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    ものみの塔 1974 | 8月15日
    • 人々の性格を扱っているのです。そうしたものには,あなた自身の場合にも,心や思いの,隠れた奥まった部分が関係しています。それは良い場合も,そうでない場合もあります。また,エホバの持たれる至高の個性についても考えなければなりません。エホバはあなたが神への献身の関係を守ることに愛の関心をいだいておられるのであり,そのことを決して小さく見てはなりません。あなたがキリストのような人格を身に着けるのを助けるため,神がみことばと組織を通し,またご自分の霊とあなたの祈りを通して設けてくださった多くの尽きることのない備えを決して小さく見てはなりません。(エフェソス 3:20)霊性の面での進歩は,自分の予期するほど速くない場合が少なくありません。より高い水準を思い見て登って行っても,角を曲がると新たな高みが見え,それが容易には達し難いということがあります。しかしそれは,おおむねあなた自身の精神態度,つまり,へりくだった思いをいだいてすすんで自分の誤りや失敗を認めるか,またいつでも新たな構えでいっそうの努力をする備えがあるかどうかの問題です。エホバは確かにそうした態度を祝福され,神の家族内の兄弟や姉妹たちもそうした態度のゆえにあなたを愛し,あなたを助けるためにできるかぎりのことをします。

      14 (イ)自分に対して示される偏見にどのように打ち勝つことを求めるべきですか。(ロ)イエスはこの点でどのような手本を示されましたか。

      14 あなたがどれほど誠実で謙遜な思いをいだいていても,偏見を持つ肉の家族の他の人々がそれを認識せず,敵対する場合さえあります。あなたが偉そうなふりをしていると言うかもしれません。そのように言う理由は理解しにくいものではありません。真のクリスチャンとしてあなたの従う規準は他の人々の従うものより高いことでしょう。しかし,だからといってあなた自体が本来まさっているわけではないはずです。あなたが今日あるのはエホバの過分のご親切によります。あなたはそれを理解していますが,他の人々は理解していません。自分の立場を妥協させたり聖書の原則を犯したりしない範囲で自分の道から離れ,普通の生活のしかたと見なされるものに従うのがよいでしょう。自分が他の人のものでもあることをその程度にまで示してください。多くのことを無視できるようであってください。他の人にも自分自身にも,傷つけられたような感情を残さないようにしてください。偏見と敵意をいだく人々の中にいた時,イエスはこうした点でしばしば多くのことを忍びました。イエスが意思伝達の戸を閉ざし,よく言われるように自分のからの中に閉じ込もってしまわれたことはありません。ペテロはこう述べます。「キリスト[は]あなたがたのために苦しみを受け,あなたがたがその歩みにしっかりついて来るよう手本を残され[まし]た……彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:21-23。

      真の愛と服従

      15 家族内の各人に助言を与えるにさいし,パウロの出だしの主題はなんですか。この原則は早い時期にどのようにゆがめられましたか。

      15 パウロは,まず妻,ついで夫と子どもに対する詳細な助言を述べるに先だち,すべての人に次の訴えをしています。「キリストへの恐れをもって互いに服し合いなさい」。(エフェソス 5:21)これは,夫と妻に助言をしたパウロの出だしの主題です。最初の女エバは,その軽率な行動によって,神に対してだけでなく,自分の夫に対しても,服従の欠如を示しました。エバの行ないに倣うという点でアダムはある程度彼女に服しはしましたが,それは全く順序を誤ったものでした。神に服していないことを示したからです。こうして,罪が人間家族を巻き込むとすぐ,服従の問題はゆがみ,誤った状態になりました。

      16 服することはどういう意味で真の愛の表われと言えますか。それはどのように示されるべきですか。

      16 服すべきものに服することは真の愛の表われです。真のクリスチャンとしてあなたが献身の段階に進んだ時,それは,エホバに対するあなたの愛,またそのご意志を行なうためにすすんで全面的に服したことの証拠でした。クリスチャン会衆内でも,「キリストへの恐れをもって互いに」服し合い,相互に思いやる精神があるべきです。この点で長老は率先し,「神の相続財産である人びとに対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範」とならなければなりません。この同じ精神が家庭の中でも示されるべきなのです。そのことは人体の例えでよく見ることができます。人体の場合,一定の物事を成し遂げるため,すべての肢体は『調和よく組み合わされ,協働』しなければなりません。いちばん上にある頭でさえ,足に向って,「わたしにあなたは必要でない」とは言えません。―ペテロ第一 5:3。エフェソス 4:16。コリント第一 12:21。

      17 不和はときにどんなことによりますか。何がその解決となる場合が多いですか。

      17 こうした優れた協力の態度が示されているなら,手速くまた容易に解決できない結婚生活上の,もしくは家庭生活上の問題はほとんどありません。言い換えれば,こうした態度の不足が,多くの場合に問題の根源となっています。配偶者の一方だけが献身したクリスチャンである場合でさえ,こうした正しい態度を示すなら,種々の問題が不和や争いにまで至らないようにする点で大いに力になります。パウロは,「あなたがたの召された召しにふさわしく歩み,全くへりくだった思いと柔和さとをもち,また辛抱強さをもって愛のうちに互いに忍」ぶようにと懇願しました。―エフェソス 4:1,2。

      18 (イ)フィリピ 2章2-4節のパウロの助言から何を学べますか。(ロ)どういう意味で「他の者が自分より上である」と見ることができますか。

      18 パウロはこの点をフィリピの人たちにさらに強力に言い表わしました。「あなたがたが同じ思いを持ち,同じ愛をいだいているのだという点で,わたしの喜びを満たしてください……何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち,自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」。(フィリピ 2:2-4)あなたはこのようにへりくだった思いを持つ人ですか。それとも,自己中心的で自己本位の傾向を持ち,物事や人々に関する見解について自分が常に正しいと言い張りますか。あなたの妻また会衆内の人々は,夫または長老としてのあなたが謙遜な思いを持つ人であるのを見ていますか。あなたが他の人々を自分より上と見ていることはすべての人に明らかですか。他の人々は皆それぞれに一定の資質と能力を持っているはずです。あなたは家庭の家具類をすべて備えるかもしれませんが,あなたはそれを,妻がするのと同じように魅力的に,またいこいとなるように配置することができますか。また,喜びや情愛を表現する点では,お宅の小さな人たちのほうがずっと自然でのびのびしているのではありませんか。

      19 妻はどの程度まで自分の夫に服すべきですか。なぜ?

      19 パウロはさらに,愛・服従・頭の地位などに関する聖書の原則相互の間の優れた関係を示しています。「キリストが会衆の頭」であるのと同じように「夫は妻の頭」なので,妻は夫に服すべき立場にあります。どの程度までですか。「会衆がキリストに服しているように,妻もすべての事において夫に服しなさい」と述べられています。夫が献身したクリスチャンではなく,そのために反対している場合さえあるかもしれませんが,そのゆえに頭の地位に関する原則が廃されたり縮小されたりするわけではありません。妻は夫が持つ頭の地位にすすんで服すべきであり,夫に服せば聖書の他の原則を犯す結果になるという場合のみをその例外とすべきです。―エフェソス 5:22-24。

      20 夫はどの程度まで妻を愛すべきですか。なぜ?

      20 アガペー愛の原則を働かせること,これがクリスチャンである夫の主な責任です。どの程度までですか。「夫よ,妻を愛しつづけなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を渡されたのと同じようにです。それは,会衆を神聖なものとし……[最終的に]輝かしいばかりの会衆を[栄光ある花嫁として]ご自身の前に立たせ……[それが]神聖できずのないものとなるためでした」。これが,妻に対する夫の深い顧慮を意味することは言うまでもありません。一方,「妻は夫に対して深い敬意を持つべき」です。―エフェソス 5:25-27,33。

      21 愛と服従ということがどのように,またなぜ子どもにも当てはまりますか。

      21 子どもに対しては,当然の従順と服従が強調されています。「主と結ばれた」親による健全で愛のこもった,そして聖書にかなった懲らしめのもとで,子どもは「すべての事において」従順であるべきです。それには,「あなたにとって物事がよく運び,あなたが地上で生き永らえるため」という約束が伴っています。―エフェソス 6:1-4。コロサイ 3:20。

      22 すべての者が謙遜な思いを持つことの必要をペテロはどのように確証していますか。

      22 最後に,こうしてパウロの強調した聖書の原則を,ペテロがまた彼なりのしかたで確認しているのを見るのは励みになり,またわたしたちを強めます。ペテロもまた,各自が謙遜な思いを持つ必要を強調しています。彼はこう書きます。「最後に,あなたがたはみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を実践し,優しい同情心に富み,謙遜な思いをいだきなさい」。また,さらにこう述べます。「あなたがたはみな,互いに対してへりくだった思いを身につけなさい。神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施されるからです」。(ペテロ第一 3:8; 5:5)このことは,イエスが弟子たちの足を洗った手本の中によく示されました。それは弟子たちの倣うべき模範でした。家族内のだれか,あるいは会衆内のだれかに対して何かのへりくだった奉仕を喜んで行ない,こうして比ゆ的な意味でだれかの足を洗ったのはいつのことですか。これも,わたしたちがいよいよ実践すべき,聖書の愛ある原則です。―ヨハネ 13:4-9。

  • 覚えていますか
    ものみの塔 1974 | 8月15日
    • 覚えていますか

      あなたは最近の「ものみの塔」を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の点を覚えておられるでしょう。

      ● 「ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所」とは何ですか。―啓示 16:16。

      それは文字どおりの場所ではなく,決定的な戦争の行なわれる世界の局面をさしている。それは,時が満ちた時に,神とこの世界との敵対関係において,その敵対関係の生じている論争に対する決着の求められるような段階をさしている。―236,237ページ。a

      ● 「大きな地震が……あるでしょう」というイエスのことばが1914年以来成就してきたことを何が示していますか。―ルカ 21:11。

      地震そのものの力,地震で失われた人命,そして資産におよんだ被害という点で,1914年以降の地震は『大きい』ものであった。事実,そうした地震による破壊の規模は,1914年以前におけるものより,ずっと広範囲に及ぶ強大なものであった。過去千年間に生じた地震による死亡者総数のほぼ30%が,1914年以降の地震で死んだと言われている。―252,253ページ。

      ● 信仰をいだいてささげられた祈りに答えが与えられることに関する,弟子ヤコブの,「神はすべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです」ということばをどう理解すべきでしょうか。―ヤコブ 1:5。

      神はわたしたちの弱さを非難したり,わたしたちを“愚か”とみなしたりはなさらない。神は,わたしたちがお願いしてよかったと思えるような方法で,寛大に,心から与えてくださる。―266ページ。

      ● キリスト教世界の諸教会や他の宗教団体が依然として力を保持していても,エホバの激しい裁きの日がずっと先のものであると言えないのはなぜですか。

      「大いなるバビロン」を構成している宗教体制の終わりは,それが依然機能を果たしていて,表面上は力のある組織と見られているときに突然臨む。ヨハネへの啓示 17:16,17は,宗教組織を滅ぼそうとする動機付けを,神が政治体制の心に与えることを示している。―277,278ページ。

      ● 何かの提案を受ける時,「心のへりくだった」人であるクリスチャンの監督は,どんな態度を避けますか。

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