-
ガンジー ― この人物を形作ったものは何か目ざめよ! 1984 | 7月8日
-
-
を尊重しなければなりません。カースト制に基づく差別は敬意というものを否定するので,人々は苦しみます。その人たちの苦しみはもはや無言の苦しみではなく,犯罪や暴力の統計に現われています。そこで次のような質問が生じます。ガンジーの理想は功を奏したでしょうか。インドにおける非暴力はどんな状態にありますか。ガンジーの理想は世界全般にとってどれほど実際的なものでしょうか。
-
-
暴力の世における非暴力目ざめよ! 1984 | 7月8日
-
-
暴力の世における非暴力
ボンベイでの生活は絶え間ない雑踏の中での生活です。昼間は街路に人があふれ,夜になると,10万人以上の人が舗道で夜を明かします。
インドのほとんどの都市や町はそのような状態にあります。つまり人があふれていて,極端に貧しいのです。住宅ときれいな水はほとんどなく,食糧は貴重です。
自分が横3㍍縦4㍍の部屋に,5人ないし8人の人々と一緒に生活する様を,少しのあいだ頭の中に描いてみてください。部屋のすみが貸間にしてあったり,人々が交替で寝たりするかもしれません。生活の大半は路上や舗道の上で送ります。毎朝歩いて近くの水場に行き,バケツで水をくみますが,水は汚染されています。長時間重労働に携わっても,得られるお金はその日家族がやっと食べてゆけるだけの額にすぎません。どんなに一生懸命がんばったところで,事態を変えることはできません。周囲にいる人たちが飢えや病気で毎日のように死んでゆくのを見ます。絶望感で意気阻喪してしまいます。
でも,そのような人には少なくとも生活基盤があり,家があります。ところがご多分に漏れず,インドにも別の面があります。自分の家と呼べる場所を持たず,どぶや道端に近い,建物の間やすきまに居座っている人々です。そうした人々は疎外された人たちの部落を形作っています。老人も若い人も,女も子供もおり,着る物も満足になく,死にかけています。その人たちは十分に物を食べたことが一度もない人々です。そうした人々の望むことと言えば,その日一日を生き延びることだけなのです。
これは楽しい情景ではありません。言うまでもなく,どこでも同じですが,インドにも裕福で教養のある人々がいます。しかしそうした人は少数派です。人口の着実な増加に伴って,貧しい人々の階級が裕福な人々の数をしのぐようになりました。この派手な消費と,かろうじて生きてゆくだけの生活との対立が,暴力行為のおぜん立てをするものとなります。
暴力の傾向
「不景気と変化というゆがんだ針金でぐるぐる巻きにされたインドは,いまや暴力のあふれる,残忍な,醜い社会になっている」と,バハバニ・セン・グプタは自分の書いた,「インドは文明化されているか」という記事の中で述べています。インドでは,依然として毎年幾千人もの若妻が十分の持参金を持ってこなかったという理由で姻戚や夫の手で生きながら火あぶりにされています。200万人ほどの女性が婦女暴行に遭い,さらに幾十万ものほかの犯罪が起きています。5万人もの人が失意や絶望に打ちひしがれて自殺しますが,その大半は若い男女です。1978年には9万6,488件の暴動がありました。全国的な規模での幅広い犯罪統計は1978年以降ほとんどありませんが,このような断片的な報告から犯罪が減少せずに続いていることが分かります。
インドの社会学者S・C・デューブによると,犯罪や暴力の傾向を助長しているのは,人々の望むものと実際に得るものとの間に大きな隔たりがあり,特権階級がより大きな分け前を求める恵まれない人々の高まりつつある要求から自分たちの蓄積した利得を守ろうとしている状況です。
暴力や残虐行為は都市に限られたことではなく,地方でも爆発的に増えています。インドの経済学者B・M・バーティアによると,地方での暴力行為の発生率が高くなっているのは,「地主と土地を持たない労働者の間のみぞが広くなっている」ことの結果です。そのために,人命や資産に大きな被害が出,価値観がひどく損なわれています。「弱者や貧者たちはもはや,権力者や金持ちの力と欲に屈する雰囲気にはない。彼らは殴り返すようになり,自分たちの権利を主張し始めた。古代からの伝統ある金持ちの暴力に,新たに起こった貧者の暴力が加わった」と,グプタは書いています。
色あせた夢
「私は……インドが非暴力を国の信条とし,人間の尊厳を保つことを,最後の息を引き取る時まで希望しなければならない」と,ガンジーは1938年に書きました。それから46年後,インドは多くの種類の社会的暴力に揺れています。そしてグプタによると,「インドは人間の尊厳を守ることもできないでいる」のです。
タイムズ・オブ・インディア紙によると,ガンジーの音信に人気があるにもかかわらず,「空前の暴力が国じゅうにまんえんし,追いはぎ行為,婦女暴行,および強盗が日常茶飯事になってきている」とのことです。
インドに対するこの評価は,世界のほかの国々にも当てはまります。ほかの多くの国々に住む人々にはインド人の多くに与えられていない教育が与えられていますが,インド以外の世界の国々もやはりガンジーの挙げた七つの社会悪に染まるという過ちを犯しています。すなわち,『節操のない政治,労働によらない富,良心のない快楽,徳性のない教育,道徳心のない商業,犠牲の伴わない崇拝,および人間性のない科学』です。確かに,非暴力に基づく世界というガンジーの理想は色あせた夢となっています。
計算の上では,今から15年後にインドの人口は10億になります。その内の6億人は貧困に打ちひしがれていることでしょう。3,000万ないし5,000万人の若者は失業しているかもしれません。このような統計は不吉な将来を描き出します。
非暴力というガンジーの崇高な訴えは,それが芽を出したインドで真に根を張ることができませんでした。なぜでしょうか。その失敗の原因は,音信そのものにあるのではありません。また,ガンジーが悪いわけでもありません。ガンジーの目指したものは確かに博愛的なものでした。しかし,ガンジーは人間にすぎませんでした。彼が教えることのできた事柄もその教えを受けた人の数も限られていました。人々は学んでも,すぐに忘れてしまいます。歴史はその事実を証言しています。
それでは,人々が非暴力を貫くのは不可能なのでしょうか。インド人だけではなくて,平和に生きるよう全人類に教えることのできる人がいるでしょうか。それにはどんな種類の教育が関係していますか。非暴力の世界がいつの日か実現するでしょうか。
[8ページの図版]
インドの都市の典型的な街路の風景
-
-
非暴力は世界中で現実のものとなりますか目ざめよ! 1984 | 7月8日
-
-
非暴力は世界中で現実のものとなりますか
「人生は単に生き延びるかどうかの問題ですね」。一人の女性はボンベイへ向かってスピードを速める満員の列車の中でそう言いました。その人は,容赦なく降る雨期の雨につかった貧民街が幾キロも続いて美観がすっかり損なわれた景色をながめていました。「近ごろの人々は価値観というものを持っていません。だれも自分以外の人のことは考えなくなっています。伝統的な価値観でさえ,その影響力を失ってきています」とその女性は言葉を続けました。
この女性の観察は,定まった倫理的価値観の体系を何ら持たずに存在している無数の人々の生活を反映していました。貧富の別を問わず,そうした人々は受け継いだ道徳律をさえ,現代の生活には役立たないとか現代の生活をあまりにも拘束しすぎるとして,退けたり放棄したりしています。そうした人々は,自己の法則,つまり自分が生き延びることと自己満足とをもってそのような道徳律に代えています。
安定をもたらす価値観が全くないために,苦もんや怒りを味わうようになった人は少なくありません。暴力のあふれる世にあって,自己防衛はごく普通の戦術となっています。そして,大勢の人々が『攻撃は最大の防御』と信じているために,暴力は,言葉によるものであれ腕力によるものであれやはり暴力を生み出します。
『危険に満ちた時代』
全人類の創造者はこのような時代,つまり人々が神から与えられた価値観を退け,そのためにもがき苦しむ時代が来ることを予見しておられました。その結果は,2,000年近く前に言い表わされた知恵の言葉の中で,わたしたちのために明らかにされています。「しかしあなたは,終わりの日に,その時代が危険に満ちたものとなることを認識しなければなりません。人々は全く自己本位になり,金銭に貪欲で,大言ばかり吐くようになります。彼らは誇ったり,人を侮辱したり,親から教わった事柄を全然顧みなくなります。彼らは感謝の念や,崇敬の念や,正常な人間の愛情の全く欠けた者になります。……彼らは見せ掛けだけの『宗教』を維持しますが,彼らの生活はその真実さを否定するものとなります」― テモテ第二 3:1-5,J・B・フィリップス訳「現代英語の新約聖書」。
-