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  • 自己の崇拝
    目ざめよ! 1979 | 7月22日
    • 自己の崇拝

      「自分自身を崇拝するですって? 冗談でしょう」。読者には「冗談」と思えるかもしれませんが,他の大勢の人にとって,必ずしもそうではないようです。実際のところ,そうした傾向が非常に強調されるので,多くの人は今の世代を,“自己の世代<ミー・ゼネレーション>”と呼んでいます。この描写は,かなりの証拠によって支持されています。

      「確かに,利己心は少々手に負えなくなっているかもしれません。でも,自己の崇拝というのはどうでしょうか。この問題を少し誇張しすぎているのではありませんか」。ちょっと見ると,そのように思えるかもしれませんが,自己認識運動をよりよく調べてみると事情は変わってくるでしょう。

      認識が重要であることは確かです。わたしたちは自分の身の回りで何が起きているかを認識している必要があります。また,自分の交わる人々のことも認識する必要があります。そうした人々には,家族の成員,隣人,自分の住む地域社会の住民,そして世界が狭くなっていることを考えれば,地に住む人すべてが含まれます。そして,確かに,わたしたちの認識には,自分自身,自分の思考や行動,自分の必要や責任に対する認識も含まれていなければなりません。

      しかし,心理学者-導師の現在唱道する自己認識は,『私<ミー>が第一,あなたは二番目,あるいは六番目。何番目だろうと至高者である私<ミー>には実際のところ関係ない』というような指導原理にまで狭められています。この運動に関係する人すべてがそこまでゆくわけではありませんが,それほどあからさまに述べるかどうかは別にしても,そうした状態まで行き着く人は少なくありません。

      自己主義<ミーイズム>が台頭しているのはなぜか

      この時期に自己認識運動が台頭してきたことには理由があります。古い価値基準に異議が申し立てられていますが,伝統的な諸宗教の多くはそれらの価値基準を守ることに失敗しています。心理学者や精神分析医の唱道する新しい規準は人間の精神を満たすものではなく,多くの場合,互いに相反するものです。霊的に言って,無数の人々は荒海を漂っており,信頼のできる舵としっかりした錨を探し求めています。

      幻滅したこれらの人々は,自己を賞揚する教えを育むまたとない温床となっています。そうした人々は,「自分たちの気まぐれにかない,自分たちの幻想をくすぐる教え手」を受け入れ,「真理に耳を傾けなくなり,作り話へとさまよい出て行きます」。そして,「人間の伝統に導かれ,物質的な物の見方に従った,哲学を装うものによって」食い物にされています。―テモテ第二 4:3,4; コロサイ 2:8,アメリカ訳。

      答えを見いだした人はいますか

      しかし,自己認識運動に真の答えを見いだしたと考える人は少なくありません。そうした人々は荒海を切り抜けるのに必要とされる舵と錨を見いだしたと思っています。本当にそうでしょうか。それらの人々は幸福で,満ち足りており,もはや暗中模索の状態を脱却し,探索することもなくなっていますか。

      この点に疑念を抱かせるもっともな根拠があります。続く一連の記事は,自己認識運動に関する賛否両論をより深く探っています。

  • “自分が第一”― 今日の偶像礼拝
    目ざめよ! 1979 | 7月22日
    • “自分が第一”― 今日の偶像礼拝

      わたしたちの世代の多くの人は,政治,法律,科学,宗教,結婚などの人間の制度,そして人間に対する信仰を失ってきました。その結果生じた空白を埋めるために,どこへ目を向けたらよいでしょうか。多くの人は内へ,つまり自分自身へ目を向けています。これは何も新しいことではなく,再流行にほかなりません。

      今日の“自分第一主義者<ミー・ファースター>”の信条は,この20世紀には比較的新しいものです。その信条は,今世紀の前半にはもっと一般的に見られていた,他の人を気遣う接し方を否定します。他の人を気遣うという倫理規範は,他の人のことを考え,他の人に善をなし,人々を励まし,他の人とうまく折り合ってゆくよう教えていました。そのすべては,“王なる自分”という新しい流行には禁物とされている事柄です。そうした極端な考え方は今世紀では新しく思えるかもしれませんが,実際は新しいものではなく,再流行に過ぎないのです。極めて古い歴史を持つ考え方の繰り返しです。

      ここに新しい倫理規範の幾つかを挙げることにしましょう。これは,最近発行された,自己救済および自己認識に関する数冊の書物から取られたものです。

      「自分の利益を求める」。

      「おどしによって勝利を得る」。

      「世に利用される代わりに,世を利用する方法を学ぶ者は少数者にすぎない」。

      「他の人の最善の益を図って行動するのも可能だが,決してそれを自分の主要な目標にしてはならないという点を悟るのは重要なことである」。

      「道徳は成功とほとんど関係がない」。

      「自分の行動の是非を判断する権利は自分にある」。

      「他の人から押し付けられた規範ではなく,自分で定めた倫理規範に従って行動するよう意を決せよ」。

      「罪悪感はヘロインと同じほど強力で,破壊力のある麻薬である」。

      「人に踏みにじられるがままになっているのか」。

      「自分の思いどおりに事を運ぶための,革命的な新技法」。

      このような見解が本の中で述べられる場合,その露骨な表現は文脈によって和らげられています。役立つ健全な原則が示されていることも少なくありません。ですから,ここで,そうした本の内容すべてを,ひどく利己的なものとして分類する意図はありません。しかし,これらの本の趣旨は,先に引用した諭しや質問に例示されています。それらの引用文は,読者を引き付けるために本の広告や表紙に用いられる考えなのです。それは本の題名として用いられる意見であり,読者の心に残る印象なのです。この新しい運動の追随者の間に浸透している風潮は,社会全般ではなく,個人を高めるものです。同じ自己中心主義は,映画,テレビ,運動競技,新聞,そして雑誌などにも見られます。

      自己認識研究会

      自己探求の先駆をなす一グループは,1962年に米国のカリフォルニア州で設立されました。今ではほかにも多くのグループが活躍しています。それらのグループは人間の内部にあるものを探求し,それを白日の下に引き出そうとしています。彼らの言葉を借りれば,すべてをさらけ出せ,ということになります。政治小説家,フレッチャー・ニーブルは,典型的な修練の一つを次のように描写しています。

      「一つの修練には参ってしまった。口をきかず,目隠しされ,両手を後手に捕らえられた我々24人は,エキゾチックな東洋音楽の流れる中で,肩や腕や足や腰などで互いに接触した。人々が黙って探り合い,ほかの人に意思を伝えるためにこすり合う,この集団手探りは,人間存在の縮図のように思えた。我々は切に互いを求め合いながらも,わびしい気持ちでつかの間の接触をするのみであった。私は脱落して,床に座り込み,涙を流した。何のために? きっと,自分自身の寂しさと心の痛手のためであろう。私はあの経験を決して忘れないであろう」。

      作家のニーブルはその研究会で自己認識の訓練を経験したことにある程度の価値があったと言いながらも,次のような芳しくない面があることをも悟りました。

      「この運動には,米国海兵隊に匹敵するほど汚い言葉が満ちあふれている。グループの何人かの指導者は,眼識を示すより,卑わいな言葉を放つ傾向がある。……同じ卑わいな言葉の絶え間のない繰り返しは,その指導者が鋭敏にさせようとしている認識そのものを鈍らせる。

      「現代のアメリカの導師の中には,月のような途方もないものを約束しながら,結局月の光しか与えないような者が多すぎる。……心理学上の啓発の一週末は,中国料理のコースのように長々と続く。

      「この運動の極めて重大な欠陥は,世界に対するその適用が限られていることにある,というのが私の意見である。……飢えたマリ族の牧夫の間で,ウガンダの軍事収容所の拷問室の中で,あるいはモスクワのKGB(秘密警察)の本部の向い側で,知覚認識の週末を送ってみるがよい。貧困や専制に縛りつけられている土地では,個人の“成長”はほとんど起こらない」。

      テレビの新宗教: “良い気分教”

      ワシントン・ポスト紙のトム・シェールズは,テレビ広告に関してコラム記事を書きました。ここにその抜粋を掲げます。

      「こんなにわずかなもので,これほど良い気分になるよう,かくも大勢の人が駆り立てられたことは,歴史上かつてなかったであろう。それは,終始一貫,自己の政治学にかかわってきたテレビ広告マンが商品を動かすための新しい道具を発見したからである。それは,良い気分にさせる広告 ― すなわち,ただ自分であることで,またその目標に自分を近づけるものであれば,デオドラントであろうと,プリンであろうと,新しいスチール・ラジアル一式であろうと何であれそれで良い気分になるよう訴える広告である。……

      「こうした客寄せ口上には,疑いもなく宗教的熱情がある。……しかし,この新しい広告の中で実際に神格化されているのは視聴者である顧客自身である。……自己の崇拝では極端に走ることが罪悪ではなく,実際には美徳とされている,というのが要点である。……

      「テレビは,自分の好むがままにいくらでもつかむようにと告げる。人の好みが別の人の好みを犯すかもしれないなどとは決して示唆しない。ただ,どんどんつかむがよい,さもないと後悔することになると言うだけである。……

      「これまでに発明された,最大のセールスマンであるテレビは,我々に我々自身を売り込む上で余りにもすばらしい業績を上げすぎたと言えるかもしれない。我々が本当に重大な経済上の混乱の渦中にたたき込まれた場合,我々には自己否認という想像もつかない事柄に対処するだけの備えがあるだろうか」。

      新ナルシシスト

      ギリシャ神話に登場するナルキッソスは,河神ケピソスとニンフのレイリオペの間に生まれた息子です。神話によると,ナルキッソスは並外れて美しく,泉に映った自分の姿を見て,自分を恋するようになります。ナルキッソスは他の者を愛することができず,自らに心を奪われるあまり,食べる物も食べなくなってしまいます。そして,やつれ果てて死んでしまいます。今日,正統派の精神分析学の用語で,(ナルキッソスにちなんだ)ナルシシズムという語は,極端なほどの自己愛を意味しています。その患者は,自分が注目の的となり,人々の賞賛を一身に集めることができなければ,他の人々に対して関心を示そうとしないほどになります。

      今日の自己主義<ミーイズム>は,度々,新ナルシシズムと呼ばれてきました。ネーサン・フェインは,「ナルキッソスの時代: さあ,おれを見るがよい」と題する雑誌記事の中で,この傾向を,「まさに,これまで類例を見ないような,国家的ナルシシズムの殺到」と呼んでいます。そして,それを,「アメリカ最後の成長産業: 自分の体の内へ引きこもること」と呼び,さらにこう付け加えています。

      「それは最後の ― そして,恐らくは究極の ― 辺境<フロンティア>である。また,根本主義者が罪悪感を売り物にし,恐れを起こし,全般的に引き締めを図ろうとして運動しても,アメリカの自己愛の芸術はその古典期の絶頂に入っている」。

      でもそれは本当に“自己の崇拝”と言えるか

      ある人は,このように自分を高めることを,「新しい宗教」と呼びました。また,別の人は,それを,「自己の崇拝」と呼んでいます。自己認識運動に参加している人の多くは,そこまでは行きませんが,中にはその程度まで行く人もいます。

      聖書は,自己中心が崇拝になりかねないことを示してこう述べています。『強欲は偶像礼拝』である。「貪りは偶像礼拝の一形態である」。(コロサイ 3:5,「新世界訳」および「今日の英語聖書」)これらの翻訳で,「強欲」また「貪り」と訳されているギリシャ語は,プレオネクシアです。バークレーの聖書注釈書はこう述べています。

      「プレオネクシアは,基本的に言って,より多くを所有したいという欲望のことである。ギリシャ人自身,それを,飽くことを知らない欲望と定義し,それを満足させるのは穴のあいた器に水を満たすのと同じほど難しいと述べている。それは,他の人に属するものに対する罪深い欲望と定義されている。また,物を手に入れようとする情熱と定義されている。それは,無慈悲な自己追求とされてきた」。

      そうした者たちについて,フィリピ 3章19節は,『その神は腹である』と述べています。あるいは,「今日の英語聖書」の訳によれば,「彼らの神はその肉体の欲望である」ということになります。そのような人は,強情になって自分の思い通りにすると言い張り,事実上,自分自身の意志を偶像視しています。キリストよりも幾世紀も前に,そうした行為は偶像礼拝の部類に入れられていました。「強情は,ひどい不正や偶像礼拝のようなものである」― サムエル前 15:23,改訂標準訳。

      実際のところ,自己崇拝の起源は,遠く最初の人間夫婦にまでさかのぼります。最初の人間夫婦は,自分たち自身の善悪の規範を打ち立てたいと願いました。それで,自分たちが「神のようになって,善悪を知る」ことができるとの偽りの教えを吹き込まれると,女にはそれが慕わしいもののように思えました。最初に女が,次いでその夫が,この行動を取りました。それは致命的な誤りでした。

      ですから,今日の自分第一主義者<ミー・ファースター>の信条は新しいものではありません。それは非常に古い歴史の繰り返しなのです。それは人類史の初期に存在するようになり,終わりの日にも見られるであろうと予告されていました。『終わりの日には……人びとは自分を愛する者……となるのです』― テモテ第二 3:1,2。

      [5ページの囲み記事]

      自分第一主義の信条

      自分を愛すること。

      所有しないで愛すること。

      自分の感情を表に出すこと。

      すべてをさらけ出すこと。

      有無を言わせない。

      罪悪感を持たないこと。

      善悪は自分が決定するもの。

      自分の好きなことをせよ。

      自分は自分,人は人。

      裁かないこと。

      説教はしないこと。

      大手を振って歩くこと。

      今この場のために生きること。

      これこそ生きる道!

  • “自己主義”の犠牲にならない者はいない
    目ざめよ! 1979 | 7月22日
    • “自己主義”の犠牲にならない者はいない

      自分が第一という自己中心的な哲学の影響は実に広範に及んでいます。残念なことに,わたしたちすべてはこの邪悪な木の結ぶ実の影響を受けています。

      米国は没落しつつあるでしょうか。これは米国の一週刊ニュース雑誌の提起した疑問です。この疑問を引き起こしたきっかけは,その記事の中で次のように要約されています。「精神面で,勤勉,自己抑制,そして自己犠牲という伝統的な理想は,広まり行く自己主義<ミーイズム>の風潮の中にあってむしばまれている。自己主義は非行の増加,家庭の崩壊,その他の混乱をもたらしただけでなく,教育や職場での道徳的規範の低下をもたらした。それは,世界における米国の競争の場を危うくした」― US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌,1978年11月27日号。

      自分第一主義者<ミー・ファースター>は,『自分の好きなことをせよ』というお気に入りの教理を唱えます。シカゴのある男は自分の好きなことをしました。それは男色で,その結果,32人の少年が死にました。この男は少年たちを殺し,ある者は川に投げ捨て,ある者は自分の家やガレージの下に埋めました。その家では28人の遺体が見付かりました。この男は1968年に16歳の少年との男色のかどで有罪とされ,懲役十年の刑を言い渡されました。しかし,刑に服したのは18か月に過ぎませんでした。この男が刑期の満ちるまで服役していたなら,32人の少年は今日生きていたことでしょう。ところが,この少年たちは,犠牲者のいない犯罪と言われる,同性愛の犠牲になったのです。

      五年前,ヒューストンで,27名の若者が男色の犠牲となって死にました。その若者たちは,同性愛の拷問集団に巻き込まれていたのです。ところが,社会全般としては,同性愛の生活様式に対して寛大な見方を取るようになってきています。カリフォルニア州選出の,H・L・リチャードソン上院議員は,そのような見方をしてはいません。「同性愛者たちは,自分たちが“ひよこ”と呼ぶ者の後を追いかける。ひよこというのは,普通十代の前半の,あどけない,感じやすい少年のことである。それらの少年たちは,普通なら考えもしなかったような生活様式の犠牲者になる。当然のことながら,私はこれらの若者とその親たちを犠牲者とみなす」。

      こうした同性愛的な生活様式は良いものですか,それとも悪いものですか。神の見方は次のようなものです。「神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,そして同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事がらを行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです。……こうした事をならわしにする者は死に価する(のです)」― ローマ 1:26,27,32。

      リチャードソン上院議員はまた,その特別報告の中で,ほかの人々がどのようにそうした不道徳の犠牲になっているかを示してこう述べています。「同性愛,ポルノ映画,そして売春婦に対する地域社会の態度がいいかげんになると,犯罪発生率が急上昇する。ハリウッドはその生きた例である。その地域のある部分は余りにも不浄な場所と化したため,法を遵守する市民や実業家はその地域社会を後にすることを余儀なくされている」。そのような場合,財産や商売の面で被る経済上の損害は甚大なものになりかねません。

      「ポルノは性倒錯を引き起こすことがある」,と心理学の教授である,ビクター・B・クライン博士は語っています。同博士はさらにこう述べています。

      「ポルノ擁護派は,憲法修正第一条の保護条項をポルノに当てはめない時には,ポルノを無害な楽しみ ― 場合によっては治療効果さえあるもの ― と呼び,強姦者や性欲倒錯者を街頭から駆逐するのに役立つこともあると論じる。……心理学および医学関係の文献には,性欲倒錯が実生活の行為に接することだけでなく,ポルノからも引き起こされ得ることを示す研究が多く見られる。……それゆえ,自由世界ではポルノを見るかどうかは各人の判断に任せるべきかもしれないが,一方では,望みもしないのに,性欲倒錯者とその幻想の犠牲になる人々の人権も考慮に入れなければならない。このすべては,ひとりの人が春本を見る機会を持った,というだけのことから生じる場合がある。

      「結論として,生じ得る害が大目に見るにはあまりにゆゆしいものと思える場合,社会はある程度の制限を設けねばならない。ポルノに関して言えば,その限界はずっと昔に通り越してしまっている,というのが筆者の考えである。筆者に言わせれば,ポルノの展示・販売は“被害者のいない犯罪”だとするやからは,全く間違っている。科学的事実は,その主張とは正反対のことを雄弁に物語っている」。

      道徳の崩壊は,性以外の他の多くの分野にもその根を伸ばしています。わたしたちすべては,数々の仕方でその代価を支払わされています。その一つは,警察による保護,裁判所制度,そして刑務所などの経費を支払うために求められる,より高額の税負担です。米国の力が没落しつつあることを扱ったニュース雑誌によると,自己主義<ミーイズム>という木から出た根がその触手を伸ばす別の分野は次のようなものです。

      「職場での道徳的規範の低下」

      わたしたちすべては,自分の買い求める製品の質が低下していることを知っており,その犠牲者になっています。自己心を抱く製造業者は材料の質を落とし,自己心を抱く従業員は就業時間を短くし,仕事の質を落としておきながら,賃金の引き上げを要求します。それだけではありません。貪欲な盗人と化している者も多いのです。

      「ホワイトカラーの犯罪 ― 捕まらなくても立派な罪」と題する,雑誌の一記事は,「従業員の盗みを内偵している著名な調査官が,― 野球ではなく ― 盗みを,アメリカの国家的な気晴らしと呼んでいる」と述べています。その記事は冒頭で,「アメリカで最も機知に富み成功している泥棒はホワイトカラーを身に着けている」と述べ,さらにこう続けています。

      「大抵の場合,その人は社会的地位のある,勤勉で,教会へ通う,……穏やかな人であるが,それでいて犯罪者である。罪状: 会社,顧客,依頼人,および政府からの盗み。その総額は年間400億㌦(約8兆円)を超える,すさまじい窃盗額になる。この数字は,財産に対する暴力的な犯罪の年間総額の十倍に相当する」―「米国カトリック」誌,1979年1月号。

      大抵の人は,少なくとも口先では黄金律に対する信仰を示しますが,それを当てはめるとなると別問題になります。また,各々,自分の罪を正当化する独自の論法を持っています。多くの人は次のように論じます。『店のレジからお金をちょうだいしよう。その価格はそうした損害も見込んで付けてある』。『職場から材料をくすねてやろう。どうせ十分な給料ももらっていないのだから』。『だれしもやっているんだ。自分もやってやろう』。

      ホワイトカラーもブルーカラーもそれを付加給与とみなします。雇用者はそれを盗みとみなし,結局つけは消費者に回ってきます。わたしたちは被害者なのです。

      ニューヨークの地方検事が次のように指摘するとおり,もっとひどいことをしている実業家も少なくありません。「株式市場の詐欺師や市場操作師,内部情報によって不当な利益を得ている企業の役員,税務当局に分らないようもうけを隠す事業家,そして膨大な数の株式投資家たちは,自分たちの取引の利益にかかる所得税をのがれるために,外国口座を使っていた」。そういうことをしていた人々は,「自分の家の近所で強盗や追いはぎがあると,まっさきに苦情を言う者たち」でした。

      だれを訴えてやろうか

      米国では一年間に,700万件以上の提訴があったと推定されています。それらの訴訟はなだれのように押し寄せて来て,法廷を埋め尽くすほどです。法的に根拠のある訴訟も多く,取るに足りないような訴訟も多く,貪欲なものも少なくありません。ある法律家の言葉を借りて言えば,“触発訴訟”の蔓延です。患者は医師を,依頼人は弁護士を,学生は教師を,従業員は上司を,消費者は製造業者を,人が人を訴えます。この風潮は家庭にも影響を及ぼしています。「子供が親を法廷に引き出し,夫婦は互いに訴訟を起こし,兄弟同士,また友人同士が訴訟し合う」,とUS・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌,1978年12月4日号の一記事は述べています。

      その記事は,訴訟しようとする衝動の行き着いた幾つかの極端な事例を挙げています。一人の元学生は,ミシガン大学を相手取って85万3,000㌦(約1億7,060万円)に上る損害賠償を求めています。その理由の一部は,自分がドイツ語で“A(優)”を取ると思っていたのに,“D(可)”しかもらえなかったために精神的な苦痛を味わったというものでした。一人の服役者は,脱走して,再び逮捕されると,保安官と看守を相手取って,自由に逃がしたという理由で100万㌦(約2億円)の賠償を求める訴訟を起こしました。自分の刑期が延びたからです。一人の母親は,公共の遊泳プールの傍らで子供に母乳をやろうとしたらそれを止められたという理由で,当局者を相手取って50万㌦(約1億円)の訴訟を起こしました。ある若い男性は,両親が自分をきちんと養育しなかったため,現在,自分が社会に適合してゆけなくなったとして,両親を相手に35万㌦(約7,000万円)の訴訟を起こしました。学校のソフトボールの試合で小飛球を取ろうとして自分の娘が指を骨折すると,その両親は,教師が捕球法をきちんと教えなかったとして,訴訟を起こしました。

      専門家たちは,「訴訟を起こされるのではないかという恐怖心が,生産性,創造力,そして人間の信頼を弱め,社会の多くの階層に,『行動することへの不安』をつのらせている」と嘆いています。また,こうした訴訟は,社会を結び付けるのに役立ってきた,人間関係や制度をさらにむしばむであろうと考えられています。

      このように,人々は自分の好き勝手な事をしたがりますが,その後始末はほかの人にしてもらおうとします。愚行や放蕩という種をまいておきながら,その結果として生じる問題は別の人に刈り取ってもらいたいと考えます。これは自己主義<ミーイズム>の指示するところです。だれもがその犠牲者なのです。

  • 罪?―それは一体何ですか
    目ざめよ! 1979 | 7月22日
    • 罪?―それは一体何ですか

      「罪悪妄想を捨て去れ」と,ある自己<ミー>の唱道者は語りました。実を言えば,罪悪感を抱かない人は病気なのです。

      罪は終わったという宣言を出せば,罪を終わらせることができますか。それは体温計を壊して熱に終止符を打ったり,すべての法律を破棄することによって犯罪を終わらせたりするようなものです。罪を定義している聖書を捨てたところで,罪を除くことにはなりません。聖書がなくても,罪はやはり存在しており,その自覚もやはり存在します。神の律法に通じていない人々に関して,聖書はこう述べています。

      「彼らが律法の命ずるところを本能に従って行なう場合,彼らは律法を持ってはいなくても,自分が自らの律法なのです。その行為は,律法の命ずるところがその心に書かれていることを示しています。その良心もまた,これが真実であることを示しています。彼らの考えは,時には自分を非難し,時には自分を正当化するからです」― ローマ 2:14,15,「今日の英語聖書」。

      どんな主張をしようと,人は自分の付き従う人物あるいは物事に仕えることになります。「あなたは実際のところ,死に至る罪か,神に義とされるに至る従順か,そのいずれか自分の従う主人の奴隷なのです」― ローマ 6:16,「今日の英語聖書」。

      罪ととがは,わたしたちすべての不完全な命のうちに宿っています。箴言 30章20節(新)の女性のように行動したとしても,その事実が変わるわけではありません。「これが姦淫を犯す女の道である。彼女は食べて,自分の口をふき,『わたしは何も悪いことを行なわなかった』と言った」。今日の自己の世代<ミー・ゼネレーション>は,罪ととがを見ようとしないこの女の態度を模倣しています。カール・メニンガー博士の著した,「罪は一体どうなってしまったのか」という本の表紙が次のように述べているとおりです。「『罪』という語は我々の語彙の中からほぼ姿を消してしまったが,罪悪感は依然として我々の心と思いの中に残っている」。

      罪悪感の価値

      精神分析学者,ウィラード・ゲイリンはこう語っています。「罪悪感を一度も経験したことのない人もいる。しかし,そうした者たちは幸運な者ではなく,そのような者が自分たちのただ中に居るということは我々にとっても幸福なことではない。罪悪感を覚えないということは,精神病者や反社会的な人物に見られる基本的な欠陥である」。ゲイリンは,罪悪感は無用な感情であるとする自己主義<ミーイズム>の導師たちと立場を異にしています。ゲイリンはこう述べます。「罪悪感は人間にのみ見られる経験であるというだけでなく,それが人の中で育まれると ― 羞恥心とあいまって ― 我々の種族の特徴をなす,最も崇高で,最も寛大かつ人情のある性格となる」。

      わたしたちは,自らのうちに独自性,あるいは自分のひな型を形造ります。そして,この内なるひな型と自分を同一のものとみなします。それは,わたしたちが自らをはかり,是認あるいは否認するための規準あるいは理想像となるのです。それは,親との交わり,親の教えや模範によって築き上げられます。自分の尊敬したり賞賛したりする他の人々も,わたしたちの内に育まれるこの内面的理想像の形成に一役買います。また,観察したり,研究したりした諸原則もそれに加わります。聖書を研究すれば,このひな型あるいは理想像は,エホバ神の型に倣ったものとなります。聖書は,公正,愛,知恵,力,業,目的意識その他数多くの,神に体現される諸原則を示しているからです。わたしたちの内にあるこの正しい規準に一層近付いて生きてゆけるようになると,自尊心を深めることができ,自分を愛することさえ可能になるのです。

      しかし,この内面的な理想像に到達しないと,わたしたちは罪悪感を覚えます。この感覚は有用ですか。この点に関して,精神分析学者のゲイリンはこう述べています。

      「罪悪感は“無用な”感情などではない。それは,わたしたちの善良さや寛大さなどの大半を形造る感情である。そして,わたしたちが個人として堅持したいと考えている行動の規範を逸脱したときに,注意信号を出してくれる。罪悪感を覚えることによって,わたしたちは自分が自分の理想像に到達しなかったことを知らされる」。

      人間を独特な存在とする良心

      地上の全創造物の中で,人間にのみ良心が備わっています。その働きの基となっているのは,わたしたちの内にある規準または理想像です。聖書を研究して,神に似る者となるなら,自分の良心を自分の導きにしても安全です。自分の行動が神のご意志に添わない場合,良心が痛み,罪悪感を覚えます。

      動物には,罪悪感を覚えさせる良心がありません。犬は人間に従わなかったときに決まりの悪そうな顔をしますが,それは人間の不興を買うことに対する恐れに過ぎません。しかし,良心のために,人の行動は監視の下に置かれます。「その良心が当人とともに証しをし,[自分がどうあるべきかについて]自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです」― ローマ 2:15。

      「罪悪妄想を捨て去」ろうとするに当たって,人々は自分の良心を麻痺させ,それを無感覚なものにし,それを沈黙させてしまいます。そうした人々は,「その良心に焼き金によるような印を付けられた」ようになりました。そして,自分たちの以前に持っていた内面的な理想像を,より低い規準の,あるいは規準の全くない新しいものと入れ換えるよう心掛けなければなりません。それは昔からある不道徳への逆戻りですが,“新しい道徳”なるものに化け,受け入れやすくされています。そうする人々は「思いも良心も汚れているのです」。―テモテ第一 4:2。テトス 1:15。

      罪悪感を覚えるこの貴重な能力を失わないようにしなければなりません。そのためには,『正しい良心を保つ』ことが必要です。もし良心が弱いのであれば,それに逆らって良心を汚してはなりません。むしろ,神の言葉に基づいた,「心の中の秘められた人」をクリスチャンの円熟性に到達させることにより,良心を強めるのです。―ペテロ第一 3:4,16。コリント第一 8:7。

      自分の罪悪感に対処する

      人間は神の様に似せて創造されましたが,「すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しない」のです。(ローマ 3:23。創世 1:27)ですから,どんな人にも罪悪感を覚える理由があります。それを感じないという人でもうまく逃げ隠れできるわけではありません。それは,砂に頭を隠しても,大きな体を隠さない,ことわざに出て来るダチョウのようなものです。

      最初の人間夫婦は罪を犯したとき罪悪感を覚え,身を隠しました。見付けられて,問い詰められると,二人はわたしたちの多くが行なうことをしました。自分の罪をだれかほかの者になすり付けようとしたのです。記録はこう述べています。「人はさらに言った,『わたしと一緒になるよう,あなたが与えてくださった女が,木から実を取ってわたしにくれたので,わたしは食べたのです』。そこで,エホバ神は女に仰せられた,『あなたは,いったい何ということをしたのか』。女は答えた,『へびが,わたしを欺いたのです。それでわたしは食べたのです』」― 創世 3:12,13,新。

      同病相あわれむと言われますが,それは罪悪以上に仲間を喜びます。多ければ多いほど陽気になるのです! メニンガー博士はこう書いています。

      「一個人でしたとすれば罪になるような行為に対して,一群の人々が共同責任を負えるようにした場合,関係するすべての人の肩から罪悪感という荷は速やかに除き去られる。他の人々は非難するかもしれないが,多くの人々が罪悪を分かち合うと,個人に関してその罪の意識は消えてしまう」―「罪は一体どうなってしまったのか」,95ページ。

      それは最終的にどんな結果を招くでしょうか。「戦争の罪」に関して,同博士はこう述べています。「通常であれば,犯罪的で,罪深いとされる行為すべてが,突如正当なものとされてしまう。殺人,傷害,放火,強盗,詐欺,不法侵入,破壊行為,蛮行,そして残酷な行為などがそうである」― 101ページ。

      メニンガーはさらに罪を微に入り細をうがって描写し,質問を投げかけています。

      「泣き叫びながら火に包まれる子供や半ば手足をもぎ取られたり,はらわたを出したりした女性の写真を見ると,叫び声やうめき声を聞かなくても我々は衝撃を受け,胸が悪くなる。我々は打ちひしがれた母親の悲しみの目撃証人ではない。我々は絶望,希望のない状態,あらゆるものの損失について何も知らない。我々はそうした人々と一緒に病院へ行き,恐ろしい傷口や苦悶させるような火傷やひどく損なわれた手足を見ることはない。しかも,このすべては幾百万もの点から成る大きな図の中の一点に過ぎない。それは描写することも,理解することも,想像することもできない。

      「しかし,この悪の責任はだれにあるのだろうか。それは罪深い事には違いないが,だれの罪なのだろうか。この事に対する責任を帰せられるのを望む人はいない。ある人が,なになにをするよう,ある人に言うようある人に言うことをある人に告げた。だれかがその火ぶたを切るという決定を下し,だれかがその資金を提供することに同意したのである。しかし,それはだれなのか。そして,自分はどのように票を投じただろうか。……全く,一貫して道徳的な人々は,参加することを拒む人だけだ,と思うことがある」― 102,103ページ。

      自分の罪悪に取り組むのです!

      正直であろうとすれば,わたしたち各人は自分の罪と罪悪をありのままに認めなければなりません。しかし,精神衛生の面からするとわたしたちはそれを捨て去らねばなりません。エホバはそうするための方法を備えてくださっています。

      神の言葉は,罪に取り組む唯一の妥当な方法を指摘しています。罪をありのままに認めるのです。「『自分には罪がない』と言うなら,わたしたちは自分を惑わしているのであり,真理はわたしたちのうちにありません」。(ヨハネ第一 1:8)「自分の違反を覆い隠す者は成功しない」。(箴 28:13,新)自分の罪を神に告白することです。「わたしは言いました。『わたしは自分の違反についてエホバに告白しよう』。(詩 32:5,新)告白に続いてゆるしが与えられます。「わたしたちが自分の罪を[神に]告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし……てくださいます」。(ヨハネ第一 1:9)そのあと,罪悪感は消え去ります。神のゆるしはキリストを通してもたらされ,そのようなゆるしは「わたしたちの良心を死んだ業から清め」ます。(コロサイ 1:14。ヘブライ 9:14)そうすれば,わたしたちの良心が罪悪感を覚える必要はもはやありません。

      ですから,自分の罪をありのままに認め,認知し,神に告白し,ゆるしを求めるのです。時には罰がその後に与えられることもありますが,大抵の場合,罪を告白するとゆるしが与えられ,それで問題は終わります。

      自己の世代<ミー・ゼネレーション>は,罪を否定することによって罪悪感をぬぐい去ろうとします。罪という語は,字義通りには「的をはずす」ことを意味します。自己の世代の「新しい道徳」は,その生み出す実の示すとおり,確かに的をはずしています。わたしたちは個人的な決定を下さず,それゆえ何の責任も負っていない,という行動主義心理学者の主張は,罪を覆い隠すものです。それは無過失の心理学です。つまり,だれにも責任はない,だれも悪くない,だれにもとがはない,だれも罪を犯していない,というのです。それは心理学上のたわ言にすぎず,自分第一主義者<ミー・ファースター>はそれをしっかりつかみ,その後ろに身を隠し,驚いたようにまゆを上げ,「罪? それは一体何ですか」と尋ねます。

      罪を認め,それに取り組むのが健全な心理学です。そうすることを可能にする鍵は神の言葉です。神の言葉は,わたしたちが自分に対してそれなりの配慮を示し,他の人に関心を示し,そして何よりもわたしたちの創造者であるエホバ神を愛し,自分たちの導きとして神の原則を受け入れねばならないことを示しています。次の記事にはこれらの諸点が詳しく論じられています。

  • 必要なこと: 神をよく知り,他の人をよく知り,自分をよく知ること
    目ざめよ! 1979 | 7月22日
    • 必要なこと: 神をよく知り,他の人をよく知り,自分をよく知ること

      『あなたは……あなたの神エホバを愛さねばならない。……あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』― マルコ 12:30,31。

      わたしたちは自分をありのままに見,自分の造られた様,また自分たちについて歴史の明らかにしている事柄を悟る必要があります。どんな道が実際的で,有益であることが示されてきましたか。

      わたしたちは肉体を持つ存在ですが,それでも霊的な側面を有しています。快楽主義者のようになって,常に肉欲を満たしてゆきますか。それとも,禁欲主義者のようになって,精神の高揚を図るために肉体を手荒く扱いますか。

      もちろん,聖書は快楽主義をよしとしてはいません。また,ある宗教の例とはうらはらに,聖書は禁欲主義をよしとしてもいません。「確かに,その強いられた敬虔,その苦行,肉体に対するその厳格さがあるので,さも知恵があるように見えるが,それは肉欲と闘う上で何の役にも立たない」― コロサイ 2:23,新英訳聖書。

      聖書は極端に走ることよりも,平衡と道理をよしとしています。聖書は,「あなたがたが道理をわきまえていることをすべての人に知らせなさい」と述べています。(フィリピ 4:5)わたしたちが肉欲をむさぼるなら,霊的な面が極端に貧しくなります。霊的な物事に対して狂信的になるなら,肉体は苦しみを受けます。物質主義的になることなく,肉体の必要を顧みるようにします: 「命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです」。肉体は大切ですが,霊はそれよりもはるかに重要です: 「人の霊はその病状に耐えることができる。しかしひしがれた霊については,だれがそれを忍ぶことができようか」。それで,霊的な必要に気付いているのは肝要なことです: 「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」。―テモテ第一 6:8。箴 18:14,新。マタイ 5:3。

      自分自身を愛する必要がある

      自分を愛するですって? それは自己の世代<ミー・ゼネレーション>の語っている事柄と似ていませんか。いいえ,そうではありません。それは,他の人を本当に愛する可能性を除外してしまう,神話に登場するナルキッソスの自己中心的な愛ではないからです。実のところ,他の人を愛せるようになる前に,まず自分自身を愛することが必要です。現代の心理学はこの点をはっきり理解してはいますが,今日の心理学よりも35世紀も昔にこの点は認められていました。モーセは,レビ 19章18節(新)にこう記しています。「自分の仲間を自分自身のように愛さねばならない」。人は自分自身を愛し,それから自分と同じように隣人を愛さねばなりませんでした。

      わたしたちは,自分の世話をし,自尊心を持ち,自分に価値があるという感覚を抱くという意味で自分を愛すべきです。それができるようになるには,神の目に正しいとみなされる事柄,つまり正しく訓練された,敏感な良心の求めるところに到達しなければなりません。到達し損なうと,自分にいやけがさし,罪悪感と責任を感じます。こうした事態が意にそぐわないので,わたしたちはその責任を他の人に転嫁しようとしますが,そうすることは他の人との関係を損ないます。

      アダムとエバの場合がその点を示すよい例です。二人は自分たちの行なうべき正しい事柄が何であるかを知っていました。それとは反対の事をしてしまったとき,二人は神から身を隠しました。罪悪感を覚えたからです。神に問い詰められると,二人は共に責任を転嫁しようとしました。アダムは自分の妻に,そしてその女を自分に与えたということで神に責任を転嫁し,エバは自分の罪をへびに転嫁しました。(創世 3:12,13)アダムはもはや自分に対して純粋の愛を抱くことも,自尊心を抱くこともできませんでした。そして,それは,自分の妻,また神との関係を損なうものとなりました。エバも,自分の身の証しを立て,それによって自尊心を保てるように,責任転嫁を図りました。しかし,良心が完全に無感覚になっている人でないかぎり,そのような方法で罪悪感を無くすことはできません。そうしようとするかもしれませんが,自分を欺くことにはならず,内なる不快感が他の人を愛する際の妨げになります。確かに自分自身を愛することは必要です。

      他の人を愛する必要がある

      現代の心理学はこの必要をも認めています。精神分析学者,ウィラード・ゲイリンは,アトランティック誌の1979年1月号の中で次のように述べています。

      「個別生存などということはあり得ない。別の人間に育成されるから,人間は人間なのであって,それなくしては人間は生存しない。あるいは,愛や世話が最低限しか備えられないとすれば,その人は生物学上の存在としては生存するかもしれないが,人間を一般の動物の仲間の上に高める,人間性のある特質は備わらない。成長した後でも,どの重要な時点においてであれ,人が自分の類との接触を絶たれれば,自分を元気付ける社交関係を一時期頭の中で再現するかもしれないが,その人は動物にまでなり下がる危険にさらされている」。

      精神分析学者,オットー・ケルンベルクは,「今日の心理学」誌の1978年6月号の中でこう述べています。

      「ほかの点ですべてが等しくても,だれかほかの人と親密な関係を持つと,ある何かが生じ,それがその人に大きな満足感をもたらす。……そして,それが得られないと,人は空虚な気持ちと慢性的な不満を味わう」。

      わたしたちは,他の人々に認められ,受け入れてもらう必要があります。受けるための最善の方法は与えることです。イエスが次のように示しておられるとおりです。「いつも与えなさい。そうすれば,人びとはあなたがたに与えてくれるでしょう。彼らは押し入れ,揺すり入れ,あふれるほどに量りをよくして,あなたがたのひざに注ぎ込んでくれるでしょう。あなたがたが量り出しているその量りで,今度は人びとがあなたがたに量り出してくれるのです」。(ルカ 6:38)受けることには喜びがありますが,与えることにはより大きな喜びがあります。わたしたちの愛を与えることは,それを実行しそれを成長させることであり,他の人を愛する自分の能力を向上させることです。そして,今度はその人たちの愛を刈り取ります。まず最初に他の人を愛し,その結果として他の人々から愛されるようになるのです。これは,感謝の念を持つ人類にエホバの示された愛に表わされています。「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」― ヨハネ第一 4:19。使徒 20:35。

      幼い子供たちは他の人々を愛することの大切さを学ぶ必要があります。子供たちが同じ年ごろの他の子供たちと遊ぶことの価値は,それを通して,いつも自分の思い通りにはならないということ,いつも自分のことをするわけにはゆかないこと,いつも自分が第一<ミー・ファースト>ではいけないことを学ぶ点とにあります。幼い子供は自分の思い通りにすることを求めるきらいがあります。しかし,やがて,交友には,他の者にも第一になる番が与えられねばならないという代価が伴うことを学びます。自分第一主義者<ミー・ファースター>は,結局孤独になります。

      神を愛する必要がある

      わたしたちは地球と比べれば取るに足りない小さな存在ですが,その地球も太陽と比べれば小さく,太陽も銀河系の無数の星の中にあっては小さな星です。銀河系は,宇宙の中にある幾十億もの星雲の一つに過ぎません。宇宙を造られた神がわたしたちを造り,わたしたちに配慮を示し,わたしたちに対して目的を持っておられるのでなければ ― わたしたちは,その広大さの中にあって顕微鏡的な存在,全く取るに足りない者です。ところが神はわたしたちを顧みられ,わたしたちに対して目的を持っておられるのです。その理由だけでもわたしたちは人生に目的と意味を見いだせるのです。神はわたしたちを愛しておられます。わたしたちも神を愛さねばなりません。これは聖書の中で繰り返し強調されている点です。宗教作家レスリー・K・タールは,自分が第一<ミー・ファースト>という哲学とキリスト教を対比させて,こう述べています。

      「利己主義の福音は,我々の文化の中の高貴なものすべての中心に打撃を加えるもので,キリスト教の福音とは全く対立している。『自分の利益を求める』というのが,新しい蛮風の標語である。福音は別の方向へ進むようにという呼び掛けである。その訴えは,自分を否定し,十字架を取り上げ,……もう一方のほほを向け,もう一マイル行くようにというものである。それとは対照的に,『自分の利益を求めるように』という召しは,恥ずべきものに聞こえる。……世俗的な形であれ,宗教的な形であれ,内に向かう福音は,わたしたちの目をまず第一に神へ,それから外へ向かって他の人々へ向ける音信とは似ても似つかぬものである」― 1978年11月25日付,トロント・スター紙。

      尊敬されている歴史家,アーノルド・トインビーは,わたしたちの前に立ちはだかる深刻な道徳上の隔り,そして科学について語り,こう述べました。

      「それは,生来の自己中心という獄から脱出し,自分自身より大きく,より重要で,より貴重で,より永続的なある現実との親交あるいは結び付きへと移る上で,[人間]には役立たなかった」― アーノルド・トインビー著,「将来を生き延びる」。

      現代の自己主義<ミーイズム>の導師たちは,自分第一主義の書籍をはんらんさせて,自己<ミー>のにじを夢中になって追求し,“黄金のつぼ”を見いだそうとしています。しかし,幾千年にもわたる人類史は,人間の哲学から永続的な益はもたらされないことを明らかにしています。「知恵はその働きによって義にかなっていることが示されるのです」が,人間の知恵にはそのような証拠が伴っていません。(マタイ 11:19)人々は嘲笑し,聖書の知恵は実際的ではないと言うかもしれませんが,この世はそれを試してみたことが一度もないという事実は動かせません。神への愛も,隣人への愛も,自分に対する正しい愛さえも試みてきませんでした。そして,当然のことながら,イエスの言明された次の黄金律を試みたことがありません。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」― マタイ 7:12。

      精神分析学者,カール・メニンガーは,自著,「罪は一体どうなってしまったのか」の中で,こう述べています。「自分の自己中心を超越することは美徳ではない。それは救いをもたらす必要なのである」。

      わたしたちは自分自身を,他の人を,そして何にも増して,エホバ神をよく知らねばなりません。「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」と尋ねられたとき,イエスはこれら必要な事柄に対して正しい見方をお持ちでした。イエスはこう答えられました。「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。これが最大で第一のおきてです。第二はそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。律法全体はこの二つのおきてにかかっているのであり,預言者たちもそうです」― マタイ 22:36-40。

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