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  • 『死後の生存』についての聖書的研究 その1
    ものみの塔 1955 | 11月15日
    • と認めました。神の霊力または霊感をうけて,人間の魂についての定義を始めて聖書に書いたのは他ならぬこのモーセです。それに又,このモーセがエジプトの神秘な力に頼つた人々と敵対したことから,モーセが霊媒であつたかどうかについても正しく理解することができます。

      人間の魂とは何か

      32,33 人間の魂について,キリスト教国の代弁者たちのする定義と,聖書による定義は,どのように異りますか?

      32 キリスト教国の宗教的な教えは,人間の魂について不可思議なことを述べるので哲学者たちの説明が必要となります。それらの教えとはちがい,モーセは神が人間以前に創造したすべての魚や,鳥や,地上の動物を『魂』『生ける魂』と呼んでいます。(創世 1:20,21,24,30; 2:19,新世,ロザハム訳,ダーベー訳)それで人間が創造される時よりずつと昔に,幾十億という動物の魂または地的の魂は死にました。モーセは,それから最初の人間の魂がどのようにつくられたかをこのように述べています。『それからヱホバ神は土の塵から人間をつくられ,人間の鼻に生命の息を吹き入れられた。それで人間は生ける魂となつた。』(創世 2:7,新世。アメリカ標準訳,ダーベー訳)この聖句は,霊媒術の著者アーサー・フインドレイが自著の本『天界の端に立つ,すなわち科学的に説明された死後の生存』(英文)を宣伝して,人間は何処から来たかについて述べた言葉を否定するものです。フインドレイはこう語つています。『我々は天界内に止まる。我々が死ぬときに,外形も,記憶も,愛情も天界に移り行くのである。……将来も現在と同じであろう。播けば,それを苅らねばならない。我々は天界から来た。それで我々は天界に戻る。我々の肉体の生命は,我々の生命のほんの一部にすぎない。我々の生命は天界から来たために,死ぬときには天界に戻る。それで,真実にして触知し得る世界で,生命は機能しつづける』モーセは『天界』については何も語つていません。

      33 また,人間の魂が創造されたことに関するモーセの霊惑の記録は,ヴイ・デー・リシの意見と一致せず,それに『流動体であるペリシピリット(取り巻いている霊)と呼ばれる中間要素』については何も述べていません。創造者であるヱホバ神は,最初の人間にただ一つの体を与えました。その体は,地中の塵にあるいろいろな要素から出来あがつたものです。その物質の体は,どのように生命を持つようになりましたか? 神が人間の鼻,つまりは人間の肺の中に『生命の息』を吹き入れたことによります。それは人間の中に見えない魂を吹き入れて,それから流動体すなわち地的な体と同じ形を持つ取り巻く霊気を用いて,その魂を物質の体に結びつけたのではありません。神はいわば生命の無い体に生命を与える力を吹き入れました。そしてその力は,人間の呼吸によつて保たれるべきでした。どんな結果が生じましたか? その体は生命を持ちました。それはどういうことですか? つまり,ひとつの魂,すなわち目に見えて,触ることができ,感情を持つ人間の魂ができたということです。『人間は生ける魂となつた。』その生る魂は,いわゆる『天界』から来たものではありません。何故なら,その魂は,以前に『天界』に存在していなかつたからです。神が体と生命の息を結び合せることにより,その魂は生命を持つようになりました。それで,人間の魂が何であるかについての説明は,次の簡単かつ明瞭な『魂の方程式』によつて示されるでしよう。

      人間の魂=体+神からの生命の息

      34 人間の魂について,クリスチャン筆者であつたパウロの定義は,モーセの書いたヘブル語聖書中の魂の定義と,どのように一致調和していますか?

      34 これは,クリスチャン時代以前のヘブル人つまりユダヤ人だけの考えではありません。それは又真実のクリスチャンの考えでもあります。聖書の中の14冊を書いたクリスチャン使徒パウロは,モーセの書いたことを支持して,こう述べています。『聖書に「最初の人アダムは生ける魂になつた」と書かれている通りである。……最初の人は土の塵よりつくられた。』(コリント前 15:45,47,新世)それで,最初の生ける人間の魂は,最初の人間アダムでした。生ける人間の魂とは生ける人間です。その理由により,ヤングの聖書英訳(1862年)は,ここのところで『魂』の代りに『人間』という言葉を用いているのです。

      35-37 すばらしい聖書の現代訳は,魂と魂の創造者についての正確な知識と理解を得させるのに,どのように聖書研究者を助けていますか?

      35 聖書は,魂についての絶対権威を持つものです。聖書のヘブル語部分では,(『魂』と訳される)ネペシという言葉は,約800回出ています。聖書のキリスト教ギリシヤ語部分では(『魂』と訳されている)プスケという言葉は102回出ています。どの場合にしても,新世訳はこのギリシヤ語を『魂』と訳しています。まだ完結していない新世訳も,ヘブル語のネペシをいつも『魂』と訳しています。それで,聖書を読む人は魂の創造者が霊感の聖書の中でその言葉をどのように用いているかを知るでしよう。

      36 生ける人間そのものは,人間の魂であると,聖書は認めておりかつ教えている故,人間の魂は血を持つと聖書が述べているのは全く当然なことです。―『罪なき貧しき者の魂の血』(エレミヤ 2:34,欽定訳)― 神御自身もこう言われています。『あなた方の魂の血を私は求めるであろう。』(創世 9:5,新世)実際のところ,魂の創造者である神は,人間の魂が血の流れに是非依存しなければならぬと示しているため,こう言われています。『肉の魂は,血の中にある。』さらに『あらゆる肉の魂は,その血である。a』『血は魂である。b そして,あなた方は血とともに魂を食べてはならない。(本当に魂を食べてはならない)』(レビ 17:11,14そして申命 12:23,新世)人間の魂は,血や脂を食べることができます。しかし,神の律法はそのことを禁じています。『火祭としてヱホバに捧げる獣の脂を食べてはならない。これを食べる魂は,その民の中より絶たねばならない。どんな血であつても,血を食べてはならない。その者は民の中より絶たれねばならない。』― レビ 7:25,27,新世。

      37 人間の魂は動物の体を食べることができます。『死んだ体または獣によつて引き裂かれたものを食べる魂』(レビ 17:15,新世)人間の魂は物質の食物を強く求めます。『あなたの方の魂は肉を食べようと強く求める故に,あなた方が求める時には肉を食べることができる。』(申命 12:20,新世)また果物については『あなた方はあなた方の魂を満足させるために,充分の葡萄を食べねばならぬ。』(申命 23:24,新世)あるいは蜂の蜜をも食べることができます。―シンゲン 27:7。

      38 人間の魂についてのいろいろな事柄は,魂に関して常に一致している聖書の教えをどのように理解させますか?

      38 人間の魂は生きていて,理智を持つ人間そのものです。それは目に見えてかつ触知することのできる物質の人間であつて,人間の体内にある目に見えず,かつ触ることもできないエーテル体のようなものではありません。それで,人間の魂は自分自らを裂くこともできれば,獅子によつて裂かれます。あるいは生命を奪う剣の下から救われ,または深い坑に落ち込んでしまいます。そして,深い坑から引き上げられることもあり,牢獄から救い出されることもできます。(ヨブ 18:4,欄外。詩 7:2; 22:20。ヨブ 33:18,30。エレミヤ 18:20。詩 142:7)人間の魂を金で買うこともできます。人間の魂を誘拐して,売ることもできます。人間の魂を野獣のように狩り立てることもできます。(レビ 22:11。申命 24:7。出エジプト 4:19,新世)最初の人間の魂であるアダムとエバが地上に創造された後,他のすべての人間の魂は生まれました。人間は『天界』から来たのではありません。人間は父親の体つまり腰と,母親の胎から来たものです。ヤコブの妻であつたレアについてこう書かれています。『かくして彼女はヤコブにこれらの者を産んだ。合わせて16人である。ヤコブとともにエジプトに来た者は,ヤコブの子の妻をのぞき,ヤコブの上腿から出た者である。全部で六六人であつた。』(創世 6:18,26,新世)『そして,ヤコブの上腿から出たすべての魂は七十人であつた。』(出エジプト 1:5。新世)それで,魂とは人間の体からはつきり分離しているものではなく,まして夢の中とか,死ぬ時に体から出て行くものではありません。また体が死ぬ時に別の世界に移つて行つて,他の体に生れ変るというものではありません。

      39 聖書は,体と魂のあいだの相異を示していますか? そしてどのように?

      39 さて次の質問が起ります。聖書は体と魂のあいだの相違を示していますか? たしかに示しています。しかも聖書の初めの部分である創世記 2章7節の人間創造のところで示されています。エデンの地の塵からヱホバ神のつくられた人間の体は,人間の魂ではありません。それは,生命を持たない無活動の体であつて,見ることも,聞くことも,味うことも,香を嗅ぐことも,愛することも,考えることもできなかつたものです。体を生気づけて,その感覚器官と力を用いさせるために,神は生命の息を完全な人間の体の中に吹き入れて,体と生命の息をむすび合わせられました。かくして,以前には存在しなかつた生ける人間の魂がつくられました。それで,人間の体は人間の魂の必要な部分であつて,人間の魂は人間の体から離れては存在しません。聖書は私たち人間が楽しむ生命のことを,しばしば魂と語つています。イエスはこう言われました。『人が私のところに来て……その魂を憎まないなら,その者は私の弟子になることはできない。』(ルカ 14:26,新世)『自分の魂を愛する者は,それを失う。しかし,この世にあつて自分の魂を憎む者は,これを保つて永遠の生命を得る。』(ヨハネ 12:25,新世)『彼らは死の危険をうけても,自分の魂を愛さなかつた。』(黙示 12:11,新世)『私は正しい羊飼である。正しい羊飼は,羊のために自分の魂を棄てる。』― ヨハネ 10:11,新世

      40 聖書の中で用いられている『魂』という言葉が,人自身を指すどんな例がありますか?

      40 魂と体を切り離すことができません。それでもし『私の魂』という表現が用いられるとき,それは実際に『私自身』という意味です。イエスは金持ちについての譬話を言われました。その金持ちは,善い物を沢山貯えてからこう言いました『私は魂に言おう。「魂よ,お前は長年に足る良い物を貯えているぞ。気楽にし,食べ,飲め,楽しめ」すると神は彼に言われた「分別の無い者よ,今夜お前の魂は取りさられる。」』人間としての魂または生命がないとき,金持ちは自分の貯えた善い物をどうして楽しむことができますか?(ルカ 12:16-21,新世)神でさえも,『私の魂』という表現を用いられています。『見よ,私の選んだ僕,私の愛し,私の魂のよろこぶ者』(マタイ 12:18,新世。イザヤ 42:1)『私の義しい者は信仰によつて生きるであろう。もし彼がひるむならば,私の魂は彼を悦ばない。』(ヘブル 10:38,新世)『私の魂はあなた方の新月と定められた祝とを憎む。』(イザヤ 1:14,改定訳)これと同じく,『あなた(汝)の魂』という表現は,『あなた自身』を意味し,『彼の魂』は『彼自身』を意味します。例えば,『万軍のヤウエ,彼の魂を指して誓われたり。』(エレミヤ 51:14。アモス 6:8。ロザハム訳,欄外)『さらば汝幸いをえん。汝の魂生きん。』(エレミヤ 38:20。欽定訳。イザヤ 55:2,3)それで,『魂』という言葉は,人自身を指すのに用いられています。

      41,42 死人を生命に戻したエリヤ・エリシャ・イエスの行によつて,霊媒術者の偽りの主張は,どのように間ちがいのものと曝露されましたか?

      41 予言者エリヤはひとりの子供を生命に復帰させましたが,その際の彼の言葉は,人間の魂が体とは分離しているもので,ただ『ペリシピリットまたは流動体』と呼ばれる要素で人間の体に結びつけられているとは証明しません。そして人間が死ぬときに魂は離れ出て非物質の霊の世界にある分離独立した外部の存在に移るということを証明していません。聖書にこう書かれています。『その家の主母なる女の子,疾にかかりしが,その病はなはだ劇しくして気息その中に絶えてなきにいたれり。しかして(エリヤ)三度身を伸してその上に伏しヱホバに呼はりて言うわが神ヱホバ,願くはこの子の魂を中に帰らしめ給えと。ヱホバエリヤの声を聴きいれ給いしかば,その子の魂中に帰りて生きたり。』(列王記略上 17:17。21,22)子供の魂は,目に見えない霊の世界に生きていたと,聖書は述べていますか? また,子供は死んでかえつて幸いであり,地上にいた時よりも霊の世界にいる方がずつと幸福であると聖書は述べていますか? そのようなことは一つも書いてありません。子供の母親は,エリヤに霊媒になつて載きたいと願い出ましたか? そして,霊媒のエリヤを通して死んだ子と連絡し,その子と話を交しましたか? いいえ,そうではありません。もし子供が死んでかえつて幸福になつたら,エリヤが祈りを捧げて,子供を人間に生き返えさせたのは不正を行つたことであり,かつ非常な利己主義です。

      42 エリヤの後継者エリシヤが,生命に戻したシュナミ人の子についても同じことが言えます。イエスや使徒たちが,地上の人間の生命に戻した死人たちについても同じことが言えます。すなわち,ヤイロの娘,ナインの寡婦の子,マリヤとマルタの弟であるラザロ,ヨッパのドルカス(タビタ),そしてトロアスのユテコです。(列王紀略下 4:8-37。マタイ 10:1-8。ルカ 8:41-56; 7:11-15。ヨハネ 11:1-44。使行 9:36-41; 20:6-12)予言者エリヤの祈りの真意はこうです。すなわち,離れ去つた魂が霊の世界から子供の体の中に戻つて来てもらいたいというのではなく,人間としての子供の生命がヱホバ神の力により戻つて来てもらいたいということです。そうして,その死んだ体が再び生き返つて,生ける人間の魂になるようにということです。このことと一致して,アメリカ翻訳は,この聖句をこう訳出しています。『この子供の生命が再び体に戻らんことを』『それで,主はエリヤの声を聴いた。そして,子供の生命は再び戻り,生き返つた。』『「見よ,あなたの子供は生きた」とエリヤは言つた。』(列王紀略上 17:21-24,アメリカ訳。またモハット訳)ユダヤ人がヘブル語を話して,ネペシはネペシを持つているとか,ネペシはネペシ(『魂』)の中にあると言うのは,極めて難しいものです。しかし,それと同じく人間の魂は魂を持つていると言うのも難しいものです。―レビ 17:10-14,新世。

      人間の霊

      43,44 リシの定義と,対照してみるとき,聖書は人間の霊をどのように示していますか?

      43 しかし,この場合に,伝道之書 12章7節の聖句『しかして塵は本のごとくに土に帰り,霊はこれを賦けし神にかえるべし。』は適用されませんか? そうです。そして,ヤイロの娘を生命に返した時のイエスのルカ伝 8章54,55節(改訳)の記録『その手を取つて,イエスは「子供よ,起きよ」と言つた。そして子供の霊は戻つて,すぐに立ち上つた。』は適用されませんか? そうです。すると,このことから,エリヤが寡婦の死んだ子を生命に返し,イエスがヤイロの娘を生命に返す以前,彼らの霊は霊の世界に生きていたということなのでしようか? そして,その霊は賦け主の神に戻り,神と共に存在したということでしようか? いいえ,そのようなことはありません。『霊』とは,リシの説明するごとく,『全部の特質を持つ一個人のエーテル体で……人間の肉体部分の全き対当物』ではないからです。聖書によると,霊(ヘブル語でルアフ,ギリシヤ語でニューマ)は,神の見えざる活動力で,生命を惹き起し,生かさせるものです。

      44 ヨハネ黙示録 11章8-11節(新世)にこう書かれています。『彼らの屍は,大いなる都の大道に横たわるであろう……そし三日と半日の後に,生命の霊は神から来て彼らの中に入つた。そして彼らは立ち上つた。』また,骨の充ちた谷についてのエゼキエルの幻にもこう述べられています。『主ヤウエ,これらの骨にかく言いたもう。視よ,我汝らの中に,霊を入しめて汝らを生しめん。……我見しに,筋その上に出きたり,肉生じ,皮上よりこれを蔽いしが,霊その中にあらず。彼また我に言いたまいけるは,人の子よ霊に予言せよ,,人の子よ予言して霊に言え。主ヤウエかく言いたもう。霊よ,汝四方の風より来り,この(呼吸をしない)殺されし者共の上にいきふきて是を生しめよ。我命ぜられしごとく,予言せしかば,霊これに入りてみな生き,その足に立ち甚だ多くの群衆となれり。』― エゼキエル 37:5-10。ロザハム訳。またヤング訳,リーザ訳。

      45,46 (イ)人間の生命を存続させて,回復させることについて,全能の神は何をなされると聖書は示していますか?(ロ)このことは,イエスの場合に,どのように明白に示されましたか?

      45 ヱホバ神は,生命を与える霊,または生命を与える目に見えない活動力の源です。それで,死体が元の土に戻るとき,その霊,つまりその体に活気を与えたその活動力はかの源に戻ります。その霊は,体内における機能を中止します。それで,その人間が再び生きるための力は,生命の源である神に依存しています。神はアダムとエバに死を宣告したため,ふたりから生ずる子孫はみな罪に定められています。そして,人間が死ぬときに神は,その生命の力を要求します。なぜなら,人間はアダムとエバからの罪を相続したため死に定められているからです。神の公正な律法は,人間からその生命の力または霊を要求します。そしてそれは神に戻ります。神がその罪をなくして,取り除くとき,救われたアダムの子孫たちにその霊である見えざる活動力を与えて再び生かしめます。それで,霊感をうけた詩篇は,神に向つてこう述べているのです。『なんぢ御面をおおいたまえば彼らはあわてふためく。なんぢ彼らの霊を取り給えば,かれらは死にて塵にかえる。なんじ御霊をいだしたまえば,すべてのものみな造らる。なんぢ地のおもてを新にしたまう。』― 詩 104:29,30,ロザハム訳。またヤング訳,リーサー訳。

      46 イエスがヤイロの娘の手を取つて『子供よ,起きよ』と命じたとき,子供の中に入つたのは,呼吸によつて持続されるこの生命の力です。神はイエスの言葉を聞き,その生命を与える活動力を働かして,子供の体を生かせて再び呼吸を為させ,そして地の塵に戻らさないようにしました。イエスがカルバリ上の杭にかかつて死ぬ時,『父よ,あなたの御手に私の霊を委ねます。』と神に言われたのは,そのような霊あるいは生命力を意味して言われたのです。(ルカ 23:46,新世)それから3日目に,神はイエスを死人から復活してその霊または活動力を恢復させられました。(使行 2:22-28,32-36)それで,伝道之書 12章7節を用いて,死んだ人間の不滅の霊は霊の世界にあり,いままでにない大きな生命や,知識や,自由を楽しんでいるとか,また善い霊も悪い霊もみな神に戻つたなどと教えることはできません。むしろ,すべての人間は死の宣告下にあつて,年を取つて死なねばならぬことを証明しています。そして,人間が死ぬとき,神の正義の律法は彼らから生命の力を要求するため,その体は塵に戻るということを証明しています。

      47 聖書によると,人間の生命は,なぜ地の下等動物の生命よりも勝れていますか?

      47 この面から見るとき,アダムから相続した死の処罰のために,人類は死んでしまう下等動物と似ています。動物は罪の処罰をうけて死ぬのではなく,ただ永遠に生きるということを創造者が定めなかつたためです。霊感をうけた賢人は,人間の霊は下等動物の霊のようであると示し,こう述べています。『我また心に謂けらく,是事あるはこの世の人のためなり。すなわち神はかく世の人を検してこれにその獣のごとくなることを自ら暁らしめたまうなり。世の人に臨むところの事はまた獣にも臨む。このふたつに臨むところの事は同一にして是も死ねば彼も死ぬるなり。みな同一の呼吸に依れり。人は獣に愈る所なし。みな空なり。みな一の所に往く,皆塵より出で皆塵にかえるなり。誰か人の魂の上に昇り,獣の魂の地に下ることを知らん,』(伝道之書 3:18-21)このことから,動物を生かさせる霊,すなはち目に見えない活動力は,人類を生かさせるものと同じものということが分ります。それで,人間が下等動物より勝つている事柄は,ただ人間の将来についての神の定め,或は神の取り極めだけです。神の過分の御親切により,人間は下等動物よりも勝れたものを楽しみます。なぜなら,信仰を持つ従順な人類が,死ぬことの無い正義の新しい世で永遠の生命を楽しむようにと神は御意を定められ,かつ御準備をされたからです。それで人が死んで体が塵に戻るなら,そのような永遠の生命を楽しむことができません。というのは,その時神に戻る霊は,すべての特質を持つ死ぬべき体の目に見えない不滅の対当物ではないからです。人間の霊についてのそのような考えは,要するに『死後の生存』という教えを支持しようとするため,霊媒術者たちがつくり出した勝手な理論に過ぎません。彼らの『来世』は神の正義の新しい世界ではありません。

      人間の魂は不滅ですか?

      48 霊媒術者の主張のために,聖書は果して人間の魂不滅を教えているか,いないかということを,なぜはつきり確めねばなりませんか?

      48 人間の魂が生きるためには,(1)人間の体と(2)神からの目に見えない活動力すなわち霊が,その体に組み合わされて体の呼吸を始めさせ,生かせねばなりません。このようにして生命を持つ人間は人間の魂です。(創世 2:7)人間の魂は,地の大気を呼吸して,地上の食物を食べねばならず,また人間の魂は引き裂かれたり,牢獄の中に入れられたり足械をつけられたり,剣で切られたり,坑の中に落されたりすることから見るとき,(詩 105:18。エレミヤ 4:10。ルカ 3:35)人間の魂は決して死なない不滅のものですか? 霊媒術は主として人間の霊不滅の信仰に基いています。『死後の生存』という霊媒術の教えは,魂の不滅に基いています。そして,聖書の中には,死後の生存ということや生者と死者のあいだの連絡ということが多く書かれていると,言います。霊媒術がそのように主張していることから,聖書は人間の魂不滅を教えていて,死後の生存を可能にしているか?という特別な質問を調べなければなりません。

      49-53 不滅という言葉は,聖書に幾回出ていますか? それぞれの意味は何ですか?

      49 聖書の中には,もちろん不滅という言葉が書かれています。しかし,人間の魂は不滅を持つていると聖書は述べていますか? 聖書を見てごらんなさい。『不滅』という言葉は只の一度もヘブル語聖書中に出ていないのに驚かれることでしよう。そして,キリスト教ギリシヤ語聖書の中では,『不滅』と訳されているギリシヤ語の言葉アタナシアは,僅か3回しか出ていません。いまその3回を検討してみましよう。

      50 『朽ちるものは朽ちぬものをつけ,死ぬものは不滅をつけねばならない。しかし,朽ちるものが朽ちぬものをつけ,死ぬものが不滅をつけるとき,聖書(イザヤ 25:8)に書かれている言葉「死は永遠に呑まれる」は成就するであろう。』(コリント前 15:53,54,新世)ここで使徒パウロは,クリスチャンがうける死からの復活を論じています。そして,忠実なクリスチャンたちが死から,どのように甦り,またどんな体を持つかを示しています。彼らはもはや不滅性を持つているとか,不朽性を持つているなどと,パウロは言つていません。彼はロマ書 2章6,7節で,神は『その業に従つて各人に報いる。耐え忍んで善き業を行い,栄光と誉と不朽性を求める者たちには,永遠の生命を与える。』(新世)とクリスチャンたちに告げています。不朽性と不滅性は,将来に与えられる報いであつて,忠実なクリスチャン達が死人から復活されるときに与えられるのです。この復活および不朽性と不滅性をつけることは,死んだときになされるのではなく,イエス・キリストの再臨のときになされ,そのときイエスは御自分の忠実な弟子たちを死からよみがえします。『丁度アダムにいる者はみな死んでいるように,キリストにいるものはみな生かされるであろう。しかし,めいめいはそれぞれの順序がある。キリストは最初の実であり,後にキリストの臨在されるあいだ,彼に従う者たちとなる。死人の復活もそれと同じである。それは朽ちるものに播かれて,朽ちぬものによみがえされる。……私たちは変化をうけるであろう。』― コリント前 15:22,23,42,52,新世。

      51 人間の魂について何も言われていないのに注意しなさい。前に二度出ているアタナシアつまり不滅という言葉は,人間の魂が生まれつき不滅であるということを教えているどころか,それとは全然逆のことを教えています。

      52 残つている第3番目のアタナシアつまり不滅という言葉は,次の引用聖句の中に述べられています。『私たちの主イエス・キリストの現われる時まで,責むべきところのない正しい仕方でいましめを守りなさい。幸にしてただ一人の力ある方は,その定めの時になつて表われる。キリストは王の王であり,主の主であられる。彼はただひとり不滅を持つ。』(テモテ前 6:14-16,新世)ここで,使徒パウロはテモテに次のことを語つています。つまり,王や主として支配する地上の主権者で,不滅を持つていると主張しても,彼らの中のひとりとして不滅を持つている者はいない。しかし,『幸にしてただ一人の力ある方』イエス・キリスト,すなわち王の王,主の主だけが,死から復活された後に不滅を持つている,というのです。異教のバビロン人や,エジプト人や,ギリシヤ人や,ローマ人やヒンヅー人は,生まれつき不滅を持ち,かつ人間の魂は不朽であるという異教の教理を教えたのです。不滅にして「不朽の神」は,イエス・キリストを死人からよみがえして,彼に初めて不滅と不朽を与えました。このイエス・キリストはまた,神の御国についての良いたよりを伝道することにより,不滅と不朽に関する真理を始めて明らかにした方です。『さて,それは私たちの救い主キリスト・イエスの現われることにより明白にされた。彼は死をなくし,かつ良いたよりを通して生命と不朽を明らかにされた。』― テモテ後 1:10とテモテ前 1:17,新世。

      53 この第3番目のアタナシア即ち不滅の使い方から,地的権力者にせよ,独裁者にせよ,王にせよ,主にせよ,あらゆる人間は生まれつき人間の不滅の魂を持つているなどということが,全く否定されています。ローマ・カトリック訳聖書の出所不明な経外書の『旧約聖書』の中に,『不滅』そして『不朽』という言葉はたしかに出ています。しかし,これらのところからも,人間の魂が生まれつき不滅であるということを示してもいなければ証明もしていません。例えば,伝道之書 17章29節(ドーエイ訳)は,明白に『これらのものは,すべて人の中にあらず。人の子は不滅にはあらず。』と述べています。また,伝道之書 6章16節と智恵之書 1:15; 2:23; 3:1,4; 4:1; 6:19,20; 8:13,17; 15:1,3を見てごらんなさい。これらの聖句は,みな不滅が将来に得られる褒賞であり,生まれながらに持つているものではないと,示しています。

      人間の魂は死にますか?

      54 聖書の新世訳は,人間の魂が死ぬということを,どの程度に示していますか?

      54 人間の魂は,生まれながらに不滅であるという教えは,聖書の中に述べられていません。それでは,人間の魂は滅びるべきもので,死ぬものと,聖書は言うべきであります。聖書はそう述べていますか? たしかにそう述べています。しかも,子供でも理解できるような分り易い言葉で述べられています。霊媒術者や,ローマカトリック信者や,キリスト教国の他の宗教は,人間の魂が死なないもので不滅のものであると示す聖句をひとつも提出できません。それで,人間の魂が死ぬべきものと証する聖句をひとつでも提出するなら,全く十分なはずです。しかし,そのことを証する多くの聖句を提出することができます。創世記 1章20節の後にあるヘブル語ネペシとギリシヤ語プスケをいつも『魂』と翻訳している聖書の新世訳は,他のいかなる翻訳にも勝つて,人間の魂が死ぬという聖書の教えを良く示しています。

      55-57 最初の人間の魂の死に関する聖書の教えの4つの基礎的原理とは何ですか?

      55 エデンの最初の庭,つまりパラダイスで,完全な人間の魂であるアダムとエバは死ぬ必要はなかつたのです。この二人の完全な人間は,地上のパラダイスで永遠に生き得たのです。どのように? ヱホバがエデンの園で供給された自然の食物を食べることによつて,その人間としての有機体を保ち,かつ見えないところからヱホバが彼らに語つて供給される霊的な食物を従順に食べることにより,その心と気持を養うことによるのです。しかし,神は彼らに警告を与えられ,たとえ彼らが神の御準備を用いて,地上で永遠に生き得る能力を持つていようとも,しかし,彼らは死ぬべきもの,死に得るものと語られました。創世記 2章は,最初の人間の魂であるアダムをつくられた神の創造について述べてから,さらにこう述べています。それからヱホバ神は,その人間を取つてエデンの園に定住させ,人間に園を耕させ管理させた。ヱホバ神は,また次の命令を人間に与えられた。『園にあるどの木からも,満足するまで食べてもよい。しかし,善と悪を知る木については,その木の実を食べてはならない。なぜならば,その木の実を食べる日にお前は必らず死ぬであろう。』(創世 2:15-17,新世)もし魂であるアダムが神の命令に従わないなら,魂であるアダムは死ぬでしよう。もし魂であるアダムが神の命令に従つて,この禁ぜられた木をのぞき,エデンの園にあるすべての木の実を食べるなら,魂であるアダムは従順であるかぎり生き続けることができます。人間の魂は,永遠に生き続ける機会を持ちました。といつて,それは霊の世界の中ではなく,エデンの地的パラダイスの中で,人間としての完全さを保ちつつ生き続けることです。

      56 アダムが神の命令に背いて,妻の手から禁ぜられた木の実をうけとり,そして食べた後に,神はアダムに死の宣告を与えて,こう言われました。『地に戻るまで,顔に汗を流してお前は食物を食べるであろう。なぜならば,お前は地から取られたからである。お前は塵であるから,塵に戻るであろう。』(創世 3:17-19,新世)神が次のように言われなかつた事に注意して下さい。「お前の体は塵に戻るが,お前の霊は体から自由に解放されて,私の住む見えざる世界で,意識を保ちつつ生き続けるであろう。なぜなら,お前の霊は不滅であり,私には亡すことができないからである。」神はそのようには言われずこう言われました。「お前(お前の体ではなく,魂であるお前)は,土から取られたのであるから土に戻るであろう。お前(魂)は塵であり,お前(死の宣告下にある魂)は塵に戻るであろう。」

      57 生ける魂であるアダムは,活気づけられた塵,又は生気づけられ,かつ生命を与えられて生命力を持つ塵の形であつて,それが人間の形につくられたものに過ぎません。他の陸上の動物とまつたく同じものです。死の宣告を実施するため,神はエデンの園から人間を追放しました。なぜ?『ヱホバ神は言われた。「人間は私たちの一人のようになつて,善と悪を知るようになつた。それで,人間が手を出して生命の木の実を取つて食べ,永遠に生きることのないようにするため ―」そうヱホバ神は言われて,人間をエデンの園から追い出して地を開墾せしめられた。人間は地から取り出された(いまは,その地に戻らねばならない)ものである。このようにして,神は人間を追い出され,エデンの園の東にケルビムと剣の燃える刃とを置かれた。その燃える刃は,生命の木への道を守るために絶えず自転していた。』(創世 3:22-24,新世)神は生命の木からアダムを遠ざけました。それは,アダムの体だけが死んでも,その霊は霊の世界で生き続けて霊の世界で不滅の旅を始め,前よりも多くのことを知つて,より一層自由になり,かくして創造者に背いて死ぬことにより,実際の益を受けるなどということのないためです。神はエデンの園からアダムを追放して,生命の木から遠ざけましたが,それは人間の魂であるアダムが,どんな場所であろうとも生きることができず,その存在を止めて,丁度獣と同じく『必らず死ぬ』ためだつたのです。

      58 アダムが930歳で死んだということは,どのように説明されますか?

      58 人間の魂であるアダムは,人間の完全さを失つたものの,エデンのパラダイスの外にある呪われた地で,幾世紀ものあいだ生き続けました。『かく,アダムは息子,娘の父親になつた。アダムの齢は,九百三十年で,そして死んだ。』(創世 5:4,5,新世)アダムが罪を犯して,神が彼を罪に定めてエデンのパラダイスから追放したその日に,アダムは神の目から見ると死んでいる者であり,罪の中に死んでいる者でした。アダムは,不従順の父親になり,不従順の子どもを生じました。この理由のために,使徒パウロはクリスチャンたちにこう告げたのです。『あなた方は過ちと罪の中に死んでいた。その過ちと罪の中にあなた方はかつてこの世の組織制度にしたがつて歩み,また空中の権威を持つ支配者,すなわち不従順の子らにいま働きかけている霊者にしたがつて歩んだのである。』(エペソ 2:1,2,5,新世)その見方から見ると,アダムと同じくエバも『生きてはいても,死んでいるのである。』(テモテ前 5:6,新世)しかし,アダムとエバが罪の中に死んでいるということだけでは,全く死んだということにはなりません。彼らが呼吸するのを止めて,その霊つまり生命を生ぜしめる活動力が,与え主である神に戻つた時,最初の人間の魂であるアダムとエバは死にました。アダムは,千年より70年少い年数だけ生きました。もし,使徒ペテロの『ヱホバにとつて一日は千年のようであり,千年は一日のようである。』(ペテロ後 3:8,新世)という時の計算法を使うならば,アダムとエバはその禁ぜられた木の実を食べた『日に』確かに死にました。アダムは,人類存在の最初の千年の日に死にました。(次号につづく)

  • ヱホバの証者間の神権制度
    ものみの塔 1955 | 11月15日
    • ヱホバの証者間の神権制度

      1919年以降の20年間,会衆制度の神権組織を学ぶため,証者たちは訓練され教育が与えられてきました。この間,ある『選出長老』は,この新しく神から与えられた指導権に,こと更に反対する気運を示してきました。ヱホバの聖霊又は活動力が制度の上に働いて,統治上の変化をもたらし,神権的な,神の指導し給う新世社会が形成されつつあつたことをそれらの人々は悟ることができませんでした。1922年以後のいずれの年度報告も制度という課題に言及し御国伝道者のこの問題に対する認識を深めさせました。また制度にいどんでいる最大の敵はサタンであることも,証者たちは悟つてきました。次に1932年8月15日及び9月1日号の『ものみの塔』は,連続して,『ヱホバの制度』を説明して居ます。そのうちで,会衆の票により選出された『長老』又は『執事』は聖書的に存在しないものであると指摘されました。そして正しい答は,神の目から霊的に円熟したものが,年上の者(長老)であって,それらの兄弟たちが監督(エピスコポス)として,又は奉仕の僕(ディアコノイ)として行動すべきことが説明されました。全世界の霊的に目ざめた会衆から,これら役員を会衆内から取除くとの決議が協会の本部に送られてきました。それら会衆は,協会により任命された奉仕指導者に信頼の念をただちに披瀝しました。そして『選出長老』に代るものとして票により,会の司会者と10名を越えない奉仕委員を選択するようになつたのです。これらの僕たちは,協会任命の指導者の援助にあたります。この伸びつづけていた野外奉仕に参加を拒絶した(そして彼らの活動範囲をたんに地方の会衆伝道にだけとどめていた)沢山の『選出長老』は,このときに,証者の列から脱落して行きました。

      (次の記事を熟讀して下さい)

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