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  • 謙虚さ ― 逆境の際の助け
    ものみの塔 1970 | 11月15日
    • が得られ,怒りをおそくさせ,そのため,あやまちを見のがすことができます。(箴言 19:11)この点,古代の人,ダビデは,わたしたちのために良い模範を残しました。ダビデはサウロ王に追い回され,命さえ危険にさらされながら,サウロの態度のゆえに彼に対して苦々しく思ったり,復しゅうの念にかられたりはしませんでした。ダビデは謙そんに,エホバ神が事態を処理されるに任せました。そして,エホバはご予定の時に,そうなさり,イスラエルの王権をダビデに与えました。

      不当な扱いを受けた時,謙虚さがあれば,霊感を受けた次の助言に聞き従うよう,確かに助けられるでしょう。「だれに対しても,悪に悪をもって報いてはならない。……愛する者よ,自分で復しゅうせず,御怒りにまかせなさい」。事実,少し考えただけで,不当な扱いをした人を罰そうと望むのは,思い上がった態度であることがわかります。神が審判者です。謙虚さがあれば,エホバが事態を正されるのを待ち望むことで満足できます。―ロマ 12:17,19,新。

      謙虚さは,迫害された時の助け

      激しい迫害にあっている時にも,謙虚さは同様に大きな助けとなります。そのような取り扱いを受けると,人はしばしばざ折したり,妥協したり,あるいは主義を曲げて,良心を忘れ去ったりします。この点で,エホバのクリスチャン証人はしばしばりっぱな評判を得ました。ナチ強制収容所のある目撃者が述べたとおりです。「エホバの証人は,泥の海の中に立つ岩のようでした」。

      一つには,謙虚さがあれば,たとえ,そのような苦しみにあうことを神が許されたとしても,神に反逆したりはしません。そうした苦しみに耐え,論争,すなわち,サタンのどんな仕打ちにもかかわらず,被造物は神に忠誠を保ちうるか,という問題に対する正しい認識を示すことができます。ヨブの経験した逆境は,彼の置かれた状況,また周囲の人々のことを考えると,非常にきびしいものでした。彼の妻は,「神をのろって死になさい」とヨブにすすめました。しかし,ヨブはそのようなことをせずに,謙そんにすべてを甘んじて受けました。そして,ついに,神ご自身によって,ヨブの正しさは立証されたのです。彼の模範をはじめ,関係している論争に対する知識により,わたしたちは耐え忍ぶことができます。―ヨブ 1,2,42章,新。

      しかし,この点に関する最大の模範は,なんといってもイエス・キリストです。イエスは,自分に対する御父の意志を謙そんに受け入れ,霊者たちすべてのおさとしての天の栄光をあとにし,不滅性を持たない単なる人間として地上に来られました。「そのうえ,人のさまであられたとき,彼はへりくだり,死にいたるまで,しかも刑柱上の死にいたるまで従順になられた」のです。その死は,非常に恥辱的な,苦痛の伴う死でした。「こんなに苦しまねばならないからといって,いったいわたしをだれだと思っているのか」というような態度を,イエスは取られませんでした。それどころか,ご自分の行ないを通して,謙虚さの最大の模範を示されました。その模範は,わたしたちのために残されたのです。―ピリピ 2:8,新。

      謙虚さをつちかう

      謙虚さという,このすぐれた特質を身につけるにはどうしたらよいのでしょうか。それは自動的に得られるものではありません。他のすぐれた特質のすべてと同様,そのためには努力しなければなりません。時間がかかります。ですから,努力したってなんの益になるのか,と考えて,失望したりしてはなりません。たとえ時間と努力がかかり,しばしば失敗をしても,努力するだけの益があるのです。

      まず,わたしたちは謙そんでありたいとの熱烈な願いを持たねばなりません。謙そんでいてはじめて,エホバ神を喜ばせうるということを,わたしたちは,たえず思い起こさねばなりません。ペテロ前書 5章5節(新)で明らかにされているのはその点です。「あなたがたすべては,互いに対する,へりくだった思いを,みずからまといなさい。なぜなら,神は高慢な者たちに敵対し,謙そんな者たちに過分の恵みを施されるからである」。しかも,わたしたちは,神の過分の恵みを必要としていませんか。どうしてエホバに敵対されてよいでしょうか。神のことばを定期的に読むことによって,わたしたちは,謙虚さに関する神の思いを知ることができるのです。―マタイ 18:4; 23:12。ヤコブ 4:6,10。ペテロ前 5:6。

      別の大きな助けは祈りです。事実,祈りそれ自体,謙虚さの表現と言えるでしょう。なぜなら,それは,いわば,こじきとして,つまり,自分たちの霊的な必要を認識している,貧困者として,エホバ神のもとに来ることになるからです。(マタイ 5:3,新)そして,信仰をもって求め,祈り求めたことを得るために努力して,自分の分を果たすなら,謙虚さという,このすぐれた特質を獲得できます。エホバは,ご自分の聖霊や知恵にかぎらず,謙虚さのような,すぐれた特質を願い求めるすべての人に,惜しみなく与えてくださいます。―ルカ 11:13。ヤコブ 1:5-7。ピリピ 4:6。

      理解は,エホバ神との関係についての正しい認識,と的確に定義されていますが,これも謙虚さをつちかう上で大きな助けとなります。それは,エホバ神が宇宙の主権者ならびに至上の立法者として,わたしたちに服従を要求する権利を持たれる,という認識を意味します。そればかりでなく,全能であられるゆえに,エホバ神はご自分の意志と命令を施行することもできます。神に比べて,わたしたちはなんと弱小で,取るにたらない者なのでしょう。その御前にあって,全国民は,からの手おけから落ちる一滴の水にすぎません。(イザヤ 40:15,新)物事に対するこうした認識を持つなら,わたしたちは理解を得ていることになります。しかし,理解をはばむ最大の敵は,誇り,あるいは自尊心です。したがって,次のように書かれているのは,十分理由があってのことなのです。「あなたが得るものすべてをもって,理解を得なさい」― 箴言 4:7,新。

      謙虚さをつちかうための助けとして見すごしにできないのは,愛,つまり,原則に基づく無私の愛です。『愛は誇らず,たかぶりません』。愛を持っている人は,その思いがへりくだっており,他の人々を自分よりまさったものとみなしますから,すぐわかります。―コリント前 13:4。ピリピ 2:2,3。

      謙虚さを得るために毎日努力する

      逆境に際して謙虚さがわたしたちの助けとなるためには,毎日の生活で考えること,言うこと,そして,することすべてにおいて,謙虚さを行使しなければなりません。謙虚さは思いのへりくだった状態を意味します。それは,だいそれた考えや野心をいだいたり,他の人々を見下げたりすることではありません。使徒パウロのような考え方をすることを意味しています。彼は自分のことを,「凡ての聖徒のうちの最小き者よりも小き者」また,「使徒のうち最小き者」と語りました。―エペソ 3:8。コリント前 15:9。

      謙虚さは,わたしたちの会話にも表われねばなりません。自分はこう思う,自分は何をした,何をするつもりだ,というように,いつも自分のことばかり話したがりますか。他の人のことを批判的に話すことが多いですか。謙虚さがあれば,エホバ神,そのみことばとわざ,そのすばらしい属性に注意を向け,また仲間のしもべのことを良く言うはずです。

      会話をたびたびひとり占めにすることはありませんか。謙虚さがあれば,他の人々にも話す機会を与えられます。他の人がなかなか話をしない時には,謙そんに,たくみさと愛を示しながら,会話に引き入れてあげることができます。そうすれば,その人は幸福に感じますし,あなた自身を強められます。自分だけが話すかわりに,話す機会を他の人に与えるなら,もっと喜びを味わえるものです。―使行 20:35。

      謙虚さはわたしたちの行動を特徴づけていますか。謙虚さがあれば,他の人を押しのけたり,並んで立っている場合,いつでも先頭にいたいと考えたりはしません。家のまわりの雑用とか,御国会館の掃除とかといったつまらなそうな仕事でも行なえるでしょう。謙虚な人は,他の人から仕えられることを期待するかわりに,自分から他の人に仕えます。イエスの模範を思い出してください。彼は,仕えられるためではなく,他の人に仕えるために来たのです。―マタイ 20:28,新。

      確かに,謙虚さが望ましいものであることを示す事柄は,数多くあります。それは,わたしたちの造り主であられるエホバとの平和な関係を保つのに貢献します。平安な思いを保つのに寄与します。仲間との友好関係を保つのに役だちます。そして,わたしたちが助けを最も必要とする時,すなわち,逆境の際に,大きな助けとなるのです。

  • アフリカに広まる真理の力
    ものみの塔 1970 | 11月15日
    • アフリカに広まる真理の力

      ◆ タンザニアの人々の大多数は名目だけのクリスチャンですが,中には,神とそのみことばに深い敬意をいだいている人が少なからずいます。キリスト教世界の僧職者からの強い反対にもかかわらず,昨奉仕年度中,伝道のわざは,そうした人々のあいだで,着実な進歩を見せました。今年,それら僧職者たちは,またもや,わたしたちの兄弟のことを盛んに非難しはじめました。そして,いくつかの地域では,当局を動かして,多くの兄弟たちを逮捕させることに成功しました。それら偽りの羊飼いたちは,わたしたちの兄弟たちに対すると同様に,自分たちの羊の群れをも冷酷に扱っています。最近のこと,関心をいだいた3人の新しい人が,教会からの正式な脱退届けを司祭に書き送りました。司祭はそれら3人を助けることに努めるどころか,ただちに,彼らのことをエホバの証人として当局に通告し,また,キリスト教の反対者であると偽って3人を告訴し,逮捕させることに成功しました。

      それら教会の指導者たちは,自分たちの権威を固執するあまり,教会員たちの前で笑い者にされることが時々あります。新たに関心を持った,ある男の人は,以前の教会を去り,その理由を司祭に話し,司祭の教えは聖書に反していることを,聖書を用いて説明しました。かっとなった司祭は,自分の十字架を振りかざし,その男の人は1月末までには死んでしまうと言ってのろいました。また,その兄弟たちは2月中旬までには死んでしまうと言い,さらに,その地域のエホバの証人全部を,やがて自分ののろいで滅ぼしてみせる,と言って,おどしました。村人は皆,司祭が口走ったことばの証人となりました。やがて時がたち,人々は,司祭ののろいがきかなかったことを知りました。そして,大ぜいの村人は聖書研究をしてもらおうと,エホバの証人を捜しはじめました。前述の男の人は,そのままずっと真理を学びつづけ,さらに,その4人の兄弟たちも現在,聖書を学び,良く進歩しています。

      恐れと,絶え間ない圧迫に屈した人も少しいますが,タンザニアの兄弟たちのほとんどは,反対を受けているにもかかわらず,霊的に成長してきました。むずかしい区域で長年,特別開拓者として奉仕している一兄弟もそのひとりです。彼は帰途,バスの中で,乗客に証言したところ,乗客からの激しい反対に会い,途中でバスから追い出されてしまいました。その後まもなく,バスは転倒し,ひとりを残して,他の乗客全員が死亡しました。その兄弟は,機会をのがさず伝道したことを深く感謝しました。

      かつて重婚者だったひとりの兄弟は,1968年の初めに,2番目の妻を去らせて以来,豊かな祝福を得たという経験があります。彼が証言した姉妹や子どもたちは全員,真理の側に立ち,そのほかにも,ふたりの人が真理を受け入れました。現在,彼は15人の伝道者からなる孤立した群れの世話をしており,休暇開拓奉仕を楽しんだので,正規開拓奉仕を申し込みました。

      ― エホバの証人の1970年度年鑑より

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