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苦難に対してどのように応じますかものみの塔 1973 | 11月15日
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しかしそういう考え方は健全でしょうか。「神の霊感を受けた……物事を正(す)……のに有益である」聖書の勉強を捨てることによって何事かを正すことができるでしょうか。(テモテ後 3:16,新)それよりもガラテヤ書 6章9節の,「りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです」という助言に従うほうが賢明です。そしてあなたが刈り取るものは,あなたが不動の模範を示したために家族が真理を受け入れるのを見るという喜びであるかもしれないのです。あるエホバの証人は,実際にそのような結果になったことを,次のように語りました。
「主人はほとんど最初から,私が会衆の聖書研究に出席することに反対しました。……私は主人と話し合うことを幾度も試み,集会で話されることがどんなに重要なことであるか自分で調べるよう,集会に誘ったこともありましたが,むだでした」。反対は口でおどすことから暴力を振うことへとエスカレートしました。「それでも私の思いは変わりませんでした」と彼女は説明します。この婦人がエホバの崇拝を『あきらめなかった』結果はどうなったでしょうか。夫が『調べる』ためにエホバの証人の集会に出席しはじめたのです。そして集会で聞いたことが気に入り,そのことを妹に話し,彼女も王国会館に出はじめました。その後まもなく夫もその妹も,同じ大会でバプテスマを受けました。なんとすばらしい結果になったのでしょう。これはひとえに,クリスチャンの妻が家族の反対に耐え抜いたからでした。
経済面からの誘惑
もし経済的な面から妥協させようとする圧力がかかるなら,あなたはそれにどう反応しますか。エホバに献身する決意をしようとしている時に,職場で昇進の話が出ます。それには誘惑的な昇給や他の物質的な恩典が含まれているかもしれません。もちろん,そうしたこと自体は何も悪いことではありません。しかしそれは,責任がふえ,さらに多くの時間を仕事につぎ込まねばならないことを意味しないでしょうか。個人的な聖書研究,クリスチャンの集会に出席すること,王国を宣べ伝える活動などのために取り分けてある時間に食い込んでこないでしょうか。
自問してみてください。なぜこのような時に昇進の話など出るのか。エホバ神を崇拝するためにすでに『買い取っている』時間を世俗の関心事に売り渡せばそれを喜ぶのはだれかと。(エペソ 5:16。コロサイ 4:5)悪魔はあなたが神を崇拝することよりも自分自身の経済上の安全をはかることにより大きな関心を持っており,事情が苦しくなればエホバを捨てると主張をするのを忘れないでください。悪魔は神のしもべヨブにかんしてこの主張をしました。しかしヨブは,家族を奪われ,友人や財産を奪われたにもかかわらず,そのような圧迫的策略に屈しませんでした。こうしてヨブは,サタンの非難が偽りであることを証明しました。苦難に会ってもそれを忠実に耐え忍んだために,エホバは『ヨブを恵んで,その終わりを初めよりも良くされました』。経済面で困難に直面した時,あなたはヨブと同様の反応を示すでしょうか。もしそうするとすれば,ヨブの報いに比較し得る報いを受けることは確実です。―ヨブ記 1章,2章; 42:12。
不道徳な生き方を捨てる
今日のいわゆる「新しい道徳」も,聖書の教えに自分の生活を合わせたいと思う人びとにとってはひとつの圧力です。たとえばある場所では,正式に結婚していない男女が同棲し,子どもさえ育てることが,普通のように行なわれています。
そのような人たちがエホバの証人と聖書の勉強をして,神がそういう合意による関係を淫行とされていることを学びます。エホバのことばは,「淫行から逃れなさい」と助言しています。(コリント前 6:18,新)世界中のへりくだった人びとはこの命令に従っています。そして豊かな祝福を得ています。
スリナムのある婦人は,聖書の真理が心に触れたとき,5年間同棲して何人かの子どもをもうけた相手と別れる決意をしました。相手は非常に怒って彼女をなぐり,出て行ったら殺すと言っておどしました。しかし彼女は出て行きました。結果はどうなりましたか。「私自身と子どもたちが現在得ている幸福は,私たちが経てきた苦しみをはるかにしのぐものであることを私は告白しなければなりません」と彼女は語りました。
確かに,苦難の中にある時にエホバへの忠実を守り抜くことは,唯一の賢明な行ないです。それは神と隣人に対して愛を示すことであり,悪魔がうそつきであることを証明することであって,エホバの保護と祝福を確実にし,また身近かの人びとに聖書を真剣に調べるよう促す助けになることさえあります。こうしたことを考えるなら,あなたは苦難に対してどのように応じますか。
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助言を与える人の責任ものみの塔 1973 | 11月15日
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助言を与える人の責任
賢明な助言には大きな価値があります。法律問題のような事がらばかりでなく,生活の他のいろいろな面においても,良い助言に対して惜しみなく金銭を費やすのは,昔も今も変わりません。王や支配者たちは,賢明な助言を与えうる人びとを重んじ,そういう人びとを雇いました。
最も貴重な助言は,神に喜ばれる生き方を発見しそれを固守することと関係のあるものです。昔のイスラエルが民を助ける有能な助言者たちを有していたのと同じく,今日でも神の地上の民の会衆の中には,助言を与える責任を持つ霊的に古い人びとがいます。それはクリスチャンの兄弟たちを導き,力づけ,保護するためです。―ペテロ前 5:2,3。
そのような助言を与えることは特権ですが,また同時に重い責任でもあります。助言することは,人を教えるひとつの方法とも言えます。そして教える者は,自分が教えることと,それが教えられる者におよぼす影響とに対して責任を負わねばなりません。―ヤコブ 3:1。
助言は,叱責の形を取った矯正的なものである場合もあります。箴言 25章12節は,『知恵をもていましむる者のこれをきく者の耳におけることは 金の耳環と精金の飾のごとし』と述べています。しかし,箴言が知恵をもていましむる者,と言っていることに注意してください。重要なのは,助言をする単なる意欲ではないのです。若い,経験の浅い人でも,助言する意欲があり,あるいはそれを試みるかもしれません。しかしその資格があるでしょうか。使徒パウロは,まちがった道に行きそうな人を援助するよう兄弟たちに勧めた時,「霊的に資格のあるあなたがたは……そのような人に再調整を施すことに努め」なさいと言いました。(ガラテヤ 6:1,新)そういう霊的な資格はすべての人が持っているわけではありません。したがってモーセは,肉のイスラエルの間の諸問題を処理する者たちを立てるよう神から言われた時,「賢くて,思慮深く,経験のある」人びとを選ぶようにしました。(申命 1:13-15,新)クリスチャン会衆内で牧者また監督として奉仕している人びとも同様に,霊的知恵と思慮を示す,そして経験のある人でなければなりません。
賢明な助言を与えるには知識が肝要
個人に与えるものにせよ,グループに与えるものにせよ,助言は基本的に言って二種類あります。ひとつは,教えもしくは導きを求められたときにそれに答えて与える助言で,もうひとつは,求められはしないが,必要が明らかになったため
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