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どうして信じるべきですか目ざめよ! 1980 | 2月8日
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は決してできません。一聖書記述者は,自分の崇拝する神に呼びかけ,「命の泉は,あなたと共にあり」と述べています。(詩 36:9,新)わたしたちの「現在の知識」からすれば,他のいかなる結論に至る根拠もありません。
それではどうして悪い事が起きるのか
上記の論議を検討していたときに,一人のフィリピン人の無神論者は次のような問題を提起しました。「自然の中には,ある程度の秩序や驚異,美が見られる。しかし,それは事態の半面に過ぎない。他の半面には恐るべき混乱がある」。それから,「混乱」とは何を意味するか ― 自然の災害,疫病など ― を説明した後,この人はさらにこう言葉を続けました。「信心深い人は,自分の宗教心を強めることになる自然の秩序には慈しみのこもったまなざしを向けるが,そのような信条を弱める混乱からは目をそむける」。
そうしておられますか。それとも,無神論者のほうが不信仰という自分たちの信条を弱めることになる,『自然の秩序や驚異,美』から目をそらしているのでしょうか。
例えば,疫病について不平を鳴らす人は,事の次第のごく一部しか述べていません。人体の驚くべき自然治癒力に触れていないのです。その自然治癒力自体,すばらしい力を備えた造り主の存在を証明します。ある時,ナポレオンの軍医総監は,配下の兵士を大勢治療したとして皇帝から感謝の言葉をかけられました。ある本によれば,それに対して軍医はこう答えました。「私は世話をいたしましたが,治してくださったのは神様です」。
そのうえ,道義的に言って,人間には,病気やその他の問題があるからという理由で神の存在に疑問を差しはさむ権利があるでしょうか。これらの問題の原因の大半は,人間の失政,人間の戦争,犯罪,不正直などにあるというのが真実ではありませんか。心臓病やガンなど,原因の大半が人間の自ら造り上げた環境や生活習慣にある疫病はどれくらいあるでしょうか。人類の相当数が貧しくて,みすぼらしい生活をしているという事実がなければ,ほかのどれほど多くの病気を予防できたことでしょう。
しかし,人間の諸問題すべてが直接人間の責任であるわけではない,というのも真実です。神はどうしてそのような事が起きるのを許しておられるのでしょうか。それは神が存在していないことの証拠となりますか。
この点をもっとはっきりさせるのに,例えが役に立つでしょう。アイルランドの西海岸近くのある島に,“見捨てられた村”として知られる所があります。それは,もはやだれも住むことがなくなった,小さな村です。ご想像どおり,家々は荒れ果て,屋根ははがれ,ドアはなくなっています。壁が崩れ去っている家も珍しくありません。
その村の荒れ果てた状態を見て,そこにある家々は人間によって設計され,建てられたものとは思えないと言うでしょうか。それとも,「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られる」という聖書の陳述におのずと同意したくなりますか。そうです,荒れ果ててしまった家の場合でもです。(ヘブライ 3:4)それらの家々が手入れのされていない状態にあっても,それが何者かの手で建てられたことは分かります。また,現在の状態は,必ずしも建築者の責任ではないことも分かります。家屋の崩壊を阻む方法はあるのですが,家の持ち主がその家を捨てたのです。それで,今では荒れ果てているのです。
人類の置かれた状態も似たようなものです。聖書によると,人間の造り主は人間を完全な者に造りました。人間には,地を従え,自分の子孫で地を満たす責任が与えられました。(創世 1:28)それを首尾よく成し遂げられるかどうかは,人間の造り主の指示に従うかどうかにかかっていました。それらの指示に従えば,「混乱」もなく,地を従えたあとに自然の災害や疫病で生命を失うこともなかったでしょう。しかし,創造者の導きを退けたために,人間という「家」は,今や手入れの行き届かない状態にあり,だれもそれを否定することはできません。
神は人間に,自分の道を選択する自由意志をお与えになりました。神は人間に服従をしいるようなことをされません。それでも,幾十世紀にもわたって人間が失政を続けてきた間に,神は,自らの自由意志を用いて神に仕えようとする人々を捜し求めてこられました。ご自分の創造物を支配する,神の権利を認めようとしない者たちは間もなく滅ぼされることを,聖書は説明しています。そうした人々は命の源である方を退けるので,罰として命を失うのです。しかし,自分たちの生活を喜んで神のご要求に調和させる人々は,神の天の政府の下で,地が全世界的な楽園に変えられるのを目撃する喜びにあずかります。それらの人々は,人間の不完全さや失政のために失われていた祝福すべてを享受します。―啓示 21:3-5。
ですから,今,神について知るようになることは,どんな人にとっても極めて大切です。ある人々がどのようにしてそうなったのかを知るのは有益なことです。
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ある人々が信じるよう助けられた方法目ざめよ! 1980 | 2月8日
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ある人々が信じるよう助けられた方法
神の存在を信じていない人は,どのようにして神を知るようになれるのでしょうか。現在,神を信じるようになっている人の多くは,まず最初に,ある特定の問題に直面しなければなりませんでした。それは何ですか。
東洋の一宗教に属していたひとりの人は次のようなことを認めています。「[創造者はいないという考えを捨て切れなかった]大きな理由の一つは,その宗教が気ままな生活を送り,満足感を抱くよう勧めていることにありました」。
同様に西洋でも,著述家,ジョン・コグレーはこう述べています。「近代主義(少なくともマルクス主義的でないもの)は,個人の自由 ― 思想,政治,性行為に関する事柄,そして中でも生命という大きな問題に関する仮説などの点での自由 ― に途方もないほど重きを置いている」。
この自由,そして最初の引用文の中に挙げられた気楽な生き方は,破壊的なものになりかねません。それを捨てて,より高い権威を認めるには謙遜さと広い心が求められますが,そうした特質はすべての人に備わっているわけではないのです。
何を得るための自由か
言うまでもなく,自由は望ましいものになり得ますが,有害なものになることもあります。子供に自由を与えすぎるなら,交通の激しい道で遊んだり,熱いストーブに手を触れたりしかねません。外部の助けなしに,自分ですべての決定を下すという面での完全な自由は,その決定が間違っている場合に,ありとあらゆる種類の問題を引き起こします。
神の存在に関する真理を受け入れるとき,わたしたちが何かを得そこなうことはありません。確かに,個人の自由はある程度制限されますが,その制限は自分自身や他の人を傷つけないために役立つような仕方で加えられるにすぎません。神を本当に信じる人々は,そのような制限の必要を進んで認めてきました。神に関する真理を認めることは,自由を与えるものともなりました。自分たちの哲学によって他の人を食いものにしようとする人々に欺かれることからの自由や,人生の目的を知らないために味わう絶望感からの自由です。かつて,イエスが言われたように,「真理はあなたがた
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