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エホバの証者の逮捕をうながすカトリック牧師ものみの塔 1962 | 12月15日
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知識が浅い?
「あなたがたは,聖書を手にしてエホバの証者と討議する用意がないものと,私は理解している」とも,この記事は述べています。これは先頃,パルマ・デ・マロルカのすべての家庭に書状を配って,エホバの証者と話をかわしてはならないとカトリック教徒に通知したのと同様です。カトリックの週刊誌「アメリカ」の1961年6月24日号にも,同様なことが出ました。これはクリスチャンが,光を輝かせるという務をはたすことですか。「ペテロ前書 3章15節(新口)に次の言葉を書いたのは,使徒ペテロではありませんでしたか。「ただ,心の中でキリストを主とあがめなさい。また,あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさい」。
「フベンタッド・ミシオネラ」の記事は,カトリック教徒にはその信仰をエホバの証者と話し合う用意がない理由を,述べていません。むしろ筆者は,エホバの証者が聖書の浅薄な知識しか持っていないと述べて,証者を攻撃しています,「彼らが聖書を深く研究したなどと信じてはいけない。彼らは毎週集まって,その雑誌『ものみの塔』の中に出てくる聖句を一緒に読むに過ぎない。彼らはそれで満足している。聖書をよく知っているように見せかけるには,それで十分なのだ」。
自分の信仰をエホバの証者と話し合える人ならば,エホバの証者が聖書をよく知っていることに気づいています。多くの人は,毎週5回のエホバの証者の集会に一緒に出席しました。そしてエホバの証者が,聖書の預言,クリスチャンの教え,聖書の原則,その他多くの関連した事柄を,きわめて深く探究しているのを見ています。「フベンタッド・ミシオネラ」に先の言葉を書いた人は,エホバの証者が聖書の浅薄な知識しか持っていないと述べていますが,本当にそう考えていないことは明らかです。なぜなら次のように言葉をつづけているからです,「エホバの証者と論議してはならない。あなたがたは聖書の知識が足りないために,問題を解く確信が持てなくなるであろう。そしてエホバの証者の巧妙な手口にかかって彼らの網に捕えられてしまう」。この言葉が示しているように,知識を持たないのはエホバの証者ではありません。しかし,エホバの証者は,聖書の話をするときに,「巧妙な手口」を使いますか。証者が聖書を人々に読むだけで,説明しなければ,ホセ・リコは喜ぶことでしょう。この牧師は,自分の教区民がカトリックの教えと次の聖句とをくらべてみることを,喜んで許すでしょうか。
御自分の聖書をしらべて下さい
たとえばマタイ伝 23章9節において,「また,地上のだれをも,父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり,すなわち,天にいます父である」(新口)と,イエスは言われました。前後の句を見ると,イエスは「ラビ」のような他の宗教的称号を使うことも許していません。「神父」という称号を用いて牧師に呼びかけるカトリックのならわしを,主の教えとくらべてごらんなさい。カトリックの行いの間違いを誠実な人々に納得させるのに,巧妙な手口は必要ありません。
同じく,聖職者の独身生活とか,一定の日に肉食を禁ずるカトリックの行いを,次のような聖句とくらべるのに,巧妙さを必要としません。「しかし,御霊は明らかに告げて言う。後の時になると,ある人々は,惑わす霊と悪霊の教えとに気をとられて,信仰から離れ去るであろう。それは,良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。これらの偽り者どもは,結婚を禁じたり,食物を断つことを命じたりする。しかし食物は,信仰があり直理を認める者が,感謝して受けるようにと,神の造られたものである」。「監督は,非難のない人で,ひとりの妻の夫であり」。―テモテ前 4:1-3; 3:2,新口。
崇拝に像を使うことが,「それだから,愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」と述べたパウロの霊感による警告の言葉と一致しないことは,特別な教育のない人でも分かります。(コリント前 10:14,新口)また像の使用は,ヨハネ第一書 5章21節にある使徒ヨハネの言葉,「子たちよ。気をつけて,偶像を避けなさい」(新口)とも一致していません。カトリックの牧師のなすべき,愛のある,聖書的な行いは,「偶像を礼拝する者」が神の国をつがないことを,信徒に警告することではないでしょうか。―コリント前 6:9。黙示 22:15。
三位一体(神とキリストが同等であると教える)というカトリックの教えを,「父がわたしより大きいかたである」(ヨハネ 14:28,新口)と述べたイエスの教えとくらべるのに,何のごまかしも必要ありません。コリント前書 11章3節に使徒パウロの述べた,「キリストのかしらは神である」(新口)という言葉からも,イエスの言われたことの意味は明らかです。キリストは神に従うのであって,神と同等でないことは,聖書から見て全く明らかです。―コリント前 15:28
聴書のエゼキエル書 18章4節とマタイ伝 10章28節(この牧師の引用している句の前半だけでなく,その全部を読んで下さい)を開くと,カトリックの教えとは違って,人間の魂は死ぬこと,滅びることが分かります。パウロによれば,彼の時代においてさえ,神のほかに不滅性を持つのはキリストだけでした。(テモテ前 6:16)従ってだれでも生来,「不滅の魂」を持っているのではありません。天の生命を追い求める競争にはいるクリスチャンは,不滅性を持たないからこそ,それを求めるのです。この事実を認めるのに,何のごまかしもいりません。―ロマ 2:7。
カトリックの神学者は,イエスの母の肉体が神によって天にあげられたと教えるかも知れません。しかし「肉と血とは神の国を継ぐことができない」(コリント前 15:50,新口)ことを強調している聖書の言葉を,人々に無視させることはできません。また牧師は,ミサの儀式によって日毎にキリストの犠牲をくり返すと教えます。その事を信じたいならば,そうしなさい。しかし聖書を取り出して,パウロの次の言葉を読むことが,「ごまかし」であるなどと言うべきではありません,「ところが,キリストは,ほんとうのものの模型にすぎない,手で造った聖所にはいらないで,上なる天にはいり,今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。大祭司は,年ごとに,自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが,キリストはそのように,たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば,世の初めから,たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実,ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために,世の終りに,一度だけ現れたのである」。―ヘブル 9:24-26,新口。
だれの弟子
カトリックの牧師が,カトリックの人々にむかってエホバの証者と聖書を論じてはいけないと言い,また「改宗を図る彼らの活動を警察に密告せよ」とすすめている理由は,これらの聖句から明らかです。自分でも認めているように,聖書の知識のかぎを人々から取りあげてしまった牧師は,聖書の自由な討論を人々に許すとき,失うものが多いのです。それはイエスの証言活動によって,ユダヤの「祭司長たち」が多くのものを失ったのと同様です。
ご自分のカトリックの聖書を開いて,マタイ伝 26章46-50節をお読みになれば分かる通り,イスカリオテのユダは,これらの宗教家の言いなりになってイエスを裏切りました。従って今日,それと同類の人々の手によって,キリストの足跡に導かれる代りに,ユダの道に導かれないように注意して下さい。それは,エホバの証者が,良いたよりのために自由を失うのをいとうからではありません。しかしあなたは,きわめて悪い助言のために,永遠の生命を失うことを望みますか。
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ベネズエラでものみの塔 1962 | 12月15日
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ベネズエラで
ある証者は,3人の子供を持つ母親とほとんど4年間も聖書研究を続けて来ましたが,あまり進歩しない事などが理由で,研究を中止しました。それから約1年たって,その母親のものみの塔予約が切れたので,証者は訪問してみました。すると彼女は,再約しただけでなく,もっと別の文書をも求め,さらに聖書研究を再び始めたいと頼みました。そして彼女は,これまで不信者の夫の言うなりになって来た事を認めました。今彼女はよく進歩して,会衆のあつまりに出席し,クリスチャン宣教の仕事にも加わっています。
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