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全く正しい戦争がありますかものみの塔 1967 | 9月15日
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のためには,その期間が縮められるであろう」― マタイ 24:21,22,38,39。
二つの運命
18 大混乱と同志討ちに生き残った者はどんな最後をとげますか。
18 これに生き延びた者はどうなりますか。勝利を収める王の口から出る「鋭いつるぎ」によって死刑を執行されて,彼らは滅びます。しかしキリストのひきいる天の軍勢は真のクリスチャンを滅ぼしません。彼らは「救われる者」です。彼らはエホバの御手によって「隠され」ます。―ゼパニヤ 2:3。イザヤ 26:20,21。
19 「このような戦争は考えただけでも恐ろしい」という不平は,なぜまちがっていますか。
19 このような戦争は考えただけでも恐ろしいと,人は言うかもしれません。それは確かにそうです。しかしそうであればこそ,正しくない側に立つことを避けるために手段を講ずる必要があるのです。この戦いは避けられません。それは正義のためにどうしても必要です。地から永久に悪を除くために,この戦いが行なわれるべきことを,神は定められました。神は無比の完全さを持たれるさばき主であり,神に仕える者,正義に傾く心を持つ者をご存じです。また,悪に傾き,神に対してかたくなな者をも昔のバロの場合と同じくご存じです。
20 ハルマゲドンの戦いは,生き残る者と,地の将来の住民にとって何を意味しますか。
20 以上述べたことから明らかなように正義の戦争の確かにあることがわかります。それは人間の正義の標準に従ってではなく,神の正義の完全な標準に従って行なわれる戦争です。それによって多くの者が滅びますが,それは滅びに値する者です。しかし生き残る者と,地の将来の住民にとってそれが何を意味するかを考えてごらんなさい。過去における不義の戦争で死んだ多くの人も復活して地上に生きる者となります。聖書は次のように述べています。「あなた[エホバ]のさばきが地に行われるとき,世に住む者は正義を学ぶからである」。「主は義をもって世界をさばき,まことをもってもろもろの民をさばかれる」。(イザヤ 26:9。詩 96:13)ハルマゲドンの戦いは,神と人間の敵を地から一掃します。戦士であり,また永遠の王となる御子の支配について,エホバご自身が次のことを預言されました。「その政事と平和とはましくはゝりて窮りなし且ダビデの位にすわりてその国ををさめ今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立これを保ちたまはん万軍のエホバの熱心これを成たまふべし」― イザヤ 9:6,7,文語。
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人体の一部を比喩的に用いる聖書の表現ものみの塔 1967 | 9月15日
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人体の一部を比喩的に用いる聖書の表現
人体のある部分のことは日常の会話の中でしばしば比喩的な意味で用いられています。たとえば次のようなことばがあります。「彼はあの人のために自分の首をさし出すことさえいといませんでした」。「彼はほんとうに私の骨肉です」。「彼女は彼らの耳をくすぐっただけでした」。
しかしこのような表現は話に豊かな色彩を添え,聞く人に生き生きとした鮮明な印象を与えます。そして聞き手は話の内容をよく記憶できます。それで,神のことば聖書に,人体のある部分のことが比喩的な意味で用いられているというのは,なんと適切なことでしょう! 実際のところ,前述のような表現はみな聖書の中にいろいろの形で出てきます。
たとえば使徒パウロは,仲間のクリスチャンであるプリスキラとアクラにあいさつを送るようにと願って,その二人のことを次のように述べました。「わたしのいのちを救うために,自分の首[彼らの命]をさえ差し出してくれた」。(ローマ 16:4)ラバンはヤコブについて,「あなたはほんとうにわたしの骨肉です」と述べましたが,それは二人が親類であるという意味です。ヤコブはラバンのおいでした。(創世 29:14。サムエル下 5:1)そしてパウロは,「耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め」た人々のことについて書いています。言い換えれば,人を喜ばせるだけの教師を彼らは集めていたのです。―テモテ第二 4:3。
破滅と保護
人体の器官の中で首は重要ですが,同時に傷つけられやすい部分なので,聖書の中では,敵の手で生命が奪われることにしばしば結びつけられています。この表現は,むすこユダに対するヤコブの臨終の祝福のことばの中に次のように用いられています。「あなたの手は敵のくびを押え……るであろう」。これはつまり,神があなたの敵をあなたの手に渡すでしょうという意味です。(創世 49:8)同様にダビデは歌の中で,エホバが「敵にその〔首の〕後をわたしに向けさせた」と言って賛美しました。(サムエル下 22:41。詩 18:40)ユダに対するアッシリアの侵略に関す預言の中で神は,「あふれみなぎって,首にまで及ぶ」と述べられ,征服寸前の事態が生ずることを示されました。―イザヤ 8:8; 30:28。
そしてまた,征服された敵兵の首を足で押えることは昔の人々の一つの習慣でした。エジプトおよびアッシリアの記念碑には,敵の兵士の首をふまえて戦っている王の姿がよく描かれています。この習慣はまたヘブル人の間でも行なわれていました。裁き人ヨシュアは部下の将校にこう命じています。「近寄って,この王たちのくびに足をかけなさい」― ヨシュア 10:24。
髪の毛とひげをそろえることは差し迫った滅びの象徴として用いられました。それはなぜですか。髪の毛やひげは古代の中東の人々の間では貴重な所有物とされていたからです。イスラエル人はひげのことを男性の権威の象徴と考えました。(歴代上 19:5)それで,ダビデがわざとひげの手入れをせず,その上によだれを流したままにしておいたので,それを見たアキシ王は,ダビデが狂気になったものと信じるようになりました。(サムエル上 21:13)ひげをそるのはたいてい,深い悲しみ,ひどいはずかしめあるいは恥辱に直面した時だけでした。―エズラ 9:3。イザヤ 15:2。エレミヤ 41:5; 48:37。
このような背景を知ると,アッシリヤによる征服に関することばもさらによく理解できるでしょう。「その日,主は大川の向こうから雇ったかみそり,すなわちアッスリヤの王をもって,頭と足の毛をそり,また,ひげをも除き去られる」。(イザヤ 7:20)アッシリヤはまさに侵略し征服しようとしていました。そしてそのとおりに行動を起こしましたが,セナケリブの率いる兵士18万5000人を撃ち殺したエホバの奇跡によってはじめて首都エルサレムはアッシリヤの侵略者による破壊を免れたのです。―イザヤ 37:33-38。
エホバ神はまた,バビロン人の手による来たるべきエルサレムの破滅をありありと描写され,エゼキエルに次のように告げられました。「人の子よ,鋭いつるぎを取り,それを理髪師のかみそりとして,あなたの頭と,ひげ
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