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「へりくだった思いを身につけなさい」ものみの塔 1974 | 10月1日
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「へりくだった思いを身につけなさい」
「あなたがたはみな,互いに対してへりくだった思いを身につけなさい。神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施されるからです」― ペテロ第一 5:5。
1 クリスチャンはどんな資質を培うように促されていますか。なぜ?
あなたは,高慢またごう慢で,独り善がりであり,自己本位でうぬぼれの強い人たちを知っていますか。わたしたちの多くはそうした人を知っています。しかし,わたしたちは皆,謙遜で,へりくだった思いを持ち,慎しみ深く,温順で,気取ったところのない人たちとの交わりをはるかに好んでいるではありませんか。事実,謙遜さやへりくだった思いは,クリスチャンすべてが培うように促されている資質です。ある時イエスは,だれが偉いだろうかという論議が弟子たちの間で続いているのを知り,彼らに対してこう語りました。「第一でありたいと思うなら,その人はみんなの最後となり,すべての者に対して奉仕者とならねばなりません」。ついでイエスは,人が高慢な思いを持つ理由のないことを示し,子どものように純真な気持ちの人をイエスの名のゆえに受け入れるなら,イエスをも,またその父エホバをも受け入れることになる,という点を指摘しました。こうしてイエスは,弟子たちに,へりくだった思いを持つように促しました。(マルコ 9:33-37)幾年か後,ペテロは,「あなたがたはみな……へりくだった思いを身につけなさい」と書き,その理由として,「神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施される」と述べました。(ペテロ第一 5:5)したがって,へりくだった思いを望ましい資質と見なすのはわたしたちだけではありません。神もそうご覧になり,そのような者に報いとして過分のご親切を施されるのです。
2 列王紀略下 5章を取り上げるのはなぜですか。
2 わたしたちは神の是認を受けたいと願っていますから,この謙遜さという問題に真剣な考慮を払うのがよいでしょう。聖書に記されている事柄は「わたしたちの教えのために書かれた」と聖書は述べています。では,聖書の中に,わたしたちに謙遜さを教える記述を見いだせないでしょうか。(ローマ 15:4)この点で考慮に価する記述を列王紀略下 5章に見いだせます。そこには,謙遜さを培った昔のある人のことが記されています。その記述を読み,またその内容を分析して考えることによって,へりくだった思いを身につけようとするわたしたちひとりひとりが益を受けられます。
ナアマンは謙遜を学ぶ
3 ナアマンという人について何を学べますか。
3 西暦前十世紀,イスラエルの北方の国シリアには,軍隊の長でナアマンという人がいました。これはシリアを勝利に導いた人でした。ナアマンはその時気づいていませんでしたが,ナアマンによってシリアに救いを得させたのはエホバでした。ナアマンは『その主君の前にありて大いなる者にしてまた貴き者』でした。また彼は「勇敢で強大な人」(新)でした。(列王下 5:1)その地位と軍功のゆえにナアマンは誇り高い人であったに違いありません。しかし,彼はらい病にかかっていました。イスラエルと異なり,シリアにおいては,こうしたいとわしい病気を持っていても軍隊の長という地位を保つことができました。そしてやがて,極めてまれな方法ながら,それがもとになって彼は謙遜を学び,大きな益を受けました。―レビ 13:46。
4 シリア王はどのようにしてエリシャのことを知りましたか。
4 シリアの略奪隊がイスラエルの土地からイスラエル人の一少女をとりこにし,この少女がナアマンの妻の女中となっていました。この少女(聖書に名は記されていない)は,エリシャという名のエホバの預言者と,彼の行なった奇跡について知っていました。少女はエリシャの神エホバに信仰を持ち,自分の信仰について証ししました。ある時,自分の女主人であるナアマンの妻と話していた際,少女はこう言いました。『わが主サマリヤにをる預言者の前にいまさば善からんものをかれそのらい病をいやすならん』。このイスラエル人の少女の証しのことばは,やがてシリア王の耳に達しました。―列王下 5:2-4。
5 ナアマンはどのようにしてエリシャと接するようになりましたか。
5 シリアの王,それはベンハダド二世と思われますが,その王はイスラエルの王ヨラムに手紙を書き,軍隊の長ナアマンに150㌔ほどの道を行かせてそれを届けさせました。彼はナアマンに数々の高価な贈り物を持たせました。ヨラムが手紙を受け取ってみると,それにはこう記してありました。『この書汝にいたらば みよ我わが臣ナアマンをなんぢに遣はせるなり こは汝にそのらい病をいやされんがためなり』。それを読んだヨラムはろうばいし,シリア王が自分との『争ひを求』めていると思って心配しました。真の神の預言者エリシャはその事について聞き,ヨラム王のもとに送った使いによって,「彼[ナアマン]をわがもとにいたらしめよ さらば彼イスラエルに預言者のあることを知るにいたるべし」と述べました。こうしてついにナアマンは,イスラエル人の少女がその病気を治せると述べた人からの個人的な配慮を受けることになりました。―列王下 5:5-8。
6 (イ)ナアマンがエリシャの家に着いた時どんな事がありましたか。(ロ)エリシャは何をしようとはしませんでしたか。彼は何に関心を持っていましたか。
6 『ここにおいてナアマンその馬と車とをしたがへ来たりてエリシャの家の門に立(てり)』。エリシャはこうした高位者の訪問に対してどのように応じるでしょうか。名高い軍隊の長が来たというので特別に騒ぎ立てるでしょうか。記述はこう続いています。『エリシャ使ひをこれに遣はして言ふ 汝ゆきて身をヨルダンに七たび洗へ さらば汝の肉もとにかへりて汝は清くなるべしと』。そうです,エリシャは高位の人に対してこびへつらうことはありませんでした。彼はエホバの恵みを保つこと,またそのご意志がなされるようにすることに関心をいだいていました。―列王下 5:9,10。
7 ナアマンはエリシャの指示にどんな反応を見せましたか。
7 ナアマンは,自分のらい病がいかに簡単にいやされるかを知って喜びましたか。そうではありません。記述はさらにこう述べています。『ナアマン怒りて去り言ひけるは 我は彼かならず我がもとにいできたりて立ちその神エホバの名を呼びてその所の上に手を動かしてらい病をいやすならんと思へり ダマスコの河アバナとパルパルはイスラエルのすべての河水にまさるにあらずや 我これらに身を洗ひて清まることを得ざらんやと すなはち身をめぐらして怒りて去る』― 列王下 5:11,12。
8 ナアマンは誇りのためにどんな事を見失うところでしたか。しもべたちが彼を助けてその点を考えさせたことを述べなさい。
8 ナアマンの誇りがいやしを受けることの妨げとなるように見えました。彼は自分の受けた粗末な接待と,そのような単純な治療法に満足していませんでした。彼は,実際の治ゆそのものより,それに伴う儀式や仰々しさに関心を持っているかのように見えました。誇りが神の預言者の指示に従うための妨げになろうとしていました。しかし,ナアマンのしもべが彼を助けてつりあいの取れた見方をさせました。彼らは言いました,『預言者なんぢに大いなる事をなせと命ずるとも汝はそれをなさざらんや まして彼なんぢに身を洗ひて清くなれといふをや』。(列王下 5:13)彼らは正しい見方をしていました。大切なのはナアマンの病気がいやされることであるという点を彼らは認識していました。彼らが主人に話したことには効果がありました。
9 ナアマンがエリシャの指示に従った時どんな事が起きましたか。
9 『ここにおいてナアマン下りゆきて神の人のことばのごとくに七たびヨルダンに身を洗ひ(たり)』。そうです,彼はへりくだった思いを示すようになりました。謙遜になり,勧められた手順に従いました。ヨルダン川に行き,水の中に一度,二度と六度までつかりました。しかしなんのいやしも起きません。ついで七回めにつかりました。結果はどうでしょうか。『その肉もとにかへりをさなごの肉のごとくになりて清くなりぬ』。彼はいやされたのです!―列王下 5:14。
10 (イ)病気が治った時,ナアマンはどのように反応しましたか。(ロ)エリシャがナアマンからの贈り物を受け取らなかったのはなぜですか。
10 これは,ナアマンを謙遜にならせる点でどれほど効果がありましたか。彼は今自分の清められた状態を誇りにして家に戻り,なされた事柄に対する感謝を欠きますか。続きの記述によると,彼は,40㌔以上ある道のりを馬と兵車で引き返して真の神の人のもとに戻りました。今度はエリシャ自ら現われました。ナアマンは彼にこう語りました。「我いまイスラエルのほかは全地に神なしと知る」。りっぱな信仰の告白ではありませんか。感謝をいだいたナアマンはエリシャに祝福の贈り物を差し出しました。しかしエリシャは,エホバに仕えることから利益を得ようとはしていませんでした。こう語りました。『わがつかへまつるエホバは生く あへて礼物をうけじ』。ナアマンのほうでは強いて勧めましたが,エリシャは贈り物を受け取ることを「辞し」つづけます。それをいやしたのはエホバであることを知り,またエホバの与えてくださった職務から利益を得ることを求めていなかったからです。―列王下 5:15,16。
11,12 ナアマンは今どんな気がかりな事について述べますか。どのように?
11 最後にナアマンは言いました,『さらば請ふ うさぎ馬に二駄の土を僕にとらせよ 僕は今よりのち他の神には燔祭をもそなへものをもささげずしてただエホバにのみささげんとす』。ナアマンは,エリシャの神を崇拝したいという願いを謙遜に言い表わしました。そして,シリア王に対する任務に戻らねばならないとしても,その崇拝をイスラエルの土の上で行ないたいと思ったのです。―列王下 5:17。
12 ナアマンはほんとうにへりくだった思いを持つようになったではありませんか。外面を繕ったり自分が目だった者となったりすることには関心を持たず,ただ自分が今真の神と悟ったエホバを喜ばせることに関心をいだいていました。彼はエリシャに対してさらにこう語りました。『ねがはくは主[エホバ,新]この事につきて僕をゆるしたまへ すなはちわが主君リンモン[シリア王が崇拝した偽りの神]の宮にいりそこにて崇拝をなしてわが手に倚ることあり また我リンモンの宮にありて身をかがむることあらん わがリンモンの宮において身をかがむる時に願はくはエホバその事につきて僕をゆるしたまへ』。もはやナアマンは偶像であるこのリンモンを崇拝しようとはしていませんでした。彼が身を屈めるのは,王が身を屈めるのを助けるための機械的なものにすぎなかったのでしょう。エリシャはナアマンの誠実さを信じ,そのゆえに,「安んじて去れ」と彼に言いました。―列王下 5:18,19。
13 ナアマンが「へりくだった思いを身につけ」たことは彼自身にとってどんな結果になりましたか。
13 『へりくだった思いを身につける』ことをナアマンが比較的短時間に学び取り,こうしてエホバの崇拝者となってその恵みと祝福を受けるようになったのを見るのは興味深いことではありませんか。しかし,その同じ間にほかのある人は高慢に,また自己中心的になっていました。それはだれでしたか。
貪欲さに動かされたゲハジ
14,15 ゲハジは自分のほんとうの関心をどのように示しましたか。
14 エリシャにはゲハジという名の従者がいました。ナアマンがエリシャと話していた間,彼はその場にいたものと思われます。ゲハジはエリシャとは異なった見方をしました。独り言と思われますが,彼は次のように言ったと記されています。『わが主人はこのスリア人ナアマンをいたはりて彼が手に携へきたれるものを受けざりしが エホバは生く われ彼のあとを追ひかけて彼より少しく物をとらん』。ゲハジは物質上の利得に,エホバの霊の働きから利益を得ることに関心を持っていました。こうして,霊的な事柄は彼の思いの中で最重要の関心となっていませんでした。―列王下 5:20。
15 ナアマンは自分の兵車から下りてゲハジを迎え,『皆安きや』と尋ねました。ゲハジは『皆安し』と答えたのち,自分の求めている物を得ようとして偽りを語りました。『わが主我を遣はして言はしむ ただ今エフライムの山より預言者のともがらなる二人のわかうどわがもとに来たれり 請ふ汝かれらに銀一タラントと衣二かさねをあたへよと』。ゲハジは偽りを弄して,自分の主人エリシャと預言者の子らを自分のよこしまな企てに関係させました。―列王下 5:21,22。
16 ゲハジがエリシャのもとに戻った時どんな事が起きましたか。
16 ナアマンは,さきにエリシャに示したと同じ寛大な精神を依然として示し,「望むらくは二タラントを取れ」と言いました。ナアマンはそうするようにゲハジに「強ひ」,こうしてこの貪欲な人は銀二タラントと衣二重ねを受け,ついでそれを自分の家の中に置きました。それからゲハジは何も持たずにエリシャのもとに帰りました。『ゲハジよ いづくより来たりしや』とエリシャは尋ねました。ゲハジはナアマンに語った偽りを覆うためさらに別の偽りを語り,真実を隠して,「僕はいづくにもゆかず」と答えました。しかし,もとよりエホバはゲハジが何をしてきたかを知っておられ,事の全容をエリシャに啓示しました。それでエリシャはゲハジに言いました,『その人が車をはなれ来たりてなんぢを迎へし時にわが心そこにあらざりしや 今は金をうけ衣をうけ かんらん園ぶだう園羊牛僕しもめをうくべき時ならんや』― 列王下 5:23-26。
17 (イ)エリシャがかき乱されたものを感じたのはなぜ当然ですか。(ロ)その貪欲さのゆえにゲハジにはどんな事が起きましたか。
17 この時ゲハジの感じた身の震えるような恐怖を想像できますか。主人は自分のした事をまさに知っていたのです! エリシャのいだいた当然の憤りについても想像してください。彼はナアマンのらい病を治すという点でエホバの関心事に仕え,自分としてはこの奇跡に対してなんら金銭的な報いは得ようとしなかったのです。それなのに,直接に関係のなかったこのしもべが出かけて行き,貪欲にも虚偽の口実をもうけて物を得たのです。明らかにエホバの後ろだてを得たエリシャはゲハジに対してさらに語りました,『さればナアマンのらい病はなんぢにつき汝の子孫におよびて限りなからん』。そして記述は次のことばで結んでいます。『彼その前より退くにらい病発して雪のごとくになりぬ』― 列王下 5:27。
見倣うべき属性と避けるべき属性
18 列王紀略下 5章に関してどんな事を思い返すことができますか。
18 わたしたちが今取り上げた列王紀略下 5章の記述をもう一度振り返ってみましょう。言うまでもなくわたしたちは,それぞれの人の持つ目だった性格や気質に気づきます。そうした個人的な相違についてある程度思い返してみることはわたしたちにとって大きな益になります。
19 (イ)イスラエル人の少女はどんなほめるべき資質を持っていましたか。(ロ)わたしたちはそうした特性をどのように示せますか。
19 イスラエル人の少女について考えてください。彼女はイスラエルから連れ去られて捕われの身にありましたが,それによってエホバに対する信仰や,忠実なしもべを用いて奇跡を行なうその能力に対する信仰を弱らせることはありませんでした。イエスも後に指摘したとおり,エリシャはイスラエルのらい病患者を治したことは一度もありませんでした。(ルカ 4:27)しかし,この少女はほんとうの信仰を持っていました。彼女の思いの中にこの点で疑問はありませんでした。もしナアマンが行って求めるならエホバは答えてくださると,彼女は信じて疑いませんでした。女中という立場にありながら,彼女にはエホバに対する自分の信仰について証しする勇気がありました。彼女はそれを,熱意を込め,聞き手を納得させるような仕方で行なったのでしょう。それだからこそ,聞いた人はそれに応じて行動し,それを単なる子どもの気まぐれとは見なしませんでした。信仰の優れた手本を残したこの名もない謙遜な神のしもべと同じように,わたしたちも恐れなく真理を語るべきです。それは,正直な心を持つすべての人が益を得るためです。自分より高い地位の人に話す資格はないなどと考えて,エホバやその目的について知らせるのをためらうことがあってはなりません。エホバと,わたしたちを導くエホバの能力に全幅の信頼を持つべきです。―詩 56:11。
20 どんな点でエリシャを見倣えますか。
20 ついでエリシャがいます。聖書は,奇跡を行なったこのエホバのしもべについて多くのことを述べています。彼は神に用いられて死者をよみがえらせることまで行ないました。(列王下 4:32-37)しかし,彼の願いは,人に見られることや物質面で富むことではなく,ただ人々を助けてエホバとそのお目的に対する認識を深めさせることでした。言うまでもなく,自分の名を上げることなどは彼の関心でありませんでした。ただ,神エホバの名を大いなるものとすることだけが彼の関心でした。ひたすらエホバのことを考え,エホバに対する愛を第一とし,救いをエホバに仰ぐよう他の人を助けるという点でわたしたちはエリシャに見倣うのがよいでしょう。―マタイ 22:37,38。ローマ 10:13。
21,22 謙遜になるためにナアマンはどんなことを行なわねばなりませんでしたか。
21 ナアマンは,エリシャと出会うまでは「勇敢で強大な人」でしたが,その後へりくだった思いを身につけるべきことを学びました。エホバの前にあってはただの人間であり,エホバのしもべからの特別の誉れや配慮に価する者ではないことを悟りました。ヨルダン川から七度めに出て来て自分の皮膚がすっかり清められているのを見た時の彼の喜びはどんなにか大きかったでしょう。そして,自ら謙遜になり,使者を通して語られたエリシャの勧めに従ったことをどんなにかうれしく感じたことでしょう。
22 彼のような立場の人がここで述べたような事を行なうために何が求められたかについても考えてください。彼は敵の国から来た小さな奴隷女のことばを受け入れただけではありません。自分の信じていた神々を後にし,恐らくそれら神々の不興を気にかけながら,敵対関係にある国に赴いて,自分の知らない神の預言者に何かを頼まなければならなかったのです。ナアマンが謙遜になったことには,彼にとって,らい病が清められた以上の価値がありました。それはなんでしたか。その結果,彼はエホバの崇拝者,唯一まことの神の是認を願い求める者となりました。謙遜さをまとったことにはほんとうに優れた結果がありました。『謙遜の衣で身を包んで』へりくだる者に神が恵みを与えてくださることを悟るなら,わたしたちも,ナアマンと同じように,霊的な面で計り知れない益を受けられます。―ペテロ第一 5:5,新英語聖書。
23 なぜゲハジの歩みを振り返ることから益を得られますか。
23 聖書のこの章がその行動を記してわたしたちの注意を促している人がもう一人います。それはわたしたちが手本にすべきではない人です。ゲハジはかなりの間エリシャの下で仕え,エホバがどのようにエリシャを用いておられるか,またエリシャと一緒にいられることがどれほど大きな特権であるかを知るだけの十分の機会に恵まれていました。しかし,彼は物質的な富を願い求めるようになりました。ナアマンが差し出した銀と衣を自分の主人がすべて断わるのを見た時,彼は自分の貪欲さに打ち負かされるようになりました。その欲望がはらみ,彼を罪へと動かしました。(ヤコブ 1:14,15)彼はナアマンが持ち帰ろうとしている物を少しでも手に入れようと企て,そのための作り話を考え出しました。彼は自分の主人に対して,そして事実上エリシャを任命したエホバに対して偽りを語ることまでしました。悲惨な結果が臨んだではありませんか。らい病で撃たれたのです。彼はその貪欲さの結果として健康を失い,エリシャとともに奉仕する特権も失いました。貪欲で自己を偶像化したこうした悲惨な歩みを見て,わたしたちは益を受けることができます。エホバへの奉仕から個人的な利得を得ようとすることが極めて危険であり,そうしたことは避けなければならないという点がわかります。―ヨハネ 12:4-6と比較。
今日に対する預言的な対応
24 エリシャとナアマンはだれを表わしていると言えますか。
24 エリシャは油をそそがれた神のしもべでした。つまり,ある定めの仕事をするためエホバから特別の任命を受けた人でした。それゆえ,彼を,キリストの花嫁のうちまだ地上に残っている人々,つまり天でキリストと共になる14万4,000人級の残れる者を表わすもの,もしくはその預言的な型と見ることができます。(啓示 14:1-3)人類一般はナアマンとおおむね似た状態にあります。らい病に悩まされてはいませんが,それでも,死をもたらす疫病のような罪をかかえており,そうした状態にあって,彼らはおおむね,キリストの花嫁級の成員のうちまだ地上に残る人々およびそれと共にいる人々に対して戦いを挑んでいます。―ローマ 5:12。マタイ 24:9。
25 ナアマンのような「大群衆」はどのように助けられてきましたか。
25 しかし,ナアマンの妻に仕えたイスラエル人の少女がしたと同じような王国の証しがなされることによって,そうした人々の中から多くの人が正しい道に導かれ,霊的な意味で病状のいやしを受けています。彼らは油そそがれたエリシャ級と接し,霊的に正しい状態に戻りかつエホバに対して正しい良心を得るために何が求められているかを学んでいます。ナアマンの場合と同じく,これらの人々にも,信仰と謙遜になることとが求められています。彼らは励まされ,従順になり,また清められて神に受け入れられる状態になるという喜びを経験しています。彼らは今「大群衆」に属する者となり,清められた地上にできる義の新体制下で永久に生きることをその希望としています。(啓示 7:9)この「大群衆」に属する人々は,真の神エホバの証し人のところ以外にはどこにも神のいないことを認めています。そして,イエスの指示どおり,霊的ないやしが無償で与えられることを悟っています。―マタイ 10:1,8。
26 神に仕えると唱えながら私的な利益のために他の人を利用する人はどのように見なされますか。
26 エリシャ級は「大群衆」を助け,罪に伴う災いから霊的な立ち直りを得させていますが,それに伴って彼らを利用することは欲していません。エリシャはナアマンからの金銭的また物質的な贈り物をいっさい断わりましたが,今日のエリシャ級も人を助けて霊的な立ち直りを得させることに対してなんの支払いも受け取りません。彼らは,神のことばを学ぼうとする人たちを助けるために自分の時間を惜しみなく与えます。そして,地上の神の民の会衆に連なる人の中に,「大群衆」の犠牲において物質上の利得を得ようとする人がいれば,そうした人は,貪欲な者,また自己偶像化の罪のある者として暴かれます。そうした者は組織内から取り除かれます。これは,その強欲さまた貪欲さに対してエリシャがゲハジ与えた処置と似ています。これは次の定めにかなうものです。「淫行の者……貪欲な者……ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継(ぎません)」― コリント第一 6:9,10。
27,28 「大群衆」に属する者であることを示すために人は今日どんな事を行なえますか。
27 神の油そそがれたしもべたちと交わって「大群衆」を構成するようになる人たちもやはりへりくだった思いを身につけなければなりません。聖書の現代英語訳はペテロ第一 5章5節を次のように訳出しています。「あなたがたは皆,謙遜の前かけをかけて互いに仕えなければならない。聖書はこう述べているからである。『神は高慢な者に敵対し,謙遜な者に慈しみを示される』」。前かけということばは,だれかに奉仕し,食事の準備をするなど,他の人のために働く人のことを連想させます。それで,「謙遜の前かけ」をかけるということは,謙遜になり,へりくだった思いを持ち,他の人に仕えようとする態度を表わしています。
28 あなたは,「へりくだった思いを身につけ」,「謙遜の前かけをかけ(る)」ことを願っていますか。救いのためのエホバの道をすすんで受け入れますか。この20世紀にも,謙遜さ,またへりくだった思いの手本を全世界に見いだすことができます。それはエホバの証人の組織の中に見いだされます。この続きを読んで,救いのためのエホバの道に彼らがいかに謙遜に従ってきたかを見てください。
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救いのためのエホバの道に謙遜に従いなさいものみの塔 1974 | 10月1日
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救いのためのエホバの道に謙遜に従いなさい
『謙遜な民をあなたは救われます。しかし,あなたの目はごう慢な者に敵して向けられています』― サムエル後 22:28,新。
1 1972年,エホバの証人の会衆にはどんな事が起きましたか。
全世界のエホバの証人の会衆の中では,1972年9月に大きな変化がありました。1932年から1972年まで,それぞれの会衆には,「会衆の監督」と見なされる人が一人おり,その人がそのような地位で多年奉仕する場合も多くありました。しかし1971年,第一世紀当時のクリスチャン会衆にはただ一人ではなく一団の長老もしくは監督たちがいたという点が,聖書に基づいて改めて注目されるようになりました。(テモテ第一 4:14。フィリピ 1:1)こうした点に基づいて,それぞれの会衆内で一団の長老が機能を果たし,その長老団の司会者の地位に就く人が年ごとに交替するという聖書的な取決めが再度取り上げられることになりました。こうして,1972年9月に存在した,エホバの証人の2万8,407の会衆の大部分においては,それまでとは違った人がその土地の主宰監督の地位に就きました。
2 組織の取決めにおけるこの変化が今日の神の民をいっそう明瞭にしたことを述べなさい。
2 それまでの「会衆の監督」もしくは「会衆のしもべ」たちはこれに対してどのような反応をしましたか。ほとんどすべての人はその変化を謙遜に受け入れ,エホバがご自分の組織を導いて初期クリスチャン時代の姿にいっそう近づけたことに対する認識を示しました。そうした人々は,会衆のただ一人の監督と見なされていたものが,今度は全く同等の成員から成る長老団の一員になるという点で,すすんで自分の地位を下りました。こうした変化がこの世のどこかの組織内でなされうるでしょうか。つまり,かぎとなる地位にある人を皆動かしてほかの地位に交替させるということが,その組織に不幸な結末をもたらさずになされうるでしょうか。まずありません。しかし,エホバの証人の間ではこれが可能でした。彼らは,「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持(つ)」人々だからです。―フィリピ 2:3。
3 エホバの証人はどのようにして謙遜さとへりくだった思いを身に着けますか。
3 しかし,エホバの証人はどのようにしてそうした資質を身につけるのでしょうか。ダビデ王や人類の他の人々と同じように,彼らも罪人として生まれ,死をもたらす病気のような罪を持っています。(詩 51:5)しかし彼らは,ちょうどナアマンが救われもしくはそのらい病をいやされたのと同じように,エホバの道に謙遜に従うことがそうした状態からの救いに至ることを学び知っています。ナアマンの場合,エホバの道はただ一つでした。神はご自分の預言者エリシャを通して一定の取決めを持たれ,それを変更されませんでした。ナアマンが謙遜になってその取決めに添って行動した時に初めて,彼は祝福されていやしを受け,真理を知ることができました。このように,謙遜さはわたしたちも学ばねばならないものです。
4 謙遜という意味のヘブライ語,ギリシャ語,英語のことばにはどんな含みがありますか。
4 ヘブライ語聖書の中で「謙遜」と訳されていることばは,「身を屈める」という意味の語から来ています。謙遜,温順,へりくだり,謙虚などは皆その意味と結び付いています。クリスチャン・ギリシャ語聖書に使われている元のことばで言えば,謙遜は,思いの低さということと結び付いています。英語の謙遜<ヒューミリティー>という語は,地面や大地を指すラテン語ヒュームスから来ており,誇りや尊大さのないことを表わしています。
謙遜さを身につける
5 どんな事は謙遜を培う必要を認識する助けとなりますか。
5 謙遜さは培うことのできる資質です。まず第一に,人は謙遜になりたいという願いを持たなければなりません。こうした性向は聖書を読むことによって確かに強められます。わたしたちは聖書から,「神はごう慢な者に敵対し,謙遜な者に過分のご親切を施される」という点を学びます。(ヤコブ 4:6)また,「謙遜になってともに歩む」ことをエホバが求めておられることも認識するようになります。(ミカ 6:8,新,1960年版)それゆえ,神を喜ばせたいと思うとき,謙遜さを育てたいと願うようにもなります。
6 エホバとわたしたちとの関係を認識することが謙遜になるための助けとなることを述べなさい。
6 この問題と密接な関係があるのは,自分とエホバの関係を正しく認識することです。わたしたちは,エホバが求めておられる事がらは正しいという認識に基づいて,エホバに対する恐れ,つまりその不興を受けまいとする畏敬の気持ちを持つべきです。(詩 111:10。箴 8:13)そしてソロモンは,エホバを恐れることと謙遜さとを結び付けてこう述べています。『謙遜とエホバをおそるる事との報いは富と貴きと命となり』― 箴 22:4。
7 この面でのエホバの手本はわたしたちに何を行なわせますか。
7 謙遜さという点でのエホバの手本もわたしたちの助けになります。(サムエル後 22:36。詩 18:35)エホバは罪ある人々にあわれみと同情を働かせておられます。そうです,ご自身のみ子を人間の罪のための犠牲として与えることまでされました。(ヨハネ第一 4:10)宇宙で最も偉大なエホバが謙遜であられるなら,微々たる被造物であるわたしたちは当然謙遜であるべきではありませんか。
8 謙遜さを育てる上でイエスのことばと行動はどのようにわたしたちの助けになりますか。
8 イエスの残した模範も,クリスチャン,つまりキリストの足跡に従う人々が見倣うべきものです。(ペテロ第一 2:21)自分を王として示すためエルサレムに入城するさいのイエスについては,その『謙遜さ』が特に予告されていませんでしたか。(ゼカリヤ 9:9,新。マタイ 21:5)「ことば」また天における神の初子であり,後にイエスとなったかたは非常に高い立場におられました。それでも,「人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」。そしてパウロは賢明にも,フィリピ会衆に対して,「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなたがたのうちにも保ちなさい」と勧めました。それは,謙遜という資質を含む精神態度です。(フィリピ 2:5-8)人間として地上におられたイエスは謙遜という属性の大切さについて話し,弟子たちが幼子のように謙遜になることを勧め,「だれでも自分を低くする者は高められる」という点を銘記させました。―マタイ 23:12; 18:4。
9 へりくだった思いを持つ上で祈りはどんな役割を果たしますか。
9 謙遜になるための別の助けは祈りです。祈りは神の偉大さとわたしたちの微小さを思い起こさせます。また,「わたしたちの父」との良い関係に入りたいもしくはそれを保ちたいと願う他の人たちのいることも思い出させます。わたしたちの罪のゆるしのために,エホバはみ子を通してほんとうにすばらしい備えを設けてくださったではありませんか。祈りはわたしたちを助け,わたしたち自身にはなんら誇るべきところがないことを銘記させます。―マタイ 6:9-12。
10 謙遜さに関するこの論議に愛がどのように当てはまりますか。
10 へりくだった思いを培うために必要なものは,神の霊の実の一つである愛です。(ガラテア 5:22)「愛は……思い上がらず」と述べられています。(コリント第一 13:4)わたしたちは,最も大切なのはエホバに対する愛であることを認識するようになります。ついでわたしたちは,「隣人を自分自身のように愛さねば」なりません。つまり,隣人を自分と同じ立場に置き,自分を隣人以上のものとするべきではありません。(マタイ 22:37-39)エホバの証人は謙遜な者となることを願っています。彼らは聖書の研究から,エホバがそれを求めておられることを知っています。また彼らは,この面でのエホバやキリスト・イエスの手本を熟思しました。彼らは祈りの備えを活用し,愛を示す努力を続けます。イエスは,その愛こそ,イエスに従う人々のしるしであると言われました。またその愛が,へりくだった思いを培うのを助けます。―ヨハネ 13:34,35。
謙遜さは今日必要とされている
11,12 憎しみの満ちたこの世にあって謙遜さはどのようにわたしたちの助けになりますか。
11 謙遜さを育てることは,利己心と憎しみに満ちた今日の世界でぶつかるさまざまな挑戦に立ち向かうための助けとなります。神の霊感を受けた使徒パウロは,「終わりの日に」人々が「自分を愛する者……ごう慢な者」となることを予告しました。(テモテ第二 3:1,2)ここに述べられるような態度があらゆる階層の人を強力にとらえています。もとよりわたしたちは,そうした態度が自分にうつることを望みません。
12 人々も容易に認めるとおり,いろいろな国籍や人種の人々の間の争いは,国家的もしくは人種的な「誇り」のためです。しかし,誇りは謙遜の逆であり,「高ぶりは滅びにさきだち,誇る心は倒れにさきだつ」のです。(箴 16:18,口)わたしたちは,国家的あるいは人種的な誇りのゆえに神とまともに衝突することを願うでしょうか。そのような事はわたしたちの滅びとなります。
13 この邪悪な事物の体制下にあって謙遜さはどのように婦人を助けるものとなりますか。
13 女性解放運動は世界じゅうの人々の注目するところとなりました。その運動に連なる婦人の中には,聖書を男の作り出した本と見なし,高慢な態度で,『男は神の像また栄光,しかし女は男の栄光』という聖書のことばは単なる男性絶対論者の意見にすぎないと唱える人々がいます。(コリント第一 11:7)そうした婦人の誇りは,霊感を与えて聖書を記させたエホバに正面からぶつかる結果になっています。婦人であり,神の是認を求める人たちは,謙遜さの足りないそうした見方を避けていますか。使徒は,クリスチャン会衆内の男子に対して,「神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい」と命じています。婦人である人は,自分も聖書のこの指示に添って生活することが柔順をずっと容易にし,生活をより幸福なものにすることを見いだしていないでしょうか。―ペテロ第一 5:6。
14 『家の頭』はどのように謙遜になれますか。
14 もちろん,男子が頭であるという考えは極端に至り易いものです。父親また夫としての役割を果たすために,男子は家庭において謙遜になり,また自分の過ちを見てそれを改める努力をし,まちがいをした時にはそれを認めることが必要です。謙遜さがあれば感情移入ができ,大きな決定に先だって家族内の他の人のことを考慮に入れることができます。謙遜さはまた,家族内の他の人たちの過ちをゆるし,完全さを要求しないようにする点でも助けになります。エホバも家族の頭に完全を要求してはおられません。性や年齢の差から来る問題を克服する点で,謙遜さは家族内のすべての人の助けになります。へりくだった思いは,常に「愛のうちに互いに忍(ぶ)」ようにする上でわたしたちを助けます。―エフェソス 4:2。
15 伝道を続け迫害に耐える上で謙遜さはどのように助けになりますか。
15 謙遜さは,この邪悪な事物の体制の終わりが来る前になされるとイエスの言われた仕事に携わる上でも助けになります。イエスは世界的な伝道の業を予告されました。それは,地を治めるための神の政府である王国について他の人に告げる仕事です。(マルコ 13:10)へりくだった思いがあれば,自分が伝道する人たちの考え方を考慮に入れ易くなります。またそれは,人と話すさいに相手の立場を理解するのを助けます。イエスはまた,ご自分の追随者がイエスに従うことのゆえに憎まれ,迫害を受けることをも予告されました。(マタイ 24:9)謙遜であればそうした反対に耐え易くなります。エホバが至上者であられることを認め,それを許したからといってエホバに反逆したりはしないからです。わたしたちは,迫害に立ち向かい,ののしる人々に面しても謙遜さを失わず,父への忠節を守り通したイエスの手本を仰ぎ見ます。―ペテロ第一 2:23。
16 懲らしめに関して謙遜さはなぜ助けになりますか。
16 謙遜な人は助言や懲らしめを受け入れます。『教訓の懲らしめは命の道なり』。(箴 6:23)高慢な人は助言されることを不快に感じます。自分は何もまちがいをしないとその人は感じます。しかし,へりくだった思いを持つ人は,自分が誤りを犯す者であることを認め,正されたことに感謝します。「たしかに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに見えず,むしろつらいことに思えます。しかしのちには,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出(します)」。(ヘブライ 12:11)したがって,助言や懲らしめを受け入れる人は,それによってりっぱな霊的進歩を遂げます。
現代の謙遜の手本
17 文盲であることを謙遜に認めたことはその青年にとってどのような益になりましたか。
17 仮にあなたが字を読めないとしたら,それを認めて助けを求めるまでに謙遜になりますか。西アフリカの一青年は次の経験を話しました。「わたしは19歳になっても読み書きができないことを残念に思っていました。ある日,エホバの証人が王国会館で行なう読み書き教室について聞きました。わたしは証人の一人ではありませんでしたが,彼らはわたしを入れてくれました。読み書きの学習は会衆の集会の一部をなしていました。わたしは感謝を表わす意味でその晩のプログラムの残りの部分も聴きました。その集会はたいへん楽しいものであり,ほかの青年と同じように自分も人の前で話をしてみたいと思いました。そうした青年の一人がわたしとの聖書研究を始めてくれました。二年足らずのうちにわたしは読み書きを学んだだけでなく,野外奉仕に加わる資格もでき,バプテスマを受けて献身を表わし,開拓者になるという喜びの特権を持つことができました」。この人は,その謙遜さのゆえに,読み書きを学び,真理を知り,全時間奉仕者となって真理を他の人に分かつまでになりました。
18 ある高慢な人はどのように変わりましたか。その結果は?
18 アフリカの同じ地方にそれほど謙遜でない人がいました。事実彼は,自分の所に来たエホバの証人の奉仕者に,自分はだれにも教えてもらう必要はない,大きな会社の経営者であるから,聖書なら自分で学べる,と言いました。しかし,会衆の集会の一つに出席してみるようにとの招きは受け入れました。彼は神権宣教学校から大きな感銘を受け,それに定期的に出席するようになりました。やがて彼自身もその学校に入り,そこで与えられる助言を受け入れて自分に当てはめるにつれ,その態度がすっかり変化するようになりました。彼は自分の家で聖書研究をして欲しいと願い出,りっぱな進歩を続けました。そうです,謙遜になった彼は今,献身してバプテスマを受け,エホバ神のしもべとして仕える特権を得ました。
19 盲目の一牧師はどのように謙遜さを示しましたか。
19 オーストラリアからあまり遠くないある島の若い証人は一人の老人に会い,何度か訪ねた後に,五人から十人の人が参加する研究を始めました。一度の研究に二,三時間はかかりました。一人の盲目の老人がいつもそこに出席し,聖書に対する深い愛を示していました。やがて彼は会う人ごとに自分が学んでいる真理について話すようになりました。後にわかったことですが,この盲人は土地のルーテル派の牧師でした。数か月のうちに,この人たちは,二時間半から三時間も歩いてエホバの証人の集会に出席するようになりました。やがてその老牧師は,自分の教会の他の人たちに,自分が以前に教えた事がらは真理でないことがわかったので自分は教会を去る,と告げました。そうです,彼は自分の過去の歩みの誤りを謙遜に認め,救いのためのエホバの道に従う歩みを進めました。
20 別の牧師はなぜ自分の教会を去りましたか。
20 南太平洋のある島の村で別の謙遜な牧師がエホバの証人と接触しました。彼も家庭聖書研究に応じ,聖書と自分の教会の教えとの違いをすぐに認め,二回研究しただけでその教会をやめました。彼の辞任を知って以前の仲間は当惑し,自分たちの牧師としてとどまってくれるようにと説得しようとしました。彼はその人々に,自分は今真のキリスト教だけを擁護すると伝えました。霊的な面での彼の進歩はその後も続き,今彼はバプテスマを受けたエホバのしもべの一人となり,他の人が真理を学ぶのを助けています。
21 (イ)「新しい人格」には何が含まれていますか。(ロ)エホバの証人の持つ「新しい人格」についてどんな称賛のことばが語られましたか。
21 使徒パウロはこう勧めます。「古い人格をそのならわしとともに脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい……優しい同情心,親切,へりくだった思い,柔和,そして辛抱強さを身に着けなさい」。(コロサイ 3:9-12)したがって,新しいクリスチャン人格の一部を成すものは,へりくだった思い,謙遜さです。エホバの民はそうした資質をはっきり表わしており,それが他の人たちを引き寄せてもいます。二人のエホバの証人を雇っているある企業の経営者から,ものみの塔協会のフィリピン支部に寄せられた次の手紙はこの点を例示しています。「わたしたちは当社の製造部門を改組中ですが,これにちなんで熟練した働き手を探す面で貴協会のご援助をいただけないものかと考えております。こうしてお願いする一番の理由にはわたしたちの観察の結果があります。細かな調査と実際の経験に示されるとおり,あなたがたの組織に属する人々は,どのような仕事においても正直さと私心のない勤勉さを示すという面で全く信頼でき,またわたしたちは,今日の経済・労働問題を理解しそれに自分を適応させるという面での彼らの能力にも驚きを感じています」。
22 ひとりの証人は会衆の集会に対する認識をどのように示しましたか。どのような結果になりましたか。
22 エホバの証人は世俗の職場でりっぱに振舞いますが,その誉れはエホバに行くべきことを忘れません。そして,クリスチャン会衆の集会に出席できる特権を引き続き大切にします。それは,「新しい人格」を育て続けるためです。ある若い女性の証人の家族は経済的に困窮し,彼女は家計を助けるために世俗の仕事に就くことが必要になりました。雇用者と面接した時,その仕事が会衆の集会時間と一部重なることがわかりました。雇用者は時間の調整を拒みました。彼女は,「私にとってこの仕事は必要ですが,仕事と信仰を引き換えにすることはできません」と告げ,その職に就くのをやめました。しかし二日後,その経営者は使いの人を王国会館によこして彼女を捜し,すべての集会に出席することを認めてその職を提供しました。エホバを喜ばせようとする彼女の謙遜な努力をエホバは祝福されました。
23 (イ)ある旅行する監督は謙遜な態度をどのように言い表わしましたか。(ロ)エホバの証人の中の監督たちは何に関心をいだいていますか。
23 エホバの証人の旅行する代表者は諸会衆を定期的に訪問するように割り当てられています。それは,話をしたりともに伝道の業を行なったりして会衆を霊的に励ますことを目的としています。しばらく前,こうした訪問が四か月に一度から六か月に一度に変更されました。そのため,この仕事をしていた人たちつまり巡回監督のうちの幾人かは,この仕事のためには必要でなくなりました。ニューヨーク市で奉仕しているそのような人の一人は謙遜な態度で次のように述べました。「幾人かの人が巡回の仕事から外されると聞いた時,わたしはエホバに,もし自分の訪問が何かの妨げとなっており,あるいは他の人ほど会衆の助けとなっていないのであれば,わたしがその旅行の仕事から外される人の一人となりますように,と祈りました」。ほんとうにりっぱな態度ではありませんか。全世界のエホバの証人の中の年長者つまり監督たちが示している態度の典型です。彼らは高慢な気持ちで自分の地位に関心を持っているのではありません。「羊」がイエスに属することを認めつつ,イエスに従う羊のような人々を謙遜に世話することに関心を持っているのです。―ヨハネ 10:14。
取るべき正しい道
24,25 救いは謙遜な者に差し伸べられることを信ずるなら,何を行なわなければなりませんか。
24 あなたは,聖書記述者ダビデがエホバへの祈りの中で語った次のことばをほんとうに信じていますか。『謙遜な民をあなたは救われます。しかし,あなたの目はごう慢な者に敵して向けられています』。(サムエル後 22:28,新)ほんとうに信じていれば,ごう慢さのなごりを,つまり人種・国籍・教育・身分などのゆえに自分が他の人より勝っているといった考え方のなごりを,自分の生活からことごとく除き去ろうとされるでしょう。わたしたちはみな罪人アダムから来ており,わたしたち自身のうちにはなんら誇るべきところはありません。―使徒 17:26。
25 謙遜な態度でエホバの道に従うなら,救いの希望はわたしたちのものとなります。次の点を認識しなければなりません。「すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。(ヨハネ第一 2:16,17)エホバの道に従おうとする人は,世の,ただ物質だけを追求する態度にまとわれてはなりません。それは,貪欲なゲハジの場合のように,わたしたちを全くの失格者としうるのです。
26 わたしたち一人一人はどんな道を進むことを願いますか。
26 したがって,取るべき道は,聖書を研究し,自分の生活をエホバのご意志に合わせ,献身してバプテスマを受けたエホバのしもべの一人となり,エホバの救いの道に従うよう他の人たちを助けることです。こうした段階をすでに取った人は,その正しい方向に添って歩み続けて行くことが必要です。「自分がどこまで進歩したかに応じ,その同じしかたで整然と歩んでゆきましょう」。(フィリピ 3:16)クリスチャン兄弟との関係について述べる,『他の者が自分より上であると考えなさい』というパウロのことばを不快に感じるようなことはわたしたちの願いではありません。(フィリピ 2:3)神の民の隊伍に行き渡る謙遜の精神を十分に認識し,そうした精神に寄与することこそわたしたちの願いです。わたしたちは,そこに幸福感を,また満足感を感じ取ることを願っています。兄弟たちの交わり全体に対して謙遜な態度で愛を表わすこのことこそ,人に満足を与える快い雰囲気を生み出しかつ維持しているものです。また,エホバの組織をただ個人に合わせるために変えることはできません。この点も忘れないでください。
27 会衆の長老団の仕事を批判するのはなぜ正しくありませんか。
27 長老団によってなされた事がらに反対を唱え,また物事の扱われる仕方を批判しているなら,エホバの組織に対する忠節さを失っていることになります。長老は新たに転向した人ではないという点を思い出しましょう。彼らはエホバに多年仕えてきました。(テモテ第一 3:6)そして,あら探しをさせたり不平の気持ちをいだかせたりしているものは何でしょうか。多くの場合,それは人の目に自分を高めようとする願いではありませんか。つまり,誇りが問題の根源となっています。こうした態度は実際には聖霊に抵抗することになりかねません。会衆内に年長者を任命することには聖霊が参与しているからです。(使徒 20:28)では,兄弟の一人が聖霊の導きを受けて王国に関係した事がらを扱っていると見なされるのに,どうしてそのやり方について批判すべきでしょうか。ある事の扱い方においてその兄弟が誤っているなら,聖霊がそれを正すはずであり,わたしたちはその点に信仰を持つべきです。
28 自分の永遠の福祉のためにわたしたちは皆何を認めなければなりませんか。
28 競合する勢力が各,自分の利益を求めて争い合う世界,苦々しい対抗心の満ちる世界にあって,ただ一つの組織が他と異なる際だった存在となっています。それはイエスにほんとうに従う,エホバのクリスチャン証人たちです。その中には,ナアマンの生涯におけるイスラエル人の少女のように勇気ある信仰を表明し,自分の知る真理を他の人の益のために語ってきた人々がいます。彼らは微々たる無名の人と見なされるかもしれません。しかし,その人々はエホバの是認を受けています。また,エリシャと同じようにさらに目だった立場で奉仕してきた人もいます。しかし,その人々もエホバの恵みを得ることに第一の関心を払っています。自らの利得を得ることはその願いではありません。わたしたちすべてがそうした人々とともに働き,謙遜さまたエホバの道に従おうとする態度がないかぎり救いは得られないということを認識できますように。
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