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  • ユーモアのセンスは神からの賜物
    目ざめよ! 1981 | 3月22日
    • 門を通過していた時,棺をかついでいた者たちが誤って棺を門柱にぶっつけた。そのショックでおかみさんは生き返り,棺から出され,その後何年も生きた。そして再び病気にかかり,こんどは本当に死んだ。葬式の時に棺が教会の門に近付くと,妻に死なれた夫は棺をかついでいる者たちに言った。『気を付けておくれよ,若い衆。おかみさんをぶっつけないようにな』」。

      スペインのユーモアには自己を卑下する傾向を帯びたものが少なくありません。これはエル・トリウンフォ誌に載った漫画ですが,二人の男が話し合っています。「文化は現代の流行だね。我が国には文部省があり,……文化省がある……そして大統領の文化顧問がいる」と一人が言うと,もう一人が,「まことに結構なことだ。あと必要なのは学校だけだね」と言いました。自分の弱点を笑うということはユーモアの重要な一面です。

      ドイツ人は食べることが好きなので,食べることについての冗談はうまくいきます。例えば,ドイツのエホバの証人のある巡回監督は,実際の食物を定期的に取る必要を例にして,霊的食物を定期的に取る必要を示し,「私たちは大抵日に3度食事をします。もっとも,日に一度,朝から晩までに一度しか食べない人もいますが」と言いました。ドイツ人の聴衆は皆それに反応してどっと笑いましたが,別の国語を話す人々の大会では,同じ例えに対して反応は全くありませんでした。

      むずかしい単語を喜ぶのはナイジェリア人です。ピジンイングリッシュで話す時は特にそうです。長い単語を織り交ぜて話す講演者は,熱烈な反応を得ること請け合いです。ヨルバ族の間では,どちらが相手をむずかしい言葉でやり込めることができるかで,けんかの勝敗が決まるときがあります。

      ユーモアと偽りの宗教

      ユーモアは偽りの宗教のばからしさ,その偽善と殊勝げな様子などをあばくのにとても効果的な場合があります。聖書そのものにも,この種のユーモアが所々に見られます。例えば,預言者イザヤは次のように記述しています。きこりは1本の月桂樹を切り倒し,その木の一部を燃やして自分の食物を料理しまた身を暖めるが,「その残りを実に神そのものに作り,その彫像とする。彼はそれにひれ伏し,身をかがめ,それに向かって祈って言う,『わたしを救い出してください。あなたはわたしの神ですから』」― イザヤ 44:14-17,新。エレミヤ 10:2-5と比較してください。

      メキシコでは,宗教に関係した話題も,面白い事に敏感なメキシコ人の注意を逃れることはありません。彼らの間には,先に挙げたイザヤの例えによく似た話があります。卑しい生まれであることを知られているだれかに好感を持たない場合,メキシコ人は,「グアバの木だと分かっているのに,どうしてキリストとして崇拝できるでしょうか」と言うことがあります。この言葉の背後にある物語というのはこうです。ある司祭が土地の金持ちに,キリストの像を作る木材を求めました。司祭はグアバの木をもらい,それで像を作りました。後ほど司祭はミサの時に,その金持ちが像を見て笑っているのに気付きました。ミサが終わってから司祭は,あんな礼拝の仕方がありますか,と言って金持ちをたしなめると,金持ちは答えました。「グアバの木だと分かっているのに,どうしてキリストとして崇拝できるでしょうか」。

      神の賜物を乱用しないように気を付ける

      性に関する冗談を言うことは,世界の多くの場所でごく普通に行なわれています。しかし神の言葉,聖書は,「ひわいな冗談」を非としています。ですから聖書の高い規準に従って生きたいと思う人々はそれを避けます。(エフェソス 5:4)ひわいな冗談は一種の精神的堕落で,クリスチャンの社会では全く場違いです。

      時と場所にふさわしい,清潔で健全な冗談やこっけいな話は良いもので,面白さや楽しさを添えます。だれでも時にはくつろぐことが必要です。しかし過度になることが非常に多いのです。ある人は面白い話をたくさん知っていて,それを話すのに多くの時間を費やします。聖書はこのことにも注意を与えています。賢王ソロモンは確かに伝道之書 3章4節(新)で,「泣く時と笑う時」があると述べています。しかし2章2節(新)には,「わたしは笑いに向かって,『狂気だ!』……と言った」と記しています。これにはどんな意味があるのでしょうか。ソロモンが笑いを狂気と言い得たのは,軽薄な笑いは健全な判断を曇らせてしまうからです。そのために非常に深刻な問題を軽く受け取って他の人を怒らせたりいら立たせたりすることになるかもしれません。ですから,ユーモアのセンスはエホバからの他の多くのすばらしい賜物同様,乱用される可能性のあるものです。

      愚かな笑いについて,伝道之書 7章6節にはこう述べられています。「愚鈍な者の笑いは,なべの下のいばらの音のようだ」。いばらは一番良い薪とは言えません。すぐに燃え上がって,パチパチとやかましい音をたてますが,なべの中味は煮えていないことがよくあります。ですからそのはでな騒々しい音は無益であることが分かります。愚か者が不まじめにくすくす笑う様もこれと同じです。思慮を欠いた騒々しい笑いや,時をわきまえずにユーモアを飛ばそうとする態度は,人をいら立たせ,害を与える恐れがあります。

      ユーモアの様々な表われ方を考えてみるならば,ユーモアは寛大な天の父からの喜ばしい賜物であるという結論になります。しかしこれは健全な判断に従って適度に用いるべきものです。そうすれば,ユーモアを解する心は,日々の生活に趣や活気を添えるものとなるでしょう。

  • 遊びを通して子供を教える
    目ざめよ! 1981 | 3月22日
    • 遊びを通して子供を教える

      1歳9か月のバーバラは積木をそばに置いて床に座っていました。一段落してからバーバラは,どのようにノアの箱船をこしらえたかを私に話してくれました。その晩,床に就く前も,バーバラは大はしゃぎでノアの箱船を作ったことについて説明してくれました。

      次の日には,私もバーバラと一緒に,積木や幾つかの動物や人間のおもちゃをそばにおいて座りました。二人はもう一度箱船を作り,それから動物を中に入れ,ノアとその3人の息子,セム,ハム,ヤペテを中に入れました。

      私たちは遊びを通して一緒に学んでいました。子供は遊びを通して学びます。体を動かすこと,会話,個人的な経験を通して学んでゆくのです。

      神の愛について子供に教える際には,子供がどのように学んでいるかを心に留めているべきです。子供たちには,初期クリスチャンの一人であったテモテの場合と同じく,幼い時から聖なる書物を教えることができます。(テモテ第二 3:15)幼い子供たちは優れた学習能力を持っており,大人と同じように,面白いと思ったことを非常に容易に学ぶことも記憶することもできます。

      子供の最善の教師は親です。親は子供の気質や性向,発育の程度や能力をよく知り,各人の成長の能力のわく内で教える最善の方法をわきまえています。エホバは親に,エホバの方法で子供を教える責任を与えておられます。―箴 22:6。

      聖書を教える方法は数多くあります。面白いゲームをしたり,温かな雰囲気で団らんしたりしながら楽しく聖書を教えるなら,わたしたちは積極的な懲らしめを与えていることになります。懲らしめには,単にしかって処罰を加えることだけでなく,人を弟子にするための全過程が含まれます。クイズや絵やゲームや劇を通して聖書を学ぶのは,非常に有益なことです。

      本にたくさんの楽しい絵があり,親がくつろぎながらも真剣な心構えでいるなら,一緒に本を読むことは子供にとって非常に楽しい経験です。「わたしの聖書物語の本」a はこうした目的にかなう優れた本です。子供が気ままに本のページをめくるとき,その絵について簡単に説明してあげられます。やがて子供は,自分の好きなさし絵のところで手をとめ,それを説明してほしいと親にせがむことでしょう。子供が大きくなって静かに座っていることができるようになれば,その話を一語ずつ読んであげたいと思われるかもしれませ

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