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設計された証拠目ざめよ! 1979 | 4月8日
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を集める)外耳から,(音波を機械的な動きに変換する)中耳を通り,(機械的な動作を電気衝撃に変える)内耳にかけて,わたしたちは本当に複雑な設計の証拠を目撃します。
蝸牛(カタツムリの殻を思わせる,内耳の一部分[前頁の絵を参照])で,まさに奇跡が起きるのです。ここで機械的な動きは電気衝撃に変換され,脳に送られ,脳はその電気衝撃を音として理解するのです。この機能を果たすため,この器官の中にある2万4,000本の微細な毛がピアノの弦のような役割を果たします。音波は蝸牛の内側に動きを引き起こし,その動きからこれらの“弦”が様々な音を再生するのです。これらの毛に接続している神経を通して,電気衝撃は脳に送られます。一参考文献はこう述べています。「ピアニストの耳の中にある蝸牛の大きさはその人の演奏するピアノの約百万分の一であるから,耳の中にある聴覚“ピアノ”の大きさに到達するには,コンサート用ピアノの鍵盤と弦を約一億分の一に縮小したものを想像しなければならない」。わたしたちの“ピアノ”は,ほんのかすかなささやきから,一大オーケストラの演奏するクレッシェンドの部分まで,あらゆる音を完全に再生します。しかもそのすべてを,豆粒大の部分でやってのけるのです! 設計,それとも偶然,そのどちらですか。グランドピアノでさえ,それが偶然に存在するようになった,などということを聞いたことがありますか。
人間の手: 「道具の中の道具」
これは,人間の業績の多くを可能にした器官について古代の医学者の語った言葉です。生化学者アイザック・アシモフは,手を次のように呼び,そうした考えを繰り返しています。
「……最高度に器用な器官で,生物の領域全体を見回しても,この種のものとしては他の追従を許さない。四本のしなやかな指に向かい合うように親指があるので,その全体を,精巧なペンチ,しっかりとつかむ道具,ねじったり,曲げたり,引っ張ったり,押したりする道具,そしてピアノの鍵盤やタイプライターのキーを巧みにあやつる道具として用いることができる」。
確かに手は力強いだけでなく,著しく敏しょうです。手を用いてハンマーを打つこともできますが,それと同じく小さなピンを拾うこともできるのです。
わたしたちの指を動かしている,強力な筋肉はどこに位置しているのでしょうか。では,自分が手を設計する立場にいたなら,どこにその筋肉を付けますか。指そのものにでしょうか。それは何と恐ろしいことになるのでしょう。そうすれば指に力が入るかもしれませんが,それは太いソーセージのようになってしまうでしょう。太いソーセージでピンを拾い上げようとしたことがありますか。ところが,指を曲げるための筋肉のほとんどは前腕部に位置しています。指を曲げて,自分の前腕部に触れてごらんなさい。筋肉が動くのを感じますか。それらの筋肉は“すじ”つまり腱によって指先とつながれており,その結果,大きな力が出るだけでなく,本当に柔軟性に豊んでいるのです。実にすばらしい設計ではありませんか。これは,単なる偶然の所産ですか。
脳: 「世界で最も驚嘆すべき創造物」
これは,指導的な人類学者で,進化論者のローレン・C・アイズレイが1955年当時,人間の脳について語った言葉です。今日の人間は,その増大した科学技術すべてをもってしても,人間の脳の行なえる事柄にはいまだに太刀打ちできません。脳には,「100億の神経細胞があり,そのいずれも2万5,000の他の神経細胞とつながり合う可能性を秘めている。この相互のつながりの数を合計すると,その数は天文学者をも仰天させる。しかも,天文学者は天文学的な数字を扱うのに慣れっ子になっているのである」と,一参考文献は伝え,さらにこう述べています。「これと同程度の相互のつながりを処理できるほど高度なコンピューターを造るとすれば,それは全地を覆うほどの大きさになるだろう」。
ところが,そのすべてはわずか1,360㌘の重さの物質に縮小され,両手にすっぽり収まるほどの大きさになっているのです。脳が「宇宙で最も高度に組織化された物質」と呼ばれているのも,もっともなことです。
わたしたちの脳には,人の造ったコンピューターに行なうことのできなかったある事柄を行なう能力があります。それは,独創的想像です。これは,作曲家ベートーベンの経験から特に明らかです。その作品の中でも名作とうたわれる交響曲第九番が紹介されたとき,聴衆は「熱狂的な喝采」を送りました。聴衆はその演奏を大いに喜んだのです。ベートーベンはそれを耳で聞き取ることはできませんでした。ベートーベンの耳は全く聞こえなくなっていたのです。考えてみてください。ベートーベンはその作品の豊かな音全体をまず自分の想像力で“聞き”,それを楽譜に表わしたのです。しかし,実際には一つの音も聞いてはいないのです。わたしたちの脳にはなんとすばらしい独創的想像力が備わっているのでしょう。
わたしたちの体には最高度の設計の例があることは明らかではありませんか。わたしたちは,二年間にわたって“電子頭脳”を設計しようと悪戦苦闘した,ある著名な顧問技師の達したのと同じ論理的な結論に達するのではないでしょうか。その技師はこう語りました。「[このコンピューターの]提起した,数々の設計上の問題に直面し,それを解決した後,そのような装置が……理知ある設計者……による以外の方法で存在するようになったと考えるのは,私には全く不合理なことに思える。もし私のコンピューターに設計者が必要であったなら,あの複雑な……機械ともいえる人体にはなおさら設計者が必要であったはずである」。
こうした設計の例すべては,“ただ偶然に起きた”にすぎないと言えるでしょうか。統計家とは,ある特定の対象に関する数字や事実を注意深くまとめるのを仕事にしている人ですが,その道で名の通ったジョージ・ギャラップは次のように語ったことがあります。「私は神の存在を統計学的に証明できる。人体だけを取ってみても,一個人の機能すべてがただ偶然に生じる可能性は,統計学的には奇異なほど少ない」。言い換えれば,このすべてが何らかの導きとなる力なしに「ただ偶然に生じ」得る可能性は,実際のところ皆無に等しい,つまり「統計学的には奇異なほど少ない」のです。
偉大な物理学者であるケルビン卿は,息を引き取ったときには「議論の余地なく,世界で最も偉大な科学的天才」でしたが,それと同じような結論に達しました。「科学からすれば,我々は全き確信を抱いて“指導的な力”を信ぜざるを得ない。その“指導的な力”とは,物理的,または力学的,あるいは電気的以外の力である。……科学によれば,神を信じざるを得なくなる」。(下線は編者による。)
わたしたちは,(1)確かな科学的論理,および(2)わたしたちの周りの世界に設計の跡が見られることから,神の存在の納得のゆく証拠を見ることができます。しかし,それでもまだ,わたしたちの脳裏には,この神はどんな方なのだろう,という質問が浮かんできます。満足のゆく答えを見いだすために,どうぞ次の記事をお読みください。
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神は実在する! しかし,どのような方か目ざめよ! 1979 | 4月8日
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神は実在する! しかし,どのような方か
その性質はどうだろうか。親しく知るようになればわたしたちの愛が深まるような個性の持ち主だろうか。これらは重要な質問であると思われませんか。
どうすれば,その方の特質をいくらかでも知ることができるでしょうか。聖書はローマ 1章20節でこう述べています。「というのは,神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造ら
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