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老化と死はどのようにして始まったか今ある命がすべてですか
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「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
完全性を喪失したアダムは,それを自分の子孫に伝えることはできませんでした。その初めから,アダムの子供たちは弱点を持つ者として生まれました。その体内における罪の働きの結果として,アダムは,弱点や限界のない子孫をもうけることができませんでした。このことは,ヨブ記 14章4節にある,聖書の次の言葉とも一致しています。「だれが,汚れた者の中から清い者を生み出せるだろうか。一人もいない」。こうして,今日の人間の老化と死の根本の理由は,アダムから受け継いだ罪に帰せられます。アダムの子孫として,人間は,罪の払う報いである死を受け取っているのです。―ローマ 6:23。
実際のところこれはどういう意味ですか。死は人の生命過程の完全な終わりですか。それとも,なんらかの部分がその後も生き続けるのですか。肉体の死後にも意識ある存在がずっと継続するのですか。
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「魂」とはいったいなんですか今ある命がすべてですか
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第5章
「魂」とはいったいなんですか
あなたは何から出来ていますか。あなたは事実上,二つの人格的存在が一体になったものですか。つまり,脳・心臓・目・耳・舌などを備えた人間の肉体であり,同時にまた,有機体としてのその肉体とは全く別個の見えない霊的人格で「魂」と呼ばれるものを,内面に持っているのですか。もしそうであるとすれば,あなたが死ぬ時にはどんな事が起きるのですか。肉体だけが死んで,魂のほうは生き続けるのですか。この点で確かなことをどうしたら知ることができますか。
特に人間の場合,死がいっさいの存在の終わりではない,というのがたいていの宗教の教えです。南北アメリカ,ヨーロッパ,オーストラリアなどのいわゆるキリスト教国ではそのように教えられていますが,それだけでなく,アジアやアフリカのキリスト教以外の国でも同様の教えがなされています。「世界の埋葬習慣」という本はこう述べています。「いずれの文化について見ても,世界のほとんどすべての民は,死のさいに肉体を離れ出るものがその後も生き続ける,と信じている」。
魂の不滅に対する信仰は,キリスト教以外の宗教においても重要な地位を占めています。例えば,ヒンズー教の聖典の中で特に重要視される「バガヴァッド・ギーター」は,魂は不死であるとはっきり述べています。そして,それを理由として戦争における殺りくを正当化し,こう述べています。
「これらの肉体は迎える,
宣せられたごとく,肉体化した永遠なる(魂)の終わりを。
その(魂)は不滅であり,深遠である。
それゆえ,バーラタの子よ,戦え!
それを殺人者と信じる者,
それを殺されたとみなす者,
これらは共に悟りがない。
それは殺さず,殺されない。
それは誕生することも,死ぬこともない。
存在に至ったことも,存在を絶つこともない。
この古来のものは誕生せず,永久,永遠であり,
肉体の殺される時にも殺されない」
― バガヴァッド・ギーター,II,18-20。
しかし,ここで述べられている魂とはなんですか。ヒンズー教徒は,人間の魂の不滅を強く信じてはいても,魂がどのようなものかについては,あいまいな言葉でしか説明できません。スワミ・ビブカナンダという人の「ヒンズー教」という本はこう述べています。
「ヒンズー教徒はこう信ずる。すなわち,魂はすべて円を成しているが,その円周はどこにも存在しない。しかし,その中心は肉体の中に宿っている。そして,死は,この中心が一つの肉体から別の肉体に移ることにすぎない。魂は物質の状態に拘束されることもない。その本質において,魂は自由,無限,神聖,純粋,完全である。しかし,なんらかのことでそれは物質による拘束を意識し,また自らを物質とみなしもする」。
では,キリスト教世界の諸教会の人々は,一般に言ってどのようなことを信じていますか。キュルマン教授(バーゼル大学,およびパリ,ソルボンヌ大学の神学部)はこう述べています。
「今日の普通のクリスチャン(カトリックでも新教徒でも,博識の人でもそうでない人でも)に,死後の人間の運命に関する新約聖書の教えをどう理解しているか尋ねるとすれば,ほとんど例外なく,『魂の不滅』という答えを聞くであろう」。
その「魂」とはどのようなものかと問われると,キリスト教世界の諸教会の成員も,きわめてぼんやりした,あいまいな言葉でしか答えられません。不滅の魂についてのその人々の概念は,キリスト教以外の宗教の人々の場合と同じく不明瞭なものです。これは一つの疑問を感じさせます。魂とは人間の不滅の部分であると,ほんとうに聖書は教えているのですか。
魂は不滅か
聖書の多くの翻訳の中で,「魂」(soul)という言葉は,ヘブライ語ネフェシュ,およびギリシャ語プシュケーの訳として現われています。(その例として,エゼキエル書 18章4節とマタイ 10章28節をご覧ください。欽定訳,新英語聖書,改定標準訳,ドウェー訳)この同じヘブライ語およびギリシャ語は,「生命」,「生き物」,「人」とも訳されています。お持ちの聖書が元の言葉を一貫して「魂」と訳していても(新世界訳聖書は
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