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  • 「互いの間で平和を保ちなさい」
    ものみの塔 1977 | 11月15日
    • における,地位に関係した問題を支配する原則がどんなものであるかを明らかにされたのです。

      11 したがって,イエスの王国でイエスに加わる人々は,どんな点で,この世の王国の政治家とは異なっていなければなりませんでしたか。

      11 イエスの王国はこの世の王国とは異なったものになります。この世の王国では政治家は利己的な野心に動かされます。また,目指す地位につくと他の人々に奉仕するよりも奉仕させる傾向があります。この種の行為は,尊大な気持ち,謙そんさの欠如を無意識に表わすものです。イエスご自身はそのような気質を示されませんでした。イエスの王国でイエスに加わることになっていた弟子たちは,イエスと同じ精神態度を示さねばなりませんでした。そういう理由から後に使徒となったパウロは,将来天の王国の相続者となる見込みのある人々に手紙を書き,次のように述べたのです。「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなたがたのうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなど考えませんでした。いえむしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました。それだけでなく,人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」― フィリピ 2:5-8。

      12 イエスはご自分が使徒たちに述べられた支配的原則をどのように実例によって示されましたか。

      12 イエスにとっては,これは『みんなの最後となり,すべての者に対して奉仕者となる』ことではありませんでしたか。人間の側の謙そんさの模範としてこれ以上立派な模範がありうるでしょうか。しかしイエスは,そういう低い立場を取り地上での命を犠牲にすることになる奉仕の務めを行なうことによって,全創造物の中の第一の地位を報いとして与えられたのです。神のみ子はこうして高められて,創造者ご自身に次ぐ者となられました。そのことは,イエスが天の父,至高の神と同等になるよう強い取ることなど全くお考えにならなかったことと一致します。イエスがそれをされなかったのは,一つには,それが成就しがたいものであることをわきまえているだけの良識を持っておられたからです。―詩 148:13。

      13 イエスの支配的原則によると,会衆内で最も貴重な成員になるのはどんな人ですか。なぜですか。

      13 このようにイエスは,ご自分が使徒たちに示した原則に対してご自分を例外とするようなことはされませんでした。天の王国でご自分に加わる者たちが見倣えるように,身をもって完全な範を垂れたのです。事実,イエスの王国の地的臣民となる人々もすべて,イエスの謙そんさと有用さを見倣わねばなりません。では真の価値と重要さについて言えば,会衆内で第一位を占めるのはだれでしょうか。それは,どんな種類の奉仕でも引き受けて行なうほどに謙そんな人,また他のすべての人に仕えることに努める人ではないでしょうか。だれにせよもし利己的な気持ちで第一になろうと思うなら,その人は会衆内のすべての人に対するあらゆる種類の奉仕を行なうために身を低くするようなことはしないでしょう。すべての人に,最も目立たない仕事をしてでも進んで仕えるためには,自分を会衆内で「みんなの最後」にある者とみなさねばならないでしょう。しかしそれによってその人の本質的な価値が下がるわけではありません。例外なしにすべての人に奉仕するので,その人は最も貴重な成員になります。

      14 なぜそういう有用な人はみんなの中で事実上「第一」ですか。

      14 ですから,その謙そんで有用な人がやむをえず欠席するようなことがあると,非常に寂しく,その人の奉仕のないことが感じられるでしょう。有用さを尺度にして評価するなら,その人は地位の上では第一でないにしても,実際にはすべての人の中で「第一」の人でしょう。もしわたしたちが神の目にそのように評価されるとすれば,そのことのほうが,この世の高位の人々の間で自分がどう評価されるかということよりもはるかに重要です。

      キリストの名によって他の人を迎える

      15 イエスは,人が他の人を迎えることにつき,幼い子供を例えに用いてどのように話されましたか。

      15 外見がどんなに劣っているように見えても,そういうことにかかわりなく他の人々に思いやりを示すということは,互いに仲良くやっていく上で重要な役割を果たします。この点を強調するためにイエスは例えを示されました。イエスがそれをどのように示されたかは,マルコ 9章36,37節に次のように記述されています。「そしてひとりの幼子を連れて来て彼らのまん中に立たせ,両腕をその子にかけて,彼らにこう言われた。『だれでも,わたしの名によってこのような幼子ひとりを迎える者はわたしを迎えるのです。そして,だれでもわたしを迎える者は,わたしだけでなく,わたしを遣わしたかたをも迎えるのです』」。

      16 イエスはナザレのご自分の家の中でも,子供への愛をどのように表わされましたか。

      16 イエスが幼い子供たちを愛しておられたことを示すケースが幾つか記録に残っています。イエスはご自身の地上の家族の長男でしたから,ガリラヤのナザレで,年下の異父弟(ヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダ)や二人かそれ以上の異父妹の世話をするのに,多くのことをしなければならなかったに違いありません。(マタイ 13:53-56)イエスは,その兄弟たちが不完全であり欠点を抱えているからといって彼らを軽べつするようなことはされませんでした。また,家族を養う手助けをせずに兄弟たちをつまずかせるようなこともされず,腕のたつ大工として勤勉に働かれました。(マルコ 6:3)イエスは子供たちの無邪気な性質と,成人した人々にある子供のような特質の評価の仕方を学ばれ,子供をうまく用いて例えを話されました。

      17 自分が近づきやすい者であるかどうかの問題に関連して,子供のような人々に関しどんな質問が生じますか。

      17 仕事に没頭しているときには子供にわずらわされたくないかもしれません。自負心の強い人,あるいは自分の責任ある地位の重みと威厳を感じている人は,あどけない子供たち,または子供のようなおとなたちに注意を向けるのは,自分のような偉い者のすることではない,と考えるかもしれません。しかし,もし子供のような人がクリスチャンであるなら,あるいはクリスチャンになりたいと思っている総明な人であるなら,どうでしょうか。すでにキリストの弟子であるわたしたちは,自分をその人たちが近づきやすい状態にするでしょうか。またその人たちの必要によく気を配るでしょうか。

      18 そのように迎える人はなぜイエスをも迎えることになりますか。

      18 もし子供のような人たちを助けようとしないなら,わたしたちは大きな特権と祝福を失うことでしょう。イエスの使徒たちのような円熟したクリスチャンたちが,新しくバプテスマを受けたクリスチャン,つまりひゆ的に言ってイエスが腕に抱いて例えにお使いになった幼い子供のような人たちを迎えようとしないなら,彼らはイエスご自身を迎えていないことになります。なぜそうなりますか。なぜならイエスは,だれでも「このような幼子ひとり」を迎える者はイエスをも迎えるのである,その人は「[イエス]の名によって」そうするからである,と言われたからです。これは次のことを意味します。つまりイエスはそれをあたかもご自分がメシアすなわちキリストとして迎えられたかのようにみなされるということです。その逆もまた真です。

      19 子供のような人をそのように迎えることは,だれとの関係に影響しますか。なぜですか。

      19 人を謙そんにする仕事を,「[イエス]の名によって」,つまりイエスの名を重んじて行なうなら,それによってその仕事はより容易に,より気持ちよく行なえるようになります。その行為の動機は高潔です。さらに,その行為はわたしたちとイエス・キリストとの関係のみならず,イエスの天の父との関係ともかかわりを持ちます。そのことは,イエスがつけ加えられた次の言葉に示されています。「だれでもわたしを迎える[すなわち「このような幼子ひとり」を迎えることによって]者は,わたしだけでなく,わたしを遣わしたかたをも迎えるのです」。(マルコ 9:37)メシアとなるべくイエスを地に遣わしたのは,イエスご自身の天の父エホバ神でした。イエス・キリストとその天の父を引き離して考えることはできません。おふたりは目的において,また活動において一つですから,密接な関係にあります。したがって,人がみ子に対して行なうことをエホバ神は自分に対しても行なわれたこととして受け取られます。そういう待遇をご自分が受けたかのごとくに受け入れることを,そういう待遇をした人を祝福することによって示されます。

      20 この原則は,わたしたちが仲間のクリスチャンを扱う際にどのように当てはまりますか。王国にあずかるためにはどんな性質が必要ですか。

      20 これはわたしたちが仲間のクリスチャンを扱う際に覚えておかねばならない重要な原則です。聖書を理解する点で,あるいは会衆の成員という点で,いわば「みどりご」のような人々を扱う場合には取りわけ重要です。使徒ペテロは,霊感によって第一の手紙を書いたとき,それを受け取る人々に次のように述べました。「生まれたばかりの幼児のように,みことばに属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い,それによって成長して救いに至るようにしなさい。ただしこれは,主が親切なかたであることを味わい知っているならばです」。(ペテロ第一 2:2,3)わたしたちはこの「生まれたばかりの幼児」のような人々と「みことば」を分かち合うことができます。それは彼らが成長して救いに至り,円熟したクリスチャンとしてその立場を保持するようになるためです。したがって,自分が近づきやすい者であることを示し,「[キリストの]名によってこのような幼子ひとりを」進んで迎える人は,自分自身が子供のようであることを示すのです。彼らがそういう者であることは,どの部分であろうと王国にあずかるのには必要です。―マタイ 18:2-4。ルカ 18:16。

      21 思いや態度が謙そんであること,対抗意識や競争がないことは,会衆にどんな益がありますか。

      21 人間の実の家族におけるように,会衆の成員が思いや態度において幼子のように謙そんであれば,互いの関係は穏やかさを帯びてきます。自己中心的な対抗意識や,激烈な競争のないところには,神経を和らげ落ち着かせるふんいきが生まれます。もしわたしたちが,ごく目立たない仕事を行なってでも奉仕する気持ちまた用意があるなら,わたしたちはその通りに他の人々の必要に,また他の人々を元気づけるために,仕えることができます。それは全会衆を築き上げかつ強めて,良い仕事を積極的に行なう方向に動かします。

      22 「互いの間で平和を保つ」ようにさせる強力な要素は何ですか。

      22 こうして,最も若い人だけでなく,非常なはにかみ屋の人,あるいは聖書の真理を学ぶ点で,またクリスチャンとしての経験を積む面で遅れている人々も大目に見られ,「[キリストの]名によって」会衆の胸に温かく抱擁されます。そのような環境の会衆には,主なる神エホバの霊が満ち渡ります。それは会衆の成員が『互いの間で平和を保つ』のを助ける強力な要素です。結果として兄弟の一致が生まれます。

  • 「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい」
    ものみの塔 1977 | 11月15日
    • 「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい」

      1 わたしたちは自分の「ことば」を何で味つけすべきですか。なぜですか。

      有機的に働く,植物中に含まれている種類の塩は,人体の健康に非常に重要なものです。神の崇拝者の組織体の健康にとっても欠くことのできない重要な塩があります。このことと一致しているのは,一世紀のクリスチャン会衆の霊的健康の主要な管理者の一人,すなわち使徒パウロの助言です。彼は直接にはまだ知り合っていなかったある会衆に書き送った手紙の中で,次のように述べています。「あなたがたの発することばを常に慈しみのあるもの,塩で味つけられたものとし,ひとりひとりにどのように答えるべきかがわかるようにしなさい」― コロサイ 4:6。

      2 「ある人」がイエスの名を使って悪霊を追い出すのをとどめようとした使徒たちについて,どんな疑問が生じますか。

      2 そこでわたしたちは考えます。使徒ヨハネがその師イエス・キリストの注意を引いたときに人々の言ったことは,どれほどその「塩」で味つけられていただろうかと。このことについては次のように書かれています。「師よ,わたしたちは,ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので,それをとどめようとしました。彼はわたしたちといっしょに従って来ないからです」― マルコ 9:38。

      3,4 (イ)ヨハネはその時何を期待していたようですか。なぜですか。(ロ)ヨハネの説明にはどんな利己的な要素が見られましたか。それはその問題に対するヨハネの見方について何を暗示していますか。

      3 この言葉は,ヨハネが,彼らにクリスチャンの道を教えていた師からおほめの言葉を,よく

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