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それを見いだした人目ざめよ! 1978 | 10月8日
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20:4,5,[新])にもかかわらず,カトリック教では,彫像の前にロウソクがともされ,花やお金が供えられ,崇拝者たちはその前で頭を垂れたり,ひざまずいたりして祈りをささげます。私も同じようなことをしていました。
カトリック教徒は,像を崇拝する結果として,“聖人たち”が神とその崇拝者の間を取り持つ仲介者となってくれると信じています。しかし,聖書はその考えが間違っていることを示しています。次のように書かれているからです。「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであ(る)」。(テモテ第一 2:5)イエス・キリストを除けば,私たちのために神との間の仲介者になれる方はだれもいません。(ヨハネ 14:6; 使徒 4:12と比較してください。)私たちは創造者に対するよりも,被造物である人間や物に対して多くの誉れを帰していたことを学んで驚きました。―ローマ 1:25。
神以外の者に対する祈りの一例は,ミサの際に用いられる祈り,コンフィテオル(「われ告白す」の意)です。その祈りは次のような言葉で行なわれます。「全能なる神,終生童貞なる祝福された聖マリア,大天使聖ミカエル,洗礼者ヨハネ,使徒聖ペトロ,聖パウロ,および諸聖人にむかいて,われは思いと言葉と行ないとをもって,多くの罪を犯せしことを告白し奉る」。ところが聖書によれば,神だけが「祈りを聞かれる方」なのです。(詩 65:2,口)イエスは,「天におられるわたしたちの父」に向かって祈らねばならないとお教えになりました。―マタイ 6:9。
その結果,ロザリオの祈りについて疑問が頭の中にわき起こりました。これは,特定の祈りを幾度も唱える祈りです。“アベマリア”と呼ばれるマリアに対する祈りの場合特によく繰り返します。それまでに聖書から学んだことからして,マリアや“聖人たち”への祈りは神に喜ばれるものではないことが分かるようになりました。
その上,イエスご自身も,「しかし,祈るさいには,諸国の人々がするように同じことを何度もくり返して言ってはなりません」と述べて,神が繰り返しの多い祈りを喜ばれないことを示されました。(マタイ 6:7)ロザリオの祈りは,同じことを何度も繰り返して言う以外の何物でもないのではありませんか。マリアを「永遠の処女」と呼ぶことについて言えば,マリアがイエスの後に幾人かの子供を産んでいるのをご存じだったでしょうか。マタイ 13章55,56節には次のように記されています。「これはあの大工の息子ではないか。彼の母はマリアと呼ばれ,兄弟たちはヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダと呼ばれているではないか。そして彼の姉妹たちは,みんなわたしたちとともにいるではないか」。わたしたちにとって,これは予想もしなかった新事実でした。
魂の不滅性
カトリック教徒だった私は,魂は不滅であり,自分が死ぬと体は塵に帰るが,魂は体を離れると教えられていました。教会の教えによると,地上で生きている間の自分の行ないに従って,魂は天国か,火の燃える地獄か,煉獄と呼ばれる一時的な刑罰のための責め苦の場所へ行きます。
しかし,聖書研究を通して,人間の魂というのは,目に見えない,人の一部分ではなく,人間全体であることを学びました。このことを示す,聖書の証拠を幾つか検討してみてください。
「エジプトでヨセフに生まれた子は二人の魂であった」。(創世 46:27,新)「さて,ある魂が捧げ物としてエホバに穀物の捧げ物をする場合……」。(レビ 2:1,新)「ある魂が……誤って罪を犯し……」。(レビ 4:2,新)「いかなる魂も血を食べてはならない」。(レビ 17:12,新)「恐れがすべての魂に臨むようになり」。(使徒 2:43)「ところで,わたしたち船の中にいた魂は,全部で二百七十六人であった」― 使徒 27:37。
当然のことですが,もし魂がその人自身のことであれば,その人が死ぬと,魂も死にます。それだからこそ,聖書は魂が死ぬ,また滅ぼされることについて繰り返し言及しているのです。例えば,聖書はこう述べています。「わたしはその魂をその民の中から滅ぼさねばならない」。(レビ 23:30,新)イエスは,「安息日にしてよいのは……魂を救うことですか滅ぼすことですか」とお尋ねになりました。(ルカ 6:9)死者の状態について言えば,聖書は的確にもこう述べています。「死者は何事も知らない」― 伝道 9:5,新。
わずか一年の間に,私は神と聖書について自分がカトリック教徒であった46年間全体を通じて学んだよりもずっと多くの事柄を学びました。私の学んだ事柄は,本当に「良いたより」でした。聖書研究を通して,私は,「[あなたがたは]真理を知り,真理はあなたがたを自由にするでしょう」というイエスの言葉を確かに認識させられました。(ヨハネ 8:32)私と妻と長男は,1977年に行なわれた,エホバの証人の「喜びに満ちた働き人」地域大会で,水のバプテスマによって自分たちの献身を表わしました。神を本当に喜ばせる崇拝の仕方をついに見いだせて,私たちは本当に幸福です。
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日本の“弾丸”列車に乗って目ざめよ! 1978 | 10月8日
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日本の“弾丸”列車に乗って
日本の「目ざめよ!」通信員が外国の読者のために書いた記事
東京駅に着いたわたしたちは人波にもまれながらプラットホームにたどり着きます。これは新幹線つまり外人が“弾丸列車”と呼ぶ列車の専用ホームです。わたしたちは今日,京都を訪れたいと思っており,それで新幹線の超特急「ひかり」号に乗ろうとしています。ほどなくして,わたしたちの乗る列車が満員の乗客を乗せて到着しました。白地に青線の入ったこの列車は400メートルの長さがあり,まさに流線型そのものです。丸味をおびた前面にはボタンのような鼻がつき,両端にはヘッドライトが両眼のように光っています。
わずか数分のうちに列車は1,400人もの乗客を降ろして空っぽになり,さらに数分のうちに清掃係の女の人たちが,乗客の残した少しのごみを拾い集めると,乗車のアナウンスがあります。
わたしたちは前日に郊外の駅で指定席を取っておきました。これはものの一分とかかりません。日本全国どこへ行くにも列車の指定席の予約は電子計算機で処理されており,希望の列車を出札係に告げると,その列車の座席を印刷した切符が電子計算機から出てきます。席がない場合は,次善の予約に関する情報が得られます。そしてその席でも良いと言えば,切符をすぐに入手できます。また16両のうちの何両かは“自由席”になっているので,指定席を取らなかった人は自由席に座るため,並んで待つことになります。
わたしたちは列車の右側の席が取れたので幸いでした。これで富士山がよく見えることでしょう。この列車は富士山の非常に近くを走っている
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