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野生の王国は滅びうせようとしていますか目ざめよ! 1983 | 8月22日
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野生の王国は滅びうせようとしていますか
紛れもない自動小銃の発射音が静けさを破り,遠くでこだまし,再びこだまとなって返って来ると,ぞっとするような悪事のことを思い,脈が速くなるのを感じます。犠牲になった動物がよろめいて地面に倒れる音を聞くには遠すぎますし,そのような動物が砂ぼこりの中で断末魔の苦しみのためにもがく様を見るにも遠すぎます。歩いて行って,死体を数えてみてください。そこには,幾百,恐らく300はあります。
処刑者たちは立ち去りましたが,彼らには死体を埋める意図など毛頭ありません。犠牲になった罪のない動物は,金になるものをはぎ取られ,倒れたその場で日にさらされて腐るままにされるか,腐肉を食べる動物に食い尽くされるままにされます。この虐殺の現場を一目見れば,非常に高価な品物を身に着けていながら,身を守るすべを十分に持たず,事実上隠れる所もないまま犠牲になる動物たちの直面する危険と,こうして無思慮な仕方で虐殺される動物の数が増加の一途をたどっていることを思い知らされます。
この現場を幾千倍にも引き伸ばし,幾十万頭もの死んだ動物の総数を計算するのです。そうして初めて,かつて大群を成していたアフリカのゾウが情け容赦なく大量に殺されている実情を理解できるようになるでしょう。今日,それらのゾウたちは繁殖できる以上の速さで殺されているため,間もなく,かつてはアメリカの平原を歩き回っていた,おびただしい数のバッファローが人間のために絶滅寸前まで虐殺されるに至ったその同じ道をたどるのではなかろうかという強い懸念が持たれています。
この大きなゾウたちは,異国的な品に目をつける人間のために命を捨てたのです。高さ1㍍ほどもあるものから指ぬきくらいの大きさのものまである,高価な象牙の彫り物は,それを買える人々の間で引っ張りだこです。20年前には,象牙の価格は1ポンド(約454㌘)当たり約3㌦でしたが,今日では40㌦(約1万円)という途方もない高値を呼んでいます。1980年の1年間だけで米国が輸入した830万㌦(約20億7,500万円)相当の象牙を供給するために,推定2,300頭のゾウが命を失いました。
数学の知識をほんの少ししか持ち合わせていない,ゾウの密猟者でも,例えば100ポンド(約45㌔)の象牙が2本ある獲物なら象牙市場で少なくとも8,000㌦(約200万円)になることを知っています。タンザニアでは,警察が36万㌦(約9,000万円)相当の象牙の隠匿物を没収しました。密猟者の仕業です。アフリカのある国々の猟区監視官や森林警備隊員による取り締まりの強化の結果,密猟者と森林警備隊の双方に多数の死者が出ました。「それはまるで戦争のようだ」と,一人の監視官は言いました。しかし,象牙の価格が高騰しているため,密猟者たちはあえて危険を冒します。猟区警備隊員の中にさえ,大義に反して密猟者に加わった者もいます。牙を持つ大きなゾウ1頭を仕留めるだけで,警備隊員一人の1年分の俸給を上回る額のお金が得られる場合もあるのです。
異国的なものに目をつける人々は,必ずしも象牙の彫り物だけで満足するわけではありません。そのような人々はゾウの革で作ったかばんのために400㌦(約10万円)を喜んで支払ったり,ゾウの足から作ったごみ箱やかさ立てを喜んで買ったりします。まだ赤ちゃんのゾウの足から作った鉛筆入れもそれらの人の気に入るかもしれません。男の人はゾウの革でできた財布を持ちたいと思い,女の人はゾウの革でできたハンドバッグやベルトを見せびらかしたいと思うかもしれません。しかし,そのような人々は自分たちが珍しいものを手にするために,ゾウがその命を捨てたということを考えているでしょうか。
国によっては,密猟者たちがこうした動物を無思慮に殺すことに対してすっかり無感覚になり,ゾウだけでなく他の動物たちもやって来る水たまりに毒を入れることまでしたところがありました。身を守るすべのないゾウは容易に,毒やり,毒入りの果物,投げ矢,落とし穴や火,自動小銃などで“殺せ!”というただ一つの意図しか持たない者たちのえじきになります。そして,彼らは確かに殺しています。東アフリカでは1年に7万頭ものゾウが殺されています。
ウガンダがその国の4万9,000頭のゾウを誇りとしていたのは,それほど昔のことではありません。当時の大統領,イディ・アミンの軍隊の兵士たちはアルバイトに密猟をし,幾千頭ものゾウを組織的に銃で撃ち殺し,その牙を切断して,死体はその場に放置し,腐るに任せました。公園警備隊員は一つの地区だけで900頭の死骸を数えたことがありました。
アミン政権は1979年に倒れましたが,残念ながら,ウガンダのゾウは安どの息をつくことはできませんでした。今日,アミンの軍隊の武器 ― 逃亡兵が捨てたものや没収されたもの ― は,密猟者にとって秘蔵の品となっています。密猟者たちはそれらの武器を使って現金収入になる動物は,何であれ組織的に殺すことができるのです。今日,ウガンダに残っているゾウの頭数は約1,500頭です。
このような虐殺はいつになったら終わるのでしょうか。自分たちの知ったことかという態度の消費者からの需要がある限り,アフリカの野生のゾウの絶滅をどうすれば回避できるか見通しを立てるのは困難です。
不幸なことに,貪欲の対象とされている,白金のようなこうした牙を生やして絶滅にひんしている種はゾウだけではありません。30ないし60㌢の長さの角を生やしたアフリカのクロサイは余りにも無思慮に狩猟の対象にされたため,10年前に推定10万頭いたのが,今日では1万ないし2万頭にまで減っています。ゾウと同様,サイも繁殖できる以上の速さで滅ぼされています。専門家たちはアフリカの野生のサイがすべて絶滅する可能性について苦々しげに語ります。それら専門家たちは,「サイが野生の状態で生き延びる可能性は悲観的な見方で包まれている」と語っています。
裕福な人は,彫刻の施された象牙に1ポンド(約454㌘)当たり40㌦(約1万円)を支払うことについて何のためらいも感じないかもしれませんが,サイの角につけられた値段を聞いて,たじろぐかもしれません。それは多くの場合,1ポンド当たり1万4,000㌦(約350万円)という衝撃的な価格なのです。どうしてそんなに高いのでしょうか。ある土地ではサイの角の粉末には魔術をかけたり,病気を治したりするのに役立つ力があると伝統的に信じられており,性的な力の衰えつつある人々からは媚薬として非常に珍重されています。そのため,裕福な人々はサイの角のために高いお金を払うのです。
医学の専門家によれば,サイの角の粉末が媚薬になるという証拠はありません。性的に不能な人は,自分のつめや髪の毛を切ったものを食べてお金を節約してもよいでしょう。サイの角と人間のつめにはケラチンと呼ばれる同じ物質が含まれているからです。しかし,その両者には相違があることを確信して,小売市場でサイの角に1㌘当たり20㌦(約5,000円)以上を喜んで支払い,密猟者たちを喜ばせている人々は少なくありません。一人の猟区監視官は,パトロールをしなければ,「ここでは3週間以内にサイはいなくなってしまうでしょう」と述べました。サイの角には魔術的な力があると信じるアジア人は少なくないので,アジアに住む各種のサイも狩られて絶滅寸前の状態にあります。
北イエメンでは,伝統的に12歳以上の男子が腰に下げている短剣のつかを作るのにサイの角が大変珍重されています。その短剣は金や銀で装飾が施されており,北イエメンの人々はそのために6,000㌦ないし1万3,000㌦(約150万ないし325万円)もの膨大な額のお金を支払います。公表された報告によると,10年足らずの間に北イエメンはサイの角をほぼ5万ポンド(約2万2,680㌔)輸入しました。これは約8,000頭のサイの命を表わしています。伝統のために支払うには何と高価な代償なのでしょう。
アフリカにあるゾウやサイの生息区域からはるかに離れた北極の浮氷の上に,体長3.6㍍,体重1,360㌔のセイウチが腰を据えています。セイウチの外見を恐ろしいものにしている,下方に伸びたその大きな歯は長さ1㍍近くあり,そっくり象牙質でできています。かつてセイウチを狩猟の対象にしたのは,それを食用にしたり,収入を得るためにその牙に手で彫刻を施したりしていたエスキモーだけでしたが,今では象牙質の供給源としてセイウチはトップクラスにのし上がっており,年間に推定5,000頭は殺されています。殺されるセイウチの数が増加するなら,もっと速く子孫をもうけるようだれかがセイウチに告げなければならないでしょう。さもないと,セイウチは野生の王国から滅びうせていった動物の仲間に加わることになるでしょう。
しかも,さらにまだまだいます。これまでに知られている動物の中で最も速いチータは,時速113㌔で走ったことが測定されています。ところが,そのチータでさえ,自分たちにとって最も凶暴な捕食者である人間から逃れられるほど速く走ることはできません。黄色っぽい色をして体全体に黒い斑点のある,この美しいつやつやした動物は,かつてはインドの誇りでしたし,アフリカやアジアの平原にもたくさんいました。ところが,今世紀に入るころから,チータは容赦なく狩られたために,インドでは完全に姿を消してしまい,アジアのほかの地域でもほとんど絶滅してしまいました。アフリカでは,その数が惨めなほどに少なくなっており,10年ごとに半減しています。
どうしてチータはそのように殺されるのでしょうか。貴婦人が新しいコートを望み,姿を消しつつある優美なチータ族の毛皮から作ったコートが貴婦人を大いに喜ばせるからです。密猟者たちはそのような貴婦人の願望を大変価値あるものとみなします。最近没収された319枚の毛皮の積荷はいずれも密猟者たちの不法な獲物から得たものでしたが,それは「野生のチータの総数が5ないし10%減少」したことを意味している,と報じられました。流行と虚栄心がこの優美な動物を絶滅に追い込んでいるのです。
堂々としたヒョウの美しい模様もやはり,その毛皮をコート用として非常に価値あるものにしています。どれほど価値があるのでしょうか。それは密猟者の市場で約1万㌦(約250万円)します。そのようなぜいたく品を買えるのは,明らかに裕福な人々だけです。ところが,それを買える人の数は増えているためヒョウの毛皮の需要も,ヒョウがまだ見つかっているので増えています。ある国々ではコート用のヒョウの毛皮の輸入が法律で禁じられていますが,流行のために命を捨てた幾万頭ものヒョウにとって,そのような国は余りにも少ないうえ,すでに手遅れです。
ネコ科の最大の動物であるトラについても同じことが言えます。かつてはアジアの野生の王国の王者で,同大陸の南半分の大半の地域の至る所にたくさん生息していたトラは,1800年代まで王者として君臨していました。ところが,トラには生き残るために絶対不可欠なものが一つ欠けていました。それは,トラにとって最悪の敵である人間を追い払うために銃を使う能力です。トラは銃を使って撃ち返すことができませんでした。もしそうすることができたなら,どれほど多くの勇敢な人間のハンターがトラの後を追って行ったか想像できますか。しかし実際には,人間は無情にもトラを大量に殺し,その自然の生息地を破壊したので,今日ではごく少数しか残っていません。トラも絶滅にひんしているもう一つの種なのです。
ごく少数の人たちの食糧になることを別にすれば,人間にとってゴリラにはどんな価値があると言うのでしょうか。ゴリラの毛皮のコートの話などめったに聞きませんし,ゴリラの歯は象牙にはなりません。それでも,人間は狩猟の記念品<トロフィー>にするためにゴリラを殺すのです。ゴリラの手で灰皿を作るためにその手を切り取ることさえします。密猟が行なわれたり,自然の生息地が損なわれたりして,アフリカのゴリラの数は激減しています。科学者たちは,その生存が脅かされているのではないだろうかと恐れています。
かつて野生の王国は底の知れない穴のように考えられていました。しかし,一見無限に見えるそのような供給源でも,例えば,観光客相手の太鼓や敷物を作るために5年間に1万頭のシマウマを手離して,なお底をつかずにすむでしょうか。それでも,虐殺は続いているので野生の王国は忘却のかなたへ急いでいるように見えます。
嘆かわしいのは,胃袋を満たすためではなく,おもに虚栄心を充足させるために野生の王国が消滅しようとしているということです。人間にはヒョウやチータのコートは必要ではありません。わたしたちはゾウのかばんやハンドバッグがなくてもやってゆけます。数少ないオオトカゲやワニを殺してまで珍しい靴をだれが必要とするでしょうか。象牙の彫り物を買おうかと考える際,単に自分の気まぐれな欲望を充足させるだけのために,ゾウが砂ぼこりの中でもがきながら,まだ生きているうちにその牙を切り取られる様を考えて,良心がうずくでしょうか。そのような異国的な品に対する需要がある限り,動物は死に,様々な種が絶滅してゆくことを忘れてはなりません。
野生の王国から様々な種が姿を消すのを食い止めようとして,多くの国で立派な法律が制定されているという事実にもかかわらず,悲しいことに大変な損害がもたらされてきました。しかし,今後到来する時代にも,まだ地上に動物がいて,人間がそれを楽しめるという希望があります。神の王国のもとでの将来の状態を表わす預言の中で,聖書はこう述べています。「おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,子牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食(う)」― イザヤ 11:6,7,口語訳。
しかし,野生の王国を無謀にも破壊して,神のものである地球を侮辱する人々は災いです。神は必ず,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせ」ます。神はそのことを約束されました。―啓示 11:18。
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野生の王国におけるハンターの役割目ざめよ! 1983 | 8月22日
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野生の王国におけるハンターの役割
次のような情景を思い浮かべてみてください。夜明けからほんの数時間しかたっていないのに,空がたちまち暗くなってゆきます。ずっと見ていると,辺り一面を地平線の一方の果てから他方の果てまで徐々にやみが覆ってゆきます。ところが,空には雲一つありません。耳をつんざくばかりの雷鳴のような不気味な音がするので,耳を覆わなければなりません。足元の大地はそのとどろきに共鳴します。自然界がどんな激しいあらしを巻き起こしたというのでしょう。恐れるには及びません。ただの鳥にすぎないのです。
読者は野鳥が空一面に広がって飛ぶそのような壮大な光景を一度も見たことがありません。今日生きている人はだれも見たことがありません。しかし1813年に,アメリカの有名な博物学者で,画家でもあるジョン・オーデュボンは正にそのような壮観な光景について書きました。オーデュボンは,美しいリョコウバトが大きな群れを成して飛び去っていったため,三日間にわたって太陽が暗くなったのを目撃しました。
野鳥のそれほど巨大な群れのことなど,考えただけでも想像を絶するものがあります。ところが,かつてはそのような群れが存在したのです。オーデュボンがその群れを見る数年前,22億3,000万羽以上のリョコウバトがいると考えられた一つの大きな群れが,米国ケンタッキー州で見られました。専門家たちの考えでは,1885年当時でさえ米国にはこの鳥が60億羽もいました。
それなら確かに無尽蔵だと読者は思われるかもしれません。リョコウバトは決して絶滅の危機にひんすることはないと思えたでしょう。ところが,そうではありませんでした。狩猟家である人間が不可能と思えた事をしてしまったのです。29年余にわたってこの美しい鳥を毎日平均56万6,000羽以上殺し続けて,絶滅させてしまったのです。1914年9月1日,マーサという名前の,地球上に存在した最後のリョコウバトが米国オハイオ州のある動物園で死にました。
こうして,リョコウバトはこの世界から失われてしまいました。ある筋が「ハンターの貪欲と浪費」と呼ぶもののために,絶滅の危険にさらされているなどとは全然考えられていなかった種が,狩り尽くされて絶滅してしまいました。人間には仲間の生物の命をそのように過小評価し,種全体を次々に滅ぼす権利があるのでしょうか。さらに,野生の王国を観察する楽しみを将来の世代の人々から奪う権利がどうしてそれら破壊者たちにあるのでしょうか。
人間の責任
この地球上のおびただしい生物の創造者は,生物が滅ぼされるのを軽く見てはおられません。イエスはかつてこう言われました。「すずめ二羽はわずかな価の硬貨ひとつで売っているではありませんか。それでも,あなた方の父の知ることなくしては,その一羽も地面に落ちません」。「その一羽といえども神のみ前で忘れられることはありません」。(マタイ 10:29。ルカ 12:6)確かに,神の目は60億羽のリョコウバトが滅ぼされたことに対して閉ざされてはいませんでした。
野生生物を無差別に殺すことをすべての人が認めてきたわけではありません。1855年に米国大統領に書き送られた一通の手紙の中で,米国ワシントン州に住むドゥワミッシュ族のインディアンの一酋長は,動物をむやみに殺すことに対する憂慮の念を表明してこう述べました。「白人はこの地の獣たちを自分の兄弟のように扱わなければなりません。私は蛮人なので,ほかの方法は理解できません。私は大草原で,通り過ぎる列車から白人が銃で撃ち殺して,腐るままにされた,1,000頭ものバッファローを見たことがあります。……獣がいなくなってしまったら,人間はどうなるのでしょうか。すべての獣がいなくなったなら,人間は非常な精神的孤独のゆえに死んでしまうでしょう。獣に起きる事は何であれ,人間にも起きるからです。……私たちはいつの日か白人も悟るようになる事を一つ知っています。すなわち,私たちの神は同一の神だということです。……その方にとってこの地球は貴重なものです。それで,この地球を傷めるのは,その創造者に侮辱を加えることです」。
このインディアンの酋長は本能的に,聖書がわたしたちに告げている重要な事柄を理解していたようです。すなわち,人間は動物を管理する権威を神からゆだねられているということです。聖書の巻頭の書は人間に対する次のような命令について述べています。「わたしは魚,鳥およびすべての野生動物の世話をあなたにゆだねる」。(創世記 1:28,今日の英語聖書)人間がむやみに,あさましいまでに野生の王国を破壊する行為は,その委託物のはなはだしい乱用を意味しています。
ニムロデ症候群
人間には動物を管理する権威があるという事実は,動物を殺すことが全く禁じられているという意味でしょうか。そうではありません。神ご自身が最初の人間夫婦のために動物の毛皮で衣服を用意しましたし,その両人の息子アベルからの子羊の犠牲を受け取られたということを思い起こしてください。また,ノアの日の大洪水の後,神はノアとその子孫に食物として動物の肉を食べる許可をお与えになりました。―創世記 3:21; 4:4,5; 9:3。
しかし,こうした譲歩をするに際して,エホバ神は動物の命を軽視してよいなどということを示唆されませんでした。食物として殺されるそれらの動物の命の神聖さを強調するため,神は人間に動物の血をその肉と一緒に食べてはならないという禁止命令をお与えになりました。血は動物の命を象徴しており,それは神に属していました。(創世記 9:4,5)ただ殺す喜びのためだけに動物を殺す権威を神が人間にお与えになったことは一度もありませんでした。では,人間はどこでそうすることを覚えたのでしょうか。
大洪水後間もなく,当時の悪名高い人物,ニムロデが自ら狩猟家として名をあげるようになりました。ニムロデは,「エホバに敵対する力ある狩人」になりました。(創世記 10:8,9)そして,むやみに動物を殺して,神から委託された動物を管理する権威を汚したようです。他の人々もその例に習い,やがてこのスポーツは大いに人気を博し,狩猟は王たちのスポーツになりました。
考古学者たちは,古代世界の王たちが狩猟を大いに楽しみ,自分たちの腕前を誇っていたことを示す幾多の証拠を発掘しています。エジプトの少年王ツタンカーメンでさえ,ニムロデ症候群と呼べるものの犠牲になりました。その墳墓の壁に描かれた狩猟の情景や木製の大箱の彫刻には,同王が全速力で走る兵車の中に立ち,弓を手に持ち,つるを引き絞って今にも矢を放とうとしており,その前を野生動物が逃げている様子が描かれています。
もっと最近では,裕福なヨーロッパ人が自分の所有地でスポーツとして動物を狩ったり,さらに面白い獲物を求めてインドやアフリカへ旅をしたりしました。スポーツのために命を奪われた優美な動物たちのはく製にした頭部で自分たちの家を飾った人も少なくありませんでした。西半球では,バッファローの群れがそっくり殺され,腐るまま放置されました。そして,ハンターたちはアメリカヘラジカの頭やシカの頭やその他自分たちの狩猟の腕前を象徴するものを珍重するようになりました。
鳥獣保護者としての人間
絶滅しかけている動物をハンターから守るために,諸政府はそれらの動物を殺すことを禁じる狩猟規制法を制定しました。例えば,米国ではアリゾナ州のロッキー・マウンテン・ミュールジカ3,000頭の群れが保護されました。結果はどうでしたか。そのシカの天敵が幾千匹も政府のハンターによってわなや銃や毒で殺された結果,ミュールジカの数は10年たたないうちに約4万頭に増加しました。
喜ばしい結果でしたか。ある意味ではその通りでした。ところが,何ということでしょう。シカが大量に死にはじめたのです。何がいけなかったのでしょうか。その生息地に住むシカの数が殖え過ぎたのです。死んだシカの胃の中には松葉が一杯詰まっているのが見つかりました。餓死寸前にならない限り,松葉はシカの食べ物の中には決して入りません。野生生物の抑制と均衡が見過ごされていたのです。天敵が滅ぼされて,シカの数が抑制されなかったため,ミュールジカは手近にある食べ物で残っているものをすべて食べ尽くしてしまいました。ハンターがその地域に入って,殖え過ぎたシカを幾らか捕獲することが許されて初めて,シカの数はその生息地で養ってゆける程度の割合に戻されたのです。
野生生物の専門家は教訓をじゅうぶん受けました。過去の経験から,群れを飢えや病気から守るには,多くなり過ぎた動物を捕獲しなければならないのです。ですから,米国では禁猟期間が終わると,免許を持ったハンターは殖え過ぎた動物を毎年一定数殺すことができます。他の国々では,政府の猟区監視官や森林警備隊員によってこのことが行なわれています。
このようにして,より強い群れが維持され,殖やされてゆきます。例えば1895年に,北米大陸のカナダ以南にはわずか35万頭ほどのオジロジカしかいませんでした。今日,その数は大体1,200万頭になっています。1925年当時,米国に生存していたプロングホーンは推定1万3,000ないし2万6,000頭で,その大半は西部の二つの州だけに生存していました。今日では少なくとも50万頭が西部のすべての州にいます。現在では米国の16州に約100万頭のワピチがいますが,1907年には一つの州にわずか4万1,000頭しかいませんでした。1911年当時のプリビロフ諸島のオットセイの数は公式調査では21万5,900頭でした。今日,その群れは約150万頭に保たれています。適正な捕獲を行なわなければ,今では絶滅の危機にひんしていないこれらの動物の群れすべては,重大な問題に陥ることでしょう。
“ディズニー症候群”
ところが,米国やカナダ,その他の国々の都市部では反狩猟感情が高まっており,野生生物管理当局はそれが逆効果になることを恐れています。そうした勢力の中には,米国やカナダのほかにも英国,オランダ,フランス,ニュージーランド,そしてオーストラリアに事務所を持ち,高度に組織化されたものもあります。
なぜ狩猟が攻撃の的になっているのでしょうか。「簡単なことだ」と,モンタナ・アウトドア誌の編集者は答え,こう述べています。「今日では,土地やそこで生きている野生生物との直接のつながりを持たずに育った人が少なくない。仕方のないことではあるが,そのような人々は野生生物に関する知識の大半をテレビや映画から得ている。だが,それは度々野生生物に関するゆがんだ見方を示しており……捕食,病気,飢えなどの自然の過程を無視している」。ある野生生物事業の理事長は,そのような見方を,“ディズニー症候群”と呼びました。その人は,「森の中の動物や鳥たちを扱ったディズニーの映画を見た後,ある人々,特に子供たちは,動物は話ができると考えるようになる」と語りました。そのような人々は,野生生物が人間と全く同じであると考えるのです。
別のスポークスマンはこう語りました。「子供たちは野生生物の実体を全く知らない。猟鳥獣管理や過去50年間にその面で我々が収めてきた成功についてほとんど知らない。大勢の子供たちが狩猟に背を向けるようになっているのは当然のことだ。子供たちはハンターがこの国に残されている数少ないシカや他の動物を殺していると考えているのである」。
クリスチャンは食用のために動物を殺す人を非とするものではありません。しかし,自分たちの国の法律に明記されている定められた数以上の動物を殺したり,スリルを味わうために殺し,その言い訳として肉を食べたりする人がいるなら,そのような人は神に対して責任を負わなければなりません。その人は人間にゆだねられた管理の権威を踏み越えています。また,人間は衣料として動物の毛皮を使うことを許されているとはいえ,不必要なぜいたくのためにそれらの生物を絶滅に追い込むまで狩猟をするのは,さらに悪質な乱用とさえ言えます。
野生の王国に関連する問題の多くは,この事物の体制のもとでは解決できません。人口が増加してゆき,野生生物が一層狭い場所へと追い詰められてゆくにつれ,野生生物の管理と保存はいよいよ難しくなります。そして,限られた手段しか持ち合わせていない諸政府が,この貪欲で商業主義的な事物の体制のもとで,姿を消しつつある幾種類かの動物の密猟をどのようにして阻止するのか理解しかねます。
神がこうした事態を食い止めるまでに,あと一体どれほどの数の種の動物が絶やされるのをお許しになるかはわたしたちには分かりません。しかし,間もなく食い止められる時が来ます。神は,ご自分の王国が間もなくこの地球上の物事の日々の運営を引き継ぐようになることを約束されたので,その時には,「それらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない。水が海を覆っているように,地は必ずエホバについての知識で満ちるからである」という状況が実現します。―イザヤ 11:9。
その時になれば,人間は動物を治める権威を正しい仕方で行使するよう訓練されます。それまでの間,クリスチャンは野生の王国と自分たちとの関係を考えるに際して現実的な見方をすると共に,思いやりを持ち,少なくとも動物に対してふさわしい敬意を示せるでしょう。
「またわたしはその日,彼らのために,野の野獣,また天の飛ぶ生き物や地面をはうものに関して必ず契約を結び,……彼らを安全に横たわらせる」― ホセア 2:18。
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