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  • 「御心が地に成るように」(その4)
    ものみの塔 1959 | 2月15日
    • に行つても,このことを確かに信ずることはできません。創造者御自身の書かれた御言葉である聖書に行くことにより,このことを絶対たしかに確めることができます。聖書をつくるに際しては,神は忠実な神の人々を用いましたが,ともかく御自分の御霊なる活動力によつて聖書をつくられた方であられます。『聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでないことを,まず第一に知るべきである。なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によつて語つたものだからである。』(ペテロ後 1:20,21,新口)宗教的な祭司たちは,人々から聖書を取り離し,自分たちの信条すなわち信仰についての人間製の言葉にしたがい,聖書を解釈したり,または悪く解釈します。しかしながら,神はすべての人が聖書を読むか,又は読んでもらう為に聖書をつくり出しました。それは,人々がその本の中で神の言われることを知るためです。

      8 (イ)イエスは,どんな書き物と一致して,その模範の祈りをつくりましたか。(ロ)神の御国が来るとき,地を滅ぼす理由はなぜありませんか。

      8 イエス・キリストは,創世記からマラキ書までヘブル語聖書の39冊の本を持つていました。それらの本は,イエスが地上で生活する以前に,神の御霊の霊感の下にすでに書かれていたものです。イエスは,それらの本からこの地に対する神の御心が何であり,また地を創造して地上に人間を置かれた神の目的が何であるかを知つていました。イエスは,ヘブル語聖書からこの事柄を知つていましたから,弟子たちに模範の祈りをつくつたのです。彼は,天にいる御父に次のごとく祈れと弟子たちに告げました,『御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』それでは自問してみましよう。火とか他の手段によつてこの地が亡んでしまい,人間や動物がこの地から居なくなるようイエスは人々に教えていますか。イエス御自身の祈りに答える為,天的な御父の御国がこの地に来るのなら,その時にせよ又はその後の時にせよ,なぜこの地は滅ぼされねばならないのですか。神の御国は,将来の永遠にわたつてこの地に止まる為に来ます。地上に住む人々の故に,神が地を滅ぼす必要はありません。そのようなことはないのです,まつたく神の御心が,天で行われているごとく,神の御国の支配する地上の人々によつて行われるとき,地を滅ぼす必要はありません。聖なる霊者たちは,天で神の御みこころを行つているのですから,天を滅ぼすことは必要ではありません。それと同じように,神の御国の支配下にあるこの地上で人間が神の御こころを行うとき,なぜ地を滅ぼすことが必要ですか。

  • 躓かずに競走する
    ものみの塔 1959 | 2月15日
    • では全く忌み嫌われるということを知りましたから,誇りに対して身を守りなさい。しかし,どのようにすれば誇りに対して身を守ることができますか。神の御言葉はその方法を示しています。

      愛と謙遜で誇りを癒す

      16 なぜ愛は誇りに打ち勝つ程強いのですか。謙遜にはどの種類の愛が必要ですか。

      16 愛は,誇りとその悪い結果全部に打ち勝つ程力づよいものです。『愛は……ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みをいだかない。』愛は誇りに対して勝利を得ます。しかしその為には『律法の中で最大のいましめはどれですか』という質問に答えられた際に,イエスの指摘した愛を持たねばなりません。イエスは次の様に言われました,『「心をつくし,魂をつくし,思いをつくしてあなたの神であるヱホバを愛さねばならない。」これは一番大きな第一のいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に「自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない。」』この種の類の愛は,かならず誇りに打ち勝つものです。なぜならそれは真実の謙遜にみちびくからです。―コリント前 13:4,5。マタイ 22:36-39,新世。

      17 賞を勝ち得る為の競走の際に,私たちはどんな衣服を必要としますか。そしてなぜ?

      17 謙遜と誇りは,なんと正反対なのでしよう! 『人の心の高ぶりは滅亡に先だち,謙遜は尊まるる事に先き立つ。』誇りは滅亡にみちびき,謙遜は栄光にみちびきます。生命という栄光に輝く賞を得る為には,私たちは謙遜を必要とします。良く走る為には謙遜を必要とします。それですから,クリスチャン走者は謙遜という衣服を着なければなりません。『また,みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ,へりくだる者に恵みを賜うからである。だから,あなた方は,神の力強い御手の下に,自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。』― シンゲン 18:12。ペテロ前 5:5,6,新口。

      18 多数のこの世の人は,謙遜をどのように見なしていますか。

      18 高められて栄光を受ける前に来るこの謙遜とは何ですか。現在のこの世では,謙遜ということは殆ど理解されておらず,またそのことの示される場合はほとんどありません。多数のこの世の人々は,謙遜を低く見くびつています。謙遜を臆病と気の弱さと混同しており,謙遜とは臆病者と弱虫の徳であると言います。謙遜とは又,力の欠如あるいは能力の欠如をかくす仮面であるとも見なされています。

      19 昔の異邦人のいくらかは,誇りをどのように見なしましたか。コロサイのクリスチャンたちのいくらかは,にせの謙遜によつて,明らかにどう欺かれましたか。

      19 謙遜について今日の人々が誤解していたり,人気の無いことなどは,何も事新しいことではありません。パウロの時代でも,この世の人々は真の謙遜について理解しておらず又行わなかつたのです。尊ばれたものは,誇りか又はにせの謙遜でした。アリストテレスの列挙した美徳の中で,誇りと高ぶつた思いは『美徳の冠』と呼ばれています。物質はそもそも悪のものであると他の者たちは教えました。コロサイのクリスチャンたちは,一種のにせの謙遜,すなわち煩わしい難行苦行で欺かれていたように見えます。これには二重の危険がともなつていました。つまり,物質を否認する否定的な行いをする者のみに生命の賞が与えられると,人は信じるに至りました。第二に,それは陰険な形式の物質主義を生ぜしめました。というのは難行苦行をする者の禁制は,物質の事柄に人の興味と注意を惹いたからです。それで,難行苦行は,その目的を達しませんでした。それは,けいべつすると称していた事柄,すなわち『使えば尽きてしまうもの』に主として人の注意を惹きました。そのような形式の謙遜は人をつまづかせ,そして生命の賞を失わせるものであると,パウロはコロサイ人に警告して,次のように書きました,『偽わりの謙遜……体の苦行をよろこぶ人によつて,あなたの賞をうばわれるようなことがあつてはならない。』真の謙遜は難行苦行ではありません。―コロサイ 2:18-23,新世。

      20 謙遜とは何ですか。それについての偽わりの見方からどんな結果が生じますか。

      20 『謙遜<ヒューミリテイ>』という言葉は,ずつとむかしのラテン語ヒュームスから来ています。その意味は『地』ということです。謙遜とは,文字通りには,へりくだる思いを持つこと,この地にまで下つていることです。クリスチャンはこの特質を衣服として着なければなりません。『あなた方は,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,へりくだつた思いを身に着けなさい。』すなわち,脚註の示すごとく謙遜を身につけなさい。それですから,謙遜は高ぶつた思いの反対です。しかし,『謙遜』は屈従,卑屈,臆病または力の不足とは何の関係もありません。謙遜とは弱いことであるという偽りの考えは,真の謙遜の豊かな祝福を失わせるものです。真の謙遜がどのように培われるかを見てみましよう。―コロサイ 3:12,新口。

      謙遜の基礎

      21 謙遜は何と共に始まりますか。そして,その基礎は何ですか。

      21 謙遜は,知識,愛そして神を恐れることから始まります。謙遜は,私たちの弱少なること,そして神の大いなることを認識したときに生じます。人間はローソクの火のほんの一まばたきに過ぎないが,『永遠の王』である神は真昼の太陽のまばゆいばかりの輝きより,更に明るい栄光を持つていると認識するとき,謙遜はしつかりと根づきます。(エレミヤ 10:10)まつたく,これこそ謙遜の基礎であります。すなわち,神の無限の御稜威と私たち自身の弱少さを認識することであります。そのような認識は,知識から来るものです。ヨブ記 38章から41章までに記録されているごとく,ヱホバがヨブに与えたごとき知識から来るのです。その知識の助けで,ヨブは『神の力強い御手』の下に謙遜になることができました。私たちはこの種類の知識を必要とします。それは私たちを神との正しい関係に置かせ,ヤコブ書 4章10節(新世)の言葉に従わせます。『ヱホバの御前にあなたがた自身を低くしなさい。そうすれば,ヱホバはあなた方を高くして下さるであろう。』

      22 お互いに対する心の謙遜さは,どんな基礎に依存していますか。そのような謙遜は,どのようにクリスチャン走者を助けますか。

      22 ヱホバの御前で自分自身を謙遜にすることにより,私たちは仲間の者に対する謙遜の基礎をも置きます。なぜなら,人間に対する真実の謙遜は,究極には神の御前における真実の謙遜に依存するからです。真実の謙遜を持つとき,人は真実の自分を見ることができます,そして同様に他の者の実体をも見ることができます。他の者の性質とか成功を軽んずることがないため,他の者の実体とその行いを心から認識することができます。謙遜を持つている故に,人は思うべき限度以上に自分を考えることをしません。『知識は人を誇らします』が,真実の謙遜を持つている人は,たとえ高等教育を受けていようとも,誇りの気持を持たず,またその誇りの故に躓くということはありません。真の謙遜を持つクリスチャンは,規則に従つて競走を走ることができ,『何事も党派心や虚栄からするのでなく,へりくだつた心をもつて互に人を自分よりすぐれた者とし』ます。―コリント前 8:1。ピリピ 2:3,新口。

      謙遜についてのこの世の見方は偽り

      23,24 キリストは,この世の謙遜についての見方の偽りをどのように暴露していますか。それで,謙遜についての私たちの見方は何でなければなりませんか。

      23 謙遜とは弱いことであるとか,または弱いことをかくす為の仮面であるとかいう,謙遜についてのこの世の見方はなんと歪曲しているのでしよう! 全くのところ,誇りは弱いものであり,謙遜は力のあるものです。キリスト・イエスは地上にいた人間の中でいちばん謙遜な人でした。しかし,彼は一番強い者,いちばん勇気のある者,一番賢明なる者,弱いことを知らず,そして御自身に罪を持たなかつたのです。彼はなんと大きな業を成したのでしよう。しかし,個人的な栄誉をすこしも取らなかつたのです!(ヨハネ 5:19)彼のごとき偉大な指導者で,しかも弟子たちの足を洗い,そして『私があなたがたにしたとおりに,あなたがたもするように,私は手本を示したのだ。』と言い得た人が,いたでしようか。『すべての事は父から私に任せられています。』というのですから,なんと大きな権威を持つていたのでしよう! しかし,彼はまたなんと謙遜だつたのでしよう!『私は柔和で心のへりくだつた者である。』― ヨハネ 13:15。マタイ 11:27,29,新口。

      24 謙遜は叡知や力の欠如をかくす仮面とは全くちがいます。それは真の力であり健康であります。それは栄光に達する踏石です。『自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるであろう。』『人の傲慢はおのれを卑くし,心にへりくだる者は栄誉を得』― ルカ 18:14,新口。シンゲン 29:23。

      25 キリストの心持は何でしたか。そして,その結果は何でしたか。それで,私たちは何を為すべきですか。

      25 謙遜について聖書の述べているすべての事柄は,一つの大きな例である,キリスト・イエスの中に表わし示され,確証されています。私たちは私たちの心と生活をイエスにならつて行かねばなりません。このことは,かくも肝要なものであるため,使徒は次のように命じています。『あな方は,キリスト・イエスと同じ心持を持ちなさい。』どんな心持ですか。『彼は自らを卑くし,……死に至るまで苦難の杭の死に至るまで従順であられた。それ故に,神は彼を勝れた地位に高めた。』まつたく,『それ故に』つまりキリストが自分自身を謙遜にし,神に服して従つたため,彼は宇宙内の被造物の持ち得る最高の地位に高められたのです。『謙遜は尊貴に先だつ』ということは,なんと真実のことでしよう!―ピリピ 2:5,8,9。シンゲン 15:33。

      26 神は謙遜な者をどのように見なしますか。誇る者は,何を失うに至りますか。

      26 たしかに謙遜は力です。私たちの前に置かれている競走をするには,この種の力が必要です。神は謙遜な者だけに力を与えます。『しかし,私が顧みる人はこれである。すなわち,へりくだつて心悔い,わが言葉に恐れおののく者である。』『いと高く,いと上なる者,とこしえに住む者,その名を聖ととなえられる者がこう言われる,「私は高く,聖なる所に住み,また心砕けて,へりくだる者と共に住み,へりくだる者の霊をいかし,砕けたる者の心をいかす。」』走る者が誇りを持つ為に神の生気づける力を否定するとは,なんと愚かなことでしよう! 誇る者は,どうして神から力を頂けますか。たとえ彼らが祈るにせよ,彼らの祈りは聞かれません。それについては,イエスはパリサイ人の例を示しました。このパリサイ人の祈りは,自己偽善にもとづく誇りを反映したのです。―イザヤ 66:2; 57:15。(新口)。ルカ 18:10-14。

      27 謙遜を持つとき,人は何をすることができますか。監督の職を求めている人々は,何を記憶すべきですか。

      27 真実の謙遜を持つとき,規則に従つて競走することは重荷ではありません。真実に謙遜な者は,教えを素直に受け入れます。そして叱責から益を受けます。彼らは競走で争い合つているのではなく,またすべての者は神の愛ある報いを得るために一致団結して走らねばならぬと悟ります。それで彼らは互いに助け合い,励まし合います。謙遜のあるとき,どんな状況の下にあつても,すべての人に『御言葉を宣べ伝える』ことができます。謙遜のあるとき,御国奉仕の為の訓練を受け,宣教学校から助言を受け,そして家から家に良いたよりを告げる仕方を学ぶことができます。謙遜によつて,責任の地位を持つ人々はイエスのように,謙遜でしかもいつも近づき易い人になれます。もし人が監督の職務を求めているなら,誇りは神の制度内における有用さと大きな奉仕特権に対する妨げであると記憶させなさい。なぜなら,神は誇る者を忌み嫌い,誇る者に反対するからです,『謙遜は尊貴に先だつ』ということを記憶させなさい。イエスの次の言葉をも記憶させなさい,『あなた方の間で偉くなりたいと思う者は,仕える人となり,あなた方の間でかしらになりたいと思う者は,僕とならねばならない。』― マタイ 20:26,27,新口。

      28 競走のために,クリスチャン走者はどのように衣服を身につけますか。どんな結果が得られますか。

      28 それで,躓きの原因となる誇りや重荷を脱ぎ捨てなさい。競走のための洋服屋仕立の衣服を身につけなさい。『みな互に謙遜を身につけなさい。』そして,『謙遜を……身につけなさい』とパウロは命じています。これは躓かずに走るための衣服です,なぜなら『謙遜とヱホバを畏るることの報は,富と尊貴と生命となり。』― シンゲン 22:4。

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