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より多くの時間を見いだした人々目ざめよ! 1980 | 12月8日
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生活と宗教生活に及ぼす悪影響について考えた末,青年は経営者になるようにとの申し出を辞退し,単にその会社の従業員としてとどまらせて欲しいと願い出ました。その結果,この青年にとって真に重要な事をするための時間が増えました。
これらは,時間のほうがお金や名声や物質の所有物などよりも重要であるとの結論に達した人々のほんの数例にすぎません。この人たちは,自分の健康のため,家族のため,人生の真の目的について聖書の述べる事柄を学ぶよう他の人々を助けるために時間を用いる方が大切だと考えました。そのうちの一人として,自分の下した決定を悔いてはいません。
統計の示すところによると,こうした人々は現状においても他の人よりも長生きし,当人たちの話によると以前よりも幸福な生活を送っています。賢明なソロモン王がかつて述べたとおりです。「金が身の守りであるのと同じく知恵は身の守りだからである。しかし,知識の利点は,知恵がそれを所有する者たちを生かすことである」― 伝道 7:12,新。
知恵は命をどれほど長らえさせますか。あなたが考えているより長いかもしれないのです。
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どれほど時間があればよいと思いますか目ざめよ! 1980 | 12月8日
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どれほど時間があればよいと思いますか
好むと好まざるとにかかわらず,どんな人の場合も,時は尽きつつあります。現在の水準によれば,西欧諸国に生まれた人は平均して2万6,000日の生涯を見込むことができます。それは決して長くはありません。もしその1日を1㌦(約240円)と数えるとしたら,ほとんどどの地域でも,寝室が三つある家は買えないでしょう。学校を出て,社会人としての一歩を踏み出す用意の整った時には,1万8,000日ほど残っています。40歳に達した時には,1万1,000日しか残っていません。それは銀行に預けておくわけにはゆかず,死に際してはどれだけお金を積んでもその日々を買い戻すことはできません。
大抵の人は,自分の命の短いことを考えないようにします。「考えたところでどうなる。結局,どうしようもないじゃないか」という理屈をつけるのです。しかし,打つ手はあります。
できる事がある
今,自分の時間を賢明に用いれば,人生は2万6,000日よりはるかに長くなります。実際,2万6,000年以上生きることも可能なのです。
不可能だ,と思われますか。どうして不可能なことがあるでしょうか。科学者たちは,人体には現在の人間よりもはるかに長く生きるための機能が備わっていることを認めています。サタデー・レビュー誌の一記事は,脳とそれに関連する体の機能について次のように述べています。「我々が自分たちの本当の能力のごく一部しか用いていないことは依然として明らかである。自然を研究すると,様々な体系は目一杯活用されるように造られていることが分かる。活用されていない人間の能力すべての目的はどこにあるのだろうか」。人間の脳の収容能力について,生化学者アイザック・アシモフはこう述べています。脳は,「人間が普通に学習し,記憶する事柄をどれだけでも十分に収録でき,実際にはその十億倍の情報をも収録できる」。
これは聖書の述べることとぴったり一致します。聖書を開いて,ご自分の目で確かめてください。聖書は繰り返し,この地上で永遠に生きる見込みに言及しています。(啓示 21:3,4。イザヤ 25:8。ヨハネ 3:16)では,人間はどうして死ぬのでしょうか。
聖書の創世記から,神が最初の人間アダムを地面の塵から造られたことが分かります。エホバ神は,ユーフラテス川の水源近くのエデンに園を設け,見て好ましく食物として良い木を豊かに生えさせ,そのような環境の中に人間を置かれました。アダムは完全な心身を有しており,その前には永遠に生きる見込みが置かれていました。しかし,生き続けるには条件がありました。神に対する従順が要求されていました。聖書はこう述べています。「また,エホバ神は人に命令を与えてこう言われた。『園のどの木からでも,あなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日に,あなたは必ず死ぬからである』」― 創世 2:16,17,新。
アダムが従順であったなら,その子供たちはアダムと同様の完全さやとこしえの命の見込みを持って生まれてきたことでしょう。ところがアダムは,恥ずべきことに,天の命の与え主に対する感謝の念の欠如をあらわにしました。アダムが禁じられた実を食べた日に,神は死の宣告をアダムに言い渡しました。アダムは命の源であられるエホバ神から切り離され,死への過程を歩み始めました。後日,その妻エバによって子供をもうけた後,アダムは自らが造られる元になった塵に返りました。
わたしたちすべては死への道を歩み始めたアダムの子孫で,だれしもが,腕や脚や目と同時に,死をもアダムから受け継いでいます。(ローマ 5:12)その結果,わたしたち各自が生まれてから活用できる時間は大いに制限され,生きているわずかな年月にできるだけ多くを詰め込もうとする圧力が生じています。
こうした状況を改善するために,わたしたちにできる事柄がありますか。時計の針を元に戻して,わたしたちすべてに死をもたらすことになった行動に走らないよう,アダムを思いとどまらせることはできません。また,今日,アダムが加えた害を帳消しにする資格のある人は一人もいません。では,事態は絶望的ということになりますか。決してそのようなことはありません。
聖書によると,神はその過分のご親切によって,み子イエス・キリストを地上に遣わし,他の方法ではもたらし得ない救いをもたらされました。キリストは,『すべての人のために死を味わわれました』。(ヘブライ 2:9)完全な人間であったイエスは,わたしたちの代わりに死という刑罰を身に受けてくださいました。この備えの恩恵にあずかるには,何が求められていますか。
まず第一に,それについて学ぶ時間を取ることです。次いで,その備えに信仰を働かせ,その信仰を示すような仕方で生活することです。この点で,イエスご自身の説明しておられる事柄に耳を傾けるとよいでしょう。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。そして,「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた(の)です」。イエスはまた,思慮深い人とは,「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者」である,とも言われました。―ヨハネ 17:3; 3:16。マタイ 7:24。
退屈にならないか
「でも,いつまでも生きていたら,退屈にならないだろうか」と尋ねる人もいるでしょう。どうして退屈になることがあるでしょう。本当に楽しい事柄をしているときに,退屈になったことがありますか。退屈という感情は,人の生命の長さによって引き起こされるのではなく,質の低下した生活,目的のない生活によって引き起こされます。つまらない仕事に費やす1時間は,自分の楽しむ事柄,自分にとって意義深い活動にささげられた1日よりも退屈です。
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