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忠誠を保てるよう自分自身を強化しなさいものみの塔 1971 | 12月1日
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忠誠を保てるよう自分自身を強化しなさい
「わたしはといえば,わたしの忠誠のうちに歩みます」― 詩 26:11,新。
1 「忠誠」ということばにはどんな考えが関係していますか。
イスラエル国民の王ダビデは述べました。「わたしは自分自身自分の忠誠のうちに歩(んできました)」。あなたは,自分の人生の歩みについてそういえるようでありたい,自分の人生の歩みを道徳的に健全かつ正直で,堕落した行ないを伴わないものと言えるようでありたいと思われますか。「忠誠」ということばにはこうした考えが関係しています。前述の発言をしたダビデもそうした考えをいだいたに違いありません。忠誠について考えるさい,わたしたちもこうした特質を思い浮かべるべきでしょう。
2 (イ)どうしてダビデは敬虔な特質について述べていたといえますか。(ロ)わたしたちは何をエホバに良心的に願いうるべきですか。
2 ダビデが述べているこの忠誠は敬虔な特質です。なぜなら,ダビデは,「わたしはみずから自分の忠誠のうちに歩み」と述べる前に,「わたしを裁いてください,ああエホバよ」と書き起こしているからです。ダビデは自分が神の目に高潔であることに関心を払いました。あなたもそうしておられますか。あなたは,自分が忠誠な人であることを神に知っていただけると考えながら,わたしを裁き,審査し,試験してくださいとエホバに良心的に願えられるようでありたいと思っておられますか。そうした立場にあるのは,なんとすばらしいことでしょう。―詩 26:1,2,新。
忠誠が必要
3 (イ)忠誠というこの特質はなぜ必要ですか。(ロ)忠誠にかんするかぎり今日の世界はどんな状態にあるかを述べなさい。(ハ)こうした世界にあってわたしたちがどんな道を歩むよう神が望んでおられるかはどうしてわかりますか。
3 しかし,この特質はなぜ必要ですか。エホバの是認を得るためです。理由はそれほど簡単です。使徒パウロが述べた,この邪悪な事物の体制の終わりの日をしるしづける特質に注目してください。「人は自分自身を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる,高慢な,冒涜者,親に対して不従順で,感謝せず,不忠節で,自然の情愛がなく,どんな合意にも応ぜず,そしる者,自制がなく,荒々しく,善良さに対する愛のない,裏切り者,強情で,誇りのために高ぶり,神を愛するよりも快楽を愛する者,敬虔な専心の形をとりながら,その力にそむいていることが判明する者となるでしょう」。(テモテ後 3:1-5,新)今日の世界は,忠誠とは正反対の特質でしるしづけられています。しかし,こうした道徳上不健全で,不正で,堕落した特徴を列挙したのち,パウロはこう続けます。「これらの人たちから離れなさい」。それで,霊感を受けた神のことば聖書は,そうした人びとを避けることを命じています。神はわたしたちが彼らにならわず,忠誠を保ち,ご自分に対して全く忠節であることを欲しておられるのです。
4 (イ)世俗の職場,(ロ)日常の家庭生活で忠誠の欠如の見られる例をあげなさい。
4 しかしながら,わたしたちすべてはそうした悪い特質の満ちた世界に住んでおり,それらの特質が絶えずあらわにされるのを見ています。従業員の次のような会話を耳にします。「けさは寝すごしたんだが,上司には,途中で車がパンクしたのでおくれたと言うつもりだ」。別の従業員がそれに反対します。「でも,うそをいうことになるじゃないか。どうしてありのままを言わないのだい」。寝すごしたほうの従業員が言い返します。「そりゃできないよ。そんなことを言えば,首だからね。けさ目ざましは鳴ったんだが,疲れていたんで,もうちょっと寝たんだ。なにもこんなことを上司に話さなくたっていいじゃないか」。この人は忠誠な人ですか。正直ですか。予定の時間に起きて,時間までに職場に着くほうが,ずっと良かったのではありませんか。そうすれば,首になる心配もなければ,遅刻の理由を話す必要もなかったはずです。(箴言 30:8; 14:5)あるいは,ボール遊びをしないで庭仕事をするぐらいなら家を出ると言って親をおどす十代の男の子についてはどうですか。それは恐かつに類する不正行為ではありませんか。それに,その息子を思いとどまらせようとして何か高価なものを買って与える約束などをする親についてはどうですか。息子の要求に屈し,そのわがままを許す親は,果たして高潔や忠誠を勧めているでしょうか。実際には,息子の反抗的な歩みに報い,そうした歩みに対するほうびを与える,つまり,息子を買収しているのではありませんか。(箴言 17:23。ミカ 3:11)世俗の職場でも日常の家庭生活でも,忠誠が表明されることはほとんど,あるいは全く見られません。
5 (イ)この邪悪な体制のどんな分野で忠誠が欠如していますか。(ロ)忠誠を守ることはなぜわたしたちの注意を要しますか。
5 政治指導者たちや世の諸政府間でさえ,うそをついたり不正行為がなされたりするのをいつも見聞きします。商業界では人を欺いて誤導する,多くの場合虚偽の宣伝が行なわれています。また,言うまでもないことですが,時には聖書を説きながら,その教えに反する生活をしたり,「神は死んだ」とか,イエスの処女降誕は神話だ,創世記の創造の記述はおとぎ話だとかという見解を述べたりする偽りの宗教の指導者もいます。指導者から下々の間にまで見られる忠誠の欠如がこの邪悪な事物の体制の型となっています。(ヨハネ 8:44。ヨハネ第一 5:19)しかも,クリスチャンはこの邪悪な体制の一部であってはならないとはいえ,エホバがこの体制を終わらせるまで,引き続きその中で生活しなければなりません。(ヨハネ 17:15,16)であれば,忠誠を守るという問題はわたしたちの注意を要するのではありませんか。
忠誠は弱められるか,強化されるか?
6 世の若者たちのどんな態度が一部の若いクリスチャンに悪影響を及ぼしていますか。一例をあげなさい。
6 悲しむべきことですが,ある点までクリスチャンの歩みに従いながらも,サタンの体制のならわしに屈して忠誠を弱める人びとの例があります。反抗的な若者は,青少年の非行など昔はほとんどなかった国々をさえ含めて世界中にいます。そして,学校の友だちのそうした反抗的な態度は,聖書の真理を知りながらも,そのような学友と交わる若者に悪影響を及ぼします。また,世の若者の多くは家出を問題の解決策とみなしています。しかし若いクリスチャンがそうした道を取るのは賢明ですか。家出は,親の監督というエホバの取り決めに対する感謝を表わす行為ですか。(エペソ 6:1-3)忠誠を保ちたいとの願いを示す行為ですか。無断で授業を休んでいたことを両親に知られたために家出した,十代になったばかりのある少女の例があります。少女は学校での問題を両親に打ち明けるのを恐れたため家出をしましたが,その後,家から少し離れたいかがわしい場所で暗くなってから見つけられました。幸い,少女を見つけて事情を尋ねたのは,りっぱな人だったので,少女は危害を受けずにすんだものの,だれかみだらな人に誘われていたかもしれません。万一危害でもこうむった場合,エホバの前で果たして言い訳できたでしょうか。少女はイエスの教えた,『わたしたちを試みに会わせないでください』という模範的な祈りのことばに従って行動していましたか。―マタイ 6:13。
7 (イ)ある少年はどんな悪い道に従いましたか。どんな結果になりましたか。(ロ)少年は聖書のどんな原則を念頭におきませんでしたか。
7 あるいは,級友の親のるすをよいことにその家で行なわれる集まりに出るため,午後の授業を休んではどうかと勧められた,ある少年についてはどうですか。少年は最初反対しましたが,その勧めを断固として拒んで忠誠を固守するかわりに,何が行なわれるかを尋ねたのです。少年は決意を弱められて,その集まりに行くことにしました。この若者に生じたことは他の人びとに対する警告となります。その集まりの最中,警官がやってきて,家の中に隠されていたマリファナを見つけ,その場にいた若者を全員逮捕しました。そして,この少年の名前は今警察の名簿に載せられています。少年はマリファナが隠されていることなどおそらく知らなかったのかもしれませんが,それにしても箴言 13章20節(新)の次の賢明な助言に従わなかったのです。「賢い人々とともに歩いている者は賢くなるが,愚かな者たちと関係をもっている者はうまくゆかないであろう」。今やその悪い前歴のために,少年は忠誠を保つ上で以前にもましてきびしい戦いに面しています。近所で何か悪いことが起きるたびに,少年は警察から疑いの目で見られています。
8 年若いときの“デート”を戒める助言に留意しないと,どんな事態が生じえますか。
8 さらに,今日の多くの若い人びとがしているように,“デート”や“きまった相手とのデート”などをすべきだと考える十代の若者がいます。ある若者たちはエホバの証人の組織やクリスチャン会衆内の任命されたしもべたちの助言,また自分の親の助言にさえ逆らって,年が若いのに異性とロマンチックな関係を持とうとします。すると,肉体的な誘引力がつのってゆきます。ふたりは結婚するには若すぎますが,自分たちのうちに高まる欲望を満足させたくなり,不道徳をもてあそびはじめ,中には淫行を犯してしまう者さえ出ます。そのような者は箴言 1章5節(新)の述べる賢い者のように,「聴いて,さらに教えを取り入れる」ことをしないゆえに,自分が賢い者であることを示しそこないます。さらに,「我が子よ汝の父の教をきけ汝の母の法を棄ることなかれ」という同章8節の助言にも留意しません。彼らは自分たちの親にも聴かず,自分たちの天の父エホバにも,自分たちの「母」つまりエホバの妻のような組織にも聴きません。それゆえに,忠誠を保たず,神のみことばが若者のために定めている道徳上の限界内に忠節にとどまることをしません。
9 (イ)ぜいたく品を求めるためのお金を借りることをどうみるべきですか。(ロ)そうした目的のためのお金を人に貸すことをどうみるべきですか。
9 時には,おとなも忠誠を守る道に従わない場合があります。ロマ書 13章8節によれば,愛以外何をも人に負うべきではありません。しかし,自分の欲しい品物の購入のために別の人から前にお金を幾らか借りている兄弟が,種々の支払請求書をかかえる場合についてはどうですか。もし自分の欲しいぜいたく品の購入のために特別の資金を借りるとすれば,その兄弟は実際的な道に従っているでしょうか。そうした物品の購入は絶対に必要ですか。ステレオ・プレーヤー,食器洗い器あるいはピアノか何かを借金して買う必要があったのでしょうか。多額の債務を負う場合「あしき者はものかりて償はず」という聖書の見解を考慮していますか。(詩 37:21)この点で,そうした不用なぜいたく品のためのお金を貸すのは,当人をほんとうに助けることになりますか。箴言 22章7節はこう述べます。「借者は貸人の僕となる」。人から借りて,その人のしもべになったり,人に貸して,相手を自分のしもべにしたりしたいと思いますか。そういうことを避けて,ただひとりの主人である神のしもべであることのほうがまさっていませんか。―ルカ 16:13。
10 (イ)エホバが地上におけるご自分のわざを導くために用いておられる人たちに対して,まちがった態度を取ると,どのように忠誠が弱められるおそれがありますか。(ロ)クリスチャン会衆内のしもべたちに対してどんな態度を取るべきですか。
10 エホバ神が祝福しておられる人たちに批判がましい態度を取ると,忠誠を保てなくなる場合があります。神の民の会衆内で監督の務めをゆだねられている人たちの人間的な不完全さに目を向けるようになる人がいます。年長者たちが聖書に基づく実際的で賢明な助言を与えても,今ではひととなりを変えて新しい人格を身につけたそれら年長者の不完全さ,つまり過去何年かの間に彼らがしたとされるまちがいを思いめぐらしては,彼らの助言に内心で,時にはことばに出してさえ反対する人がいます。ヘブル書 13章17節(新)はわたしたちすべてがクリスチャンとしての歩みにおいて表明すべき正しい態度を次のように言い表わしています。「汝らを導く者に順ひ之に服せよ。彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば,汝らの〔魂〕のために目を覚しをるなり。彼らを歎かせず,喜びて斯く為さしめよ,然らずば汝らに益なかるべし」。
11 (イ)忠誠を弱めた人たちについて,どんな事がらを問えますか。(ロ)忠誠を保つのに助けとなるどんな点をこれまでに学びましたか。
11 これまでに論じてきた人びとは,そうした行動によって忠誠を強めていたと言えますか。いいえ,実際にはむしろその逆で,忠誠を弱めていたばかりか,他の人のそれをも弱めようとさえしていました。迫害あるいは激しい反対がそうした人びとにふりかかろうものなら,どうなりますか。そのとき,はたして立っておれるでしょうか。神に忠節を保ち,仲間のクリスチャン兄弟たちと密接な関係を保てるでしょうか。わたしたちについてはどうですか。彼らの例を考慮して益にあずかれますか。若い人たち,親の指導のもとにとどまらねばならないという,神の取り決めに服する必要のあることがわかりますか。悪いつき合いを避ける,また授業を“すっぽかす”あるいは“さぼる”ようなことは避けねばならないということがわかりますか。道徳にかんするエホバのことばの賢明な助言を聴くことのたいせつさを認識していますか。また,おとなについていえば,不必要な借金をして,ついにはエホバから「あしき者」のたぐいとされるに至る債務を負うような事態を避けるのは実際的なことではありませんか。それに,仲間の兄弟たちに対して批判がましい態度を取ったり,エホバの組織の取り決めがわたしたちの福祉と保護のためのものであるという認識を欠いたりしてはならないことも知っているのではありませんか。実際,わたしたちは忠誠を保てるよう自分自身を強化すべく努力しなければなりません。(箴言 11:3)どのようにしてですか。
自分自身を強化する方法
12 忠誠についていえば,わたしたちは何を求めるべきですか。
12 この論議の初めに指摘したように,イスラエルの王ダビデは自分の忠誠に関してエホバの裁きを求めました。わたしたちもそうすべきです。忠誠を強化する方法に関するエホバの見方を知るため,エホバへの祈りの中でダビデがこの問題について述べた詩篇 26篇を調べてみましょう。
13 個人研究は忠誠とどのように関係していますか。
13 3節でダビデは神にこう言います。「そは汝のいつくしみわが眼前にあり我はなんぢの真理によりてあゆめり」。このことがわたしたちにあてはまるためには,わたしたちはエホバとその真理を知らねばなりません。つまり,わたしたちは聖書の研究生であるべきです。それで,自分自身を強化する一つの方法は個人研究です。この点で,聖書を毎日読むのはりっぱな習慣です。それにわたしたちは,エホバの組織が文書の形で供する資料の益をくみ取れます。読み物が多すぎて,とても読みきれないという人が大ぜいいます。しかし,ほんとうに時間がないために協会の出版物が読めないのですか。それとも,新聞やこの世の雑誌や小説を読むのにかなりの時間を費やしているからですか。それらの出版物はエホバ神に対する忠実の道を追い求めることを鼓舞しますか。近ごろでは新聞や雑誌の広告さえ不道徳な考えや欲望をかきたてます。少しでも時間があれば,自分自身を強化し,霊的に建て起こすのに役だつ情報を読むのに時間を費やすほうがはるかにまさっています。(コリント前 15:58)会衆の集会のための準備を含め,個人研究を行なえば,エホバの民の集まりからさらに多くの益をくみ取れるばかりか,ともに出席している他の人たちを助けるためにさらに多くを与えることができるようになります。
14 (イ)どんな種類の交わりは避けるべきですか。(ロ)悪い友だちを避けるのに何が助けとなりますか。一例をあげなさい。
14 続いてダビデは4,5節で,「われは虚しき人とともに座らざりき,悪をいつはりかざる者とともにはゆかじ,悪をなすものの会をにくみ悪者とともにすわることをせじ」と述べて,自分自身を強化する別の面,すなわち悪い交わりを避けることを指摘しています。ここで言及されているタイプの人間についてダビデは9,10節〔新〕でさらに述べ,そうした人間のことを「血をながす者…かかる人の手には〔不品行〕あり その右の手は賄賂にてみつ」としています。いつまでもエホバに忠節であるためには,そのような人びとの友となることを避け,また,そうした人たちに神の王国の良いたよりを伝道する場合はもちろん別ですが,それらの人と不必要に交わることをも避けねばなりません。事実,そうした人たちに伝道することは,彼らとの悪い交わりを避ける点でしばしば助けとなります。この点を示す次の例を考慮してください。何年間か“ヒッピー”として生活したのち,ほんの二,三か月聖書を研究してきたある人がこう語りました。「親しくしていた人たちが時々私たちを尋ねたり,手紙をよこしたりしますが,私たちのことを知ると,たいてい非常に驚いてしまいます。というのは,私たちはさっそく彼らに[王国の]良いたよりを語り出すからです。言うまでもないことですが,それは彼らにとって良いたよりではないので驚きが反感に変わり,彼らはそそくさと私たちのトレーラーから出てゆき,二度とたよりをくれません。でも,時にはやはり種が良い土に落ちるとみえて,関心がいくらか芽ばえることもあります」。確かに,わたしたちの神とその王国について忠実に語ることは,悪い友だちを避ける助けとなります。
15 (イ)集会への出席はわたしたちを強化する事がらといえます。なぜですか。(ロ)アフリカで,ある集会におくれた人たちにどんなことが起きましたか。
15 神の意志を行ないたいとせつに願う他の人たちとともに集会に出席することは,ダビデが言及している強化計画のもう一つの手段です。彼はこう述べます。「われ手をあらひて罪なきをあらはす,エホバよ斯てなんぢの祭壇をめぐり…エホバよ我なんぢのまします家となんぢが栄光のとどまる処とをいつくしむ」。(6,8節)わたしたちもエホバの家を愛すべきです。今日,わたしたちはエホバの家を,エホバに関する知識が与えられる所とみなせるでしょう。同じ貴重な信仰を持つクリスチャンとともに連なる集会は,「愛と良いわざとを鼓舞し」忠誠を保つようわたしたちを助けるものとなります。(ヘブル 10:24,新)集会での良い交わりや,聞くばかりか参加できる霊的なすぐれた討議によって,わたしたちは建て起こされるのです。プログラムの十分の益にあずかるには,時間におくれずにそうした集会に行くこともたいせつです。この点で,アフリカのある国から寄せられた経験は興味深いものです。兄弟たちが集会を始めるとすぐ,二つの部族の間で暴動が起きました。集会におくれたふたりの兄弟は,町で行なわれている戦いを見たので,家に戻りました。そのうちのひとりの兄弟は戦いが自分の家にまで波及しはしまいかと恐れて,ヤリを片手に家の戸口に立ちました。すると,兵士たちがやって来て,その兄弟を交戦者のひとりと見まちがえて捕え,釈放を拒みました。事実,兵士たちはこう言いました。「彼はエホバの証人じゃない。証人たちはみな集会で聖書を勉強しているのに,彼は集会に出ていなかったじゃないか」。遅刻したもうひとりの兄弟ですか。彼は誘かいされ,殺されてしまいました。
16 集会への出席を妨げるどんな事態を放置すべきではありませんか。
16 集会への出席が不必要に妨げられる事態を放置するわけにはゆきません。ぜいたく品を求めるための余分のお金を得ようとして,就労時間のために集会に出席できなくなったり,余分に働くため,すっかり疲れて集会に出かけられなくなるような世俗の仕事をなぜ引き受けるのですか。クリスチャン会衆がつどう時間になぜ親族に訪問してもらったり,親族を訪問したりするのですか。わたしたちは忠誠を保てるよう自分自身を強化するため神から与えられるこうした機会を一つとして逸したいとは思いません。―ヘブル 10:25。
17 どんなわざはわたしたちの忠誠を補強するものとなりますか。
17 また,神の目的を他の人びとに宣布する,つまり王国の良いたよりを伝道するわざにあずかることによっても,わたしたちの忠誠を補強できます。ダビデは7節で,「感謝のこえを聞えしめ,すべてなんぢの奇しき事をのべつたへん」と語りました。わたしたちも同様に感ずるべきです。エホバとその目的についてわたしたちの知っていることを他の人びととわかち合うため,できるかぎりあらゆる機会を捕えて真理の音信を伝道し,次いで,もっと学ぼうとする関心のある人たちを再び尋ねて教え,それらの人をイエス・キリストの弟子とするよう努力すべきです。―マタイ 24:14; 28:19,20。
18 (イ)わたしたちは何について,またどれほどしばしば祈るべきですか。(ロ)もし祈ることが習慣になると,何か問題が生じた場合,わたしたちは何をしますか。その結果,どうなりますか。
18 自分自身を強化する面がほかにもあります。それは祈りです。ダビデはこのことを痛感していました。事実,詩篇 26篇全体は一つの祈りです。その11節(新)に注目してください。「わたしはといえば,わたしの忠誠のうちに歩みます。ああ,わたしを買い戻し,わたしに恵みを示してください」。わたしたちもまた,忠誠のうちに歩み,わたしたちを買い戻すためにエホバが設けられた取り決めの益にあずかり,エホバに感謝することと自分の行動とによってそうした取り決めに対する認識を表わし,自分自身のわざによって認識のほどをエホバに示します,と約束すべきです。また,エホバとの交信の経路を開いておくべきです。そして,定期的に,また毎日何度でもエホバに語りかけ,エホバに対するわたしたちの愛,またその意志を行ないたいというわたしたちの願いについてエホバに告げ,いだいている問題や希望についてエホバに語り,生活のあらゆる面でエホバの導きを求めるべきです。祈ることが習慣になればなるほど,忠誠を保つのが容易になります。なんらかの誘惑,あるいはまちがった道がさし出される場合,わたしたちは自動的にエホバのことを考慮に入れるでしょう。(箴言 2:7)事実,ある問題,あるいは下さねばならない決定について祈りのうちにエホバに話すさい,問題に関係のある聖句がふと脳裏に浮かんで,その件に関するエホバの見方を理解するよう助けられる場合がよくあるものです。
19 忠誠を保つ問題を約言すれば,自分自身を強化するために,五つのどんなことを行なえますか。
19 約言すれば,忠誠を保てるよう自分自身を強化するためには,どんなことを幾つか行なえますか。わたしたちは,聖書およびエホバがご自分の組織を通して備えてくださる聖書研究の手引きを個人個人読んで研究すべきです。また,悪い交わりを避けるとともに,エホバの意志と目的に関心をいだく人たちの集会に出席すべきです。そして,わたしたちの住むこの悪い時代に対して予告された,伝道し教えるわざに携わるべきです。さらに,エホバとの密接な関係およびエホバとの依存関係を保つために定期的にエホバに祈るべきです。それにしても,忠誠を守ることによって,どんな結果が生じますか。その答えは次の記事にゆずりましょう。
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忠誠を保ってもたらされる喜ばしい結果ものみの塔 1971 | 12月1日
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忠誠を保ってもたらされる喜ばしい結果
1 ダビデは忠誠の人だったと考えられますが,聖書のどんなことばがこのことを裏づけていますか。
「かくダビデ投石索と石をもてペリシテ人にかちペリシテ人をうちて之をころせり然どダビデの手には剣なかり(き)」。(サムエル前 17:50)ダビデはその忠誠,エホバに対する魂をこめた専心のゆえに,ペリシテ人の巨人ゴリアテに対して勝利を博したことを知ったとき,きわめて大きな喜びを得たに違いありません。ゴリアテとの出合いののち,ある時ダビデはエホバにこう祈りました。「忠誠と高潔そのものにわたしを守らせてください」。(詩 25:21,新)霊感を受けた記述者アサフはダビデと「その心の忠誠さ」について述べています。(詩 78:72,新)列王紀略上 9章4節〔新〕でエホバは,『なんぢなんぢの父ダビデの歩みし如く心〔の忠誠さをもって〕正しく我前に歩みわがなんぢに命じたる如く凡てを行え』と述べてソロモンを激励されました。ですから,ダビデは不完全で,確かにまちがいを犯したとはいえ,忠誠を守る人であることをその生涯を通して何度も実証しました。
2 (イ)イエスはなぜそのように進んで死を受けたのですか。(ロ)ピリピ書 2章5-11節によれば,イエスの忠誠の歩みはどのように報われましたか。
2 やがてダビデ以上に偉大な人間,人間イエスが地上に現われました。完全なイエスは,その人間としての全生涯中,エホバに対するご自分の忠誠をまさに忠実に保ち,わたしたちの従うべきりっぱな模範を残されました。(ペテロ前 2:21-23)エホバに対するその忠節はイエスに幸福をもたらすものになったといえますか。わたしたちに代わって,神のみことばに答えてもらいましょう。「彼[イエス]はその前に置かれたる歓喜のために,恥をも厭はずして〔刑柱〕をしのび,遂に神の御座の右に坐し給へり」。(ヘブル 12:2,〔新〕)そうです,イエスは忠誠を保ち,またご自分の前に喜ばしい報いが差し伸べられていたゆえに,直面した恥辱の死を進んで受けたのです。このことについてはピリピ書 2章5-11節〔新〕にさらに多くのことがしるされています。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。即ち彼は神の貌にて居給ひしが,神と等しくある事を固く保たんとは思はず,反って己を空しうし僕の貌をとりて人の如くなれり。既に人の状にて現れ,己を卑うして死に至るまで,〔刑柱〕の死に至るまで順ひ給へり。この故に神は彼を高く上げて,之に諸般の名にまさる名を賜ひたり。これ天に在るもの,地に在るもの,地の下にあるもの,悉とくイエスの名によりて膝を屈め且もろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして,栄光を父なる神に帰せん為なり」。
3 同様に,現代においても多くの人は何をしてきましたか。
3 20世紀の今日,忠誠を守る人びとは全世界に大ぜいいます。彼らは日々正直を表わし,エホバの目に高潔な者でありたいとの願いを,小事においてさえも自分たちの行動にって表明します。もとより,重大な論争に直面して忠誠を実証してきた人も大ぜいいます。
現代において忠誠を守る人たち
4 (イ)忠誠を守るよう努力する点で,ある16歳の若者はどんな道を歩みましたか。(ロ)担任の教師はついに何をしましたか。
4 教会と国家とが提携しているある国でのこと,16歳になるあるクリスチャンの若者は,もし十字を切ったり教会でのミサに出たりしないならば,放校処分に付すといわれました。若者は卒業を間近に控えており,要求に応じなければ,履修単位すべてを失うおそれがありました。教官からは,信じてするわけではなく,ただ動作だけして済ませるようにと言われましたが,若者は断固とした立場を取りました。その信仰にすっかり感服させられた教官は,祈りの時間にはその若者を教室のうしろに立たせ,十字を切らなくても,人に気づかれないようにさせました。(問題を起こすことを恐れたその教師は,若者がそうした宗教行為をさし控えるのを公に容認したのでは,自分の職を失いはしまいかと心配したのです。)また教師は,その若者に仕事を割当ててミサのさいに行なわせ,忙しくて礼拝には出られなかった,と言いわけできるようにさせました。こうしてみると,その若者の忠誠を守る歩みは報われたといえるのではありませんか。
5 ある若者はなぜ学校で身体上の虐待をこうむりましたか。
5 神のみことばの述べる助言に服して,身体面での虐待を受けた人たちもいます。太平洋のある島でのこと,ふたりの少年は,偶像崇拝に類する行為の関係する愛国的儀式に参加するのを拒みました。島で認められている信教の自由を正しく評価しなかった教師は,一方の少年の腕を折るほど極端な仕打ちを加えました。問題はその教師とともに話し合われてから上司に持ち出され,教師はしたたか叱責されました。以来,その教師はたいへん協力的になりました。確かに当の少年はかなりの苦しみをこうむりましたが,忠実を保ち,そうすることによって,エホバに対する真の忠節を実証しました。
6 (イ)13歳のある少女に輸血の問題が持ち上がったのはなぜですか。(ロ)少女とその母親はエホバの律法に対する忠誠をどのように守りましたか。
6 白血病と診断された,ベルリンの13歳の一少女は,忠誠を守った人の近年のもう一つの例となりました。医師は,輸血をすれば,少女の病状はもっと楽になり,病気の進行をくい止められるかもしれないと述べました。その母親は神を恐れるクリスチャンなので,血を食べることを禁ずる聖書の教えを知っていました。(創世 9:4。使行 15:28,29)それで,母親は輸血を施すことを断わりました。少女も輸血を断わって,こう言いました。「もうしばらく生きたいばっかりにエホバ神のご命令を破るよりは,むしろエホバに忠実を保って死にたいと思っています」。(マタイ 10:39)その少女はなくなりましたが,母親あての遺書を残しました。その手紙は少女の知っている人すべてにあてたもので,輸血に反対したことで母を責めないでくださいという趣旨の遺書でした。少女はこう述べています。「律法を破る者となるよりも,神のみことばに誠実で従順でありたい,これこそ母と同様,私の堅い決意です。……もし生命の偉大な与え主であられるエホバが私を価値ある者とみなされるなら,喜びと幸福の宿る清められた楽園の地に ― 正真正銘の血肉の人間として ― 復活させてくださるでしょう。死ぬのがつらくなかったのはそのためだったのです。わかっていただけるでしょうか」。
7 (イ)何に対する信仰があれば,死を直視できるようになれますか。(ロ)どうすれば,そのような信仰が得られますか。
7 それにしても,その少女にとって死ぬのがつらくなかったのはなぜですか。なぜなら少女は,「神は死人の中より之[息子イサク]を甦へらすることを得給ふ」と考えたアブラハムと同様,信仰を持っていたからです。(ヘブル 11:19)少女は,神が約束された新しい事物の体制と神のみ子の犠牲によってあがなわれる人たちの復活とに対する十分の信仰をいだいていました。(ヨハネ 5:28)しかし,死に面してさえ忠誠を守るよう少女を助けたほどの信仰を,それほど若い人がどこから得られるのでしょうか。それは神のことば聖書を研究して得たのです。今ではエホバの証人の全時間奉仕者となっている別の若い女性は,子どもたちを訓練する親に関して聞いたある資料について語り,こう言いました。「母が家族研究のために骨を折ってくださったことを思うにつけ,私はもう一度喜びを味わいました。親とその助言を無視するそれらの子どもたちをだれか奮い立たせてあげられたら,と思えてなりません」。
8 (イ)忠誠を守る点でなぜ中立の問題が関係してきますか。(ロ)ある母親と息子は中立にかかわる論争でどのように試みられましたか。どんな結果になりましたか。
8 ヨハネ伝 18章36節〔新〕には,「わが〔王国〕はこの世のものならず」というイエスのことばが引き合いに出されています。わたしたちが忠誠を守ることには,その王国に対して忠節であるとともに,この邪悪な事物の体制の事がらに対する厳正中立の歩みを保つことが関係しています。ある島国でのこと,エホバの証人の一婦人は,息子が良心上の理由で軍事教練を拒んだため,放校処分にするといっておどされたことを知りました。そこで,婦人は息子のために学校当局に事情を訴えました。当局者のひとりは,息子には身体上の障害があるので教練を免除させてほしいと申し出てはどうかと提案しましたが,うそをつくことに関する神の見解を知っているゆえに,母親は,それは真実を曲げることになると告げました。(黙示 21:8)次に学校側は,ただ教練服をつけて出席をとり,木製の銃を配るだけではどうかと勧めました。ここでもまた母親は,そうすれば,息子は教練を支持していると見られることになると述べました。業を煮やした学校側は,彼女の宗教はあまりにもきびしすぎると述べて,腹だちまぎれに婦人を退場させました。婦人は穏やかにその場を去りましたが,さほど歩かないうちに,学校側があわてて彼女を呼び戻しました。そして,前言をわびたうえ,その宗教上の堅い信念には敬服するほかはないと述べたのです。他の生徒が教練を受けるさい,その少年には校長室で仕事をしてもらうことにすると学校側からいわれたとき,婦人はどんなにかエホバに感謝したことでしょう。クリスチャンの中立にかかわる論争の点でこの母親と息子が忠誠を保とうとした努力は確かに報われました。
9 ある女優とその夫はなぜ生活上の変化を遂げましたか。どんな結果がもたらされましたか。
9 真の宗教およびエホバの清い崇拝に加わったばかりの人たちでさえ神への忠節また忠誠を表わす機会に面します。あらゆる階層の人びとが真理の正確な知識を得るに至るのです。女優をしていた中東のある既婚婦人が聖書の研究を始めて,すぐ真理を受け入れました。そして直ちに,テレビや演劇でキリスト教の原則に反する配役は受けるべきではないことを知りました。(ペテロ前 4:3,4)俳優をしていたその夫は,生活上の変化を遂げるのにさらに苦労しました。この世的な仲間たちに進歩を妨げられたためです。しかし,エホバの証人から激励を受け,またみずからも内省を重ねたのち,ほどなくして神に喜ばれる立場を取りました。その後,友人や近所の人たちみんなに聖書研究をするよう勧めるようになりました。どうしてそのように変わったのかと尋ねられると,彼は,「あなたがたは真理を知り,真理はあなたがたを自由にするでしょう」と答えました。(ヨハネ 8:32,新)この夫婦は生活をエホバのみことばとその原則に一致させる忠節な努力を払った結果,みずからが変化するのを見るとともに,ふたりが新たに見いだした宗教にかんする事がらを他の人と効果的にわかち合える喜びにもあずかりました。
10 関心をいだいて間もないある人が,家族の反対にどのように敢然と立ち向かいましたか。どのように報われましたか。
10 忠誠を保つと,真の宗教を理解しない親族からの反対を招く場合がよくあります。しかしイエスは,「人の仇はその家の者なるべし」と予告なさいませんでしたか。(マタイ 10:36)アフリカの南部のある婦人は,聖書の研究を始めるとすぐ,教会の偽りの教えに気づいたので,教会と手を切りました。その夫と母は激しく反対しましたが,この婦人と聖書研究を行なっていた人は彼女にマタイ伝 10章37節を指摘しました。その句の中でイエスはこう述べています。「我よりも父または母を愛する者は,我に相応しからず」。こうして彼女は研究を続けるよう励まされ,神の王国の良いたよりゆえに憎まれる人たちはほんとうに祝福されるということを知って慰められました。(マタイ 5:10,11)そして婦人は聖書研究で学んだことを実践したいとの決意をいっそう固めました。とはいえ,彼女の確固とした態度は成果をもたらしました。その後しばらくして,彼女の母も良いたよりについて友だちに証言するばかりか,これまで時間を浪費したことが残念でならない,とさえもらすのを見聞きして,たいへん驚かされたからです。次いでその母は,やめずに努力するよう娘を励ましました。この若い婦人の忠誠を守る歩みは豊かに祝福されました。というのは,彼女とその母はともに働いてエホバに仕えているからです。
11 ある兄弟は,盗みを禁ずる聖書の戒めを破らせようとするどんな誘惑に直面しましたか。問題はどのように解決されましたか。
11 忠誠を守ることには,「盗する者は今よりのち盗すな」というエペソ書 4章28節のことばの述べる考えに合致した生き方も関係しています。重大な経済的困難を伴うこの時代において,世俗の職場で責任の地位にある人びとは数多くの誘惑や脅迫に直面します。聖書の原則を勉強すれば,平衡と正直を一貫して保つのに役だちます。アジアのある貧しい国のとある銀行で出納係をしている人がエホバの証人と研究を始めました。行員たちはお金を得たいばっかりに,彼を買収また強要したりして小切手を変造させようとしばしば試みました。それら不正な行員は彼の抵抗を和らげ,自分たちの側に引き入れようとして,一式の家具と一台の新車を彼に提供しようとさえしました。聖書の真理でみずからを強化していたその行員は忠誠を保ち,そうした贈物すべてを断わりました。バプテスマを受けたのち,ほどなくしてその銀行の責任者が正当な領収書を添えずに多額のお金を彼を通して入手しようとしました。兄弟はその求めをも拒否しました。それは銀行の規定にふれるばかりか,聖書の原則にも反するからでした。その後,銀行当局者による監査が行われ,前述の責任者は解雇されました。しかし,この兄弟は当局者から正直さを買われて依然その職にとどまっています。彼は,その不正な責任者といっしょにやってゆかねばならないとか,もし上司と協力しなければ,ひどいめに会わされるかもしれないなどと考えて,上司の要求をのむこともできましたが,エホバに対する忠節の歩みを追い求めることを選び,ついに豊かに報われました。
12 ある聖書研究生は宣教のための資格を得るためどんな努力を払いましたか。
12 聖書は,大いなるバビロンつまり偽りの宗教の世界帝国について語りこう述べます。「わが民よ,かれの罪に予らず,彼の苦難を共に受けざらんため,その中を出でよ」。(黙示 18:4)忠誠を保つことにはこの助言に留意することも関係しています。西アフリカのある男の人はエホバの証人と聖書を研究して二,三か月もたたないうちに,野外宣教に携わりたいとの願いを表わしました。彼は大いなるバビロンの一部とあまり密接な関係を持っているので,まず世俗の仕事の面で事情を調整しなければならないことが指摘されました。身体上の障害のため,適当な替わりの職を捜すのは困難をきわめましたが,エホバは正しいことを行なう人すべてを祝福されるということを知ったので,新しい仕事につくため,640キロ離れた所に移りました。彼があるエホバの証人といっしょに事務をとることになったときの喜びを想像してください。この人は直ちに野外宣教をはじめ,神権宣教学校に加わり,またエホバへの献身を象徴するバプテスマを受ける取り決めを設けました。
13 (イ)伝道のわざに対するどんな態度は報いをもたらすものとなりますか。(ロ)ある若い女性は自分の家族が真理を学ぶのを助けるために何をしましたか。そうした努力を払うだけの価値がありましたか。
13 エホバに対するわたしたちの忠節,またエホバに対するわたしたちの忠誠を保つことは,神のことば聖書からの良いたよりを他の人びととわかち合うことによっても表わせます。わたしたちは真理を知っているのですから,「我心にありて火のわが骨の中に閉こもりて燃るがごとくなれば忍耐につかれて堪難し」と語ったエレミヤと全く同様に感ずべきでしょう。(エレミヤ 20:9)エホバの目的を語ることに対するこうした正しい態度は,喜ばしい報いをももたらすものとなります。よその国にいる親族を尋ねた,ある若い女性は,親族のひとりがエホバの証人と研究をしているのを知り,その研究に同席して急速な進歩を遂げ,二,三か月ものうちに献身したエホバの証人になりました。彼女は聖書から学んだ真理について自分の家族に手紙で伝えましたが,家族はそうした手紙に快く答え応じませんでした。そこで,直接家族に話して,真理が自分の生活にもたらした変化のほどを見てもらうため,家に帰ることにしました。ところが,物事は思いどおりに進まなかったばかりか,家族の者は彼女がエホバの証人の集会に出席することに反対さえしました。会衆のある男の人たちは彼女の家族を親しく訪問するよう取り計らい,そして,何が行なわれているのかを見るために一度だけ王国会館を尋ねてもらうよう,その家族を説得しました。集会に来て,兄弟たちが表わした愛や親切また喜びに深い感銘を受けた家族は,その若い女性が集会に出席したり野外宣教に携わったりすることにもはや反対しなくなりました。やがて彼女の妹が真理に関心を持つようになり,今では献身した神のしもべとなっています。引き続き努力した結果,彼女の母と,結婚した姉の一家も真理を学び,次いでそれを他の人びととわかち合っています。今やこれらの人たちはエホバの奉仕のうちに結ばれて喜びを得ています。このすべても,元はといえば,真理を学んで,それを自分の一番近い家族の人たちに思いきってわかち合ったその女性の忠実な歩みによるのです。
今そして将来における喜び
14 (イ)忠誠を保つことによって今どのように喜びにあずかれますか。(ロ)喜びをいだけるということに関連して箴言 27章11節を説明しなさい。
14 前述のことからすれば,わたしたちが今忠誠を保てば,喜ばしい結果を現在もたらすことになると言えるのではありませんか。わたしたちの奉ずる宗教が真のそれであることを知るよう他の人びとを助けたり,この世の上司から称賛されたり,もしかして昇進させられたりなどして喜びのもたらされる場合があるのは確かです。しかし喜びをいだいてしかるべきさらに大きな理由が箴言 27章11節(新)に述べられています。その句を読んで,いっしょに検討してみましょう。「わが子よ,賢くあって,わたしの心を喜ばせなさい。わたしをあざけっている者にわたしが返答するためである」。エホバはわたしたちに,賢くあれと命じておられます。どうすれば賢くなれますか。どうすれば知恵を表わせますか。聖書から知識を取り入れて,それを生活に適用する,言いかえれば,聖書の原則に対する忠誠を守るのです。そうすることによってわたしたちが賢くなれば,今度はどうなるのですか。神の心を喜ばすことになります。なぜ? なぜなら,わたしたちは,『神をあざけっている者』すなわちサタン悪魔に対する答えとなれるからです。そうです,エホバはヨブの件で行なわれたとおり,忠誠を守る人たちをさし示してあらゆる人間を神から引き離してみせるというサタンの挑戦の誤りを実証できるのです。(ヨブ 1:8)立ちどまって考えてみてください。わたしたちは行動によって,つまり正しいことをそれも特に試みや試練のもとで行なうことによってエホバを喜ばせているということを知るのは,喜びをいだいてしかるべき顕著な理由ではありませんか。それに,このことを知れば,そうした正しい道を歩み続けるよう助けられます。『エホバを喜ぶ事はわたしたちの力』だからです。―ネヘミヤ 8:10。
15 忠誠のもたらす幸福はどうしてつかの間の幸福ではないと言えますか。
15 それにしても,エホバに対する忠節ゆえにもたらされる幸福は,つかの間のそれではありません。その種の幸福は,間近に迫ったこの邪悪な事物の体制の滅びにも存続するものなのです。イザヤ書 65章18節にはエホバの招きのことばがしるされています。「なんぢらわが創造する者によりて永遠にたのしみよろこべ」。エホバが創造しておられるものとはなんですか。17節はこう述べます。「われ新しき天とあたらしき地とを創造す人さきのものを記念することなく之をその心におもひ出ることなし」。神がおつくりになる義の新体制は,わたしたちがそれについて無限に喜びを表わしうるものです。なぜなら,もしわたしたちが神の意志を忠実に行なうなら,その取り決めの中で生きる希望があるからです。わたしたちの忠誠は,邪悪な人びとが滅ぼされるとき,いわばわたしたちを保護する避難所となるでしょう。「邪悪な人々は自分の悪のゆえに押し倒されるが,義人は自分の忠誠のうちに避難所を見いだすであろう」― 箴言 14:32,新。
16 どんな喜びが『小さな群れ』の残れる者を待ち受けていますか。
16 イエスの『小さな群れ』の,なお地上に残っている人たちにとって死に至るまで忠誠を保つことは,イエスとともに千年の間,王また祭司として仕えるために天でキリスト・イエスと結ばれるという偉大な報いをもたらすものとなります。(ルカ 12:32。黙示 20:6)ピリピ書 3章13,14節でパウロは,そうした賞を受ける道を歩み続けるために何をしたかを説明しています。「後のものを忘れ,前のものに向ひて励み,標準をさして進み,神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美を得んとて之を追求む」。依然,肉身で生きている,それら油そそがれたクリスチャンは同様な道を進まねばなりません。そうすることによって,今数多くの喜ばしい経験にあずかり,またエホバのご予定の時に,神の天の王国政府の一部としてイエスとともに不滅性にあずかるという比類のない報いを与えられるでしょう。―コリント前 15:53,54。
17 どんな喜びが『大いなる群衆』の人たちを待ち受けていますか。
17 天の命の賞を得る限られた数の人たちについて述べたのち,黙示録 7章は続いて9節で,全世界から出て来て,やはり命を得る『大いなる群衆』について述べています。しかし,それらの人たちが得る命は,楽園の地で人間として享ける永遠の命です。エホバに対する忠誠を保って,エホバの前に清い状態を保持し,かつ救いはイエスを通してエホバから来ることを勇敢に認めるそれらの人びとにとって,その喜ばしい結果は,次のことばが成就するときにあずかるとこしえの命です。「[神]かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく,悲歎も号叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり」。(黙示 21:4)これは,いわゆる“あまり良すぎて信じられない”約束ではありません。聖書の次の節は,「書き記せ,これらの言は信ずべきなり,真なり」と述べているからです。そうです,神ご自身がそれを保証しておられるのです。
18 もし忠誠を保つなら,わたしたちはダビデと同様,どんな態度を取れますか。
18 忠誠を保てば,今そして将来,喜ばしい結果がもたらされます。このことには疑問の余地がありません。もしこの道に従えば,ダビデと同様,わたしたちも神にこう言えます。「わたしはといえば,わたしの忠誠のゆえにあなたはわたしを支えられました。そして,あなたにわたしをあなたの顔の前に定めのない時まで置かれるでしょう」― 詩 41:12,新。
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ポンテオ・ピラト ― ローマの政治家ものみの塔 1971 | 12月1日
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ポンテオ・ピラト ― ローマの政治家
1961年,エルサレムの北北東87キロに位置する古代の海岸都市カイザリヤの遺跡で一部破損した碑文が発見されました。その碑文には“[Pon]tius Pilatus”([ポン]テオ・ピラト)の名がしるされています。ユダヤ人の指導者たちがイエスを転覆計画の罪で,また税金の不払いを勧め,みずからをカイザルに対抗する王と称したとして訴えたのはこのポンテオ・ピラトの前においてでした。それにしても,イエスを刑柱に釘づけにして処刑することを求めたそれら指導者に屈したこの男はだれでしたか。なぜそうしたのですか。
チベリウス・カエサルは西暦26年,ピラトをユダヤの総督に任命しました。史家ヨセフスによれば,ピラトは民を怒らせました。ある夜,彼は皇帝の像のついた軍旗を持たせてローマ兵の一隊をエルサレムに派遣しました。そのため,ユダヤ人の代表がカイザリヤにおもむき,軍旗の持ち込みに抗議し,その撤去を要求しました。五日間の押し問答の末,ピラトはローマ兵士の手で反対者を処刑すると言っておどしましたが,代表の断固とした反対に屈して撤去の要求をのみました。(「ユダヤ古代史」18巻3章1節)西暦1世紀のエジプト,アレキサンドリヤのユダヤ人著述家フィロも,これにやや類したピラトの行為を述べています。それはピラトとチベリユスの名前のついた黄金のたてに関するものでした。―「デ レガチオネ アド ガイウム」38巻。
ヨセフスはさらにもう一つの騒動を記録しています。エルサレムに水を引く全長40キロの水道を建設するため,ピラトはエルサレムの神殿の宝蔵のお金を利用しました。彼がエルサレムを訪れたとき,大ぜいの群衆はその行為を非難して騒ぎました。次いでピラトは,変装させた兵士を群衆の間に潜入させ,合図と同時にユダヤ人を襲わせました。(「ユダヤ古代史」18巻3章2節。「ユダヤ戦記」2巻9章4節)もしルカ伝 13章1節が別の事件に関するものでないとすれば,ピラトが『ガリラヤ人らの血を彼らの犠牲にまじえた』のはこの時のことかもしれません。この点からすれば,ピラトは彼らを神殿の,それも境内で殺害させたと考えられます。ガリラヤ人は当時ガリラヤ地方の支配者ヘロデ・アンテパスの支配下にあったので,この殺害事件は,少なくともイエスの裁判の時に至るまでピラトとヘロデとの間に存続していた敵意を引き起こす一因になったと思われます。―ルカ 23:6-12。
西暦33年ニサン14日の夜明け,イエスはユダヤの指導者たちによってピラトの前に引き出されました。イエスを引き取って,みずから裁けと告げられた,それら告発者たちは,自分たちが人を処刑することは許されていないと返答しました。そこで,ピラトはイエスを官邸に連れてゆき,その訴因に関してイエスを尋問しました。イエスの無罪は明らかでした。しかしながら,ピラトがイエスを釈放しようと再三努力したにもかかわらず,イエスを刑柱に釘づけにせよとの叫びは高まる一方でした。暴動を恐れ,群衆をなだめようとしたピラトは彼らの要求に応じ,あたかも流血の罪から自分自身を清めるかのように両手を洗いました。
ここでピラトはイエスをむち打たせ,兵士たちの手でその頭にいばらの冠をかぶらせ,王の着用する衣をイエスに着させます。次いで再び群衆の前に現われ,イエスにはなんのとがも見いだせなかったことを知らせます。人びとの指導者たちは引き続き,イエスを刑柱に釘づけにすることを叫び求めながら,ここで初めて,冒漬の罪による訴えを明らかに
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