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  • 残酷な迫害に耐えて忠実を保つ
    ものみの塔 1963 | 8月1日
    • は大きな喜びを感ずることでしょう。

      初期クリスチャンの場合にも,正しい考え方をしたことが,試練にあったときの大きな力となりました。ある時,使徒たちはむち打たれたうえ,イエスの名を使って教えてはならないと命ぜられました。使徒はどんな態度をとりましたか。使徒行伝 5章41節によれば,「使徒たちは,御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら,議会から出てきた」。

      パウロとシラスはあるとき牢獄の奥深くにつながれ,足かせをはめられていました。二人はどう考えていましたか。「真夜中ごろ,パウロとシラスとは,神に祈り,さんびを歌いつづけたが,囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」。(使行 16:25,新口)なぜ迫害されているかを知り,正しい考え方をしたので,ニ人はエホバを賛美できたのです。

      ひとりひとりの責任

      クリスチャンの行いは,他の人に感化を与えます。信仰を捨てる人は,他の人に悪い影響を与えるでしょう。鉄砲を持ち出してクリスチャン兄弟を射つことは,たとえ妥協した人でも夢想だにしないでしょう。しかし妥協することが他の人に悪い影響を与え,そのために他の人まで忠実を捨てて,神の新しい世の生命を失う破目になれば,妥協の結果はきわめて悪いと言わなければなりません。

      妥協することによって,その場の苦しみを逃れても,いったいどんな価値のあるものが得られますか。一時的に苦しみを逃れても,復興される神の楽園で永遠につづく生命を失ってしまうのです。また妥協する人,とくにそのために他の人をつまずかせた人は,良心に責められて,心に安らぎを得ないでしょう。最も重要なことに,妥協する人は世を友にして神の敵となります。―ヤコブ 4:4。

      エホバの民の忠実な人々,たとえば神の見える制度の忠実な監督にならうことが必要です。しかしたとえ監督が道を離れても,そのために自分の忠実を捨ててはなりません。他の人の行いのためではなく,自分が神を深く愛し,正しいことを愛するゆえに固く立つのです。レビ人は他のイスラエル人が黄金の小牛を作った時にも忠実を守り,イエスの11人の使徒は,ユダが妥協しても神に奉仕することをやめませんでした。―ヘブル 13:7。出エジプト 32:26。使行 1:13-17。

      監督の場合,更に責任が重くなります。監督の行いは多くの人に感化を及ぼすため,監督が弱くなって妥協してしまうならば,他の人の血に対する責任はいっそう重いと言わねばなりません。しかし試練のときにも忠実な監督は,クリスチャンの兄弟にとって「風をさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,かわいた所にある水の流れのように,疲れた地にある大きな岩の陰のように」なります。―イザヤ 32:2,新口。

      迫害された時どうすべきか

      迫害,とくに肉体を苦しめる残酷な迫害にあうとき,クリスチャンはどうすべきですか。まずこのような迫害にあう理由を,知らなければなりません。また自分の力や他の人の力に過信しないように注意すべきです。迫害されて肉体に苦しみを受けるとき,人の肉体の力はすぐにつきてしまいます。

      クリスチャンの最大の守りは,神に対する愛と神に対する全き信頼です。たとえ肉体の力はつきても,エホバに頼るとき,精神力はおとろえません。苦難のとき,神は人の力にまさる力を与えて下さるでしょう。詩篇 46篇1,2節はそのことを約束しています,「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに……われらは恐れない」。

      神と神のお目的を絶えず思いなさい。聖書と聖書の文書をとりあげられても,神のことばを思い,それを心にとめなさい。神の新しい世の幻をまぶたに描きなさい。なによりも絶えず祈りなさい」。(テサロニケ前 5:17,新口)祈りによって神と語ることは,どうしても必要です。祈らないと,その時の苦しみだけを思って,肉の欲するところをしたいという気持ちに負けます。心が正しければエホバの助けを得て,迫害に打ち勝てるでしょう。「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである」。―コリント前 10:13,新口。

      迫害のないうちに準備しなさい

      迫害に対しては前以て備えておくことが必要です。迫害がなぜ許されているかを考え,とるべき道をいま考えておけば,迫害がきてもそれに対する心がまえができていることになります。

      人は信仰,勇気,忠実を日毎に強め,まし加えなければなりません。どれだけ耐えるかは信仰の強さに比例し,信仰の強さは神に対する愛の深さに比例します。神への愛は知識を増し加えるにつれて深くなるものです。聖書を読み,学び,他のクリスチャンと交わって,そうする事から得られる深い確信を抱かねばなりません。また真理に生きることが必要です。真理を自分の身につけ,生活の上に真理をいかさなければなりません。そうするとき,日々,小さな試練を経ることになります。それに打ち勝ってゆくとき,後日臨むかも知れない大きな試練に耐える力が得られるのです。それにひきかえ,いまの日常生活において神の御心を行なうことをさしひかえているならば,後日激しい試練にあたって立つことができないでしょう。神とそのお目的について,いまできるだけのことを学んで下さい。学んだ事を心の奥におさめ,何事をするにもその知識に従って行なって下さい。試練のとき,神に頼るのは神を知る人です。その事を忘れてはなりません。

      いまは世界史上において最大の危機のとき,神の民がふるわれ,試みられる時です。間もなくサタン悪魔はエホバの崇拝者に最後の総攻撃をしかけるでしょう。クリスチャンは神に全く信頼してこの残酷な迫害に耐え,勝利を得ます。クリスチャンは忠実を守って神にほまれと栄光を帰し,救いを得ます。「エホバを俟望みてその途をまもれ,さらば汝をあげて国をつがせたまはん,なんぢ悪しき者のたちほろぼさるる時にこれをみん」。(詩 37:34)残酷な迫害にも耐えて忠実を守る人にとって,これは大きな励みではありませんか。

  • 異言をかたるのは真の崇拝のしるしですか
    ものみの塔 1963 | 8月1日
    • 異言をかたるのは真の崇拝のしるしですか

      キリスト教国の宗派には,異言を語ることを重要視している派が少なくありません。そして真の崇拝には,異言を語ることが是非とも必要であると主張されています。このような宗派の出版物のひとつから引用しましょう。「我々は,五旬節の日にさずけられたと同じ聖霊のバプテスマを受けるべきである。聖霊を受ける者はすべて異言を語るであろう」。

      世紀の変り目ごろアメリカで起きたリバイバル運動の中に,異言を語ることを特色とする運動がありました。一般的に言うとアメリカの聖霊降臨派の諸教会はこの運動に端を発してその後大きくなったものです。1906年のこと,この種のリバイバルのうち最も顕著なものがカルホルニア州ロサンゼルスで起きました。「突如として天から」

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