小さな技術者
一流の土木技師,建築家,発明家および技芸家として,地位の低いトタテグモがあげられます。比較的温暖な地域に生息するこのクモは,穴掘りのすぐれた技術を持っているため,彼女だけでひとつの部類に分けられています。ここでは,わざわざ「彼女」という女性形を使います。というのは,トタテグモの雄は雌の巣作りに全く関係せず,自分の見つけた穴や割れ目で雨露をしのぐ放浪生活をしているからです。また発情期においてさえ雄は雌の前をおそるおそる歩かねばなりません。雌は雄を襲って食べたりすることさえあるからです。
クモの主要な関心事のひとつは生き残ることです。ある観察者はこう述べています。「どの種類のクモにも,自分よりはるかにすぐれた力や敏しょう性,あるいは両者をかねそなえた多くの敵がいる。翼を持ち機動力のある敵……非情ですばやい攻撃をしかけ,恐ろしい毒矢のような針で相手を殺す敵,また,からだの軟いクモの武器が役だたないほど堅いうろこに身を包んだ敵がいる」。あなたはクモを恐れておられるかもしれませんが,クモのほうがあなた以上の恐怖を感じているのです。
そこで,トタテグモのアチパス婦人は,自分と子供たちの隠れ家を作らねばなりません。隠れ家の「はねぶた」を見ると,彼女の器用さがわかります。あまりにも巧みに作られているので,黒い地面に点在する,絹で作ったような彼女の戸ぶたはほとんど目だちません。アチパス婦人は,その硬貨大の戸をどのような方法でそれほどじょうずに隠すのでしょう。
アチパス婦人の家は地面に掘った深い穴であり,彼女はその内側を絹のような糸で上から下まで裏うちします。戸ぶたには,絹で編んだ精密なちょうつがいをつけます。つぎにカモフラージュです。近くから採ってきた生きたコケを入口の外側に植えてそれを巧妙に隠し,また,ふたに枯れ葉や木片あるいは草の切れ端などを編み込んだりするのです。ゆっくりと家を仕上げるあいだ身の安全を図らねばなりませんから,あげぶたは穴掘りの済むずっと以前に作ります。
この大へん重要な小さい戸ぶたはどれほどじょうぶですか。これにはウェーハース型とコルク型の2種類があり,後者のほうがじょうぶで,それを小刀でこじあけようとしてその歯がたわんだと伝えられるほどです。外部から敵が近づくと,巣の中のアチパス婦人は戸ぶたの所に急行してするどい口先を戸の中に埋め,絹で内張りしたような穴の内壁にかぎづめを深く差し込みます。こうして,彼女のからだは侵入者を防いで戸を締める生きたかんぬきの役目をするのです。
むかでのように比較的大きな敵のほかにもいろいろな外敵がいます。子供たちを雨や小さな寄生動物から守らねばなりません。あげぶたはきっちり取り付けられているので,水滴やしらみの侵入をくい止めます。ですから彼女は足長の40匹の子供たちをかなり安全に育てることができるのです。この「地中の穴」の家はぜいたくな避難所です。
ところで建築技術をちょっと見てごらんなさい。アチパス婦人は8時間ほどの間に彼女の身長の9倍に相当する深さを掘ります。これを人間の場合にあてはめると,ひとりの人が,支柱でささえをしながら8時間ほどの内に約15メートルの穴を歯で掘ることになります。さらに,そのあいだ中,敵の攻撃に備えなければなりません。事実,アチパス婦人が働いているあいだにも,「ペプシス」というすずめばちに似たはちの一種が,すきをねらって彼女を毒針で刺し殺し,その足をかみ切ってさらって行こうとしてあたりをうろついているからです。
さて彼女の働きぶりはなんとすばらしいのでしょう。大あごと口だけを使って,掘った土の小さな固まりをひとつずつ運び,たて坑の外に捨てます。穴の内側に施された絹の内張りは,家をここちよくし,土の壁をささえるほか,実に実際的な目的を持っています。アチパス婦人が家事や育児にいそしむ時,それが土の壁よりずっと安全な足場となるからです。
彼女の機動性に比べると,人間の使う掘削機はぎごちなく不器用です。そのうえ,彼女の作業には,人間の掘削機につきものの騒々しい音が伴いません。アチパス婦人は工学や設計の学位を持っているわけではありません。生物,無生物を問わず,あらゆる物を設計し創造された偉大なかたが,環境に対処する生来の能力を与えられたのです。