしたちの主の『約束された臨在』はこの時代にあるのではないと主張して,真のクリスチャン会衆にまで入り込もうとしました。彼らは長老たちをあざけり,主人が地上における王国の関心事をつかさどらせるために「忠実で思慮深い奴隷」を任命したことに異議を唱えます。(ペテロ第二 3:3,4。マタイ 24:45-47)この種の人たちは,マタイ 7章15-23節に記録されている,イエスが警告した人々の中に含まれます。「羊のおおいをかぶってあなたがたのもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。……[その日には]わたしは彼らにはっきり言います,わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」。
4 わたしたちはどんな特質を養うように励まされていますか。またそれをどのように実証できますか。
4 しかしイエスは本当に「羊のような」人々については,「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」と言われました。わたしたちはどうすれば,自分にこの忍耐という資質のあることを実証できるでしょうか。それはイエスの次の言葉の成就にあずかることによってです。「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:13,14)「王国のこの良いたより」をふれ告げることにおいて忍耐するとき,わたしたちは救いを得るでしょう。
5 (イ)わたしたちはひとりで働くのではないと,どうして言えますか。(ロ)今どんな裁きがだれによって行なわれていますか。
5 わたしたちはこの仕事をひとりでするのではありません。というのは,この「事物の体制の終結」に関するイエスの預言にはさらに,「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼とともに到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座にすわります」とあるからです。目に見えない天からイエスは裁きの業を導き,それによって諸国民を,「羊飼いが羊をやぎから分けるように」分けるのです。この分ける業は「大患難」で頂点に達し,良い反応を示さない「やぎ」は去って「永遠の切断にはいり」,従順な「羊」は,「世の基が置かれて以来」彼らのために父が備えておられる王国を受け継ぐよう招かれます。―マタイ 24:3,21; 25:31-46。
6 (イ)「羊」と「やぎ」はどんな方法で,自分がそういうものであることを示すことになりましたか。(ロ)わたしたちの家から家への奉仕にみ使いの導きがあることは,しばしばどのように示されましたか。
6 では,「羊」と「やぎ」は,自分がそういうものであることをどのように示すのでしょうか。それは,霊で油そそがれた王の「兄弟」と彼らの仲間が地上で行なう証しの業,「地の最も遠い所にまで」達する業の結果として明らかになるのです。(使徒 1:8)この業の主要な部分は,地球全体にわたる家から家への伝道活動です。この活動の結果として,霊的な事柄の価値を認めてそれに反応を示す人々が出てきます。そのことは,「羊」級に対して王が言われた,「わたしがよそからの者として来ると,あなたがたはあたたかく迎え」てくれた,という言葉によって示唆されています。(マタイ 25:35)王は,彼らがご自分の「兄弟」を迎えることを自分にされたものとみなされるのです。それは霊的な事柄に注意を払わないかたくなな人々の応対と対照的です。この分ける業は確かにみ使いの指導の下に推進されてきました。(マタイ 25:31,32)そしてそれと関連して,「良いたより」をふれ告げる際にみ使いの助けがあります。というのは,ある誠実な人が神に助けを祈り求めたら,早くもエホバの証人がその人の家の戸口に立っていた,ということが非常によくあるからです。そしてまた,ある家庭が霊的な援助を一番必要としている時に,エホバの証人が妙なことからその家庭を訪問するということも,なんと多いのでしょう! わたしたちは,無数の天のみ使いの支持があることを知っているのですから,家から家へ熱心に宣べ伝えてふさわしい人々を探し出すことをやめないようにしたいものです。
一世紀の手本に従う
7 (イ)初期のクリスチャンたちが,「公にも家から家にも」熱心に証言していたことは,どんなことからわかりますか。(ロ)初期のクリスチャンたちと現代のクリスチャンたちとを,ほかのどんな点で比較することができますか。
7 初期のクリスチャンの間では,牧師と平信徒の区別はありませんでした。主イエス・キリストを信じていた人々は,教会堂の信者席に座るだけの人たちではありませんでした。彼らは活動する人々で,「公にも家から家にも」証しすることに熱心に従事しました。(使徒 20:20)彼らは文字通り『エルサレムを彼らの教えで満たし』,良いたよりを「天下の全創造物の中で」宣べ伝えたのです。(使徒 5:28。コロサイ 1:23)彼らが成功したのは,歴史家のE・アーノルドが自著「初期のクリスチャンたち」の中で述べているように,「彼らの共同体の中の最も無学な成員たちでさえ,彼らにゆだねられた真理を広める使者だった」からです。今日でも同じでなければなりません。次のパウロの言葉は信仰を持つすべてのクリスチャンに当てはまるからです。「人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです」。そしてその結果として多数の人が「良いたより」を聞いています。「実に『その音は全地に出て行き,そのことばは人の住む地の果てにまで行った』」からです。―ローマ 10:10,18。
8 キリスト教世界の宗教と真のキリスト教との間にはどんな著しい対照が見られますか。
8 真のクリスチャンの預言的な音信と,キリスト教世界の形式的な説教との間にはなんと大きな相違があるのでしょう! 歴史家H・G・ウェルズはこの相違を自著「世界文化史」の中で次のように指摘しています。
「この十分に発展した[西暦325年の]ニケアのキリスト教と,ナザレのイエスの教えとの間にある深刻な相違については,読者の注意を喚び起こす必要があろう。……いずれにしてもはっきりしていることは,ナザレのイエスの教えがヘブライの予言者とともにはじまった新しい型の予言的教えであった,ということである。……そして唯一つの組織は説教者の団体であり,その主な仕事は説教であった。ところが四世紀になってすっかり羽の生えそろったキリスト教は……すでに数千年も昔の世界から馴染みになっていた型の祭司的宗教になったのである。……こうして助祭とか,長老とか司教とかの組織は急激に発達していったのである」。
真のクリスチャンたちは今日における彼らの預言的教えとして,樹立された王国についての貴重な良いたよりを有しています。この良いたよりは,終わりが来る前に,『あらゆる国民の中でまず宣べ伝えられねば』ならないものです。―マルコ 13:10。
9 1919年に始まった家から家へのどんな奉仕が今日まで継続され,成功していますか。
9 現代におけるこの「良いたより」の伝道は,1919年9月5日,アメリカはオハイオ州のシーダー・ポイントで開かれた大会で新しい「黄金時代」誌の発行の企画が発表された後,一段と勢いを得ました。この雑誌は現在,「目ざめよ!」という聖書的な名称で呼ばれています。(ローマ 13:11)同誌は,その大会でものみの塔協会が発表したある特別な業のために用いられる道具となりました。
「黄金時代誌活動は,我らの神の報復の日と嘆く者への慰めとをふれ告げる王国の音信を携えて家から家に行く運動である」。
「目ざめよ!」誌を,そしてまた「ものみの塔」誌を携えて家から家に行く活動が,「良いたより」を人々に定期的に伝えるための大切な手段の一つであることは今日に至るまで,変わっていません。
10 活動に対して心を鼓舞するどんな呼びかけが1922年に行なわれましたか。家から家への活動はどのように組み込まれましたか。
10 エホバの証人の家から家への奉仕は,1922年に開かれた二番目のシーダー・ポイント大会からさらに勢いを得ました。この大会では,活動への忘れ得ぬ呼びかけが響き渡りました。
「バビロンが跡かたもなく荒廃するまで戦いに前進しなさい。音信を遠く広く述べ伝えなさい。世界は,エホバが神であり,イエス・キリストが王の王,主の主であることを知らねばなりません。今日こそ,あらゆる時代のうちで最も重大な日です。ご覧なさい,王は統治しておられます! あなたがたは王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」。
その大会のうちの一日は,グループで家から家に証言することに当てられ,一万冊の書籍が王国伝道者たちによって配布されたということです。今日に至るまで,大会で設けられる戸別伝道の特別プログラムは,大会出席者たちの喜びをいっそう増し加えるものとなっています。
『いなご』の軍は進む
11 (イ)家から家に宣べ伝える業に携わるエホバの証人の大群は,聖書では何になぞらえられていますか。(ロ)この“いなご”の活動は(1)僧職者に対して,(2)心の正直な人々に対して,どんな影響を及ぼしましたか。
11 こうして1920年代から1930年代にかけて行なわれた家から家への精力的な証言は,さながらキリスト教世界を通過するいなごの災いのようでした。啓示 9章7-10節に,「いなごのすがたは戦闘の備えをした馬に似ていた。……彼らの翼の音は,多くの馬に引かれる兵車が戦闘に走り行く音のようであった。また,彼らには尾と,さそりに似た針があ(る)」と描写されている通りでした。熱心な証人の「強大な」軍隊が,間違った教理や偽善的な宗教的慣習を暴露しながら,キリスト教世界の都市という都市,町という町を通過しました。僧職者はしばしばこれに刺されて盛んに反対をはじめました。その“いなご”の群れは,エホバのみ名を辱める者すべてに対するエホバの近づきつつある報復の日を予告し,また神の主権の下に回復されて楽園となる地球についての喜びのおとずれをもって,心の正直な人々を慰めました。―イザヤ 61:2。
12 (イ)この「終わりの日」は,ひとりで悦に入っているようなときではありませんが,それはなぜですか。(ロ)“いなご”の大軍に関するヨエルの言葉はエホバの証人の活動にどのようにあてはまりますか。
12 この「終わりの日」はひとりで悦に入っているような時ではありません。(テモテ第二 3:1)神の預言者ヨエルは,「エホバの日が来るから,それが近いからである」と,はっきり述べています。(ヨエル 2:1,新)この日は,偽りの宗教家にとっては憂うつと苦悩の日となりますが,神を愛する人々は今,「山々の上に広がったあけぼのの光」のような霊的啓発を受けて喜ぶことができます。(ヨエル 2:2前半)彼らは“いなご”の大軍のように,王国の音信を家から家に携えて行きました。神の預言者は彼らの熱心な活動を,次のような印象的な言葉で描写しています。
「数が多くて強大な民がいる。そのようなものは無窮の過去からいまだ存在したことがなく,その後にも代々の年月を重ねるまで二度とない。その前方では火がなめ尽くした。その後方では炎が焼き尽くす。その前方において,地はエデンの園のようである。が,その後方は荒れすさんだ荒野である。それ
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