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恩恵と憐憫とにつき添われてものみの塔 1972 | 6月15日
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との決定を下しました。それで,私たちに対するものをも含めて,誹毀罪の訴えは却下されました。
1951年,ハワードと私はニュー・ブルンスウィックにもどり,私は過去20年の大部分をそこで奉仕しました。忠実だった私の伴侶ハワードは,38年ともに全時間奉仕をしたあと,1967年に死亡しました。彼は常にあわてず騒がず,いつも陽気で,問題に直面してはまちがいなく勇気を示しました。
淋しさに耐えるのはつらいことでしたが,クリスチャンの兄弟たちは親切でよく助けてくださり,私はエホバへの奉仕を忙しくつづけました。それはひとつの祝福でした。エホバは私の心を慰めてくださいました。
今は髪の毛も白くなり,71歳では歩きかたものろくなりました。しかし,なんという幸福な,報いの多い生涯だったのでしょう。エホバはあわれみ深くも,私が愛した仕事を今もつづけることを許して,私の生涯の最後を飾ってくださいました。私は子どものときに選んだ賢明な道を,いっときといえども後悔したことはありません。私はエホバを堅く信頼し,ダビデのことばに和して,「わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫とわれにそひきたらん」と,感謝の意を表わすことができます。―詩 23:6。
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性道徳を守ることには意義がありますかものみの塔 1972 | 6月15日
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性道徳を守ることには意義がありますか
若い人々が知りたいと願っている有益な事実
結婚外の性関係には意義があると考える人が今日少なくありません。その中でも若い人々が目立つようになっています。
道徳規準を固く守り,そうした考えをまったく受け付けない人々は,いくらかあわれみを持って見られたり,あるいは,旧式な人間,いくじなし,うぶ,世間しらずなどと軽蔑されることさえ少なくありません。しかしほんとにそう言えるでしょうか。事実は何を示していますか。
“新しい道徳”はほんとうに新しいか
実際,性の放縦はなにもこと新しい,あるいは“現代的”なものではありません。それは非常に長い間行なわれて来たものです。イエスが誕生する2,000年前,ソドムとゴモラの人々は放縦な性行為をならわしにしていました。古代ローマ帝国の歴史を読むと,同帝国が今日行なわれているあらゆる種類の性の放縦で有名であったことがわかります。事実,ローマ帝国崩壊のおもな原因は道徳の退廃でした。
では,今日のいわゆる“新しい道徳”に実際何らかの新しいところがあると考える理由がありますか。それは古いものとなんら変わるところはありません。変わっているのは,現在は,非常に広範に及び,クリスチャンを装う国々でたいへん顕著になっているという点だけです。
この問題に関してあなたは,現在の“性の解放”の波は,結婚外の関係で妊娠する恐れを除くと思われる避妊用具の発達の結果生じたと述べている記事を読んだことがあるかもしれません。あるいは,性病を退治する医学が進歩したことが性の“解放”を促進したという記事を読んだことがあるかもしれません。そうした説明に同調しないなら,うぶな人間ということになりますか。この点については,どんな事実がありますか。
現在はかつてないほど不本意な妊娠が多いというのが実情です。私生子の数は着実にふえており,しかも,それは,避妊用具が広く使用されているいわゆる“先進”国における状態なのです。たとえばアメリカでは,新生児12人につき一人,スウェーデンでは7人に一人ぐらいの割合で私生子が生まれます。
これに加えて驚くべき数の妊娠中絶が行なわれており,アメリカだけでも毎年およそ百万件にのぼります。ですから,避妊用具が妊娠からの“保証”された解放をもたらさないことは容易にわかります。それをもたらすと考えるのはそれこそうぶです。
さらに,多くの国の医学者たちは,性病が疫病なみに広がり,十代の若者に相当数の犠牲者がいることを憂慮しています。アメリカでは今や梅毒は,死因となる伝染病の中で結核に次ぐ位置にあります。医学者によれば,現代の薬品には梅毒とりん病のまんえんをくい止める力のないことが証明されつつあります。そして病気に冒された人はたいていの場合,気がついた時には手遅れになっていて,回復不能の重傷を避けることができません。不道徳の結果,盲目になったり妊娠不能になるなど,永久的な損傷をこうむる危険をなぜ冒すのですか。
道徳的であることは弱さのしるしか
結婚する前に性関係をもつのを拒むのは弱さのしるしですか。では,激情に屈するのと,それを制するのとどちらにより強い力がいると思いますか。
実際に,性の衝動に屈することはどんな弱い人でもできます。一方,結婚して配偶者を得るまでそうした衝動を制するには真の“男性”(あるいは真の“女性”)であることが必要です。まして世界的な傾向が逆の方向に向かっている現在,それにはいっそう強い力がいります。それは流れに対抗し,流れと闘うことを意味します。
聖書の箴言にはこの点を示す話が出ています。「拙き者」の中のひとりの若者は,心に良い動機を持たずに,売春婦が近づいて来る場所へぶらぶら歩いて行きます。若者は売春婦の巧妙な説得に負け,『ただちにこれに従いました。あたかも牛の宰地にゆくが如く愚なる者の桎梏をかけらるゝ為にゆが如く』に。(箴言 7:6-23)その若者には拒絶するだけの道徳的な強さがなかったのです。
それとは対照的に,雅歌には,自分が結婚しようと思う羊飼いの若者に対して貞節を守り,富裕な王からのあらゆる誘いを拒んだシュラミの美しく若いおとめのことが描かれています。そのむすめは,待っている男のためにおとめでいるという自分の決意が,簡単に開く“扉”のようではなく,“壁”のように堅固であることをその兄たちに証明しました。―雅歌 8:8-10。
性道徳を守ることにはなぜ意義があるか
性道徳を守ることに意義があるおもな理由は,人間の幸福について最もよく知っておられる方,実際に,性関係を可能にされた方エホバ神がそれを説いておられるからです。エホバはわたしたちの命の与え主ですから,何をすべきかをわたしたちに命じ,命を伝達する力のある生殖器官の使用に関する行為の規則を設ける権利を持っておられます。
神は使徒パウロを通してわたしたちにこう命じておられます。「凡ての人,婚姻のことを貴べ,また寝床を汚すな。神は淫行のもの,姦淫の者を審き給ふべければなり」。(ヘブル 13:4)淫行には,相手を問わぬでたらめな性関係ばかりでなく,婚約中の男女の間の性関係のように,婚前の性行為も含まれます。
聖書は淫行その他のみだらな行為を非常に明確に禁じています。そのようなことをならわしにする人は神の王国にはいれない,と聖書は述べています。(ガラテヤ 5:19-21。エペソ 5:5)神の律法がこのように明確であるのは確かにわたしたちの益のためなのです。性の衝動は非常に強いことがあるので,ほとんどの人が誘惑の圧力に負けそうになるときを経験します。もしこの問題に関する神の律法があいまいであったり,弱かったりしたら,そのような場合に神の律法
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