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非常な忍耐は喜びをもたらすものみの塔 1968 | 7月1日
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の手引きを持ってそこへ行きました。タネンブルグの小村もわたしの任命地でした。神の国とそれが人類にもたらす平和の福音を人々に語るのは大きな喜びです。
1931年のこと,ドイツの町ヨハネスブルグ近くの村で,聖書の真理に関心を持つ若い人々に会いました。彼らは土地の教会の聖歌隊のメンバーでした。わたしのことを耳にした牧師は,聖書研究生が来たならば追い払うようにと,説教壇から村人たちに告げました。そのことがあってから,戸別訪問して神のことばの福音を伝えていると,ひとりの男がナイフを持ってむかってきました。わたしは聖書を手に持ち,二歩前進してこう言ったのです,「わたしにはもっと良い武器があります。それはみたまの剣である神のことばです。神の国を伝えている者にむかってナイフなどを振り回すのは卑怯ではありませんか。そんなことをするように,牧師から言われたのですか。隣人を愛せよと言うのがイエスの教えです。あなたは隣人を愛しますか」。男は顔を赤くして何やらぶつぶつ言いながら去って行きました。
聖書を一緒に学んでいた先の若い人たちにこのことを話すと,彼らは憤慨して,そのひとりは教会をやめると言いました。3日後,聖書研究をしている家に牧師がやってきました。勉強していた人たちが牧師に質問し,聖書からの裏づけを求めると,牧師は怒って帰ってしまったのです。真のキリスト教を知った先の若い人たちは次々に教会をやめ,その中の幾人かはわたしと同じように全時間のキリスト教伝道者となりました。
迫害に耐える
エホバの証人であったためにわたしが投獄されたのは,1935年の秋でした。1933年6月にヒトラーの政府は,集会,聖書文書の配布など,エホバの証人の活動を禁止しています。それでエホバ神に仕えるクリスチャンであるゆえに逮捕され,投獄されても,それは驚くべきことではありません。このことが起きた時,わたしはその時まで聖書の個人勉強を怠っていなかったことを感謝しました。それは耐え忍ぶための信仰を持つのに役だったからです。わたしは聖書筆者ヤコブの書いた次のことばをしばしば考えました。「忍び抜いた人たちはさいわいであると,わたしたちは思う」― ヤコブ 5:11。
刑務所でわたしは聖書をとりあげられましたが,他の囚人は聖書を持つことを許されていました。聖書をとりあげてしまえば,信仰が弱くなり,ナチスの用意した宣言書に署名して信仰を否定するに違いないと,官憲は考えたのでしょう。しかし投獄されるずっと以前から個人またグループの聖書研究によって,神のことばの真理はわたしの心に深く刻みつけられていました。彼らはそのことを悟らなかったのです。信仰を強める真理を心の中から奪うことはできません。
ある日,わたしは強盗殺人犯の死刑囚と同じ独房に入れられ,その男は聖書を持つことを許されていました。処刑直前に別の独房に移されたその男が,聖書を置いていったので,わたしは喜びました。そして毎日読んでは多くの聖句を記憶することに努めたのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われたイエスのことばを,わたしは何度も思いかえしました。―マタイ 24:13。
6年を刑務所ですごしてのち,釈放される可能性が生じ,ゲシュタポ(秘密警察)の士官からいろいろなことを聞かれました。6年間の刑務所生活の結果,以前のまちがった考えを改めたかどうか,今でもエホバを信じているかどうかなどです。わたしは今でもなお真の神エホバの崇拝に献身していることを明言し,信仰を否定する宣言書には署名しないと答えました。それでわたしは強制収容所に送られることになったのです。士官はこう言いました,「そこは刑務所とは訳が違う。お前はおとなしくなるだろう。署名を拒絶すれば,殺されるだけだ」。
非常な忍耐
強制収容所では,神の国の福音,心を慰める神のことばの約束を語る機会があるたびに,わたしは喜びを得ました。収容所の病院にしばらく居た時,重病のある若い囚人はわたしにむかって,「御国のことを話してください。あなたのことばを聞くと慰められます」とよく言ったものです。回復の望みがなかったその人は,死者の復活に大きな関心を示しました。神のことばの真理によってその人に希望を与えることができたのは,大きな喜びでした。
その後,腸チブスで入院した時にも,苦しむ人類を救う神の国の祝福を入院患者に語ることができました。やはり囚人である医者が,「君の信仰や喜びは病気の回復を早めるだろう」と言ってくれたほどです。
神のことばの真理を他の人に語るごとに,わたしはエホバを喜ぶことを一再ならず経験しました。視察に来たヒトラー親衛隊の士官に証言したこともあります。エホバの証人が目じるしとして着けることを命ぜられていたライラック色のそで章を見て,ひとりの士官は,「ライラック,こっちへ来い」と言ってわたしを呼び,「お前はなぜ収容所にいるのか」と尋ねました。わたしは神のことばとして聖書を信じていることを告げ,聖書について語りました。「するとお前は聖書研究生だな」と士官は言って,「お前は書類に署名したか」と尋ねました。署名しなかったことを答えると,士官はなぜかとさらに問います。「裏切者になりたくありません」と答えると,「ではお前は正真正銘の聖書研究生に違いない。またいつ平和になるかを知っているだろう」と,士官は言いました。わたしはキリストの治める神の国によってのみ平和が実現することを告げました。
士官は連れの者にむかって言いました,「この連中を見たまえ。投獄されても,すべての持ち物を奪われても,たとえ殺されてもエホバに対する信仰を捨てない。よく働くし,正直な人間だ。しかし戦争には向かない」。これを聞いた囚人たちは,わたしたちを尊敬するようになりました。署名して信仰を否定すれば釈放されるのに,そうしないのは愚かだと言った人々もいます。
遂に来た解放の時
刑務所およびダンツィヒ近くのスタットフの強制収容所で9年あまりすごしてのち,わたしは遂にふたたび自由を得ました。それは900人ほどの囚人が他の場所に移されてのちのことでした。わたしたちは,ひき船に引かれる石炭運搬用の小舟に乗せられました。バルチック海を渡って北ドイツのフレンスブグにむかう途中,看守は病気の囚人の多くを海に投げ込みました。その中にポーランドのエホバの証人イグナッツ・ウクルッエウスキーがいたのは悲しいことです。病人は3メートルたらずの石炭箱の中に押し込められ,身動きができないどころか,重なり合うほどでした。わたしたちが病人と話をしているのを見た親衛隊の兵士は,わたしたちを船の他方の端に押し込めました。
フレンスブルグで連合軍により解放されると,わたしは9年以上前に逮捕されて以来行なうことのできなかったクリスチャンのわざを始めました。神の国の福音を家から家に伝道しはじめたのです。
戦争が終わって直後,公開講演をすることのできるエホバの証人はごくわずかであったため,わたしは多くの村や町で講演をする特権に恵まれました。このような方法で神のことばを語ることができたのは大きな喜びです。ついでものみの塔協会が巡回のしもべと呼ばれる特別な代表者をドイツの諸会衆に派遣しはじめた時,そのひとりに選ばれたことは大きな喜びでした。会衆を強め,霊的な円熟に進むようにクリスチャンの兄弟たちを助け,エホバへの奉仕に忠実に忍耐するように励ますのは,大きな特権です。
1946年,わたしはひとりの霊的な妹姉と結婚し,生涯の伴侶を得て祝福されました。彼女の最初の夫といちばん上のむすこは,戦争中,中立を破ることを拒絶してエホバ神に忠実を保ち,そのためナチスに殺されたのです。結婚以来わたしたちは,全時間のしもべとしてともにエホバに奉仕してきました。
創造者に対する喜びの奉仕を始めてから,すでに42年あまりたちました。その間,忍耐を必要とする多くの厳しい試練にもあいましたが,エホバに信頼し,忠実を保ち,神のことを生活の中で第一にしたゆえに,わたしは豊かに祝福されました。エホバに信頼する者は,クリスチャンの忠実をまげさせようとするどんな試みにあっても,不動の立場を保つことができます。わたしは自分の経験からそう言えます。生涯を回顧してますます確信できるのは,非常な忍耐が遂にははかり知れない喜びと祝福をもたらすということです。―詩 125:1。ルカ 21:19。
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『すべての国の民への証言』ものみの塔 1968 | 7月1日
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『すべての国の民への証言』
エホバの証人の1968年度年鑑より
ハワイ
人口: 773,609人
伝道者最高数: 2,527人
比率: 306人に1人
過ぐる奉仕年度を振り返ると,コリント人への第一の手紙 3章6節にある使徒パウロの次のことばが思い起こされます。「わたしは植え,アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは,神である」。ホノルルの支部事務所は,ハワイ諸島およびマーシャル諸島の伝道活動を監督しています。
4月には3日間にわたるノア兄弟の地帯の訪問があり,南アメリカの大会のスライドの映写や,オアフ島から集まった2143人の人々への話が行なわれて,わざに喜びと活気を加えました。年度末に開かれた3つの地域大会は,新しい奉仕年度にも人々を弟子とするわざに励むように兄弟たちを力づけるものでした。聖書の劇,新しい出版物,1969年の一連の大会に関する発表に人々は特に喜びました。開拓者の精神が高まり,兄弟たちは霊的な必要をますます自覚し,奉仕の特権を喜んでいます。過ぐる年のあいだ神の畑で働き,エホバの祝福によって良い収穫を得たわたしたちは,歴代志略下 31章10節にあるユダの大祭司のことばに全く同感であり,エホバに感謝するものです。「エホバその民をめぐみたまひたればなり」。
日毎に霊的な食物をとるように,不定期また不活発な人を助けるとりきめは,その人々を強め,活気づけ,また霊的な成長を促します。次にかかげる地域のしもべの経験はそのことを物語るものです。ある会衆を訪問した時,父親が不信者で,家族の大部分が不活発な伝道者となっている大家族のことが,会衆の監督との話の中でもっぱら話題となりました。聞いてみると,しもべたちはこの家族を助けるためにかなり努力しており,ほとんどすべてのしもべがその援助のとりきめにいつかは参加しているのですが,成果を得ずに終わりました。聖書を毎日読み,集会の準備をするようにとのすすめも無駄でした。その家族は次第に不活発な状態に陥り,巡回のしもべの訪問中の特別な集会に出席するようにとの勧めにも応じないほどでした。霊的な健康の回復を目ざしてとられたこれらの方法がいずれも功を奏さないので最後の方法として,ひとりの特別開拓者が,毎日その家に寄って日々の聖句と年鑑の一つの経験を話し合うことが提案されました。家族の同意が得られたので,特別開拓者は熱心にそのことを続けました。次にこの巡回区を訪問したおりに地域のしもべがこの家族のことを尋ねてみると,今のところあまりはかばかしくなく,特別開拓者が訪問しても子供たちの多く,そして母親も留守がちであるとのことでした。そこで地域のしもべは,努力をつづけ,討議に参加する人だけでも援助するように特別開拓者を励ましました。この大家族のひとりだけでも援助できるならば,努力のかいがあります。この家族は次第に霊的に目ざめ,集会に出席しはじめ,のちには野外の宣教にも活発に加わるようになりました。毎日の年鑑の討議は,「永遠の生命」の本を
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