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思慮深い者たちに霊的な“エネルギー危機”はないものみの塔 1974 | 11月15日
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自身が1916年10月31日に死んだ時になっても生じませんでした。それとは逆に,花婿と会うことを切望していた人々の上に,大きな苦難と迫害が臨みました。その最高潮は1918年の夏に訪れました。その時,ものみの塔協会の新しい会長J・F・ラザフォード,および同協会本部とかかわりを持つ他の七人のクリスチャン男子は,不当にも有罪を宣告され,投獄されました。
懲役20年の判決でしたが,J・F・ラザフォードはわずか9か月を刑務所で過ごしただけでした。ラザフォードと他の七人の仲間は1919年3月25日に釈放され,その後,完全に無罪であることが立証されました。しかし,1919年は別の理由からも重要な年でした。まどろんでいた処女たちは,花婿がやって来るという真夜中の叫び声に目を覚ましましたが,それと同じように,1919年に,花婿はすでに天の王国で臨在している,という事実が,花婿を待つ処女を自任するすべての者に突如示されたのです。
自分たちの「ともしび」を整える
直ちに,花婿を待ち望む真のクリスチャンを勇気づけるための努力がなされました。まず,1919年9月1日から8日にかけて,アメリカ,オハイオ州シーダーポイントで全体大会が開かれました。そして,9月5日に,協会の会長J・F・ラザフォードが,1919年10月1日から「黄金時代」と題する新しい雑誌が刊行されることを発表すると,会場は熱気に包まれました。神に「聖別された」人々は,発行部数が毎号400万部に達する時を期待して,「黄金時代」誌の予約を得る業に携わるよう励まされました。今日,「目ざめよ!」と改題されたこの雑誌は,毎号平均800万部を優に超えています。
確かに,1919年は,神の「貞潔な処女」級の歴史において重要な年でした。その時から,全世界に王国を宣べ伝える大規模な業が開始されました。「思慮深い処女」級はその時に眠りから覚め,それ以来眠りに陥ったことはありません。
それは確かに,『それらの処女がみな起きて,自分のともしびを整えた』時でした。(マタイ 25:7)ともしびは今まさに消えようとしていました。「思慮深い」処女たちは油を満たした容器を持っていましたが,「愚かな」処女たちは余分の油を持っていませんでした。しかし,油を十人全員で分けるなら足りなくなってしまうため,「思慮深い」処女たちは,自分の油を分け与えることができませんでした。そのため「愚かな」処女たちは,その場を去って,夜のその遅い時刻にどこかに油を買いに行かねばなりませんでした。
象徴的な「油」は,神のことばと聖霊を表わしています。聖霊は,神のことばを照らし,「油」の所有者に敬神的な資質である「霊の実」を生み出させます。「愚かな」処女たちに自分たちの油を分け与えなかったことは,「思慮深い」処女たちが「愚かな」処女級と決して妥協しないことを意味しています。「愚かな」処女たちはキリスト教を奉じていると唱えますが,実際にはその要求にかなっていません。ある程度は,自分たちの持つ聖書の知識に影響された生活を送っているでしょうが,そこに神の強力な霊が働き,その実を生み出すまでに至っていません。彼らは天に行くことを期待してはいますが,その宗教状態ゆえに,「さあ,花婿だ! 迎えに出なさい」という真夜中の叫び声に答え応じることができません。彼らは,ともしびをともす油が欠乏しているのです。そのため,彼らのともしびには明りがともっていません。
1919年に,「思慮深い処女」級は,大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国から出るための行動を起こしました。彼らは,大いなるバビロンが1919年に乗った「野獣の像」である国際連盟を崇拝する行為に加わって,大いなるバビロンと妥協することはできませんでした。(啓示 13:14,15; 14:11,12; 17:1-18; 18:4)「思慮深い処女」級の明白な立場は,1919年9月7日に,J・F・ラザフォードがシーダーポイント大会で,「苦悩する人類のための希望」と題する公開講演を行なったさいに明らかにされました。その話の中でラザフォードは,地上における神の王国の政治的表現として僧職者たちの支持を受けた国際連盟が神からは否認されていることを大胆に指摘しました。「思慮深い処女」級は,神のみ子の王国が異邦人の時の終わった1914年に天に設立されたことに対する信仰を持っており,そのいかなる代用物をも認めたり,崇拝したりすることを拒んだのです。自分たちの霊的な「油」を無意味に与えたり,神のメシアの王国に対する自分たちの献身をわずかでも弱めたりすることはできませんでした。
こうして「思慮深い処女」級は,1914年に栄光に輝く花婿を出迎え,以来花婿をたたえる祝列を終わりに至るまで続けています。彼らは,『戸口』に達する時,自分がその中に入るにふさわしい者であることを証明します。花婿は,クリスチャンの人格で光り輝く彼らの姿を見,そのゆえに,今日のこれら「思慮深い」処女たちをクリスチャン会衆の一部として迎え入れています。―コリント第二 11:2,3。エフェソス 5:27。
閉ざされた戸に直面する
「愚かな」処女たちが戻ってみると,戸は閉まっていました。(マタイ 25:10)しかしその成就において,戸はいつ正式に閉まるのでしょうか。「大患難」が始まり,キリスト教世界を初めとする大いなるバビロンのすべての勢力の上に滅びが臨み始めた時,その戸は閉まります。クリスチャンと唱える人々が大いなるバビロンから出るのは,そうなってからでは遅すぎます。その時までには,キリストの「花嫁」を構成する14万4,000人の「選ばれた者たち」の数も満たされているでしょう。―マタイ 24:21,22。
そのたとえ話は,次のことばで結ばれています。「のちに,残りの処女たちも来て,『だんな様,だんな様,開けてください』と言いました。彼は答えて言いました,『あなたがたに真実を言いますが,わたしはあなたがたを知らないのです』」。(マタイ 25:11,12)その怠慢のために霊的な「油不足」を来たした「愚かな」処女たちは花婿を迎えに出ていませんでした。つまり,花婿の結婚の祝列になんの輝きも加えていませんでした。花婿が,彼らに対して戸を閉ざしておくのは全く正当なことでした。
同様に,キリスト教世界に「大患難」が臨み始める時,「愚かな処女」級は,自分たちが,「貞潔な処女」つまり「子羊の妻である花嫁」を構成する宗教組織と何のかかわりも持っていなかったことを悟ります。(啓示 21:9)そうです,彼らは花婿の名を呼ばわりますが,戸は開かれないのです。イエスは別の時にこう言われました。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです」。(マタイ 7:21-23)「大患難」のさいに,花婿は,世の深夜の暗やみにいる「愚かな処女」級を中に入れず,他のすべての「不法を働く者たち」と共に滅びるままにされます。滅んだ後に,彼らが天の命に復活することはありません。
「ずっと見張っていなさい」
イエスは,「事物の体制の終結」の時に住む油そそがれたクリスチャンたちにとって極めて時宜を得たことばでこのたとえ話の要点を強調されました。イエスはこう言われました。「それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなたがたは,その日もその時刻も知らないからです」。(マタイ 25:13)五人の「思慮深い」処女のようでありたいと願う人は,活気に富むクリスチャンの人格を絶えず輝かせていなければなりません。そうした人々は,自分の霊的な「油」の幾らかを,あるいはその多くを奪い去ろうとする者たちと妥協することなどありません。彼らは,花婿がすでに到着し,臨在しておられることに対する自分たちの信仰を引き続き明るく輝かせねばならず,花婿が自分の花嫁なる会衆を家の中に完全に携え入れるまで,花婿の足跡に従う,その輝かしい婚宴の祝列にとどまっていることが必要です。
花婿の到着はかなり遅れましたが,待つことはもはや終わりました。花婿は今,栄光のうちに臨在しています。うたた寝をしたり,眠り込んだりする時は過ぎたのです! 今は,花婿の誉れのために光を輝かし,天の父が花婿のために霊的な「花嫁」を備え,その結婚を婚宴をもって祝福すべく整えてくださったことを花婿と共に喜ぶべき時です。それゆえ,霊で油をそそがれたクリスチャンはずっと見張っていなければなりません。機会の「戸」が閉ざされ,二度と再び開かれなくなる日と時刻はわからないのです。しかし,注意を怠らない,思慮深い人々は,霊的な輝きのための油を欠乏させて閉め出されることはありません。
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大論争は続くものみの塔 1974 | 11月15日
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大論争は続く
生命はいつ始まりますか。誕生時ですか,それとも妊娠時ですか。これは幾つかの国の法律制定者たちが考え込んでいる問題です。最近,米国上院は“堕胎に関する聴聞会”を開き,その席上で科学者たちは生命の始まりについて証言しました。証人の一人であるフランスの遺伝学者,J・レジュネ博士は,次のように主張しました。「我々がそれをもって出発したところの『もの』はすでに我々の親族の構成員なのである。……受胎[受精]から死に至るまで同じ人間なのである」。生命は妊娠時に始まるとするその論議の中で同博士はこう述べています。「9か月間,母親の胎内で保護されながら発育しなければならないからといって,事態は何ひとつ変わらない」。
この同じ聴聞会において堕胎に賛成する別の科学者は,この問題は,「本質的に宗教上,道徳上の問題である」と論じました。彼の論点を疑うものとして,宗教の教典のうち最大のものである聖書は生まれる以前のものについてどのように述べていますか。ただの組織にすぎないと言っていますか。聖書はエレミヤ記 1章5節でこう述べています。『汝が胎をいでざりし先に汝を聖め(たり)』。神は,エレミヤをその誕生前から命を持つものと見なされました。同様に,霊感を受けた詩篇作者ダビデは次のように言っています。『あなたはわたしの母の腹の中に仕切りを設けてわたしを保ってくださいました。……あなたの目は胎児のわたしを見られ……あなたの書物の中に(そのすべての部分は)書き記されていました』― 詩 139:13-16,新。
ですから,科学者や法律制定者の間では論争が続こうとも,聖書に答えを求める人々には,最も偉大な科学者であり,生命の源であられる方ご自身によって答えはすでに出されているのです。―詩 36:9。
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聖書の原則に従うことによって破たんを免れた結婚生活ものみの塔 1974 | 11月15日
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聖書の原則に従うことによって破たんを免れた結婚生活
アメリカ,マサチューセッツ州に住むある警察官の妻が,エホバの証人と聖書の勉強を始めました。ところが夫は,彼女が聖書を勉強することに反対しはじめました。しばらくの間別居生活が続いた後,夫は自分たちの結婚生活をなんとかして救おうと考え,聖書を勉強することに同意しました。しかしながら,同僚の警察官たちが彼を笑いものにしはじめたのです。そのことや他の圧力が原因して,この警察官は聖書の勉強をやめてしまいました。そしてすぐに,大酒を飲んだり,家の中で問題を起こしたりする,以前の生活に戻りました。その結果妻は,再度別居を余儀なくされました。
次に何が起きたかについて,その人自身こう語っています。「しばらくして妻は,離婚の手続きを取っていることをわたしに告げました。妻には,聖書的にも法律的にも離婚する根拠がありました。しかし,6人の子どもがおり,子どもや妻の事をその時でも深く気にかけていたわたしは,離婚したくありませんでした。そこで,以前わたしと聖書を勉強してくれたエホバの証人に電話をかけ,もう一度勉強をしてもらえないだろうかと頼みました」。
この男の人は,学んでいる事がらを自分の生活に当てはめていったため,妻にも,彼がほんとうに生活を改めつつあることがわかりました。そこで夫が,二人でもう一度やってみることはどうだろうかと言ったとき,妻は夫の願いを受け入れて家に戻りました。今では,神のことば聖書の中に見い出される指針に添って,二人は強く結ばれた,幸福な家庭生活を築いています。
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