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  • 確かな推理から得られる納得のゆく証拠
    目ざめよ! 1979 | 4月8日
    • 「生命のなぞ」と題する本はこう述べます。「盲目的な偶然には創造する力がある。……しかし,それは極めて限定されている。それは,下等な組織をごく容易に造り出せるが……その組織の数量が増えるにつれて,著しい速さで無力になってゆく。そして,長時間待ったり,膨大な物質資源を用いたりしても,これまで見てきたとおり,余り役に立たない」。

      おもちゃの“積み木”をただ空中にほうり投げて,それが偶然に“家”の形になることを希望したところで,その積み木から“家”を作れないこと位は子供でも知っています。確かに,時には,投げ上げた際に,二つか三つの積み木が重なり合うこともあるかもしれません。しかし,組織だった“家”の出来上がるどんな可能性があるでしょうか。事実,偶然に重なり合った幾つかの積み木を子供が守らなければ,次に積み木を投げ上げたときにせっかく重なり合っていたものもくずれてしまうでしょう。組織だった,複雑な“家”を完成させるには,だれかが積み木を上手に組立てなければなりません。

      ですから,科学者たちは自らの観察を通して,地球と宇宙に認められる高度の組織を造り出した要素としては,“盲目の偶然”を除外せざるを得なくなっています。

      1859年にチャールズ・ダーウィンの提唱したところによれば,盲目の偶然によって生み出された結果を組織化し,混乱の中から秩序をもたらすことのできる指導的な“選択者”は“自然選択”です。自然選択とは,各々の環境に特に適した,“適正な”(有益な)造りまたは有機体(動植物)のみが生存し,子孫に“適正な”造りを伝え,徐々により複雑な形態の生命へと“進化”してゆく過程であると信じられています。

      しかし,地球上に生命の存在を許す数多くの特異な諸条件を記述した後,英国のケンブリッジ大学の元動物学教授で,進化論者であるC・F・A・パンティンは,次の点を認めました。「自然選択の働きは,自然界の特色すべてを説明するものとなってはいない」。

      どんな「特色」ですか。動物学者のW・H・ソープは,ある特色を,「進化論が近年になって受けた,最も驚くべき,また憂慮すべき打撃の一つ」と呼んでいます。それは,信じ難いほど複雑な遺伝子の構造です。遺伝子とは,生きた細胞の中にあってその特定の動植物がどんなものになるかを決定する,極微の個体です。遺伝子は全く複雑きわまりありません。超小型コンピューターのように,遺伝子は情報を蓄え,細胞に指示を送ります。その情報すべてを標準活字で書き記すと,それは約1,000巻から成る百科事典を満たすものになるのです。

      複雑な遺伝子一つが,幾十億年にもわたる“成行き任せの突然変異”を通して行なわれる自然選択によって発生する可能性はどれほどあるでしょうか。「それでもなお,その期間に一個のまともなDNA分子が生産される可能性は想像を絶するほど少ない(10−415)」と,生物学者,フランク・B・ソールズベリーは,科学誌「ネーチャー」の中に書いています。「想像を絶するほど少ない」のです。1の後に415のゼロを付けた回数に一度の可能性です。

      ソールズベリーは自然選択による進化論を信じてはいますが,そのような事柄の起きる可能性がないために,次のような結論を出しています。「遺伝子の複雑さという問題を解決するのは,特殊創造説か指導進化論である」。

      何らかの理知的な力が,そのような複雑な分子の構築を「指導した」に違いありません。それは単なる偶然によっても,さらには「自然選択」によってさえ発達することはありません。原子や分子のような無生物が自らを秩序正しく配置することはないのです。

      「我々はまた次のことを知っている。生物の最も基本的な特徴は,それがエントロビー[高度に組織された体系が組織されていないものになろうとする傾向]を逆行させることのできる点にある。すなわち,秩序を減少させる(または,エントロビーを増加させる。つまり,石には坂を登るのではなく,転がり落ちる傾向がある)無生物の傾向とは対照的に,生物には秩序を回復させる力がある」と「反応する宇宙」と題する本は伝えています。

      このすべてはわたしたちにどんなことを教えていますか。太初のエネルギーの源が生きて存在していて,わたしたちの周囲にある自然界を創造するためにその自由になるエネルギーを用いた際に導きを与えたに違いないということです。

      わたしたちは確かな科学的論理を通して,聖書が2,700年以上の昔に前もって述べていたと同じ結論に到達します。それは,次のような,科学的に正確な陳述です。「目を高くあげて,だれが,これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし……その勢い[動的エネルギー]の大いなるにより,またその力の強きがゆえに,一つも欠けることはない」― イザヤ 40:26,口,[新]。

  • 設計された証拠
    目ざめよ! 1979 | 4月8日
    • 設計された証拠

      設計されたものが存在しているからには当然技術と能力を備えた設計者がいるはずです。手道具で精巧に仕上げられた腕時計が偶然に形造られるなどとたとえ一瞬でも考える人がいるでしょうか。その動きの正確さは,熟練した設計者がいることの証拠です。

      それでは,偉大な設計者の存在する証拠を見るために,人体をつぶさに調べてみることにしましょう。生気にあふれる,玉のような新生児は,それだけでも胸を躍らせるような奇跡です。その上,この小さな“生命のかたまり”の中には,高等教育を受けた技師や科学者をも感銘させずにはおかない,複雑な設計の証拠があるのです。それで,子供が成長してゆく過程で,すばらしい設計を示すいくつかの例に注目してください。

      わたしたちの骨: 「構造と設計の顕著な業績」

      進化論を強力に支持している「人体」と題する本は,骨についてなぜ上記のような描写をしているのですか。その理由は次のとおりです。骨は,「鋼鉄製の骨組が超高層ビルを支えているように人体を支え,また,コンクリート製の屋根が建物の居住者を保護するように体の大切な諸器官を保護する。こうした構造上の任務を果たすに際し,人体は,建築家や技師たちによく知られている,設計や建築上の諸問題を解決する」。

      もし自分が建築請負人で,ある家を増築し,高さと幅を三倍にするよう頼まれ,なおかつその家に住んでいる人の日常の仕事や夜の休息を一時間たりとも妨げないようにと言われたら,どう思われますか。そんなことは不可能だ,と言われるでしょう。ところが,骨にはまさにそのようなことが求められているのです。わたしたちの骨格は,幼児期から成人するまでに三倍の大きさにならねばなりません。

      骨はどのようにしてこの務めを果たすのでしょうか。部屋の壁や天井の内側から少しずつ材料をこそげ,その材料を壁や天井の外側に塗り付けてゆく人のことを考えてみてください。毎週,その部屋は数ミリずつ“大きく”なってゆき,やがて20年後に,わたしたちの家は以前の三倍の大きさになるのです。わたしたちの骨の中にある特別な細胞は,それと同じ“石工”の仕事をします。その細胞は,破骨細胞(骨を破壊する細胞)と骨芽細胞(骨を造る細胞)です。

      そして,わたしたちの骨には実に大きな力と柔軟性が組み込まれています。その構造は鉄筋コンクリート(現代の建造物に広く用いられている,驚くべき力を備えた材料で,柔軟性に豊む鋼鉄の棒の周囲にコンクリートを流し込んで固めたもの)に似ています。骨の中のコンクリートのようなカルシウムの間を,交差するように膠原質の線維が走り,強化材になっています。ところが,骨は鉄筋コンクリートの八倍も強力です。その張力は鋳鉄をもしのぎます。人間の脛骨は,常に2㌧近くの重さを支えることができ,一平方㌢当たり1,400㌔の圧力に耐えることができます。にもかかわらず,骨は柔軟性に富み,驚くほど軽くできています。もし骨の代わりに鋼鉄を使うと,73㌔の人は,ほぼ360㌔の体重になってしまいます。この次,水に浮かんでいるときに,そのことについて考えてみてください。ですから,わたしたちの骨には,強さと柔軟性と軽さを兼ね備えた,完ぺきな調合物が用いられているのです。

      それだけではありません。骨の内側は,あたかも“造幣局”のようになっています。そこでは,体にとって命を意味する,新しい血液細胞が,いわば“鋳造され,発行されている”のです。「人間の構造と機能」と題する本が次のように述べているとおりです。

      「銀行はその建物の基礎の中に金庫室を作り,その奥深い安全で,防護の固められた所に銀行の正貨準備を蓄えておく。それと同様に,体も人間の体の中で最も保護された場所である骨の内部を用いて,細胞の形になった硬貨や金,すなわち血液を蓄える」。

      「今日の健康」誌が,「人間の骨格は,工学上の設計の傑作である」と述べているのももっともなことです。

      「耳: 工学の傑作」

      「音と聴力」という本は,わたしたちの聴覚器官を上記のように描写しました。その本はさらにこう述べています。「ところが,[外耳]の背後に見られる構造は,最も腕の立つ職人をも恥じ入らせるような精巧さを備え,最も創意工夫に富む技師にも畏敬の念を抱かせるほど信頼の置けるオートマチック機能を備えている」。

      ちょっと考えてみてください。ハイファイの送信および受信装置全体が縮小されて,わずか6平方㌢のスペースに収められているのです。(音波を集める)外耳から,(音波を機械的な動きに変換する)中耳を通り,(機械的な動作を電気衝撃に変える)内耳にかけて,わたしたちは本当に複雑な設計の証拠を目撃します。

      蝸牛(カタツムリの殻を思わせる,内耳の一部分[前頁の絵を参照])で,まさに奇跡が起きるのです。ここで機械的な動きは電気衝撃に変換され,脳に送られ,脳はその電気衝撃を音として理解するのです。この機能を果たすため,この器官の中にある2万4,000本の微細な毛がピアノの弦のような役割を果たします。音波は蝸牛の内側に動きを引き起こし,その動きからこれらの“弦”が様々な音を再生するのです。これらの毛に接続している神経を通して,電気衝撃は脳に送られます。一参考文献はこう述べています。「ピアニストの耳の中にある蝸牛の大きさはその人の演奏するピアノの約百万分の一であるから,耳の中にある聴覚“ピアノ”の大きさに到達するには,コンサート用ピアノの鍵盤と弦を約一億分の一に縮小したものを想像しなければならない」。わたしたちの“ピアノ”は,ほんのかすかなささやきから,一大オーケストラの演奏するクレッシェンドの部分まで,あらゆる音を完全に再生します。しかもそのすべてを,豆粒大の部分でやってのけるのです! 設計,それとも偶然,そのどちらですか。グランドピアノでさえ,それが偶然に存在するようになった,などということを聞いたことがありますか。

      人間の手: 「道具の中の道具」

      これは,人間の業績の多くを可能にした器官について古代の医学者の語った言葉です。生化学者アイザック・アシモフは,手を次のように呼び,そうした考えを繰り返しています。

      「……最高度に器用な器官で,生物の領域全体を見回しても,この種のものとしては他の追従を許さない。四本のしなやかな指に向かい合うように親指があるので,その全体を,精巧なペンチ,しっかりとつかむ道具,ねじったり,曲げたり,引っ張ったり,押したりする道具,そしてピアノの鍵盤やタイプライターのキーを巧みにあやつる道具として用いることができる」。

      確かに手は力強いだけでなく,著しく敏しょうです。手を用いてハンマーを打つこともできますが,それと同じく小さなピンを拾うこともできるのです。

      わたしたちの指を動かしている,強力な筋肉はどこに位置しているのでしょうか。では,自分が手を設計する立場にいたなら,どこにその筋肉を付けますか。指そのものにでしょうか。それは何と恐ろしいことになるのでしょう。そうすれば指に力が入るかもしれませんが,それは太いソーセージのようになってしまうでしょう。太いソーセージでピンを拾い上げようとしたことがありますか。ところが,指を曲げるための筋肉のほとんどは前腕部に位置しています。指を曲げて,自分の前腕部に触れてごらんなさい。筋肉が動くのを感じますか。それらの筋肉は“すじ”つまり腱によって指先とつながれており,その結果,大きな力が出るだけでなく,本当に柔軟性に豊んでいるのです。実にすばらしい設計ではありませんか。これは,単なる偶然の所産ですか。

      脳: 「世界で最も驚嘆すべき創造物」

      これは,指導的な人類学者で,進化論者のローレン・C・アイズレイが1955年当時,人間の脳について語った言葉です。今日の人間は,その増大した科学技術すべてをもってしても,人間の脳の行なえる事柄にはいまだに太刀打ちできません。脳には,「100億の神経細胞があり,そのいずれも2万5,000の他の神経細胞とつながり合う可能性を秘めている。この相互のつながりの数を合計すると,その数は天文学者をも仰天させる。しかも,天文学者は天文学的な数字を扱うのに慣れっ子になっているのである」と,一参考文献は伝え,さらにこう述べています。「これと同程度の相互のつながりを処理できるほど高度なコンピューターを造るとすれば,それは全地を覆うほどの大きさになるだろう」。

      ところが,そのすべてはわずか1,360㌘の重さの物質に縮小され,両手にすっぽり収まるほどの大きさになっているのです。脳が「宇宙で最も高度に組織化された物質」と呼ばれているのも,もっともなことです。

      わたしたちの脳には,人の造ったコンピューターに行なうことのできなかったある事柄を行なう能力があります。それは,独創的想像です。これは,作曲家ベートーベンの経験から特に明らかです。その作品の中でも名作とうたわれる交響曲第九番が紹介されたとき,聴衆は「熱狂的な喝采」を送りました。聴衆はその演奏を大いに喜んだのです。ベートーベンはそれを耳で聞き取ることはできませんでした。ベートーベンの耳は全く聞こえなくなっていたのです。考えてみてください。ベートーベンはその作品の豊かな音全体をまず自分の想像力で“聞き”,それを楽譜に表わしたのです。しかし,実際には一つの音も聞いてはいないのです。わたしたちの脳にはなんとすばらしい独創的想像力が備わっているのでしょう。

      わたしたちの体には最高度の設計の例があることは明らかではありませんか。わたしたちは,二年間にわたって“電子頭脳”を設計しようと悪戦苦闘した,ある著名な顧問技師の達したのと同じ論理的な結論に達するのではないでしょうか。その技師はこう語りました。「[このコンピューターの]提起した,数々の設計上の問題に直面し,それを解決した後,そのような装置が……理知ある設計者……による以外の方法で存在するようになったと考えるのは,私には全く不合理なことに思える。もし私のコンピューターに設計者が必要であったなら,あの複雑な……機械ともいえる人体にはなおさら設計者が必要であったはずである」。

      こうした設計の例すべては,“ただ偶然に起きた”にすぎないと言えるでしょうか。統計家とは,ある特定の対象に関する数字や事実を注意深くまとめるのを仕事にしている人ですが,その道で名の通ったジョージ・ギャラップは次のように語ったことがあります。「私は神の存在を統計学的に証明できる。人体だけを取ってみても,一個人の機能すべてがただ偶然に生じる可能性は,統計学的には奇異なほど少ない」。言い換えれば,このすべてが何らかの導きとなる力なしに「ただ偶然に生じ」得る可能性は,実際のところ皆無に等しい,つまり「統計学的には奇異なほど少ない」のです。

      偉大な物理学者であるケルビン卿は,息を引き取ったときには「議論の余地なく,世界で最も偉大な科学的天才」でしたが,それと同じような結論に達しました。「科学からすれば,我々は全き確信を抱いて“指導的な力”を信ぜざるを得ない。その“指導的な力”とは,物理的,または力学的,あるいは電気的以外の力である。……科学によれば,神を信じざるを得なくなる」。(下線は編者による。)

      わたしたちは,(1)確かな科学的論理,および(2)わたしたちの周りの世界に設計の跡が見られることから,神の存在の納得のゆく証拠を見ることができます。しかし,それでもまだ,わたしたちの脳裏には,この神はどんな方なのだろう,という質問が浮かんできます。満足のゆく答えを見いだすために,どうぞ次の記事をお読みください。

      [9ページの図版]

      人体の驚異は,耳,脳,そして骨の構造に見ることができる

      「蝸牛[耳の一部]……はピアノに似た,複雑な構造を持つ楽器である」

  • 神は実在する! しかし,どのような方か
    目ざめよ! 1979 | 4月8日
    • 神は実在する! しかし,どのような方か

      その性質はどうだろうか。親しく知るようになればわたしたちの愛が深まるような個性の持ち主だろうか。これらは重要な質問であると思われませんか。

      どうすれば,その方の特質をいくらかでも知ることができるでしょうか。聖書はローマ 1章20節でこう述べています。「というのは,神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造ら

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