-
会衆内でエホバの優しい愛情に答え応じなさいものみの塔 1973 | 6月1日
-
-
もし会衆内で特定の立場で奉仕することを頼まれたなら,問題を主のみ手にゆだね,堅く信頼してそれに応じ,最善をつくすべきです。詩篇作者は次のように述べています。『なんじのいきおいの日になんじの民は聖なるうるわしき衣をつけ心よりよろこびて己をささげん』― 詩 110:3。
心よりよろこんで答え応じる
12,13 (イ)エホバはどのような区別をされますか。(ロ)どんな人がエホバのいつくしみを受けますか。
12 人が「謙遜」を身につけているということは,その人が高慢でないことを意味します。そしてそれは望ましい資質です。しかし,自分の背景や生まれつきの能力の限界ゆえに自分を低く考えている人は,エホバに全き信頼を寄せる必要があります。
13 エホバは,高慢な者と謙そんな者とを区別して扱われます。エホバご自身のことばが,『エホバは高くましませども卑きものを顧みたまう されどまたおごれるものを遠きよりしりたまえり』と述べています。(詩 138:6)イザヤ書 66章2節にも,「エホバ宣給く」とあって,やはりこの区別が示されています。『我はただ苦しみまた心をいため我がことばを畏れおののく者を顧みるなりと』。またクリスチャンは次のように助言されています。『みなたがいに謙遜をまとえ「神は高ぶる者を拒ぎ,謙だる者に恩恵を与え給う」。この故に神の能力ある御手の下に己を卑うせよ,さらば時におよびて神なんじらを高うし給わん』。『神は高ぶる者を拒ぎ,謙だる者に恩恵を与え給う』。(ペテロ前 5:5,6。ヤコブ 4:6)『謙遜』が,着物のように着るべきもの,そしていつも着ていなければならないものであることは明らかです。『慈悲の心・なさけ・謙遜・柔和・寛容を著よ』。(コロサイ 3:12)わたしたちの指導者キリスト・イエスはそういうかたです。イエスはご自分のことをわたしは「心卑ければ」と述べておられます。(マタイ 11:29)神はそのような謙そんな人をいつくしまれます。
14 『こころ砕けてへりくだる者』に対して神はどんな目的を持っておられますか。
14 神が謙そんな者をいつくしまれるのは彼らの心と精神を強めるためです。『至高く至上なる永遠にすめるもの聖者となづくるものかくいい給う 我はたかき所きよき所にすみ またこころ砕けてへりくだる者とともにすみ 謙だるものの霊をいかし砕けたるものの心をいかす』。(イザヤ 57:15)エホバは,自分の背景や現在の状況の圧力によってゆがみくだけている人びとに,新生面を開くことができます。
15 謙そんな人はどんな区別をしなければなりませんか。
15 エホバがへりくだる者と高慢な者とを区別して扱われるように,謙そんな人びとも識別力を働かせて,必要な,正しい,クリスチャンの謙そんさと,見せかけの謙そんさとを区別しなければなりません。なぜなら見せかけの謙そんさはほんとうの謙そんさではなく,実際にはずうずうしさだからです。
16 何を調べればこの区別を正しく行なう助けになりますか。
16 謙そんな人びとが,この区別をするうえで助けになるのは,エホバに対する自分の信頼度を調べてみることです。わたしたちは次の箴言をよく知っています。『汝こころをつくしてエホバにより頼め おのれのさとりによることなかれ 汝すべての道にてエホバをみとめよ さらばなんじの途を直くしたまふべし』― 箴 3:5,6。
17 聖書は真の謙そんさと見せかけの謙そんさをどのように区別していますか。
17 使徒パウロはコロサイのクリスチャンたちに書き送った手紙の中で,真の謙そんさと単なるかたくなな態度との区別のしかたをわたしたちに教えています。『殊さらに謙遜をよそおい,御使いを拝する者に汝らのほうびを奪わるな。かかる者は見し所のものに基づき,肉の念にしたがいて徒らに誇(る)。これらの誡命は,みずから定めたる礼拝と謙遜と身を惜しまぬ事とによりて知恵あるごとく見ゆれど…力なし』。(コロサイ 2:18,23)謙そんな人びとは,『肉の念』を避けねば,あるいは除かねばなりません。それは,『知恵あるごとく見ゆれど』,真の知恵でも,謙そんでもありません。箴言 11章2節が注意しているとおりです。『たかぶりきたれば辱もまたきたる 謙だる者は知恵あり』。賢明なのは,『おのれをさとしとする』人ではなく,ほんとうに謙そんな人です。(ロマ 12:16)このことは確かに多くの考えるべき事柄,真剣に考慮すべき多くの神の助言を謙そんな人たちに与えます。それは彼らが,エホバの優しい愛情と,愛情深い備えとに答え応じ,しかも確信をもってそうすることができるためです。『義者はししのごとく勇まし』― 箴 28:1。
18 この記事からどんな二つの結論を引き出すことができますか。
18 以上のことから,わたしたちは次のように結論することができます。つまり,エホバ神の助けがあればだれもが,どんなタイプの奉仕の割り当てでも行なう能力を相当程度培うことができるということです。また,エホバは謙そんな者をいつくしみ,もし彼らがエホバの導きと指示を求め,エホバのことばを信じ,そして自分に差しのべられた奉仕の特権を受けさえすれば,より大きな奉仕の特権に対する備えをしてくださると結論することもできます。
19 自信のある人びとにはどんな助けと助言がありますか。
19 自分は能力がないとか劣っていると考える人たちとは対照的に,他の人びとは,自分の境遇や業績や背景のゆえにかなりの自信を持っているかもしれません。神のことばの中にはそういう人びとにも役だつ助言があります。エホバの民はみなエホバの群れの「羊」です。それには,神の民の会衆の中で特権と責任を持つ人びとも含まれています。その象徴的な羊の中から,群れを導き世話をする羊飼いたちが取られますが,彼らはやはり群れの「羊」でなければならず,自分を過大評価して高慢にならないよう自分自身に注意しなければなりません。もし彼らが高慢であるなら,あるいは高慢になるなら,エホバは彼らを用いつづけることができません。なぜなら,神は誇り高ぶる者に好意を持たれないからです。「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。[神]がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです」― 使行 20:28,新。
20 イエスは追随者たちにどんなよい模範を示されましたか。
20 神「ご自身のみ子」イエス・キリストさえも自分に頼ることをせずにこう言われました。『子は父のなし給うことを見て行なうほかは自ら何事をもなし得ず,父のなし給うことは子もまた同じくなすなり』。(ヨハネ 5:19)使徒たちはイエスの前で劣等感を持ったかもしれません。しかしイエスの謙そんさと愛は,彼らの最も良い資質を引き出しました。神の民の会衆の中で責任ある立場にある人びとはみなそのようでなければなりません。つまり,み父の優しい愛情とあわれみを反映した,謙そんで愛のあるイエスのようでなければなりません。
21 聖書は誇り高ぶる人にどんな助言を与えていますか。なぜですか。
21 もし人が祝福と特権のために誇り高ぶるようになったなら,その人は思いと心の謙そんさという必要な特質を失ったのです。もし変化しないならその人は失敗します。『神は高ぶる者を拒ぎ…給う』からです。(ペテロ前 5:5)『たかぶりは滅亡にさきだち誇る心はたおれにさきだつ 卑き者に交わりて謙だるはたかぶる者とともにありてえものをわかつにまさる』― 箴 16:18,19。
22 次の人びとに対する正しい態度は何ですか。(イ)良い境遇と能力に恵まれた人びと。(ロ)進歩するのに時間と訓練を必要とする人びと。
22 謙そんな人たちに対する神の態度は明らかです。すべての人はそれを見習うべきです。良い境遇と天賦の才に恵まれた人たちは努力し,クリスチャンとしてよく進歩します。この進歩は称賛に価します。そのような能力,責任そして特権をもつ人たちは,ほかのある人びとにはそういうものがないことを認めなければなりません。訓練とエホバの霊の働きとから益を受ける人たち,そして時がたつにつれて進歩し,神権的な特権を加えられる人たちもいます。それは非常にすばらしい事ですし,クリスチャンとしての正しい進歩を示すものです。加えて,クリスチャン会衆内にいる多くの新しい人,あるいはまだ事情が許さないために進歩していない人びとをもわたしたちは神の見地から見なければなりません。そのようなやや進歩のおそい人びとを重要でないと考えるのは,まちがった人間的な考えです。神はそういう人たちに関心を持っておられ,価値のある方法でその人たちをお用いになることができますし,また現に用いておられます。
23 (イ)だれがだれを助けるべきですか。(ロ)ヤコブに共鳴して,わたしたちはみな何が真実であることを知りましたか。
23 ですから,このような正しい見方をもって,謙そんな人びとも他の人びともみな,お互いに助け合いましょう。このことには,年の若い,文字通りの子どもたちを助けることも含まれています。また,年を取った人,からだの弱い人,そして劣等感を感じているかもしれない人なども援助すべきです。謙そんな人びとが,エホバの愛情深い備えに答え応じて,エホバの民の会衆の組織に支持と力を与えるとき,すべての人が彼らから霊的な益を受けることができます。この点で会衆での交わりや個人的な交わりは貴重なもので,すべての人に,『神は劣れるところに殊に尊栄を加えて人のからだを調和したまえり』という聖書のことばの真実さを実感させます。(コリント前 12:24)確かにエホバのしもべたちはみな同じように,聖書の記述者ヤコブのことばに共鳴するでしょう。彼は言いました。『なんじらヨブの忍耐を聞けり,〔エホバ〕の彼に成し給いし果を見たり,すなわち〔エホバ〕は慈悲ふかく,かつあわれみあるものなり』― ヤコブ 5:11,〔新〕
-
-
エホバの新しい体制について教えるものみの塔 1973 | 6月1日
-
-
エホバの新しい体制について教える
● アルゼンチンのチャコ州でわざの興味深い面は,森林を伐採する野営で公開講演を行なうことです。こうした野営は密林のまん中にあり,きこりたちが住む不安定な小屋や差掛け小屋から成り立っています。中には小じんまりしたテントを張ったり,ハンモックをかけたりして生活する人がいます。私たちはこうした野営を訪れ,ある日時に予定されている聖書の無償の講演会に彼らを招待したものです。もちろんそれは,いつも就労時間の終わった夜に行なわれました。このようにして人びとは仕事から帰って,少しばかり汚れを洗い落とし,マテ茶をいっぱい飲む時間があります。もう一つの経験は,私たちが滞在していたクリスチャン兄弟の家からの旅にかんするものです。私たちは夜の集会のためにカンテラを持って行きました。また時には,土地を仕切ってある有刺線の塀のわきを一列になって通ることもありました。私たちのうち,この冒険から無きずで帰宅した者はまれであり,シャツやからだは有刺線のそばを通ったことを表わし示しました。しかし障害はこれだけではありませんでした。午後のこの時刻になるとヘビが出てきて,道路沿いに寝そべっていることがあります。まちがってその上を踏もうものなら命とりになりかねません。集会場所への私たちの到着は風変りです。ここではなんの儀式もなく,ただ何人かの人とあいさつを交わし,風雨や労働で手の荒れた人と握手をし,それからカンテラをつりさげるための木を探します。講演者が筋書きを置くスタンドや演壇や扇風機はありません。人びとは地面や箱の上にすわったり,しゃがんだり,木にもたれたり,めいめい思いどおりにしました。私はより明るい場所を求めて,カンテラの下に立つという失敗を一度しました。私は,自分にではなく,光に関心のある何百ぴきもの虫に見舞われたのです。私たちが,日光や風雨によって皮革のような色に日焼けし,言うに言われない疲労をのぞかせているそれらの人たちに向かって話している時でも,それらの人が約束されている新しい体制のことを学んでうれしそうにほほえみを浮かべるのを見るのはすばらしいことです。講演は終わりました。そして再びみなとあいさつを交わしてから,『行って,弟子を作りなさい』というイエスのご命令の成就にあずかれたことの喜びを味わいながら,星の輝く夜空の下,徒歩で家に帰ったものです。―1972年エホバの証人の年鑑より。
-