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    ものみの塔 1972 | 12月1日
    • にしてその生命はキリストとともに神の中に隠れ在ればなり。我らの生命なるキリストの現れたまふとき,汝らもこれとともに栄光のうちに現れん』― コロサイ 3:3,4。ガラテヤ 2:20。コリント前 15:51,52。黙示 14:13。

      キリストの「他の羊」

      しかし,この時代にキリストの霊的な兄弟の仲間である者たち,つまり,キリストとその共同の王また祭司による天の政府のもとにおける地上で,永遠の命を受けるという希望を持つ「他の羊」の「大群衆」はどうなのですか。聖書の中で彼らは,イエス・キリストの流された血に対する信仰のゆえに白くした衣を着た者として示されています。(ヨハネ 10:16。黙示 7:9,10,14,17,新。マタイ 25:31-34,46)彼らは,この世の邪悪な事物の体制に関係していたときのように,罪の道をたどっているのではありません。キリストの名によってエホバ神にささげる祈りを通して,日々犯す罪に対するゆるしを得ているのです。―ヨハネ第一 2:2。

      とはいえ,それら「大群衆」の成員は,キリストと共同の相続者になるようには神から召されていません。また『キリストとともにくいにつけられた者』とされてはいないのです。完全な人間として「義と宣言」されるには,待たねばなりません。しかしたとえ今,忠実のうちに死ぬようなことがあっても,キリストの統治の間に地上で完全にされるという機会の伴う復活を受けます。(ヘブル 11:6。黙示 20:12,13)ですから,今,神から良い名を得るなら,彼らにとっても『死ぬる日は生まるる日にまさる』ことになります。待ち望むべき報いがあるからです。

      そのうえ,もし彼らが,神に対するゆるがない忠誠を保ちながら死ぬなら,当人に満足を,そして他の人々に益をもたらしうるものとなりえます。神はその死をご自分の栄光のために用いることができるのです。これが真実であることは,アフリカ,ナイジェリアに住む忠実な「他の羊」のひとりに関係するでき事によって力強く証明されました。

      「長老派の教会員として育てられたある若者は両親に説得されて,ナイジェリアの内戦の時にビアフラの軍隊に入隊しました。陣営で展開の時を待っていると,多数の若者が微兵のために連れてこられました。その中にはエホバの証人がひとりいましたが,軍事教練を受けることを拒否したため,ひどくなぐられました。それでも彼は決心を変えないので,担当の将校は当人の信仰を捨てさせようと圧力をかけました。それでも拒んだので,みんなの前で処刑にするため射撃班のところに連れだされました。柱につながれ,四つ数えたら銃殺だと告げられました。将校はひとつ数えるたびに休止を置き,証人に決心を変える時間を与えましたが,彼は拒みつづけ,四つ数えた時に処刑されました。

      処刑の状態を見ていた人の中に,ひとりの若い兵士がいました。信仰と忠誠のこの顕著な例を見た彼は,自分の立場を吟味するように動かされました。以前はみな同じ神を崇拝していると考えていたのですが,エホバの証人は違うということを知ったのです。神がもしこの戦争を無事に生きのこらせてくださるなら,徹底的にその神に崇拝をささげようと彼は決心しました。決して銃を手にしないことに決め,台所で働くよう取り決めました。そして戦争が終わるとすぐ,エホバの証人の地方の会衆が開く集会に出席して,聖書の研究を始めました。ほどなくしてバプテスマを受けたいと願い出ました。彼は今,神の王国の良いたよりを宣べ伝えることに全時間をささげる『一時開拓』の期間をはじめて終えたところです」。

      聖書は,「エホバの目にとって,その忠節な者たちの死は貴重です」と述べています。(詩 116:15)これは,キリストと同じような死を経験するよう神が召される者たちにとって特に真実です。また,エホバへの忠実な奉仕に自分の命をささげる者すべてについても真実で,その死はむだになりません。彼らはエホバの主権の正当性に対するあかしとなり,神は,他の人が真理を知り,神への奉仕に動かされるのを助けるために,彼らの死をさえ用いることができるのです。

  • あなたは決して独りではありません
    ものみの塔 1972 | 12月1日
    • あなたは決して独りではありません

      「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり されば…我らはおそれじ」― 詩 46:1,2。

      1,2 ある宣教者が7年間の独房生活を送ったことに対し,ひとりの新聞記者は,どんな反応を示しましたか。宣教者はそれに耐え抜けたことをどのように説明しましたか。

      1965年,中共で7年間独房生活を送ったひとりの宣教者が釈放されました。この宣教者が香港に着いたとき彼を囲んだ新聞の報道陣の中のひとりがこう言いました。「私なら,独りでいることには決して耐えられません。7年間もひとりでいなければならないのでしたら,壁をよじのぼりでもしますがね」。

      2 あなたは,この新聞記者それとも宣教者,そのどちらでありたいと思いますか。その宣教者の力の源は何だったのでしょうか。後日彼は,なぜそれほど長い間孤立した生活に耐え抜けたかを説明しました。エホバのクリスチャン証人として,彼はこう話しました。「わたしたちには考えることがあります。わたしたちの中には霊的な食物があって,それがわたしたちを養ってくれます。それで,信仰にかたく立つことができるのです。初めに研究しておかなければならないことは言うまでもありません。研究しなければ自分の中に力をたくわえられません。ですから,絶えず聖書を研究し,自分を強くし続けることが最善です。そうすれば,困難が生じ,それが自分に臨んでも,『かたく立つ』ことができるでしょう」。

      3 この宣教者の経験は何を例証するものですか。なぜそう言えますか。

      3 この経験は,真のクリスチャンは決して独りでないことを例証しています。信仰のない人にはとても理解しがたいことですが,献身したクリスチャンは決してひとりぼっちではありません。これは真実です。なぜなら,霊的な事柄に関する知識が,力強い仲間のようにいつもそばにいて,それに話しかけることができるからです。そのうえ,いつでも,どんな事情の下でも,全能のエホバ神が助け手としてついていてくださるのです。詩篇 121篇1-3節は,詩篇作者のような信仰を持つものは決してひとりにされないことを示しています。「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまえるエホバよりきたる エホバはなんぢの足のうごかさるゝを容したまはず 汝をまもるものは微睡たまふことなし」。

      失望したり気が沈んだりするとき

      4 絶望や失望のために孤独感に襲われるとき,何をすることができますか。しかしどんな態度を避けなければなりませんか。

      4 獄にいなくても,孤独感に襲われるときはあるものです。落胆したり,失望したり,絶望に陥ったりしたときには特にそうです。失望の原因がなんであれ,詩篇作者が述べているように,心配やざ折感などの重荷をエホバにゆだねることを忘れてはなりません。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をさゝへたまはん たゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ」。(詩 55:22)エホバは,ご自分の民が動かされる,

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