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あなたは今の生活から得られるもののために生きていますかものみの塔 1973 | 5月15日
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性の不道徳をもてあそぶ,あるいは行なう機会のために生きていますか
16 (イ)『不道徳をもてあそぶ』とはどういう意味ですか。(ロ)異性とのデートは単なるレクリエーションではありません。なぜですか。
16 『もてあそぶ』とは,遊具で遊ぶ場合のようにおもしろく遊ぶ,スポーツや遊戯などをして時を過ごす,という意味です。性の不道徳をもてあそぶとは,実際には淫行あるいは姦淫を行なわずに,それと戯れることです。性器は遊び道具ではなく生殖のために神が与えたもの,結婚した人びとがその配偶者とともに用いるものです。聖書は不品行を罪としています。そして不道徳をもてあそぶことが不品行であることは明らかです。不品行は排斥という結果を招く恐れがあります。(ガラテヤ 5:19。マルコ 7:21-23)性交を避けさえすれば,そのような不潔な行為が許されるとでも考えるなら,その人は自分を欺いているにすぎません。異性とのデートは単なるレクリエーションではなく,結婚を目的としたものであるべきです。もし結婚する目的がないなら,あるいは結婚に伴う責任を果たすにはまだ若すぎるなら,なぜ自分は異性とのデートを望むのか,その動機を調べてみるべきです。その人はどの方向に進んでいますか。言いかえますと,何のために生きようとしていますか。
17 クリスチャンが避けねばならないどんな事柄が,性の不道徳をもてあそぶ一因になりますか。
17 性の不道徳をもて遊ぶことは,多くの場合悪い交わりから始まります。この世的な人びとの間ではこれは普通に行なわれています。彼らのまん中にいる時には,あなたは誘惑に取り巻かれているのです。彼らの会話,映画,書籍,ポルノ文学,卑わいな冗談,タイトな衣服やからだを露出させる衣服などはみな,心の中に悪い欲望が芽生え育つのを助けます。ほかの人の配偶者とふざけるのは,悪気のないもののように見えるかもしれません。しかし,これが容易ならぬ結果を招くことは少なくないのです。―エペソ 5:3-5。
18 異性との交際の動機をひとりびとりが吟味するのによいどんな質問がありますか。
18 次の質問は,ものみの塔協会に問題の是非を判断してもらうのではなくで,各自が自分の動機を吟味する上で考慮してみるとよい質問です。あなたは結婚してはいないのに,スリルを感じるので手を握りますか。異性のからだが自分のからだに触れるのが楽しいから,ダンスをしますか。結婚してはいないのに,刺激を感じるからお休みのキスをしますか。協会に送られてくる手紙は,性の不道徳をもてあそぶことがしばしばそのようにしてはじまることを示しています。
19 性器が神に対して罪を犯すように用いられるとき,神が性器のある男女をお造りになったことを非難することはできません。なぜですか。
19 聖書はきわめて率直に,『男の女に触れぬを善しとす』と述べています。(コリント前 7:1)神によって男女に与えられた性器が罪を犯すのに用いられるとしても,それを性器のせいにすることはできません。性器は,思いと心が衝動を与えて興奮させるまでは静かにしているようにつくられています。もし男性と女性が結婚することに決め,結婚したならば,ふたりがいっしょにいることや,互いに触れ合って愛ぶするのは,少しも悪いことではありません。これはふたりに楽しみをもたらします。そしてそのような愛の遊びは,ふたりが望めば,性交につながっていくかもしれません。しかし,独身の男女は,重大な結果を引き起こさずにこの連鎖反応を始められると考えることはできないのです。反応能力はからだの中にあります。刺激されるまでは眠っています。触れるスリルは,満足させるよりもむしろもっと強く接触したいという欲望を容易にかきたて,キスをしたり陰部をもてあそぶことになって,淫行や姦淫を犯すところまで行ってしまいます。こうしたことは一度には起きないかもしれません。しかし,経験した喜びを考えつづけ,次の機会を楽しみにして待ち,そういう機会がくるように企てたり,工作したりすることまでするなら,その欲望はしだいに強くなるおそれがあります。
20 人は悪い習慣にかんしてどのように自分の肢体を『殺す』ことができますか。
20 聖書は賢明にもクリスチャンに次のように助言しています。『されば地にある肢体,すなわち淫行・汚れ・情欲・悪欲・またむさぼりを殺せ,むさぼりは偶像崇拝なり。神の怒りは,これらの事によりて不従順の子らにきたるなり』。(コロサイ 3:5,6)医師は,からだの特定の部分を手術しようとするときに,神経を殺す鎮痛剤を注射します。わたしたちは,自分の心と思いの中にある悪い欲望を中和させ無効にすることにより,また,神の意志を行なうことを主とすべき正しい欲望を培うことにより,自分の肢体を,悪い欲望と衝動に関して殺すことができます。―テサロニケ前 4:3-7。ペテロ前 4:2-5。
21 クリスチャンはこの世の態度や習慣に抗して何をするよう決意すべきですか。
21 現代の享楽主義者たちは,クリスチャンの道は非実際的で現実的ではない,と言いたければ言うがよいでしょう。しかし,聖書の原則を生活に適用するときに家庭は幸福になり,性病やアルコール中毒の致命的な影響をのがれることができ,建設的な交わりを提供してくれる人びとと常に親密な関係を保つことができ,そして神のみまえに清い良心と正しい立場を得るよう助けられるのですから,わたしたちにとっては実際的です。わたしたちは命の賜物に感謝し,それを平和と幸福のうちに,永遠に楽しみたいと思います。つかのまの肉の喜びのために捨て去ることなどしたくありません。神はわたしたちの忠実さへの報いとして,新秩序で永遠の命を与えてくださるということを,わたしたちは心から信じています。同胞を愛するわたしたちは,神の新秩序を目標にして生きる努力をたゆまず払いながら,このすばらしい目的を他の人びとに告げています。
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神の新秩序での命を目ざして生きるものみの塔 1973 | 5月15日
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神の新秩序での命を目ざして生きる
「信仰の戦いをりっぱにたたかい,永遠の命をしっかりと捕えなさい。そのために,あなたは召されて(いる)」― テモテ前 6:12,新。
1 この世の快楽のために生きはじめるのはなぜ愚かなことですか。
前の記事で考慮したことからみて,もしわたしたちが,この世的な交際や飲む楽しみ,性の不道徳をもてあそぶ機会や不倫な欲望を満たす機会のために生きることをはじめたとしたら,わたしたちはなんと愚鈍な人間でしょう。自分の行ないによって神に誉れを帰し,悪魔がうそつきであることを証明できるときに,なぜエホバを怒らせなければならないでしょうか。清い生活は心身の健康に寄与するというのに,なぜそのような不行跡によって健康を害す必要があるでしょうか。事によったら早死にの原因となるようないまわしい病気に感染するかもしれません。わたしたちの前には,神の新秩序における永遠の生命が,忠実を保つ者に対する報いとして置かれているのに,不正手段で得るつかの間の利己的な快楽のために,なぜクリスチャン会衆から断たれ,また死によって永遠に断たれる恐れさえある危険をあえておかすのでしょうか。
2 わたしたちの行ないの結果は聖書のどんな原則に左右されますか。神の新秩序での命を望むならわたしたちは何をしなければなりませんか。
2 そうです,なぜでしょうか。どう見ても,それ
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