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み父が憐れみ深いようにあなたは憐れみ深い人ですかものみの塔 1972 | 12月15日
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た。「人に与へよ,さらば汝らも与へられん。人は量をよくし,押し入れ,揺り入れあふるるまでにして,汝らの懐中に入れん。汝等おのが量る量にて量らるべし」― ルカ 6:31,36-38。
霊感によって語られた箴言の多くはこの点を強調しています。箴言 28章27節は,『貧しき者にほどこす者はとぼしからず,その目をおおう者はのろいを受くること多し』と述べています。また,『人を見て恵む者はまた恵まる こはその糧を貧しき者に与ふればなり』という箴言もあります。―箴 22:9。
しかし,そのような同情に富んだ行ないは,たしかに物を施すことだけに限られてはいません。人びとは思いや心にかてを必要としており,霊的ささえや勇気を鼓舞する音信や励ましを必要としています。こうしたものが与えられなければ,人びとは,物質の食物の不足に原因する苦しみよりももっと苦しい窮乏や飢えを経験します。今日は,それがかつてないほど真実となっています。
他人の苦しみに無関心な人の多い,そして容赦ない批判が盛んにあびせられ,励みになる感謝の表現が非常に少ないこの世の中で,憐れみ深い人は,心をさわやかにする,ありがたい存在です。持ち物を与える以上に自分の身を惜しまないその人の寛大さは,報いられずにはいません。必ずエホバから報いを受けます。神のことばはこう述べています。『貧しき者をあわれむ者はエホバに貸すなり その施しはエホバ償ひたまわん』。(箴 19:17)そうです。エホバはご自分の憐れみ深さにならう者を喜ばれます。
聖書は憐れみと善良を密接に関連づけています。エホバはご自分の「もろもろの善」を示すことをモーセに約束されたのち,み使いにその預言者の前を通らせて,神の憐れみと愛ある親切について語らせました。(出エジプト 33:19; 34:6,7)詩篇 145篇9節〔新〕も,善と憐れみを類似したものとして示して,『エホバはよろづの者に〔対して善で〕あり その深き憐れみはみわざの上にあまねし』と述べています。
憐れみ深い人が,他の人々の心にどの程度の相互的同情の念を起こさせるかは,ロマ書 5章7節のパウロのことばから伺い知ることができます。パウロはこういっています。「それ義人のために死ぬるもの殆どなし,〔善良な人〕のために死ぬることをいとわぬ者もやあらん」。すでに考慮したように,善良さには憐れみ深さも含まれています。ではなぜ人は,「義人」のためには死なないかもしれないが,「善良な人」のためには死をもいとわぬことがあるのでしょうか。
もし人が公正で,正直で,品行方正であれば,人々はその人を「義人」と見ることができます。その人は悪行のために人から非難されることはありません。しかし「善良な人」にはそれ以上のものがあります。正しいことをしようと心がけるばかりでなく,同情心に動かされて,公正が要求する以上のことを行ない,他人に対する健全な思いやりと,人の益をはかり人を助けたいという動機から,人の幸福にできるかぎり貢献しようとします。「義人」も尊敬と賞賛を得ますが,「善良な人」ほど強く人の心に訴えるものを持ちません。心が暖かく,思いやりがあり,憐れみ深く,よく助け,善良さがほんとうに目立ち,他の人びとに愛される人 ― そのような人のために,人は死ぬこともいとわないだろう,とパウロに言っています。もし人間が憐れみ深い人に対してそれだけの評価を示すことができれば,まして神はそれよりもさらに高く評価されるでしょう。神がご自分のみ子を犠牲にされたことは,神ご自身が善と同情を好むことを例証するものです。―ロマ 5:6-8。
憐れみの欠如は人の怒りを引き起こす
もし憐れみが憐れみを生むなら,その逆も真です。王である自分の主人から多額の借金を帳消しにしてもらっておきながら,自分にわずかの借りのある仲間の奴隷に対しては少しも憐れみを示さなかった,イエスのたとえ話に出てくる憐れみの心のない奴隷はそのよい例です。その男の冷淡さは他の奴隷をも憤慨させ,その奴隷はそのことを王に言いつけます。そこで王は憐れみのない奴隷を召し出して言います。「悪しき家来よ,なんじ願ひしによりて,かの負債をことごとく免せり。わが汝をあわれみしごとく汝もまた同僚をあわれむべきにあらずや」。憤った主人はその憐れみのない奴隷を獄に投げ込みました。―マタイ 18:32-34。
ダビデも,ある金持ちが貧しい男のたった1匹の子羊を取って客の食事を整えた,というナタンの話を聞いたとき,同様の感情を示しました。彼は憤慨して,「まことにこれをなしたる人は死べきなり」と叫びました。なぜですか。なぜなら,金持ちが仲間の人間を『憐れまなかった』からです。しかしダビデは,彼が発したことばが示したように心では憐れみ深い人でしたが,「汝はその人なり」と言われたとき,大きな打撃を受けました。ですから,わたしたちは憐れみ深くあるよう心がけているかもしれませんが,自己満足することなく,「汝らの父の慈悲なるごとく,汝らも慈悲なれ」という訓戒に注意を払わなければなりません。―サムエル後 12:1-7。ルカ 6:36。
これが重要な問題であることは,「無慈悲」が「死罪に当る」ものと神が見ておられるものの中に数えられていることから伺えます。(ロマ 1:31,32)イエスによって,ゲヘナすなわち永遠の滅亡に定められている級と言われたパリサイ人の場合を考えてみましょう。(マタイ 23:23,33)彼らがこの罰に価するものとされたのは,憐れみのなかったことが大きな原因であったことは明らかです。「罪なき者を罪した」ことで彼らを叱責されたとき,イエスは彼らに,『なんじら往きて学べ「われ憐れみを好みて,犠牲を好まず」とはいかなる意ぞ』と言われました。―マタイ 9:11-13; 12:7。ホセア 6:6。
パリサイ人の問題の根底には,何事に対ししても極端な律法尊重主義で接するということがありました。彼らは,規則や定めや手順には非常な注意を払いましたが,神のことばのもっと重要な原則や,真の崇拝の基本的な戒めは見のがすか,またあまり考慮しませんでした。彼らは確かに,自分たちの天の父と唱えていたかたとは似ても似つかない者でした。(ヨハネ 8:41)わたしたちは自分の中に,彼らと同じような傾向をもっていますか。
神の憐れみは,決して裁きの時だけに限られているわけではありませんが,それが顕著に現われるのは,たしかに裁きのときです。そしてわたしたちは,そのようなときに,神の憐れみの対象となることを,どんなに切実に望むことでしょう。
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