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地の新しい王のために富を得るものみの塔 1974 | 3月1日
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たちのメシアまた王として認めたためではなく,メシアに関する自分たち本位の野望のためでした。ローマに対する彼らの反乱の五年めに,イエスの予告した恐るべき殺りくが到来しました。ローマ軍による攻囲とエルサレムの滅亡のさいに,110万人の反逆的なユダヤ人が命を失い,わずかに生き残った9万7,000人もとりことして連れ去られました。
4 (イ)エルサレムにおけるその殺りくは何の予表もしくは模型でしたか。(ロ)いま何を行なうことによってわたしたちはその殺りくを免れることができますか。
4 しかし,エルサレムとその神殿が西暦70年にローマ人の手でこうして滅ぼされたのちに,イエス・キリストはパレスチナや人の住む地の他の部分に生き残っていたユダヤ人に対してご自分の王権を強制的に行使したわけではありません。ローマ帝国がパレスチナの地をその後さらに数世紀のあいだ領有しました。したがって明らかに,エルサレムにいた反クリスチャンのユダヤ人が西暦70年に異教のローマ人による殺りくに遭ったことは,イエス・キリストがその再臨のさいに地の新しい王として到来することを望まない地上の人々すべてに対してなされる,より大規模で,世界的規模の殺りくの予表もしくは模型であったにすぎません。それゆえ,そのたとえ話の成就として,復活して栄光を受けたイエス・キリストが天のみ使いたちに命令を与えて地上の敵たちをご自分の前に集めさせ,ご自分の王国に対する,和解の余地のない敵としてうち殺させる時がこれから ― しかし,ごく近い将来に ― 到来します。これは,今日のわたしたちが危険な時代に生きていることを意味するものであり,わたしたちとしては,自分がイエスの王国に敵する者となっていないかどうかを知ることが必要です。今正しい立場を取ることによって,わたしたちは,やがて到来する殺りくから救われることができます。
たとえ話による例示
5,6 弟子たちは,イエスがエルサレムで何を行なうものと考えていましたか。それで,なんのためにイエスはたとえ話をされましたか。
5 今正しい立場を取るための助けとして,イエス・キリストが西暦33年の初春にエリコで話されたこのたとえ話全体を調べてその意味をつかむのがよいでしょう。イエスがエリコの収税人の長ザアカイの家を訪ねた結果として,そのさげすまれた収税人は,イエスがユダヤ人のメシアすなわちキリストであることを信ずる者となりました。(ルカ 19:1-10)イエスの顔がエルサレムへ上ることに堅く向けられていたため,弟子たちは,イエスがエルサレムで自分がメシアであることを宣言し,イスラエルの国民に王国を回復して,帝国ローマの手から支配を取り戻すものと考えました。弟子たちの思いからこの誤った考えを取り去るために,イエス・キリストは,ご自分の王国がずっと将来のものであることを示すたとえ話をされました。
6 その点に関して次のように記されています。「彼らがこれらの事を聴いていた時,イエスはさらに一つの例えを話された。彼がエルサレムの近くに来ており,彼らは,神の王国がいまやたちどころに出現するものと想像していたからである。それでこう言われた。『ある高貴な生まれの人が,王権を確かに自分のものとして帰るため,遠くの土地に旅行に出ました』」― ルカ 19:11,12。
7 (イ)そのたとえ話の中で,イエスは,王権を確かに受けてそれを用いるようになるのがその時よりずっと将来であることをどのように示しましたか。(ロ)どういう意味でイエスは確かに「高貴な生まれの人」でしたか。
7 こうしてイエスは,ご自分がまだ王権を得ていないこと,それを確かに自分のものとするため遠くへ旅行をしなければならないことを示唆されました。1,900年前の旅行が今に比べてずっと遅いものであったことを考えると,遠くの場所へ旅をしてまた戻って来るということは,長い時間的な経過を物語っていたでしょう。イエスは,その高貴な生まれのゆえに王権を受ける資格を有していましたが,それを確かに受けるためエリコからわずか22㌔離れたエルサレムまで旅行をしていたのではありません。(ルカ 19:12,エルサレム聖書,新アメリカ聖書,新英語聖書,新世界訳)イエスはナザレ市の身分の低い大工であったとはいえ,実際には貴人もしくは「高貴な生まれの人」でした。イエスは,血筋の上で,エルサレムを都としたダビデ王の子孫でした。そのような身分の者として,イエスは,エルサレムを都として全イスラエルを治めるダビデの王国を相続する資格を有していました。イエスは神の力によって多くの奇跡を行なっていましたから,弟子たちは,国土はローマの占領下にはあっても,イエスが全イスラエルに対する現実の王となることによって,メシアによる「神の王国」が奇跡的に出現するものと考えました。こうすれば,メシアによる神の王国はたちどころに設立されることになります。しかしイエスは,その王国が時間的にそれほど近いものではなく,自分がエルサレムに着く時よりもはるか先であることを知っておられました。―ルカ 3:23-31。マタイ 1:1-17。
8,9 (イ)そこに関係していた時間は,ローマへの往復の旅行の時間でしたか。なぜそうではないのですか。(ロ)エルサレムのゼデキヤ王に対することばの中で,エホバは,王権を授けるのがエホバご自身であることをどのように示されましたか。
8 そこに関係していた時間は,パレスチナから帝国の中心たるイタリアのローマまで旅をし,そののちエルサレムに帰るための時間でもありませんでした。イエス・キリストがその王権を得る場所はローマではありませんでした。彼の王権の源はカエサルやローマの元老院ではありません。そのことは,ローマの兵士が過ぎ越しの日に,扇動的な王位主張者として彼を杭につけた事実によって痛ましくも証明されました。イエスが王権を得るために旅行をする遠い場所とは,イエスの父祖ダビデのメシア王国を設立したかたのおられる場所です。そのかたとはエホバ神であり,そのおられる場所は天です。エホバは,ダビデ王の正統な子孫に王権を授けるのはエホバご自身であることを,エルサレムのゼデキヤ王に対することばの中で示されました。その王の紀元前607年における退位の少し前に次のことばが語られました。
9 「[王の]頭づつみを除き,冠を取りはずせ。これは同じままでは残らない。低いものを高くし,高い者を低くせよ。破滅,破滅,破滅,わたしはこれを生じさせる。それは,正当な権利を持つ者が来る時まで決してだれのものにもならない。わたしは必ずそれを彼に与える」― エゼキエル 21:26,27,新。
10 自分を貴人になぞらえて王権を得るために長い旅に出かけると述べたイエスはなぜ思い上がりや出すぎた行動をしていたのではありませんか。
10 自分をたとえ話の中の貴人になぞらえ,王権を確かに自分のものとするために多くの時間のかかる旅をすると判断したイエスは,決して思い上がりや出すぎた行動をしていたのではありません。その地上の母親,つまりダビデ王家に属するマリアの胎内に彼が宿されるすぐ前に,み使いガブリエルは,彼女がイエスと名づけるべきその子に関して次のように述べました。「これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:31-33)さて,この至高者の子が自分の命を天から地に移されるためには神による奇跡が必要でした。それでは,イエス・キリストは,ダビデの王国を自分の天の父から確かに受けるため,どのようにして天に戻るのですか。
11,12 (イ)どんな奇跡によってイエスは王権を受ける場所までの旅ができるようになりましたか。(ロ)イエスのそうした復活ということはなぜわたしたちの勝手な理論ではありませんか。
11 『肉と血は神の王国を受け継ぐことはできない』というのは神の不変の定めです。(コリント第一 15:50)それゆえ明らかに,イエス・キリストが天に戻り,彼に王国を授けることのできる至高の権威者のもとに至るのは,別の奇跡によらねばなりません。イエスが自分の「肉と血」を捨てねばならないことは明らかです。これは,人間としての自分の完全な命を,罪のないままに人間の犠牲として差し出すことを彼に求めました。しかし,その犠牲的な死そのものが彼を天に至らせるのではありません。神が,犠牲となったみ子を再び生き返らせることが必要でした。しかしそれは,再び「肉と血」を持つみ子としてではありません。人間の目には見えなくても天的な目には見ることのできる,霊の体を備えた霊的な子としてです。そのためには,全能の神エホバが,犠牲となったみ子を単に復活させる奇跡を行なうだけでなく,彼を霊的な存在者,約束の報いである不滅性と不朽性を備えた者として復活させることが求められました。エホバはまさにそのことを行なわれました。これはわたしたちの勝手な理論ではありません。使徒ペテロがこう書き記しています。
12 「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。この状態でまた,彼は獄にある霊たちのもとに行って宣べ伝えました」― ペテロ第一 3:18,19。
13,14 (イ)「肉と血」を持つ人間としての死のさい,イエスはどこに行きましたか。(ロ)イエスが復活の直後にたとえ話の「遠くの土地」に旅だったかどうかはどんなことからわかりますか。
13 もとよりイエスは,「肉と血」を持つ人間としての死のさいに,たとえ話にある「遠くの土地」,つまりその天の父のおられる場所に行ったわけではありません。彼はほんとうに死んだのであり,その体は墓の中に置かれ,足かけ三日の間,イエスは,ユダヤ人がシェオールと呼び,ギリシャ人がハデスと呼ぶところにいました。三日めに霊者として復活したさい,イエスは自分が犠牲としてささげた人間としての命の価値を携えてはいましたが,直ちに「遠くの土地」に旅だったのではありません。その同じ日,彼は墓のあった庭でマリア・マグダレネに現われて,こう言われました。
14 「わたしにすがりつくのはやめなさい。わたしはまだ父のもとへ上っていないからです。でも,わたしの兄弟たちのところに行き,『わたしは,わたしの父またあなたがたの父のもとへ,わたしの神またあなたがたの神のもとへ上る』と言いなさい」。(ヨハネ 20:17)四十日の間,イエスは目に見えないかたちで地の近くにとどまり,ときおり物質の人間の体をつけて弟子たちに現われ,ご自分が生き返り,死人の中から復活したことを彼らに証明しました。―使徒 1:1-5。
15,16 (イ)復活したイエスはその「遠くの土地」へいつ旅だちましたか。どんな証人たちの前で?(ロ)いつまでにイエスはその「遠くの土地」に着いたと考えられますか。ペテロはそのことをどのように確証していますか。
15 復活したイエス・キリストが天の父のもとへ実際に上って行かれた時,それが,「遠くの土地」へ旅だたれた時であったでしょう。それは,彼が死人の中から復活して四十日めのことでした。イエスが物質の体で現われ,その体が空へ上って行ってやがて視界から消えるのを,多くの弟子たちがオリーブ山の上で見ていましたが,その時ふたりのみ使いが彼らのかたわらに立って,こう言いました。「ガリラヤの人たちよ,なぜ空をながめて立っているのですか。あなたがたのもとから空へ迎え上げられたこのイエスは,こうして,空にはいって行くのをあなたがたが見たのと同じ様で来られるでしょう」。(使徒 1:11)イエス・キリストが,霊的な領域において,たとえ話にある「遠くの土地」に着くまでにどれほどの時間を要したかはわかりませんが,それは十日以内,もしくは,西暦33年のペンテコステの祭りの日より前のことでした。その祭りの日,エルサレムにいたキリストの弟子たちの上に聖霊が注ぎ出され,使徒ペテロは,聴き入る数千人のユダヤ人に対し,霊感のもとにこう語りました。
16 「実際ダビデは天に上りませんでしたが,自らこう言っています。『エホバはわたしの主に言われた,「わたしの右に座っていなさい。わたしがあなたの敵たちをあなたの足の台として据えるまで」』。ですから,イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリストともされたことをはっきりと知りなさい」― 使徒 2:34-36。
「わたしが来るまで商売をしなさい」
17 イエスのたとえ話は,イエスの長い不在のあいだ弟子たちが地上で行なう事がらをどのように示していますか。
17 それゆえ,イエス・キリストは再び到来されます。しかし,このたびは「王権」を身に帯びてです。弟子たちが「神の王国がいまやたちどころに出現するものと想像していた」ゆえにイエスが話したたとえ話は,イエス・キリストが,「高貴な生まれの人」のごとくに,長いあいだ不在になることを示しています。(ルカ 19:11,12)では,弟子たちは,イエスが「王権」を得て帰るのを待つその間,何を行なうのですか。イエスは,何を行なうべきかに関し,彼らを明確な指示のないままにはしておきませんでした。イエスのたとえ話も,イエスがそれを行なうことを示しています。旅だつ貴人に関してこう記されています。「彼は自分の十人の奴隷を呼んで,それに十ミナを与え,『わたしが来るまで商売をしなさい』と言いました」― ルカ 19:13。
18 (イ)聖書のいろいろな翻訳や「聖書理解の助け」は銀十ミナにどのような価を付していますか。(ロ)奴隷たちはミナの単位で量り渡された銀で何を行なうことになりましたか。
18 「アメリカ訳」は古代の単位であるミナを今日の通貨に直して,この節をこう訳しています。「それから彼は自分の奴隷十人を呼び入れ,各に二十㌦ずつ与えて,自分が出かけている間それで商いをするようにと言った」。モファット訳の聖書はミナを英国の通貨に換算してこう訳出しています。「彼はまず自分の十人のしもべを呼び,各に五ポンド紙幣を渡して,『わたしが戻って来るまでこれで商いをせよ』と告げた」。1970年発行の「新英語聖書」は,ミナをただ「一ポンド」と評価しています。「新アメリカ聖書」はこの点での明示を避け,高貴な生まれの人が自分のしもべたちに「十単位の額」の金を与えた,としています。1971年に刊行された「聖書理解の助け」と題する本は,一世紀当時の銀一ミナを14.094㌦(約3,800円)と算定しています。これは100ドラクマに当たり,845.64ドルに相当する銀一タラントの60分の1にすぎなかったとは言え,イエスの時代においてはかなりの額の資金でした。銀一ミナの価値が今日どれほどに相当するとしても,高貴な生まれの人のその十人の奴隷は,ミナの単位で量り渡された銀でもって商売をし,やがて王となる人のために富を得ることになりました。
19 「十人の奴隷」はだれを表わしていましたか。「十ミナ」は何を表わしていましたか。
19 イエスのたとえ話に出て来る十人の奴隷は主イエスの弟子たちを表わしていました。死からの復活後,西暦33年のペンテコステの祭りの十日前に天に上るまでの間,イエスは自分の弟子たちに何を託したでしょうか。カルバリで杭につけられて死んださいに,イエスは地上において物質的に価値のあるものをほとんど完全にはぎ取られていました。三日めに死から復活したさいには,埋葬用の巻き布や頭を覆う布さえ墓の中に残しました。(ヨハネ 20:6,7)では,イエスは,天の「遠くの土地」に上る前に弟子たちに託すべきものとして何を所有しておられましたか。それは,銀十ミナと同じように,一定の価値のあるものであり,やがて王となるメシアのために貴重な増加を生み出すその基もしくは資産となるものでした。それは物質的なものではありませんでしたから無形のものでしたが,それでもそれは現実に存在するものでした。それはなんでしょうか。イスラエルにおける約三年半の公の宣教活動によってイエスが耕してきた,神のメシアによる王国に対する関心という畑です。
20 (イ)イエスの弟子たちが十ミナで商売するかのごとくにして収益物に転ずることのできるものとして,活動のための畑にどんな価値ある資質が付されていましたか。(ロ)ひとりの奴隷とイエス自身は,活動のための畑にそうした有用性が付されていることをどのように示しましたか。
20 そうです,それら象徴的な銀「十ミナ」は,宣べ伝えて教えるイエスの大々的な活動によってユダヤもしくはイスラエル世界に生み出されたもの,その結果としてエホバの選ばれた民がイエスを約束のメシアとして受け入れる方向に傾いたことを表わしていました。こうして,イエスの弟子たちにとっては整えられた畑があり,彼らはそこで,イエスが教えかつ聖書預言の成就として行なった事がらのゆえに彼が確かにエホバの油そそいだ者であることを信じまた確信する態勢をユダヤ人の中に築き上げ,また円熟性に向かってそれを強めるという目標をもって働くことができました。それは,イエスの命じた事がらに忙しく携わることによって弟子たちが豊じょうにすることのできる畑でした。たとえ話の中で,十人の奴隷のうちのひとりは,帰還した王に『あなたはご自分のまかなかったものを刈り取られる』と述べて,それを畑もしくは農地になぞらえています。(ルカ 19:21)イエスはまた,サマリアで弟子たちに語った次のことばの中で同様の例えをされました。「ひとりはまく者,もうひとりは刈る者,ということばはたしかに真実です。わたしは,あなたがたが少しも労力をかけなかったものを刈り取らせるために,あなたがたを派遣しました。ほかの者たちが労し,あなたがたはその労の益にあずかっているのです」― ヨハネ 4:37,38。
21 (イ)イエスがさらに多く求めていたものはなんですか。(ロ)もしユダヤ人から成る畑が産出力に欠けるなら,弟子たちは何を行なうことになっていましたか。
21 こうしてイエスの弟子たちは,有用なもの,価値のあるもの,活用させることができて実際に役だつものを持ち,それをもって仕事を始め,もしくは「商売をし」て増加を生み出すことができました。イエスが自分の弟子である奴隷たちを通して求めていたものは,金銀を増やすことではありませんでした。彼がさらに多く望んでいたものは,その足跡に従い,彼をメシアなる王として認める弟子たちでした。そして,すでに耕された,ユダヤ人から成る畑がそのすべてを,特にイエスとともに王国を相続する14万4,000人を生み出さないなら,弟子たちは,自分たちの活動する畑を異邦人つまり非ユダヤ人の領域に拡大することができました。こうすれば,彼らは耕作された畑を広げ,キリストの王国に対する支持者を生み出す耕作された地域を五倍から十倍にも拡大することになります。
22 「奴隷」の数が十人である点から見て,たとえ話の全面的な成就においてその「奴隷」はだれを表わしますか。
22 イエスのたとえ話にある「十人の奴隷」は,西暦第一世紀の使徒や弟子たちの中に全面的な成就を見ませんでした。適切なことにも,「奴隷」の数は「十人」と定められています。聖書の例えの中で,十という数は,全部もしくは全体を表わすものとして,特に地的な物事に関連して用いられています。したがって,たとえ話の「十人の奴隷」は,霊によって生み出され,油をそそがれた,イエス・キリストの奴隷全員をよく表わしていると言えます。それらはやがて天の王国にあってイエスとともに共同の相続者となる人々であり,異邦人の時の終わった西暦1914年にキリストが王権を受けるまでの過去19世紀の間,そして今日に至るまで,長い時間をかけて生み出されてきました。第一世紀の使徒や他の弟子たちは,キリストがこの20世紀に王権を得て見えないかたちで帰還する時まで肉身で生存してはいないという点から見ても,ここで述べたことは適切であると言えます。
23 (イ)たとえ話の絶頂的な部分は,キリストのどの時代の弟子たちに関連してその対応するものを持ちますか。(ロ)王に敵する者たちに差し迫った殺りくという点から考えて,このたとえ話に関して何を行なうことはわたしたちの益になりますか。
23 したがって,十ミナを受けた「十人の奴隷」に関するイエスのたとえ話の最後の絶頂的な部分は,バプテスマを受け,霊によって生み出され,油をそそがれた,イエス・キリストの弟子たちのうち,この20世紀になお地上に生きている人々に関連してその対応するものを持つに違いありません。調査の結果から言えば,約一万人の残りの人々がなお地上におり,その人々は,地の新しい王の富を増し加えるため,象徴的な十ミナを用いて「商売をし」ています。イエス・キリストと結ばれて,神の栄光および全人類の永遠の祝福のため千年の間キリストとともに統治する弟子たちの総数14万4,000人に比べると,これら一万人はほんとうに少数の残りの人々です。これら象徴的な十人の奴隷すべてがやがて位につく王の「十ミナ」を用いてどのように商売もしくは商いをしてきたかという点は,興味深い話となります。地の正当な王なるメシアに敵する者すべてに差し迫った殺りくという点を考え,この物語を最後まで追い,イエスのたとえ話の現代における成就において,自分がどのように正しい役割を果たせるかを知るのはわたしたちの益となるでしょう。
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王に敵する者たちとともにうち殺されるのを免れるものみの塔 1974 | 3月1日
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王に敵する者たちとともにうち殺されるのを免れる
1 いま地の新しい王を退けることはどんな結果になりえますか。そのことはずっと以前のどんな警告的な例に示されていますか。
わたしたちは現存する「事物の体制」の「終末の時」にいますから,世の新しい王を退けるならきわめて重大な結果になりえます。(ダニエル 12:4。マタイ 24:3)1,900年前,エルサレムとその神殿を中心としたユダヤ人の事物の体制の終わりの時代に生きていたイスラエル人は非常に重大な結果を招きました。(ヘブライ 9:26)それは今日のわたしたちに対する警告となっています。その警告は,銀十ミナを自分の奴隷十人に託した高貴な生まれの人に関するイエスのたとえ話の中でいよいよ強力なものとされています。
2 イエスがやがて王となるべき者として旅だったのはいつですか。彼が王となることに反対してそのあとに代表団を派遣する彼の仲間の「市民」とはだれでしたか。
2 そのたとえ話の中でイエスはさらにこう言われます。「ところが,その市民は彼を憎み,そのあとから一団の大使を送って,『この人がわたしたちの王になることは望みません』と言わせました」。(ルカ 19:14)イエスが,神の聖霊をもって油そそがれた,メシアなる王になるべき者として地から天に上って行かれたのは,その死からの復活ののち,西暦33年のペンテコステの祭りの日のちょうど十日前のことでした。イエスの肉の上での国籍に従って言えば,『彼の市民』とはイスラエル人すなわちユダヤ人でした。この事実と一致する点として,次のことが記されています。「時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て律法のもとに置かれ,こうして彼が律法のもとにある者たちを買い取って釈放し,わたしたちが養子とされることになったのです」。(ガラテア 4:4,5)「彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった」。(ヨハネ 1:11)では,イエスが天に上った今,その仲間の市民であるユダヤ人はどのようにして彼のあとに代表団もしくは使節を送り,自分たちの上にイエスが王としての権威を行使することに対する反対意見を唱えさせましたか。
3 彼の仲間の「市民」は血肉を持つ者でしたが,どのような方法で「そのあとから」代表団を送って彼が王となることに対する反対を表明しましたか。
3 ユダヤ人の大使たちはみな血肉の人間でしたから,天に上って神のおられる聖なる所に現われ,復活したみ子イエスにメシアとしての王権を与えないようにと言うことはできませんでした。しかし,彼らがわざわざそうする必要はありませんでした。彼らは同じ効果を持つ通告を送りました。どのようにですか。それは,ペンテコステの祭りの日以後のことでした。その日,それまで“地下に”いたキリストの弟子たちは,公の場に出て来たのです。使徒ペテロが約120人の弟子たちの代弁者となり,エルサレムに集まった三千人以上のユダヤ人に次のことばを語ったのはその時でした。「イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリストともされたことをはっきりと知りなさい」。(使徒 2:36)エルサレムの宗教上の権威者たちは,イエスをメシアであるとするこの発表のことばに同意しましたか。イエスの弟子たちに対する彼らのその後の迫害や反対行動に示されるかぎり,彼らはそれに同意を表わしませんでした。したがって,イエスこそ神の約束されたメシアであるという弟子たちの証しに対して公式に反対を表明することにより,彼らは,復活したみ子を自分たちのメシアなる王としては望まないという通告を天の神に送っていたのです。―使徒 5:34-39。
4 (イ)メシアなる王としてのイエスを退けたユダヤ人の「市民」は自分をどんなものにさらしましたか。(ロ)これはそうした「市民」をのちにどんな結果に至らせましたか。しかし,クリスチャンとなったユダヤ人はどうなりましたか。
4 イエスの仲間の市民たちは,だれをメシアとして自分たちの王とするかに関して自分たち自身の考えをいだいていました。こうして彼らは,偽メシア,偽キリストによる欺きに身をさらすことになりました。西暦66年,国家主義的なユダヤ人がカエサルを自分たちの王としてゆくことに対して反抗したのは,偽メシア的な理念に動かされたものでした。(ヨハネ 19:15)彼らはローマ帝国からわずか数年間の独立を得たものの,それは,エルサレムとその神殿の西暦70年における破滅というかたちで終わりました。クリスチャンとなった幾千人ものユダヤ人は,欺かれてメシアに関するユダヤ人の反乱に加わらなかったことに感謝し,天の「遠くの土地」に立つ前にイエス・キリストが自分たちに与えた,比ゆ的な意味での数ミナの銀を用いて「商売をし」つづけました。彼らは,すさまじいエルサレムの破滅や,不信仰なユダヤ人の悲惨な離散によって霊的なものを何一つ失うことはありませんでした。
王の貴重なものを用いて商売をする
5 たとえ話の中で,帰還した貴人が奴隷たちとの勘定を清算した時,最初に進み出た者はなんと言いましたか。
5 イエスのたとえ話の中で,ミナで量り渡された銀で十人の奴隷が何を行なったかについて述べられているのは,「高貴な生まれの人」が外国への長い旅から戻ってからのことです。こう記されています。「やがて,王権[もしくは,王国]を確かに得て戻って来た時,彼は,銀子を与えておいたこれらの奴隷を呼ぶように命令しました。彼らが商取引きをしてもうけたものを確かめるためでした。そこで,最初の者が進み出て言いました,『主よ,あなたの一ミナは十ミナを得ました』」。(ルカ 19:15,16)「アメリカ訳」によると,この奴隷は次のように言いました。「あなたの二十㌦は二百㌦を生み出しました」。モファットの翻訳によると,彼は,「あなたの5ポンドはさらに五十ポンドを生み出しました」と言いました。彼は自分の与えられた分の十倍を得たのです。
6 (イ)この最初の奴隷はだれを表わしていますか。(ロ)ペンテコステ以後,主の銀つまり「ミナ」を用いてどのように商売がなされましたか。
6 たとえ話の「十人の奴隷」は,西暦33年のペンテコステから今日に至る,霊によって生み出され,油をそそがれた,イエス・キリストの弟子たち全員を表わしていましたから,この最初の奴隷はそうしたキリストの弟子たちのうちのある級もしくはグループを表わしていました。十二人の忠実な使徒たちや使徒パウロはこの級に属していたに違いありません。使徒つまり「遣わされた者」でしたから,彼らは,主イエス・キリストが,価値のあるもの,産出的なもの,仕事もしくは商売を始める基とすべきものとして残してゆかれた,耕された畑を確かに拡大しました。彼らがミナで量られた象徴的な銀でどのように商売をしたかについては,「使徒たちの活動」が伝えています。ペンテコステの祭りの日以来,クリスチャンとなった信者たちは「使徒たちの教え」を聞くことに専念し,「多くの異兆やしるしが使徒たちを通して起こりはじめ」,「同時にエホバは,救われてゆく者たちを日ごとに彼らに加えてゆかれた」と記されています。―使徒 2:42,43,47。
7 エルサレムのサンヘドリンでの経験以後のことにも示されるように,使徒たちは迫害のもとでも何を行ないましたか。
7 使徒たちは宣べ伝えかつ教える業を行ないつづけ,そのゆえに不当な処罰に遭ってもひるみませんでした。例えば,エルサレムのサンヘドリンでの審理を受けたのちの使徒たちについてこう記されています。「使徒たちを呼び出してむち打ち,イエスの名によって語るのをやめるようにと命じてから,彼らを去らせた。そこでこれらの者[使徒たち]は,彼の名のために辱しめられるに足る者とされたことを喜びつつ,サンヘドリンの前から出て行った。そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエス[もしくは,メシアなるイエス]についての良いたよりを宣明しつづけた」― 使徒 5:40-42,新世界訳,新英語聖書,新アメリカ聖書。またモファット訳も参照。
8 宣べ伝えかつ教える業を使徒たちが堅く守った結果として信者の数はどのようになりましたか。
8 自分たちの奉仕の務めを堅く守った十二使徒はエルサレム会衆にこう語りました。「わたしたちのほうは,祈りとみことばの奉仕とに専念することにします」。(使徒 6:4)その後のことについてこう記されているのも不思議はありません。「その結果,[宣べ伝えて教える業によって]神のことばは盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大ぜいの祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった」。信者の数はこのころまでに五千人を超えていたに違いありません。その少し前の時についてこう記されているからです。「話されたことを聴いた人びとのうち大ぜいの者が信じ,男の数はおよそ五千になった」― 使徒 6:7; 4:4。
9,10 (イ)「使徒たちの活動」の8章から10章によると,耕された畑はどのように広がりましたか。(ロ)使徒パウロは,象徴的な銀一ミナを用いて自分がどのように仕事をしたかをどう説明していますか。
9 その後,エルサレムを活動の根拠地として,活動のための畑は,割礼を受けたサマリア人に,ついで,割礼を受けたエチオピア人の改宗者に,さらには,神の定めの時に,無割礼の非ユダヤ人つまり全異邦人へ拡大されてゆきました。(使徒 8–10章)エルサレムにあったクリスチャン統治体の会議のさい,弟子ヤコブは,耕された畑が広がって異邦人世界をも包含するようになったことについてこう述べました。「シメオン[ペテロ]は,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました。そして,預言者たちのことばはこのことと一致しています」。(使徒 15:14,15)そののち,使徒パウロは二度めの宣教旅行に出かけてヨーロッパにまで入りました。パウロは自分のことをこう述べています。「わたしは実際には諸国民への使徒なのですから,自分のこの奉仕の務めを栄光あるものとします」。(ローマ 11:13)三度めの宣教旅行の帰途,パウロは,主イエス・キリストが自分にゆだねた象徴的な銀一ミナでどのように仕事をしたかを説明しつつ,小アジア,エフェソスの会衆の長老たちにこう語りました。
10 「わたしは,なんでも益になることをあなたがたに話し,また公にも家から家にも[もしくは,公にもあなたがたの家でも,ア訳,新英,ロザハム; 公にも私的にも,新ア]あなたがたを教えることを差し控えたりはしませんでした。むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです」― 使徒 20:20,21。
11 クリスチャンの奴隷たちが象徴的なミナを用いて仕事をした結果,エルサレムの滅びの十年前までにどれほどの証しがなされましたか。
11 すると,使徒や,一世紀当時の,油をそそがれたその仲間の弟子たちは,クリスチャンの奴隷として主イエス・キリストが彼らにゆだねた象徴的なミナを増やしたと言えるでしょうか。そうです,彼らは確かにそうしました。そのことについては,使徒パウロによる書き記された証言があります。西暦70年におけるエルサレムの滅亡の約十年前に,パウロは,ローマの獄舎からコロサイの人たちに当てて記した手紙の中で,良いたよりがいかに広まったかについてこう述べました。「その良いたよりはあなたがたのところにもたらされましたが,世界じゅうで実を結んで増大しているのであり……その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです」。(コロサイ 1:5,6,23)こうして,エルサレムを中心としたユダヤ人の事物の体制の終わる幾年も前に,世界的な証しの業が成し遂げられていました。
二十世紀に「ミナ」を用いて商いをする
12 (イ)現代において「良いたより」が「世界じゅうで……増大し」ていることに関して,キリスト教世界にその功が帰せられないのはなぜですか。(ロ)その功はだれに帰せられるべきですか。なぜ?
12 1,900年を経過した今日についても,良いたよりは「世界じゅうで……増大し」,「天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」と言えるでしょうか。そうです,第一世紀の場合よりはるかに大きな規模でそうなされています。その功は,今や16世紀以上の古さを持つキリスト教世界には帰せられません。キリスト教世界およびそこに集まる幾億人の教会員は,主イエス・キリストが,異邦人の時の終わった1914年,第一次世界大戦の始まった年に「王権」を確かに自分のものとしたことをふれ告げていません。彼らは,主イエスの手中にゆだねられるメシアによる王国が異邦人の時の終わった1914年に天で誕生したという良いたよりを,また,その天の王国が国際連盟や国際連合となんのかかわりを持たないということをふれ告げてはいません。むしろ,キリスト教世界は世界平和や安全の維持をそれらに頼っています。地上の全創造物からいっさいの不義を除き去り,神の完全な統治をもって人類を祝福する,メシアによる王国はすでに1914年以来天に設立されていますが,その良いたよりを全創造物に宣べ伝えた功は,キリスト教世界にではなく,エホバのクリスチャン証人の油そそがれた残れる者に帰せられます。
13 (イ)油そそがれた残れる者が第一次世界大戦から出て来た時,新たに誕生した王国の支持者の数はどれほどでしたか。なぜ?(ロ)この残れる者はどのようにして象徴的なミナを所有するようになりましたか。彼らはそれでどのように仕事をしましたか。
13 第一次世界大戦とそれのもたらした迫害から1918年に出て来た時,その油そそがれた残れる者はあらゆる国民の憎しみの的とされ,宗教的な面で良い世評を与えられてはいませんでした。(マタイ 24:9)新たに誕生した,メシアによる神の王国の支持者をさらに生み出すため彼らに残された,耕された畑は非常に小さなものでした。彼らは,主イエスの辱しめの死からの復活からペンテコステの祭りの日に至る時期の使徒やキリストの他の弟子たちに似ていました。それで,1919年,エホバのクリスチャン証人の油そそがれた残れる者にあらためて象徴的な銀をミナで量り渡すのと同じようなことが起きました。その年,つまり1919年,油そそがれた残れる者の,大戦後における最初の大会が,オハイオ州シーダーポイントで開かれ,エホバ神の霊が新たに与えられたことに伴って,油そそがれた残れる者は,今や王権を身に帯びた主イエス・キリストからあらためてゆだねられた象徴的な銀子を用いて,商売もしくは商いに新たに取りかかりました。そうした「ミナ」を用いて商売もしくは商いをするにあたり,彼らは「王国のこの良いたより」を宣べ伝えかつ教えて,第一世紀の使徒たちの手本にならいました。―マタイ 24:14。
14,15 (イ)「ミナ」をどのように扱ったかに関していま言い開きを求められているのはだれですか。(ロ)たとえ話の中で,自分の主のために富を得た奴隷に対する報いはなんでしたか。
14 油そそがれた残れる者に属する人々は,象徴的なミナをどのように扱ったかに関していま言い開きを求められています。主が求めておられるのはそれを増し加えることであり,彼らはそのことを知っています。象徴的なミナを増し加えることに対する報いはなんでしょうか。イエスのたとえ話は,さらに十ミナを得た奴隷の言い開きについて述べたのち,この問いに対して次のように答えています。
15 「それで彼[帰還した主]は言いました,『よくやった,良い奴隷よ! あなたは非常に小さな事において忠実であることを示したから,十の都市に対する権威を持ちなさい』。さて,二番めの者[二番めの奴隷]が来て言いました,『主よ,あなたの一ミナが五ミナをもうけました』。彼はこの者にも言いました,『あなたも五つの都市を受け持ちなさい』」― ルカ 19:17-19。
16 (イ)「高貴な生まれの人」が十人の奴隷のうちのわずかふたりに15の都市に対する支配権を与えることができたということは何を示していますか。(ロ)残れる者のうち帰還した主イエス・キリストのためにいま富を得る人々について言えば,その人々がいま地上の都市に対する支配権を得るかどうかについてなんと言えますか。
16 帰還した「高貴な生まれの人」が,増加をもたらした善良で忠実な奴隷たちに都市の支配を任命し,ひとりの奴隷に十の都市を,他方の奴隷に五つの都市をゆだねることができたということは,彼が王権を確かに自分のものとし,それをすでに行使していることの証拠です。この貴人が奴隷たち,その最初のふたりに対して15の都市を割り当てることができたということは,その王権がきわめて広い範囲に及ぶものであることを示しています。それら奴隷たちは銀一ミナという比較的少額のものにも忠実であることを示しましたから,彼らに対しては,幾つかの都市の支配というさらに大きな責任を託すことができました。たとえ話の現代的な成就において,油そそがれた残れる者のうち,今や統治を開始している主イエス・キリストの貴重なものを増加させている者たちは,現在主の是認と好意を得ています。その人々は天の王国においてイエスとともに支配の務めに携わる希望をいだいています。しかし現在,地上におけるその活発な奉仕の間,地上の多くの都市に対する実際の支配権を与えられてはいません。彼らは主の是認を得てはいますが,それはまだ彼らが世の政治に手を出し,地上で政治的な支配権を得ることを許していません。上なるキリストとともに統治の座につくため,彼らは死に至るまで,この世のものとならないように努めねばなりません。
「邪悪な奴隷」
17 主のために増加をもたらすように求められていることについて不満を感じる人がいれば,それについてどんな疑問が提出されますか。イエスのたとえ話はどんな不満の例を示していますか。
17 今や王としての権威を付与された主イエス・キリストが自分のゆだねたものを増し加えるように奴隷に要求することに不満を感じ,それに対して憤慨を示す人がいるでしょうか。この点でそのように感じることが許されるかどうかについては,自分に託されたミナで忙しく働いた者たちとは異なる態度を取った奴隷の場合に示されています。こう記されています。「しかし,別の者が来て言いました,『主よ,ここにあなたの一ミナがあります。わたしはこれを布にくるんでしまっておきました。おわかりでしょうが,わたしはあなたが怖かったのです。あなたは厳しいかただからです。ご自分の預けなかったものを取り立て,まかなかったものを刈り取られるのです』」― ルカ 19:20,21。
18 この無益な奴隷の態度はなぜ良心的に見て許されるものではありませんでしたか。
18 この,他と異なる奴隷の態度は良心的に見て許されるものですか。そうではありません。誤った事がら,つまり,主の一ミナを用いて不正な利得を上げるようにと求められたのではないからです。彼自身が自分の主人をどのようにみなすとしても,彼は奴隷という立場にあり,主人の求めた方正な事がらを行なうべきでした。怠惰のゆえに働く意欲がなかったのであれば,せめてその一ミナを銀行に入れ,自分に代わって銀行業者に仕事をさせるべきでした。彼は全く不十分な言いわけをしました。
19 主人は何に基づいてこの奴隷に答えましたか。どのように?
19 主人は彼自身の言いわけに基づいて彼に答え,また彼を裁きました。こう記されています。「彼はその者に言いました,『わたしはあなた自身の口からあなたを裁く,邪悪な奴隷よ。わたしが厳しい人間であり,自分の預けなかったものを取り立て,まかなかったものを刈り取ることを知っていたというのか。それなら,わたしの銀子を銀行に入れなかったのはどうしてか。そうしておけば,わたしは到着のおり,それを利息といっしょに集めただろうに』」― ルカ 19:22,23。
20,21 (イ)主人がその奴隷を「邪悪」と呼んだのは適正さの欠けた,過酷で思いやりのないことでしたか。(ロ)この「邪悪な奴隷」がもう一度機会を与えられるに価したかどうかについてたとえ話は何を示していますか。
20 この役にたたない奴隷を「邪悪」と呼んだことは,適正さの欠けた,過酷で思いやりのないことではありません。主人の貴重な一ミナで仕事をすることを恐れたこの奴隷は,わざわざ主人に損失をこうむらせたからです。貴重な時間と資金がそこに関係していました。その奴隷は,自分の主人に対する忠節心をいだいて,また,主人の繁栄と主人の資産の増大を願う気持ちでそれを活用しませんでした。この奴隷がずっと以前に主人から受け取ったものについてただ手をこまねいていたことは,王となって戻る主人を迎えるふさわしい方法ではありませんでした。それは見下げるべき態度ではありませんか。敬意がはなはだしく欠けているではありませんか。大いに品位の欠けた行動ではありませんか。新たに設立された自分の主人の王国に対して喜びと熱意がはなはだしく不足しているではありませんか。そのための時間と手だてとがあったにもかかわらず,自分の主人に対して全くなんの奉仕をも行なわなかったのです。勘定の清算のさい,彼はさらに機会を与えられるに価しましたか。次の部分に注目してください。
21 「そうして彼[主人]はそばに立っている者たちに言いました,『この者からその一ミナを取って,十ミナ持つ者に与えなさい』。しかし彼は言いました,『主よ,彼は十ミナも持っています!』―『あなたがたに言うが,だれでも持っている者にはさらに多く与えられ,一方,持っていない者からは,持っているものまで取り上げられるのだ。それから,わたしがその王となることを望まなかったこれらわたしの敵どもをここに連れて来て,わたしの前でうち殺せ』」― ルカ 19:24-27。
22 (イ)こうして,この無益な奴隷は王と関係のあるどんな機会を失いましたか。(ロ)この奴隷は実際にはだれの側に立ちましたか。主人のことばはその奴隷の立場をどのように悪いものとしていますか。
22 この無益な奴隷から一ミナの銀が取り去られたことは,「十の都市に対する権威を持ち」あるいは「五つの都市を受け持」って,今や王となった自分の主人の王国に分けあずかるにふさわしいことを示す機会を彼がもはや失ったことを意味しています。(ルカ 19:17,19)彼に対しては王国に関する責任をなんらゆだねることができません。自分の主人の王国に対して消極的な態度を取ったこの奴隷は,この人が王となって支配することに対して積極的な反対の態度を取る人々の側に身を置きました。この主人が自分たちの王となることを望まなかった敵たちとともにこの奴隷がうち殺されたかどうかについて,たとえ話は何も述べず,何も示していません。しかし,たとえ話は,主人の王国に対してなんの熱意も関心もいだいていない奴隷が自分の持つ機会をすべて取り去られることを述べたのち,主人が,敵する者たちを自分の前でうち殺すよう自分の配下の者たちに命ずることを示しています。
23 (イ)その奴隷が「邪悪」とされたのはどんな非行のためではありませんか。(ロ)その奴隷の失敗を考え,バプテスマを受け,油をそそがれた,キリストの「奴隷」たちは,1914年の異邦人の時の終わり以来どんなことを行なう務めのもとにありますか。
23 この無益な奴隷は「邪悪な」者とされましたが,それは,仲間の奴隷を虐待したとか,淫行・姦淫・同性愛行為など,不道徳な行為を行なったという理由によるのではありませんでした。この点は注目に価します。そうです,彼は,自分の主人の王国に関する見込みを支持しなかったこと,主人の王国の富の増大のために働かなかったことのゆえに邪悪な者として裁かれたのです。王としての主人を支持する側に立たなかった点で,彼はその王に敵する者となりました。(マタイ 12:30。ルカ 11:23)1914年における異邦人の時の終わり以来の今日においても,バプテスマを受けて油をそそがれた者たちであり,今や王として統治しているイエス・キリストの「奴隷」である人々が,キリストの王国に関する公共の知識,支持,忠誠を増大させる務めを怠るなら,それは重大なことです。彼らは,イエスが勘定を清算する時まで,自分に託された象徴的なミナを用いて「商売を」する責任があるのです。
24 (イ)これらクリスチャンの「奴隷」たちは,どんな特権がほかの者に移されてしまうことを望みませんか。(ロ)彼らが王からの報いを失うことは何を失うことになりますか。
24 彼らは,キリストの王国に関する自分の特権を除かれ,十ミナを得た奴隷のような,熱心に王国を宣べ伝えまた教える人々にそれが与えられてしまうようなことを願うべきではありません。象徴的なミナを取り去られてしまうなら,彼らは天の王国での場所を得そこない,いわば「十の都市」や「五つの都市」を支配する特権を得られないことになります。彼らがそれを失うことは,すべてのものを失うことになるでしょう。それは,イエス・キリストが千年のあいだ自分たちの上に王権を行使することを望まない,神のメシアによる政府の直接の敵たちとともに滅びをこうむることになるでしょう。(啓示 20:4,6)その到来のさいイエス・キリストに伴って来た聖なるみ使いたちが,メシアによる王国に敵対する者またそれを支持しない者すべてに対して神の報復を執行する時は近づいています。それはハルマゲドンの戦い以前に始まります。
25 (イ)神の報復の執行がハルマゲドンの戦い以前に始まるのはなぜですか。(ロ)その時,クリスチャンと唱えながら「邪悪な奴隷」のようになっているとすれば,それはわたしたちにとって何を意味しますか。
25 それは宗教上の大いなるバビロンの滅びとともに始まり,西暦70年におけるエルサレムの攻囲と滅びによって予表された「大患難」の始まりのさいに起こります。(啓示 17:1-16。マタイ 24:15-22)したがって,クリスチャンと唱えながら,自分のミナをただ布にくるんでしまっておきやがてそれを失う結果になった「邪悪な奴隷」によって表わされる者たちに属している人にはやがて災いが臨みます。すなわち,「大患難」のさいに王の「敵」たちとともに永遠の滅びをこうむることになってしまうでしょう。
26 王に敵する者たちとともにうち殺されるのを免れる,どんな二つのグループの人々がいますか。その人々がそれを免れるのはなぜですか。
26 自分たちの天の主人である王イエス・キリストのもとに霊的な獲得物を携えて来る油そそがれたクリスチャンの「奴隷」たちは,王に敵する者たちとともにうち殺されることを免れます。忠実で役にたつ「奴隷」の活動に答え応じ,エホバ神とその子羊イエス・キリストの座の前にあって忠節な立場を取り,すべての人の聞くところで,「み座にすわっておられるわたしたちの神に,そして子羊に勝利!」と熱心に叫ぶ「大群衆」もともにそれを免れます。―啓示 7:9,10,14,15,新英。
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